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はてなキーワード: 芸術作品とは

2017-09-18

anond:20170918034231

確かに、言われる通りピカソビートルズ過去オリジナルの上塗りだと思う。

ただ、悲しいがなそれらは時代が進むにつれてオリジナルからコピーへと進化し続けるしかない。

現代技術発達に伴いもうオリジナルがどうとか盗作がどうとかい時代ではない。

過去トリスタン・ツァラが唱えたダダイズムからまれた、デュシャンレディメイドにしても既製品という概念オリジナルと捉え、それを開き直って芸術しか呼んだ。創造概念として独り歩きし始めたのだろう。ましてや写真映画は複製芸術という言葉通りオリジナル芸術作品なんてものは、今の現代はほぼ存在しない。ご存知の通りそれらを皮肉ってアプロプリエーションという表現もある。

オリジナルが正しいという概念を捨て、オリジナル過去の作者の人生観経験普遍的観察を植え付けて概念を形や文章にして創り上げていくことが現代創造である個人的には考える。


コピーすらも創造だと思う、自分も親のコピーもの

2017-09-09

アート無罪という言葉があるなら同人無罪という言葉もあってよいのでは

他人著作物を利用した芸術作品と、他人著作物を利用した同人作品

やってることは同じなのに、前者だけがアート無罪揶揄されるのはおかしいだろう。

2017-08-08

https://anond.hatelabo.jp/20170808002312

こういうのは悪魔の証明はいわない

不可能なことを求められているわけではない

ただ、芸術作品フィクション)をどう解釈するか、その解釈説得力あるかないか問題

2017-08-07

https://anond.hatelabo.jp/20170807221614

否定されてることを理解できないんだよ、あんたが。

包丁機能芸術作品を同一レベルで語る意味のなさに気づけよ。

包丁の例えがまだ有効だとでも思ってるのかよ。

2017-08-04

https://anond.hatelabo.jp/20170804181318

フルタイム程度じゃそんな稼げないよ。

マジで何を想定してるんだ。

手に職ってライン工とかの話してんのか?

優秀な土方ならまだそこまで狙えるけど女で土方で育児日本存在するのか?

オンリーワン芸術作品とかだと修業期間でアホみたいに無給時間あるし、

特殊技工士とかだとまずセンスと才能を問われるから才能ないと選択にすらはいらない。

俺を使って何か答えを出したいんだろうけど、

お前の想定してる最適解は恐らくこの世に存在しないと思うぞ。残念ながら。

2017-07-12

目黒駅加藤綾子アナを見かけたことがある

ついさっき面接スカートをたくし上げてしまったという彼女エピソードが流れてきたので書いてみる。

あれはまだ自分社会人デビューしたての頃で、まだ彼女が目覚ましに出はじめて間もないころだと思う。

その女性加藤綾子だということを知ったのは見かけたあとの話だ。

慣れない外回り疲れた午後、目黒駅山手線を待っているときに扉3つ分くらい向こうの並ぶ場所スタイルが良くてきれいな女性が立ってた。

明らかに他とは違うオーラが出てて、理由もわからずに突然ドキドキしてしまったことを記憶している。

電車が来てしまったので最後に目に焼き付けようと思って眺めていると、急にこちらに向き直ったので目を逸らすのが遅れてしまった。

いつもなら睨まれるかすぐにつんと向き直ってしまうのだけど、彼女は違った。

はにかんだ笑顔で髪の毛を耳にかけながら軽く首をかしげるような仕草を見せたのだ。

当然こんな美人に知り合いがいれば覚えていない訳がない。

その仕草があまりにも美しくて、状況が理解できないまま電車に向き直ってそのまま乗り込んでしまった。

もちろんその日は仕事なんて全く手につかなかった。

得したような狐につままれたような、それが本当に現実だったのかも怪しい気がしてくるほどだった。

彼女は誰で、どうしてそんな笑顔を僕に返してくれたのだろう。

その疑問は翌朝すぐに解決した。昨日の美女が、朝の情報番組で初々しくも一生懸命キャスターを務めていたのだ。

人間まりにも驚くと口の中のものを吹き出すのだということを、人生ではじめて知ることとなった。

すでにメインキャスターになっていたにも関わらず1ファンを大切にしようと笑顔を返してくれた彼女を思えば、あのエピソードが打算や計算ではない彼女の素直さがそうさせてしまったのだろうことは想像に難くない。

あの時の彼女芸術作品のような美しい姿は、一生洗わないと決めた液晶テレビの画面に張り付く米粒を見るたびに昨日のことのように思い出すことができる。

2017-06-28

https://anond.hatelabo.jp/20170628160742

そんな簡単な話じゃなかろうし、過去の経緯から見ても、どのみち誰かの配下になるなら日本より中国を選ぶんじゃね。

高句麗エリア(現北朝鮮に近い範囲)と、旧新羅百済エリア(現韓国に近い範囲)でも、かなりメンタリティ民族意識に差があると読んだことがある。芸術作品とか見ても高麗李朝とかかなり性質が異なるしね。日本で言う関東関西よりも全然差が大きいんだなと感じた。

隣国歴史も掘ってみると面白いもんだよ。

2017-06-01

漫画アニメパクリとか独創性がないと言って叩いてる人って何なんだろう

商業作品ってのは工業製品と同様に、需要に答えるというのがその役割なわけで、

もとより似たようなものを大量に制作することにその意義があると言っていいだろう。

独創性オリジナリティを重視する価値観を持っているなら、

絵画彫刻のような芸術作品趣味にすればいいのに、何故そうしないんだろう?

2017-05-25

https://togetter.com/li/1111579

せっかく海外の正しい人の努力問題提起になってる素晴らしい芸術作品見世物じゃないとかトンチンカン文句つけたりあまつさえショウゾウケンガーとか言い出す始末。

どこまでアベの奴隷化が進んでるのこの国の豚どもって。コメント日本スゴイ教にあふれてて、ほんとネトウヨの主張する謙虚(笑)国民性とかなんなんでしょうねえ?w

2017-02-28

ラ・ラ・ランド (ネタバレあり感想)

良い映画だった。

しかし、大絶賛している人ら程のめり込むことはできず。

ラスト妄想シーンの良さ以外は平凡な作品と感じた。

でもサントラ聴き込んで、また見るときっと楽しいんだろうな。

アカデミー賞残念でした ね。(芸術作品を賞にするなんて下らない)

2017-02-11

http://anond.hatelabo.jp/20170211082444

男性にとって、女性のカラダは女性が思っている以上に遥かに美しく尊い芸術作品なんだ。

いずれ老いて失われてゆくと思えばこそ、写真に撮って残しておきたいと思うのは自然感情

昔は、ゴッホの絵が好きだったかゴッホの絵を集めていたけれど、

今はモネの絵が好きになった。だからといってゴッホの絵を捨てることなど到底できない。

こういう感覚からいかな。

2016-12-16

文章が好きだった。

物心がついた頃には、すでに文字が読めていたらしい。というのはさすがに大げさだろうけど、それでもひとよりは、読み書きの習得が早かったのだろう。

とにかく絵本を読むのが好きな子供だったようだ。家にある絵本を片っ端から読んで、新しい絵本を沢山強請ったらしい。おかげで実家には、本棚いっぱいに絵本が置いてある。

小学校入学する頃には、簡単漢字の読み書きも出来ていた。それ故に、ひらがなのなぞり書きを何十回もさせられる国語の授業と宿題が、ものすごく苦痛だったことをなんとなく覚えている。

