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はてなキーワード: 音楽作品とは

2024-09-02

にじさんじ音楽動画が300件以上削除された

本日mix師への証拠付き告発があった

mix師というのは、歌声演奏などの音源を調節して一本の曲としてきれいに聞けるようにする人

告発されたmix師ドラマアニメ関係mixもやっている本職で収録スタジオ運営している

スタジオにはVtuber中の人音楽作品収録のために多数訪れている

にじさんじ音楽動画はそのmix師が手掛けたものが多く、告発を受けて大量に削除され現在も削除が進行中

千万再生されている人気曲もいくつもあった

そのmix師は収録中や休憩中のVtuber盗撮して仲間内写真を共有していた

「60分12800円なら指名します」

「顔は60点なのに体は100点近い」

友達いないらしい やっと帰ってくれた」

顔のいいVtuberには下ネタ飛ばし陰キャっぽいのは馬鹿にしていた

明らかな盗撮写真の数々、その背景は公開されている撮影スタジオ内装と同じ

また、紅蜘蛛と呼ばれる媚薬飲み物に混入して女性たちに飲ませていた

蜘蛛は同じ名前類似品が蔓延効能は定かではないが、違法成分が検挙されたり、健康被害が出たケースもある

過去にこのスタジオに収録に行ったVtuberの中に家長むぎがいる

家長中の人がバレており、収録に行った当時は未成年だった

収録スタジオ家長は突然体調不良になり激しく嘔吐してトイレにこもったという

食べ物がなにか悪かったせいでスタジオ迷惑をかけてしまったと家長は当時謝罪していたが

蜘蛛を仕込まれていた疑惑告発後に浮上

2024-03-23

anond:20240322185217

というより、音楽聴くのに時間かかるけど、絵は一瞬で見れるっていう時間的な違い大きい。

たぶんその構造的な制約ゆえに反発が少なくなってると思う。

どういうことかというと、一言で言えば、絵は0.1秒で鑑賞できるけど音楽聴くには少なくとも数十秒から数分間の時間を要する。

さらにいえば絵は一度に大量に見ることすらできるが、音楽は一度に1曲のみだ。

このことがどう影響するかというと、絵の場合、見たくもないのに目に入るという事態が起こりうる。しかも大量に。

XのタイムラインYoutubeサムネイルwebページバナーAIイラストで埋め尽くされる。

これは恐怖だ。見たくもないもの洪水のように迫ってくるのだから

情緒不安定になりヒステリックな反応を引き起こすのも無理はない。

一方でAI音楽場合再生ボタンを押さなければ再生されることはない。

動画などの素材で使われていたとしてもフリー音源との違いがわからないので違和感を抱かない。

ゆえに脅威を感じづらい。

これが両者の反応の違いとなっているのだと思う。

 

別の論点でいうと、絵と音楽制作スタイルが大きく異なるので、その成果物に対して個人が抱く感情にも隔たりがあるのではないかという話がある。

絵は多くの場合一人で完結できるので作品に対する作家性(簡単に言うと「自分のモノ感」)が強い。

逆に音楽ほとんど分業制で作られていて、「個人のモノ感」が低い。作曲者演奏者(歌手含む)が違うのは当たり前で、そこに作詞者や編曲者が加わることもよくある。

絵に例えるなら、ラフと線画と着色、仕上げを別人が担当するようなものだ。

1つの素晴らしい音楽作品があったとして、それが名作たり得るのが誰のおかげなのかを明言するのは難しい。

まり絵の一次創作者が「すべてを統べる者」であるのに対して、音楽一次創作者(作曲家)は、「作品の一部を作り出すもの」でしかなく、ゆえに「自分のモノ感」が低く、それが仮にAIに置き換わったとしてもダメージが少ないのではないか。隣接する他の仕事いくらでもあるし。

2024-02-17

こういうのも原作者意図無視した改変になるんだろうな

ニューヨーク仕込みの洗練された歌唱スタイル話題を呼び、国内のほぼすべてのレコード会社からデビューオファーを受ける[6]。また現地で出会った作家E-3DJ HIROnycらと制作した音楽作品日本で評判を呼び、デビュー前には映画凶気の桜』の主題歌制作に協力する。

2003年ソニーアルバムを7枚出すという契約を結ぶ

2005年制作チームに入っていた音楽プロデューサー川口大輔[注 2]にそれまでの歌い方を否定される。

当時のJUJUは子音を立てたりアドリブを入れたり強いビブラートをかけたりというジャズなどの影響を受けたクセのある歌い方であったが、
川口邦楽だとそれでは日本語が濁って届かないので、はっきりと発音するよう指導された。

