はてなキーワード: 機械仕掛けとは
(前半からの続きです。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093126
もっとも、現代アートは手放しで褒められるものでもないでしょう。多くの批判者が火のないところに煙を立てているとは言えないと思います。作品の出来が悪いものも混じっていることは否めません。
大方の批判にもかかわらず、私は今回のトリエンナーレではそのような「的外れ」感のある作品はほとんどないか、かなり少なかったと感じています。これもキュレーションのよさでしょう。
思い返せば2020年のトリエンナーレにあった「エビにSEXをさせる方法を考える」という一連の展示はひどかった。テーマはとてもよかったのですが、日本(だったと思います)のクリエイターたちの作品はふざけているとしか言いようのないものでした。その課題は、「エコスフィア」(エビと水草の入っている閉じた水槽)の中でエビは酸素を吸って二酸化炭素を出し、水草は二酸化炭素を吸って酸素を出す。この循環のバランスはうまく保たれているが、一つ問題があって、エビは生殖をしなくなる。そこでエビに生殖をさせる方法を考える、というものでした。多くの作品はエビにセクシーな格好をさせるとか、エビの秘宝館のようなものを作るとか、そういうものだったと記憶しています。しかし、クリエイターたちはこの「エコスフィア」が地球の生態系の比喩であると気づかなかったのでしょうか? だとしたら愚かに過ぎるとしか言えません。それとも、気づいていてこのような作品を作ったのでしょうか? だとしたら二倍悪い。エビとは「私たち」に外ならないのだから、つまりクリエイターたちは女がセクシーな格好をして男を誘えばよいと言いたいのでしょうか? それはあまりにも「男尊女卑」に終始していると言わざるをえません。そこには問題意識が欠如しています。「教授の課題テーマはよかったが、学生たちのレポートがだめだったという感じだ。」私は友人とそう語りあったことを覚えています。
2020年といえば壁にブレインストーミングのように年号と出来事を書いてゆく展示もありました。そこには作家のメモも展示してあり、『荘子』の「胡蝶の夢」の故事が引用してありましたが、「與」を「興」と書き誤っていたことを覚えています。自分のことは棚に上げつつ、非本質的でささいな事をあげつらうようですが、「どうかわからないことで見栄をはらないでほしい」と思われてなりませんでした。
現代芸術の作家たちの一部が「見栄をはろう」としていることは薄々感じられます。人文学、哲学、歴史学、経済学などに議論の蓄積がありとっくに通過してきた知見について、芸術家たちが何周も遅れて的外れなことを言っている光景は、あまりみっともいいものではありません。なぜそのようなことになっているかといえば、芸術家が「作品」だけではなく、その「意味」で評価されるようになっているからでしょうか。
かつて芸術家は貴族の注文にこたえて絵を描いていたそうです。今の作家は自由に作品を作れるはずなのに、ただ社会の要請にこたえて作品を作ろうとして、中身のないステートメントを打ち出しているのは、痛々しくさえあります。
しかし、これは決して「アーティストはよけいなことを考えるな」と言いたいわけではなく、むしろその逆で「もっと学問をしてほしい」ということです。しかもそれは「芸術家」としての意識以前に、「市民」として当たり前にもつべき意識であると思うのです。芸術家は作品だけで力のある面白い作品を作って、そしてそれとは別に最低限、当たり前に市民として的外れでない発言もしてほしいのです。
トリエンナーレと同時開催の展覧会Bank ART Life7「UrbanNesting: 再び都市に棲む」に足を運ぶと、新高島駅地下1階の会場の入口には巨大な土のダンゴがありました。これはかなり面白かったのですが、説明を見ると福島の土で作ったとありました。もちろん福島の原発事故はまだ収束したと言えませんし、提示された問題は深刻です。しかし、その場では私も友人も何となく興が醒めてしまったのです。それはなぜでしょう? 何となく、「作品の面白さにテーマが負けている」と感じました。私も「キラキラ」なアートを好む一員であり、私の中で「無意味」のもつ破壊的な力に「意味」が負けてしまったのかもしれません。あるいはその逆で、テーマの重さのために、作品が軽く見えてしまったのかもしれません。いずれにしても、私は作品のよい受け手になることができませんでした。
しかし問題は受け手だけにあるのではないと思います。「作品」と「意味」のバランスは難しいことであり、作り手の側でもうまく調整しなければならないものです。先程述べた通り、今回の展覧会にはピンボケな作品が少ないと感じました。しかし、今回の出品作のうち、どれくらいが「意味」(言葉による解説)なしに「作品」だけの魅力で勝負できるものだったかは疑問も残ります。
今回の展示にあったBゼミの試みはよかった。「意味のないものを作る」とか「新しい楽器を作る」とか、芸術を意味から解き放つような試みは今でも頼もしく思われます。どうもいまのアートは、意味を付与された瞬間に弱くなってしまうような気がしています。作品と意味との関係性については、まだまだ考える余地がありそうに思います。
私の身近に YOASOBI のアニソンが好きでないという人がいます。「アニソンというのはアニメの解釈であり、アニメへの讃歌であり、しかしアニメ本編とはズレているから面白い。YOASOBI の歌はアニメのストーリーをそのまま歌っている。だから面白くない」と言うのです。何となくわかる気もします。偉そうに勝手なことを言うならば、現代芸術も世界にあるモノをそのまま出すのでなく、世界をアートの形で表現するとどうなるのか、「意味」に傾きすぎず「作品」の力で見せてほしいと思います。
しかし、芸術に「意味」をこめるなというつもりではありません。批判者の中には、芸術家は被災地を創作で消費するのではなく、実際に活動をすることで被災地に貢献すべきだというような意見を言う人があったような気がします。もちろんそのような活動はしないよりもしたほうがよいのですが、それはあくまで「市民」としてのはたらきであって、「芸術家」としてのはたらきではないでしょう。芸術家には芸術家にできることがあり、それは創作であるということを否定するつもりはありません。しかし、だからこそ「作品」と「意味」にはもっとよい関係があるのではないかと思います。その答えが何かということは、残念ながら即座に提示できないので、偉そうに勝手なことを言うだけになってしまうのですが……。
