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2018-08-17

高校の教科・科目の実用

高校 教科 で検索したら一番上にでてきたこれを見ながら与太話をしていきますhttp://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/gakkou/koukou/gakkodukuri/guide/nyugaku/0144.html

国語

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/068/siryo/__icsFiles/afieldfile/2016/04/01/1369033-6.pdf

国語総合

実用性があるということにについては当然なのだけど、もうちょっと日本語文法かについて講義したほうがいいんじゃないかとか思う。

国語表現

まったくよく知らんのでテキトウに検索して調べた。 http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/kokuhyou/

俺の時こんな教科なかったような、、、 なんか実用しか考えてない感じですね

現代文A、 現代文B

文学鑑賞。石原千秋が昔こういう教科は道徳教育であって右翼陰謀みたいなこと言ってて面白かった。右翼右翼で逆のことを言っているであろう。

古典A、古典B

古文漢文

どうも古文文学に寄りすぎだし、漢文漢代ぐらいのが多すぎだし実用性という観点ではどうなんでしょうか。武士祐筆が書いた行政文書とか、宋のころの漢文とかそういうもうちょっと現代社会に通じるような内容をある程度扱ってもいいんじゃないかとずっと思ってる。結局中学高校の授業時間程度じゃ何やるにせよ全然足りないのかもしれませんが。

地理歴史

世界史

外人と話をしたりするためには必須知識だろうと思う。中央アジア史や太平洋島嶼史とかが完全に無視されていて気に食わない。

日本史

これもサラリーマンとかやってる分には実用性十分でしょう。

地理

知らないと話にならない。

公民

現代社会

実用しか考えてないような教科

倫理

この教科の実用性云々というか日本思想というのがこの教科でせいぜい西田幾多郎和辻哲郎柳田国男ぐらいしか扱われないことを日本人はよくかんがえたほうがいいのだと思う。西洋思想に触れるまで高校生に教えるに値しない思想日本人は何一つ作り出すことが出来なかったということが明らかになっている。しかしいずれにせよ実際には日本人は日本思想によって生きているので、結果としてこの教科は実用性に欠けるものになっているのだと思います

政治・経済

実用しか考えてないような教科

数学

数学 I

https://www.benesse.jp/teikitest/kou/math/math1/

なんかどれもよく使うやつっぽい。サインコサインかいらんみたいなこと言う人にはゲーム作る時に丸かいたりするのによく使うよって一言いえばいいと思っている。

数学 II

https://www.benesse.jp/teikitest/kou/math/math2/

複素数とか何に使うんだよこんなもんとか思ってたらロボット遊びしはじめたらすぐ使うようになった。

数学 III

https://www.benesse.jp/teikitest/kou/math/math3/

これ III とかいって切り出す必要あるのか? 1 や 2 に混ぜとけばいいのでは、、、

数学A

https://www.benesse.jp/teikitest/kou/math/matha/

実用的っぽい。

数学B

https://www.benesse.jp/teikitest/kou/math/mathb

めっちゃ実用的っぽい

理科

飽きてきた。どの科目の知識も常に実用されとる。

保健体育

高校の体育の授業クソだったなあ。この辺教師との相性問題っぽい感じ。

英語

実用的。

家庭科

実用的。

情報

実用的だけど授業時間足りてない感じはしますね。






実用的じゃない知識高校ではほとんど扱われてなさそうと思った。

2018-03-13

高校時代の半分を独学で勉強して京大法学部に現役合格した話(字数限界につき以後追記なし)

https://anond.hatelabo.jp/20180307150402

諦めるのが早すぎる。高い目標下方修正はいつでもできるが、京大をまた目指しはじめても低い目標上方修正するのはきついぞ。

年間1-2人だけ京大に行く公立高校に通い、高校1年の4-12月個別指導英語だけを週2時間高校3年の9月-本番まで河合塾京大数学京大英語コースを受講、最後冬休み河合塾京大演習コースも受けた。それ以外は独学。結果京大法学部に現役合格した。学校に特進コースはなかったし、クラス文系理系の二分のみ。部活には休まず通い(運動系だったが大会存在していなかった)、高校3年の夏休みとか1日2時間くらいしか勉強してなかった(結果死んだので河合塾行き)。その際のノウハウを共有するから参考にしろ

基本方針

学校定期試験無視しろ。残り2年間で京大学力に到達することだけを考えろ。定期試験で点数がとれようととれまいと京大受験には関係ないし、学校はお前の受験結果に責任を持たない。また、センターはともかく二次試験完璧を目指すな。京大に入りたいなら合格ラインに達してさえいればいい、たしかせいぜい6割くらいだ。