小学校には当然、図書室があった。片っ端から、というわけでは無いが、よく本を借りて読んでいた。児童文学を中心に読んでいたと思う。それ以外の本はあまり好きではなかった。

自分物語が好きなんだ、小説が好きなんだ。と、漠然と思っていた。

中学生ぐらいになると、読む楽しさに加えて、書く楽しさを覚えた。読書感想文を書くのが好きだった。こっそり小説なんかも書いたりしていた。

二十歳を過ぎた今でも、小説を中心に、本をよく読んでいる。自分でも書いてみたりしている。

小説を読んでいると、なんとなく楽しい

小説を書いていると、なんとなく楽しい

なんとなく素敵な気持ちになる。

なんとなく安心する。

だけど、今になってやっと、自分別に小説が好きだったわけじゃないんだと、気づき始めた。

インターネットを眺めていると、莫大な量の文章に触れられる。

どこかの誰か、知らない人が書いたブログ記事だったり、小説投稿サイト投稿された作品だったり。増田だったり。大きな本屋さんや、図書館よりも、何倍も多くの文章を読むことができる。

そうやって沢山の文章に触れていると、時折、ものすごく好みの文章出会うことがある。一文読んだだけで、心が奪われる文章。次々と読み進めてしまい、止まらなくなる文章。読んでいるだけで酷く安心感が得られる文章

理由はわからないけど、「なんとなく大好きな文章」と出会うことがあるのだ。そういう文章の中には、意味すら理解できないものもある。何が言いたいのかわからない、内容が伝わってこない、それなのに、なぜか溜まらなく好き。そういう文章出会う。

絵画とか、現代アートとかに近いのかもしれない。理屈じゃなく、素晴らしいと感じるのだ。

きっと自分は、工夫された文章が好きなのだろう。その工夫が、自分の好みと合致したとき幸せに感じるのだ。

小説が好きなわけじゃなかった。物語を伝えるために、表現豊かに工夫された文章が好きだったのだ。

反対に、誰にでも誤解なく正確に伝わるよう書かれたような文章は、あまり好きにはなれなかったのだ。


文章を読むとき芸術先品を鑑賞するようなつもりで文章を読んでいるのかもしれない。さながら、絵画を見るような、音楽聴くようなつもりで。自分にとって文章というのは、ずっとそういうものだったのだろう。

それに気が付いてから、より文章を「書く」ことに注力した。とにかくいい文章を書きたい、自分が好きな文章を書きたい、と思うようになった。誰のためでもなく、自分のために。

消費者として好きだったものを、今度は自分生産者となって作ろうと考えるのは、ごく自然なことだろう。しかし、それは当然簡単ではない。

絵を見るのが好きだからと言って、絵を描くが上手いわけでは無いように。音楽を聞くのが好きだからと言って、作曲が出来るわけでは無いように。

自分文章を読むのが好きだが、ご覧の通り、「書く」方はこんな状態である。基本がなってない上に、センスもなく、なまじ変なこだわりが強いばっかりに、ぎこちなさが目立つ読みにくい文章。はっきり言って下手くそ文章

文章が好きで好きでたまらなくて、ネット上に転がっているどこかの誰かの殴り書きすらも、芸術作品としてとらえている人間の書く文章が「それ」である

結局消費者はどこまで行っても消費者しか無くて、生産者とは相いれないのだろうな、と。まあ、自分で書いていて悲しくなるけど、そういう現実も、あるにはあるのだろう。

それでも文章を書くのは好きだし、これからも書き続けていく。

いつか、自分が納得できるほどの文章が書ければいいと信じて。

2016-12-13

こいつとはアートの話とかできねーなと思った話。

http://moro-oka.hatenablog.com/entry/2016/12/12/055556

  

  

>当然だが作品をつくる作家けがいてもアートは成り立たない。

>それを見る人、理解する人、評価する人、批判する人、そういったそれぞれの「反応」があって初めて作品アートとして成り立つ。

作家がどれだけ頑張って素晴らしい作品を作っても、それを真摯に見てくれる人がいなければ、何の意味もない、

李禹煥の石はただの石になり、Chim↑Pomビルバーガーはただの廃墟になり、ダミアン・ハーストサメはただのホルマリン漬けのサメとなり、

デュシャンの泉はもちろんただの便器になる。

  

もっともだったりそこはどうかしらだったり思うところが色々ある記事なんだけど、

一番気になったのはこのセンテンスについてで、趣旨からは外れた些細な部分かもしれないが

真っ先に「デュシャンは頑張って便器作ったわけじゃねーだろ」とつっこんでしまったのだった。

  

作家作品場所だけで、アートは成り立たないんだろうか。本当に?真摯に見てくれる人の目が絶対必要?本当に?

他者の目がなくても、まずは場所とモノの二者関係で成り立ったのがデュシャン作品だったり、ダミアン・ハーストだったりなんじゃないのか?

  

芸術を志す(した)人が『僕らは芸大に通ってるだけの普通の隣人ですレッテル貼らないで』って言い立てながらその口で

芸術には未だに『真摯に見てくれる人』の目が必要なのかと思うと、おそろしくがっかりする。

結局それは他者の奇異の目はいらないと言いながら、真摯な目は必要とするという、非常にご都合の良い宣言にほかならないのだから

  

アートとして成り立つ作品の前段階には、多分、アーティスト自身作品との戦いがある。

アーティストアートという謎と真摯に向き合った結果がデュシャンの『泉(便器)』で、李禹煥の『もの(岩)』で、

ダミアン・ハーストの『ナチュラルヒストリーホルマリン漬けサメ)』なら、

それを初っ端から"理解する人、評価する人、批判する人"などと真摯な目を期待しなければ成り立たないほどに

そのアートは軟弱ではないはずだし、それを見た人の好奇の目すら飲み込んで人々を頭の中を???でいっぱいにするからこそ、

それらは偉大な現代アートなのだと思う。

  

しかし、こうした注目は、危険ではありますが、あるいは悪いことではないのかもしれません。

>その注目を、もっと深いところまでわたしたちが持っていくことができれば、わたしたちのやっていることを理解してもらえるチャンスになるかもしれません。

芸術というもの重要性に気づいてもらえるかもしれません。そうした期待を込めて、書きました。

  

結局彼女の書きたいことは、「芸術家という人の“こと”」であって「芸術」そのものについてではないし、

それならば彼女就活してるだの、近況で夢を背負わされて辛いだの自分自身出来事記述に終始してることに納得できる。

でも、それは彼女の作った芸術作品でもアートでも何でもないし、私は「芸大生とはなんぞや」という議論

芸術というもの重要性」の議論は全くの別物で、前者を特に議論しようとは思いもしない。

  

こいつとはアートの話とかできねーなと思った次第である

2016-11-26

http://anond.hatelabo.jp/20161126201638

マジレスすると、どんだけ教育改革ガーとか言ってやれ小論文面接グループディスカッションだとかいテスト以外の方式を導入しようとしても、それをゲーム化して商売にしようとする奴らがいる以上は無理。

