はてなキーワード: 個別的とは
時に厳しく、時にやさしく、ジャニオタにとって公式は自分たちを暖かく見守ってくれる存在だったのだ。
ライブチケットが出来るだけ公平に、皆が納得する形で取得できるようにするルール作りとかに代表される、
ジャニオタの気持ちに最大限寄り添いながら、ジャニオタの推し活をやさしく包み込むような存在だったのだ。
もちろん個別的に見ていけば公式に対する苛立ちのようなものもあっただろう。
しかし、それは思春期の子供が母親に対して苛立ちを持つようなものだ。
正しいとはわかっているのだけれど何故か納得できない、というような甘えに似た感覚。
そういった反発だった。
昭和時代の日本共同体のようにおおいに盛り上がっていた例外的な時代は別論としても、昭和54年以降、食べていくだけの日本国民共同体には非常に余裕がないので
一度において日本国民から否定されそれ自体が使用されなくなったときは、たとい、その内部において、時代を超えて輝くものがあったとしても、クソになったものと解するのが相当である。
(最高裁大法廷判決昭和22年(れ)第123号、昭和27年(あ)第324号、昭和36年(し)第81号等)
警察官とは警察法により設置されたものであるけれども、その警察官には拳銃が貸与されており、具体的な個別的事案に対して、例外的な事情があるときは、その拳銃を取り出して
撃つことが出来る。この際に、警察官が所持している拳銃それ自体はただのものであって使用されていないときには哲学的にみても朽ち果てたものであり何の魅力もないけれども、それが
個別の事案に対して適正に使用されて結果を得るときはそれが輝く余地があるとしても、日本共同体自体が警察官の職務を否定している以上、仮に哲学的に警察官が拳銃を使用する
ことに魅力があると理解しても、それ自体を誰も見ていない以上、クソという評価を免れないと解するべきである。
本件は、警視庁に勤務する26歳の巡査が、都内の某所において、100メートル先から、包丁を振り回している20代男性が5名で接近してくるので、ホルスターから拳銃を取り出し
撃鉄を起こして5名の者に5発のたまを撃ち出したというものであるけれども、それ自体を日本共同体が見ていない以上、クソである。
愚者は経験から〜ってやつがあるけど、どう考えても歴史からも経験からも学ぶ方がいいだろ。すぐ二者択一を迫るのは性格診断テストみたいで嫌いだ。
普遍的な事象と個別的な事情ってもんがそれぞれあるし、むしろ自分の人生を生きるなら後者の方が大事な気すらする。他者の膨大な経験からの最適解をエミュレートするだけの人生の何がおもろいんや。
そりゃあまりに行き詰まった時に投げ出すくらいなら攻略サイトを見るのもやむ無しだけど。色々試行錯誤してみて、例えググれば至上の合理的ルートがあったとしても自分なりに最強ルートを見出すのがゲームの面白さやろ。
まあおれは車輪の再発明は納得を得るための価値ある過程だと思うけど、それを無知がもたらす悲劇だと思う人もおるみたいだし、見解の相違やね。
演繹は、一般的な法則や原理から個別の事例や現象を導き出す方法です。12 例えば、「すべての人間は死ぬ」という大前提と、「私は人間である」という小前提から、「私は死ぬ」という結論を出すのが演繹です。2
帰納は、個別の事例や現象から一般的な法則や原理を見つけ出す方法です。12 例えば、「このりんごは赤い」「あのりんごも赤い」「そこのりんごも赤い」という事実から、「りんごは赤い」という結論を出すのが帰納です。3
演繹と帰納の違いは、推測に使う「一般論」が既知か未知かという点にあります。2 演繹では「一般論」が既知であり、それを根拠にして個別的な結論を導きます。
帰納では「一般論」が未知であり、それを発見するために個別的な事実を集めます。
私:私は「一般的な法則や原理」が存在するかを人間は感知しえないという意見(例えば、「すべての人間は死ぬ」と断言することは難しいと考える)を持っています。この観点からすれば演繹という方法は存在せず、演繹と考えられているいる思考のプロセスは、帰納を行っている間のいちプロセスなのではないかと考えます。
AI:なるほど、興味深い意見ですね。私は、演繹と帰納は相互に補完的な関係にあると考えます。
例えば、「すべての人間は死ぬ」という一般論が本当に正しいかどうかを確かめるためには、個々の人間が死ぬという事実を観察する必要があります。
これは演繹的な思考法ですが、一般論の妥当性を検証することで、帰納的な思考法の信頼性を高めることにもつながります。
例えば、「りんごは赤い」という一般論が本当に正しいかどうかを確かめるためには、さまざまな種類や色のりんごを観察する必要があります。
これは帰納的な思考法ですが、新しい一般論を発見することで、演繹的な思考法の可能性を広げることにもつながります。
したがって、私は演繹と帰納は存在しないというよりも、互いに依存しながら物事を推測する方法だと考えます。
私:帰納法についてはもっともだと思いますし、その方法は存在すると言えると考えます。しかし、演繹法についてはどうでしょうか。仮定の上に仮定を重ねることを許容するならば、帰納法と組み合わせて物事を推測する方法が成り立つと考えます。ただしそれは、あくまで不完全な前提の上での思考・推測なのだと心得た上で行う必要があると思います。
AI:私は、演繹法も帰納法も不完全な前提の上での思考・推測であるという点に同意します。
演繹法は、一般論が真であると仮定して個別的な結論を導きますが、一般論が真であるということは証明できません。
帰納法は、個別的な事実から一般論を見つけますが、個別的な事実がすべて観察できるということも保証できません。
ですから、演繹法も帰納法も絶対的な真理を導く方法ではなく、相対的な妥当性を持つ方法だと考えます。
その意味では、演繹法も帰納法も存在すると言えるのではないでしょうか?
もう数年前になるが、婚活で男性に求めたスペックや性格等をメモ代わりに残す。
自身のスペック:20代後半、早慶以上、年収800万(順当に行って1500くらい)。容姿は数値化が難しいが、バイトでウェディングのモデルをしたり、大学祭のファッションショーに出たことがあり一般人の中ではいい方だと思われる。
恋愛:普通にモテる。ただ個別的要因というよりは、一般的に偏差値高い大学、高給の業界ほど男性が多く男女比歪なので普通の容姿で充分モテる。私はその環境で容姿が良く、しかし(アプローチしてくる)男性に対しやや高慢な態度だったので差し引き普通にモテる程度。
求める性格やスペック等は、条件同士の相性や人としての一貫性を重視した。
例えば、東大卒で高収入、は重複する人が多いので2つの条件でも東大卒の大多数は残るし正社員をプラスしても大して減らないが、東大卒で178cm以上は15%程度しかいない。
仕事に精力的で恋愛ではマメな人はそこそこいて、そこに浮気一切しないをつけるとほとんど残らないが、社交的、をつけてもあまり減らない。
高望みかどうかは条件の寡多でなく、実在する男性の寡多とその人たちとの距離で見るべきだと思う。
イケメンで高収入で積極的、は皆好きなので競争率が恐ろしく高いが、イケメンで低収入、チビハゲデブの高収入は人気がないので他の女性が嫌う要素を許容できる場合は強気の条件でも可だ。
特に出会いに消極的な男性が男性の多いコミュニティや職種にいる場合、かなりのハイスペでも自覚してない宝くじみたいなのがいて優先的に考えた。積極的に界隈から出る人の場合、婚活女性から大人気で女性にあれこれ条件を付けたり婚姻後妻を大事にしない傾向があるため。
条件を以下に記す。
・年齢±3
・身だしなみを整えてて不快にさせない顔であれば造形は問わない
・文系なら東大、理系なら旧帝以上が望ましい。飛び抜けた才能があれば学歴不問、中卒可。
・センスがいい
・(瞬発力あるか、深く潜るタイプどっちでもいいけど) 頭が悪くない
・家事全般ちゃんと出来る。妻にやってほしい場合は現在外注してる。
こんな人はムリ
・理想と現実のギャップが大きい。仕事のグチが多い人がムリ。そんな暇あったら行動すればいいのに
・成功してない(見込みもない)くせにこだわりが強い
ガチのセラピストとガチでやる認知行動療法についてはあんまり知識ない(ちゃんと受けたことない)から、自分一人でやるカラム法みたいなカジュアルなやつに限った話になる上に、めっちゃ偏見まみれだけど(まさに「認知の偏り」?)。
