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2018-02-11

anondタイトルと本文が生み出す芸術作品

それ以上でも以下でもない

2018-01-21

小室がどれだけ酷いことをしようがGet Wild神曲だと思う

曲調、歌詞、サビメロ、サビメロにぴったりの言葉、全てのパズルピースがカチッとハマって一つの芸術作品になったような曲。Get Wild

2018-01-13

この記事は半保護されています。(半保護の方針による半保護) ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン Ludwig van Beethoven Beethoven.jpg 基本情報 別名 楽聖 生誕 1770年12月16日頃 出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン 死没 1827年3月26日(56歳没) オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン ジャンル 古典派音楽 活動期間 1792 - 1827 ベートーヴェンのサイン ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。 目次 [非表示] 1 生涯 2 作風 2.1 初期 2.2 中期 2.3 後期 3 後世の音楽家への影響と評価 4 芸術観 5 思想 6 人物 6.1 名前 6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー 7 死因また健康について 7.1 聴覚障害について 8 親族 9 弟子 10 代表作 10.1 交響曲(全9曲) 10.2 管弦楽曲 10.3 協奏曲、協奏的作品 10.4 室内楽曲 10.5 ピアノ曲 10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 10.7 宗教曲 10.8 歌曲 11 著作 12 伝記 13 脚注 14 参考文献 15 関連項目 16 外部リンク 16.1 録音ファイル 16.2 伝記 生涯 ベートーヴェン(1803年) 1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。 1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。 1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。 20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。 1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。 40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。 1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。 作風 初期 作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。 中期 1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。 中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。 これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。 後期 1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。 後世の音楽家への影響と評価 ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。 ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。 中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。 一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。 芸術観 同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。 ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。 思想 ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。 また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。 政治思想的には自由主義者であり、リベラル進歩的政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。 その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。 人物 身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。 基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。 当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。 潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。 性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。 師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。 パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。 テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。 交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。 聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。 死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。 これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。 メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。 彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。 パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。 コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。 名前 原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。 日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。 姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。 vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。 偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。 ベートーヴェンフリーメイソンリー 詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照 死因また健康について 慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。 ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。 1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。 聴覚障害について 難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。 耳硬化症説 伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。 又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。 先天性梅毒説 「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。 鉛中毒説 上載の死因また健康についてを参照。 メッテルニヒ政権説 ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。 有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。 デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。 完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。 親族 祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版) フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。 祖母:マリア・ヨゼファ 父:ヨハン 母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。 弟:カスパール・アントンカール 甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。 弟:ニコラウス・ヨーハン 同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。 弟カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。 弟子 カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。 フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。 ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。 ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。 アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。 代表作 詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照 交響曲(全9曲) 第1番 ハ長調 op.21 第2番 ニ長調 op.36 第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13] 第4番 変ロ長調 op.60 第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13] 第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12] 第7番 イ長調 op.92 第8番 ヘ長調 op.93 第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13] 管弦楽曲 『レオノーレ』序曲第1番 op.138 『レオノーレ』序曲第3番 op.72b 序曲『コリオラン』ハ短調 op.62 交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91 『命名祝日』序曲 op.115 『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113 『献堂式』序曲 ハ長調op.124 協奏曲、協奏的作品 ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12] ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61 ロマンス第1番 ト長調 op.40 ロマンス第2番 ヘ長調 op.50 三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56 合唱幻想曲 ハ短調 op.80 室内楽曲 弦楽四重奏曲(全16曲) 第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1 第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2 第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3 第10番 変ホ長調(ハープ) op.74 第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95 第12番 変ホ長調 op.127 第13番 変ロ長調 op.130 大フーガ 変ロ長調 op.133 第14番 嬰ハ短調 op.131 第15番 イ短調 op.132 第16番 ヘ長調 op.135 弦楽五重奏曲 (全3曲) ヴァイオリンソナタ(全10曲) 第5番 ヘ長調 『春』 op.24 第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47 チェロソナタ(全5曲) ピアノ三重奏曲(全7曲) 第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1 第7番 変ロ長調『大公』 op.97 その他の室内楽曲 ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17 六重奏曲 op.81b 七重奏曲 変ホ長調 op.20 管楽八重奏曲 op.103 ピアノ曲 ピアノソナタ(全32曲)   第8番 ハ短調『悲愴』 op.13 第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13] 第15番 ニ長調 『田園』 第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2 第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53 第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13] 第26番 変ホ長調『告別』 op.81a 第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106 第30番 ホ長調 op.109 第31番 変イ長調 op.110 第32番 ハ短調 op.111 その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等) 創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34 創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35 『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78 『ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79 創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80 創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76 ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120 アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57 幻想曲 op.77 ポロネーズ ハ長調 op.89 7つのバガテル op.33 11の新しいバガテル op.119 6つのバガテル op.126 バガテル『エリーゼのために』 WoO.59 本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 歌劇『フィデリオ』 op.72c 劇付随音楽『エグモント』op.84 劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113 バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43 オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85 カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112 別れの歌 皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87 宗教曲 ミサ曲 ハ長調 op.86 ミサ・ソレムニス ニ長調 [12]  修道僧の歌 歌曲 アデライーデ op.46 汝を愛す 鶉の鳴き声 新しい愛、新しい生 口づけ 追憶 懺悔の歌 モルモット(旅芸人) 連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』 op.98 曇りのち、快晴 著作 『ベートホーヴェンの手紙』 外山楢夫訳、新しき村出版部、1926年。 『ベートーヷンの手紙』 中西武夫訳、啓明社、1928年。 『ベートーヷン書翰集』 中西武夫訳、啓明社、1930年。 『ベートーヴェンの手紙』第1編、鈴木賢之進訳、音楽世界社〈楽聖書簡叢書〉、1936年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫 2579-2581〉、1940年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎選訳、岩波書店岩波文庫〉、1950年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫〉、1957年、改訂増補版。 - 附:

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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

Ludwig van Beethoven

Beethoven.jpg

基本情報

別名 楽聖

生誕 1770年12月16日

出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン

死没 1827年3月26日(56歳没)

オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン

ジャンル 古典派音楽

活動期間 1792 - 1827

ベートーヴェンのサイン

ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。

目次 [非表示]

1 生涯

2 作風

2.1 初期

2.2 中期

2.3 後期

3 後世の音楽家への影響と評価

4 芸術観

5 思想

6 人物

6.1 名前

6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー

7 死因また健康について

7.1 聴覚障害について

8 親族

9 弟子

10 代表作

10.1 交響曲(全9曲)

10.2 管弦楽曲

10.3 協奏曲、協奏的作品

10.4 室内楽曲

10.5 ピアノ曲

10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

10.7 宗教曲

10.8 歌曲

11 著作

12 伝記

13 脚注

14 参考文献

15 関連項目

16 外部リンク

16.1 録音ファイル

16.2 伝記

生涯

ベートーヴェン(1803年)

1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。

1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。

1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。

20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。

1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。

40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。

1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。

作風

初期

作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。

中期

1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。

中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。

これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。

後期

1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。

後世の音楽家への影響と評価

ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。

ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。

中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。

一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。

芸術観

同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。

ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。

思想

ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。

また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。

政治思想的には自由主義者であり、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。

その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。

人物

身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。

基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。

当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。

潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。

性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。

ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。

パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。

テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。

交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。

聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。

死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。

これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。

メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。

彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。

パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。

コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。

名前

原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。

日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。

姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。

vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。

偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。

ベートーヴェンフリーメイソンリー

詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照

死因また健康について

慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。

ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。

1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。

聴覚障害について

難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。

耳硬化症説

伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。

又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。

先天性梅毒説

「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。

鉛中毒説

上載の死因また健康についてを参照。

メッテルニヒ政権説

ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。

有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。

デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。

完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。

親族

祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版)

フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。

祖母:マリア・ヨゼファ

父:ヨハン

母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。

弟:カスパール・アントンカール

甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。

弟:ニコラウス・ヨーハン

同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。

カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。

弟子

カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。

フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。

ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。

ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。

アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。

代表作

詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照

交響曲(全9曲)

第1番 ハ長調 op.21

第2番 ニ長調 op.36

第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13]

第4番 変ロ長調 op.60

第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13]

第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12]

第7番 イ長調 op.92

第8番 ヘ長調 op.93

第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13]

管弦楽曲

『レオノーレ』序曲第1番 op.138

『レオノーレ』序曲第3番 op.72b

序曲『コリオラン』ハ短調 op.62

交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91

『命名祝日』序曲 op.115

『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113

『献堂式』序曲 ハ長調op.124

協奏曲、協奏的作品

ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12]

ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61

ロマンス第1番 ト長調 op.40

ロマンス第2番 ヘ長調 op.50

三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56

合唱幻想曲 ハ短調 op.80

室内楽曲

弦楽四重奏曲(全16曲)

