はてなキーワード: 芸術作品とは
昔からご飯はコーンポタージュのみだったりプロテインだけ飲んで月の食費が5000円だけだったりお風呂に二、三日入らなかったり、徹夜3日してたりする。
でもめちゃくちゃ健康。お風呂に入ってないって聞いた時は引いたけど。
本棚に簿記とか資格の本が居心地悪そうに並んでたりはする。スランプの時一般人の道に進もうとしたらしい。今は埃を被っている。
仕事もそもそも芸術関連なので好きなものを仕事にしてからますます凄くなった。
コーンポタージュだけじゃなくてちゃんと何か食べなよと言ったらコンポタのカップの横にビスコが並んだ写真がインスタにアップされた。本日のランチ♪じゃないよ。
よくそれで倒れないな。
そして彼女にとって私は背景というかノイズなんだろうなと思う。話してても多分彼女は私の話の内容よりも自分の頭の中のイメージと会話してる気がする。
彼女が私と話すのは、社会生活を送る上で最低限人間の嗜みを忘れないためだと思う。
一度彼女が何かしらでキレて、「増田ちゃんが私と友達やってるのは私が芸術活動しててその憧れからであって【私】自身には興味ないんでしょ!」と言われたことがある。
本当にその通りでびっくりした。
いつも作品と自分自身のことしか見てない彼女が客観的に私のことを見ててかつ言語化してることにも驚いた。
私は彼女の芸術作品しか見てないし、もっと評価されたらいいのにと思うし、世に羽ばたけと思う。
音楽は好きなんだけど、サブカル寄りの人間だから、いわゆるJ-Popや流行り曲は日頃全然聞かない。
でも去年色々あってめちゃくちゃ落ち込んだとき、流行の曲(米津玄師とかVaundyとかYoasobiとかマカロニえんぴつとか)(このラインナップがどのくらい的確に「メジャー感」を捉えてるかもいまいち自信がないくらいには疎いんだが。っていうかこのミュージシャンたちを好きな人はごめん。)の存在にめちゃくちゃ助けられた。
カルチャーのマニアにとっては意外で、アーティストにとっては皮肉かもしれないが、感情の繊細なひだに入り込んできて「自分のために作られたんだ」と感じられるような芸術的な作品体験は人の心を癒すどころか、かえって人の精神をさいなむことがあると私は思う。なぜか。それらは自分という「個人」のもつ考え、感じ方から自分自身を解放してはくれないからだ。むしろそれらを「意識し続けろ」と要請する。芸術作品が伝えている含蓄を咀嚼できる程度には余裕があり、繊細であることを強要する。むろんそれができるのが芸術作品の素晴らしさだとも言える。でもそれがつらいのだ。ごめん芸術。
一方、いわゆるヒット曲は私にとって、自分の生とは全く関係なしに鳴り響いている自然現象みたいなものに近い。それは自分の繊細な感情や言い表せない感情の機微などお構いなしに流れ続ける。変に気持ちに寄り添ったりせず、肯定したりせず、何も心を動かさない(少なくとも私は)。そして自分の生の細やかさに関係なく動き続ける巨大なシステムや、社会という幻想の共同体の中に、うやむやに自分を紛れ込ませてくれる。その徹底的な無関心さによって、むしろ包摂される。そのことに救われたのだった。
出版社が主催する“漫画賞”のスタンスに大きな違和感を抱いているので問題提起させてください。
まず前提として、出版社にとって漫画とは“商品”であり、漫画賞は“儲かる商品の作り手を探す手段”です。
なので極端に言えば「私どもの会社が儲かるための商品を作ってほしいのです、どうかお願いします」というのが正しい姿勢ではないでしょうか。
しかし多くの漫画賞では、応募者を見下す空気が当たり前になっています(具体例は後述します)。
個人でも電子書籍で漫画を売れる時代にわざわざ賞に応募してくれる作家は、それだけで有難い存在と言えるでしょう。
それなのに、私はどうしても作家や作品を軽んじるような、漫画業界の価値観のアップデートできてなさを感じてしまうのです。
漫画賞のポータルサイト・マンナビ(https://mannavi.net/)というものがあります。
試しにこのサイトで適当な漫画賞の応募要項を読んでみてください。出版社の高慢な態度を感じませんか?