今の段階で京大受験必要センター科目・二次試験科目を絞れ。そして今後2年間の勉強計画を立てろ。ただし総合的な勉強量は考えておこう。センター日本史二次試験世界史受験する方針高校2年で立てた結果2年以降の世界史を完全独学でやり(2-3年は日本史の授業だった)、地獄を見た。普通な世界史地理日本史地理を選ぶ。このあたりは独学の悪い所で、適宜誰かに相談して方針が変じゃないかどうかを確かめるのは大事

京大に受かるためには数学に限らずそれ以外の勉強が不可欠。京大を目指していたなら過去問くらいは開いたことがあるだろうが、京大二次試験は異質だ。ほぼほぼ全ての回答が記述式。これで面食らう人間が多いが、実際のところあれはセンター試験選択肢なしで解くだけな問題も多い。センター試験数学がたまに突飛な回答をするのを思い出せ。センター試験レベル知識習得できれば、京大問題は実のところ解けてしまう(勿論一定以上の応用力は必要だが)。とにかく基礎を固めろ。突飛な英単語やドマイナー歴史知識不要

基礎的な勉強学校で買わされた教科書文法書・参考書を利用すればいいが、京大レベルだと不足する。今すぐ2ちゃんねる(今では5ちゃんねる)の大学受験板に飛び、各科目の総合スレを開け。そこには10年以上前から構築された知のノウハウがつめこまれている。具体的には各スレテンプレにある参考書一覧のことだ。俺が受験生だった10年前と比べると今のインターネットはクソまとめアフィリエイトサイトで溢れてしまってるが、あそこに書かれている参考書一覧は今でも変わらず良書だけを選んでいる。各科目、高校3年の夏くらいまでにそこに書かれた京大レベル参考書を数冊、2周~3周解いている状態を考えろ。それを目指して、どの参考書をいつまでに解いていればいいかを逆算してみてくれ。ギチギチに詰め込む必要はない、むしろゆったり考えろ。あくまで、手持ちの範囲・出来る範囲スケジュールを組め。

勉強量だが、俺の場合高校2年の段階から大体1日2-3時間毎日やっていた。朝起きて1時間部活が終わって帰宅し、風呂に入って寝る前に1-2時間試験前はもう少し勉強量を増やした記憶がある。これを基本毎日やること。どこまでやるかじゃなく何分やるかを意識しろ。だが飽きたときはやらなくていい。俺は何度か小説にはまって(ラノベだと戯言とか禁書とかイリヤ文学方面だと村上春樹夏目漱石)、後で書いてる散歩だけしかやらない時期が何度もあった。毎日2時間くらいネットサーフィンしていた気もする。ただ高校3年の秋以降は4-5時間に跳ね上がったかもしれない。流石に焦った。

忘れずにやってほしいのが、毎日の各科目ごとの勉強量をメモしておくこと。今すぐ新しいノートを開き、1行目に京大受験必要な科目を全て列挙しろ現代文古文数学1、数学A、数学2、数学C、日本史世界史生物英語英単語etc...そして2行目から毎日どの科目を自主的に何分勉強たか書いていけ。これをやっておくだけでもモチベーション維持が随分違う。「あの科目しばらくやってないな」というのも一目でわかるから万遍なく勉強ができる。

個人的おすすめなのが、朝か夜に必ず1時間散歩して単語帳or一問一答を声に出して解くことだ。運動しながら勉強をすることで脳が活性化して記憶に定着するとかい理屈があるらしいが真偽は不明。ただ、散歩することで運動にもなるし、つまらない暗記ものをやるときに家で寝てしまわないという利点がある。勉強気分転換にもなる。ただ夜にやるとき安全と、女性場合治安等に気をつけてくれ、責任は持てない。俺は一度だけ国道沿いの深さ1.5mの側溝に落ちた。

勉強の基本は繰り返しだ。 ただし、漫然と繰り返すな。問題文の頭に○や×、△などで解けたかどうかをチェックしておけ。2周目以降、一度でも正解した問題は飛ばせ。でも解いてからしばらく時間(1ヶ月~半年)が経ったら念のためもう一度解け。たとえば1周目に間違えて2周目に正解したら「×○」、1周目に正解して2周目・3周目は解かなかったが4周目にケアレスミスで間違えたら「○ - - △」みたいな感じに書いていけ。

とにかく「その問題で何回間違えたのか」が視覚にわかるようにしろ。そうやってチェックをつけていると、「参考書を開いたら、どの問題ミスやすく、どの問題が得意なのか」、要は復習時の要チェックポイントが一発でわかる。こうしておくと、最終的には数学1A全ての復習が1時間で終わるようになる。