第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1

第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2

第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3

第10番 変ホ長調(ハープ) op.74

第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95

第12番 変ホ長調 op.127

第13番 変ロ長調 op.130

大フーガ 変ロ長調 op.133

第14番 嬰ハ短調 op.131

第15番 イ短調 op.132

第16番 ヘ長調 op.135

弦楽五重奏曲 (全3曲)

ヴァイオリンソナタ(全10曲)

第5番 ヘ長調 『春』 op.24

第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47

チェロソナタ(全5曲)

ピアノ三重奏曲(全7曲)

第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1

第7番 変ロ長調『大公』 op.97

その他の室内楽曲

ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17

六重奏曲 op.81b

七重奏曲 変ホ長調 op.20

管楽八重奏曲 op.103

ピアノ曲

ピアノソナタ(全32曲)  

第8番 ハ短調『悲愴』 op.13

第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13]

第15番 ニ長調 『田園』

第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2

第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53

第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13]

第26番 変ホ長調『告別』 op.81a

第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106

第30番 ホ長調 op.109

第31番 変イ長調 op.110

第32番 ハ短調 op.111

その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等)

創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34

創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35

『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78

ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79

創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80

創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76

ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120

アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57

幻想曲 op.77

ポロネーズ ハ長調 op.89

7つのバガテル op.33

11の新しいバガテル op.119

6つのバガテル op.126

バガテル『エリーゼのために』 WoO.59

本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。

オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

歌劇『フィデリオ』 op.72c

劇付随音楽『エグモント』op.84

劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113

バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43

オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85

カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112

別れの歌

皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87

宗教曲

ミサ曲 ハ長調 op.86

ミサ・ソレムニス ニ長調 [12] 

修道僧の歌

歌曲

アデライーデ op.46

汝を愛す

鶉の鳴き声

新しい愛、新しい生

口づけ

追憶

懺悔の歌

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2018-01-10

人間らしく生きる事とは

人間らしく生きるためには、考える力必要です。そして、考える力を取り戻すためには、「何もしなくて良い時間」を増やす事が必要なのです。子どもたちを成長させる遊びや、人々を感動させる芸術作品などは、「何もしなくて良い時間からまれています

最近時間の大切さに気付く人も増え、お金よりも時間価値を感じる人が増えてきました。特にお金がなくて困っている訳でもないのに、無理して働いているという状況に疑問を持ち、進んで仕事を辞めていく人も多いです。いくらお金があったとしても、過労で倒れてしまっては意味がないし、自分時間がなければ楽しめません。

多くの人は自分時間犠牲にして必死に働く事で、収入を得ていています。そのため、時間の大切さを忘れてしまい、いつの間にか年を取っていたり家族と過ごす時間を失ったりするのです。しかし、忙しく働いていると、そんな事を考える余裕すらなくなってしまます。それはすなわち、人間にとって大切な「考える」という力を仕事に奪われているという事です。実際にブラック企業などは、過酷労働環境に疑問を持たないように従業員考える力を失わせる事で成り立っています

この記事を読んでいるあなたも、きっとお金よりも時間が欲しいと思っている事でしょう。人間は誰もが未熟なんです。弱い人間とか未熟な人間の方が、はるかに膨れ上がる可能性を持っている。熟したものは逆に無抵抗ものなのです。いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きること。それを忘れちゃいけないと思うのです。

人間本来生き方は無目的、無条件であるべきです。それが誇り!死ぬのもよし、生きるもよし。ただし、その瞬間にベストを尽くすことです。何か、これと思ったら、まず、他人の目を気にしないことです。また、他人の目ばかりでなく、自分の目を気にしないで、委縮せずありのままに生きていけば良いのです。これは、情熱を賭けられるものが見つからないときも大切です。つまり、駄目なら駄目人間でいいと思って、駄目なりに自由に制約を受けないで生きていく。そうすれば、何か、見つけられるチャンスがおのずから開けてくる。

さらですが僕たちが生きるこの社会では、お金がなければ生きていくのが不可能です。

お金が無いからと言って、人さまの家に勝手に上がり込んで冷蔵庫を漁ったり、畑から食べ物を盗むわけにはいきませんものね?

