はてなキーワード: 画一的とは
毎年この時期になると、就活生に画一的な服装をさせるのは個性を殺してる!やめさせるべき!みたいな意見をよく見るけど、そういうのがなくなったらなくなったで大変だと思うんだよね。
もし仮にTシャツにジーンズ、スニーカーといった服装で就活をすることが多くの企業で許されるようになったとして、どんなTシャツを着るか?どんなジーンズを履くか?どんなスニーカーを履くか?でお洒落な人とそうでない人で採用担当者に与える印象に差がついちゃうよ。
ルッキズムだなんだとみんな騒ぐのかもしれないけど、いくら努力しても相手の見た目によってどんな印象も一切抱かないように感情をコントロールするのは無理だよ。
じゃあ見た目で差がつくのを極力なくすためにみんなで同じ服装をすれば、より能力で評価してもらえるようになるはずでしょ?
こうやって、仕事に関わる能力以外のものの影響力が高まることを防ぎきれないということは簡単に予想できると思うんだけど、リクルートファッションの強制をやめろって言ってる人達がそれを考えているようには思えないんだよね。
病院職員をしています。この仕事をして約5年が経ちました。ベテランとは程遠いものの、新人とは言いにくくなってきました。
中くらいの規模の病院です。様々な患者を見てきました。そこで得た経験知があって、それは、多様性叫ばれる令和になっても尚、良好な関係性の血縁が最強ということです。
社会の一員として、社会システムの利益を享受しまともな生活がしたいのなら、絶対に結婚したほうがいいし、せめて親や兄弟は近くにいるほうがいいです。
ちょっと前に流行った、『置かれた場所で咲きなさい』というのはとても真理ですね。あれは、植物のように、生まれついた場所で交配しなさいという意味だったようです。違うか。
まず病院は、入院してきた人が単身独居の時点で、「うわぁ…」となります。そんな人珍しくないでしょって思いますよね。いえ、そこそこ珍しいです。感覚だと10%ないくらい。
そういう人の援助のため働く人(ソーシャルワーカーとか)がいる、と考える人もいると思うけど、その場面で必要な援助って、家族以外誰もできません。例えば急に入院したけど現金を持ってないとか、着替えがないとか。実際に困るのってそういうところです。当たり前ですが、基本的に病院には最低限の衣食住しかないです。鍵を預かって家に入って荷物を取りに行ける人は、病院職員には一人もいません。そりゃそうだ、と思う人は常識人です。お願いすれば、病院の人がやってくれるって思ってる人は結構多いです。
確かに療養生活で起きた日常的な困りごとはソーシャルワーカーさんの領分ではありますが、彼らが初動でできるのはせいぜい関係機関への働きかけくらいです。主に役所系。このへんはイメージされている通り、めっちゃ動きが遅いです。
入院している時点で、すぐには自分の身の回りのことは自由にできないです。病棟によっては携帯電話の使用も制限されます。緊急であれば連絡手段がない状態で来てしまうこともありますが、携帯を持って来てくれる人はいません。公衆電話はあるから完全に通信が制限されてる状態ではないですが、公衆電話を使うにはお金がいります。そのお金は誰が?