個別具体的な勉強法について

数学

おそらく学校チャート式を買わされてるだろう。買ってないなら買え。一年間でとにかくそれで勉強を繰り返せ。

勉強方法の基本は写経だ。例文に書いてるやり方でひたすら問題を解く。まずは例題の回答方法を一字一句写経しろ。そして同じ解法で一字一句同じ書き方で解け。数学が苦手なやつによくありがちだが、解答で途中の解法をすっ飛ばすのはNGだ。理由は以下の3つだ。①理屈を何度も書いて覚える必要があること②採点者にとって「すっ飛ばしている部分を回答者理解しているかどうか」がわからないので×にせざるを得ないこと③京大数学記述問題は「計算を間違えていても、理屈があっていれば部分点をくれる」ということがままあること。

京大数学を解いたことがあるなら2完とか3完とかいった言葉を聞いたことがあるだろう。あれは全5問のうち3問は全部解答できたという意味であり、つまりは多くの受験者が5問のうち2-3問しか完答できていない(完答できなくても点数は獲得している)ということだ。数学論理でできている。故に京大数学重要視しているのは解法の論理理解しているかどうかという点だ。

から、とりあえずわからない問題は悩む前に解答例を見てやはり写経しろ。お前の頭で考えるな、答え(=解法の論理)は先達が既に考えてくれる。言っちゃ悪いが高校数学レベル問題なんてチャートに書いてることがすべてだ、俺は黄色チャートで乗り切った。

もしどうしてもわからない単元がある場合は、このサイトのpdfに載ってる当該単元に関わる章を全部読め。当該サイトは、「1+1がどうして2になるのか」という説明からはじまった高校数学に関する説明を全部やりきる『高校数学+α』というすごい本の全文をpdfとして配布している。最初から通読しようとするのはきついので無理しなくていいが、わからないことがあればこの本を読めば絶対にわかる。

英語

英語は現段階であれば文法書を何周もしておくこと。細かいことは言わん。何周もしろ。あと、英単語帳は今から3ヶ月で一旦全部暗記しろ高校3年にもなって英単語帳を一からやるのは馬鹿らしすぎるしリソース無駄遣いだ。1日1時間やれば3ヶ月でどうにかなる。

英単語をはじめて覚えるとき絶対忘れちゃいけないのは「1日でも時間を空けるな」ってことだ。毎日やれ。英単語帳はどれでもいい、どうせ全部覚えるんだから変わらん。覚え方だが、とにかく音読しろ。「accept」という単語があるなら「アクセプト受け取るアクセプト受け取るアクセプト受け取るアクセプト受け取るアクセプト受け取る……」と5回〜10音読して次の単語に行け。黙読は絶対にやるな、音読して単語意味を音としてインプットアウトプットすることに意味がある。ページ単位で考えずに時間で考えろ、10分で一度音読できる範囲まで音読しろ。次の10分で同じ範囲をもう一度最初からやりなおせ。次の20分では新しい範囲で同じことをやれ。最後20分で全部おさらしろ。1セット1時間を目処にするといいだろう。これで1日100単語インプットできるはずだ。勿論翌日には半分以上忘れるしすぐに思い出せない。それが当たり前なので気にするな。大事なのは復習だ。翌日は一度読んだところを20分かけて再度音読しろ絶対だ。1日後というのが重要で、詳細は忘却曲線でググれ。残りの40分は新しい範囲時間を費やせ。これを毎日やれば3ヶ月で1冊丸暗記できる。忘れたら忘れたで構わん、再度読み直せ。1週間スパンくらいで全体を再度復習するといいとは思うが、その日に覚えたことを翌日復習するというのを徹底するなら復習頻度は気分でよしなにやれ。

京大英語の恐ろしいところは、主要な問題英文和訳日本語英訳だけというところだ。文法の基礎(センターで満点を狙える程度)をがっつり固めるのは当たり前として、それ以外に和訳英訳練習必要だ。和訳絶対におさえておくべきなのが伊藤和夫英文解釈教室』。今からでいいので買って少しずつ、それこそ3日に1問・1問解くのに1時間かけてもいいから触れておくのがいい。解けなくても、やるときは1時間やれ。解説は精読しろ

それ以外では、学校での課題夏休みでの宿題で長文演習問題が出てきたら、全文を和訳するといい。「受験関係ない宿題をこなす」が「京大英語の演習をおこなう」に変化する。

英訳は逐語訳ではなく意訳の力が求められるのでかなり難しい。そこでサンプルとしておすすめしたいのが『英文対照 天声人語』。天声人語自体の良し悪しは知らん。俺も普段読んでるわけじゃない。ただ、日本語の意を汲み取って逐語訳ではない英訳を集めてるサンプルケース集としては有用だ。

しかしながら、英訳和訳も独学には限界がある。なのでここは他人を利用しろ赤本過去問でもなんでもいいから、演習を解いたもの大人にチェックしてもらえ。一番いいのは京大英語講座に行くことだが地域的な問題で行けない場合もあろう。英語教師にチェック依頼するとかがベターだ。

