はてなキーワード: シニフィエとは
https://anond.hatelabo.jp/20240609075954
https://web.archive.org/web/20170710063230/http://ashihara-hina.jugem.jp/?month=201212
発売中です~!!
どうぞ宜しくお願い致します。
そして、「Piece」は後一冊、全10巻予定です。
なんとかキリの良い10巻に収まりそうで、良かった!
いやいやしかしその前に、9巻の続きが
2013年1月13日発売の「Betsucomi」2月号にて読めるので、
お楽しみに~!
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お仕事---
私もイマイチ良く分かってなくて、お伝え出来てませんでしたが。。
10月6日~日テレさんにて放送の、ドラマ「Piece」は、関東ローカルです。
☆10月6日(土) 深夜24:55~ 日本テレビ(関東ローカル)
☆10月10日(水) 深夜26:06~ FBS福岡放送
☆あと、読売テレビ放送決定です。
チェックしてみてくださいね。
お待ちくださいませ!
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お仕事---
うちは臨済宗なので、クリスマスは関係ございません!!と言いつつ
講談社の編集さんが、毎年シュトーレンを送ってくださるのですよ。
う、、嬉しい、、。嬉しくて震える。(西野カナ風味)
あとは毎年買ってる「パリ・セヴェイユ」のシュトーレンとヴェラヴェッカ。
シャンパン5杯くらいいけそうな気がする。
「風車」と言うと、脳内でパッと浮かぶ画はあのデカい羽根がブンブン回る装置。
字面をよく見ると、風車は「風で回転する装置」だから、まあ言葉とモノが直感的に結びつく。
でもウィンドミルは「風で動かす臼」、というのを表すのが言葉のキモ。確かに、元々は穀物を挽く装置だっから、そこにフォーカスするのもおかしくない。
臼ではないのだから、モノと言葉が一致するのはウィンド部分しか残らない。
他にも、ここ数十年で著しく成長した電子技術分野では特に「名残の表現」が数多く残る。
こういう名残りは個人的に嫌いじゃない。でも、「言葉は変わるもの、変わってきたものなのだから、これからも適宜変えていきべきだ」という人には面倒な話なんだろうな。
あと、「新幹線」というと、パッと浮かぶのはあのシュッとした車体の快適な高速の列車。
でも「新幹線」という名前の中に、特殊な車体に関する言及は一切ない。「新幹線」と聞いて恐らく真っ先に浮かぶ、速いだとか快適だとかちょっと高いだとかのアイデンティティは一切表されていない。在来線とは違うという、交通網としての特殊性だけ。
「モノレール」が何か説明されろと言われて、「線路が一本の列車」という部分にフォーカスする人はあまり多くはないのではないかと思う。
パッと浮かぶイメージは、高架に吊られたり抱え込んだりして走るちょっとレアなアレ、といった所だろう。
ソシュールは記号、シニフィアンと意味されるもの、シニフィエとの結び付きが恣意的だと言う。我々が外で履くアレを「靴」と表すのに必然性は無いが、しかし靴を入れるモノを「靴箱」と呼ぶのには必然性があると言える。足に履くものを「靴」と呼び、モノを入れる設備を「箱」と呼ぶ合意が既にあるから。「名が体を表す」例と言える。
初投稿にあたり、その動機と共に、名前と属人性の関係について認識を書き連ねる。
自分語りが大半を占めることをご了承のうえで読み進めてもらいたい。
記憶は定かでないが、自分がハンドルネーム・ペンネームすらなく(少なくとも意図的に)匿名で文章を書くのはこれが初めてだと思う。
読む人に自分の存在を認識されたい、あわよくば好意的に思われたい承認欲求の権化だからだ。
だが一方で、実名を怖いとは思う。
鍵付きのTwitterのリア垢でのツイートさえ本名は隠すし、友人ともそういう文化を共有している。
