はてなキーワード: 自覚的とは
糞コメを大量にもらって気づいたけど、糞なコメント、非生産的で一方的な欲求を満たすだけのオナニーコメントに共通するのって、「相手を採点しようとする」行為なんだよな。
コミュニケーションは当たり前だけど採点じゃない。採点し終わった時点でそれは相手を見切った、興味がないということ。
これを自覚的にやってても嫌なやつだけど、たぶん大半の糞コメは自分が糞失礼でバカなことをやってるという自覚もなしにやってる。
採点バカに共通してるのは、コミュニケーションの不完全性と双方向性を理解してないこと。
まず、人が何かを延べるときにそこに誤りや曖昧さが含まれることは当たり前であって、それだけで発信者の瑕疵には絶対にならないということ。
次に、その誤りや曖昧さから生まれる情報の空白は、聞き手が埋めるかどうかを判断する義務と責任を有すること。
この二つが当たり前のこととして頭に入ってない上に、これをやらずに未完成に終わったコミュニケーションが非生産的で自分の価値を下げるものだという自覚がない。
まあ一言で言えば日本の教育システムの悪い影響なんだろうけど、結構な数の日本人の頭の中には、評価する方が偉い、評価する側に立てば自分の有能さを証明できるという思い込みがあるように思える。
これはもちろん完全な間違いで、評価するということを職務として与えられてない奴が、勝手に他人を自分基準で裁いても痛いだけだし何の生産性もない。
社会に役立つ有能さとは、まずコミュニケーションを双方向で成立させる努力をすること。そして、それがある程度の成果を得たら、あるいはこれ以上成果が得られないと判断したら、穏便に打ちきり、不必要に一方的な価値を押し付けないことだ。
まかり間違っても、生産的な会話に、どちらかが優位に立ち、評価し、感想を述べるなんてプロセスはない。
「この増田は○○がわかってないな」「○○について書いてない、やり直し」なんてブクマは全く賢いもののやることではない。のだけど、まあ、これだけ言ったところで、もうそういうロールプレイで遊んでる子供みたいなものでしかないのが、糞コメバカの実態な気もするので、栓ないなあ。
いま40から50代の奴らってば、ちょうど迫害を経験してから市民権を得だした世代だから
60代から上で生き残ったやつは、気合が違うのね、面構えが違うんだ
虐められたり、就職できなかったり、そういうのをオタクという枠に逃げ込むことでごまかしてたやつが多いの
それも自覚的にやってるなら救いはある、次の居場所を見つけるだけだ
でも、その自覚がなく、自分をオタクだと勘違いしちゃってるやつはキツイんだよ
そういう奴らがな
年取って、居場所として機能しなくなったオタクに愚痴りだすのよ
やれコンテンツを楽しめなくなっただの
やれジャンルに人が居なくなっただの
うるせぇんだよ
黙って消えろよ
コンテンツが楽しめないんじゃねぇよ、そのコンテンツのコミュニティに居場所を作れないからツマラナイの
もともと楽しんでたのはコンテンツじゃねぇんだよ
お前はオタクじゃなかったんだよ
単に人付き合いをしたかっただけなの
2000年代とかすげぇ多かったんだぜ、そういう奴
リスク取って起業している創業者の思想 (第二の家族で在りたい、すべての人が活躍できる場を作りたい等)を体現する事ついても咎める気はまったくないが、
ブクマカやブクマカを兼ねてそうな増田や生きづらいちゃんってほんとうにアットホームな職場が好きね
中小・ベンチャーで定型業務やらせてるだけなのに、公私混同の馴れ合いでマネージメント崩壊していて、育休が公務員並みにとれる職場が好きだよな
自分の望みには自覚的になって職選びして、その結果をちゃんと受け入れて欲しいね
身内とか、友達とか、皮肉ではなく文字通りの意味での家族的な仕事仲間とか、
俺私がボスだからお前ら祝えとかなら、産休アピプリントや自分の子どもをプリントして配るのわかるんだけど、
どーもそーじゃないみたいだからな
これも職場で怒鳴る・泣く・1対1で部下/後輩を飲みに誘うと同じラインにある話でしょうね
逆張りネタならもっとわかりやすくやってくれ。下記の一派かと思ってしまう
ブクマカ:職場で泣くのは当たり前!配慮しろ!子育て中の人のサポートをしない人は辞めて自営業しろ!媚びて早く結婚するのは無能の戦略!私は発達障害だからー
anond:20240417232852 anond:20240418114405 anond:20240418131515
そこらへんのなろう系異世界転生モノとは違う!作り込んだ世界観!媚びないキャラ!エロに頼らない!
そんなことを言ってなろう系にマウントする信者が多いけど、なろう系じゃん
・26歳童貞
・就職するが馴染めず辞める
・パーティの男たちは嫉妬対象にならないようなショタとドワーフおっさん、俺が一番かっこいい!