自分で稼いだお金で快適な衣食住環境を整え、毎日お金食べ物を交換し生きていくしかないのです。

要はなんらかの経済活動仕事)を行わなければお金が手に入らない社会システムの中に生きる限り、お金がなければ生きていくことが不可能なのですね。

ところがいざ社会に溶け込めば会社従業員同士の競争の縛りから逃れる事が出来ません。

この矛盾人間らしく生きる活力を奪い、僕らの健全思考さえも奪います

起きてから寝るまで競争。生まれから死ぬまで競争

しかし上には上がいるもので、時に誰かと自分を比べては落ち込んでしまう。

その意味では競争とは一般人24時間365日死ぬまで働かせるための罠なのかもしれません。

 

1年の価値理解するには、落第した学生に聞いてみるといいでしょう。

1ヶ月の価値理解するには、未熟児を産んだ母親に聞いてみると いいでしょう。

1週間の価値理解するには、週間新聞編集者に聞いてみるといいでしょう。

1時間価値理解するには、待ち合わせをしている恋人たちに聞いてみるといいでしょう。

1分の価値理解するには、電車をちょうど乗り過ごした人に聞いてみるといいでしょう。

1秒の価値理解するには、たった今、事故を避けることができた人に聞いてみるといいでしょう。

10分の1秒の価値理解するためには、オリンピック銀メダルに終わった人に聞いてみるといいでしょう。

2017-12-31

anond:20171231174439

インスタ文明衰退の鍵は食文化にある、と考古学者の吉村教授は語る。

「この遺跡から発掘された食器を見てください。ハエのような昆虫の死骸が付着しているでしょう。」

はい、けっこう大きいですね』

インスタバエと言います。当時の人々は宗教上の理由からインスタバエが触れた食べ物を食べることが出来ませんでした。インスタバエ地獄から使者象徴であり、触れた食べ物に手をつけることは地獄への一歩を意味していました。」

『なるほど、それは生活に困ってしまますね』

現代人であれば、駆除を真っ先に考えるでしょう。しかし、インスタ人はハエが付着した料理視覚的な芸術作品として、再利用することに執心してしまったと言われています

→ 来週につづく!

2017-12-25

anond:20171225101059

確か、「民族」の定義に、同一の文化宗教を持つ人間集団、という内容が含まれていたはずなので、定義矛盾ちゃうと思うんだ。

ただ集団としての「民族」の中にいて、ある一人が、俺は信じねえ!と言う・行動することが頻繁に起きていただろうことは、

宗教教典や教えや宗教的ライフスタイルそれから宗教に関して触れられている様々な芸術作品を見るとわかる。

2017-12-22

どうしたらはあちゅう差別認識できるか

インターネット鬼退治しようとしていたら過去童貞差別侮辱する過去発言を重ねていたこから普通に叩かれているはあちゅうさんですが、ものごとを良く理解できていないようで、よくわからない反省(外から見ると後悔と区別がつかない)をしてしまっています。なんか可哀想になってきたので物事簡単に整理しました。

はあちゅうさんの認識

はあちゅう曰:

その自称する「童貞っぽさ」に関して、私が言及するのもNG童貞自虐として言わせている社会も、童貞自虐を受け入れる私も悪い、というのが今の流れだと認識しています

どこまでが表現の自由で、どこから先が許されないのかわからない中で、とにかくお前が言うのはダメと言われている気分です

https://twitter.com/ha_chu/status/943726663010992128

童貞というデリケート言葉を軽々しく使ったことで

傷つけてしまった方に深くお詫びするとともに

今後は個々人が持つ言葉ニュアンスの違いに気を付けて発言するよう、

意識を引き締めていきたいと思います

https://note.mu/ha_chu/n/n9f000c7bb226?creator_urlname=ha_chu


この人は「傷つく人がいるかダメ」だと思ってるようですが、本件の本質は「特定集団に対する差別表現であった」ことだけです。

どうしたら差別表現差別として認識できるのか

「傷つき易い人もいるのね、ごめんね★」という認識をもっている彼女は、どうやったら自分が「差別的表現をした」と気付けるのでしょうか?たぶん、彼女が知っている「頻繁に差別対象となっている集団」への置き換え例をたくさん考えてみるのが一番簡単ですね!やってみましょう。

童貞が「html...エッチtmlってなんかエロいですね」と言った時、私は、童貞というのは救う方法のない病気なのだと悟った。すごいね...ほんとにすごいね

https://twitter.com/ha_chu/status/932120628814942209

童貞を、ブスに置き換えて読んでみましょう。生理前の女とかでもOKです。

「ねえねえ童貞ってなんで童貞なの?」( ´ ▽ ` )ノ

https://twitter.com/ha_chu/status/520170347589402624

黒人に置き換えて読んでみましょう。

童貞の人って、女子相手にされないのを基本として生きているから「あのレベルより二次元のほうがいいもんね」とか言って普通女子を好きにならないのだけど、逆にスーパー美人が優しくしてくれると「俺に女神降臨!」っつってコロっと好きになっちゃってでも高根の花だから落とせなくて結果童貞だ。

https://twitter.com/ha_chu/status/535982396458676224

アラフォー独身女に置き換えてみましょう。

童貞飲み物って私統計ではダイエットコーラ午後ティーで、たまにダイエットかいって黒烏龍茶飲んでるんですよ。シュワシュワと優しい甘味が好きなのだと推察。RT @GAIAnoHIKARU: @ha_chu