できた人間でないことは自覚しているので、いつか何かやらかした時に悪評が名前と結びついて実生活に響くようなことがあったらと思うと怖くて夜も眠れないし、本名はじめ個人情報を求めながら管理が杜撰なFacebookとそれへの登録を強要してきた人物を恨んでいる。
仕事上しかたなく実名で書いた文章が、見る人は多くないがネットの海に放流されており何なら面も割れてるので、FGOの不夜キャスのごとく日々(社会的)死に怯えている。
しかし、リアルの肉体から切り離したオンライン上で、リアルと関係ないハンドルネーム・ペンネームを使うなら別だ。
別名さえあれば、アバターをまとうまでもなく違う自分になれる。
捨てる必要がどこにあるのだろう。
ぶっちゃけマシュマロとか悪口でもない限り送る側のメリットが思いつかない。
せっかく感想を伝えるなら「この人はいいファンだな」と思ってもらいたい。
それならなぜ、わざわざはてなアカウントを取得してまで書いたかというと、名前に囚われず、目的もなく文章を書き散らす経験をしたくなった。
全くの一般人だが、周囲への配慮を抜きにしても、自分がどう見られるかを気にせず発言したくなったのだ。
散々自分語りしておいて何を言うかと思われるかもしれないが、それが本心だ。
想定される意見としてハンドルネーム・ペンネームを増やせばいいという案はもっともだが、あいにく検証済みである。
古い感覚の持ち主ながら浮気性の超雑食なので、Twitterを中心に住み分けのために複数名義を持っている。
住み分けの必要ないと思っていたpixivで長らくのメインジャンルと違う属性にシフトしたらフォロワーがみるみる減るという痛い目を見たし、活動内容の違う複数名義をTwitterの1アカウントで運用したが周りからの印象が気になって結局アカウントを分けた。
「人に忠実で毛を持ち四つ足の哺乳類の動物」を「イヌ」と呼ぶと、誰かが発想し決めただけだ。
しかし、使われるごとに人々の脳内でその関係は強固になり、やがて不可分と認識されるようになる。
(シニフィアンとシニフィエの理解は大昔にかじった程度なので間違っているかもしれない。ご指摘は甘んじて受ける。)
(ところで、ひょんなことから出会った二人が運命共同体になるのエモい。言語学擬人化誰か作ってほしいし存在するなら教えてほしい。)
抽象的な話抜きにしても、開示する名前を得る(IDなどアカウント≒個人に固有の記号すらも)と、他者あるいは事象と継続的・複合的に紐づく。
履歴を追うことが可能になり、名前によって繋がりを得る(繋がりが明らかになる)のだ。
後は、個人情報なしでターゲティング広告が可能になるように、履歴によって複数の言動を重ね合わせることでハンドルネーム・ペンネームに人物像を見いだせてしまう。
(追記:はてなのサービスを使い慣れていないのでわからないが、IDなど投稿履歴をたどれる機能があるのだろうか……)
(追記の追記:ヘルプによれば「書き込みした人のIDは表示されません」とのことなのではてな匿名ダイアリーでは履歴は他者からたどれない模様。安心した。)
自分でも当たり前のことを偉そうに書いているだけなのではとそろそろ不安になってきたので、今回はここまで。
オチまで考えずぶん投げるなんて普段なら無責任さに苛まれるが、気にならないのも匿名ならではかもしれない。
匿名で書いてみた感想としては、読む人を想定する必要なく思うままにアウトプットできるので、思考の整理に役立ちそうだ。
表に出す必要性はないのにせっかくだから誰かに見てもらいあわよくばコメントをもらいたいと思うのは、クソデカ承認欲求のなせる業だとしたら、匿名でも満足できると言えるだろう。
なんとかタイトル回収したところで、筆を置く。
大紀元時報に「中国による対日工作、NPOや創価学会がパイプ役=米シンクタンク報告」という記事が掲載されていたので、創価学会について知っていること、理解していることを書いておきます。
なぜならば、カルト宗教団体の定義というものがあり、創価学会の実態は、その定義に多くの点が該当しているからです。
なお、カルト宗教団体の定義やマインドコントロールについては「マインドコントロールの恐怖」という本に詳しく掲載されています。