最初から異世界が舞台だったら異世界モノじゃない、ハイファンタジーだなんてのは欺瞞
ダンジョンでだけ死者蘇生が可能だったり魔力が高まったり、ダンジョンは明らかに地表と異なる別世界、異世界として描かれている
物語の構造として「冴えない俺→異世界で輝く」が「冴えない俺→実質異世界のダンジョンで輝く」にすり替えられてるだけ
恥ずかしいほどに主人公に都合のいい、ありふれたなろうモノだ
まあ作者は無自覚になろうをなぞったわけではなく、自覚的に寄せてるみたいだが
主人公は親なんか嫌い!人間不信!とか地元に対してヘイトつのらせてるが、巨乳美女の妹(これもなろう臭い)は普通に両親と上手くやってて文通している
すぐ毒親!とか言うタイプの被害妄想が強いなろう読者を皮肉っている
なろう読者は他責性が強く、すぐ親が悪い地元が悪い国が悪い、だから異世界転生するしかないんダァという思想だが、
そうではない者(妹)はまともにやれていて、なろう読者(主人公)が頭おかしいから親とすら上手くやれないだけなんだよね
なろうを揶揄しつつなろうのテンプレートに沿いまくりのただのなろうアニメです、これ
なろう読者が精神異常者で気持ち悪いのはもとより、「なろうなんかと違って高尚なんダァ」と持ち上げてる意識高い信者も気持ち悪い
これを繊細チンピラが多いブクマカを兼ねている増田が言っているのが恐ろしい
声を荒げるのと同じく、泣くだけでハラスメントという常識をインストールしてもろて
フツーの人はどういう時に自分が泣くかは自覚的になって防ごうとするんだわ
防げないなら対面は避けてテキストに切り替えるんだわ
つか『俺の時代は拳だって飛んできた』みたいな昭和の体育会系化石マウンターや頑固ラーメン屋オヤジ自営業者ならともかく、
繊細な生きづいちゃん・くんなのに『仕事で感情を見せるのを是』としているブクマカとブクマカを兼ねている増田が多すぎてビビり散らかしてますわ
https://anond.hatelabo.jp/20240403005644
約6億の資産がある暇空氏にとってたかだか30万の椅子とか投げ銭でしかないんですよね。年収600万が3000円の投げ銭やるのはおかしくないでしょという。
そもそも、暇空氏が借金玉を損切りしたのは別にそれほど変な話ではないよ。暇空氏の他の言動を擁護してるんじゃなくて、氏はそもそも誰かと仲良くなったり敬愛したりの「馴れ合い」をかなり避けてる気配あるよねってこと。えりぞ借金玉訴訟で中立貫いたあたりがわかりやすいでしょう。裁判でめちゃくちゃ疲弊したのとかもあって、おそらく「他人は裏切るから、自分に害が降りかかりそうなライン」にかなり自覚的な感じがある。それはそうと「自分が訴訟に負けても別に金払ってもいい」範囲の暴言は気軽にやるからややこしい。
結局、「金銭感覚が緩い」「金で解決できる問題は気にしない」「他人と基本なれあわず、人間関係はドライ」あたりのことは念頭に置いとかないと「単なる陰謀論者」くらいの認識で止まっちゃうから気をつけた方がいいよ。金は本人的にはどうでもいいし、法律に絡む話題はかなり(not100%)戦略的・自覚的で発言の取捨選択をやるし、同じ方向性を向いてる相手も別に仲間ではないんだよ。
持ってる人間と持ってない人間の関わりあいを狙って描いていそうなところに注目したい。
人間だれしも自分が特権を持っていることには無自覚で、社会を生きる上で、持ってない側からそれを直接的に指摘されることはないから、
自分が自分の環境や立ち位置を理解できる程度の観察力や内省力がないと、「ああ自分は(相対的に)恵まれている」という考えには至らないし、そこに至るまでにある程度年を重ねるものだと思う。
高校生のみつみちゃんは「まだ」自分がちゃんと愛されて育ったことと、志摩くんが愛されずに育ったこと「まで」は気付いていない。
作品内で扱われている「人間関係のポジショニングとゾーニング」についても、自覚的な側と、無自覚的な側、愛されている側と、愛されてもいない側、かなり繊細な部分まで、スキップとローファーはキャラクターの演出をしている。
氏家くんの脆さと強さ、八坂さんの愛着への強かさと諦め、志摩くんの自己のなさ、みつみちゃんの自信ぶり。
作中では、稠密な人物の内面描写やキャラクターを掘り下げる描写こそないけれど、彼らの言動を恐ろしくリアリスティックに感じるのは、人間が相互に作用することで起きる「トラブル」を上手に躱していることにあるかと思う。
“グループで過ごす時間と不協和音スレスレのスクールライフ・コメディ”を謳っているだけあって、やっぱり、かなりとげとげしい描写もある作品なのに、大部分が牧歌的な空気を持っているのは作者の技量だと思う。
スキップとローファーが学園青春群像劇としての価値をもっているのは、それぞれの人物の属性振りやキャラクター性に無理がないからだと感じる。
田舎と都会、陰キャと陽キャ、一軍と日陰者、現実では水と油のように混ざらない関係だと決めつけているのは「ああ、自分自身じゃないか」といえるくらい、みつみちゃんは水と油をなじませる乳化剤としての機能をもっているし、こうあってもいいなと感じるまっすぐさは物語の中だけでなくてもいいじゃないかと思える。
そのみつみちゃんに、わざとらしくなく「あなたはでも、愛された経験をもっていますね」っていえる八坂さん、今後、彼女が物語を大きく動かす役割をもつ可能性は高いか。
このストーリーは愛されて育ったみつみちゃんと、愛されずに人の顔色をうかがって生きてきた志摩くんをどう解決するかになっていくかというとこに落ち着くのか、正しさに生きるみつみちゃんを掘り下げるのか気になる。
恋愛漫画というフォーマットだと、主人公+未来のパートナーのために舞台装置や出来事が用意されていて、寄り道は誌面のためのフック、引きでの巧さとしてみてしまうけれど、