豪華先生方がキミの作品を熱烈審査! - https://mannavi.net/newcomer/4218/
応募者を「キミ」と呼んでいます。年齢制限についての記述が無いので決して子供向けの賞ではありません。
冷静に考えて、この空気感が当たり前になっているのは良くないと思います。
繰り返しになりますが、出版社はビジネスとして自社商品の作り手を募集しています。
たとえ漫画内で描かれる世界観が軽いノリであっても、賞は現実のビジネスの場です。
協業相手の候補者を「キミ」呼ばわりすることの不適切さに気づくべきです。
連載を目指し、担当編集者がマンツーマンで指導。 - https://mannavi.net/newcomer/18359/
もちろん商業である以上、作家の描き方を“売れるもの”に加工することは必要ですし、作家もその努力をすべきでしょう。
ただ、そのプロセスを「指導」というのはあまりにも上から目線です。たとえベテラン編集者と新人作家であっても立場は対等であるべきです。
2人は、商品を売る会社員と、商品を作る個人事業主です。同じ会社の社員でもなければ、先生と生徒でもありません。
その他にも個人的には、作品を偉そうに講評したり、応募作に点数をつけたり、受賞者の年齢や居住地を公表したり、ウェブサイト上で人気度を競わせたりするのも嫌だなと感じています。
それらに同意したうえで応募されたのだから良いだろうとも思うのですが、それでも良い気分になれないのは、私が漫画をどうしても芸術作品として捉えていて、そこに優劣などないと考えてしまっているからかもしれません。
アーサー・C・ダントーが提唱した「アートワールド」とは、芸術作品が成立するための社会的・概念的枠組みのことを指します。彼は1964年の論文「The Artworld」で、この概念を提唱しました。ダントーによれば、芸術作品はそれ自体の物理的な特性だけで芸術であるわけではなく、周囲の芸術的な理論や批評、歴史的背景、そしてその作品を芸術として受け入れる社会的な合意など、「アートワールド」と呼ばれる文脈によって芸術作品として認識されるのです。
この枠組みの中では、アーティスト、批評家、鑑賞者、美術館、ギャラリーなどの文化的・社会的要素が、作品の芸術性を定義づけ、芸術とされるための文脈を形成します。したがって、芸術とは「アートワールド」によって成立する文化的な産物であり、その文脈を無視しては理解できないものだとダントーは論じました。
「美しい」という概念は、日常的な意味と芸術哲学における意味で異なる側面があります。主な違いを以下に示します。
### 1. **日常的な「美しい」**
- **感覚的な快楽**: 日常的に「美しい」という言葉を使う際、人々は主に視覚的、聴覚的な快楽に基づいていることが多いです。たとえば、美しい風景、花、音楽などが挙げられます。これは、個人の感覚や好みに依存しやすく、比較的主観的です。
- **直感的な反応**: 美しさは、しばしば瞬間的な直感や感情的な反応として経験されます。特に美的評価を深く考えたり分析したりすることなく、「美しい」と感じることが多いです。
- **普遍的基準の不在**: 日常的な美の概念には、普遍的な基準がなく、何が美しいかは人それぞれです。
- **哲学的探究**: 芸術哲学で「美しい」とされるものは、単に感覚的な快楽にとどまらず、より深い哲学的探究の対象となります。美しさの本質、普遍性、そしてその社会的・文化的な意義について考察されます。
- **形式と内容の関係**: 哲学的には、美はしばしば作品の形式と内容、つまりその構造や秩序、調和に基づいて論じられます。例えば、ある芸術作品の美しさは、その要素がどのように組み合わさり、全体としてどのような意味や感情を生み出すかに依存します。
- **普遍的価値の探求**: 芸術哲学では、美が単なる主観的な感覚にとどまらず、ある程度の普遍性や客観性を持ち得るかどうかが重要な議論の対象です。例えば、イマヌエル・カントは、美を感覚的な快楽のみに基づかない普遍的な判断であると考えました。
- **美の批評と評価**: 芸術哲学においては、美は批評的に評価されるべきものでもあります。これは、美的経験が単なる個人的な感覚ではなく、理性的な評価や批評を通じて共有され、理解されるべきであるという考え方に基づいています。
### 3. **重要な違い**
- **深さと反省**: 日常的な美しさは、即座に感じられる感覚的な反応に基づくのに対し、芸術哲学的な美しさは、深い反省や分析を通じて理解されることが多いです。後者は、感覚を超えた理性的な理解や社会的、文化的背景の中での美の位置づけを重視します。