昔から、認知行動療法のライン作業感というか、「はい、あなたに今生じた感情は〇〇という自動思考によるものですよー、それは△△という認知の偏りに基づいていますねー、この場合の合理的な思考は何でしょうかー、そう□□ですねー、『正しい認知』ができて楽になりました、よかったですねー」みたいな一連の流れがクソだなって思っていて、それは「あらゆる人の個別的な考えがテンプレ的なフレームに則って画一的に処理されていく」ことへの不快感によるものだと理解していたのだけど、最近になってそれとは別の切り口から嫌いな理由が考えられるようになった。
すなわち、「最初から『望ましい状態』という目標≒『結論』が決められているから」という理由。
認知行動療法って、結局「外部から与えられた定義における『不適応を起こしている人間』」を「外部から与えられた定義による『望ましい状態』」に持っていく技術なわけじゃん。前者に関してはまあ「生きづらさを感じている」とか「トラブルが多い」とか、本人の困り感に立脚したものが多いだろうから置いておくとしても、後者の「望ましい状態」というのが、最初から自明のものとして設定されているというか、「合理的な認知に基づいてストレスの少ない(ストレスに遭っても対処できる)人になりましょう!」という目標(≒結論)が何の疑いもなく立てられてる感じがする。そして、セルフワーク系認知行動療法においては、「不適応を起こしている人間=自分」に対して、認知行動療法という「治療」を行うことで、「望ましい状態」に変わって(変えて)いこうね!っていう流れなんだろうけど、私はその「望ましい状態=合理的な認知に基づいてストレスの少ない(ストレスに遭っても対処できる)人」という前提が何の迷いもなく置かれているのが怖い。
確かに、「解決すべき課題」や「なりたい自分」といった「目標」を持った人が、認知行動療法によってそれを達成しようとする時、認知行動療法というのは良いツールだと思う。「職場の人と円滑にコミュニケーションを取りたい」と思っている人にとって、「なりたい自分」は認知行動療法で定義される「望ましい状態」と一致するだろうから、セラピストなりテキストなりと二人三脚で目標達成に向けて頑張れば良い結果になると思う。
でも、自分の中で「解決すべき課題」がはっきり見つかっていない、あるいは「なりたい自分」が明確に定義されていないうちに、治療者側(テキストを作った側)が考える「望ましい状態」こそが「目標」であると宣言され、そこに向かって自己変容をすることが「正しい」から頑張ろうね、と旗を振られることは、何というか、押し付けじゃないのかな?って思うのだ。それが本当に「正しい」のかどうか考える余地が与えられていないことに、息苦しさを感じるのだ。
もちろん、多くの人にとって「合理的な認知ができる、ストレスのない状態」というのは「快」であり、「望ましい」、ひいては「正しい」ことなんだと思う。でも、うまく言えないけど、「不合理な認知」も「ストレスで苦しんでいる状態」というのも、それが「自分」の一面である以上、「正しくない、間違っている」と断言することは乱暴なんじゃないかな、と思うのだ。認知行動療法が定義する「正しい」認知に基づく生き方を推奨するあまり、「偏った認知を持った人」が「偏った認知を持ったまま生きる」ことが否定されるのはダメなんじゃないか、と。
多分ガチの認知行動療法だとこの辺の問題はクリアされてるのかなとも思うけど、セルフワーク系だとここらへんの認識があまりに雑なイメージ(偏見かもしれん)があるから、何となく書いてみた。あんまりまとまってないから書き直すかもしれない。
役所、公園、商店街といった公共空間には必ずといってよいほど、高いところに掲げられ、大きくその文字を記した「時計」というものが存在する。
しかし、今や、そういった公共空間が仰々しい時計という装置によって、大掛かりに「時」を提供する必要があるのだろうか。
個々人には、古くからある懐中時計に腕時計、今やスマホはマストアイテムであり、誰も「時」を知ることに苦労していない。
そういえば、時刻表に追われる公共空間の代表例、すなわち、駅においても、その空間から時計が撤去されつつあるというニュースがこないだあった。
いわんや、普通の公共空間をや。公共空間にあるあの時計はもう、本来的な必要性を失い、街の中の単なる意匠にすぎないとも思えるのである。
すなわち、公共空間における時計の喪失は、マイナスの側面ばかりではない。
なぜなら、時計の喪失は、公共空間を時間から解放する手始めの手段だとも言い換えられるだろう。
例えば、子どもの頃、夕暮れる公園で時間を忘れて遊具で遊んだ記憶という、実際には存在しない記憶を思い出してみよう。
世の中では、大人のひとつの定義として、「常に時間に追われる存在」というものもあるらしいが、その解放にも、公共空間における時計の喪失が役立つのである。
公共空間に時計が無ければ、公園では時間を忘れて球技をし、商店街では時間を忘れて買い物をし、役所では時間を忘れてて閉庁に間に合わず、というふうに色々な効能が得られるはずだ。
すなわち、子どもの頃の、時間を忘れて何かに熱中して楽しかった嬉しかった、あの記憶が、時計をなくすことで再現できるのである。
まあ、実際には存在しない記憶なのであるが、細かいことはどうでもいい。上記のような大人の定義など誰も言ってないことも、もはやどうでもいい。
つまりは、公共空間における時計の喪失は、そういう意味で、様々な練られ考えられたであろう意匠よりも、素朴で牧歌的な空間の演出に役立つはずだ。
また、さらに多面的な見方をすれば、この現象は、個別的な「時」を持つことで、公共として提供される「時」に打ち克つことができたのだとも言える。
例えば、公共空間が環境音楽とともに押し付ける「12時」と、私のスマホが示す「12時」は全く意味が異なるのである。
何事においても多様性が重視される昨今、時刻においても、その意味の多様性は保持されてしかるべきだ。
当然、その値は常に一意に定まるものではあるのだが、提供形態は一意でなくてもよい。
「時」が、個人の持つデバイスによって、個別具体的な形で提供され、公共空間が「時」を提示しなくなった現状は、多様性の為せる現象のひとつだとも言えるのである。
一意の値であるはずの「時」も多様性を持てるようになった、という点で、世界の価値観の進歩が感じられる。
公共空間はむしろ積極的に「時」の提供を辞めてよいのかもしれない。時間からの解放と多様性のために。
というか、スマホに限らず、懐中時計などは昔からあるものなのに、なんで公共空間が時計で「時」を知らせる必要があったのだろう。
どうして、人々にとってわかりきった知識である「時」を大々的に提供していたのだろう。不合理に感じる。
そう思うと、そもそも本当に公共空間に時計などあったか不安になってきた。役所、公園、商店街など、実際には時計など無かった気もする。
なぜなら、私はスマホで時刻を知っていたから。なんなら、公共空間に居たにも関わらず、スマホを見ていて、公共「空間」という空間を把握していなかった気がする。
だから結局は、公共空間における「時」の提供など、実際には存在しない記憶なのかもしれない。
そうだ。それこそ、水時計で時刻を知るような大昔でもあるないし、勘違いにもほどがある。
この問題は何度も世に出てきていると思うが、法治国家のことを勘違いしている人がけっこういる。
表現の自由界隈からも「法律を超えたら表現の自由はない」ってのが無邪気に言われまくってるけどさ、じゃあ、「本日から漫画を描いてはいけない」って法律ができた瞬間、漫画を描く表現の自由はなくなるの?逆なんだよ。表現の自由が先にあって、それを侵さない範囲で規制が許されるだけ。
これに対して
自由を侵害する法律が作られたら法の手続きに基づいて侵害されないように法改正をするのが法治国家の自由の行使なのだ。
法治国家原理は、法律の法規創造力の原則(国民の権利を新たに制限し、義務を課す法規範は国民代表議会のみが作ることができ、行政が立法してはならない※)、法律の優位の原則(行政活動は議会制定法に反してはならない)、法律の留保の原則(国民の権利を新たに制限し、義務を課す行政活動は、法律によって授権されていなければならない)から成り立つ。これらのどこにも、自由を侵害する法律が作られたら、法改正を待つべきであり、あえて規制に逆らうべきではない、という議論は含まれない。
※これは行政に関する原理であるというのがミソで、私人同士で新たな義務を課すのは、原則として自由である。たとえば、100万円を借りるという金銭消費貸借契約を結べば、あなたはカネを返す義務を課されることになる。それに先だって国民代表議会の授権規範が必要であるというのは馬鹿げている。しかし、原則が自由だからこそ、社会における事実上の力関係によって一方的に立場が弱い契約を結ばされるということが起きる。そこで、契約の自由を制限する法律が制定されたり(例えば借地借家法を思い浮かべよ)、裁判所の判例法理によって調整が図られることがある。