その他

現代文は知らん、息抜き小説たくさん読むとかするといい気がする……とぶん投げるのもよくないのだが、いかんせんこの分野は扱いが難しい。なので俺が楽しかった参考書だけ紹介する。

石原千秋の『大学受験のための小説講義』『教養としての大学受験国語』はすごい。大学に入ってから知ったが、石原千秋文学理論日本文学に当てはめることほぼほぼ初めて行った研究者で(大学時代の知り合いに教えてもらった知識なので間違ってたらすまん)、現代における漱石研究第一人者。この人のテクスト読解はすごく楽しい趣味になるが『謎とき 村上春樹』も最高。

評論系だと『MD現代文小論文』が主要なトピックスを抑えててよい。大澤真幸が「自由牢獄」について言及していたので俺はミヒャエル・エンデを知った。ただ(内容ではなく出版年月が)少し古いので一度書店立ち読みしてみるのがいいかも。

古文漢文は、基本文法・基本単語マスターするのが前提として、あとは慣れの部分が大きい。漢文には正直そんなに力入れなかったので割愛するが、古文小学館の古典文学全集シリーズのうち、平安時代あたりのものを1冊でいいので(たとえば源氏物語の1巻だけとか、当該シリーズ26巻の『和泉式部日記紫式部日記更級日記讃岐典侍日記』とか)読み切る。当該全集は各ページ三段組み=原文・訳文・注釈が同時にチェックできるので、原文を読む上で圧倒的に優れている。文法を暗記しようとか、知識をあまさず覚えようとかしなくていい。でも注釈は全部読め。どの原文がどの訳文と対応しているのかを常に確認しろ。そうすることで時代的な知識を知る事ができるし、何より「古典作品を読んだ」という自信がつく。

日本史世界史だけは例外的で、高校の授業を一字一句もらさず板書すること。どの事件にどんな背景があって、それがどういった結果につながっていったのか、そういった歴史の流れを理解するのは、教科書参考書で独学するよりも先生の話を聞いた方が圧倒的に楽。豆知識記憶の定着に役立つ(先生によるかもしれないが)。複雑な範囲日本史近代とか)は自作フローチャートを作れ。骨子の流れを覚えたら参考書で補強。本気で独学すると山川出版『詳説 世界史研究』で死ぬ。575ページあった。

それでもなお世界史を独学すると言うなら、世界史参考書として『タテから見る世界史』『ヨコから見る世界史』を押さえておくとベター物事俯瞰して押さえるのが大事。あと論述対策しておくこと。

生物は正直センターレベルだと独学することがない気がするので、やっぱりセンターで80-90を狙って勉強するのがいい。

政治経済は、申し訳ないが大学時代知識アップデートされすぎたのでどう勉強したのか覚えていない。すまん。

地理物理地学勉強してないのでわからん

最後

後半飽きてしまった部分があるので雑な投げ方していたところもあって申し訳ないが、最後に1つだけ。

俺が挫折を味わったのは京大に入ってからだった。六法講義が何一つわからないのに周りの人間はすらすらと解いていく。60点で可をとるのが関の山だったのに、その横では「80点に届かないか問題解かなかった(ロースクール受験には学部成績が影響するのでそういうことが往々にしてある)」という会話がなされている。俺は2回生とき法曹を目指すのを諦めた。

でも、それと同時にもっと楽しい事・面白いことを沢山知る事ができた。政治学から価値判断と切り離した広い視点を持つことを学んだし、小野教授政治思想から人類史通底する観念とその変遷の奥深さを知った。プログラミングにはできないことも多いがそれ以上にできることが多いという、応用力の幅広さに助けられた。京都では、自転車を走らせればすぐ史跡寺社仏閣に行ける生活が待ってるし『四畳半神話大系』が最高に楽しめるようになる。そんな環境で、自分と同じ興味を持った人間と同じ話ができるというのが何よりすばらしかった。大学時代に比べたら、高校時代記憶なんてほとんどないし、社会人になってから大学以上に楽しい環境いたこともない(今の環境がだめという話ではないが)。

京大に限ったことではないと思うが、大学は、色んな学問研究する色んな人間がひしめきあった結果、知的興奮の機会に満ち溢れている場になっている。もし京大に行けなかったとしても、早稲田慶応等のある程度一流と言われている大学であれば、絶対にそんな魅力を味わうことができるはずだ。

そしてなにより、今度どうやっていくかに関わらず、勉強を楽しんでほしい。英語の長文演習問題はするする読めるようになるとめっちゃくちゃ面白いし、小説海外ニュースも読めるようになる。源氏物語は第1帖「桐壺」を全部読むだけでもうるっとくる。高校数学一種論理パズルと考えたとき京大数学演習問題が異常に楽しいというのはやったことがあるならわかってもらえるはずだ。