シンガーとしての経歴を全て否定されたような気分になった

2023-03-01

クラシックって括りが雑過ぎてイラッとする。

管弦楽編成の楽器が使われてたら取り敢えずクラシックて呼びやがる。バロックロマンも、アンサンブル管弦楽オペラも全部クラシックで一括り。

下手すりゃ映画音楽まで「クラシック」扱いの始末だ。

ジョンウィリアムスマンシーニモリコーネ久石譲も素晴らしいBGMを書くけど、それはあくまムード映画の一要素であって、それ単体で主題を完結させる音楽作品とは異質なもの

とは言っても、エヴァ旧劇はバッハ引用なくしてあのムードは成立しないと思うし、ツァラトゥストラ2001年宇宙の旅で知ったという人も少なさそう。

ストラヴィンスキー辺りから近代音楽は、まあクラシック範疇にあるんだろう。でも、「クラシック音楽家」のショスタコーヴィッチは映画音楽も書いてたりもする。

ジョプリンは他の何物でもなくラグタイムと呼ぶのが相応しいけど、「クラシック」と言えなくもない?ガーシュインはどうだろう?

ともあれ、何でもかんでもクラシックと呼ぶのはやめて頂きたい。

2022-10-22

ぼっちの3年6時間修行期間ワープちょっと卑怯じゃない?

修行パートはつまらない」

「でも、主人公理由もなく天才だと叩かれる」

じゃあワープすればいいお!

それで約6500時間修行パートを数分で終わらせおって……。

まあ確かに音楽作品だとスタートと同時に主人公が2万時間練習済みみたいのも多いけどさ、そういうのってそれが前提になってる戦いじゃん。

それをみんなが1000時間ぐらいの練習で戦ってる世界にいきなり6500時間乱入してきて「修行パートちゃんとやりました!天才じゃないです!」はちょっとやりすぎだわ。

2022-05-16

演奏不可能作品

演奏不可能作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏不可能、あるいは困難な音楽作品のことである

概説

クラシック音楽世界では、演奏不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易無視できない存在となっている。巨大編成の作品演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。

現代ポピュラー音楽場合には、作曲家作詞家編曲家といった独立した職能存在するものの、作品演奏との一体性が強く、コンサートライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品コンサートライブにおいて生演奏する際には、自動演奏テープなどを用いてレコーディングされた作品再現するか、生演奏可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。

歴史

バロックから古典

歴史は長く、J.S.バッハの諸作品モーツァルトオペラフィガロの結婚魔笛ベートーヴェンピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。

ロマン派

ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルト魔王交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団演奏不可能と宣告されたブルックナー交響曲第2番、ブラームスピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品マーラー交響曲ラフマニノフピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。

近代

近代ではストラヴィンスキー春の祭典シェーンベルクピアノ協奏曲ヴァイオリン協奏曲モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的作曲された例としてアイヴズの歌曲義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオ演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオ演奏する者もいる。ラフマニノフピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージ身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストテクニック不自由したピアニスト左手の音をずらして演奏することが慣例化している。

現代音楽

演奏不可能作品という概念現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能概念は、今日例えばパソコンシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から人間演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食強要していると言う点で事実上演奏不可能作品である

今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモスアルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例であるクセナキス自身テレビインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。

しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単作品人間演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である

ポピュラー音楽

前述の通りポピュラー音楽クラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。

特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞作曲 桑田佳祐アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏事実上不可能となっている。ソフトウェアマスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である

演奏史上で演奏困難とみなされた曲

作曲家演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさら作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのもの今日では演奏レコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。

ベートーヴェンピアノソナタ第29番(ハンマークラヴィアのための大ソナタ)

指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽大家作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストベートーヴェン交響曲ピアノの為に編曲したもの存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタ比較的易しい。

パガニーニ24の奇想曲

超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニ作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。

リスト超絶技巧練習曲第2版

タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲であるピアノパガニーニを目指したリスト代表曲である一般演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リスト超絶技巧極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーレスリーハワードが録音を残している。

チャイコフスキーヴァイオリン協奏曲

演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品しか現在では、早熟ヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。

ドヴォルザークチェロ協奏曲

第一楽章オクターヴの速い動きで事実上演奏不可能作品である解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。