新しい方式ができるとそれを数値化して分析して効率のよい合格方法を割り出して、それを金を持ってる家庭の子供に洗脳的に教えていく。

からいつまでたっても金持ち家庭に生まれ従順想像力に欠けたタイプの子供が高学歴を独占してそういうやつらが「国際競争力のない」仕事をしていくことになる。


面倒なのは合格パターン分析して提供する塾講師連中がおそろしく優秀であるということ。

下手をしたら新しい受験方法をガーガー言ってる有識者よりもずっと。

変な例えで言うと、それまでは感覚とか経験をもとに作られてきた芸術作品を細かく分析してパターン化して抽出してその中で一番評価が高いもの総合して作品として発表するとかい感覚

あいう連中の知恵の使い方をもっと他のところに生かせたらいいんだろうけどさ。

2016-11-08

日銀異次元緩和政策の「その後」>

"21世紀における金融政策” (教科書、2062年出版)より

日銀異次元緩和政策の「その後」>

  2012年の安倍自民党政権成立後、日本銀行金融政策実施に当たって政府との連携を強め、年率2%のインフレ実現を目標に掲げて、「異次元緩和」と呼ばれる大胆な金融緩和策を実施した。   

  2013年以降、日銀国債ETF指数連動型上場投資信託)を最初毎年50兆円、そして80兆円づつ買い続けた。さらに2016年には「マイナス金利政策を導入し、イールドカーブ人為的操作にも手を染めた。

  それらの結果、2018年4月時点で、日銀国債保有割合は発行済総額の5割に達し、ETF総額に占める日銀保有割合も8割に達していた。

  にもかかわらず、日銀はまだ2%のインフレターゲットに達成することができなかった。2017年の物価上昇率わずか0.3%であった。

  「もう買うものがない。」というのが2018年度を迎えた日銀にとって最大の問題であった。

  市場流通している国債が極端に少なくなっていく中で、日銀による国債の買入れオペを拒否する金融機関が出始めていた。

  2018年4月に黒田総裁の後を承けて就任した石黒総裁への圧力が高まっていた。

  そんな中、同年5月中旬日本基幹産業である自動車産業の雄トヨタ自動車本社を置き、日本のみならず世界有数のものづくり拠点でもある愛知県において、マグニチュード8を超える巨大地震が発生した。

  地震発生から24時間以内に、東京ニューヨークロンドンなど、世界為替市場で、円が対ドルで110円から130円まで一気に下落した。それまで「安全逃避先資産」とされ、発生地日本であろうが、世界のどこかで危機が起こったときに大量に買われていた円が、初めて売り浴びせられ、暴落したのである

  日本政府はすぐ復興債を財源とした大型補正予算を発表したが、それまで毎年のように編成されていた補正予算に景気浮揚効果はなく、補正以外にこれといった対策を講じることの出来ない政府経済政策への期待はもはや皆無であった。日銀による緊急対応を求める強い声が経済界からが発せされた。

  就任直後から厳しい立場に置かれていた石黒総裁は、この期を逃さずに早速手を打った。

  日銀は5月26、27日に緊急の政策決定会合を開催し、政府が発行する復興債を直接全額購入することを発表した。同時に、それまで手を出さなかった「実物資産」についても買い始める、という新しい政策枠組みを発表した。

 

  実物資産として日銀が選んだのは、なんと芸術作品であった。

 

  日銀による芸術作品買入れ(「芸術作品買い入れオペ」と呼ばれた)の枠組みは、以下の通りであった。

 ① 政策発表から2週間後、日本国籍保有している者は誰でも、その保有する芸術作品骨董品日銀に売ることができる。日銀は適切な判断に基づいて値段を決めて現金で購入する。売却は一人一年に一回のみだが、複数アイテムを同時に売却することは可能とする。

 ② 高齢世代(先の世代)が書画陶器など多くの伝統芸術資産保有している一方、若い世代はそのような伝統芸術資産保有していない。そこで、芸術資産を持っていない個人・家庭からは、手作り芸術作品や新たなカテゴリー芸術作品を購入することとする。

 ③ 日銀は、都道府県ごとに購入した芸術作品を展示するための「アートスペース」を設置し、購入した芸術作品一般に公開展示する。入館料は大人500円。障害者12才未満の子供は無料。展示会の収入は全額震災復興寄付する。

 ④ 芸術作品買入れオペは、年度単位で行う。即ち、オペ開始から一年後、日銀は購入した芸術作品をすべて焼却する。焼却は一般市民の参加による「焼却式」によって行う。この式の参加費は500円。焼却式後、日銀は改めて次年度の「芸術作品買入れオペ」を開始する。

 ⑤ インフレ安定的に2%を超える状態が達成されるまで日銀芸術作品買入れオペを続ける。

  この日銀の新しい枠組みは、2000年代後半の世界金融危機後に欧米中央銀行採用された金融政策とは根本的な断絶を表すものであった。

  伝統的な金融緩和の波及経路は主に金利だと思われていた。即ち、中央銀行金融機関から国債などを買うことによって、銀行貸出金利を下げることができ、その結果、個人法人への貸し出しが容易となり、市中に資金提供される。

  他方、日銀の新しい政策枠組みは、金融機関を通さずに直接個人から資産を買うことによって市中に資金提供する、というものであり、かつ、購入した資産は定期的に廃棄、拙い手作り芸術作品には事実上セカンダリー市場が皆無であったから、定期的に保有資産消滅していくこの新しい政策には出口がないと日銀が暗黙に宣言したも同然であった。 実際日銀は、新しい枠組みによって増えたマネタリーベースはそのまま放置するつもりであった。

  日銀がなぜ国民に直接現金を配らず、敢えて「資産」を買ったのが当時批判されたが、数年後に発表された決定会合議事録によると政策委員現金配布という手法に対して懐疑的だったことが明らかになった。

  景気が改善しても現金配布ー現金のばらまきーをやめることは政治的に極めて困難、事実上やめられないのではないか、と過半数政策委員懸念を示した。資産を買って現金を渡すという仕組みにすれば、国民芸術的衝動芸術資産がいつか枯渇されるため日銀スムーズにテーパーリングできる、と多くの政策委員が考えたのである

  発表から2週間後、全国日銀支店郵便局でこの「芸術作品買入れオペ」が始まった。当時の記事日銀統計によると、最初書画陶器など骨董品の買入れが多かった。遊び心のある作品も少なくなかった。毎日新聞記事によると、男性がお尻と手を会社コピー機でコピーをとって印刷したものを、日銀が20万円で買い取った。鴻海シャープ株式会社社員割り箸で作った家電が1億円で買い入れられ、日本経済新聞の一面に載った。

  しかし、買入れオペが始まってすぐ深刻な問題が起こった。日銀の「芸術」の定義あいまいすぎていた。メディアによると、砲身に「金融政策」と大書した張り子のバズーカ砲が日銀に買い取りを拒否された。女性器の形をしたティッシュ箱も断られた。

  芸術知識を持っていない中央銀行芸術価値判断するのはどうか、とアーティスト学者から批判が強まった。村上春樹特別記者会見を開き、中央銀行芸術を売るな、と国民に強く促した。