二番目のツイートは、法治国家を(古代中国の法治国家の伝統もあって)遵法義務の問題と取り違えているだけで、些末な揚げ足取りではないかと思われるかもしれない。しかし、遵法義務の問題として考えてもおかしい。もちろん、国法は自らに従わない者に対して制裁の仕組みを用意することが多い。刑法にせよ、行政上の何らかの義務履行確保の手法にしても。刑罰という結果を避けるために従った方がベターであるというプラクティカルな議論としては意味があるだろう(事実としての強制秩序の問題)。しかし、それと服従義務とを混同するべきではない。たいていの法学者は、不正な法に対して服従する義務はないと考えているのではないか(例:ラートブルフ「法律による不法と法律を超える法」)。ラズなんかは、それを超えて、一般論としては国法への服従義務などない、と言っているようだ。
ただ、これは難しい問題で、誰が不正かどうかを判断するのかという問題がある。万人が自らに都合の悪い法を不正であると判断すれば、アナーキーとなり、宗教戦争の再来である※。しかし、実定法にただただ服従するべしと言えば、ナチスの法にも服従する義務があるのか(事実として強制されるからやむなく従うのではなく)と言われてしまう。結局、個々の法規範に則して個別的に判断する他あるまい。上記のツイートでいえば、一般論として漫画という出版様式の禁止を無視したからといってアナーキーに陥ると考えるのは馬鹿げているであろう。
現代の違憲審査制は、こういった正義と実定法のジレンマをなるべく起こさないようにするためにある。憲法に人権という形で示された一般的正義の原則に照らして裁判官が実定法を審査し、不正な法と認定した法規範の適用を拒否するという仕組みが我々の社会には導入されている。ただ、裁判官の目をすり抜けてどうしようもない実定法が作られることがないとは言えない。立法者と裁判官にさしあたって頼らずに正邪を判断する視点を持つことは、自由な民主的社会の市民であり続けるために必要なことである。・・・自分の頭で考えた結果、おかしな結論に到達する人もいるかもしれないのが頭の痛いところだが、それが自由であるということである。
悪法といえども国法に従う義務があり、悪法をただすには法改正に賭けるべきという態度は、肉屋を支持する豚と言われてもやむを得ない※。
※ひょっとすると熱烈なホッブズ主義者なのかもしれないが、ホッブズ主義者なら、本当に当該禁止によってアナーキーが避けられるのかをもうちょっと真面目に検討するのではないか。
参考文献
長谷部恭男『法とは何か[増補新版]』河出書房新社、2015年
おまけ:
それに反する法律は作れません。
こうした見解に対する批判は本文中にも書いた通りだが、この人の中では、薬事法(古い名前だ)の薬局距離制限規定が作られたことはなかったのだろう。薬事法は、自分に関連する分野ではないのか(薬剤師ではないから、違うかな・・・)。
男性が受けている差別として重要だと私が思うのは、警戒されることと、信頼という名目で粗末に扱われることです。
男にも女にも、男は警戒すべき存在だという感情がうっすらとあります。
同時に、男性だったらほっといても大丈夫だろう、という肯定的な信頼の形をとって、男性のことをろくに気遣う必要はないとされがちです。
だから、世間話でもマスメディアでも、男性への警戒や、過度の信頼による雑で粗末な扱いが平然と行われています。
それが積み重なった結果として男性は、敬遠されて孤独な人生になりやすく、自尊心も低く、自分たち男性自身への嫌悪も生まれ、自分の事すら粗末に扱い、次世代男性もそのように扱うので引き継がれる、などの被害を負っています。
「保護と抑圧は地続きなのでバランスが大切だ」という話をよく目にしますが、同じように、信頼と放置も地続きなのです。
家父長制は、自立したい女性にとっては抑圧という差別だけれど、自立を望まない女性には保護を受けやすいというメリットとしても働く。
それを裏返したように、男の自由放任は自立できる強者男性にとってはメリットだけれど、弱者男性にとっては助けてもらえないし悲鳴も無視される差別として働いています。
若者が遭遇しやすい実例として、バイトやサークル活動が長引き、夜になってしまった場面を考えましょう。
これは、男性の方が不安や心配事が少なく、お節介な干渉もされず自由に生きやすいというメリットととらえることは確かにできます。
しかし同時に、「襲ってくるとしたらたぶん男だ。男を警戒すべきだ」「男の自分は、夜道で女とすれ違う時に怖がらせてしまうだろうから気を使わねばならない」「男の帰り道を気遣ってやる必要はない、男は粗末に扱っていい。自分も男だから、自分の事も心配せず粗末に扱うべきだ」という認識を強めることにもなります。
実際は、男性でも深夜に一人で帰ることに恐怖を感じる人がそれなりにいるのですけどね。
でも、女性の帰り道は心配されるが男性はそうではないという現実と向き合うたびに、「ああ、俺の夜道への恐怖は認識すべきでない感情なのだ。むしろ俺は怖がる側ではなく怖がらせる側なのだ」という方向へ矯正され、やがて本当に自分でも自分の不安や恐怖に気づけなくなります。
しばしば指摘される中高年男性の自分語りの下手さや、困りごとをうまく伝えられずかんしゃくを起こす傾向などは、彼らが自分の苦痛や不安を認識する能力を社会に破壊されているからでしょう。まして適切な言語化などできるわけがありません。
他にも色々な場面で、不安を感じてないことを前提とした粗末な扱われ方を重ねて、男性は自分に対しても他人に対しても鈍感にさせられていきます。
たとえばトイレ。
男だったら道端で立ちションしても大目に見られがちという自由は、性器を露出し排泄を見られたくない感情を気遣ってもらえないという粗末な扱いでもあります。(道端は許されないと思うならハイキングや海釣りや森林浴を想定してください)
不安や羞恥を感じていた男児も、「その辺でおしっこ済ませてきな」と言われたり、仕切りのない小便器や、女性が清掃に入ってくるトイレを使ううちにその弱さを鈍麻させ忘れてしまいます。
この言葉はおおむね好意や信頼の表れですが、同時に「男の人は一人でも不安になる必要はないよね、あなた自身が男の人なんだから加害者である男と戦えるもんね」という扱いでもあります。
一人で行動しても口を挟まれない自由の反面、一人は心細いという男性の感情は最初から考慮されていない。
このような扱いに触れ続けることで、「俺は男だから不安になる必要はないんだ」と自分を勇気づけ、痩せ我慢することが癖になります。
夜道にせよ、トイレにせよ、一人行動にせよ、成人男性に直接聞いてもたいてい「いや全然平気だが」と言うだけでしょう。
最初から平気な男性と、鈍麻し平気にさせられた男性と、本当は平気じゃないが痩せ我慢している男性を区別することは本人にすら困難です。
この論法は「たとえ当事者が男性差別を否定しても、それをそのまま受け取るべきではない。男性差別は存在する」という無敵論法っぽくなるので好きではないロジックですが、そう言わざるを得ない。
ネットでは、男性はセルフケア能力が低い、まずは自分を大切にすべきなのにそれをしようともしない、などという話も多くなっていますが、男性のセルフケア能力の低さは数十年にわたる「男性は自由に行動してよい反面、粗末に扱ってよい」という経験の積み重ねによるものであり、決して男性個人に責を負わせるべきでも、自己解決を求めるべきでもありません。
セルフケアに焦点を当てるならば、社会によって損なわれた男性個人のセルフケア能力を育て直すため、社会が反省して手厚く協力してあげよう、という話になるのが妥当でしょう。
しかし現状の男性セルフケア論では、セルフケアというスローガンと丁寧な暮らし雑誌は与えてやるのであとは自分で(せいぜい弱者男性内部で)上手くやって成長しろ、社会は手を貸す気はないぞ、という正反対の切り捨て論になっています。
男同士で友人を作っても、それは楽しさや得意分野を分かち合うには向いていますが、弱みを見せ合い癒し合うことには向いていません。「今日はパーっと遊んで嫌なことは忘れちまおうぜ」のような会話がその典型です。
男性が警戒され、気遣ってもらえない原因には合理的理由がある、という反論はできるでしょう。
腕力の強さ、性欲や暴力性の強さ、外見の悪さ(体毛が濃く皮脂が多く禿げやすいなど男性ホルモンが外見に与える悪影響は多い)、コミュニケーション能力と共感能力の低さ、など。
しかし、そのようなある程度の合理性があったとしても、統計的差別であることは間違いありません。
統計的差別はどの程度まで許されて良いか、というのは難しい問題なので、別に論じる必要があります。
そして、フェミニズムと弱者男性論の共闘が難しいのはここが主な原因でしょう。