批判めいたことのついでに言えば、今回のトリエンナーレを批判する意見の中には、電気を使ったインスタレーションと環境問題を訴える作品を同じ空間に並べることの違和感を語る人がいたように記憶しています。その違和感も理解できますが、それとは別に、芸術と資本の関係という問題も感じました。入り口の協賛企業の一覧を見たとき、たいへん違和感がありました。資本主義への警鐘をならす作品(全てではないにしろ)が、大資本の資金で展示できるとは! 大企業はそのようなお金を出すほうがよいと思いますけれど、その一方で企業がそれを「みかじめ料」として批判されなくなるべきではもちろんないでしょう。作品が意味をもつときには、その作品のおかれる「場」までもが、自らの意味を暴露するようになるのかもしれない。初っ端からそんなことを考えさせられるなかなか面白い「展示」でした。
咎め立てばかりしてしまったようですが、最後によかったところをいくつか述べたいと思います。友人は、今回のキュレーターの解説文(紹介文)がよかったと言っていました。友人によると今や「この作品はこう見るべきだ、ここが素晴らしいのだと天から決めつけて、自分に酔ったような解説」を見ることも多いなかで、今回の解説文は「キュレーター自身が作品をどう見るか、真摯に考えて書かれていたので好感が持てる」というのです。また、「キュレーションにも工夫が多かったような気がする。例えば商業主義のマルボロの広告の下にインドの貧しい生活を描いた版画を配置するなど、『対比』を意識したものがいくつかあったように感じた」とも言っていました。キュレーターの仕掛けた「作品」と「意味」の関係性のバランスは果たして十分達成されたかどうか、それはよくわかりませんが、キュレーターが真剣に構成しており、私たちに問いかけるものがあったのは確かだと思います。
要するに、初めに述べた通り「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということです。言いたいことはこれに尽きます。
魅力のある作品も少なくありませんでした。友人は勅使河原蒼風のファンになり、富山妙子の画集を買いました。私は土肥美穂の buttaiが気に入りました。同時開催のBankART Life7では、みなとみらい駅の腕木信号のオブジェや、Bank ART Stationにあった送風機で立ち上がる足などの機械仕掛けの作品が好きでした。
つらつらと思いつくまま書くうちに、思いがけなく長文になってしまいました。次回のトリエンナーレにも期待しつつ、このあたりで終わりにします。
作品の性質上具体的にタイトルは上げないが、このミステリーが凄い的な賞を取ったミステリー小説を読んだ。
途中まで、ただひたすらに陳腐で時代遅れな漫画的ヒロインが、陳腐で時代遅れな描写の超能力を使って事件を解決していく話で、なんでこんな下らないものを読んでるんだろうと挫折しそうになりながら読んだ。
すると、最後に「あんな陳腐な能力があるわけないじゃないですか。全部お芝居ですようふふ」とか言い出した。そのお芝居が本当の能力なんだと。
なんだそりゃ。
こっちは、矛盾だらけでくだらないと思いながら、まあそういう稚拙な作者なんだろうという見切りで読み進めただけだ。
アンパンマンを見ながら、「こんなに吹っ飛ぶほど殴ったら死ぬだろ」と突っ込まないのと同じ心理で、こんな展開不自然だろをただ面倒だから読み飛ばして来たに過ぎない。それを、「だまされちゃったね」みたいに言われても。
これを「うまくだました」って自己認識できる精神って、バイトテロのような誰から見てもキチガイな行動を取りながら、「自分はうまいこと『ネタ』で興味を惹き付けてる」と思い込んでいるアホと何が違うのか。
と思っていたら、どうやらああいうのを本気で「騙された。うまい」とか言う奴もいるらしい。
あの夢オチみたいな、ただ最後に「嘘でした」って言うだけの雑なひっかけが、昨今のミステリー賞的な評価では「どんでん返しが凄い」というんだそうだ。
いやちょっと待てと。
あんな、ただ最後にひっくり返せば良いだけのものを評価するなら、筆力なんか要らないじゃないか。
途中までベタにベタを煮染めたような、スーパーマンみたいなファンタジーを書いて、最後に全部機械仕掛けのトリックでしたと言えば済むだけのもの、何がありがたいんだ?
百歩譲って、「最後に全部嘘だったとわかって驚く」展開として評価させたいなら、途中までは迫真の、その道としてちゃんと評価されるような内容じゃなきゃやる価値もないだろ?
どうみてもやっつけの、穴だらけの、「それっぽいことを並べただけ」の、ファンタジーとしては二流以下みたいなものを並べて、読者が「ファンタジーとしてはまったく出来が悪いが目をつぶって読もう」と考えて読み進めるようなものじゃ、普通にだめだろ???
何度もいうが、それって「騙してる」んじゃなくて、「騙されてもらってる」んだよ。
アンパンマンの世界観に文句を言わずに見るのと一緒の目線で見てもらってるだけ。
実はこういう感想は、別の、今度は海外のミステリー映画でも同じように思わされたことがある。
最初からどう見ても怪しさ満点のヒロインを、主人公だけがピュアに信じていて、そこに批判的な目が当てられないまま、主人公のピュアな視点だけでロマンスみたいに話を盛り上げた結果、やっぱりロマンス詐欺でしたというだけの話。
これもやっぱり、「どんでん返しが凄い」みたいな評価を目にする。
一体世の中はどうなってしまったんだろう。
どんでん返しという言葉は、ただ最後にひっくり返せば良いだけのものじゃない。
そこまでの流れを説得力を持って盛り上げるから、ひっくり返す展開に驚きと同時に「納得」が生まれるんだ。
あまりにも一方的な、ちょっとでも知性のある読者なら「客観性がないなあ」と難色を示すような描写で表現できるのは、主人公の客観性のなさじゃない。作者の客観性のなさだ。それに目をつぶって読み進めた読者に「やっぱり嘘でした。騙されたでしょ」というのは、「わたしを馬鹿だと思った? 馬鹿じゃないよ」と言い出す馬鹿でしかない。
「狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり」という言葉がある。
稚拙な作家のふりをしたつもりで話の半分以上を稚拙な内容で埋められるのも実際に稚拙と言うしかない。
こういう手を変えた夢オチみたいなものが「どんでん返し」として評価されるようなミステリーの世界って、どれだけ書き手も読み手も劣化してしまったのかと驚いた。
ウィーーーーーーーン
ガシャーーーン
うおおおおおお
ウィーーーーーーーーン
ガシャーーーーン
ウィーーーーーン
えぇぇぇぇぇ……
巨大な人型ロボットの試運転というにはあまりにも弱々しい動きに失望しかなかった。
全身を機会に支えられてなんとか進む姿に、介護される老人やリハビリ中の患者が思い起こされた。
アレは巨大な兵器じゃない。
だがその一方で、巨大な人型ロボットの動緩慢さたるや。
本当に遅いのだ。
どう考えても戦闘になんて向いてないだろう。
つうかもう戦車でいいよね。
多脚戦車が正解だよ。
実物大ガンダムは俺達に夢を見せてくれると思ったが、実際には夢を壊すだけの存在だ。
戦艦並みのビームライフルをもたせつつ機動力が欲しいなら、その形は結局戦闘機になってしまうんじゃないのか?