親も兄弟も疎遠なので恋人に連絡してほしい、と職員に頼んでくる人がいます。
そんな重要な相手がいるなら籍を入れておいてほしかったです。だって家族じゃないとこちらは簡単には連絡できないもん。疎遠でも、血縁者への連絡が優先されます。
家族じゃない人に患者の個人情報を電話で話すのは、本人が想像している以上にハードルが高いです。私がいいって言ってるんだからいいでしょって訳にはいかないです。こっちは安い給料で、よく知らない患者と自分の身を守りながら慎重に動いているので。
家族じゃなきゃダメなんて今の時代に合わない、病院は遅れてるって思っていた頃もありました。でも今は、動きの遅い行政機関の気持ちの方が理解できます。だってこの国の人間の第一責任者は家族です。家族以外の他人の介入は慎重にならないといけないです。そこで生じたトラブルの責任を負える程の給料は誰ももらってないので。
一人で生きるって思っている方。
何か困ったことがあれば、然るべき職業の人が助けてくれるって思ってる方。
確かに生き方は自由だし、社会システムは整っているのでどこかに繋がれば見殺しにはされないです。なんとかなります。
でも助けてくれる人は、最低限、仕事で助けるだけというのは理解しておいてほしいです。
枠組みの中でしか動けないし、組織の端くれが何か決断できることはありません。判断には時間がかかります。書面のやり取りも必要です。どこか画一的なのは仕方ないです。
思ったように動いてもらえなくて怒る人に、口先では謝ることもありますが、腹の底ではそれがお前の生き方の結果だよ、って思ってます。無責任な生き方だと思ってます。仕事だから投げ出したりはしないけど、トラブルを避けるためにより慎重になり、もっと動きは遅くなっていきます。
なので主題。
完全に忘れていたけどリクルートスーツの話題が出たので思い出した
理由はわざわざ期間限定でしか使えないものに大金を払いたくなかったから
当時からすでに「リクルートスーツは画一的でバカバカしい」みたいな意見はあったと思う
2ちゃんに説明会に参加する学生の写真を貼って「量産型wwww」って笑ったりとか
同時に「私服でお越しください、は罠」みたいなあるあるもすでにあった気がするな
まぁ、、そういう風潮とは関係なく、自分は単に月数万のバイト代からスーツ代を捻出するのが嫌で私服で臨んだ
「なんで私服なの?」って聞かれることは一度もなかった
選考の控室でリクルートスーツ着たやつから「今日って私服でしたっけ!?」みたいなことを強い口調で言われたことが何度もあった
全部違う学生だよ
当時は「なんだ、、、こいつ」と思ってたけど今思えば不安だったんかな
ちなみに行きたい業界に行けたしそこは私服可だったからその後もしばらくスーツは持ってなかった
今の学生に声をかけるとしたら「なんにも気にすんな」ってこと
会社なんて金儲けに必死だから働いてくれそうなやつなら誰でもいい
言葉がそんなに通じなくても働いてくれるんなら金出すんだからすごくない?
そんなもんよ、会社なんて
うっせぇわについては、まぁメタ的視点のものであって、それを本気で思っているとかじゃないよね。
社会人なりたての無敵感だったり、社会に対する不満性みたいなものを、ある種うまく切り取っているっていう。
んで、俺が語りたいのは「可愛くてごめん」の方なんだよね。
承認欲求とか、自己顕示欲とか、そういう類のものなのは確かなんだけど、それが今の時代はメジャーステータスとして成り上がっちゃってるんだよね。
今の子ってどうやって出会うか知ってる?instagramでイケメン・可愛い子にDM送ってそっから付き合ったりするのよ。
いや、出会い系かって。mixiの出会い厨かって。そう思うけど、それが普通であり、そのための入り口に「見た目」が存在していて、
マウントバトルが当たり前なんよね。なにそれ怖い。
だからこそ、カワイイ=パワーなわけで、それこそ歌詞にあるように「努力して」可愛くなる必要がある。
あとは、多様性というか、趣味の多様化が進んだ結果、画一的な「イケてる」じゃなくて、自分の好きな道を進むっていう歌詞でもあるよねと。
これ歌詞を昔の黒ギャルとかに当てはめても該当するっていうか、