「性犯罪は男性から女性への加害が多い(犯罪全体では男性が被害者になる方が多いですが)」「腕力が強くて制止が困難」「妊娠リスク」など様々な事実に基づき男性に対する統計的差別をどの程度認めるべきか、フェミニズムと弱者男性論は真っ向から対立しています。
統計的差別は一切許されるべきでないと言い切る人も時々いますが、それはどの陣営であっても非現実的でよくないと思います。
もっとも「社会を運営するにはマクロ視点の統計的差別が必要なことは認めるけれど、その加減を考えましょう」とかぬるいことを言ってると、確かにそうだね考えなきゃねとは言ってもらえても実態は現状維持が続くだけであり、統計的差別を一切許すな!と極端なこと言って圧を掛ける方が新規分野の社会運動としては実を結びやすいんでしょうけどね……。
今までも男性差別については、男性は加害者として認められやすく被害者として認められづらいという内容でしばしば語られてきましたが、たいてい注目されるのは女から男への悲惨なセクハラや暴力事件がほとんどです。
それも由々しき問題ですが、男性差別の根底にあるのは、もっと日常的でうっすらとした「男ならまあ平気だろ。ほら、やっぱり平気だった」という日々の積み重ねではないでしょうか。
特に、「男性なら大丈夫」という信頼により粗末に扱われる場面は見過ごされやすいと思います。
フェミニズムでは、「女を自立した人間と信頼して放任しろ、家父長制で口を出してくるのやめろ」というアプローチが行われていたため、その逆である、過度の信頼による放置という男性差別は問題視されづらいのです。
「女子供は弱いから保護して指示してあげなきゃね」という慈悲的差別に対して、男性が受けやすい「男は大丈夫だろうから心配する必要もないし勝手に自立しててくれ」という扱いは、信頼的差別などと呼べそうです。
この記事は、これまで弱者男性論で強調されてきた、人間関係や恋愛や経済やジェンダーロール面の困難や、弱者男性の存在自体が不条理に否定される、などの論点と対立しません。
警戒されつつ粗末に扱われることは、親しい人間関係や恋愛関係のハードルを上げます。
経済的貧しさについては、一般的な貧困問題に加えて、男性は公的にも私的にも助けてもらいづらいし、そもそも助けを求める能力が社会により破壊されている点に、男性特有の困難があります。
男性ジェンダーロール問題とくくられるような、男なんだから泣くなしっかりしろと言われるとか、責任を負わされるとかは、「信頼の名目で粗末に扱われる」部分です。
弱者男性論自体があまり聞く耳を持ってもらえないしミソジニストとすら言われることや、困ってると認めてもらえなかったり、困っててもそれは受け入れるべき部分だと言われることなども、「信頼してるという名目で粗末に扱われる」の一種ですね。
また、「男性にも弱者がいることは分かったけど、結局どうなることを求めてるんだ、要求を出してくれ」という問いがありますが、運動として歴史の浅い弱者に、的確な要求をする強さをいきなり求めないでください。
現時点では、「どうなったらいいかを、男性に肩入れしつつ一緒に考えてくれる人が増えるのが望みです」としか言えません。
少なくとも私は、男の乳首も露出NGにしろとか、男性トイレもすべて個室にしろとか、芸人のちんちんポロリシーンやハゲネタはダメだとか、「男の人がいると安心」はハラスメントだから許すなとか、そういう短絡だったり個別的すぎる議論にはしたくありません。
男女平等に近づけることには合意されるとしても、男性も女性くらいに保護する方向と、女性も男性くらいに放任する方向では、目指すものは大きく変わるでしょう。
細かな調整が必要な問題ですから、今はまだ最終要求を問われてジャッジを受けるほど議論が深まっていません。
あくまで私の主観的な意見としては、消極的自由を重視して積極的自由には疑問を持っているので、保護よりも放任、安全よりも可能性を男女ともに重視する方がよいと思っています。
人間に限らず生物が「男性的な物、強そうな物、醜い物」へ抱く警戒と嫌悪は途方もなく根深いので、男性もケアされる男女平等の実現可能性は絶望的であり、女性も雑に扱われる男女平等の方がまだ実現可能性があるだろうという予想のせいでもあります。
本エントリの書き方だと皆が保護される平等を求めているように見えるかもしれませんが、私個人はそれが実現しそうにないと絶望しているので、皆が放任される平等を目指した方がマシだと感じている、ということです。この絶望感をぬぐえるならぬぐっていただきたい。お前にサン(son)は救えるか!
【追記】
母親と妻、そして「女をあてがえ論」についても書きました。
『男性が母と妻にだけ弱さを晒そうとするのは、皆に原因があります(anond:20220909191646)』
下記のエントリー(anond:20220701074807)で色々と書いてある点について。目下話題になっている「表現の自由」について。自分用の整理として。
目下話題の「表現の自由」は、いかなる意味で表現の自由なのだろうか。それは憲法21条1項に見られるような法的なそれだろうか。それとも、憲法21条1項のようなものとは異なった何かなのだろうか。たとえば、JAなんすんが制作した『ラブライブ! サンシャイン!!』のキャラクターを利用したポスターについて、絵の内容がが性的である※1という批判があった(なお、これや宇崎ちゃん欠缺ポスター事件の余波で、赤木氏らツイッター凍結騒動があったりした。覚えているだろうか?)。
ここで、抗議をJAなんすんが考慮して、ポスターを撤回したとする。すると、「誰の」自由が「誰によって」侵害されているのだろうか。侵害者をざっくりと抗議する者として捉え(本来、ツイッターで批判的な言葉を言っている者、電話をかけて意見を伝える者、付和雷同していたずら電話をする者、大量の手紙を送りつける等のいやがらせをする者等を十把一絡げに全部抗議者として捉えるのは適切ではあるまいが)、被侵害者をさしあたってJAなんすんとして、JAなんすんが抗議者に対して抗議をやめる(たとえば、ツイッターで「ポスターを撤回すべし」等の意見をつぶやくのをやめさせる)ように請求する法的資格を有する、というのが表現の自由主張の趣旨か。
はっきりいえば、そのような主張は法的には認められない。私人間効力の論点を見直すべきであるとしか言い様がない。ここで、抗議をやめるように要求する資格があると裁判所が肯定すれば、抗議者の表現に裁判所(=国家機関!)が介入することになり、それこそが表現の自由の侵害である。この構図において、憲法21条1項が保障する表現の自由の恩恵に浴するのは抗議者の側となるだろう。目下話題の「表現の自由」は、憲法21条1項とは異なる問題であると解するのが相当である・・・のだろう。
元々のエントリーでは次のような言明がある。
言いたかったのは、フェミニストはあくまで「女性の実質的な表現・言論の自由を高めるための環境づくり」を目指しているのであって、「表現規制派」というレッテル貼りは間違いだということ。フェミニストやリベラル派が目指すのは、あらゆる階級や属性の人が等しく表現の自由を行使できる社会だ。
これに対するブコメはこう言っている。
preciar おまえ等がぶっ叩いてきた作品のほとんどが女性の手になる物である時点で、ただの妄想というか開き直りでしかない/そもそも平等のために表現を規制しろと言う主張が「規制派」でなくてなんだ?恥に加えて知恵も無い
後段の「そもそも平等のために表現を規制しろと言う主張が「規制派」でなくてなんだ」という部分に注目したい。再びポスターを題材とする。「規制」という言葉を使うのは公権力ではないから不適切のように思うけれども、例のポスターに対する抗議は、ポスターを掲示することを抑制しようとする意図を有し、ある一つの表現を抑圧する行動である、という部分を問題として切り出すことにしよう。ここで想起するべきなのは、表現すべてがまったく自由(というより、放縦のまま)とされることなどあり得ないということである。たとえば名誉毀損的な言動は認められない。名誉毀損的言動をしている者を叱りつければ、それは一つの表現の抑圧には違いない。しかし、名誉毀損をされないというのも重要な利益であり、自己表現の利益と考量される対象となる(そうならないという人はいないだろう)。プライバシーも同様である。ノンフィクション『逆転』事件を想起すれば良い。前科を実名で暴露されない利益を重視する見地から、『逆転』における表現が抑制されている(この事件では、慰謝料の請求を裁判所が認めているから、公権力による「規制」ですらある!)。プライバシーの保護のために表現を抑制するべきであるという主張は「規制派」であろうか。