また、創価学会は、犯罪者と病人と貧乏人の集合体でもあります。
その内実は、イタリアやメキシコのマフィア・ギャングと類似したものであり、宗教団体の名を借りて、国内最大の犯罪・反社組織として君臨してきたという経緯があります。
なお、その構成員の多くはマインドコントロール(洗脳)されており、正常な人間としての認識・判断ができない状態に陥ってもいます。
1950〜80年代に創価学会による強引な宗教勧誘(折伏)が行われ、現在、国民の1割程度が学会員(創価学会の信者)だと考えられています。
とりわけ公務員、具体的には、警察組織、消防組織、自衛隊には浸透しており、警視庁職員の2〜3割が学会員であることが明らかになっています。
小中高校・大学のクラス、そして、企業の職場には必ず一定の割合の学会員が存在し、そのため、そういったコミュニティーの中で創価学会を批判することがタブーとなっています。
なぜならば、各コミュニティーの中の学会員は、香港に浸透している大陸系共産党員と同じように、コミュニティーの構成員の言動を監視しており、もしも創価学会に批判的な発言をする人間がいたならば、その人物をターゲットとして工作活動を開始するからです。
その工作活動は、中共が香港の人権活動家に対して行っている弾圧行為と類似したものであり、活動の妨害、嫌がらせ、後をつけ回す行為を含む、集団ストーカーを言われている行為のことです。
例えば、日本で、学校のクラスや職場で「創価学会は、カルト宗教団体の定義に合致しているからカルト宗教団体だよ」とおだやかに発言すると、コミュニティー内の学会員が、(受けているマインドコントロールの程度に応じて)狂ったように怒り出したり、怒りを噛み殺したような態度でその発言を否定します。
そして、そのような発言をした人間に「アンチ」というレッテルを貼り、また、創価学会員同士でアンチの情報を共有し、「仏罰が下るべき存在」として、監視対象、集団で攻撃する対象であると認識し始めるわけです。
しかし、実際のところ、カルト宗教団体の定義というものは、創価学会のために定義されたものではなく、オウム真理教や人民寺院のような危険な宗教団体から、一般人が被害を受けないことを意図して定義されたという経緯があるわけです。
創価学会が「カルト宗教団体の定義」に該当するのは、創価学会にカルト宗教団体的な傾向があるからです。
創価学会の信者が、そういった事実を指摘され、「自分が所属している宗教団体の悪いところは直していこう」と考えるのではなく、批判者(アンチ)を弾圧して沈黙させようと考えるのは、いかにもカルト宗教団体の狂信者の発想・行動パターンに該当するし、サリン事件(テロ)を起こした頃のオウム真理教の信者も類似した発想・行動のパターンだったろうと感じます。
カルト宗教団体の信者というものは、無自覚にマインドコントロール・洗脳されていますので、問題点を指摘されたから自分たちの考え方や行動を改めて行こう、という発想にならないわけです。この点では、香港の人権活動家たちの要求に対する中国共産党に態度と類似しており、つまり、創価学会のようなカルト宗教団体の狂信者は正常な人間ではないわけです。
ところで、日本にも日本共産党という組織がありますが、こちらも実態は反米テロ組織で、アメリカであれば非合法です。
また、反米組織同士で通じ合うものがあるようで、「創共協定」という契りを結び、反日・反米分子の工作員を融通し合うなど、この国を蝕むために協力していることはよく知られたことです。
カルト宗教団体と協定を締結している時点で、日本共産党の本質が反米テロ組織なのであり、また、日本共産党がカルト宗教団体的であることは明らかなわけです。
なお、別の視点から見ると、信者にとっての創価学会というものは、ネズミ講やネットワークビジネスのような詐欺・犯罪行為を行う巨大組織に見えるようです。ブラック企業のような要素もあり、入信した末端信者は、物的・精神的に疲弊していく一方なわけです。
そのような創価学会の実態が、シニフィエ氏が運営する下記のブログで暴かれています。多くの現役の学会員・脱退した元学会員たちの証言や体験談が掲載されています。