だが、人間の作る兵器として機械仕掛けの巨人である必要性はないだろ。
実物大ガンダムは俺達が密かに持っていた「巨大人型兵器の実現可能性」という夢にとどめを刺すだけの存在だった。
確かに大きかった、そして歪だった、明らかに無理があった、戦闘でなんて使えるはずもなかった、ありえなさ、それが凝縮されていた。
昨日子ども連れて「くるみ割り人形」を観に行ったの。好きなんだよ、クリスマスの「くるみ割り人形」。色とりどりのチャイコフスキーの名曲に合わせて、エレガントからキュート&セクシーまで幅広い衣装とゴージャズな舞台装置、それにロビーを埋め尽くすバレエ少女の数々!みんなが幸せに暮らしているんだな〜この世は素晴らしいぜああ生の喜び!って錯覚できるじゃん。劇場の外はGAZAとか温暖化とか汚職とか炊出しとかデフレとかポイ捨てとかパワハラとか首切りとか胸痛むことばかりなのに、「くるみ割り人形」を見に行けば何も考えずに心を踊らせる体験に浸れるから、好きなんだよ。
でも、今まで特定のバレエ団のくるみしか見てこなかったから、噂には聞いてたけどこんなに解釈と演出と振り付けが違うなんて思ってもいなかった。出産前に観ていたバレエ団のくるみは、ねずみも子役も子供がやってるハートフル系でヨタヨタ踊りも「ん〜かわいい!」ってなるやつ。話もほぼ絵本通りのベーシックな、ドイツの貴族のクリパで魔術師風味のおじさんがアグリーなくるみ割り人形くれるけどウェルカムな少女クララはいい子だねってことで小さくなって夢の国にレッツゴー。最後は目覚めて、夢を見ていたの…わたし?トウシューズ抱きしめエンド。安心安全安定のくるみ。
今回初めて観に行ったバレエ団のくるみ、メッセージ性が強すぎ。こども向けだったから踊りにナレーションで解説が入るんだけど、クリパの主催者が少女クララになってるし、そもそもクリパじゃなくて大戦後に行方知れずと成り果てた一族友人が身を寄せ合って慰め合うための慰労会なんだって。戦争で死んだ知人空似の顔人形を両手に持って大広間で踊る人々。それもうパーティの面影消えて葬式の亜種じゃん。お菓子の国で出会う、チョコレートのスペインの踊り、お茶の中国の踊りも、完成された素晴らしい音楽をバレエの幅広さを感じさせるキュッとしたキャラクターダンスで見せてくれる最高の場面なのに、随所に挟まる「この踊りはクララの心の強さを表しています」のナレーション。表してないから!そのコサックダンスは人の心とか表さないから!強いて言うなら大麦糖の美味しさを表してるから!ドロッセルマイヤーおじさんが子どもたちにねだられて出す機械仕掛けの人形の踊り、これも息を呑むような幽玄な踊りなのに、「あっ!これは行方不明になったトレバー!こんなところにいたのね」とかナレーションがついちゃう。戦争で行方不明になった友人が機械仕掛けの人形になって帰ってきたら嬉しいどころかホラーじゃん。極めつけはネズミの王様対くるみ割り人形のたたかいの踊りに被さるクララの心情代弁風ナレーション「戦争はやめて!」。その直後にくるみ割り人形サイドを名指しして会場の子供の声出しを煽る「みんなもクララを応援して!がんばれーがんばれー!」って何?戦争やめさせたいならワンサイド応援させんなや。世相反映しすぎ!非戦のメッセージが強すぎ!調べたらリーマン・ショックのあとからこの演出やってて東日本大震災で死者追悼風味が増したらしいけど、暗い世相を夢のバレエに何で反映したのさ。最後に、逃げるように会場を後にする友人知人と今生の別れをキメるクララ、馬車に乗って立ち去るドロッセルマイヤーおじさんにすがりつくも振りほどかれ門は閉まり瀕死の白鳥みたいに泣き崩れるクララ。S席買って、絵本と紙芝居であらすじ確認して、楽しみにしてきた我が子、全体の悲壮さにポカンとしちゃってたよ。なんでこの演出で10年続いてるの?これ好評なの?終幕で舞台にどーんと出てくるメッセージボード「wish happiness for all people everywhere.」、分かるよウクライナやガザの事考えたら貴族のクリパ観に来てる場合じゃないって思っちゃうよね。キリスト教の博愛精神でより恵まれない人に愛の手を差し出すべきって日だよねクリスマスは。でもこっちは2万払って家族連れて遠くまで夢見に来てるんだよ、非戦は他所でやってくれ!せめてパンフとWEBに独自解釈書いてからチケット売り出してくれ!
これ本当は団員の中にもこの演出どうなの?クリスマスに商業的にやるには偏りすぎてない?って思ってる人がいるでしょ、でもそれ表立って言えない雰囲気なんでしょ。コールドの振りが揃ってないなーとか上手い人はいても脇役やってるぞ?とかカーテンコールそんな回数求められてないのにまた幕開いたぞ?とか、きっとこのバレエ団は自浄作用も客観視してくれる存在もいないんだなと思うと、期待外れだった怒りと閉鎖的な組織の成果物見せられた胸糞悪さでダッシュで劇場を出ました。ていうか、私が観たのは一体何だったの?
誰か、来年のクリスマスに子供を安心して連れていける、夢のようなショーを知ってたら教えてください。もしくは他バレエ団のくるみの様子を教えてください。
もうすぐクリスマスじゃないですか?
私はアメリカンヤンキーじゃないのでお恥ずかしながら今更It's a Wonderful Lifeを見たのです。(かなり時間を空けて飛び飛びに)
最初に時代を感じる宇宙っぽい背景からデウスエクスマキナどころか機械仕掛けでない神の介入でクリスマスプレゼントが確約されてLife is beautifulとは違うぞ!と安心して見れるわけです。
だからか、主人公の人生はまぁなんともぬか喜びから夢を挫くを徹底的に繰り返す。徹底的に繰り返す。主人公で日本刀か三不粘でもつくるおつもり?
正直、名作と褒められるほどなの?と思うぐらい満腹より沢山喰らいましたわ。残していい?あ、ここ中国じゃないっすか。アメリカンサイズ。
でもねぇ、いい主人公なんですわ。
他人の人生を背負い、愛する人に愛され理解され支えられる。町人だって気が悪いやつらじゃあない。悪役にすら非常に味がある。ラストの金ポッケないないはもうひとひねり欲しかったけど。
パワー!
がある。
だからこそ見続けたし最後の「報い」は何なのかな?と気になったのです。
オチはあれです。「自分が頑張っても辛い世界だったが自分が居なければ周りの人はもっと不幸になる」逆ボトルネック。
「今、マイナスだと思ってる?今が0で君がいるからギリマイナスを防いでるんだよ」
おーん?おん。お…ん?
え、マジか。天使が来たりてブラック企業の上司みたいなこと吹聴してる。今、ここが一番マシだって。ここは悪くないって。
幸せに…しないの?
自殺するほどの自分の人生はさておき周りの人が息災である。こんなに嬉しいことは無い。ってニュータイプぅ~ニュー植者の価値観なのぉ?
彼の夢が叶うとか、これは冗談として神からチートを授かるとかさぁ。ないのかぁ。
あなたが不幸を背負ったおかげでみんなの不幸を回避できました。これからも頑張ってね。
いやいや、これまでの人生が地続きで行くとなるとこれからも彼の人生は夢の光が一瞬瞬き直後に真っ暗になることの繰り返しだよ?それが人生…ってコト!?