午後ティー飲みながらツイッター開いたらこツイートが飛び込んできた

https://twitter.com/ha_chu/status/535993200058826753

黒人に置き換えてみましょう。USっぽいリアリティを出すために、飲み物名前を「ダイエットコーラ午後ティー」→「ファンタコーラ」に、「黒烏龍茶」を「ダイエットコーラ」にしてみましょうか。

一般論として、特定性質から必要な決めつけをすることは差別です。それは特定性質描写することを阻むものではありません。芸術作品童貞描写したり、芸術作品に登場する童貞が「ステレオタイプ的な」振る舞いをすること自体差別表現ではありません。これは、米国映画黒人が登場し、例えば黒人が抱える経済的苦悩や音楽センスという「ステレオタイプ的なイメージ」が描写される「だけ」では差別とされないのと同じことです。社会で広く「差別されている」と認識されている集団に対しても、そうでない集団に対しても集団に対して不必要な決めつけをすることは差別なのです。

はあちゅうさんの過去ツイートは「童貞描写している」のではなく「童貞に対する決めつけ」を行っており、それゆえ差別的なのです。はあちゅうさん、この理屈がわかったらぜひ、童貞の件で自分擁護している人のリツイートしまくるのをやめて、岸さんの件に注力してください。童貞の件の話を続けるかぎり、味方は増えませんよ。

差別的であった」ことが問題である事に気づけずに「人を傷つけた」という謎の気持ち解釈してしまうと

被害者叩き(victim blaming)をする人の心理は「悪いことが起きる人には悪いところがあるに違いない」となっているそう。

https://twitter.com/ha_chu/status/942550489056415744

との発言に見られるように、自分被害者として叩かれていたという謎の自認を産んでしまうようですね。ちがうよ!加害者として、叩かれているんだよ!

2017-12-21

anond:20171221213744

自主制作なので大手映画みたいなエンタメ性・採算性を度外視した結果

思春期拗らせた大学生内面モヤモヤをそのままぶつけたような、見る人が見ると芸術作品に見えなくもない作品が大量に生まれる。

大学生映画ストーリーよりもそのストーリーを伝えるためにどんなカット割りでどんな効果映像作ったかみたいな技術的な面見たほうが楽しいと思う

2017-11-29

anond:20171129150829

死刑になるような国ならそもそも芸術作品として成立しないだろうが

2017-11-21

anond:20171121163946

ほんこれ。

芸術作品プロにも芸術点で評価される演者にも同じこと思うわ。

2017-10-31

https://anond.hatelabo.jp/20171030224021

ここでプロファイリングできるのは10時に50代の熟女で抜き、17時あたりで二次元でムラムラして、一時間たって18時過ぎに洗濯屋ケンちゃん作画すごいわこれは芸術作品だわオナニーとかできないわもっと高尚な趣味を!そうだ純文学とか!純文学とか!もしくは死のう!ということだな?

2017-10-22

anond:20171022175706

ピカソエロティック作品ミノタウロスが女の人をアレしてる絵とか)見たときも同じようなこと思った。

ピカソの奴は美術館芸術作品としてみられるけど、pixiv検索して出てくる同じ構図の絵はアウト。

両者が全く違う物だってことは分かるけど、何が違うのかは言葉で上手く説明できない。

2017-09-18

anond:20170918034231

確かに、言われる通りピカソビートルズ過去オリジナルの上塗りだと思う。

ただ、悲しいがなそれらは時代が進むにつれてオリジナルからコピーへと進化し続けるしかない。

現代技術発達に伴いもうオリジナルがどうとか盗作がどうとかい時代ではない。

過去トリスタン・ツァラが唱えたダダイズムからまれた、デュシャンレディメイドにしても既製品という概念オリジナルと捉え、それを開き直って芸術しか呼んだ。創造概念として独り歩きし始めたのだろう。ましてや写真映画は複製芸術という言葉通りオリジナル芸術作品なんてものは、今の現代はほぼ存在しない。ご存知の通りそれらを皮肉ってアプロプリエーションという表現もある。

