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はてなキーワード: リゾームとは

2018-10-31

anond:20181031131854

物理存在複数人かもしれないけど、1個のミームとして独立した動きを見せてたんだからリゾームとしては一体だろ。

2018-10-08

はてサ」というミームが自らの意思自律するなら、それははてなリゾームとして生きる一つの統合思念体だよ。

2018-10-07

anond:20181007125746

個体物理的に複数であるかどうかはあんまり関係なくて、ネット上でのリゾームとして一つのミーム構成してたらそれはもう実質的に一体だよね

anond:20181007023709

形態リゾームモデルとツリーモデルと言える。

まぁ実際は法律・慣習の制約などもあって、その二つを極としたスペクトルのどこら辺かで捉えることができる。

2017-04-14

マストドンの素朴なリベラリズム左翼性)について

これは流行らない、と直感的に思った。流行ったとしても一時的ブームになってあとはカルト化するだろう。

マストドンは「あなたの会話が一つの会社によって独占されるのを防」ぐと書いているが、どことも分からない一個人管理させるほうが危ないだろう。

上場している公開企業名前も顔も知らない一個人、どっちに管理してほしいかと言えば、圧倒的に前者だろう。

これほど素朴に「反体制」「反権威主義」を謳ったサービスは久しぶりに見た。大きな組織は何でも悪だという古臭い左翼思想根付いており、サービス全体からとても思想性を感じる。

一昔前の左翼単純化された世界観組織は悪で個人は善)はとうに通用せず、リゾーム化し、何が悪で何が善かわからない世界突入して四半世紀近く経っているのに、これはいただけない。

原始インターネット的とも言えるが、ずいぶんと古臭い思想を掲げたWebサービスが出てきたものだ、と感心した。ドイツ発というのもそれっぽい。

思想を持ったWebサービス成功しているところはない。成功しているWebサービスはすべて便利さ、手軽さ、楽しさ、だ。

2015-02-06

アイドルポストモダン

http://seana.hatenablog.com/entry/2015/02/05/230648

アイドルの曲は、アイドルが歌うことに意味があるということに気づけただけでも、ジャニーズを好きになってよかったなと改めて思います

アイドルファンのみんながみんなそうというわけじゃないよ、という話も。

そもそも「音楽とはその演者の主張である」という基準自体が、常に正しいとは限らない。

何の主張も、意思も、意見も、欲求も何もなく、音楽はただ音としてあるだけでも許されるはずだ。

それは、西洋哲学古典文脈で、「世界には何らかの真理があるはずだ」とされてきた価値観に似ているかもしれない。

これはおそらく、人間コミュニケーション手段、あるいは記録・伝達の手段の発達に関係していると言えそうだ。

音楽を伝える手段は、口伝から楽譜レコードからCDデジタルデータへと発展してきた。

一番最初は「自分たち音楽をいかに奏でるか」から始まったし、実際にそういう手段や発想しかなかったわけだが、

文明の発達によって「楽器を弾かなくても音楽が作れる」、「発表した数分後には世界中の誰でも聴くことができる」ようになり、

音楽のありようは大きく変わってきた。

音楽もまた、それがそれ自体として価値を持って存在しうる、

まりシニフィエを持たず、純粋シニフィアンとして存在しうるものに変わってきた。

音楽を奏でる上で、その主体自分の顔や外見を聴衆の前に晒し

その言葉が本人の主張であると常に解釈されなければいけない時代は終わったということだ。

人間、あるいは自己の「表現」としての「音楽」には限界がある。

なにより、自分以上の音楽を奏でることができない。

そもそも「音楽」と「自己」とは関係なく存在しあってもいいものであるはずだ。

自分たち音楽とは、自分たち表現だ」という自己規定は、そのうちに必ず自家中毒を引き起こす。

いわゆるアイドル戦国時代と言われたところから、近年のヒットチャートアイドルが占拠するようになったこの音楽のあり方は、

何も正当性がないただの「衰退」や「退廃」とは異なる、文化としての次のステップ意味を示している。

音楽」と「自己」、あるいは「音楽」と「意味」の離別は、音楽のもの純粋さをより推し進めるものともとれる。

たとえばそれは、女性キャラしか登場しなくなったアニメや、10代の若者世界を救うジュヴナイル作品とも近いもしれない。

その「音楽」をより純粋な形で届ける上で、最適な手段を探した結果、それが「アイドルだった」としても実は不思議なことではないのだ。

ポップスという大衆音楽には、その音楽性やジャンル自体制限はない。

あらゆる音楽性はポップスに含まれうるが、しかし外見や表現を含めてもそうだといえるだろうか?

ダンスミュージックディスコ、あるいはプログレハードロックメタル

これらはそのファッションスタイルと相まって存在していた音楽文化だ。

ヒップホップ音楽性には、ヒップホップファッション必要で、ヒップホップなアティチュードが求められる。

一人の人間、あるいはバンドでこの様々な音楽性の表現は一貫して行うことができるだろうか?答えは「No」だ。

なぜなら自己表現として音楽存在すると仮定した場合多種多様音楽を奏でることはそのまま分裂症的に解釈されてしまうのがオチからで、

これはつまりドゥルーズの言うリゾームの話に近づいてくる。

純粋音楽表現において、多種多様音楽をできるだけピュアな形で届けるには、アニメアイドルといった、

何の主張も持たない、時にはフィクショナルな存在の方が向いているということは起こりうるのだ。

から、私はアイドル音楽が好きだ。

彼ら、彼女たちと、そこで歌われる、奏でられる音楽は、本当の意味で結びついてはいない。

(つまり歌詞言葉どおりに彼らが考えているわけではない)

しかしながら、いや、だからこそ、その音楽純粋存在しているし、鳴っているのだ。

ともすれば、その歌詞支離滅裂意味を持たなかったとしても、

ナンセンスであるほどにその身体性、サウンドとしての純度は高まるかもしれない。

ひと昔前であれば、優れた40代50代の音楽家表現しうる音楽手法、伝える手段は、より限られたものだったろう。

今は、アニメアイドルボーカロイド…。様々な手段によって、自己の肉体や外見とは関係なく、純粋音楽表現できる時代になったのだ。

そして、リスナーとしての我々にとっても、より純粋フィクション文化として、

音楽作品に溺れることができる時代になったということも同時に意味しているというわけだ。

2013-06-11

http://anond.hatelabo.jp/20130611011617

基本的にはそういう感じになってけばいいと思うんだけど、人間関係は「私」と「あなた」だけの単線関係に完結しないからなぁ。

人はたくさんいて年齢や身分もそれぞれで、だから関係は常にリゾーム状になっている。誰もが「私が、私が」とやりすぎると、もろもろの関係破綻してしまうのではないだろうか。

 
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