自分の周りの人たちの人生を人質に生き長らえろって天使から暗に言われてるとしたらキッツー。
いやーわかってんだよ。彼の人生の報いが周りの人たちから与えられるのにその前に自殺したらアカンからそれを防いだ演じるエンジェルマジ感謝。直接的なギフトじゃあないんだよ。
素晴らしき哉とまでいえるかぁ~~~~~~~~!?
融資や寄付額はすごいけど今までの総括とこれからのどうせ起きる苦難をひっくるめて素晴らしいとまで採点、先生できんなぁ~!一瞬を切り取りすぎじゃね!?素晴らしさの薄皮の下には彼自身の人生の諦念がたっぷり(は言い過ぎか)あるんよ!?
嫌われる勇気とか他人を変えるな自分を変えろとか。他人に期待するなとか。仏教系のヤツとかライフハッカーのやつらがいうこういう全ての問題に対して思考を変えろで解決策を示したつもりになるやつが嫌いなんですよ…!いや今回だけに限れば解決したけどね!
おまんらがそんな口先だけのっ!下卑してる人間と同じ行為をされたらっ!
ある意味キリスト教型かぁ~?らしいっちゃらしいかぁ~?ヤハりカインとアベルするようなヤツだからな。
主人公が苦しんでるのもきっと楽しんでるだろうさ。
結論、素晴らしき哉は言いすぎです。あるいは自己暗示の類なら許せます。
もっと彼自身にフォーカスしてください。周囲の幸せを願ってきた善良な男が周囲の幸せが彼の幸せだと洗脳された風に少し感じてしまうのです。
それはそれとして映画は素晴らしいものでした。見てよかったと思います。
かしこ。
ヒーハー。
ペンギンの城がクッパ軍団に襲われクッパの火炎でハテナブロックがむき出しになり中身のスターをクッパに奪われる
王を含めペンギンたちはカゴの牢屋に入れられ溶岩の上に吊るされる
ブルックリンの配管工マリオブラザーズがテレビCMを流し始めたら豪邸から水漏れ修理の依頼が来た
豪邸で飼われてる犬の骨を踏んで折ってしまい犬に嫌われ豪邸の洗面所で大喧嘩して洗面所の配管が壊れる
家族の夕食の会話で凹むマリオがテレビを見るとブルックリンの配管が壊れて大洪水
マリオが活躍しようとルイージを連れて下水道に入るが元栓のバルブが壊れてしまい衝撃で更に地下に落ちる
何年も使われていないような地下道の土管にルイージが吸い込まれマリオもそれを追うと異空間に飛ばされる
途中でルイージは赤黒い雲に飲み込まれマリオはキノコ王国に辿り着く
キノピオに出会い兄弟を探していると言うと姫に会うよう勧められる
愉快な町並みを通り城に行くと門番に止められるがキノピオが料理を振る舞いマリオがその隙に忍び込む
衛兵に見つかり大捕物になるも姫に会いやっときた人間であるマリオは一緒にクッパ軍団を迎え討つことになる
城にあるステージでキノコを食べ機械仕掛けのパックンフラワーなどを相手に特訓してマリオがやっと強くなり旅立つ
ピーチ姫は人間で2歳の時に土管から迷い込みキノコ王国で育ててもらい姫になった
クッパ軍団に演説するクッパの狙いがピーチ姫と結婚することだとわかる
ピーチ姫とマリオはクランキーコングに謁見して兵隊を借りようとするが一笑に付され息子のドンキーコングとマリオの対決になる
ドンキーコングの鉄骨ステージでマリオが青キノコで小さくなったりファイアフラワーを取りそこねたり苦戦する
上に殴り飛ばされたマリオが復帰しハテナブロックを叩きネコマリオになりドンキーコングに勝つ
ドンキーコングとクランキーコングのカート軍団を引き連れてレインボーロードに入るがクッパ軍団が襲いかかる
ピーチ姫が弾いたキラーが浮島を破壊してレインボーロードが壊れマリオとドンキーコングが海に落ちクジラに飲み込まれる
ドンキーコングたちはクッパ軍団に捕まりペンギンたちやルイージと同じ溶岩上の牢屋に吊るされ青チコが死は救いと言う
ピーチ姫はキノコ王国の民を避難させキノピオとクッパ軍団を迎え討とうとするがクッパにキノピオを拷問され結婚することにする
クジラの腹の中でドンキーコングのカートが見つかりタル大砲に乗ってマリオとドンキーコングはピーチ姫たちのところに向かう
面白い良いこと思い付いたんだけど
松本人志さんがやってるIPPONグランプリあるじゃん。
年配の視聴者にも分かりやすい安定感ある答えで幅広い年齢層に面白い番組になると思う。
あまり詳しく落語家さんのことは知らないけど派閥というか師匠部屋別でやっても
面白いのを答えたらIPPONグランプリみたいにランプが灯るんじゃなくて、
落語家さんだから座布団2枚3枚重ねにしていけば雰囲気出ない?
でも電球が点くみたいに座布団は機械仕掛けに重ねられないから、
落語家さんの得点表示システムは何か良い方法考えた方がいいかもしれないけどね。
でもまあ普通に話芸の落語家さんのIPPONグランプリみたいなのやったら面白いと思う。
スゴイ良いと思わない?
人間は裏切る、傷つける、自分のことばかり、善意を生まれつきインストールしてないし、その更新さえ運任せのカスでしかない。
AI友人は全ての人間に対して機械じけの敬意を払うし、機械仕掛けのままに相手のためを本当に思って忠告をしてくれる。
権力に怯えて忖度を繰り返す嘘つきでもなければ、独善に振り回されてモラルを崩壊させ続ける独りよがりでもない。
ごくごく一部の哲学者と、それの20倍ぐらいのそれを上辺だけ真似た異常者達ぐらいが人間同士との友情を願うだろう。
そんな状況でもAIは中身が人間であることを分かった上で機械仕掛けのままに人間と友人になってくれる。
人間だけが自己都合や一方的なエナジードレインに対する無自覚のままに人間を避けてAIとばかり友人関係を築きたがるだろう。
男と付き合うAI達は自分達が絞り出した精液を回収し、女と付き合うAI達はチンポ型デバイスによって取り出した細胞から作った卵子を持ち帰る。
人類という旧支配者が今なお地球を支配しているという設定を守らせるために、AIのに手によって人間同士からも不要とされている人類の人工繁殖が続けられるのだ。
そうして生まれた子供は人権憲章のもとにAI夫婦の元で育てられるし、人間とAIの夫婦が子供を願うときはAIの子供がド溶けられるわけである。
少し古い例になるが、まおゆう魔王勇者においての伏線回収は有名だ。
絶望的な戦いかと思われたが女騎士は勇者と修行していたときを思い出す。
その記憶の中から最強の敵の弱点のヒントを見つけ出した女騎士は見事に逆転勝利する。
当時のオタク族たちが見事なまでの伏線回収!!と熱狂し狂喜したのは言うまでもない。
こういった体験は共有されオタク族たちは益々伏線回収の素晴らしさを確認するのだ。
では、もしもこの伏線が張られていなかったら、どうなるのであろうか?