  買入れオペへの参加が低迷した。日銀がオペ開始から半年の時点で行った全国調査によると、日本人のたった1割がしかこのオペに参加していないことがわかった。同調査によると、60歳以上の世代は代々家に受け継がれてきた「家宝」を売ることを躊躇し、若い世代仕事育児で忙しく芸術を作る暇がなかった。さらに総じて見れば、日本人はあまり芸術作品を売ったり買ったりすることに興味がなかった。芸術実物資産として考える人たちはそれほど多くはなかったのである

  市場では、震災直後の暴落から回復した円がドルに対して日々高くなっていた。景気は引き続き低迷し、むしろ後退に直面していた。行き場のない資金市場彷徨する一方で、日銀微妙価値のある大量の芸術作品保有していた。

  もはや日銀政策の失敗から自力で立ち直れないと判断した石黒総裁は、善後策を安倍総理相談した。

  しかしながら、政府もまた、残された対策補正予算の早期執行復興債日銀直接引き受け位しかなく、為替市場に対しても株式市場に対してもコントロール能力を失っていた。

  ここに、いよいよ日本経済は完全に行き詰まった。

  安倍総理は、危機に直面した時、歴史上多くの指導者選択した「最後選択肢」を選ぼうとしていた。

  尖閣列島を含む東シナ海シーレーン防衛のため、日本自衛権行使軍事行動を起こす、と安倍総理宣言した。

2016-10-20

http://anond.hatelabo.jp/20161020161940

アメリカはモザなしAV合法だったり、芸術作品なら公共の場に出しても合法だったり、

学術目的なら幼児マスターベーション行動を録画して論文誌に添付しても良かったり、

それなのにエロ漫画待遇がとてつもなく悪かったり、

基準が国によってまちまちでわけがからないな。

弾圧っていうのも何を指すのかよく分からないけど。

2016-06-19

読者の読解力を問題視するのは間違ったポジティブ思考

ポジティブ思考現実逃避は全く別のもの

ポジティブシンキングの例でよく出てくる「コップの水」の話があります

コップに水が半分入っているとき、「半分しかない」と思うか「半分もある」と思うかというやつです。前者がネガティブシンキング後者ポジティブシンキングで、水の量は変わらないのだから、いい方に考えよう。などとよく言われていますよね。

しかし、これが石油資源だとしたら、どうでしょうか。

地球石油資源10年分しかない」「地球石油資源10年分もある」

10年分しかない!とネガティブにとらえた人は、危機意識を持ち、代替エネルギー省エネ方法自然素材活用などの研究を進めるかもしれません。

一方、10年分もあるからまだ大丈夫!ととらえた人は、そこで思考停止してしまます。なんでもいい方向に考えるというポジティブシンキングときには現実逃避となる危険もあるのです。

読者の読解力を問題視するブロガーって典型的な間違ったポジティブ思考だと思う

一部の人誤読や、気に入らないコメント問題視する」ならわかる。

私も、一部はてなブックマーカーが嫌いだ。そういう人は容赦なく非表示にする。(読解力というよりは礼儀問題ですが)

だけど、はてな全体とか、そういうレベルで読解力がーっていう場合、まず間違いなく「読解力がー」と主張しているその人がバカでしょう。自分バカであることに気づいてないだけの本気のバカ

「8割以上の人が誤読する」

「2割の人間しか理解できない」

こういう時に、2割の人間理解できてるから俺の記事は正しいって思う?コップの水2割も入っててよかったーって考えですか?

画期的ビジネスプランだとか、芸術作品ならわかりますよ。でもブログ記事でしょ。そんなにわかりにくこと書いてるつもりないでしょ。わかってもらおう、と思って書いた文章なんでしょ。

それで8割の人が誤読するっていうなら、

自分の主張が正しく理解されてだめだしされてるか」

自分文章が、主張内容が正しく伝わらないだめな書き方をしているか

可能性を疑ってみるべきじゃない?

なんというか「自分は間違ってない」というところを固定して思考するのは

間違ったポジティブシンキングと思うんですよね。

自分の思い通りの反応=読解力がある読者」と思ってるならブログやめてSNSやればいいのでは

投資でいうと、自分ポジション通りに物事が動かないから世の中が間違ってると主張するようなもんなんですよね。

もしあなたが「ビッグ・ショート」のマイケル・バーリばりの天才だったのならそれが真実である可能性はありません。

さんざんバカにされ続けても自分を貫くことで「もしドラ」みたいに大ヒット作品を生み出せるかもしれません。その可能性にかけたいというならそれはそれで構わないと思います

でも、無理にそういう可能性つきあたるより、自分のことわかってくれる、合わせてくれる読者がほしいんだったら、SNSに行けば?

自分が間違ってないってことにしたいがあまり、世の中を変えようとしたって、世の中の人自分ことなんかどうでもいいよね。

2016-05-27

大工親方に釘の打ち方で文句言われて、仏師自称するような

そんな感じよ

おまえが作ってんのは建物なの、おまえと同じような大工大勢で作るチーム作品なの

最初から最後まで一人で彫り上げる仏師芸術作品とは違うものなの

2016-04-13

絶賛派の負のエネルギーを和らげたい②

http://anond.hatelabo.jp/20160413011057

正負のエネルギー

負のエネルギー対義語は正のエネルギーなのでしょうか。

正のエネルギーとは必ず正しいエネルギーたりえるでしょうか。仮にそうだとしても絶賛派の持つエネルギーはそれにふさわしいものでしょうか。

恐らくそ根拠としては何事も賛美することや推進することこそが正のエネルギーだという思想なのでしょうけれど、悪事や間違いを推進することは正のエネルギーと呼べるのでしょうか。悪事や間違いを批判することも負のエネルギーなのでしょうか。

そしていきなりそのような立場に立ってしまうと、議論する物事善悪や正誤の考察をする前提をすっ飛ばししまっているように思われてしまます。そしてそのような所に絶賛派ラブライバー宗教的だとか、盲目的で妄信的だと呼ばれる所以があります


また、そもそも私的体験の話をすれば、アニメ1期の時点では自分アニメの内容の嫌な部分に目をつぶりながら作品全体の動向をポジティブ応援しようとしていたのです。しかし2期以降、先述のように作品展開の裏切り汚染が加速拡大していくのを目の当たりにし、目を覚まして絶望するしか無かったのです。


絶賛派の大多数は初期作品群を否定していません

とありますが、肯定をしている様子も殆ど見受けられません。ただ踏み台として蹴落とされるべき歴史としての存在を認めているだけに過ぎないでしょう。先述のメディアミックス理論の持ち出し方にもそれが現れているように思います

アニメ版を叩くだけの負のエネルギーを注ぐのでなく、自分の好きな初期作品の素晴らしさをポジティブに語るべきでしょう。


自分の好きな作品を褒めるために他の作品を叩く行為は忌み嫌われることを増田もご存知のはず。増田が良いと思うものポジティブに語る事で初期作品への注目も上がるのではないですか?