オリジナルが正しいという概念を捨て、オリジナル過去の作者の人生観経験普遍的観察を植え付けて概念を形や文章にして創り上げていくことが現代創造である個人的には考える。


コピーすらも創造だと思う、自分も親のコピーもの

2017-09-09

アート無罪という言葉があるなら同人無罪という言葉もあってよいのでは

他人著作物を利用した芸術作品と、他人著作物を利用した同人作品

やってることは同じなのに、前者だけがアート無罪揶揄されるのはおかしいだろう。

2017-08-08

https://anond.hatelabo.jp/20170808002312

こういうのは悪魔の証明はいわない

不可能なことを求められているわけではない

ただ、芸術作品フィクション)をどう解釈するか、その解釈説得力あるかないか問題

2017-08-07

https://anond.hatelabo.jp/20170807221614

否定されてることを理解できないんだよ、あんたが。

包丁機能芸術作品を同一レベルで語る意味のなさに気づけよ。

包丁の例えがまだ有効だとでも思ってるのかよ。

2017-08-04

https://anond.hatelabo.jp/20170804181318

フルタイム程度じゃそんな稼げないよ。

マジで何を想定してるんだ。

手に職ってライン工とかの話してんのか?

優秀な土方ならまだそこまで狙えるけど女で土方で育児日本存在するのか?

オンリーワン芸術作品とかだと修業期間でアホみたいに無給時間あるし、

特殊技工士とかだとまずセンスと才能を問われるから才能ないと選択にすらはいらない。

俺を使って何か答えを出したいんだろうけど、

お前の想定してる最適解は恐らくこの世に存在しないと思うぞ。残念ながら。

2017-07-12

目黒駅加藤綾子アナを見かけたことがある

ついさっき面接スカートをたくし上げてしまったという彼女エピソードが流れてきたので書いてみる。

あれはまだ自分社会人デビューしたての頃で、まだ彼女が目覚ましに出はじめて間もないころだと思う。

その女性加藤綾子だということを知ったのは見かけたあとの話だ。

慣れない外回り疲れた午後、目黒駅山手線を待っているときに扉3つ分くらい向こうの並ぶ場所スタイルが良くてきれいな女性が立ってた。

明らかに他とは違うオーラが出てて、理由もわからずに突然ドキドキしてしまったことを記憶している。

電車が来てしまったので最後に目に焼き付けようと思って眺めていると、急にこちらに向き直ったので目を逸らすのが遅れてしまった。

いつもなら睨まれるかすぐにつんと向き直ってしまうのだけど、彼女は違った。

はにかんだ笑顔で髪の毛を耳にかけながら軽く首をかしげるような仕草を見せたのだ。

当然こんな美人に知り合いがいれば覚えていない訳がない。

その仕草があまりにも美しくて、状況が理解できないまま電車に向き直ってそのまま乗り込んでしまった。

もちろんその日は仕事なんて全く手につかなかった。

得したような狐につままれたような、それが本当に現実だったのかも怪しい気がしてくるほどだった。

彼女は誰で、どうしてそんな笑顔を僕に返してくれたのだろう。

その疑問は翌朝すぐに解決した。昨日の美女が、朝の情報番組で初々しくも一生懸命キャスターを務めていたのだ。

人間まりにも驚くと口の中のものを吹き出すのだということを、人生ではじめて知ることとなった。

すでにメインキャスターになっていたにも関わらず1ファンを大切にしようと笑顔を返してくれた彼女を思えば、あのエピソードが打算や計算ではない彼女の素直さがそうさせてしまったのだろうことは想像に難くない。

あの時の彼女芸術作品のような美しい姿は、一生洗わないと決めた液晶テレビの画面に張り付く米粒を見るたびに昨日のことのように思い出すことができる。

2017-06-28

https://anond.hatelabo.jp/20170628160742

そんな簡単な話じゃなかろうし、過去の経緯から見ても、どのみち誰かの配下になるなら日本より中国を選ぶんじゃね。

高句麗エリア(現北朝鮮に近い範囲)と、旧新羅百済エリア(現韓国に近い範囲)でも、かなりメンタリティ民族意識に差があると読んだことがある。芸術作品とか見ても高麗李朝とかかなり性質が異なるしね。日本で言う関東関西よりも全然差が大きいんだなと感じた。

隣国歴史も掘ってみると面白いもんだよ。

2017-06-01

漫画アニメパクリとか独創性がないと言って叩いてる人って何なんだろう

商業作品ってのは工業製品と同様に、需要に答えるというのがその役割なわけで、

もとより似たようなものを大量に制作することにその意義があると言っていいだろう。

独創性オリジナリティを重視する価値観を持っているなら、

絵画彫刻のような芸術作品趣味にすればいいのに、何故そうしないんだろう?