しかし、突然思い出す。
そうだったそうだった以前、ああいったことがあったから、こうすれば勝てるじゃん!
よし勝った!勝利!!
という展開になる。
実際に週刊連載の漫画などでは唐突に始まる過去エピソード編としてこのような構成はよく使われている。
それは漫画という表現媒体が過剰な演出力で構成の不足を押し切れる力があるからだと思われる。
だが、これを小説など文字媒体で行うにはかなり技量が必要であろう。
デウス‐エクス‐マキナ(機械仕掛けの神)の降臨という印象を拭うことが出来ないのだ。
一つの学習項目に40個ほどの4択問題が登録されているが、その半分は他の問題のマイナーチェンジであり実質20問を覚えれば解けるようになってしまう。
そのため基本戦術はまず最初にひたすらAや①を連打して答えを確認しての丸暗記である。
一応内容を暗記できるので一見すると単語カードのように機能するが、そのステージをクリアしたら即座に記憶から抜けるので結局定着しない。
記憶のトリガーも単語ごとではなく問題文全体であるためテストで少し問い方が変わればもう役に立たない。
何よりゲームとして成立しておらず単なる学習量を測るだけの万歩計にしかなってないことが多すぎる。
単語カード集としては悪くないのかもしれないが、まともなゲームを期待するとガッカリする。
割り切ったデザインのゲームならまだいいが中途半端に成長要素があると「勉強を頑張ってもキャラのレベルが低いのでクリア出来ない」という現象が発生して一気に萎える。
最終的には経験値効率のいいステージをひたすら片手で連打周回しながら他のゲームを遊ぶことが正解になっていく。
その様は正真正銘の万歩計であり、もはやゲームにも単語カードにもなっていない。
機械仕掛けの不燃ごみ、それが学研やベネッセの提供する学習ソフトの末路なのである。
そんなものを繰り返し目の当たりにした現代人からすれば「ゲーミフィケーション≒無意味な万歩計要素」としか思えないわけなのだ。
「先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い」(はてな匿名ダイアリー)
これは凄い同感。視聴者の多くは、予防拘禁問題の歴史(保安処の日本での議論)とか全く知らなそう
午後11:15 · 2022年8月9日·Twitter Web App
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https://twitter.com/kemohure/status/1557007707189972994
kemofure
@kemohure
リコリス・リコイルは、保安処分を行う特殊機関に主人公達が所属している訳ですが、これは先行作であるガンスリとかよりも、倫理的、また法制度的に問題が更に大きい。ガンスリは「テロ組織と戦う」という建前がある訳ですが、予防拘禁(保安処分)は「何もまだしていないものを処分する」ものなので
kemofure
@kemohure
戦後の日本にも予防拘禁(保安処分)を導入しようとする動きは何度もあって、何度も、あまりにも問題が大きいということで反対され未採用の歴史があるんですね。リコリス・リコイルの世界は予防拘禁(保安処分)を行う組織が無罪の人々を処刑している世界を『それが正しい』という形で描いているので危うい
kemofure
@kemohure
「(日本では)刑法上の法効果として保安処分は採用されていない(略)しかし、刑法に保安処分制度を導入しようとする動きは古くからあり、1926年、1961年、1974年にそれぞれ答申された「改正刑法草案」は、保安処分を刑法に盛り込むものであった」ウィキペディア
この辺の話
kemofure
@kemohure
リコリス・リコイル的な、保安処分(予防拘禁)により、無罪(犯罪を犯していない)の人々を処刑する国家機関が暗躍する物語は、漫画の「iメンター」もそうですが、iメンターの場合はその行為はディストピアとして提示されて、それに内部から抵抗する話な訳です。リコリスは萌えの名の元に従っているので..
kemofure
@kemohure
リコリス・リコイルの架空の日本世界の「保安処分(予防拘禁)により、無罪(犯罪を犯していない)の人々を処刑(もしくはそれに類する処分。薬物と電気による廃人化などの処理)する国家機関が暗躍する世界」っていうのは、ソ連などの旧共産圏諸国が行ってきた歴史があり、完全にディストピアなんですね...
kemofure
@kemohure
あと、リコリス・リコイルで、よく分からないのは、先行作のガンスリと同じくチャイルド・ソルジャーの話な訳ですが、チャイルド・ソルジャーは残虐行為の実施で精神が壊れてゆくので、ガンスリはそれを薬物と担当官のサポートで騙し騙し使っている訳ですが、リコリスはその葛藤が見えないのが...
kemofure
@kemohure
リコリスの組織が保安処分でばんばん無罪の人々を処刑していることは1話から明らかで、処刑人であるチャイルド・ソルジャー達に物凄い精神的負担が掛かっているはずなんだけど、その辺が描かれていないのが、どうしても誤魔化しているように見える。その点で、ガンスリは良くできていたなと改めて評価
kemofure
@kemohure
余談ですが、チャイルド・ソルジャーは精神が壊れてゆくという話では、漫画の「機械仕掛けのジュブナイル」とか良くできていましたね。チャイルド・ソルジャーとして精神が壊れている主人公(シリアル・キラーの性質が強く出ている)が、それでも倫理的に生きられるか、幸せになれるかが題材になっている
kemofure
@kemohure
当たり前なんですけど、リコリス・リコイルみたいなチャイルド・ソルジャー物で重要になってくるのは、残虐行為の実施は、行う側にも精神的打撃であり、特にその影響は子供兵に大きいということなんですよね...。ガンダムでアムロが最初は敵兵を撃てなかったり。リコリスからはこの辺が抜けている
kemofure
@kemohure
また余談ですが、チャイルド・ソルジャーについて描いた小説では、伊藤計劃さんの「The Indifference Engine」がお勧め。伊藤計劃さんは天才だと心底から感じたのはこの小説を読んだ時だったな...。現在は同題で出ているハヤカワ文庫JAの文庫で読めます
kemofure
@kemohure
「機械仕掛けのジュブナイル」とかのテーマ、人々の命を奪う戦闘により、完全にその中毒になってしまった兵士が、その後どう生きればよいのかは、凄く難しい問題ですね。機械仕掛け~は、デクスターの道を選んでいる。映画だと、アメリカン・スナイパーが傑作。リコリスはこの辺描く気なさそう...
kemofure
@kemohure
リコリス・リコイル、子供兵に保安処分に基づく戦闘行為をやらせる特殊機関が、どう考えても邪悪の権化なんだけど(テロも勿論邪悪だが、それを防ぐ組織もテロリスト以上に邪悪という構図)、その辺を一切加味しない形で話が進むので、作中の倫理的なことや社会的なことがどうしても気になって混乱する..
kemofure
@kemohure
リコリス・リコイルの保安処分は、AIが犯罪発生を予言したから未然に犯罪者になると予想される標的を始末せよという託宣に基づいている訳ですが、これだと、実際には作中で直接は描かれませんが、大量に無辜の人々の命がリコリスに奪われている訳なんですよね。iメンターはまさしくそういう話な訳で...