ここまで群像劇の色味が強いと、寄り道の寄せ集めこそが本題という印象になってきて、今後のストーリーがどうなっていくのか楽しみ。
本当はもっと掘り下げたり、メタな視点からの感想を書きたい気もするけれど、ちょっと一気読みをするとキャラクターの名前を憶えられないので、あの子があの子に対していった「少しのホントウ」をたくさんあつめたような作品でそういうがっつりした考察はしたくないな。
需要があるから、「らしく振舞う」とか、自我が強いから周りに合わせないとか、社会に対して協調性がありすぎることも、協調性がなさすぎることも、結構うんざりすることだと感じるけれど。
「自分には価値や自己肯定感がないから……自分を肯定してくれる、承認してくれるあの子が好きなんだ」という解決にも、素直に納得できず「結局最低限、自己愛や社会的な地盤という下地が必要だよね」という皮肉を放つ八坂さんに共感してしまう。
スキップとローファーではそもそも都内の進学校に通える学力があって、経済的な問題に直面している子が出てきていないことも、この愛着(attachment)への問題を抱える青年という描写の分は物足りなく感じる面があるなと感じてしまう。
志摩くんがそういう意味で、単に幼稚・稚拙、初々しいという印象になってしまうのも、自分の中では頷ける。でも、やさぐれた感じとか、荒んだ感じを出したいキャラクターとしては彼は恵まれすぎている。
スキップとローファーに感じる物足りなさは結局、それなりの予後や可能性をもっているんだから。そんなに悩んでも君たちが最底辺の世界とは無縁だよね。という強がりの業か。
アフタヌーン掲載漫画は結構心理の描写にも力をいれているように感じて、かなり好きなんだけれど。美大生とか高校生とかだと結局、上澄みの世界側だよね……って言いたくなってしまうらしい。
持ってる人間と持ってない人間の関わりあいを狙って描いていそうなところに注目したい。
人間だれしも自分が特権を持っていることには無自覚で、社会を生きる上で、持ってない側からそれを直接的に指摘されることはないから、
自分が自分の環境や立ち位置を理解できる程度の観察力や内省力がないと、「ああ自分は(相対的に)恵まれている」という考えには至らないし、そこに至るまでにある程度年を重ねるものだと思う。
高校生のみつみちゃんは「まだ」自分がちゃんと愛されて育ったことと、志摩くんが愛されずに育ったこと「まで」は気付いていない。
作品内で扱われている「人間関係のポジショニングとゾーニング」についても、自覚的な側と、無自覚的な側、愛されている側と、愛されてもいない側、かなり繊細な部分まで、スキップとローファーはキャラクターの演出をしている。
氏家くんの脆さと強さ、八坂さんの愛着への強かさと諦め、志摩くんの自己のなさ、みつみちゃんの自信ぶり。
作中では、稠密な人物の内面描写やキャラクターを掘り下げる描写こそないけれど、彼らの言動を恐ろしくリアリスティックに感じるのは、人間が相互に作用することで起きる「トラブル」を上手に躱していることにあるかと思う。
“グループで過ごす時間と不協和音スレスレのスクールライフ・コメディ”を謳っているだけあって、やっぱり、かなりとげとげしい描写もある作品なのに、大部分が牧歌的な空気を持っているのは作者の技量だと思う。
スキップとローファーが学園青春群像劇としての価値をもっているのは、それぞれの人物の属性振りやキャラクター性に無理がないからだと感じる。
田舎と都会、陰キャと陽キャ、一軍と日陰者、現実では水と油のように混ざらない関係だと決めつけているのは「ああ、自分自身じゃないか」といえるくらい、みつみちゃんは水と油をなじませる乳化剤としての機能をもっているし、こうあってもいいなと感じるまっすぐさは物語の中だけでなくてもいいじゃないかと思える。
そのみつみちゃんに、わざとらしくなく「あなたはでも、愛された経験をもっていますね」っていえる八坂さん、今後、彼女が物語を大きく動かす役割をもつ可能性は高いか。
このストーリーは愛されて育ったみつみちゃんと、愛されずに人の顔色をうかがって生きてきた志摩くんをどう解決するかになっていくかというとこに落ち着くのか、正しさに生きるみつみちゃんを掘り下げるのか気になる。
恋愛漫画というフォーマットだと、主人公+未来のパートナーのために舞台装置や出来事が用意されていて、寄り道は誌面のためのフック、引きでの巧さとしてみてしまうけれど、
ここまで群像劇の色味が強いと、寄り道の寄せ集めこそが本題という印象になってきて、今後のストーリーがどうなっていくのか楽しみ。
本当はもっと掘り下げたり、メタな視点からの感想を書きたい気もするけれど、ちょっと一気読みをするとキャラクターの名前を憶えられないので、あの子があの子に対していった「少しのホントウ」をたくさんあつめたような作品でそういうがっつりした考察はしたくないな。
需要があるから、「らしく振舞う」とか、自我が強いから周りに合わせないとか、社会に対して協調性がありすぎることも、協調性がなさすぎることも、結構うんざりすることだと感じるけれど。
「自分には価値や自己肯定感がないから……自分を肯定してくれる、承認してくれるあの子が好きなんだ」という解決にも、素直に納得できず「結局最低限、自己愛や社会的な地盤という下地が必要だよね」という皮肉を放つ八坂さんに共感してしまう。
スキップとローファーではそもそも都内の進学校に通える学力があって、経済的な問題に直面している子が出てきていないことも、この愛着(attachment)への問題を抱える青年という描写の分は物足りなく感じる面があるなと感じてしまう。
志摩くんがそういう意味で、単に幼稚・稚拙、初々しいという印象になってしまうのも、自分の中では頷ける。でも、やさぐれた感じとか、荒んだ感じを出したいキャラクターとしては彼は恵まれすぎている。