尾崎豊が「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」と歌ったように、現代のZ世代は自分の好きを貫くために可愛さで武装する必要があるのかもしれない。
しらんけど。
最近、集英社オンラインと文春オンラインの記事がよく被ってる。老舗の文春よりも新興の集英社オンラインのほうが記事の質が良い傾向。紙の雑誌で文春のライバルといえば長らく新潮だったわけだが(文春が新潮の記事ラインナップをスパイするくらいに)、Webでは集英社オンラインになりそう。
で、最近も青森5人死亡放火事件での「ムラの掟」を取材した記事が両者で配信された。
「ムラの掟をやぶった…」「住むにはムラの血が必要だ」放火の疑い・92歳老人が抱えてきた80年以上続く遺恨「氏神の祟りにあったと陰口を叩かれていた」《青森5人死亡火災》 | 集英社オンライン | 毎日が、あたらしい
https://shueisha.online/newstopics/124523
《青森5人死亡火災》「孫まで殺してやる!」放火の疑いの92歳親族が70年以上募らせた“血族のうらみ”とは…「財産分与トラブルは“オマケ”の理由」 | 文春オンライン
集英社は「関係者」証言、文春は「老婆」「近隣住民」証言をソースに同じことが書かれてる。気になるのは関係者、老婆、近隣住民の口調が画一的で分かりやすすぎる説明調に修正されていて気持ち悪いこと。一般人が話すのにこんなどこぞの解説者やコメンテーターみたいな喋りをするはずがないだろうと。まして「老婆」が。こういう週刊誌特有のセリフ口調文は今の時代に合わんと思うわ。捏造と言われ切り捨てられる類じゃない?取材で得た雑多な証言をまとめたい時はセリフとせずに地の文で書くようにアップデートしたほうがいい
少年漫画こそ猥雑で多種多様な世の中のあらゆる濁りが少量ずつ入っているべきなのだ
カマホモのような奴がでてきたり成金の嫌味が出てきたりBLや百合趣味抱えてそうな女子が出てきたり世に蔓延る諸要素のサラダボウルになっているべきなのだ
もちろん一作品内で多様さを完備すべきというわけではない、それは逆に過剰なポリコレだ
いろんな作者作品を通してそれぞれのテイストを守る範囲で多様な表現をしてくれればいいだけだ
逆に決して中国共産党や韓国社会部がやるような規制やお気持ちで雁字搦めになってはいけないし
そこまでいかなくとも過剰な自主規制で画一的な表現しか採用されない状況になるのもいけない
世界の混沌に触れて自分でそれを選り分ける経験を積むことでのみ人間は自ら賢くなっていけるわけだ
その機会を奪う思想のもとでは支配者による愚民統治、管理統制社会まっしぐらになるだけだ
アンダスタン?
高校の頃の倫理の教員は、授業中にanother brick in the wallのMVを見せる(多分フーコーかなんかにこじつけて)痛い人だった。
いわゆる進学校で、生徒も教員も事あるごとに「自由」と「個性」を口にするし、その倫理の教員も特にそれに乗っかっているような感じだった。生徒からは良く言えばゆるい、悪く言えばいい加減という専らの評判で、その教員自身もそれを自負してこと演じている節があった気がする。
他の環境を知らない一貫校で、しかもそこそこ以上に裕福な家庭の男子という画一的な環境。そんな場所で周りがしきりに個性だのキチガイだの変人だのと口にするのがいけすかなかった。捻くれたガキだったから。だからそれに乗じて「変人」エピソードを披露するその教員にもあまり良い印象はなかった。
最後の定期試験に「倫理の教員のイメージ」というアンケート欄があり、多くの生徒の答えは「変人」だったし、それは教員の想定ないし期待する答えでもあったんじゃないかと思う。私はそのノリが気に食わなかったので、確か「哲学科に入ったかと思えば教員職を得る、趣味人なのか現実志向なのか分からない、でも運任せの人。変人の巣窟の凡人」みたいな事を書いた。真面目にそう思っていたのだが、「すげえブラックジョーク!」と書かれて返された気がする。その辺はちゃんと大人だったんだな。
彼の授業のスタイルは大学のそれっぽかった。教科書は使わずプリントを配り、指導要領通りの内容もほどほどに授業内容とこじつけた内容の映画を見せられた。定期テストも、映像のレポート(という体の感想文)のウェイトが結構大きかった。