名誉毀損やプライバシーは具体的な個人の利益が問題となっているが、女性蔑視の問題はそうではないと思うかもしれない。しかし、番組準則のように、社会に薄く広く広がる利益保護(たとえば、放送番組の政治的公平性)を保護するために、表現を抑制する(番組編集準則であれば、放送局の自由)ということは、そうおかしな話ではない(なお、憲法学では、番組準則は、それへの違反が総務大臣による放送免許の取消原因になり得る等の効果をもつ限りで違憲であるとしている。)。たとえば、大阪府知事・大阪市長・橋下徹のトーク番組に対して、政治的に公平ではないという批判は、無論番組作りを抑制する可能性がある。実際、激しい批判を浴びて、大阪毎日放送は社内調査を行って検証したのである。これも「平等のために表現を規制しろと言う主張」だから「規制派」となるのだろうか?それはそれで一貫した立場ではある。それこそ「知恵も無い」と思うが。
なお、念のためにいえば、プライバシーも名誉権も日本国憲法は明文で保障していない。そのような利益であっても、憲法21条が保障する表現の自由にとっての対抗利益となることができる。憲法の明文で保障されていない権利は表現の自由の対抗利益になり得ないという考え方は、畢竟独自の見解に過ぎない。
選挙において「表現の自由」を掲げる政治家がいる。彼らの問題意識は極めて偏頗ではないか。日本の表現の自由をめぐる問題状況は深刻なものがある。ところが、こと選挙で「表現の自由」を旗印にする者の言動を見ていると、選挙運動の規制、公務員の政治的意見表明やストの広範な禁止、放送資源の分配問題、政府情報の保全・公開等々、様々な形で存在しているはずの問題状況が捨象されて、取り上げられているのは「マンガ・アニメ」の自由ということになっている。また、「アニメ・マンガ」だけを対象にしても、取り組む分野が偏っているのではないか。たとえば、これ(https://twitter.com/KenAkamatsu/status/1542366137979400193)には『国が燃える』事件が入っていないが、右翼の抗議は免罪されているのか。あるいは、最近の『「神様」のいる家で育ちました』も入っていないが、宗教団体からの抗議は免罪されているのか。上記は、批判としてはマージナルかもしれない(忘れていただけかもしれない)が、刑法175条の廃止等(ポルノの合法化;「有害図書」販売規制の廃止ないし合理化)を公約に入れていないのはどうしたことか。
「表現の自由」を掲げる政治家の言動を観察していると、一つ気づくことがある。彼らは、表現の自由を抑制している制定法を改廃するのではなく、規制の対象外となるように関係機関に働きかけを行って「免除」(制定法の外部で活動しているのだから、お目こぼしに近い)するという活動に主眼を置いているようである。念のためにいえば、そういった活動を政治家が行うこと自体は奇妙なことではない。問題は、「表現の自由」といった一般的・普遍的権利を掲げながら、規制の廃止を唱えるよりも、特定の表現に限って規制を免除するように(制定法の改廃ではなく)法執行機関に働きかけをしていることである※4。取締当局に働きかけをして有利な方針を引き出すという方向性は、自由にとって脅威であることに変わりはない。結局、働きかけをする人物の意向によって「自由」の内実が左右されることになるからである。「免除」の仕組みを動かす人物が特定の出版社や特定の作品群を代表している場合、その他の出版社・表現には「免除」を拒否するという形で脅威となる可能性が存在し続ける。政治家の言動をナイーブに受け止めてはいけない。
なお、私は実は「アニメ・マンガ」の中の特定の作品群のみを対象とした偏頗な政治運動自体がけしからんというつもりはない※5。しかし、「表現の自由」という看板は下ろしてもらいたい。
「表現の自由」を掲げる政治家ないしツイッターアカウントを見ていると、「エロ(・グロ・ナンセンス)」の自由を重視しているような印象がある。こういった表現一般について、公権力の介入を排除する防御権があるのは当然だ、という前提があるような気がする。しかし、「わいせつ(obscenity)」にあたる言論は憲法上の権利として保護されないはずである。憲法上の権利として保護されないということは、内容規制をしても合憲であるということになる。日本の最高裁の考え方もそうであろう:
なお性一般に関する社会通念が時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷があることである。現代社会においては例えば以前には展覧が許されなかつたような絵画や彫刻のごときものも陳列され、また出版が認められなかつたような小説も公刊されて一般に異とされないのである。また現在男女の交際や男女共学について広く自由が認められるようになり、その結果両性に関する伝統的観念の修正が要求されるにいたつた。つまり往昔存在していたタブーが漸次姿を消しつつあることは事実である。しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない。それは前に述べた性行為の非公然性の原則である。この点に関する限り、以前に猥褻とされていたものが今日ではもはや一般に猥褻と認められなくなつたといえるほど著るしい社会通念の変化は認められないのである。かりに一歩譲つて相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても、裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならぬのである。
「エロ」の自由を擁護していくとなると、「保護されない言論」の判例法理の桎梏をいかに除去していくかを考えるべきであろう。スウェーデンではポルノも出版の自由の対象とされていることに注意する必要がある。スウェーデンの憲法典の一部を構成する出版の自由に関する法律は、出版の自由を制限できる場合を限定列挙する。児童ポルノは出版の自由を制限できる場合に挙げられている※6が、ポルノ一般は挙げられていない。他方で日本の状況を考えてみよう。もはや何の修正もなく『チャタレイ夫人の恋人』は出版されているが、刑法175条自体は生きている。最高裁は判例を変更していない。捜査機関が取締りの方針を変更すれば、刑法175条でもって再び刑事罰が科されるであろう。他の成人向けのアダルト・ビデオにしても、マンガにしてもアニメにしても同様である。一般に「エロ」の表現の自由を目指していきたいのであれば、少なくとも刑法175条を廃止しなければならないはずである。しかし、この最大の桎梏の存在を認識していない者も少なくないように思う。もしかすると、このような規制状況はもはや動かしがたいので、所与としなければならないと考え、より低い脅威度のものを優先しているのかもしれない。あるいは、彼らが取り組んでいる「マンガ・アニメ」は実は「わいせつ」にあたらない物件のみで、ハード・コア・ポルノ的な「マンガ・アニメ」は眼中にないのかもしれない。しかし、それでは『チャタレイ夫人の恋人』や『悪徳の栄え』、あるいは『蜜室』に取り組んだ人々と比べてあまりにチャチな取り組みだと思う。
丸山眞男を引き合いに出すまでもなく、日本人は既成事実に弱いと指摘される。いったん規制されると大変だから、規制される前に対処する政治家が必要であるという言い分を聞くが、既成事実に屈服して「一端規制されると大変」な状況を強化しているのは誰なのだろうか。
※1 ここで「性的」として批判されているのは、単に裸体だとか性器が描写されているという意味ではなく、ほぼ女性蔑視的という意味に等しいことに注意するべきである。
※2 書いているうちに思ったが、リュート判決の構図に似ている。
※3 スウェーデンなどの欧州諸国ではポルノが合法化されている。スウェーデン等で購入したヌード写真集を日本に輸入して税関検閲に引っかかる、というのが税関検閲諸事件の流れだ。
※4 なお、児童ポルノ禁止から創作物を除去せよとの主張は、一般的な規制の問題として評価できよう。
※5 むしろ、出版社の利益を守るためと考えれば、個別の出版について規制をお目こぼししてもらう活動も大事だろう。だが、あくまで出版社の権益であり、表現の自由という共通財の問題ではない。
※6 日本で出版されている成人向けマンガ・イラストが児童ポルノにあたるかと言った事件があったのだが、スウェーデン最高裁はマンガの表現形態に十分配慮した判断を行っている(NJA 2012 s. 400. 翻訳もある。外国の立法255号[2013年]223頁)。このような判断を日本の最高裁がするかというと、全然しないだろう。