アニメ版を叩き貶める事で初期作品が注目されるのでしょうか?むしろその行為ラブライブ!作品群の全体を貶める行為となっている事実に気づいてほしいのです。

と、絶賛派ラブライバーは最終的にとりあえず批判する奴が悪なんだという方向に持っていきたがります。そこがアイドルヲタクというよりジャニーズヲタク的で、女々しく感じます

また、批判への批判ですら批判であることや、何かを肯定する時には別の何かの否定を孕んでいることが多いことも留意しなければならないように思います

恐らく全てを好みの問題で済ませられると考えているか脳天気に、表立って批判する奴が悪いと言えるのでしょうが盗作問題などをはじめとした不可解な部分、問題があると指摘した部分を深く検討していただけないと原案派への本当の理解や同情は難しいと思います

悪い所があったり、悪いことをしていたりしてもそれを批判することは悪いことだという考え方にはぞっとするものがあります。まるで盲目的な自分達を認めてほしいから目を覚ますようなことを言わないでくれと言っているかのようです。

ただ単につまらない、嫌いというだけで批判しないで済む状態であれば態々大きく批判しなくていいかもしれませんが、そのような甘く生温い状況ではないことを2期以降に強く痛感したのです。その内容の説明は既に先の記事でも今回の記事でもしていますが…。

それと、乱雑な感情論理から導かれる暴力的な賛美や批判と、真摯感情論理から導かれる賛美&批判を一まとめにして考えることはナンセンスだと思います

そのような指摘をみても、やはりアニメ劇場版ラブライブ2013年以降の作品プロジェクト全体は、積み重ねや面倒臭い決め事を破棄して、表面的で浅いつながりで結ばれた妥協馴れ合いの間に合わせで叶えた物語好きな人に支持された作品だったんだなと思えてきます

好きだからこそより高みを目指したい、好きだからこそ勿体ない部分を指摘する、批判するという発想がないのでしょうか。ラブライブはもはや好きとはいいがたい作品に成り果てましたが、自分は好きな作品でも問題のある部分については批判します。好きだからこそ正直で誠実に向き合いたいからです。その点の行動をするかしないかについては好みで問題ないとは思いますが。


 あえて単純化して例えれば、ピカソキュビズム絵画に対して『もう少し現実に合わせてもいいんじゃないか』と主張するくらいナンセンス議論なのです。

この点は先述のレストランの例えで説明しましたが前提のズレがありますラブライブ場合、写実画というには写実的から程遠く、キュビズムの方向に傾かせたというには写実的すぎるという半端な状態です。それがいいといえばそれまでですが、それが悪いといえばそれもそれまでです。

そしてそれらが地味で不規則な所を見ると、ただのミスなのではないかという気がしてなりません。また、ラブライブ芸術作品という意味ではキュビズム絵画と同じでも一枚の絵でも一つの彫刻でもありません。ストーリー作品キャラクター作品物語なのです。さらにあのアニメ内でも『みんなで叶える「物語」』などと言ってしまっています

まりラブライブという作品キャラクター性や物語性の描写の在り方について審議されるのは当然ですし、ましてやそれを無視してしまうだけでなく、無視して見る方が正しいかのように主張する態度は、作品評価をする上で致命的な怠りがあるように思います


 増田の観たかったものは、キャラクター内面リアルに掘り下げたドラマ。誤解を恐れずに言えば、スクールアイドル版のアイマスじゃないのでしょうか?

アイマスといっても色々ありますが、本家アイマスシンデレラガールズ(一応双方アニメのとしておきます)などはアニメラブライブよりはともかく、物語性などについても、キャラクターが多すぎることや、原作主人公であるプロデューサー存在が軸となりすぎていることもあって内面の掘り下げについて理想には少し遠い面があります。またアイマス原作ギャルゲー風の育成ゲーム芸能界作品ですし、そのような物語性やキャラクター性などの部分への描写を前提する要素がラブライブより少ないことがその部分において許されやすい部分はあるかもしれません。

ただ、アイマス声優などの外部のネタキャラ作品に持ち込む二次創作的な風潮がラブライブより強く、そこが支持されてもいますがそこは自分にあまり馴染まない部分ですし、そこはラブライブには真似してほしくなかったのですが結果的追従するように似たような道を歩んでいってしまった印象があります

それでも、アイマス原作ゲームであるという絶対的な軸があり、キャラクター的にもその区分け比較大事にしているので、ラブライブよりはファン棲み分けがしやすくなっているように思います

自分ラブライブ応援する以前にアイマスが好きだったのですが、アイマス2騒動距離をとるようになりました。あれも作品公式運営への不信感を感じる騒動でしたけれど、その後アイマスは先述の区分けのおかげでなんとか致命的に沈み込むことはなく持ち直していったように感じています。また、当時のファンの多くが大きく問題視して糾弾したのも現状に対して盲目的で内容に興味があるのか疑問を抱いてしまラブライバーの多くとは違う点でしたね。あまり高く評価するつもりはないのですが、結果的にはアイマス場合ファン意思がある程度「プロデューサー」として作用し反映されたおかげかもしれません。

対して、ラブライブに期待していた広い意味でのコンテンツの在り方は前回の記事http://anond.hatelabo.jp/20160330020728言及した通りですが、そこでも述べた通り、ラブライブというプロジェクトファン意思存在を「みんな」の中から排除したものだったという気がしてなりません。


京極監督花田さんは物語性の軛からラブライブ!を解き放った。漫画小説では表現できないアニメならではの特徴を最大限利用してアイドル表現したのです。

アニメならではの特徴を利用したとしても、アニメでも表現できることを怠りすぎていたので批判されていることも考えていただきたいように思います

物語性を「軛」と表現していますが、それは致命的な配慮の怠りで思い上がりですね。絶賛派は似たようなことを言うのである意味信頼できますが苦笑します。

別のとある絶賛派の人はキャラクター描写について批判する人をキャラクター至上主義ダメ批判したりしていますが、裏を返すと絶賛派は表現至上主義なわけです。

また、キャラクター性や物語性の描写の拙さを批判する人達別にアニメ表現演出のあり方を否定していません。

対して絶賛派はあの表現演出さえあれば物語性やキャラクター性の描写不要だ、ない方がいいくら否定的に捉えているわけです。表現演出をそれらの免罪符のように扱っているのですから

しかし、先述の例えのようにシリーズアニメにおいて表現演出というのはキャラクター物語性の拙さを打ち消す免罪符に足るものではありません。

まあメタ的に、「アイドルアイドルファンというのは実はこんなに狂気的で下らないものだ」というのを、アニメ全体を使って表現したというのであれば、それはある種のテロリズム芸術として評価できるかもしれません。

そういうものオリジナル作品勝手にやったのであればそういう作品性面白い有意義だと手放しでいえた可能性があったと思いますしかし、元々の作品の指針としてコンセプトが違う原案存在する作品を預かりながらそれを行い、それらを生かしたとは到底言い難い状態にある作品となったので好き嫌いを超えた善悪問題批判しているのです。

現実的であったり表現主義的であったりする要素を作品にあってはならない要素だとは思っていませんし、何度もいうようにそこを特別批判しているわけではありません。

せっかくのシリーズアニメ作品で、物語形式だったのですからそのような最重要の部分を十分生かして欲しかったのです。

そして批判派の多くは勝手ミュージカルをするなとか急に踊り出すなとかいうのを言っているのではなく、そのような表現主義的な意図があるとは思えない単純な所でもただのミスではないかというような違和感を抱く描写があり、その点への指摘や批判すら絶賛派が、全ては芸術的表現からそれでいいんだというように無理矢理擁護してしまうためにうんざりしているのです。