生徒を大人として扱いたかったのか、ガキ相手のなんか型に嵌った授業をするのがバカらしかったのか、どうだったんだろう。
なんにせよ、倫理なんて3年の選択で取る少数以外には無縁な科目だし、それならばと好きにやりたかったのかもしれない。
トゥルーマンショー
2001年宇宙の旅(一部)
フルメタルジャケット(一部)
あとなんかインディーズの映画と事変だか椎名林檎だかの百色眼鏡ってMV
こんな感じのを見せられた。愛のむきだしが一番好きだった。あの作品が好きなのか『空洞です』が好きなのかは未だに分からんけど。
映画垂れ流し授業には結構人生に影響を与えられたような気がする。その後ネットの映画好き必修作品に挙がるようなのを片っ端から観るようになった。
今や映画鑑賞は自分の人生の核に近い部分にある。本当は何か自らの手を動かして脳内のものを描き出すアウトプットの趣味を持ちたいのだけれど、怠惰には中々勝てないな。
あの教員の嫌いな部分は嫌いなままだが、悪い人ではなかったなと思う。
プラスチックごみを減らすと確かに環境負荷は減るが、こと日本に於いては慎重にならなければならない。
表題の理由を真っ先に述べてしまうと、日本は東京のゴミの最終処分場問題というものを抱えているためだ。
簡単に言えば「東京のゴミを燃やして圧縮した灰(スラグ)を捨てる場所」が後20年程度で埋まってしまう。
数年は地方にスラグを回すことでなんとかなるだろうが、限界は早い。
そうなるとどうなるかと言えば、めちゃくちゃ金がかかるし搾取的で倫理的にも批難されそうな「外国にゴミを持っていく」か、「新たに自然を破壊し埋立地を作る」の二択が発生する。
現状としては日本は手をこまねいており、この2つに向かって突き進んでいるというのが大まかな問題点である。
マイクロプラスチック問題も深刻ではあるが、この2つはそれらを遥かに上回る環境破壊が発生するため本末転倒だ。
もちろんプラスチックごみを減らした上で発生したゴミをリサイクルするという形ならば問題はない。
しかし、マクドナルドを例に見てみればプラスチックを紙ストローに変えたものの、それらは特に分別されることもなく燃えるゴミとして処理されている。
現状としては「とりあえずプラごみ減らせば良いんでしょ」という教義的な愚かしさがあるのは否めない。
ここから鑑みるに、「とりあえずプラスチック減らせばいいや」という動きは巨大なゴミ処分場を用意できる大陸や米国型の、ある種余裕の上で成り立っている論理でしかなく、
我々のような島国、特に最終処分場問題を抱える日本においては「焼却するゴミの量を減らす」というテーマに沿わなければ全くの逆効果であり環境破壊を早めてしまうと言える。
要するに「燃えるゴミ」の削減が環境に対してもっとも重要な課題になり、原材料として再利用する「マテリアルリサイクル」と「ケミカルリサイクル」に力を入れる必要がある。
なぜなら、日本のプラスチックのリサイクル率の高さというのは実際には燃やして燃料としてリサイクルしているためであり、結局スラグが出ているからだ。
プラスチック削減をするにしても、「とりあえず紙ストローにしてみました」というようなものではほぼ逆効果に近い。
削減したならしたで「原材料として再利用できる形して、スラグを減らしました」にならなければ意味がないと言える。
例えば全国で画一的で細かいゴミ分別を行い、それらの原料化やリサイクル原料を用いた製品には補助金や減税などをかけて早急に浸透させるなど抜本的な改革が必要となる。
上勝町のような分別は人口が多くなると難しいだろうが、志布志市並の分別をした上で原材料の再利用に更に力を入れ、スラグ自体を削減していかなければならない。
更にマテリアルリサイクルやケミカルリサイクルに他国より力を入れて成功することは、楽観的な憶測ではあるが国際社会でも優位に立ちやすいと考えられる。
「環境を守る」という技術の最先端を走ることの優位性はなんとなくわかるだろう。
プラスチックごみを減らすということは確かに環境問題において大切だが、こと日本においてはスラグの発生量に気を配りながら運用しなければ環境を大きく破壊してしまうという話。
花をあげると喜ぶってのが間違ってるって話?
花瓶あっても要らんってこと?花瓶あったらオッケーなんか?