スキップとローファーに感じる物足りなさは結局、それなりの予後や可能性をもっているんだから。そんなに悩んでも君たちが最底辺の世界とは無縁だよね。という強がりの業か。
アフタヌーン掲載漫画は結構心理の描写にも力をいれているように感じて、かなり好きなんだけれど。美大生とか高校生とかだと結局、上澄みの世界側だよね……って言いたくなってしまうらしい。
もう受験生でもない自分が高校レベルの参考書や問題集をいつまでも解いたりするべきなのか分かりません。
解いたりするべきだと思う以下の持論を持っているのですが、この持論が正しいかどうか全く確信が持てません。
以下から持論です。
まず、高校で習うことを理解していなければ、大学以降のより専門的なことが理解できないことがあるというのは確かだと思います。
だから私を含めそういう専門的なことを理解したい人は、高校レベルのことの穴を埋めるべきだと思います。
それをせずに大学レベルのことの学習に手を付けても理解できることがある可能性はありますが、その理解したという感じに錯覚の場合が混ざるおそれがでてくると思います。
つまり理解してないのに知った気になる、いわば「何がわからないかわからない」状態に陥る可能性が出てくると思うのです。
そのうえで、そのような大学レベルのことを理解していないと理解できない、より高度な理論を学ぼうとすると、今度はわからないという自覚はあるが「なんでわからないのかわからない」という状態に陥ることになります。
つまりその高度な理論を理解するのに必要なそれに比べれば相対的に基礎的な理論や概念は複数あることも当然考えられ、そのどれを理解してないのかがわからない、特定できない、ということが考えられるわけです。
理解しなければならないこととしては当然高校レベルの部分に穴がある可能性もあるでしょう。
しかし学ぼうとするものを見ても、その理論等の全容を見て、具体的にどんな知識が必要か余すことなく把握することは意外に難しいでしょう。
単に用語の意味を知らないといったことなら、その用語をネット検索で、その用語を使っている理論のなかでもっとも基礎的なものが何かということを目星をつけて、そこから学ぶという方法がとれるでしょう。
しかし学術的文章が理解できない原因は必ずしも「単にこの言葉がわからないから」というような、わかりやすい輪郭を持ったものに由来しているとは限らないと思うわけです。
大学レベルの参考書(学術書)や論文を書く人は受験競争を経験した人なわけですが、受験勉強で得た「考え方のひな型」のようなものが、少なからずその後の思考やそれに基づく文章に影響を与えていると私は考えます。
それはもはや自覚的に認識できるものではない、無意識下にある思考の体系であるわけです。
その「枠組み」を共有していない人にとっては、より言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずに、その部分の言語化をせずに文章を書いている部分があると思います。
特に幾何学が絡む記述は、センス=ひな型・枠組みを持つ著者自身には空気のように当たり前のことであるために記述がシンプルになってる説明に対して、枠組みの無い人にはなんでそうなるのということがまるでわからないということが起こり得ます。
それは著者すれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えないほど逆に理解しがたいことです。
これは大学と高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いかもしれませんが、たとえば高校物理である部分の角度と別の部分の角度が同じという事実から式を導出することにおいて、なぜ角度が同じといえるかということの説明まではされてないみたいなことがあります。
これは、角度のことについてなら、中学受験の算数の難問を数多く解いてきたりその答に対する解説を見た経験が、まさに有機的に思考の枠組みとして血肉化した書き手自身には、条件反射的に当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明がないとわからない、という枠組みの有無による断絶ともいうべきことが生じているのだと考えられます。
しかし書き手にはすべての読者のレベルに対応することは不可能ですし、そもそも「枠組み」がある当人には1+1=2のレベルで当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことが起こると思うわけです。
そしてこの枠組みは「枠組みが足りてないから理解できないのではないか」という必要性の認識に応じて選択的に必要十分なものを特定して身に着けられる、という性質のものでないわけです。
上記は高校とそれ以下のレベルでの話ですが、大学とそれ以下のレベルという場合でも同じ構造的問題を共有していると思います。
因数分解や極限値を求めるための式変形の定石や、その他証明問題などに対して定石と呼べるような解法から定石ではない解法まで、その問題をこなしてきた人たちにとってはその経験が枠組み化しています。
なのでその人たち自身が見てきた高校レベルの参考書では途中過程として式変形など書かれていたものが、当人が研究者になって書く大学レベルの本ではその本人の主観的に自明性が強すぎてその途中過程を書くような発想すら存在しないわけです。
ですから、大学レベルの本を理解するには、およそ考えられるかぎりのあらゆる高校レベル以下の問題を解いて理解することを片っ端から行いその経験を積んで枠組みとする必要があると思うのです。
でなければ結局「何がわからないかわからない」「なんでわからないかわからない」という状況に陥ると思うわけです。