2017-05-25

https://togetter.com/li/1111579

せっかく海外の正しい人の努力問題提起になってる素晴らしい芸術作品見世物じゃないとかトンチンカン文句つけたりあまつさえショウゾウケンガーとか言い出す始末。

どこまでアベの奴隷化が進んでるのこの国の豚どもって。コメント日本スゴイ教にあふれてて、ほんとネトウヨの主張する謙虚(笑)国民性とかなんなんでしょうねえ?w

2017-02-28

ラ・ラ・ランド (ネタバレあり感想)

良い映画だった。

しかし、大絶賛している人ら程のめり込むことはできず。

ラスト妄想シーンの良さ以外は平凡な作品と感じた。

でもサントラ聴き込んで、また見るときっと楽しいんだろうな。

アカデミー賞残念でした ね。(芸術作品を賞にするなんて下らない)

2017-02-11

http://anond.hatelabo.jp/20170211082444

男性にとって、女性のカラダは女性が思っている以上に遥かに美しく尊い芸術作品なんだ。

いずれ老いて失われてゆくと思えばこそ、写真に撮って残しておきたいと思うのは自然感情

昔は、ゴッホの絵が好きだったかゴッホの絵を集めていたけれど、

今はモネの絵が好きになった。だからといってゴッホの絵を捨てることなど到底できない。

こういう感覚からいかな。

2016-12-16

文章が好きだった。

物心がついた頃には、すでに文字が読めていたらしい。というのはさすがに大げさだろうけど、それでもひとよりは、読み書きの習得が早かったのだろう。

とにかく絵本を読むのが好きな子供だったようだ。家にある絵本を片っ端から読んで、新しい絵本を沢山強請ったらしい。おかげで実家には、本棚いっぱいに絵本が置いてある。

小学校入学する頃には、簡単漢字の読み書きも出来ていた。それ故に、ひらがなのなぞり書きを何十回もさせられる国語の授業と宿題が、ものすごく苦痛だったことをなんとなく覚えている。

小学校には当然、図書室があった。片っ端から、というわけでは無いが、よく本を借りて読んでいた。児童文学を中心に読んでいたと思う。それ以外の本はあまり好きではなかった。

自分物語が好きなんだ、小説が好きなんだ。と、漠然と思っていた。

中学生ぐらいになると、読む楽しさに加えて、書く楽しさを覚えた。読書感想文を書くのが好きだった。こっそり小説なんかも書いたりしていた。

二十歳を過ぎた今でも、小説を中心に、本をよく読んでいる。自分でも書いてみたりしている。

小説を読んでいると、なんとなく楽しい

小説を書いていると、なんとなく楽しい

なんとなく素敵な気持ちになる。

なんとなく安心する。

だけど、今になってやっと、自分別に小説が好きだったわけじゃないんだと、気づき始めた。

インターネットを眺めていると、莫大な量の文章に触れられる。

どこかの誰か、知らない人が書いたブログ記事だったり、小説投稿サイト投稿された作品だったり。増田だったり。大きな本屋さんや、図書館よりも、何倍も多くの文章を読むことができる。

そうやって沢山の文章に触れていると、時折、ものすごく好みの文章出会うことがある。一文読んだだけで、心が奪われる文章。次々と読み進めてしまい、止まらなくなる文章。読んでいるだけで酷く安心感が得られる文章

理由はわからないけど、「なんとなく大好きな文章」と出会うことがあるのだ。そういう文章の中には、意味すら理解できないものもある。何が言いたいのかわからない、内容が伝わってこない、それなのに、なぜか溜まらなく好き。そういう文章出会う。

絵画とか、現代アートとかに近いのかもしれない。理屈じゃなく、素晴らしいと感じるのだ。

きっと自分は、工夫された文章が好きなのだろう。その工夫が、自分の好みと合致したとき幸せに感じるのだ。

小説が好きなわけじゃなかった。物語を伝えるために、表現豊かに工夫された文章が好きだったのだ。

反対に、誰にでも誤解なく正確に伝わるよう書かれたような文章は、あまり好きにはなれなかったのだ。


文章を読むとき芸術先品を鑑賞するようなつもりで文章を読んでいるのかもしれない。さながら、絵画を見るような、音楽聴くようなつもりで。自分にとって文章というのは、ずっとそういうものだったのだろう。