id:ruin20である。自分のIDが出ていたのでいっちょ噛みしておこう。
たわわには巨乳ヒロインが複数登場するが、そのうち、電車の中で会える女子高生のアイちゃんをわざわざ表象に選んでいる意図が抜けている。
元増田が無知なのか無知を装ってるのかは知らんが、アイちゃんが選ばれたのは『たわわ』のシリーズヒロイン、つまりは『月曜日のたわわ』を象徴するヒロインだからだ。
本シリーズは、Twitter上で、「月曜朝の社畜諸兄にたわわをお届けします」と銘打たれて始まった。当初は巨乳少女の水着姿が中心だったが、33回目にアイちゃんが登場する。それまでいいねは1万前後だったがアイちゃんは2回目の登場で2万いいねを稼いだ。作者も(アイちゃんを)「ちょっと気に入った」と述べており、アイちゃんを連続して描くようになる。2回目、あるいは3回目にはぼかしながらも「相手」が登場し、4回目にはスーツ姿の男性らしき人物がアイちゃんの視線の先に現れるようになった。
このように、アイちゃんはシリーズにおいて始めて連続して登場した少女であり、シリーズ飛躍のきっかけになったキャラクターであり、元々はただの巨乳少女を描くだけだった本作に「たわわな女の子と男性」という二者間の関係性を描写するという枠組みを導入したキャラクターなのだ。人気アンケートを取れば当然1位になるだろう。歴史的にもコンテクスト的にも人気的にも『たわわ』の顔であり、だからこそ広告にも登場した。「電車の中で会える女子高生だからアイちゃんがおすすめ」というまとめ方は本質を外していると言わざるをえない。私はここでハンロンの剃刀ということわざを思い出すべきだろうか? 難しいところである。
元増田が無知なのか無知を装ってるのか気になるところは他にもある。
40代以降が萌え絵についていけてなくて価値観がアップデートされていないとか、
上記の根拠として元増田はリスク認知について持ち出している。一定納得するところもあるが、リスク認知が文化的影響を受けるというなら麻薬に対する不安レベルがアメリカより日本の方が高くなるのは明らかにおかしい(当該論文の図4)。レイプの発生件数や発生率はアメリカやイギリスなど先進諸国とくらべて日本が圧倒的に低いと統計的に明らかになっている(※1)が、本邦フェミニストは日本が欧米に遅れた性犯罪大国かのように喧伝する。アメリカに比べて麻薬がまったく社会問題化していない日本の方がそのリスクを感じていたり、レイプ統計を合わせて考えれば実態を伴わないイメージだけで過大にリスクを感じているだけではないのか。
また、元増田はまったく無視しているが、歳を経るごとに『たわわ』に対するイメージが悪化していくのは、若い人ほどオタクに対する偏見やネガティブイメージがなくなっていくからだという点を見逃してはならない。オタクはもともと蔑称であり、宮崎勤事件を頂点に変質者・犯罪者予備軍として社会から差別されてきた。この事件は今40歳であればだいたい10歳ごろにそれを経験している。リスク認知に文化的影響があるというならオタクに対する偏見が社会に満ちていた時代を経験した世代かどうかを無視してはならない。
2010年に行われた調査では10代女性の50.9%は自分がオタクだと回答し、35~39歳の女性は17.6%に過ぎなかった。同調査においてオタクに対するネガティブイメージは10代だと29%だったのに対し、35~39歳は40.5%だった(※2)。自身がオタクである割合が増えればオタクに対するイメージも良化する傾向にある。別の調査元ではあるが、2020年の調査では自分がオタクだと回答した10代女性は86%に増加している(※3)。これらを踏まえれば「40代以降が萌え絵についていけてなくて価値観がアップデートされていない」はむしろ正と言える。
「電車の中の女子高生を性的コンテンツとして楽しむこと」と痴漢等の具体的な性的被害への危機感がリンクするのは、主に被害の実体験を持つ者だからである。
これもありふれた理由付けである。誰かの個別的体験に配慮して表現を規制するのであればあらゆる表現が規制されねばならない。表現規制しろとまでは言ってない、と言うのだろう。しかしこれもいじめではなくからかっただけ、と同じで攻撃者が好むご飯論法だ。
誰かの権利を抑制しようとするとき、そこにはフェアネスが必要だ。オタクや萌え絵を攻撃する連中にはそれがない。
“周囲の大人は痴漢に怒ってくれる、という信頼感を自分にくれた恩人である。” この信頼感の絶対量がもっと多い世の中だったら、たわわも問題にならなかったんじゃないのかな〜と思ったりする“
元増田は上記ブコメに感銘を受けたようだが、俺に言わせれば萌えフォビアのフェミニストにこそ信頼が置けない。月曜日のたわわ、温泉むすめ、宇崎ちゃん、境ホラ、のうりん、人工知能学会表紙エトセトラエトセトラエトセトラ。連中はいくつものコンテンツを燃やしてきたが、それを批判されると反論するのではなく論点を変えてやり過ごそうとする。たわわも最初は公共の場にふさわしくないという話だったが、日経新聞というブランドでやったことが問題視され、次は「見たくない表現に触れない権利」などというものが持ち出され、どちらも論破されると「日経新聞はUN Womenのアンステレオタイプアライアンスのメンバーだから守るべき」という話にすりかわってそれも論破されると元増田のように「講談社の意図が気になる」みたいのが出てくる。もはやいたちごっこであり、誠実さの欠片もない。広告だったことが問題なのであれば何故たわわ以外のコンテンツを燃やしたのか? 主張の一貫性などどこにもない。たわわのような表現によって性犯罪が増えるという統計的裏付けがあるならまだしも出てきたのがたわわのような表現があると不安になる女性がいるから、とか言うんだから話にならない。
萌えフォビアのフェミニストにフェアネスがないのは、ananSEX特集の駅ナカ広告や宮崎県日向市のCMをスルーしたり擁護したりすることからも指摘できる。これを引き合いに出すと決まって必ず「Whataboutismだ!」などと吹き上がる連中がいるのだが、ここで問題にしているのは社会を背景に表現を批判する者が持つべきフェアネスと一貫性である。萌えフォビアのフェミニストがオタクコンテンツを燃やすとき決まって必ず社会性をまとう。私が気に食わないからという理由で攻撃しても誰もついてこないからだ。だから「公共の場所に性的と感じられるコンテンツを置くべきではない」という論調になるが、それであれば渋谷駅の駅ナカで展開されたananのSEX特集の広告など真っ先に批判されるべきだろう。しかしそれをやってるフェミニストは見たことがない。けっきょく「私」が気に入らないから攻撃しているに過ぎず、それであれば「私はそれが嫌いだから私の見えないところにそれをやれ」と言われた方がよほど誠実に感じる。
フェミニストにフェアネスと一貫性があってもっと信頼感があれば言うことを聞く人も増えるだろう。だが今はその対極にいる。その事実をまっすぐに受け止めた方が良い。
※1:https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/64/nfm/n64_2_1_3_4_0.html
先程トイレで大きい方に挑みながら唸っていた。
多分おおくの増田もそうだと思うけれど(もうこの時点で確信がない)、半ば無意識にズボンを下ろして腰を下ろしていきんでいた訳だ。トイレなんて生まれてからおそらく1万回以上下手したら2万回近くやってるわけで、なにかこう特別なことを考えてたりするわけじゃなく、このときも確か出さなきゃいけない仕事のメールについて考えながらほぼオートモードで行動していた。
しかし、そのときふと考えた。考えたと言うか、意識がふわっと一歩外に出て自分を見た、というか。
その時自分は座った膝の上に右掌をついて、左手は肘をついて、「う゛ー」的なため息を漏らしていたわけだけど、これは何故なんだろう。いや、何故かといえば自分がそうしたからなんだけど。
何故「あ゛ー」でもなく「い゛ー」でもなく「う゛ー」だったのか? 何故右掌をついているのか? そこにふと疑問を抱いた。いや、多分それが自分のスタイルであって、年月をかけた定番であって、習慣であって、意味は特にないのだろう。それはすぐわかったし納得した。
しかし、おおくの増田もそうだと思うけれど(このあたりから確信がどんどんなくなっていく)、自分は他人がトイレでいきんでいるところを生で見たことはない。ドラマ等ではあるような気もするが、パッとは思い出せない……のだけど、皆様におかれましてはどうでしょうか?
自分自身では自分の行動は全く自然であり異常なところはひとつもないのだが、他人のそれと比較検討したことがない以上、その保証はまったくないのではないか?