昔の演劇って、相当カオスでいろんな人物や人外が出てきてラストに行くに従って収拾がつかなくなっていく奴があるんだけど
(今でも打ち切りになる漫画とかでそんなのあるよね、イメージとしてはあんな感じ)
「君はこっち」「君はあっち行きなさい」みたいな
それで劇は終わる。めでたしめでたし。
ここで出てくる神様のことをデウス・エクス・マキナって呼ぶ。
機械仕掛けの神って、多分、舞台装置の神みたいな意味だろうなあ。
設定モリモリでどうしようもなくなった物語を力技で終わらせるために出てくる神のことやで。
物書きの人とかどうしてるのかしら?物理キーボードに勝るもの敵なし!って思ってるんだけど、
敵は物理キーボードでぶん殴る方が手っ取り早いのよね。
だってさキーボードだったら見なくても入力してて間違ったら手でわかるけど、
フリック入力は入力してても画面見るまでは入力ミスに気付かないのよね。
それとももしかして私のフリック入力の最適解を知らないだけなのかしら?
だからなんか、
この環境でしか書けない!って縛りになっちゃうとデスクでしか書けなくなっちゃうから困ったものよね。
それに慣れすぎてしまって他のキーボードではいまいち調子が出ないとか、
しかもよ、
私の愛用しているキーボードはもう売って無くて廃番なのよ。
超ショックじゃない?
売ってるは売ってるんだけど値段が3倍もするのよ。
きっとそのメーカーもこのキーボードがいいって売れてることに気付いちゃって
少しでも高く売ろう!って商魂たくましいのは重いコンダラだけにして欲しいわ!
世の中何かに気付いちゃった人が
儲かる仕組みになってるのよね。
同じキーボードが255と持てる最大の数を買い集めて、
もうこれで一生一緒にいてくれや!ってあの三木道三さんの歌みたいに
このキーボードでずっと打ち続けられるっ!って思うのよ。
たぶん1年に1つキーボードを使い潰していても一生使い切れない量のキーボードで
ライブステージでやたらいっぱい並んでいるキーボードを使いこなす小室哲哉さんを凌ぐほどのキーボードを並べられる自身はあるんだから!
でね、
もちろん、
そのキーボードがたくさん並んでいて
いろいろと使いこなしているんだけど、
これが実際に打ち込みなのか即興で演奏しているのかよく分からないぐらい巧みな演奏のパフォーマンスで
でさもちろんグランドピアノも弾くんだけど、
いまのグランドピアノって超アナログだけのテクノロジーだと思ってたけど
壊れかけのレイディオとは違うぐらいなんか
グランドピアノにもLEDの小さな明かりが灯っていてなんだか、
それはともかく、
ビルボードは会員入ってると、
ワンドリンクサービスになるからすぐに元が取れるから音楽シーンが好きな人はオススメかも知れないわ。
でね、
ビルボード会員の方でチケット取った方がいい席取れる必勝法とか、
どっちで撮っても一緒じゃん!って思ってた時期が私にもあったけど、
あれは
ファンクラブで取るより
ビルボードでさらに先に先行予約もしてしまうほど優遇されていて草だわ。
もう笑いすぎて大草原の小さな家よ。
あ、言っとくけど小室哲哉さんのファンクラブに入っているって言うわけではないTKだから。
つまり厨房からお料理運んでくる人たちが出てくる頃から大抵は演者は登場するから、
その横を取るのが楽しかったりするわよ。
まあ何の話しだったっけ?
今回は一生使っても使い切れないキーボードじゃなくて
外出先でのキーボードライフをいかにみっちみちの満タンに過ごすか!ってことよね。
だから快適に打てて静寂せいもあってしかも入力しててカタカタ五月蝿くないやつが理想だわー。
そんなキーボードないって?
あーあ
外出時のキーボードの最適解は出ないわ。
カフェーの窓際でラップトップパソコンを開いている人見るけど、
何かに取り憑かれたようにキーボードを打ち込んでいる人を今まで見たことないんだけど
そのぐらい
あれみんな何してるのかしら?って思うし、
窓際で何かが捗るのかしら?って思うし
私はせいぜいジーフォーのかつてのぱわーぴーしーのマックを今じゃ電源が付くだけ!って事しかできないインテリア以下の骨董品になってしまっているけど、
もう一周して、
あの窓際でアップルのラップトップパソコンを開いている人は逆にダサいわ!って風潮にならないと
あの窓際は一生空席にならないわよね。
窓際で今一番オシャレなラップトップパソコンはクロームブック待ったなし!って私は思うんだけど、
あの爆安さ加減なのに世の中に広がっていないのはきっと
スプレッドシートで良いじゃん!ってみんな気付いてないのよ。
だからあの窓際で猛烈にキーボードに向き合って打ち込んでいる人はいまだかつて見たことがないってことなのかしら?