予備校講師の数学のアドバイスで「数3は数1Aと数2Bの知識がなければ理解できないというが、だからといって数1A・数2Bを完璧してから数3に取り掛かる必要はない。完璧は難しいのだから同時並行でよい」という趣旨のことを書いていたのを見たことがありますが、まずこれは受験勉強に関してのアドバイスであるということに注意するべきだと思います。
つまり点を取るためなら、完璧でない理解でも、ふわっとした理解でもパターンとそれへのあてはめとして、問題は解けてしまうということは十分考えられるからです。人口無能、あるいは中国語の部屋のようなものかもしれません。
一方で学問として理解するということにおいては、厳密に完璧に理解していなければ、ただの知ったかで、それは全く理解してないのと同じ価値しかないのではと思うわけです。まさに論理として理解しているのではなく「受験で点が取れる感覚」でパターン認識としてわかった気になっているだけだと思うからです。
また、大学以降のより専門的なことが理解できれば、高校で習うことはすべて理解できる、というわけでもないと思います。
先ほどの高校物理の例にあるように、高校レベルのことが当たり前になってる人が書いた大学レベルの文章には、高校レベルのことは書いてないことがあるわけです。
そして、どの大学レベルの理論を学ぼうとするかによっては、自分の持つ枠組みで十分にその理論が理解できるということはありえます。ありとあらゆる高校レベルの枠組みを網羅している必要はないわけです。
なので、大学レベルのことは理解してるが、その大学レベルの文章に高校レベルのことは書いてないかもしれないので、その後大学レベルのことにしか触れなかった場合、高校レベルだけど初見だと解けない問題が死ぬまで解けないままであるということが起こり得ると思うわけです。
たかが高校レベルだから、初歩的なんだから受験生じゃなくなっても真面目にとりくむほどではないと思うかもしれません。
しかしそのように単なる初歩的なこととされるかは、意義深いこととされるかは、時代次第の相対的なことではないでしょうか。
2000年以上前ならピタゴラスの定理を理解することも十分意義深いことだったでしょう。
時代が進むことによって、より高度な定理や理論が発見され、既存の定理はそれを理解するためのより初歩的なことと規定し直されるというだけです。
このような文脈での主語はあくまで「人類」です。言い換えれば、人類のうち誰かひとりでも知っていたり理解していたりするようなことを全て知っているような、仮想的な知性にとっての意味付けだと言えると思います。なかば無意識的にこのような仮想的な知性と自分を主語のうえで同化させてこのような「初歩的/意義深い」という価値判断をくだしているにすぎないのではないでしょうか。
あるいは「文明」を擬人化して主語においているとも言えるかもしれません。「文明」にとって、容易に理解できる初歩的なことかどうかということです。
一方実際に世界を経験する主体の単位は「個人」であり、わたしであり、あなたです。
ある時代にとって意義深いけれど今は初歩的なことを理解してない個人がいるならば、人類や文明が主語である場合、それが最先端の知識=未知であるか、または既知となって間もないか、で意義深いかどうかの価値が規定されていたのですから、個人を主語にした場合も同様に考えればよいのではないでしょうか。
つまりその個人が理解してないのなら、それはその個人にとって意義深いことなのだと思うのです。
大学レベルとか高校レベルとか関係なく、「自分が知らないという意味で意義深い」解ける問題を増やしていくことは、この世界や現象に対する理解の解像度をあげると思うのです。
だから大学レベルのことには書いてない高校レベルの問題の解法も赤本や難関大を意図した参考書には無数にあるので、それを解き続けることには、それを飛ばして大学のことを学び始めることを通じては経験できない意義深さがあると思うのです。
まとめれば、高校レベルのことが足りないために大学レベルのことが理解できないこともあれば、大学レベルのことでは身に着けられない高校レベルのこともあるので、結局この世の中をよりよく理解する手段として高校レベルのことも大学レベルのことも等しく有効なら、まずは高校レベルのことを完璧にしなければならないのではないか、と思うわけです。
ここまでが持論の全容です。ですが世の中の成果をあげている科学者の全てがこのようなことをしているとは到底思えないので、自分の考えが合っているなどという確信は全く持てないわけです。
なので、ぜひ、反論できるところがあったら教えてください。
このトラバには異論はない。そこで最後に追加で言っておきたいことを書いて終わりにする。
大学レベルの参考書(学術書)や論文を書く人も所詮は受験競争を経験した人で、受験勉強で得た知識が少なからずその後の思考の枠組みに影響を与えていると思うんだよね。
それで「枠組み」なんてものはなかなか自覚的に認識できるものじゃないから、その枠組みを共有していない人にとってはより言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずにそういう言語化をはしょって文章を書いている部分があると思う。
特に幾何学に関する記述は、本人のセンスにとっては空気のように当たり前のことでその説明がシンプルであったりしても、なんでそうなるのってことが枠組みの無い人にはわからない。ある人からすれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えない。
これは大学と高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いのだが、たとえば高校物理である角度と別の角度が同じという事実から式を導出するのに、なぜ角度が同じかという説明まではされてないみたいなことがある。