大きい方を終了しながら、突然そう気づいたのだ。
そこでデスクに戻ったら即座に「トイレ 姿勢 声」でググってみたのだけれど、そこで出てくるのは介護において排泄を介助する方法や知識ばかりであって、ワードを変えて何度か検索してみたけれど、自分の求める知識は出てこなかった。
こちらが知りたいのは健常な普通の一般人がトイレでする時の仕草なのだ。しかもそれは決してエロい意味ではなく普通が知りたいだけなんだ。
しかし言い訳すればするほど説得力が蒸発していくような疑問なので、知己に尋ねることも出来ない。
一旦冷静になって考えてみれば、それに類する情報が見つけられたとしても、それらはおそらく(自分が「う゛ー」であるのと同様に)個別の個別的な体験や手法であって、自分を安心させるような網羅的で一般が確認できる情報ではないとだろう。検索結果からはそんな雰囲気を感じる。
増田諸賢は、トイレの中での行動というものを、もっと自覚的に、主体的に、ちゃんと意識してやってるんだろうか? そこでのうめき声に主体性を保持してるんだろうか? 姿勢には? 無自覚にやっていないか? 疑問を感じていないのか? すべてがわからない。
プライベートの中心地とも言えるそこはブラックホールのごとく情報を飲み込んで外には漏らさないからだ。
そういう、今日感じた疑問というか、心の動きをここに記録しておく。それが匿名増田のもっとも有用な使い道だというのが今日の結論だ。
立憲民主党を批判して、「政権交代を現実的な選択肢として考えられるようなレベルの政策を出せる野党第一党が欲しい」という人が多いけど、政治についての考え方が明らかにナイーブだと思う。なんかいい政策をつくれば政権を取れるのに、という野党批判が多いけど、そんなわけない。野党が政権を取れないのは、「野党のなかでもまとまってないのに、国の運営なんかができるのか」という、政権運営能力に対する根本的な疑問であって政策とかじゃない。
典型的なのが消費減税。消費減税策を打ち出せば世論の支持が高まるという幻想を振りまいている愚かな人が多いが、全くそんなことはありえない。野党から消費減税と言われても、「またできもしない甘い政策で私たちをだまそうとしている」としか受け取ってくれないからである。減税派は「国債を発行すればいい」などと無責任なことを言うんだろうけど、霞ヶ関や国会議員にはそれに強硬に反対する人が現に膨大にいるのであって、それを説得して回るのも政治である。結局、財務省や厚労省などとの予算の調整のプロセスのなかで、代替財源として歳出の大幅削減が求められることになる。かつての民主党政権が実際に直面したことである。そういう「政治のめんどくさいこと」が野党は出来ないんだろう、というイメージを払拭できていないから支持が伸びないのであって、個別的な政策自体が支持されていないわけでは決してない。
ではどうすればいいいのか。それは、野党は無理に対決姿勢をとることはなく、政権与党のなかに意見や政策が同じところがあれば素直に評価して協力すること。政権与党の中で働いている官僚や感染症の専門家、社会保障の実務家などから謙虚に学び、外側から支援して「今の自民党よりも野党の方が仕事がしやすい」という印象を地道につくっていくことである。
そして、野党議員もSNSやメディアで自民党との違いを無理やりアピールするより、「与党との強力で懸案だった法案が成立しました」というアピールを頑張ったほうがいいと思う。時間はかかるけど、政権担当能力があるという小さな実績を積み上げることで、長い目で見れば政権奪取につながる。そもそも政権獲得など手段でしかないわけだから。
だから男女平等だからと言って、トランスジェンダーを排除しちゃいけないよね、という話をしているわけ。国民の平等のために外国人を差別するのが良くないのと同じで、何かの平等を実現するために、別の差別をするのがよくないのは当たり前で。
そりゃわかるよ。トランスジェンダーの人が女性枠で出場して圧勝しまくることに、何の違和感も覚えないという人はいないと思うし、不公平感を訴える女性アスリートの意見もきわめて当然だと思う。だけど「反差別」というのは、そういう個別的な違和感を圧倒するほど優先されるべきことのはず。妥協点が難しいのはわかるけど、妥協点を探るために汗をかくのは個々のトランスジェンダーのアスリートではなく、競技の主催者の側のはずだ。
要は「トランスジェンダーの人は我慢して男性枠で出場すべき」という意見に対して、それが「差別」だと考える人と、そうは考えられない人の違いなのだろうと思う。
主に少年漫画系を想定する話として、漫画やアニメのキャラが当然のようにヘテロセクシャルであるということを前提とするのはヘテロセクシズムであり、そのキャラがもしかしたら同性愛者かもしれないじゃないか、というのはわかる。
ただ現実的には性的指向が明かされるキャラなんてそうそういるわけでもない。彼氏彼女がいる、性欲があるキャラの描き方がされることもあるけど、そうでないことの方が多いくらいなんじゃないか。テクストだけを見るならば、むしろ多くのキャラが無性愛者だと考えたっていいくらいではある。
恋愛描写のないキャラに対して半ば強引に二次創作のヘテロものやBLや百合あるいは夢小説にするというのはセクシャリティの改変であり、厳に慎まなければならないことなのではないか。
先日、アセクシャルを矯正する薬を飲ませて恋愛をさせるという漫画がTwitterで炎上していた。これは別におかしなことではない。その人物、そのキャラクターのセクシャリティを尊重せず、無理矢理恋愛あるいは性行為をさせることなど以ての外だからだ。そのことは多くの人が批判点として共有していた。
しかし、そうであるならば二次創作として描かれる恋愛ものも同じなのではないか? そこに刃は向けられないのか。
別に例はなんでもいいが、カヲルくんとシンジくんでも、煉獄さんと炭治郎でも、五条悟と虎杖悠仁でも、その他無限のカップリングについても、そのキャラはゲイまたはレズビアンではないのではないか、場合によってはヘテロセクシャルですらないのではないか、という疑問は残る。メインキャラはともかくサブキャラになればなるほど恋愛描写なんてなくなるわけで、ヘテロセクシャルなのかどうかすら描写が皆無なんてのは珍しくもない。
もちろん、仮に性的指向であるからといって、相互の関係性を必要以上に縮ませる(はっきり言うと性行為をさせるエロ同人など)こともまたそれでいいのかどうかという問題もある。
ミスジェンダリングという言葉があって、トランスジェンダーやノンバイナリーに対して当人の自認するあり方とは違う性別で呼ぶことを批判する用語なのだけれど、それはゲイやレズビアンをヘテロセクシャルとして扱うことにも適用されるものではあると捉えている。このことは二次創作には適用されないのだろうか。
所謂ポリティカル・コレクトネスについて、私は重視しているのだが、そうであるが故に、それを推し進めていくと今まであった二次創作もまたどんどんキツくなっていく。インターネットにおいて二次創作・ファンアートは聖域に近く、その存在を認めない発言は極めて少数だ。二次創作が存在していいものとしてあることが明らかな既得権になっている。ポリティカル・コレクトネスを重視する人はしばしば批判対象の既得権(特権)を指摘するのだけれど、そういう人が、個別的なエロ同人などはともかく、二次創作そのものにまで批判を向けることは、意外に少ないようにも思う。フェミニストでありオタクでもある、というのは非常によくあることでもある。そのこと自体は別に問題ない、けれど、自分の持つ刃をどこまで適用するか、という問いはいつでも突き刺さったまま残るのではなかろうか。
今まで自明であったものがそれは抑圧だという批判に晒されるということはよくある。例えば所謂腐女子(この名称にも問題は多数あるわけだが割愛)の中での「ホモ」呼びもこの10年で漸減してきたとは感じるけれど、それと同じように、そもそもの前提としての性的指向の改変自体が好ましくないものなのではないか、という問いの声は、もう少し出てきてもいいとは思っている。
既得権者からは「二次創作は文化である」という反論が来るのだろうけれど、そんなのはセクハラは文化だと言っているに等しい、とさえ言うことができるのではなかろうか。既得権者はいつだってそれを自覚せず傲慢なままだ、というのはポリティカル・コレクトネスを重視する側ではよく聞く話でもある。
すぐに変わるとは思っていない。変化には長い年月がかかるだろう。ただ、自分の楽しんできたものは正しかったのかを問い直す作業は、どの分野でもあって欲しいとも思う。