- **対象の範囲**: 日常的な美は一般に自然や人々が美しいと感じるものに限定されますが、芸術哲学では、美の対象は必ずしも「心地よい」ものに限定されず、異様なものや不快なものにも美的価値が見出されることがあります。
これらの違いを通じて、芸術哲学の「美しい」という概念は、単なる感覚的快楽を超えて、深い哲学的探求と普遍的な価値観の探求を含むものとなっています。
・コーラ・ディ・リエンツォについて
コーラ・ディ・リエンツォ は、中世ローマの政治家であり、ローマ共和国の復興を夢見て活躍した人物です。彼の生涯と業績は、中世ヨーロッパの歴史において非常に興味深い物語となっています。
古代ローマへの憧憬: リエンツォは、古代ローマの栄光を強く意識し、その復興を強く願っていました。
民衆の支持: 民衆の不満やローマ貴族への反感を利用し、民衆の支持を集めました。
独裁官就任: ローマの独裁官に就任し、市政改革に着手しました。この改革は「コーラ革命」と呼ばれています。
市政改革: 税制改革、貴族の特権削減など、民衆に有利な改革を進めました。
独裁的な傾向: 徐々に独裁的な傾向を強め、周囲から警戒されるようになります。
失脚と死: 最終的にはローマ市民に追放され、国外で暗殺されました。
中世ローマの政治: 中世ローマの政治に大きな影響を与え、共和制復活の動きを活発化させました。
・芸術: リヒャルト・ワーグナーのオペラ『リエンツィ』の題材となり、芸術作品としても後世に名を残しています。
都知事選で女性が半裸で写真に写ったポスターを作り、自らそのポスターを張っていた行為に対し、警察が警告したことで撤去に追い込まれた。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.yomiuri.co.jp/election/tochijisen/20240620-OYT1T50179/
「東京都知事選挙でほぼ全裸の女性ポスター掲示、警視庁が条例抵触で警告…候補者「撤去する」」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1244115
「都知事選候補者の“ほぼ全裸”女性ポスターめぐり 都の迷惑防止条例で警告 警視庁 | TBS NEWS DIG」
ニュースそのものや、それに対するブコメがいろいろ突っ込みどころだらけなので気になる点を列挙
・性器や乳首は隠されているので、刑法のわいせつ物陳列罪にはあたらない可能性が高い。
・今回警察が警告した根拠は迷惑防止条例で、「公の場で人を著しくしゆう恥させる卑わいな言動をしてはならない」という規定。「わいせつ」より幅広く対象になる。
迷惑防止条例は全体的にそんな感じで、警察が恣意的に運用して便利に使っていると批判も多い。
・刑法のわいせつ物陳列罪も、迷惑防止条例も、「公職選挙においては禁止から除く」という除外規定はないため、「選挙だから大目に見ろ」と警察が言われても、困るだろう。法令にそんな規定はないので、選挙のときだけ甘く対応したら、それこそ「恣意的運用」である。
起訴までいけば裁判所が「民主主義に必要なのでこの程度で罰すべきではない」と判決を出し判例になっていくかもしれないが、結果的に無罪になるとしても逮捕され裁判を受ける被告人の負担は大きく、ほんらいなら条文に入れ込んでおくべき。
・が、条文で除外規定を設ければ、今回の都知事選のように悪意をもって除外規定を濫用する者はきっと現れるはずで、難しいか。
・あのポスターの掲示が「卑わいな言動」に当たるなら、パンツ一丁の「とにかく明るい安村」が角度によっては全裸に見える姿を、レーティング無しで全国テレビ放送することが「卑わいな言動」で警告されないのは何故か?大相撲の力士達、大相撲の中継放送がなんの問題もなく行われているのは何故か?
・「オッサンには誰も欲情しないから半裸でも卑わいではない、自由にやりなさい」 「若い女には欲情する男がいるから、半裸でも卑わいである、まかりならん」というのは、男性の性欲基準で女性の行動を縛っていて、本人の責によらない性別・年齢による自由の制限であり、男女差別ではないのか?
・若い女性がとにかく明るい安村のような全裸に見える半裸コントをしたいとき、それは禁じられるのか?実際にやってみた動画をyoutubeにアップしたり、公衆の前で披露したら罰せられるのか?