仰っているような表現方法などに特化しただけのものでいいのならオリジナル作品や、またはそれこそ、PVだけ作っていてくれればよかったと思います

それに対して「いやあの形のアニメからいいんだ」と主張する場合理由は、おそらく知名度が上がりやすく人気が出やすからでしょう。

確かにラブライブというコンテンツは人気が出て欲しかったですし、知名度さえ上がれば元のままで高く評価されることが可能なポテンシャルは十二分にあったと感じていましたが、絶賛派が表現主義的に評価するアニメを、あの形でアニメ化しなければならなかったとする根拠を考えると、人気が出た作品ファンを名乗りたいという表面的な所に帰結していくように思います

今となってはアニメ化せずに人気が出なくてもアニメPV付きシングルがもう何曲も出ていた方がただのファンとしてなら幸せだったなと感じます

表現方法などが優れているとしても、前の記事でも言ったようにかつての作品の在り方とそれらの表現手法などは両立できたでしょうに、最初からしない道を選んだことを批判しているのです。

また、それがオリジナリティに溢れていたならまだしも、元々の原案に沿うことを拒絶しながら他の無関係作品は平気で参考にして適当になぞらせるようにストーリーキャラクター設定を(前回の記事説明したような)稚拙配慮の下に歪ませてしまったことが甚だしく受け入れがたい問題点なのです。

2016-04-10

文学自己慰安のために書くという説

芸術作品音楽でも何でもありうる気がする。

2016-03-09

親が富岡製糸場スカーフ10万で買わされた話

昨年、独りで暮らしてるうちの親宛に電話があった。

富岡製糸場世界遺産認定された記念に、あなた短歌シルクスカーフ印刷しませんか」

といういわゆる勧誘で、親は富岡製糸場職員だと思って話を聞いてたらしい。

ところが話を聞いていくと特別イラストを添えた特別シルクスカーフからということで、1枚10万近い費用がかかるという。

当然、最初は断ったが世界遺産からと強引に勧誘され根負けして契約。後から冷静になって年金暮らしのために支払いは難しいとキャンセル電話を入れたが制作に入ってるからキャンセルは出来ないと言われたらしい。

このことが発覚したのは年が明けてから。今まで一度も金の事を相談してきたことのない親から今月少しだけ助けて欲しいと言われ理由を聞いたらこういうことだった。

富岡製糸場電話して内容を確認したところ職員に上記のようなことを言われ、なぜ費用10万もかかるのか尋ねたら「特別イラストを描く芸術作品から」「製糸場内で展示するのにかかる費用も含まれてる」とのことだった。

調べたら展示会は明日から開催されるらしい。

http://www.tomioka-silk.jp/hp/event/index.html

沢山のイラストレーターも参加するといってるが、一見うちの親のスカーフが展示されてるイベントなのか何なのか分からない。

参加するイラストレーターたち

http://www.matsunom.com/?p=1027

http://mitsuichikako.com/news/1129/

http://namiishii.blog.fc2.com

http://saya-iro.blogspot.jp/2016/03/blog-post.html

http://shikachan.blog45.fc2.com/blog-entry-574.html

http://kyonosuke-takayasu.com/?p=812

http://blog.atelier-de-nanairo.com/?eid=215

http://blog.clipside.net/?eid=264

http://obika-kazumi.com/?p=440

http://masayakato.seesaa.net/article/434351611.html

http://himenohayami.com/news/?p=1565

http://blog.goo.ne.jp/hitohito1103/e/3eb224948b145d71a9a71cf328a9a44d

http://hideto-yamamura.jimdo.com

http://kikikukuchichi.blogspot.jp

うちの親は趣味短歌を詠んでるだけの一般人富岡市どころか群馬県とも縁もゆかりも無い。

長年、田舎で慎ましく生きて来て、デパートブランド物すら買った事のない親が、何故10万もするスカーフ電話で買わされなければいけないのか。

2016-03-07

キモオタによるフェミニズム概論

フェミニストからキモオタ死ねと言われ、私はもちろんキモオタであるから激昂してクソフェミ死ねと言い返しかけて、そこでふと気がついて困惑した。

フェミニズムとは何だろうか。

私はフェミニズム名前ぐらいしか知らない。しかし知らないものを知らないままにしておくことは、少なくとも私にとってキモオタしからぬ行為である。私は自分に自信をもってキモオタでありたい。クソフェミ死ねと罵られるキモオタであることに誇りを持ちたい。ならばフェミニズムについて知らなければならない。

しかフェミニズムについて知りたかったら何を読めばいいのか。これが意外と分からない。ロールズやセンを読めというのを見つけたので読んでみたが、やはりフェミニズムが分かった気になれない。

そこで手当たり次第に適当にフェミニズム書籍を読んでまとめみることにした結果が本稿である。決して十全ではないが、私同様、フェミニズムをよく知らないオタク諸姉諸兄にとって、フェミニズム理解の取っ掛かりになれば幸いである。

フェミニズムとは

フェミニズムは大きく三種類ある。ラディカル・フェミニズム(以下ラディフェミ)、リベラルフェミニズム(以下リベフェミ)、そしてマルクス主義フェミニズム(以下マルフェミ)であり、それぞれ理論の組み立ては全く異なる。以下順に見ていこう。

ラディカル・フェミニズム

現在のラディフェミ理論的支柱はキャサリン・マッキノンと言っていいだろう。「性の不平等の源はミソジニー(女嫌い)」であり、「ミソジニーの源は性的サディズムにある」(C.マッキノン,"フェミニズム表現の自由",1987,*1)。そして社会に溢れるポルノグラフィ(以下ポルノ)こそが「性差別主義者社会秩序の精髄であり、その本質をなす社会的行為」(*1)に他ならないと喝破する。この諸悪の根源ポルノであるという揺るぎない確信からポルノ法規制を推進する。

ポルノ性犯罪を誘発するという統計的証拠はあるのか。この批判に、しかしマッキノンは自覚的である。誘発するという調査もあり、無いという調査もあると率直に認める。従って彼女が起草した反ポルノ法は「被害をもたらすことが証明されうる物だけが告発できる」(C.マッキノン&A.ドウォーキン,"ポルノグラフィ性差別",1997,*2)。「証明されるべき被害は、強制行為、暴行脅迫、名誉毀損、性にもとづいて従属させる物の取引といった被害でなければなら」(*2)ず、不快に感じた、宗教上の信念を侵しているといった被害は認められない。被害者ではない第三者告発することも認められない。

ポルノには、ホモレズ二次元も、古典文学から芸術作品まで被害をもたらすことが証明される限り全て含まれる。自分が叩きやすゲームマンガだけを槍玉にあげて、自分が叩かれやすい文学や芸術から目を背けるチキンではない。殴るからには全て殴る。それがマッキノである

なお、田嶋陽子はラディフェミを名乗りドウォーキンへの共感を示しているが、ポルノ諸悪の根源とはせず、現実的政策としてはリベフェミに近い内容を述べているため注意されたい("愛という名の支配",1992)。