創価学会のこのような実態は、個人に心の安らぎを与えたり、精神的な支えとなるような、宗教の本来の役割とかけ離れたものであることは明らかです。
「類は友を呼ぶ」ということわざがあるとおり、創価学会が中共と良好な関係を維持しようとすることは理の当然です。
もっとも、日本で就労経験のある中国人の多くは、創価学会のことを嫌いになって帰国するようです。
創価学会はオウム真理教とは異なる戦略を採用しており、企業、警察、消防、自衛隊、地方公務員の様な多くの組織に浸透していますが、アメリカにとっては、霞が関官僚と自衛隊に浸透している学会員は危険な存在であると考えられます。
なぜならば、彼らは本質的に反米分子なのであり、中共に協力する工作員として活動する恐れがあるからです。
米欧の知識人の間では常識でも、日本ではマスコミや官僚が止めて日本国民に周知されていない知見があります。
その一つは、学会員の寄付を創価学会本部がパナマのノリエガ(元将軍、現在収監中)に送り、大規模な脱税・マネーロンダリングを行ってきたというものです。
ノリエガは、創価学会・池田大作から大量の学会マネーを受け取り、その金を自らの麻薬ビジネスに投入、国際的なレベルで麻薬を蔓延させてきました。
創価学会・池田大作としては、学会員から巻き上げた寄付を、脱税・マネロンも兼ねてノリエガの麻薬ビジネスに投資・運用。その運用益を国内に還流させ、創価学会幹部が私腹を肥やすための資金、および、創価学会施設・創価大学などを建立する資金にする一方で、同時期に外部に対しては「平和と人権」などと嘯いてきた経緯があるわけです。
なお、同時期、聖教新聞で「池田大作がノリエガを持ち上げてきた」事実は、聖教新聞を購読してきた学会員の皆さんには否定できないところでしょう。
とりわけ、警察組織、警視庁や道府県の警察官レベルで学会員が多く存在し、国内で社会問題をひき起こしたり学会員の犯罪を隠蔽してきたわけですが、彼らが「このような事実をどのように解釈するか」という話にもなります。
まあ、無自覚に洗脳・マインド・コントロールされている様な状態であれば、内容を信じないで、腹を立てたり、不機嫌になったり、書き手を攻撃しようとする行動パターンを想定することが出来ます。
つまり、オウム真理教の信者のように事実を頭から否定する態度が多くの反応として予想され、それは簡単の予想されるところですが、これ(創価学会と麻薬ビジネス・脱税・マネーロンダリングの問題)はノリエガがアメリカに麻薬を蔓延させて逮捕・収監されたために明らかになった事実であり、米欧では常識として周知されています。
このような経緯から、「創価学会が犯罪組織であるという事実」を否定することは非常に難しいだろうと感じています。
※「両親は創価学会に数千万円寄付した」 宗教2世・長井秀和が告発「100万円の壺なんて安すぎて学会員にはピンとこない」 (デイリー新潮)
https://www.dailyshincho.jp/article/2022/11161131/?all=1
※「実家が保管していた創価学会への財務の受領証を預かってきました。※これはあくまで一部です」🌙🌟✨蘭丸✨🌟🌙@lWCBNyyAU1Wf6i0 (Twitter)
https://mobile.twitter.com/lWCBNyyAU1Wf6i0/status/1594306854217469954?cxt=HHwWhMDSyeHojqAsAAAA
※「創価学会2世。小学生から富士鼓笛隊員。我が子たちには継承してません。するわけない。新宗教に親が子供を勝手に入会させて過度な宗教ル―ルを押し付けるのは「精神的児童虐待」です。宗教2世にこそ、信教の自由を与えてください。」🌙🌟✨蘭丸✨🌟🌙@lWCBNyyAU1Wf6i0 (Twitter)
https://mobile.twitter.com/lWCBNyyAU1Wf6i0
※創価学会に"一度入ると抜けられない"理由 退会しても「統監票」に一生残る (PRESIDENT Online)