健闘を祈る。世界は広い。

2016-02-25

初詣明治以降につくられた伝統だという説は怪しい

「看羊録」という書物がある。

豊臣秀吉朝鮮侵略の際に日本拉致されて数年をすごした朝鮮人儒学者日本観察記である

家族までも犠牲となった侵略被害者なので当然ながら日本に対する憎しみは深く、感情的偏見の強い記述も随所に見られるが、一方で科挙に受かったエリートだけはあり、抑留中に見聞きした出来事はもちろん、日本の書物をよく読み、北海道も含む日本列島の詳細や地名や各地の慣習、大名名前性格まで記録しており、著者の姜沆の博覧強記ぶりがうかがわせる。

その中に以下のような記述がみられる

その風俗はひどく鬼神を信じ、神に仕えることは父母に仕えるようであります生前、人の尊信を受けていた者は、死ねば必ず人々に祀られます。父母の命日には、あるいは斎戒・素食しないことがあっても、神人の忌日には一切魚肉を禁じます将倭や将倭の妻妾から庶民の男女に至るまで、祝日や神人の忌〔日〕にあうたびに、おごそかに盛装し、〔寺・社などの〕門前に行って銭を〔賽銭として〕なげる者が街路をうずめつくします。神社は宏〔大、奢〕侈〔をきわめ、〕、金碧に照り輝いています

(〔〕の中は文意を分かりやすくするための訳者の注の模様。なお、翻訳基本的東洋文庫「看羊録」朴 鐘鳴 訳による)


一読して分かる通り、ここに書かれている神社参拝の光景今日における初詣のそれと何も変わらない。ただ一つ違うのは、それが行われるのが広く「祝日や神人の忌避」としており、元旦限定していないことだ。(この「祝日」はもちろん、単なる休日という意味ではないだろう。)

この記述部分は姜沆が抑留されていた京都にて自分で見たものなか、それとも人づてに聞いたものかは判然としない(彼は抑留中は藤原惺窩の世話になっており、慕われて戦国大名の人物評なども聞かされていた模様)。もちろん、当時の日本現代よりはるか地域差も大きかったろう。

だがしかし今日の「初詣」と同じような風習戦国時代日本存在したことは間違いないようだ。「看羊禄」にはほかにも、当時の日本人が大変に信仰深かったことが描かれている。


むろん、元旦に行われないならば初詣とは違うという意見もあるかもしれない。

しかし、こうはいえないだろうか

日本人はもともと信仰深かった。そして祝日があるたびに大勢寺社に参って賽銭を投げ入れるという風習があった。それが明治時代になり、だんだん従来の信仰形骸化し、また近代化によってカレンダーに強く拘束される生活になった結果、最大の祝日である元旦にだけ、従来のお参りの風習が集中する結果となった。」

こう考えてみると、「初詣明治以降につくられた伝統」だという説はいささか偏った見解だともいえる。むしろ数少ない、近代適応して変化しながらギリギリ残った古来の伝統の一欠片だともいえるのだ。そう考えると、初詣は貴重な伝統文化として大切に保存しなくてはいけない、ともいえるのではないか。



以上です。



もちろん、この資料だけを根拠にあれこれ言うには限界があります。ほかにも関連資料を見つけた際にはまだ別記事にてご紹介したいと思います

「『元旦』にお参りする」という風習については「恵方詣」などを調べていただければと思いますネット上ではこの恵方詣をもって初詣元祖とする見解が多いですが、その前提として「祝日大勢寺社にお参りして賽銭を投げ入れる」という民族的風習があったといえるでしょう。

そのほか、参考サイト

平安時代までは確実に遡る「初詣」の歴史



追記2/29


予想していたよりもはるかに多くのコメントいただき、うれしいと同時に正直戸惑っております(笑)

頂いた反応のうち、特に多くの方から寄せられたものにつき、回答させていただきたいと思います

新たに記事を立てるべきかとも思いましたが、煩雑になる可能性もあるため、追記という形式をとらせていただきます

匿名ダイアリーの慣習などには明るくないため、もしおかし行為でしたら申し訳ございません。



まず第一に、非常に多く寄せられたコメントに「祭りや祝い事が古来からあったなんて当然じゃないか」というものがあります

これは私にとって予想外の誤解だったのですが、私は単に古来から祭りや祝い事があった、と言っているのではありません。

特定の日に、街道を埋め尽くさんばかりの人間が同時に寺社にお参りして賽銭を投げる」という形式の慣習存在していたと主張しているのです。

初詣の原型があった」という主張なのですから、単なる祝い事があったというだけではもちろん、何の根拠にはなりません。

形式において今日初詣と非常に似通ったもの中世の時点ですでに存在したという点が重要なのです。



次に、「初詣明治以降につくられたという説は、鉄道で無縁の大手寺社に参るという点明治以降に生まれものだという説である」として、いったい誰が何もないところからつくられたと主張しているのか、お前は誰と戦っているのか、という指摘がございました。