男性が受けている差別として重要だと私が思うのは、警戒されることと、信頼という名目で粗末に扱われることです。
男にも女にも、男は警戒すべき存在だという感情がうっすらとあります。
同時に、男性だったらほっといても大丈夫だろう、という肯定的な信頼の形をとって、男性のことをろくに気遣う必要はないとされがちです。
だから、世間話でもマスメディアでも、男性への警戒や、過度の信頼による雑で粗末な扱いが平然と行われています。
それが積み重なった結果として男性は、敬遠されて孤独な人生になりやすく、自尊心も低く、自分たち男性自身への嫌悪も生まれ、自分の事すら粗末に扱い、次世代男性もそのように扱うので引き継がれる、などの被害を負っています。
「保護と抑圧は地続きなのでバランスが大切だ」という話をよく目にしますが、同じように、信頼と放置も地続きなのです。
家父長制は、自立したい女性にとっては抑圧という差別だけれど、自立を望まない女性には保護を受けやすいというメリットとしても働く。
それを裏返したように、男の自由放任は自立できる強者男性にとってはメリットだけれど、弱者男性にとっては助けてもらえないし悲鳴も無視される差別として働いています。
若者が遭遇しやすい実例として、バイトやサークル活動が長引き、夜になってしまった場面を考えましょう。
これを、男性の方が不安や心配事が少なく生きられるというメリットととらえることは確かにできます。
しかし同時に、「襲ってくるとしたらたぶん男だ、男を警戒すべきだ」「男の自分は、夜道で女とすれ違う時に怖がらせてしまうだろうから気を使わねばならない」「男の帰り道を気遣ってやる必要はない、男は粗末に扱っていい。自分が男なら自分の事も心配せず粗末に扱うべきだ」という認識を強めることにもなります。
実際は、男性でも深夜に一人で帰ることに恐怖を感じる人がそれなりにいるのですけどね。
でも、女性の帰り道は心配されるが男性はそうではないという現実と向き合うたびに、「ああ、俺の夜道への恐怖は認識すべきでない感情なのだ。むしろ俺は怖がる側ではなく怖がらせる側なのだ」という方向へ矯正され、やがて本当に自分でも自分の不安や恐怖に気づけなくなります。
色々な場面で、不安を感じてないことを前提とした粗末な扱われ方を重ねて、男性は自分に対しても他人に対しても鈍感にさせられていきます。
たとえばトイレ。
男だったら道端で立ちションしても大目に見られがちという自由は、性器を露出し排泄を見られたくない感情を気遣ってもらえないという粗末な扱いでもあります。
不安や羞恥を感じていた男児も、「その辺でおしっこ済ませてきな」と言われたり、仕切りのない小便器や、女性が清掃に入ってくるトイレを使ううちにその弱さを鈍麻させ忘れてしまいます。
この言葉はおおむね好意や信頼の表れですが、同時に「男の人は一人でも不安になる必要はないよね、あなた自身が男の人なんだから」という扱いでもあります。
一人で行動しても口を挟まれない自由の反面、一人は心細いという男性の感情は最初から考慮されていない。
このような扱いに触れ続けることで、「俺は男だから不安になる必要はないんだ」と自分を勇気づけ、痩せ我慢することが癖になります。
夜道にせよ、トイレにせよ、一人行動にせよ、成人男性に直接聞いてもたいてい「いや全然平気だが」と言うだけでしょう。
最初から平気な男性と、鈍麻し平気にさせられた男性と、本当は平気じゃないが痩せ我慢している男性を区別することは本人にすら困難です。…
…これは「たとえ当事者が男性差別を否定しても、それをそのまま受け取るべきではない。男性差別は存在する」という無敵論法っぽくなるので好きではないロジックですが、そう言わざるを得ない。
ここ数週間のネットでは、男性はセルフケア能力が低い、まずは自分を大切にすべきなのにそれをしようともしない、などという話も多くなっていますが、それは数十年にわたる「男性は自由に行動してよい反面、粗末に扱ってよい」という経験の積み重ねによるものであり、決して男性個人に責を負わせるべきでも、自己解決を求めるべきでもありません。
セルフケアに焦点を当てるならば、社会によって損なわれた男性個人のセルフケア能力を育て直すため、社会が反省して手厚く協力してあげよう、という話になるのが妥当でしょう。
しかし現状の男性セルフケア論では、セルフケアというスローガンと丁寧な暮らし雑誌は与えてやるのであとは自分で(せいぜい弱者男性内部で)上手くやって満足しろ、社会は手を貸す気はないぞ、という正反対の切り捨て論になっています。
男性が警戒され、気遣ってもらえない原因には合理的理由がある、という反論はできるでしょう。
腕力の強さ、性欲や暴力性の強さ、外見の悪さ(体毛が濃く皮脂が多く禿やすいなど男性ホルモンが外見に与える悪影響は多い)、コミュニケーション能力と共感能力の低さ、など。
しかし、そのようなある程度の合理性があったとしても、統計的差別であることは間違いありません。
統計的差別はどの程度まで許されて良いか、というのは難しい問題なので、別に論じる必要があります。
そして、フェミニズムと弱者男性論の共闘が難しいのはここが主要な原因でしょう。
「性犯罪は男性から女性への加害が多い(犯罪全体では男性被害者の方が多いですが)」「腕力が強くて静止が困難」「妊娠リスク」など様々な事実に基づき男性に対する統計的差別をどの程度認めるべきか、真っ向から対立しますから。
統計的差別は一切許されるべきでないと言い切る人も時々いますが、それはどの陣営であっても非現実的でよくないと思います。
もっとも「社会を運営するにはマクロ視点の統計的差別が必要なことは認めるけれど、その加減を考えましょう」とかぬるいことを言ってると、確かにそうだね考えなきゃねとは言ってもらえても実態は現状維持が続くだけであり、統計的差別を一切許すな!と極端なこと言って圧を掛ける方が新規分野の社会運動としては実を結びやすいんでしょうけどね……。
これに近い話題は、今までも男性は加害者として認められやすく被害者として認められづらいという内容でしばしば語られてきましたが、たいてい注目されるのは悲惨な女→男セクハラや暴力事件がほとんどです。
それも由々しき問題ですが、その根底にあるのは、もっと日常的でうっすらとした「男ならまあ平気だろ。ほら、やっぱり平気だった」という日々の積み重ねではないでしょうか。
特に、「男性なら大丈夫」という信頼により粗末に扱われる場面は見過ごされやすいと思います。
フェミニズムでは、「女を自立した人間と信頼して放任しろ、家父長制で口を出してくるのやめろ」というアプローチが行われていたため、その逆になっている、過度の信頼による放置という男性差別は問題視されづらいのです。
「女子供は弱いから保護して指示してあげなきゃね」という慈悲的差別に対して、男性が受けやすい「男は大丈夫だろうから心配する必要もないし勝手に自立しててくれ」は信頼的差別などと呼べそうです。
この記事は、これまで弱者男性論で強調されてきた、人間関係、恋愛、経済、ジェンダーロール、弱者男性論が不条理に否定される、などの論点と対立しません。
警戒されつつ粗末に扱われることは、親しい人間関係や恋愛関係のハードルを上げます。
経済的貧しさについては、一般的な貧困問題に加えて、男性は公的にも私的にも助けてもらいづらいし、そもそも助けを求める能力が社会により破壊されていることが困窮してはじめて露見するなど、男性特有の困難があります。
男性ジェンダーロール問題とくくられるような、男なんだから泣くなしっかりしろと言われるとか、責任を負わされるとかは、「信頼の名目で粗末に扱われる」部分です。
弱者男性論自体があまり聞く耳を持ってもらえないしミソジニストとすら言われるとか、困ってると認めてもらえなかったり、困っててもそれは受け入れるべき部分だと言われることなども、「信頼してるという名目で粗末に扱われる」ですね。
また、「男性にも弱者がいることは分かったけど、結局どうなることを求めてるんだ、要求を出してくれ」という問いがありますが、運動として歴史の浅い弱者に、的確な要求をする強さをいきなり求めないでください。
現時点では、「どうなったらいいかを、男性に肩入れしつつ一緒に考えてくれる人が増えるのが望みです」としか言えません。
少なくとも私は、男の乳首も露出NGにしろとか、男性トイレもすべて個室にしろとか、芸人のちんちんポロリシーンやハゲネタはダメだとか、「男の人がいると安心」はハラスメントだから許すなとか、そういう短絡だったり個別的すぎる議論にはしたくありません。