http://seana.hatenablog.com/entry/2015/02/05/230648
アイドルの曲は、アイドルが歌うことに意味があるということに気づけただけでも、ジャニーズを好きになってよかったなと改めて思います。
アイドルファンのみんながみんなそうというわけじゃないよ、という話も。
そもそも「音楽とはその演者の主張である」という基準自体が、常に正しいとは限らない。
何の主張も、意思も、意見も、欲求も何もなく、音楽はただ音としてあるだけでも許されるはずだ。
それは、西洋哲学の古典の文脈で、「世界には何らかの真理があるはずだ」とされてきた価値観に似ているかもしれない。
これはおそらく、人間のコミュニケーションの手段、あるいは記録・伝達の手段の発達に関係していると言えそうだ。
音楽を伝える手段は、口伝から楽譜、レコードからCD、デジタルデータへと発展してきた。
一番最初は「自分たちの音楽をいかに奏でるか」から始まったし、実際にそういう手段や発想しかなかったわけだが、
文明の発達によって「楽器を弾かなくても音楽が作れる」、「発表した数分後には世界中の誰でも聴くことができる」ようになり、
音楽のありようは大きく変わってきた。
つまりシニフィエを持たず、純粋にシニフィアンとして存在しうるものに変わってきた。
音楽を奏でる上で、その主体が自分の顔や外見を聴衆の前に晒し、
その言葉が本人の主張であると常に解釈されなければいけない時代は終わったということだ。
人間、あるいは自己の「表現」としての「音楽」には限界がある。
そもそも「音楽」と「自己」とは関係なく存在しあってもいいものであるはずだ。
「自分たちの音楽とは、自分たちの表現だ」という自己規定は、そのうちに必ず自家中毒を引き起こす。
いわゆるアイドル戦国時代と言われたところから、近年のヒットチャートをアイドルが占拠するようになったこの音楽のあり方は、
何も正当性がないただの「衰退」や「退廃」とは異なる、文化としての次のステップの意味を示している。
「音楽」と「自己」、あるいは「音楽」と「意味」の離別は、音楽そのものの純粋さをより推し進めるものともとれる。
たとえばそれは、女性キャラしか登場しなくなったアニメや、10代の若者が世界を救うジュヴナイル作品とも近いもしれない。
その「音楽」をより純粋な形で届ける上で、最適な手段を探した結果、それが「アイドルだった」としても実は不思議なことではないのだ。
ポップスという大衆音楽には、その音楽性やジャンル自体の制限はない。
あらゆる音楽性はポップスに含まれうるが、しかし外見や表現を含めてもそうだといえるだろうか?
ダンスミュージック、ディスコ、あるいはプログレ、ハードロック、メタル、
これらはそのファッション、スタイルと相まって存在していた音楽、文化だ。
ヒップホップの音楽性には、ヒップホップのファッションが必要で、ヒップホップなアティチュードが求められる。
一人の人間、あるいはバンドでこの様々な音楽性の表現は一貫して行うことができるだろうか?答えは「No」だ。
なぜなら自己の表現として音楽が存在すると仮定した場合、多種多様な音楽を奏でることはそのまま分裂症的に解釈されてしまうのがオチだからで、
純粋な音楽の表現において、多種多様な音楽をできるだけピュアな形で届けるには、アニメやアイドルといった、
何の主張も持たない、時にはフィクショナルな存在の方が向いているということは起こりうるのだ。
彼ら、彼女たちと、そこで歌われる、奏でられる音楽は、本当の意味で結びついてはいない。
しかしながら、いや、だからこそ、その音楽は純粋に存在しているし、鳴っているのだ。
ともすれば、その歌詞が支離滅裂で意味を持たなかったとしても、
ナンセンスであるほどにその身体性、サウンドとしての純度は高まるかもしれない。
ひと昔前であれば、優れた40代50代の音楽家が表現しうる音楽の手法、伝える手段は、より限られたものだったろう。
今は、アニメ、アイドル、ボーカロイド…。様々な手段によって、自己の肉体や外見とは関係なく、純粋に音楽を表現できる時代になったのだ。