前に友人が彼女に花あげたら喜んでたって話をしてたから妻に100均の携帯式の花瓶と花をあげたら喜んでたぞ またやって欲しいとか言ってたからイベントの時とかに時々買ってくる
向こうの実家でも花買って飾ったりしてるみたいだしな 造花なら要らんみたいなことも言われたし
画一的に花あげりゃよろこぶってわけでもなかろうし、一回やって微妙だったら引き下がるべきだと思うけど、花を渡すような男って少なからず女性のこと思って行動してるんだろうしそこにキレてる方がヤベー奴じゃんって思うんだが、なんかおかしな世の中になっちまったな〜
そんなことで離婚してる奴見たことないけど、仮にそれで離婚したなら主原因は男が価値観押し付けてるからじゃなくてその辺りの擦り合わせができない双方のコミュニケーション不足やろ
詳しくはこの動画を見て欲しい。
[登場人物]
・主の娘: 中2。発達障害者(自閉症スペクトラム)。小学校と中学校が併設された学校の特別支援学級に通っている。兄弟に対する他害あり。パニックになると他人にも他害することもある。
[動画内の他害の経緯]
・小学部と中学部合同で体幹トレーニングをするイベントがあった。
・娘はイベントに参加したくなかったが、無理に参加させられ、始めは我慢していたが、イライラから来る感覚過敏に大音量のBGMと小学生の騒ぐ声が重なり、担任に他害をし始めた。
・担任がそれを無視したため、イライラが頂点に達し、そのイベントを企画した教員に他害し怪我を負わせた。
[投稿主の主張]
・しかし怪我を負わせるまでに、食い止められるポイントがあった(イベントに参加したがらなかった時と、担任に他害し始めた時)。また娘の特性を理解していれば防げたかもしれない。
・そもそも支援学級の教員達の知識が無さすぎる。日本の教育制度全体に問題があるとはいえ、支援学級を担当するなら支援の知識をつけるべき。
・中1の時は授業にきちんと参加出来ていたのに、中2になって授業を受けないことが増えたため、担任に問題があるのではないか。
以上が概要だ。
娘に落ち度はない。したくて他害している訳では無いし、抑えようとしても出来ないのが発達障害なのだから。
しかし昨今、いじめ等の学校の閉鎖的な姿勢に批判が集まる中で、生徒からの教員に対する暴行はどこまで学校内で処理すべきなのか。
教員に支援の基礎的な知識がないのは事実だろうが、そもそも教員は支援の専門家ではない(特別支援学校教諭免許状を持つのが好ましいとはいえ必須ではない)。
教員不足の現状で支援の免許を持たない教員が担任になることもあるだろう。支援の専門家でない人にきちんと支援しろというのは、他害傾向のある発達障害者に他害するなと言うのと同じではないのか。
そもそも学校教育というのは、画一的な国民を作るシステムだ。「個々人の特性を理解し、良いところを伸ばす」という思想とは相性が悪すぎるし、その余力は現場にはないだろう。
ガチのセラピストとガチでやる認知行動療法についてはあんまり知識ない(ちゃんと受けたことない)から、自分一人でやるカラム法みたいなカジュアルなやつに限った話になる上に、めっちゃ偏見まみれだけど(まさに「認知の偏り」?)。
昔から、認知行動療法のライン作業感というか、「はい、あなたに今生じた感情は〇〇という自動思考によるものですよー、それは△△という認知の偏りに基づいていますねー、この場合の合理的な思考は何でしょうかー、そう□□ですねー、『正しい認知』ができて楽になりました、よかったですねー」みたいな一連の流れがクソだなって思っていて、それは「あらゆる人の個別的な考えがテンプレ的なフレームに則って画一的に処理されていく」ことへの不快感によるものだと理解していたのだけど、最近になってそれとは別の切り口から嫌いな理由が考えられるようになった。