プロコフィエフピアノ協奏曲第4番(左手のための)

パウルヴィトゲンシュタイン委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフ最高傑作だ」と称え、ピアノ吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。

シェーンベルクヴァイオリン協奏曲 Op.36

十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイスクラスナー独奏ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲自身生演奏を聴いていないとされる。

フォルカー・ハインの「フェッロ・カント

1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエ作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会一般公開され、色々な同僚作曲家意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。

ケージフリーマンエチュード

チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキー意見対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。

関連項目

2021-07-19

小山田作品を奪ったお前らを一生恨むわ

とりあえずコーネリアス世界トップレベル音楽を作ってるアーティストであるのは間違いない。

現在世界的なフェスに出れる日本人がどれほどいる?「現在」のすばらしい作品中学生時代の間違いで焼き尽くされてとても悔しい。

今回の騒動中、ずっともやもやしてた。

本来問題で語られる話を人格否定作品全て否定する奴ら。

謝罪しろ!と言って謝罪したら「謝罪になってない!」と言い出すやつら。世間パワハラモラハラ野郎とどう違うんだ?

事実と一部違うところがある」と語ってるのに「うんこ食わせてバックドロップ」を事実のように語ってるのやつら。

被害者への謝罪いじめ問題への問題提起とすばらしい作品を発信するのは平行にできることじゃねえか。

お前らの「すばらしいお気持ち」とやらで音楽文化破壊されて俺は深く傷ついた。一生恨む。今回燃やしてた奴らは本当の弱者である俺のことなど考えてくれないんだろうな。

頭の悪い奴らのために言っておくが音楽文化いじめより優先されるなんて言ってないからな。

いじめ鬼畜サブカル文化問題解決音楽作品の発表は平行でできると言ってる。

けどお前らは一方的に叩きのめす、焼き尽くすことを選んだ。

何度も言うが一生恨む。これで生まれた分断があると認識しろ

2021-07-03

anond:20210703062401

かつての音楽作品リメイクばっかりが報道されてるのを見てなんとも思いませんかね?

2021-06-22

Rymdreglage

レゴを使ったストップモーション映像と、ファミコンのようなサウンドBGM。こんな映像作品を、Youtubeで見かけたことがないだろうか。

「Rymdreglage - 8-bit trip」ーhttps://www.youtube.com/watch?v=4qsWFFuYZYI

この映像を作ったのはスウェーデンの二人組バンド、Rymdreglage。音楽映像ゲームをこよなく愛する彼らが送り出す素晴らしい作品群は、彼らのYoutubeチャンネルにて鑑賞することができる。

彼らの作品は度々メディアに取り上げられるものの、日本語ではもちろん英語でも彼らにまつわる情報が出てこないため、かなりマイナー存在だ。しかし、恐ろしいほどに手間がかけられた映像音楽は、メジャーにはなりえないかもしれないけれど、誰かの心に深く刺さるかもしれない。このまま人の目に触れないのはあまりにも惜しく感じるので、勝手ながら、場末ネットコミュニティで彼らの作品を紹介することにした。

Terminator 2 - 20 years ( July 3 1991 - July 3 2011)ーhttps://www.youtube.com/watch?v=a4mWyeVitNQ

ターミネーター220週年を記念し作成された作品Eテレ番組テクネ 映像教室」にて取り上げられた作品でもある。色付きの画用紙にターミネーター2の名場面が描かれ、溶け落ちるロウソクと積み上がる紙くずが途方もない時間演出している。

Rymdreglage - Insert Coinーhttps://www.youtube.com/watch?v=0sNxRji1STg

アーケードゲームを題材にした作品コインヌルヌル動く映像演出する様は圧巻。Rymdreglageの、ゲームへの愛に溢れる作品となっている。

Rymdreglage_Kallbrand ー https://www.youtube.com/watch?v=QcvnDNPbsOo

Rymdreglage_Kallbrand_inst ー https://www.youtube.com/watch?v=plGRtq6jVF8

80年代の様々なゲーム映像レゴブロック表現した作品。もしかしたら、あなたが昔遊んだことのあるゲームもあるかもしれない。本家インストで2種類の動画が公開されているが、どちらも別の映像となっており非常に手が込んでいる。