それに気が付いてから、より文章を「書く」ことに注力した。とにかくいい文章を書きたい、自分が好きな文章を書きたい、と思うようになった。誰のためでもなく、自分のために。

消費者として好きだったものを、今度は自分生産者となって作ろうと考えるのは、ごく自然なことだろう。しかし、それは当然簡単ではない。

絵を見るのが好きだからと言って、絵を描くが上手いわけでは無いように。音楽を聞くのが好きだからと言って、作曲が出来るわけでは無いように。

自分文章を読むのが好きだが、ご覧の通り、「書く」方はこんな状態である。基本がなってない上に、センスもなく、なまじ変なこだわりが強いばっかりに、ぎこちなさが目立つ読みにくい文章。はっきり言って下手くそ文章

文章が好きで好きでたまらなくて、ネット上に転がっているどこかの誰かの殴り書きすらも、芸術作品としてとらえている人間の書く文章が「それ」である

結局消費者はどこまで行っても消費者しか無くて、生産者とは相いれないのだろうな、と。まあ、自分で書いていて悲しくなるけど、そういう現実も、あるにはあるのだろう。

それでも文章を書くのは好きだし、これからも書き続けていく。

いつか、自分が納得できるほどの文章が書ければいいと信じて。

2016-12-13

こいつとはアートの話とかできねーなと思った話。

http://moro-oka.hatenablog.com/entry/2016/12/12/055556

  

  

>当然だが作品をつくる作家けがいてもアートは成り立たない。

>それを見る人、理解する人、評価する人、批判する人、そういったそれぞれの「反応」があって初めて作品アートとして成り立つ。

作家がどれだけ頑張って素晴らしい作品を作っても、それを真摯に見てくれる人がいなければ、何の意味もない、

李禹煥の石はただの石になり、Chim↑Pomビルバーガーはただの廃墟になり、ダミアン・ハーストサメはただのホルマリン漬けのサメとなり、

デュシャンの泉はもちろんただの便器になる。

  

もっともだったりそこはどうかしらだったり思うところが色々ある記事なんだけど、

一番気になったのはこのセンテンスについてで、趣旨からは外れた些細な部分かもしれないが

真っ先に「デュシャンは頑張って便器作ったわけじゃねーだろ」とつっこんでしまったのだった。

  

作家作品場所だけで、アートは成り立たないんだろうか。本当に?真摯に見てくれる人の目が絶対必要?本当に?

他者の目がなくても、まずは場所とモノの二者関係で成り立ったのがデュシャン作品だったり、ダミアン・ハーストだったりなんじゃないのか?

  

芸術を志す(した)人が『僕らは芸大に通ってるだけの普通の隣人ですレッテル貼らないで』って言い立てながらその口で

芸術には未だに『真摯に見てくれる人』の目が必要なのかと思うと、おそろしくがっかりする。

結局それは他者の奇異の目はいらないと言いながら、真摯な目は必要とするという、非常にご都合の良い宣言にほかならないのだから

  

アートとして成り立つ作品の前段階には、多分、アーティスト自身作品との戦いがある。

アーティストアートという謎と真摯に向き合った結果がデュシャンの『泉(便器)』で、李禹煥の『もの(岩)』で、

ダミアン・ハーストの『ナチュラルヒストリーホルマリン漬けサメ)』なら、

それを初っ端から"理解する人、評価する人、批判する人"などと真摯な目を期待しなければ成り立たないほどに

そのアートは軟弱ではないはずだし、それを見た人の好奇の目すら飲み込んで人々を頭の中を???でいっぱいにするからこそ、

それらは偉大な現代アートなのだと思う。

  

しかし、こうした注目は、危険ではありますが、あるいは悪いことではないのかもしれません。

>その注目を、もっと深いところまでわたしたちが持っていくことができれば、わたしたちのやっていることを理解してもらえるチャンスになるかもしれません。

芸術というもの重要性に気づいてもらえるかもしれません。そうした期待を込めて、書きました。

  

結局彼女の書きたいことは、「芸術家という人の“こと”」であって「芸術」そのものについてではないし、

それならば彼女就活してるだの、近況で夢を背負わされて辛いだの自分自身出来事記述に終始してることに納得できる。

でも、それは彼女の作った芸術作品でもアートでも何でもないし、私は「芸大生とはなんぞや」という議論

芸術というもの重要性」の議論は全くの別物で、前者を特に議論しようとは思いもしない。

  

こいつとはアートの話とかできねーなと思った次第である

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