すなわち、「最初から『望ましい状態』という目標≒『結論』が決められているから」という理由。
認知行動療法って、結局「外部から与えられた定義における『不適応を起こしている人間』」を「外部から与えられた定義による『望ましい状態』」に持っていく技術なわけじゃん。前者に関してはまあ「生きづらさを感じている」とか「トラブルが多い」とか、本人の困り感に立脚したものが多いだろうから置いておくとしても、後者の「望ましい状態」というのが、最初から自明のものとして設定されているというか、「合理的な認知に基づいてストレスの少ない(ストレスに遭っても対処できる)人になりましょう!」という目標(≒結論)が何の疑いもなく立てられてる感じがする。そして、セルフワーク系認知行動療法においては、「不適応を起こしている人間=自分」に対して、認知行動療法という「治療」を行うことで、「望ましい状態」に変わって(変えて)いこうね!っていう流れなんだろうけど、私はその「望ましい状態=合理的な認知に基づいてストレスの少ない(ストレスに遭っても対処できる)人」という前提が何の迷いもなく置かれているのが怖い。
確かに、「解決すべき課題」や「なりたい自分」といった「目標」を持った人が、認知行動療法によってそれを達成しようとする時、認知行動療法というのは良いツールだと思う。「職場の人と円滑にコミュニケーションを取りたい」と思っている人にとって、「なりたい自分」は認知行動療法で定義される「望ましい状態」と一致するだろうから、セラピストなりテキストなりと二人三脚で目標達成に向けて頑張れば良い結果になると思う。
でも、自分の中で「解決すべき課題」がはっきり見つかっていない、あるいは「なりたい自分」が明確に定義されていないうちに、治療者側(テキストを作った側)が考える「望ましい状態」こそが「目標」であると宣言され、そこに向かって自己変容をすることが「正しい」から頑張ろうね、と旗を振られることは、何というか、押し付けじゃないのかな?って思うのだ。それが本当に「正しい」のかどうか考える余地が与えられていないことに、息苦しさを感じるのだ。
もちろん、多くの人にとって「合理的な認知ができる、ストレスのない状態」というのは「快」であり、「望ましい」、ひいては「正しい」ことなんだと思う。でも、うまく言えないけど、「不合理な認知」も「ストレスで苦しんでいる状態」というのも、それが「自分」の一面である以上、「正しくない、間違っている」と断言することは乱暴なんじゃないかな、と思うのだ。認知行動療法が定義する「正しい」認知に基づく生き方を推奨するあまり、「偏った認知を持った人」が「偏った認知を持ったまま生きる」ことが否定されるのはダメなんじゃないか、と。
多分ガチの認知行動療法だとこの辺の問題はクリアされてるのかなとも思うけど、セルフワーク系だとここらへんの認識があまりに雑なイメージ(偏見かもしれん)があるから、何となく書いてみた。あんまりまとまってないから書き直すかもしれない。
今、放送されているNHKの「みんなのうた」たまたま遭遇した放送の第一曲、「たのしいね」が流れたとき、衝撃がきた。ニュータイプ音が鳴ったといってもいい。
https://www.nhk.or.jp/minna/songs/MIN202212_03/
私は主にニコニコで隆盛した?「歌い手」というジャンルにまったく詳しくない。プロのカバー曲も好きではないのにいわんや素人をや。しかしゲーム実況は時々漁っているので、いわゆる歌い手のサブ活動のゲーム実況に出くわしてしまうことがある。まあすぐに切るのだが。
そういった中で私の中の、主に男性の歌い手イメージが出来上がってきた。音楽にも明るくないので上手く表現できないのだが…
作ったような高音(ミックスボイス?)
巻く?甘ったるい?母音を強調するような喋り方
無理やり出すような伸ばし声(ロングトーン?)