そして、専門家の詳細な説や意見を紹介してくださった方もいらっしゃいました。

私は、そのように原型のあった部分と変化のあった部分を明確にした上での見解ならば文句はないのです。

(中には、私がそのような専門的な説に対する批判を行っていると勘違いされた方もいらっしゃいましたが、決してそんな不遜な意図があったわけではありません。)


これは私の書き方に問題があり、本文において大上段に振りかぶって文化論をぶつような書き方をしてしまったため、誤解を生んでしまったものだと思います


私が想定しているのは、もっと低いレベルでの話です。

例えばTwitterで「初詣 明治以降」「初詣 捏造」などで検索していただければ、初詣には微塵の原型もなく、明治以降に突然、(ときには陰謀論的に)創設されたものだと思い込んでいる方のツイートがヒットします。

おそらく、どこかで「初詣明治中期につくられた」という話を知り、それを文字通りに受け取って、そのような認識になってしまったものだと思われます

話は変わりますが、私は、「明治以前に神道という『単語』はなかった」というとんでもない主張をする人と出会ってことがあります

おそらくは明治時代国家神道の創設について、中途半端認識が伝わっていくにつれてそのようなことになってしまったものだと思われます

元は専門的に議論され、ちゃんと留保を置いた上で説かれた説が、一般流通していくにつれ、単純化され、しまいにはデマに等しい説にまでなってしまうのです。

「誰と戦っているの?」というコメントを頂きましたが、私はそのような「デマ」が広まることを危惧しています



ここから先は少々、抽象的な問題になります



他に多くの方々の反感を呼んだのが、

「むしろ数少ない、近代適応して変化しながらギリギリ残った古来の伝統の一欠片だともいえるのだ。」との点です。

様々な反応がありましたが、まとめると、上でもふれられた「遠方の寺社にでかけるのは明治以降である」という認識(それはおそらく事実でしょう)に基づき、やはり捏造された伝統であることは否定できない、という主張です。

これについては、最終的には解釈思想問題になりますので、限られた文字数議論できるとは思いませんし、万人の納得のできる結論も出ないでしょう。


ただし私は、どのコメントを読んでも、あるいは紹介していただいたリンクなどを読んでも、いまいち納得できませんでした。(むしろ違和感が増しました)

というのも、近代化工業化が進めば(直接的な要因が自然ものであれ人為的ものであれ)変化があるのは必至だからで、それは当然じゃないのか、と思ってしまうからです。

「変化した」「変貌した」と言っていただければ何の違和感もないのですが、なぜ「近代になってつくられた」とまで言い切ってしまうのか、その理由が分かりません

近代につくられた」というのは所謂カルスタの方々の昔からの決まり文句ですが、(石原千秋氏は「つくられた系」と批判的に呼んでいました)「近代になって変化した」では当たり前すぎてインパクトが薄いのであえて強調しているのではないかと勘ぐってしまます


また、現在でも地方共同体の生きている田舎では、古来とさほど変わらない信仰地域性の元で「初詣」を行っている地方存在すると思いますが、それは捏造ではない、ということでよろしいのでしょうか?そうするとやはりそのような方面無視して「つくられた」と説くことには違和感があります

2015-12-25

http://anond.hatelabo.jp/20151225014456

あなたお勧めの本

『生き延びるための作文教室(14歳世渡り術)』 石原千秋:著 2015年

読書感想文などという何の役にも立たない糞のような課題を課せられる中学生のために、

 "学校が生徒に何を求めているか"を解説し、それを意識した上で、せめてその枠の中で個性的に"見える"作文を書く手法を教えよう、というロックな本。

 たとえば、先生に「もっと客観的自分を見なさい」などと説諭されたことはないだろうか。端的に言って、これは罠である。この時先生が期待している、あるいは強いている答えは簡単だ。「私はまちがっていました」だけだ。



『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田 ズーニー:著 2001年

・「その文章、何のために書くか?」

 文章を書くときには「その文章が何を目的とするか」ということを見失ってはいけない。と解説する本。

 上の中学生向けに書かれた本よりも実践的。

 会話と同様に、文章にも読み手書き手のすれ違いがある。就職活動自己推薦状の例で考えてみよう。

 学生Dは、会社訪問を申し込み、「形式自由から自己推薦状を書いて持ってきてください」と言われた。

 Dは考えた。「学生生活を振り返って、自分が唯一やってきたのは音楽だ。自分には、音楽しかとりえがない」。そこで、「音楽への情熱では誰にも負けません」という趣旨自己アピールを書いた。

 このままの文章では、採用担当者は首をひねるだろう。その会社は、音楽にまったく興味がない。音楽への情熱が、入社後、何の役に立つのだろうと。

 学生Dと採用担当者問題意識をチェックしてみよう。

採用担当 志望者は、仕事へのどんな適正があるか?