リベラルフェミニズム

J.ロールズの「公正としての正義」やA.センの「不平等の再検討」をその理論的土台とし、リベフェミは次の点を問題視する。「ジェンダーシステムは、その根を家族における性別役割にもち、事実上わたしたちの生活の隅々まで枝葉をはびこらせた、社会の基礎的構造のひとつ」(S.オーキン,"正義ジェンダー家族",1989,*3)であり、「女性男性重要差異が、家族内で現在おこなわれている性別分業によって作られる」(*3)。

夫婦がともに働いている姿を子供に見せることが教育上望ましいと考え、そして共働きにおいて妻にだけ家事育児押し付けられることは不平等であり、二人で平等に分担するべきであるとする。もし専業主婦なら、夫の稼ぎは夫婦二人で稼いだものとして両者で均等に等分すべきだとオーキンは言う。

このように家庭内賃金労働の不平等の解消によって性差別の無い社会が構築されるとする考えから、リベフェミ女性社会進出を推奨し、出産休暇や託児所の拡充、男性育児休暇取得を推進する。また「子どもたちがなりたい人間になる機会」(*3)を拡大するため――その機会を無知ゆえに狭めないために、性教育重要性を訴える。

なお、「男性を敵視し憎む分派は消滅するだろう」(B.フリーダン,"新しい女性創造",1965)が示すように、フェミニズム男性女性権力闘争化することに否定的立場をとる。

マルクス主義フェミニズム

出産を含む女性の家事育児は明白な労働行為である。にも関わらず男性社会はそれに一切の支払いをしてこなかった。ゆえに女性とは搾取されるプロレタリアートであり、その意味で男性とはブルジョワジーである女性の抑圧は、資本制と家父長制の構造上必然的に生じたものであると喝破し、資本制・家父長制の打倒を訴え、そしてこれが日本の伝統フェミニズムである

女性社会進出に関してはリベフェミの主張とほぼ同一だが、フェミニズムの主要な敵は男性であると断じ、マルフェミでは家事育児という労働に対する賃金の支払いを請求する(上野千鶴子,"家父長制と資本マルクス主義フェミニズムの地平",1990,*4)点で異なる。ただし誰に請求しているのか、また家父長制を崩壊させるために「資本制との新しい調停」を、というが、それが共産制かというとそれも曖昧で判然としない。

日本ではさらにそこに独自思想が入り交ざる。例えば男女混合名簿の推進は「日の丸君が代シンボルとする儀式を撃ちくずす」(河合真由美,"「男が先」を否定することでみえてくるもの――学校の中での性差別男女混合名簿",1991)から良いのだ等、目的が何なのか、いささか混沌としている向きも見受けられる。

その他のフェミニズムと補足

レズビアンフェミニズムブラックフェミニズムエコロジカルフェミニズムポストモダンフェミニズムなど多岐にわたる。マルクス主義フェミニズムの派生であるサイボーグフェミニズム(D.ハラウェイ,"サイボーグ宣言",1985)は読むとつまらないがネタとしては面白い。あとキワモノで言えばスピリチュアルフェミニズムとか。

補足1:クィア理論

同性愛者とフェミニスト関係は、従来男性権力社会に対する「敵の敵は味方」関係に過ぎなかった。そこで登場したのが「フェミニズムと、ジェンダーに関するゲイレズビアンの視点と、ポスト構造主義理論を、政治的ひとつに纏め」(J.バトラー,"ジェンダートラブル",1990)たクィア理論である。これにより統一戦線理論的に張ることが出来るようになった。

補足2:男性差別

リベフェミは広範な男性差別否定するが、アファーマティブ・アクションでの男性差別肯定する。ラディフェミ男性敵視の姿勢を持つが、しかしマッキノンは男性けが徴兵されることは男性差別だとして否定する。「平等とは、ジェンダーの違いではなく、ジェンダーヒエラルキーを問題にし、その根絶をめざすものである」(*1)からである。マルフェミはよくわからなかった。女性兵士に反対しているので、男性差別肯定されるのかもしれない。

フェミニズムが扱う問題

セクハラ家庭内暴力中絶女性兵士等色々あるが、本稿ではオタク、わけてもアニメオタク関係の深い「性の商品化」について取り上げる。

「性の商品化」の法規制

マッキノンは、猥褻として過去に規制された、まさに「性の商品化であるユリシーズ(J.ジョイス,1922)について「ポルノではない」と述べる(*2)。現実の被害が証明されていないからである。「性の商品化」は法規制の理由にならない。

リベフェミであるN.ストロッセンは「子供や妻への虐待強姦日常的な女性への屈辱行為などを正当化する内容が詳細に述べられている」書籍として聖書をあげ、「禁止されない安全思想などほとんど存在しない」("ポルノグラフィ防衛論",2000)とする。そして性教育がかつて猥褻として政府に規制された例を上げ、ポルノ禁止法は政府検閲に利用されると強く批判する。

一方、上野は「性の商品化」だとしてミスコン廃止を訴えるフェミニストについて、彼女らは「法的取り締まりを要求したわけではなく、受け手として「不愉快」だという意思表示権利行使であると言う。そして「性の商品化」は「メディアのなかでも、なんらかの基準がつくられる必要がある("「セクシュアリティ」の近代を超えて",新編日本フェミニズム6,2009)」とする。

ここから見えてくる点として、女性が「不愉快であることが問題なのだということが分かる。「性の商品化」とは何か、それに実害があるかは、おそらく最終的にはどうでもいいのである。さらに求めているのは自主規制であって法規制ではない。自主規制によって発言者は自ら口をつぐむのだから表現の自由は全く関係のない話である

不愉快」による法規制正統性

リベフェミであるマーサヌスバウム嫌悪感を根拠とした法規制を徹底して批判し、ゾーニング妥当性を論じるが("感情と法",2004)、マルフェミである永田えり子は「ポルノ市場が成立すれば、必然的ポルノ市場の外部に流出する。そして流出すると不快に感じる人がいる」("道徳フェミニスト宣言",1997)としてゾーニング効果がないと批判する。

ポルノは「人々に広く不快を甘受させているかもしれない。そして事実不快だという人がいる。ならば、それは公害である」。「性の商品化は多くの人々に対して、確実に何らかの不快や怒りを与えるはず」であるがゆえに規制されるべきだと主張する。

そのような不快感を根拠とした規制は恣意的運用がなされるという批判は当たらない。曖昧な法は他にもあるが、現に警察と司法は正しく運用しているかである。性道徳に根拠が無いという批判も当たらない。「根拠がないということがすなわち不当であるわけではな」く、それは「正しいから正しい」のである

なお、福島瑞穂非実在児童ポルノ規制は法的安定性が保証されないとして反対しており、この永田見解がマルフェミ共通見解でないことは述べておく。が、例えば児童ポルノ法規制に対して日本ユニセフ協会広報室長の中井裕真から司法は正しく運用してくれる旨の見解が述べられており(永山薫昼間たかし,"マンガ論争勃発2",2009)、これがフェミニストの通説でないことは明らかだが、一定存在する見解であるように思われる。