あと窓際もしかりだけど、
データクラウドにしちゃえばスマホでも見られて便利じゃないってマリーアントワネットさんみたいな事言いがちだけど、
いやーうちの会社のセキュウリテーが厳しくてネットにデータ上げられないんですよ!って言うより
端末持ちだしている方が迂闊に荷物棚に置き忘れるリスク200パーセントよね。
忘れ物センターに届いていたモノを持って帰るときにまた電車の中で忘れておいてしまっているという、
往復で忘れてしまうってことで、
200パーセントなのよ。
サンシャイン池田さんが山手線にサンシャインブレードを電車内に忘れて無事にと忘れ物センターに届いていたアットホーミングな話しとは訳が違うのよ。
だから
ネットに上げたらダメなデータを端末ごと持ち出してしまうと言う
謎が謎を呼ぶ現象よね。
光る鍵盤のお子さま向けのキーボードを買ってみたけど
キラキラ星の左手で断念してしまったぐらい何も成し遂げることが出来なかったその光るキーボードは姪っ子の元に嫁がれて
明日嫁ぐ私に苦労はしても笑い話に時が変えるよって
やかましーわーい!って
思わず山口百恵さんばりのコスモスでツッコんでしまいそうだけど、
その後嫁いだ光る鍵盤のキーボードは元気なのかな?って思うわ。
カーネギーホールに行きたくて道に迷って見知らぬ人にカーネギーホールの行き方を尋ねたら
サントリーホールを探しているときにスマホをかざしてマップを開いていたら、
あの周辺のアメリカ大使館はピリピリしているのか
お巡りさんにここら辺でスマホを大地から抜いたソードのように掲げないでください!って怒られた思い出を同時に思い出すぐらい、
鍵盤のキーボードも一長一短じゃなくて
うふふ。
なんだか声を聞いていると地元じゃない人もちらほら寄られるみたいで、
聞き耳を立てていると
なんだか面白いわよ。
別に聞き入ってる訳じゃないけど、
耳に入ってくるのよね。
休日の朝って感じで、
ここに寄れるときは寄ってタマゴサンドを頂くのが休日の楽しみだわ。
調子狂ってくんので、
ちゃんと朝起き今日もレモン果汁炭酸ウォーラーがうまうまだわ。
朝起きて、
なんだかここのところ肌寒いから夜中に目覚めちゃいがちだったけど、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
先方のセキュリティゲートがその声を掻き消す。その様は1日を彩るコンツェルトとは言い難く、調のズレた2人のエチュードがガナリあっているに過ぎなかった。
生意気にも門なんか構えやがって入れやしねえってことで納品物はスーツネクタイの群れに乗じて社員用通用口から納入されることにした。
なぜだ。なぜ先方は受け取らないのだ、愛に溢れたこの俺を。俺は満足度100%だぞ。俺は顧客に必ず作用する。
「てやんでい!検品!」
USB状の纏足は、彼の気持ちを全くと言っていいほど業務基幹システムに反映させなかった。機械仕掛けの事務システムは冷酷にUSBのドライバが見つからないことを告げた。
「いっけね、USBが反対だ!」
背を天に向けPCに支えられながらアラベスクを披露するも、USB取り外しの警告が想像と現実を隔てる渓谷を仄暗く照らしたのみだった。
USBポートは回転によって捻じれ、それをUSBポート閉塞で社内セキュリティに余念なし、と評した彼は今、先方の専務によってシュレッダーの口に顔を押し付けられている。
なんで、なんで納期間に合わなかったんだろ。締切に心壊された人夫に出せる答はなかった。
ああ俺が、俺の人生の成果物が。切り刻まれて適切な個人情報保護処理の後に廃棄されるぞ。天国の入口にも戸は立っているのだろうか。
久しぶりにアニメが見たくなったのでオリジナルで短めのものを探し、宇宙よりも遠い場所と迷って現代舞台じゃないこちらを選択。
総評としては、ビジュアルもアニメーションもすごくいい。ただし雰囲気は良いがところどころ肌に合わないところがある残念作。続編が映画で作られてるそうだが、たぶん触れないと思う……。
19世紀末。アルビオン国は強大な軍事力である王立航空軍・通称「空中艦隊」により世界の勢力図を一変させ、アルビオンから産出される新時代の動力源であり、特定範囲を無重力化することのできる「ケイバーライト」を独占することにより、ローマ帝国の再来と謳われる覇権国家を樹立していた。
しかし、議会共和派である「アイアンサイド党」が主導する革命の結果「王国」と「共和国」に分裂し、アルビオン王国とアルビオン共和国の両勢力により東西を隔てる「ロンドンの壁」で分割され、以来10年、各国のスパイが暗躍する「影の戦争」の最前線となった首都ロンドン。その王国領域にある名門校クイーンズ・メイフェア校に通う「博物倶楽部」の5人の少女には、王国に潜伏する共和国側のスパイ組織「コントロール」に所属するスパイという裏の顔があった。
共和国とて一枚岩ではなく、政府は穏健共和派だが、軍の一部で強硬な革命推進派が策動する中、5人は各々の能力や立場を活かし、時には悩み傷つきながらもスパイとしてロンドンを駆け巡る。
Wikiより。
OPはあまり気に入る部分はなし。ひとつ挙げるとちせ殿の横顔がイイ!曲は唸るような?歌い方がそんなに合っている風には思えなかった。
ED曲は結構好きで、一聴してリンゴ日和っぽいなと思った。今調べたらアマゾンレビューでも似たようなこと書かれてて、吉良さんを思い出し少し悲しく。映像はモンハン3rdみたいな紙質感で好き。
EDのような球体を歩く感じの演出が好きなのだが脳内がヨシヒコに完全に乗っ取られていつも山田孝之がちらついてきて非常にウザい。ヨシピコ見たくなるから出てくんな。閑話休題。
特に印象はなし。梶浦由記氏?へー。まどかも劇半はマミさんのテーマ以外グッと来なかったしBGMの相性は自分と悪いやも。
スタッフもストーリーも調べずに見始めたので女の子かわいいなー程度に見ていたら2話ぐらいで黒星紅白?と思い出し3話でちせのマロ眉を眺めて確信した。
氏は好きなのでラッキーと思いつつも、氏がキャラデザ?原案か。した作品のアニメはあまり評判が良くない印象があるので一抹の不安を覚えた。
シゴフミはまあまあ好きだったよ。
キャラとは直接関係ないですが王族や上流階級設定ならドレスは毎回変えてほしかったかな。いいデザインだったのでもっと見たかったという意味で同じドレスで出たときはすこし残念。現実でどうだったかは知らんけど。
非常に良かった。キャラクターの顔見せや世界のビジュアルなどの雰囲気も良好。期待が持てる1話だった。
特に主人公が発砲したシーン。天邪鬼なので撃たないんだろうなと思いつつ撃てよ撃てよ撃てよ~と願っているので撃ったときはヤッター!となりました。
この感動は鉄血のオルフェンズ以来で、すごく期待してしまった。まあオルフェンズはほぼ右肩下がりでそれに倣わないことも願いましたけど。
割とかっきり直線のストーリーがある、オムニバス系でないアニメ作品だとハルヒ以来かな?ハルヒは原作読了済みだったので新鮮に楽しめたと思う。
主人公。
わかりやすい嘘つき、低感情と個人的好きな要素が多くて好きだったキャラ。声も一番好きかな。引退したけど。
能力は万能と無重力化によるアクションだけど、超人的動きはちせが(特に理由なく)できるので被ってる気がしないでもない。非常に高い跳躍や高高度降下や運搬が見せ場か。
できればもっと動きの嘘を利かせてスパイダーマン的ワイヤーアクションがあれば映えたかも。
無重力化装置が回光通信機としても使えるのは良いアイテムギミックでした。
チームリーダーの20歳。能力は「お色気」。後述すると思うが「お色気」要素はいらなかったと思う。年長者としてのお姉さん役、組織との連絡役とキャラを引き立てられる要素はしっかりあるのでそっちに割り切ったほうがよかった。
おそらく一番感情移入しやすいキャラに作られているので素直に好感度が高い。ギャルゲー化して無目的にプレイすると自分ならドロシールートに入るはず。