学生D  私は、いかに音楽を愛しているか

 まったくかみ合っていない。採用担当は、仕事への適正を見たいのだ。その問題関心から外れたところで、どんなに自分アピールしても意味がない。どうすればいいのだろうか。



日本語の作文技術本多 勝一 著 1976年

文章を書く上で必要技術を徹底的に解説する本。

 文章書くなら読んでおいて損はない鉄板本だが、内容濃すぎて読み込むのに時間がかかる。

 文章綴り方がいくら上手くなったとしても、それに見合うほどに就職試験評価が上がるわけではないので、

 既に、ある程度の文章が書ける状態ならば優先順位は低い。

 これまでの日本語教育の根幹を流れる方針は、理解力記憶力ばかり重視し、独創性想像力創造力を最も必要とする作文を軽視または無視するというやりかたです。

  ~

 だから今の小学校では、「綴り方」の時間さえも少なくて、そのかわり「読書感想文」などというものがあるんですね。

 あれは作文というよりも理解力テストみたいなもので、あれで作文をやったつもりでいたら噴飯ものというべきでしょう。おかげで読書も嫌いになる。



文章関係の本を読んでいると、「読書感想文は何の役にも立たない。あんもの子供に書かせるな!」と筆者が憤る内容の記述がよくあるので、学生時代読書感想文が書けなかったからといって気にする必要はないと思いますよ。

2013-02-10

http://anond.hatelabo.jp/20130209154225

どういうものを求めているかからないので見当違いだったらごめん。

石原千秋著「ケータイ小説文学か」がおすすめ

俺がフィクションにおけるリアリティのことを考えるきっかけになった本。

まあそれでなくてもけっこう面白いのでおすすめ

2008-06-24

だから「文学」という概念の捉え方が違うのだぜ

なんか色々同情するな。

星新一宮沢賢治教科書に載っているからOKだったかなw

SFにハマった季節が来たときはそんな空想本ばっかり読んでいないで現実の本を読めと怒られた。

文学は空想だろw

増田の言う通りだよ。文学は空想だ。だからSFも当然文学だ。別に、たとえば”SF界の抒情詩人ブラッドベリや、”哲学者フィリップ・K・ディックだけが文学だと言うんじゃなくて、ハインラインだってアシモフだってJPホーガンだって、あるいはオレが中学時代少しエロい興味で読みふけってたバロウズだって(笑)文学だ。ちなみにオレも小学校のときは推理小説が好きだったし、純文学的なものは高校に入るまでほとんど読んだことが無かったな。高校時代には教師のすすめるままに読み狂った。まあ半分も分からなかったが。

…まあ、気の毒に思うのでもう少しサービスする。

今でも人を疑うのは好きではないが、そんなものは実戦経験で嫌でも身につく

「簡単に信用しない」といったのは「批判的(critial)にとらえて理解する」ということだ。「信用しない(distrust)」だけなら子供でもできるだろ。

と言うかその「高校国語」とやらははむしろ歴史部活の役割であって文学とは関係がないのではないか?

歴史」を学ぶことに文学を学ぶことと同じような効果がありうることは理解するが、それは歴史学本来の目的とは違って、単に歴史を「文学を読むように」読んだ結果ではないのか? また、部活動のような合目的的なある程度等質な人間集団で、真に「異質な他者・異文化との出会い」や「自分を遥かに超える思想体系との出会い」が得られるかどうかは難しいな。音楽系の部活動でなら、たとえば過去の偉大な音楽との出会いなどでいくらかそれに近い体験は可能かもしれないが、誰もが使っている「ことば」を媒介にすれば全体に対して正課の授業時間内でそれができるわけだろう。部活(のそういう効果)に意味があるのなら、より低コストにかつ誰にでも体験可能な形で、国語の授業時間内でそれを行うことにはもっと大きな意義があるんじゃないのか。

それに人を楽しませる文章は文学なのか?

時代小説ラノベ歴史書SFファンタジー推理小説は好きだが文学

少なくとも純文学とは言わないだろう

「純」文学というのは、文学の中のものすごく狭い(それも日本限定の特殊な)ジャンルに過ぎないので、その変な教師に教え込まれた変な定義正直忘れた方がいい。実は、増田の受けた教育の中でもっとも有害なのがその頑なな思いこみだと思う。俗に、教え込まれた「内容」よりも自然と学び取る「根本姿勢」こそ教育本質的価値だというが、増田の場合、まさにその「根本姿勢」の部分でバッチリその変な教師の影響を受けている(だから気の毒に感じるのだが)。