これは中学までの数学を身に着けた人にとっては当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明が必要。
しかし書き手はすべての読者のレベルに対応することは不可能だし、「枠組み」さえあれば当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことがある。
こういうことはは中学受験レベルの算数から差がはじまっていて、ああいうのが解けるような学力をセンスとしてあるいは勉強したことで枠組みとして身についてる人と、そうでない人とでは、同じ文章では伝わらない程度の断絶ができていると思う。
自分には大学レベルの本を理解する素地が足りているのか、と思うから、彼らが通っているはずの受験勉強から得た枠組みと同じものを自分にも構築すべく、高校レベルのことを勉強しなきゃという強迫観念がなくならない。学術書や論文の書き手も当然すべてのレベルの読者には対応してないし、かりに対応しようとしても「枠組み」は「空気」のようなものだから、枠組みを持たない人間を無自覚に想定読者として排除してしまうだろうから。
優柔不断という言葉の一番最初の文字が「優しい」だって気づくのに人生全部使ってまだ足りてない奴がおるとはなあ……
優柔不断ってのは、「優しく柔らかく断ずることなく」って意味の言葉だからな?
「優しい。柔らかい。BUT 断ずる事ができない」じゃないから。
「優しい つまり 柔らかい つまり 断じることがない」だから。
「優しさ」ってのは「断定しない」ってことなんだよ。
逆に考えてみ?
なんでもかんでも「俺はこう思う!だからお前もそうあるべきだ!」と言ってる人は優しい人か?
違うやろ?
優しくなさの塊やろ?
「俺は違うと思うが、コイツがこう考えるなら、そういう考え方もあるんだろうな」って考えられる人が優しい人なんだよ。
つまりな、「自分の想像力や理解力の限界に自覚的であり、あらゆる可能性が存在することを最後まで捨てない人」が「優しい人」なんだよ。
優しい人はこっちが無理を言っても「なるほど……コイツにも考えや都合があるのだろう……今回は飲んでやるか……」と手を貸してくれる。
そういう態度に甘えていくうちにいつからか「俺に都合よく動いてくれる人」≒「優しい人」みたいに考えてしまうのが日本語力赤点かつサイコパスのクソ野郎。
優しい人が大きな決断を後回しにしがちなのは、自分の想像力の限界を知っているがゆえに、行動をする前にリスクの判断を限界までやろうとしてるから。
物腰が柔らかい人がなぜ柔らかな対応をしているかと言えば、想像力のない人間が抱きがちな「俺はマジで素晴らしい人間だから、みんな俺の言うとおりであるべきだし、俺に対して敬意を払うべき」という傲慢さがないから。
優しさとは、柔らかさとは、自分の判断力を疑うという行動方針によって生み出される態度なのだよ。
分かったかね?
ドグマチールと、ジアゼパムと、デエビゴが処方された。診察はwebから事前に問診票も書いていたせいもあってか、15分程度。ウチの病院の初診はもう少し丁寧だぞ……と思った。
でも、話そうとすると声がかすれた。
端的にいうと、20年近く勤めている病院で看護部長と上手くいかず、メンタルがやられて眠れなくなった。バッチリ、適応障害にあてはまる。
それもさ、精神科認定看護師と精神看護専門看護師なんて大層な名前のする資格も持っていたりする。
何が認定だ。どこが専門だ。
今になると、どこか恥ずかしい感じすらする。
この反応もあるいは症状なのだろうかと思う。
とくに、ここ最近は、動悸(心拍が上がるというよりは心音に自覚的になってしまい、苦しくなる)、呼吸苦、声が出なくなるような感覚、不眠や中途覚醒、早朝覚醒、強い不安感などが出現している。
注意力や集中力の低下も顕著に感じる。自宅でも仕事についてのことで不安で頭がいっぱいな状況であり、気持ちが休まらないことが数ヶ月に渡って継続している。
特に夜に帰宅する際、1人で直線の長い道路を運転していると、ふと「車が追突してくれたらいいのに」「ガードレールに突っ込んだらどうなるだろう」という考えが浮かび、自分の考えに恐怖し、慌てて否定することもあった。
毎日、行き詰まり感、やるせなさ、無力感、情けなさ、恥ずかしさなど様々な感情が渦巻き、頭がいっぱいである。
恥ずかしながら、イライラや落ち込みも増え、職場でも他のスタッフに不快感を与えるようなコミュニケーションをとっているのでないかと感じている。
そんな僕だけど、自分自身で向精神薬を飲むのは初めてだ。「処方された薬はキチンと飲みましょう」と患者さんに言い続けてきた僕ですが、余分な知識があるせいか、服用することに変な期待と地味な恐怖感がある。
あと休職もすすめられたが断った。
会社での自分の立場がさらに悪くなると思ったからだ。しかし、これも典型的な反応だ。
ひとまず、元気になる胃薬を飲もう。
皆様もご安全に。
この辺、ブクマカの奴らがどこまで自覚的かあやしいから、一応、強調しておくわ。
もちろん、「自分にとって役に立っていない」という実感から出発して、(なんらかの理論的な接合点を提示して)「世の中の大半の人にとっても役に立っていない」という立論をすること自体が無理筋なわけではない。
しかし、三角関数をめぐる議論と同様、「社会システムの維持・運用・改善において、どのような役割を果たしているか」を充分に理解して初めて、それを主張する権利があるんじゃないのか、と思う。
言うまでもなく三角関数の社会的な実利の最たるものは、工学の分野における設計・計算・分析、さらにはその背景にある数学的思考法そのものへの貢献だよな?