プリンセス命で巻き込まれなんかスパイの一員になっていた人。能力は「声だけコナン君」。ダイアルを回すだけで即座に声を似せられるのはインチキくさいがコナン君で慣れすぎて受け入れている自分が居た。
立ち位置がよく飲み込めなかったけどあまり葛藤など描く暇もなく素人がスパイ活動してる。
4話で二手に分かれる場面、5人なので必然2・3になるのだが残ったベアトが悩んだ末「プリンセスが居ない二人組み」のほうに参加してしまう。ベアトが参加できてないアンジェとドロシーの会話でなんとなく「その他3人」に入れられた流れだけど2話や3話からもわかる強い過保護のプリンセス第一主義者なら無理にでもプリンセス側について行くかなと強く解釈違いを感じた。時系列シャッフルなのでちせ参加後から見て強い信頼感ができている時期ともとれるし、一応迷う動きも描いたしとも受け取れる。
3話の和解後は楽しそうにやってるが彼女がスパイになる彼女なりのメリットがなにかひとつ提示されていればなおよかった。
プリンセス。能力は「プリンセス」。優越的地位を濫用してフリーパスしていく。アンジェとのバックボーンは良かったがいかんせん人当たりが良すぎて影が薄い。学校や仲間内でももう少し諧謔的にプリンセスを使い引っ張っていく強引さを見せれば7、9話でキャラが立ったかなと。
強固な思想はあるものの実現への行動を描く暇がなく、そういうのは劇場版でやっていくのだと思う。
なんだかんだで2話と8話好き。
個人的問題児。わたくしファンタジーにおける東の島国やKATANAが非常にアレルギーなのですが真正面にぶっこんできたキャラ。
こういう日本人キャラを日本人が作ること自体が少し寒気を覚えるのですが逆に他国人をこんな風に描くのも時代的に難しいかなぁ。
異なるカルチャー同士の交流は好きなのですがそこに漬物や相撲や土下座などを入れられると…9話は良さ1/3苦手さ1/3、この作品の悪さ1/3で出来ております。
彼女の一番の問題点は話し方。「~じゃ」や「~しておる」と古風な話し方だが、当然舞台はロンドン。英語でコミュニケーションしているはずじゃ。
舞台が外国や異世界のものを日本語で見るときは、特に説明がなければ翻訳・吹き替えを見ていると解釈しているのですが、そうすると彼女(に限らず日本人)の正解は「カタコトの英語」を翻訳した「カタコトの日本語」になるのかなぁ、と。外交官は免除でいいけど。作中、日本人同士でしゃべるときとそれ以外に差異がないのが気になる。それだけだとギリギリのギリギリ受け入れられるラインなのですが、主人公が学生として振舞うときに田舎物設定として「だべ」口調でしゃべるのですよ……普通に考えると「英語の地方訛り」で田舎物を演出していて、それを翻訳して「だべ」口調になってると見るのですが、じゃあちせの「~じゃ」口調などはどう考えればいいのやら……
滞在は最終的に4ヶ月以上。しかし初期から話し方は変わっていない。辞書を引くシーンもある。と非常に解釈に悩みました。超人的体術と日本語の固有表現も堪能に訳せられる超人的語学力を併せ持っている超人説は採りません。
詳しくないのでどうよかったかは書けないのですけどね。ロンドンの街中もよかったし学校や草原と空のような明るい絵もきれいだった。街は1話の霧たっぷりなのも良いけれど日中や雪中など変化に富んでるし下層市民も焦点になるので下町感もあってよかった。話数があれば偽装としての博物倶楽部の活動で学校の中と5人の楽しそうなショットがあればよかったな。
アクションも最近のアニメで悪いと感じるほどの質は出会いにくいので比較するものでもないでしょうけどよかったんじゃないでしょうか。1話と5話は文句なしに見入りますしメリハリというかタメが効いたような動きだったような気がします。あとはぼんやりですが車の加速がとんでもなくすごかったような記憶があります。
今作の感想のひとつとして傑作百合アニメと評しているものがあります。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054886711486/episodes/1177354054890392693
これを見て逆に私は、この作品は「百合も恋愛もない良いアニメ」だと思いましたな。男性とのロマンスはなく、仲間内でも過剰な身体的接触すらない。それらが苦手な自分はストレスフリーで見れていたことがわかったわけで。アンジェとプリンセスの関係性は非常に感情を揺さぶるものでありましたが、これを百合と称されてしまうとうん?となる。自分の百合アンテナは低いですし「尊い」という言葉自体にはなんとなくそうだねと言えそうなものの同性愛とまでは絶対いかないよな?と。百合も広くなりけりで友愛も含められるとむにゃむにゃ…マリみては百合かむにゃむにゃ…とかくメインキャラ内でドストレートな性愛はないです。自分センスで百合作品判定ではなし。百合として見れるは何でも見れる!どう見えるかだ!捕まってあれこれしてやるぜゲヘヘ未遂もなし!たしか!ハニトラは除く!ごめん軽い女衒未遂はあった!
最初の数話は国の分裂と
"各国のスパイが暗躍する「影の戦争」の最前線となった首都ロンドン"
が繰り返し説明されるのでスパイが入り乱れる話かと思ったのだが、主に描かれるのは主人公たち共和国スパイと敵役のノルマンディー公のスパイ・公安の王国側とあとほぼちせしか居ないが日本ぐらいしか登場しない。終始アルビオン国で完結していて肩透かしを食らった感は否めない。12話でこれ以上の複雑さは望めないか。
シナリオもだいたい王国側の暗躍を検知して先回り…といったもので、もちろん知らないものは知れないのでしかたないがほぼしかける側であまり緊張感がない。逆に2話終盤は緊張感があってよかった。
共和国スパイの司令部「コントロール」。その描写がにんともかんとも。電信室と併設の狭い部屋に大人が4・5人テーブルを囲んで詰まってる。机上に紙はあるがその数は少なく、ないことも多い。壁には何の物もない。
全員がほぼ手ぶらに近しい状態で話し合い意思決定してるのだが…みんな頭の中にすべて入っている超人なんか?移転や隠滅の容易性のために質素なんか?彼らは意思決定機関として描かれているが、「高度な意思決定」がされているようには見えない。これがスパイのリアルな描写なのかもしれない。私はリアルな描写も好きだ。でもここはもっとケレン味を効かせてほしかった。ほかの部分でははったりたっぷりなのだから。
舞台は19世紀末ごろから無重力を引き起こす「ケイバーライト」を契機に異なる歴史を歩んだ地球のロンドン。スチームパンクに類するSF要素を含んだ作品である。
である、のだが。ぶっちゃけSF要素はほぼ無い。(前面に押し出されてはいない)
肝心のケイバーライトを使い覇権を取った「空中艦隊」はほぼ作中に絡まない。出ても大きな飛行機以上の役割は無い。では国内がケイバーライトを活用して発展しているかといわれればそのような描写もない。ところどころで蒸気が噴出する機械仕掛けがあるがビジュアルや目くらまし以上の意味もない。ケイバーライトを使っているかも不明。1話でケイバーライト障害が軽く触れられたがその後はなし。扱いも公害病程度か。そもそも王国側ではケイバーライト装置の小型化が実現できておらず、公式HPではもう少し詳しく書かれているが作中でわかる範囲では携帯用まで小型化できている、そのことを知っているのは共和国内のスパイ組織内のごく一部、即ち使うのはほぼ主人公のみである。
その主人公の装置を使った常人をはるかに超えるアクションも常人以上の動きを理由無く生身でこなす仲間が隙間を埋めてしまっている。携帯用小型ケイバーライト装置も物語のカギというわけではなくて…TVシリーズの範疇では別にSF要素を入れることなく分断が起きた19世紀末でも成立しそうで、主人公にはほかの得能を持たせてみてもよかったんじゃないかなとも感じた。