その他にも、ユニーク面白い作品はたくさんある。よかった見てみてほしい。

Rymdreglage - Respawn ー https://www.youtube.com/watch?v=nhJj13iChCk

Rymdreglage - Old dayshttps://www.youtube.com/watch?v=ohlQczU45SA

また、彼らの音楽作品AmazonミュージックSpotifyなどで絶賛配信中だ。

Rymdreglage公式サイトhttps://www.rymdreglage.se/

2020-05-03

anond:20200503172003

YouTubeが(今以上に)主戦場になるとは思うけど、昔のように音楽だけをむさぼるように聴き続ける文化はもう来ないと思ってる。

Apple MusicGoogle Play Musicなどプラットフォームは以前からあったが、それらは演者パーソナリティが見えず、夢中になりきれなかった。

YouTuberが今これだけPVを集めているのも演者パーソナリティがとてもリアルに見えてくるからで、

まりYouTuberやラジオDJのようにパーソナリティを全面に出して視聴者をひきつけつつ、今度音楽作品を作ったのでよかったら買ってね、というスタイルが残りそう。

これ自体は昔から連綿と続くやり方でもある。

歴代深夜放送DJ担当したミュージシャンを考えてみると、昔の中島みゆき電気グルーヴから今のCreepy Nutsまでそんな感じ。

トークうまいミュージシャンYouTubeファンを増やしていって、主な収入源は動画広告で得て、ときどきガチ音楽作品を有料配信する形態が定着しそう。

2017-12-18

anond:20171218144304

エクストラバガンザ (英語: extravaganza) は、文学または音楽作品、あるいはミュージカル作品で、様式構造に囚われず自由であることを特徴とし、特に19世紀イギリス文脈におけるバーレスク英語版)、パントマイムミュージックホールパロディなどの要素が盛り込まれもののこと[1]。また、より広い意味では、手の込んだ、大掛かりで贅沢な舞台芸能の上演形態を指すこともある[2]。

概要[編集]

この用語は、ジェームズプランチェ(英語版)が19世紀イギリスにおいて流行させた、ある種の演劇を指して用いられた。プランチェは、この言葉を「詩的な主題についての滑稽な扱い (the whimsical treatment of a poetical subject)」と説明していた[3]。

しばしば主題として取り上げられるのは、妖精フェアリー)が登場するような神話妖精物語であり、ファンタジー的内容を派手な演出で見せる大衆的な芸能であった[4]。この意味でこの用語が使われた初出は、1794年とされる[5]。

この用語は、イタリア語において「浪費」ないし「贅沢」を意味する「extravaganza」[5]、ないし「stravaganza」に由来するとされる。英語では、18世紀半ばに奇矯な行動を指す言葉として用いられるようになり、その後、18世紀末にはファンタジー的内容の舞台を指すようになった[5]。

知らなかった。増田勉強になるな。

2015-07-08

若者ピアプロ離れ

またもやボーカロイド流行り廃りが話題だと聞いて。(例:http://anond.hatelabo.jp/20150707133957

ボカロ周辺の二次創作に少なからず貢献してきた「ピアプロ」だけれども、最近存在感が薄れてきた気がする。

「気がする」だけでは説得力が無いので、定量的データとして、ピアプロクリプトンの6ボカロ(ミク、リン、レン、ルカ、メイコ、カイト)のタグが付けられた作品数の推移を、半年単位で纏めてみた。

長いので結論だけ先に書くと、「ピアプロ投稿作品数は、ミク以外は先細りになりつつあり、特にイラスト頭打ち傾向が強い」。

集計方法

音楽作品

最初音楽。これはどのキャラも順調に作品数が伸びてゐる。

年月日初音ミク鏡音リン鏡音レン巡音ルカMEIKOKAITO
201005132060858224013361710711958
201011172563368894739485212432232
201105173139080545649608914342577
201111173671092226458701515492821
2012051940806100387076766616092954
2012111944435108227549815917093084
2013051947645114058025853017733404
2013111950253119318241878117813628
2014051953492123408446908219423896
2014111956210126018540923820844076
2015051958323127758704948521774243

やはりミクが圧倒的に多い。2位はリンで、3位は元はレンだったが、2010年後半にはルカに抜かされてゐる。

音楽作品増加数

しかし、これを「前回集計からの(半年間での)増加数」で見てみると、残念ながらどのキャラゆっくりと減ってきてゐて、特にリン・レン・ルカが4年半で1/5以下まで減ってゐる。