じゃあ、漢文は?
これに対する答えが全く思いつかない奴は「能力不足により学習成果を碌に得られなかったせいで、勉強に意味がないと思っている馬鹿」だから、発言資格なしな。
【参考】
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/m-dojo.hatenadiary.com/entry/2024/03/01/033138
最近なんかブクマカの傾向が変わって、自分の頭で考えることが苦手で権威に弱い奴が増えているから、わかりやすいように、まず権威を引っ張ってきてやるな。
日本の文学は漢字に非ずや、日本の文学は漢文崩しに非ずや、漢字を用ゆるの法を解せずして、能く文を作ることを得んや、真に文に長ぜんとする者、多く漢文を読まざる可らず
まあ、僕が言いたいことは中江兆民が全部言ってくれているなって感じなんだけど、自論として敷衍すると、主に以下のことを主張したい。
(1)現代社会において(おそらく歴史的にも)、最重視されているのは言語コミュニケーションであり、非言語コミュニケーションは補助的役割しか果たしていない。
(2)よって、社会全体の「言語運用能力」の水準維持・向上は、優先順位が著しく高い。
(3)日本社会においては現代日本語の運用能力が重要であるが、現代日本語は突然変異的に現れたものではなく、漢文や古文といった歴史的蓄積を基盤として成り立っている。
(4)したがって、義務教育において漢文の語彙・修辞を学習することは、多くの人が現代日本語における表現技法に長じることに繋がり、より豊かな自己表現・他者理解の実現という形で、社会全体の福利に資するものである。
(1)と(2)は、まあ大体の人が同意してくれるかと思うけど、一応補足すると、たとえば、「勉強ができない小学生はまず国語ができていない」っていうのはよく指摘されているよな?
なんでって、そりゃ「学習は言語による伝達が前提とされているから」だよな。
これは歴史的に過去の蓄積の継承には言語が最も重要な手段だったからだよね。だって、対面なら非言語的な手法もある程度役に立つけど、時間的・距離的制約からして対面による伝達のみに頼るのは非効率すぎるよね。
今となっては、動画や音声を記録してそれを広く伝播させることも可能にはなったけれど、それだって結局かなりの部分を言語に依存しているよね。
世界中を探せば、たとえば言語ではなく音楽を用いたコミュニケーションを重視する民族が存在するかもしれないけど、そういった方法論は全くヘゲモニーを握っていないよね?
「画像」を共有するインスタ、「動画」を共有するTikTok、それぞれそれなりに流行ったけど、これらがSNSの最大勢力か?違うよね、ここでも「言語」を共有するコミュニケーションツールが最大勢力よね。
したがって、「言語」の問題は、他の「音楽」とか「美術」とかと同列に語ることはできない。
個々の認知・思考への影響もあるけれども、それ以上に社会全体の問題として、人類の発展を支えてきた知恵・知識の継承、認識の共有による社会形成といった点において、「言語」こそが最優先と言ってもいい。
で、どっちかっていうと、(3)や(4)の方が意見の分かれるところだよね。
この辺は実感がない人が一定数いても仕方がないかなとも思うので、いくつか具体例を挙げていく。
たとえば、語彙のレベルでは「五十歩百歩」とか「鼎の軽重を問う」とかになる訳だけど、もう少し広く文章表現にも関係している。
冒頭で書いた「教養なき輩に教養が何たるかを語ることができようか」は【反語】という表現技法で、これ漢文由来です。(もちろん英語にも反語的な表現はあるけど、日本語の文章表現の由来は漢文の方。)
「すべからく~だ」の誤用がちょくちょく話題になるけど、これ【返読文字】という漢文の読み下し技法を由来とする表現だね。(漢文的には「須らく~べし」)
あと、よくあるのは、【対句】かな。「Aはα、Bはβ」みたいなやつ。
杜甫の『春望』の「感時花濺涙 恨別鳥驚心」(時に感じて 花にも涙を濺ぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす)が典型例。
項羽の『垓下の歌』の抜山蓋世、正確には「力抜山兮気蓋世」(力山を抜き 気世を覆う)も有名だけど、厳密には対句とはちょっと違うのかな。
それと、結構重要な影響を及ぼしているのが、「同じようなことを複数回表現したいときに、できる限り同じ言葉を使わない」というルール。
冒頭で僕が書いた「能力不足により学習成果を碌に得られなかったせいで、勉強に意味がないと思っている」っていう文章だけど、これ「勉強が苦手だったせいで、勉強による成果が得られなかったせいで、勉強に意味がないと思っている」という表現だったら、どう?