欲情する相手がいない醜い姿の人間(属性)なら許される行動なのに、若い女だと欲情する男がいるから卑わいだと公権力(警察、検察、裁判所)が行動を制限するのは、憲法に定められた平等の権利に反するものではないのか?(ものすごいデブスや老婆だったら?)
・そもそもわいせつ物陳列罪の「わいせつ物」の定義「社会通念による」の運用からして恣意的で、性器が描写されたダビデ像や・裸婦画の現物や写真を公然の場に掲示して摘発されていない。男性器そのものをリアルにかたどったかなまら祭りもお咎めなしである。女性器をリアルにかたどった芸術作品を作ったろくでなし子さんは摘発され最高裁で有罪判決を受けたのに。女体はエロい(男にとって)から隠さなければいけないのか。
・とにかく明るい安村も、大相撲力士も、ゲイの男性やああいうポチャ男性が好みの女性からすれば欲情対象でありその姿は卑わいである。それは少数だからと無視し、「世の多数のノーマル男性」の性欲基準でわいせつ・ひわい認定するのを「社会通念」「国民感情」としている現状は、多様性や平等性からして問題ないのか?
・はてブについていえば、過去に私有地であるビル内の入り口に掲示してあった肌色の多い(着衣はしている)女キャラの大きなイラストを、ネットのフェミニストが「卑わいだ、不適切だ」と抗議して表から見えない裏側に移設させた事例で、「子供も見るのだから抗議・移設は適切だ、TPOを考えろ、ゾーニングだ」と肯定するブコメがスターを集め上位になってたことがあり(他同様の事例多数)、今回のブコメだけ「問題ない、表現の自由だ」とするブコメがスターを集め上位になっているのに、恣意的・偏りを感じざるを得ない。
生身の女性が裸をさらしたいのは女性の自由、女性の権利として大事だが、イラストに描かれた女性の姿は男性の性欲の結果だからより「価値が低い」「重要ではない」「隠されるべき」なのだろうか。
ならば生身の女性が男性受けを狙って肌を露出させたいと思ってたとしたら? 「卑わい」な女キャライラストを女性絵師が表現として描いていたら?
ブコメで「社会通念を基準にするなら、同性婚やジェンダーギャップも」とあってその通りと思った。
社会通念が権利制限の根拠になるのであれば、世の多くの人が「同性で結婚などありえない」と考えてるかぎり、どんなに同性愛当事者が求めても、どんなに苦しんでても、多数の異性愛者にとって何の実害がなくても、「同性婚は社会通念上おかしな要求だから聞く必要はない」とはねのけるのが是となってしまう。
多数の「お気持ち」で少数の権利を制限するのは差別で不当なことだと、同性婚や夫婦別姓では考えることができるのに、どうして性的表現のときだけ「多数のお気持ち=社会通念」で「裸を表現したい」という少数の権利を制限することを是とする事を認める人が多いのか。(ろくでなし子さんや海外でトップレスデモしているフェミニストにとっては、そもそも女の裸は「単なる自分の一部」であって、「性的表現」ではないのだが)
これについて、最高裁は、刑法第175条にいう「わいせつ文書」が如何なるものかを判断する基準として、「わいせつ三要素」を示しました。
①いたずらに性欲を興奮または刺激
そして、ここで重要となるのが、わいせつ性は芸術的作品であることや作者の主観的意図に左右されることがないという点です。
「芸術作品だから、わいせつ性がなくなる」というわけではなく、わいせつか否かは「社会通念」によるというわけです。
最高裁は、これらの見解を述べたうえで、「公共の福祉」論を展開します。
「しかしながら憲法の保障する各種の基本的人権についてそれぞれに関する各条文に制限の可能性を明示していると否とにかかわりなく、憲法12条、13条の規定からしてその濫用が禁止せられ、公共の福祉の制限の下に立つものであり、絶対無制限のものでないことは、当裁判所がしばしば判示したところである。この原則を出版その他表現の自由に適用すれば、この種の自由は極めて重要なものではあるが、しかしやはり公共の福祉によつて制限されるものと認めなければならない。そして性的秩序を守り、最少限度の性道徳を維持することが公共の福祉の内容をなすことについて疑問の余地がないのであるから、本件訳書を猥褻文書と認めその出版を公共の福祉に違反するものとなした原判決は正当であり…」
すなわち、すべての基本的人権は絶対無制限ではなく、公共の福祉の制約の下にあるとの立場を示します。
これは、いわゆる一元的外在制約説という考え方です。