年月日初音ミク鏡音リン鏡音レン巡音ルカMEIKOKAITO
20101117+5025+1067+726+1235+172+274
20110517+5757+1165+910+1237+191+345
20111117+5320+1168+809+926+115+244
20120519+4096+816+618+651+60+133
20121119+3629+784+473+493+100+130
20130519+3210+583+476+371+64+320
20131119+2608+526+216+251+8+224
20140519+3239+409+205+301+161+268
20141119+2718+261+94+156+142+180
20150519+2113+174+164+247+93+167

特にメイコは、半年で8作品しか増えなかった期間(2013年後半)があるほど。ただ、その次の半年間で急増したのは、V3が発売されたから(カイト2013年前半で急増したのも同じ理由)と思はれる。

ミクの音楽作品は、2015年前半でも1日に10作品以上のペースで投稿があり、流石の強さ。

イラスト作品

次にイラストだが、明らかに音楽よりも頭打ち傾向がはっきり出てゐる。

年月日初音ミク鏡音リン鏡音レン巡音ルカMEIKOKAITO
200905174712425857252485420951723706
2009111761189329583111990141106327321
20100513756434027237649127791234231775
20101117904314714843773160201407735913
201105171016595230448027186821507038592
201111171108595575850656201311576839999
201205191197155916353218214921611940963
201211191251596096754469222241643341270
201305191303686223255349226311658041862
201311191353496321655911232371705642471
201405191385226354556227233571702642544
201411191414336399856406234211722142608
201505191433116406756413234901727742745

ここでもミクは圧倒的強さだが、他のキャラ2014年に入ってからの伸びなさが尋常でない。

イラスト作品増加数

半年ごとの増加数で見てみると更に頭打ち傾向が際立ち、なんとメイコは減ってゐる期間(2014年前半)があるほど。この期間はメイコV3の発売日(2014年2月)を含むのに、この結果はあんまりな気がする。

年月日初音ミク鏡音リン鏡音レン巡音ルカMEIKOKAITO
20091117+14065+7101+5871+3594+1546+3615
20100513+14454+7314+6530+3765+1279+4454
20101117+14788+6876+6124+3241+1735+4138
20110517+11228+5156+4254+2662+993+2679
20111117+9200+3454+2629+1449+698+1407
20120519+8856+3405+2562+1361+351+964
20121119+5444+1804+1251+732+314+307
20130519+5209+1265+880+407+147+592
20131119+4981+984+562+606+476+609
20140519+3173+329+316+120-30+73
20141119+2911+453+179+64+195+64
20150519+1878+69+7+69+56+137

ピアプロ作品数が減る理由は、

のどれかの筈だけれども、「アカウントごと削除」の影響が大きい気がする。これは定量的データは無いけれども、お気に入り作品がごっそり消えたことや、フォロー中の投稿者がいつの間にか消えたことが何度もあるので、そんな気がしてゐる。

どうして作品アカウントを消すのかは、私は消さなタイプなので想像しかできないけれども、

なんて理由なのかもしれない。

因みにピアプロ規約では、消される前にダウンロードした作品は、その時に付与されてゐライセンスのままで使へるので、そこは安心できる。(http://piapro.jp/user_agreement/11条の7)

結局

去年のマジカルミライでも「ピアプロによる創作連鎖」が誇らしげに展示してあったが、最近実態として新規作品がどんどん減ってきて、存在感が薄らいでゐる。(実は今回の集計方法だと新規投稿數と削除数を区別できないので、増加数が0に近くても新規投稿數が100とか200とか、もっと多い可能性はある。同じだけの削除数があるといふ悲しい想定だけど。どちらにしろピアプロ現存する作品数が頭打ち傾向なのは間違ひ無い)

最近ピアプロは、作品がそこそこ増えてきたが故に、逆に作品が埋もれやすくなって、利用率(「使わせてもらいました」が付く率)が下がり、わざわざ手間を掛けてピアプロ投稿する旨味が減ってきて、新規作品が増えない、といふ悪循環に陥ってゐるのかもしれない。

その他にも、TwitterSoundCloudで気軽にイラスト音楽作品披露できる環境が広まったので、そこで満足してピアプロへの投稿まで辿り着かないのもあると思ふ。ピアプロからの働きかけとして、企業とのコラボでの作品募集は多いが、それはやはり商業分野であって、ユーザー同士が勝手に盛り上がれる雰囲気が薄まった風に感じる。