なんだか頭悪そうに見えるし、その点を置いておいても、同じ単語が出てくるせいで目が滑ってあんまり頭に入ってこなくない?
要するに、見栄えが悪いという美学の問題でもあるんだけど、読みやすさや読み手に浮かぶイメージの豊かさの観点から、できる限り、別の語彙で(=表現を吟味し、言葉を尽くして)語るのが良い文章ということだし、これは漢文から大いに技法を学べるところなの。
文化的影響の側面を言い出したら、たとえば井伏鱒二の「さよならだけが人生だ」とかかなり色々あるけど、実利の話としては脱線かもしれないし、そこはまあいいや。
とりあえず、ざっとした話としては、「漢文は現代日本語の語彙・表現・リズムに大きく貢献しているし、それは無意識のうちに現代日本語話者に多大な影響を及ぼしている」とだけ理解してくれればいい。
漢文を学ぶことは現代日本語を学ぶことであり、これ抜きに豊かな文章表現はできない。
できるっていうんなら、実例を持ってきやがれ、ってんだ。
(実際、本当にそういうものがあるのなら、日本語の新たな可能性だから、見てみたいと思う。)
優先度が低い
こっちは優先度が高いと思っていて、その理由を「言語の重要性」と「日本語における漢文の重要性」としてるので、「優先度が低い」とだけ主張しても平行線なのよ。
どちらかの点を否定する論拠がほしい。
現代数学だって当然に突然変異ではなく歴史的蓄積を基盤として成り立つものであるが、数学能力を育むためにユークリッドの原論から始めようという奴はおらぬ。
一理ある。
ただ、問題は、現代日本語の「修辞学」を学ぶ方法がほとんどなく、事実上、漢文がそれを補っている、っていうことなのよ。
断片的な読解テクニックは教えてもらえても、まともに「修辞学」を習えた覚えがない。それを言うなら漢文だって充分ではないけど、有用度は漢文の方がかなり高いと思う。
まあ、しょせん僕の経験でしかないので、ある程度多くの人の共通体験として、「現代文の授業のおかけでこれが身に着いたよね」というのが明確になれば、議論も落ち着くのかもしれない。
そうだっけか。
僕は中一で漢文、中三で三角関数を習ったけど、私立の中高一貫だったので、カリキュラムがいびつだったからなのかも。
もしかして、普通の公立の中学・高校の学校教育のことわかってないかもしらんね。
なるほど、2022年から「論理国語」という科目が増えたんだね。ものを知らずに思い込みで主張して申し訳ない。
https://www.taishukan.co.jp/kokugo/product/?type=textbook&id=63
カリキュラムを見ると、「定義」「具体的/抽象的」「立場・対比・対立・仮説」「統計・分析・分類」等に重点を置いているみたいで良さそうだね。
これを必修化してはどうか、というのはよくわかる。
ギターのバレーコードとかスケボーのオーリーとかトランペットの音を出すのだとか、初手でデカい壁のある趣味は逆にそこさえ越えてしまえば自信がついて三日坊主になりずらい。
と思いきやそこから先にも上達の壁はいくらでもあるし、飽き性のおれはそこを超えたら慢心して最初の向上心が遥か彼方へ行ってしまった。
何やったって最初は誰でもメキメキ上達するし、その楽しさに乗じてそこそこの所まではいける。それでもやっぱりどこかで頭打ちになってきて、よほどの関心や情熱がなければしんどくなってくる。楽しくない練習でも地道に続けないと成長が止まってしまう。楽しめるといいよナ…その少しずつの歩みを……
でも実際のところは惰性で続けるばっかりで、成長もせず足踏みばかりのもどかしさに負けて、楽しさも失せて投げてしまう。
こういう中級者、上級者の壁ってどんな趣味にもあるような気がする。型通りの事はそれなりに出来るけど、自分のやりたい事を自由に出来るほどのレベルではないもどかしい期間。ここを超えて、頭の中でこういう動きをしたい、こういう表現をしたいって思った事を正確に取り出せたらどれだけ楽しいだろうか。
色んな趣味に手を出しては最初の初期衝動的な楽しさばかりを食い漁ってまたよそへ行くおれみたいな飽き性、器用貧乏タイプはまあ世の中ゴロゴロいるんだろうなって思う。逆にそういう所でストイックになれる人間ってどれくらいいるんだろうなって思う。
世の中の人間は自覚的にでも無自覚でもちゃんと自分の興味に食らいついて生きているのか。おれみたいに惰性で生きてウジウジしているのか。そういう事を考えて自覚することすらなく漫然と生きているのか。
おれも人生で一回くらいは上級者の壁を越える感覚を味わってみたいぜ。好きな曲聴いて脳内エアギターを掻き鳴らすのも割と楽しいけど、やっぱ五感で味わいたい。なので半音下げチューニングが億劫で手を出していなかった群青日和を練習し始めた。目標目指して弾いてるとやっぱ楽しい。