トーク主体のゲーム実況で感じたこのような特徴。誰々の特徴ではなくあるていど画一的な、量産型、よく出会う特徴。「たのしいね」は全てを兼ね備えていた。特に「あわせてみよ~~~う」の伸ばすところが何かタメがあるのか不連続的で切り取ったような既製品をお出しされているようで非常にムズムズする。「のびのびとした魅力的な発声を聞いて聞いて~~~」と言われているような恥ずかしさがある。(しかしこの部分を何度か聞いているとこの不自然さが頭に残りクセになってくるのだ)
私は念のため正否を確かめてみた。したらばしかり、「天月」という歌い手だった。
先のURLを見るに過去の曲のカバーであり、作曲や作詞は「歌い手」とは無関係だ。(編曲の人は別の歌い手らしい)
つまり、再度になるが私は曲や詞の傾向を無視して歌手の声の特徴や歌い方のみで「この曲は歌い手が歌っているものだ」と看破したのだ。天月氏の声を過去一度も聞いていなくても。だ。
音楽を積極的に聴かない私にとってこういった経験はマレだ。JPOPやV系?ロックやアイドルの曲を聴いても「ああ、あのジャンルの声だなあ」と思うことは少ない。多少わかりやすいのは声優のアニソン系だろうか。歌い手もサブカルチャー畑なのでもしかしたらそういう声優声に寄せているのかもしれない。しかし声優はキャラを演じながら歌うので特徴的になってもそこは意図的かと思う。
詳しい人に語らせればJPOPやロック、EDM~Future Bassなどの歌手の特徴を述べることは簡単なのだろう。だがそうではない私にも歌い手のほかにはっきりわかるジャンルがある。そう演歌だ。
演歌…演歌歌手…すごくわかりやすい…。ただのワイドショーで喋るだけでもその声の張り、コブシがひしひしと伝わってくる。
もうこんな例を出すとおっさんすぎるが、やはり「演歌じゃないけど演歌だ」と幼少ながら感じたのはポケモンだろう。
映画の風といっしょにも有名だしポケットにファンタジーも名曲だ。どちらもポケモンのための曲でありながらやはり小林幸子が歌うと小林幸子になり、それだけで演歌のエッセンスを感じられるのだ。
演歌歌手が演歌以外を歌っても演歌歌手だとわかる。「たのしいね」とちょうど同時期に「これ演歌歌手だ!」とわかる曲が流れていたのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=teiFPiZ74Sc
軍歌か行進曲のような曲でも歌い方がモロ演歌の非常にクセになる曲だ。つい口ずさむ。
演歌は私は好きではない。若い世代でも好きな人は比較的少ないだろう。ただ、恐らく若い人でも演歌は演歌として認識されていると思う。30~40代ぐらいの世代の曲はどうだろう。たぶん若い人にとっては知らない曲でまとめれれるかもしれない。ラルクや宇多田を挙げつつもJPOP全盛期とまとめられるだろうか。世代の中にいるせいか、そこに演歌や歌い手のような一大ジャンルの(歌い方の)まとまりを感じられない。
演歌を見るに、おそらく40年後ぐらいになるとおじいちゃんおばあちゃんが「歌い手」を聞いているのではないかと思うのだ。今の演歌の地位に歌い手というジャンルが収まる。
一点、「歌い手」という歌手が何十年もそのジャンルのまま歌い続けるのかと考えると声の特徴や(顔を出さない)アイドル的側面からイマイチしっくりこないものの、そこは氷川きよしやジェロのような若手がぽつぽつと参入して生き残るんじゃないのかなあと思う。
歌い手ジャンルが生き残る力が、(私自身は非常に嫌っているものの)その歌い方にあるのではないか。その先達として演歌があるのだから。
年末年始のテレビをみながら、そんなことをポツポツと考えていた。
そして私がおじいちゃんになったときに我が世代がどんな(古臭い)ジャンルを嗜好していると若者からみられるのか。そこは予想ができず、ある意味楽しみでもあるなと期待している。
そうそう、「たのしいね」は子供向けの曲としてとてもすばらしいものだと思っております。アニメーション含めいい曲ですのでぜひご視聴ください。
でも、女が全員胸がないんだわ
大きいやつもいれば小さいやつもいるってのが個性ってもんだが、全員均等に胸がないわけで、それもう女として去勢されてね?っていう気持ち悪さを感じるわけよ
なんかトランスの男が胸の切除したの?みたいな
主人公の後藤は巨乳らしいけどアニメでは全然そんなことない…一瞬水着姿が映って、あ、巨乳なんだなってのが理解できるのがさらにキモい。物理的にありえんだろ。乳袋にぎゃーぎゃー言ってたアホクソフェミいるわけだけどこれどう思ってんの?
まあどうとも思ってないだろうね。俺は胸の描写に気持ち悪さを感じているが、それがフェミニスト的に正しいんであればまあ時代の流れとして納得はできる
でも女性として去勢されてるような画一的な描き方ってフェミニスト的に正しいの?ってのは気になるところ。
あと胸ナーフしてたらエロい目で見られなくなるとか思ってんなら甘いよね。普通に想像の中で4人犯すしAIでその絵作るし小説だって書くよね
クソフェミがなんか言ってきても即退散させるための呪文を最後に置いとくわ、もうこの二語でフェミだまるからねw
colabo