私みたいな絵を描けない奴にとっては、動画を作るときピアプロイラストは本当に有難い存在なので、クリプトンには頑張ってピアプロを盛り上げて欲しい。

2015-02-06

アイドルポストモダン

http://seana.hatenablog.com/entry/2015/02/05/230648

アイドルの曲は、アイドルが歌うことに意味があるということに気づけただけでも、ジャニーズを好きになってよかったなと改めて思います

アイドルファンのみんながみんなそうというわけじゃないよ、という話も。

そもそも「音楽とはその演者の主張である」という基準自体が、常に正しいとは限らない。

何の主張も、意思も、意見も、欲求も何もなく、音楽はただ音としてあるだけでも許されるはずだ。

それは、西洋哲学古典文脈で、「世界には何らかの真理があるはずだ」とされてきた価値観に似ているかもしれない。

これはおそらく、人間コミュニケーション手段、あるいは記録・伝達の手段の発達に関係していると言えそうだ。

音楽を伝える手段は、口伝から楽譜レコードからCDデジタルデータへと発展してきた。

一番最初は「自分たち音楽をいかに奏でるか」から始まったし、実際にそういう手段や発想しかなかったわけだが、

文明の発達によって「楽器を弾かなくても音楽が作れる」、「発表した数分後には世界中の誰でも聴くことができる」ようになり、

音楽のありようは大きく変わってきた。

音楽もまた、それがそれ自体として価値を持って存在しうる、

まりシニフィエを持たず、純粋シニフィアンとして存在しうるものに変わってきた。

音楽を奏でる上で、その主体自分の顔や外見を聴衆の前に晒し

その言葉が本人の主張であると常に解釈されなければいけない時代は終わったということだ。

人間、あるいは自己の「表現」としての「音楽」には限界がある。

なにより、自分以上の音楽を奏でることができない。

そもそも「音楽」と「自己」とは関係なく存在しあってもいいものであるはずだ。

自分たち音楽とは、自分たち表現だ」という自己規定は、そのうちに必ず自家中毒を引き起こす。

いわゆるアイドル戦国時代と言われたところから、近年のヒットチャートアイドルが占拠するようになったこの音楽のあり方は、

何も正当性がないただの「衰退」や「退廃」とは異なる、文化としての次のステップ意味を示している。

音楽」と「自己」、あるいは「音楽」と「意味」の離別は、音楽のもの純粋さをより推し進めるものともとれる。

たとえばそれは、女性キャラしか登場しなくなったアニメや、10代の若者世界を救うジュヴナイル作品とも近いもしれない。

その「音楽」をより純粋な形で届ける上で、最適な手段を探した結果、それが「アイドルだった」としても実は不思議なことではないのだ。

ポップスという大衆音楽には、その音楽性やジャンル自体制限はない。

あらゆる音楽性はポップスに含まれうるが、しかし外見や表現を含めてもそうだといえるだろうか?

ダンスミュージックディスコ、あるいはプログレハードロックメタル

これらはそのファッションスタイルと相まって存在していた音楽文化だ。

ヒップホップ音楽性には、ヒップホップファッション必要で、ヒップホップなアティチュードが求められる。

一人の人間、あるいはバンドでこの様々な音楽性の表現は一貫して行うことができるだろうか?答えは「No」だ。

なぜなら自己表現として音楽存在すると仮定した場合多種多様音楽を奏でることはそのまま分裂症的に解釈されてしまうのがオチからで、

これはつまりドゥルーズの言うリゾームの話に近づいてくる。

純粋音楽表現において、多種多様音楽をできるだけピュアな形で届けるには、アニメアイドルといった、

何の主張も持たない、時にはフィクショナルな存在の方が向いているということは起こりうるのだ。

から、私はアイドル音楽が好きだ。

彼ら、彼女たちと、そこで歌われる、奏でられる音楽は、本当の意味で結びついてはいない。

(つまり歌詞言葉どおりに彼らが考えているわけではない)

しかしながら、いや、だからこそ、その音楽純粋存在しているし、鳴っているのだ。

ともすれば、その歌詞支離滅裂意味を持たなかったとしても、

ナンセンスであるほどにその身体性、サウンドとしての純度は高まるかもしれない。

ひと昔前であれば、優れた40代50代の音楽家表現しうる音楽手法、伝える手段は、より限られたものだったろう。

今は、アニメアイドルボーカロイド…。様々な手段によって、自己の肉体や外見とは関係なく、純粋音楽表現できる時代になったのだ。

そして、リスナーとしての我々にとっても、より純粋フィクション文化として、

音楽作品に溺れることができる時代になったということも同時に意味しているというわけだ。

 
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