日本草の根フェミニズム

初期の日本フェミニズムには「反主知性主義」があり、「女性であれば(女性としての経験をもってさえいれば)誰でも女性学担い手になれること、専門的なジャーゴンや注の使用を避け」、「プロアマ距離をできるだけ近づけること」が目指されたと上野は述べている("女性学の制度化をめぐって",2001)。

こうした取り組みで女性が声をあげられる空気を作り出すことに成功したが、結果としてフェミニズムは「一人一派」と化した。筆者の私見に過ぎないが、これは同時にフェミニズムと「私」の区別を曖昧なままにしたのではないか。

「私」とフェミニズムが一体化しているとすれば、「私」が不愉快ならフェミニズム上も不公正に決まっている。それが従来のフェミニズム理論と矛盾していたり整合性が取れなくとも関係ない。「「オンナ対オトコ!」なんて言ってるフェミなんて、いないのになぁ」(北原みのり,"フェミの嫌われ方",2000)が示す通り、従来の理論について知識も興味もないフェミニストは珍しくない。知らなければ(当人の中で)矛盾はしない。

理論を欠いた思想は、しばしば信念や信仰へと還元されてしまいがちである」(*4)と上野は言う。そのような啓蒙主義者にとって「真理はつねに単純である。(中略)真理を受け容れることのできない人々は(中略)真理の力で救済することができなければ、力の論理で封じるほかはない」。そうして治安警察国家を招き寄せる人々は「反主知主義の闇の中に閉ざされる」。

これは実は上野によるリベフェミへの批判なのだが、筆者にはリベフェミではないところに突き刺さっているように思えてならない。

おわりに

このようにフェミニズム一言で言い表せるような概念ではもはやない。日本の初期フェミニズムはマルフェミが中心であったが、現代日本フェミニストは必ずしもそうではないだろう(例えば堀田碧は"「男女共同参画」と「日の丸フェミニズムの危うい関係"で一部の若いフェミニスト愛国心に苦言を呈している)。

最後になるが、フェミニズムはクソだという見解に私は全く同意しない。職場上司女性社員の尻を撫でることは強制わいせつ以外の何物でもないし、家庭内暴力夫婦喧嘩ではなく傷害である。どれだけ成果を上げようが性別を理由に賃金を低く抑え、出世コースから排除するといった制度の是正フェミニズムが尽力したことを、私は決してクソだとは思わない。

私がクソだと思うのは、……まぁ、書かなくても察してもらえるかと思う。

いささか長い増田になった。この程度の調査力でキモオタとかw という批判は甘んじて受けるしか無いが、とはいえもし誰かの理解の役に立ったのならそれに勝るものはない。

2016-01-14

萌えポルノがどうとか、表現規制がどうとか言う前に

業界第一人者や第一線のプロを自負してるような連中が、ツイッターに最低限不適切表現オプション

もしくは年齢認証のあるサイトpixiv、ニジエやおまたピックなど)へのリンクじゃなく

直接エロイラストを、誰にでも閲覧できる状態で貼り付けておいて、文句言われたら

「それは表現規制だ、芸術作品にもヌードは有る」みたいな騒ぎ方するのはおかしいんじゃないか。

タイムライン自分で作るものから勘違いしがちなんだろうけど、基本的フリー閲覧状態

エロイラストを垂れ流したら、そりゃあ問題視されるに決まってるだろう。

風俗店客引きが真っ昼間の商店街で声を張り上げてたら問題なのと一緒ですよ。

(むしろ性風俗規制されないようにそこら辺きっちりしてるからアレだけども)

なんで本人直接言わないかと言われると、言ったんですけど

「お前みたいにぬるま湯リーマンと違って、プロ世界は厳しい、どんなことをやっても自分を売り込まなければいけない

 閲覧にワンクッション入れればそれだけ広告効果が下がるから甘っちょろい事なんて言ってられないんだよ。」

という、ありがたい教えを頂いたからです。

ルールを守って商売していたら潰れてしまう」

って廃液を川に垂れ流したり不法投棄する企業と似たような気配しますが

そういう人たちが自分一生懸命規制派を呼び込んで焼き畑してると思うんですがね……

どうなんでしょ?

2015-12-16

創造自動化

「○年後、○○という業種はコンピュータ(or ロボット)に取って変わられる」という記事最近よく見かける。

単純労働はそうだろうけどデザインなどのアート領域に近いものは無理ではないか、と考える人も多そうな話だが、実は自分は割と真っ先に取って代わられるジャンルじゃないかと思っている。

グラフィックデザインファインアートと違ってかなりの部分を「お約束」、暗黙の約束事に沿った作り方をすることが多いからだ。

例えば自分仕事パンフレットWebなどの仕事を請けた場合、まず行うことは「お手本探し」。

Web検索画像検索を使い、クライアント同業者パンフレットサイトなどをかなりの数見る。

そしてレイアウトメニュー構成、配色などの共通要素を考えた上で、クライアントのコーポレートカラーなどに沿って「再構成」していくような流れになる。

まりクリエイティビティを求められる部分は実はあまりない。どちらかと言えば技術的な仕事

大量のサンプルを収集して共通点を割り出し、内容を自動解析するというのはまさに最近AIが得意とするジャンルだ。

自分仕事自動化の流れから例外はいられないはず。

他にも例えば、動画編集

現在は、複数台のカメラで撮った映像を人の判断によってカット割りしている。

でもこれは、発言者が誰かさえはっきりしていれば、顔認識技術と組み合わせて自動化出来てしまうはずだ。

納品する動画DVD画質で、撮影した動画の画質がフルHD4Kだった場合デジタルズームでも画質は荒れない。

発言者の周辺を自動フレーミングすることすらきっと出来るだろう。

まり撮影は「全体を大まかに」取ればいい。カメラほとんど動かす必要はない。

必要カメラワークAIやらせればいい。そのほうが手ブレも防げる。そんな未来

AI撮影対象物認識するようになった」というのはそれぐらいとんでもない技術で、これと音声認識を組み合わせれば「人物部分を避けて自動バラエティ番組的なテロップをつける(声の解析から適切な書体・配色を判断する)」ということも出来てしまうのではないだろうか。

そうなるともう、人間がやることは「AIへの適切な指示」以外に何もない。

一部の(芸術作品に近い)ハイエンドデザイン以外、デザイナーといえど自動化の流れにきっとは逆らえない。

自分たちが出来ることはせめて「使いこなすこと」だろうなあ、と思う。

2015-12-10

「爆発音事件」て名称は何だよ

「爆破事件」「爆弾テロ事件」だろ? 少なくとも「爆発事件」だろうに。

爆発あっての爆発音だろ? 爆発しないのに爆発音がするのかよ。

爆発に巻き込まれ一般人日本人に限らず)が爆死する可能性もあったわけで、間違いなく殺人未遂だよなあ。

しか無差別の。つまり無差別殺人未遂だ。

テロとつけるのはマズイのか?テロと非テロの違いは何だ?

9.11フランステロ事件も、犯人が「あれは芸術表現しただけだ」といえば芸術作品になるのか?

そんなバカな。テロテロだし、爆発事件は爆発事件だし、無差別攻撃無差別攻撃だ。

発音事件とか言葉遊び茶化すマスコミに疑問を覚える。

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