再度言うが、上で書いたとおりSFは当然文学だしラノベだって文学に決まってる(疑うなら、どこの大学文学部文学科の適当研究室電話して、気の済むまで聞いてみても良い、以下の内容も含めて)。大体「純文学」などというジャンル分け自体が、過去歴史上のある特殊な「考え方」に過ぎないというのが、現在の一般の評価。純文学新人賞という主旨のはずの芥川賞にしてからが、最近は(大衆文学新人賞という主旨の)直木賞と見分けがつかん、というより正直受賞作は逆じゃねえのか、と言われるようになって久しい今日この頃。だから、生徒に「純文学こそ文学!」とかそういう価値観押しつけてブンガクばかり論じたがる古い文学青年崩れの困った教師に教わった不幸には同情するが、とりあえずそれは忘れて、現代の「文学」観に目を向けるべき。たとえば、今や現代思想をまともに語れないようでは高等学校現代文教師というのはやってられないのだぜ。

その証拠に、昨今の大学入試の「現代文」というのがどういうものを取り扱っているか。小説(それも純文)なんてほとんど出ない。出るのは大抵現代思想関係で、ざっとキーワードを例示してみると「記号・身体・空間・言語論・メディア情報・文化論・芸術論・経済教育日本論・近代主義・心理学倫理学宗教歴史学国民国家テロ文明の衝突ポスコロ」……etcだ。大抵の国語教科書は、これらのテーマに可能な限り触れるようにしてるし、これ以外のマイナーテーマ(たとえば少数民族問題・沖縄差別風景論・都市論・スポーツ時間論・労働高齢化社会etc)を取り扱ってそれをウリにしようとしてる(さらに言えば、気の利いた会社なら、中学校教科書から生徒が自然とこれらのテーマに触れるように仕組んでいたりする)。教師はそれを意識して、生徒の理解力と相談しつつ、何をどのくらいどういうシステムで学ばせるか考えてる。このへん詳しく知りたければ「教養としての大学受験国語」(石原千秋)でも読んでくれ。さらに、小説の読解についても、「この小説テーマはなんでしょう?」なんて寝言を言って漫然と黒板の前でむにゃむにゃと自説を垂れ流してるようでは商売あがったりで、一行一言に込められた含蓄をあの手この手でどのくらい掘り起こせるか、読む作業の中にセンスオブワンダーを感じさせることができるか、たとえばわずか一つの比喩にどのくらいの意味と力が籠もっているかを解き明かせるか……それだけの文学理論の裏付けと力量が必要になる。これ全部「高校国語現代文)」の仕事なのだな。

それに、「学校国語」で扱える領域なんて、実際に大人が出会う「国語文学」の領域全体の広さに比べれば、庭の池みたいなもんだ。雑誌編集後記だってエロ小説だって新聞記事だって漫画だって、「ことば」の介在するコミュニケーションの領域は全てが「文学フィールドだ。その意味での「文学教育というのは、メディアリテラシー教育であり、社会学であり哲学教育であり、知的好奇心の喚起であり、ひいては大学以降のあらゆる高等教育の基礎を為す重要資質(少なくとも読み書きという点だけを取っても)の育成なわけで、これから「知の大海」に漕ぎ出す生徒にとって国語が必修科目であるのは当然すぎるほど当然なことなのだ。

まあそんなわけで、困った「国語教師」との出会いには重々同情するが、「国語」という教科の意義を疑うなら、これらが全部無意味だということを示してくれるか、あるいはそれを全て外の教科で代替する(たとえば論理的思考力の育成なら英語科の授業内で全て行う、とか、ギリシャ哲学に始まり構造主義と記号論に至るまで全て倫理で教えるとか、メディアリテラシー情報で、日本文化論は日本史の教師が、芸術論は芸術の教師が教える、とかしてくれると、かなり楽だが、多分嫌がられるだろう。なぜなら、これらを教えるための大前提としてあらためて『膨大な本を読まなくてはならない』から。だから結局、これらは国語の教師がやれということになってるのではないかと推測する。そんなわけでこれらの提案は余り現実的ではない。やれやれ。)現実的な対案を示して頂く必要があろうと思う。

どうだろう。増田の言ってるような狭い意味での「ブンガク」授業に価値がないということを否定しているのではない。むしろそこに関しては積極的に同意だ。こちらが言ってるのは、あくまで「国語」というのがもっと広い領域を扱っているということ、だからこそ「国語」を否定するのは間違いで、実際にそれは必要とされているのだ、ということなんだよ。

http://anond.hatelabo.jp/20080624192723

2007-12-21

http://anond.hatelabo.jp/20071221204220

そして、正体を暴露されては困るとしつつも、著作において著者近影・学歴などの経歴・石原千秋氏への謝辞など素性に関する情報を自ら公開しているではないか。さらにweb上のインタビュー記事で、はっきりした顔写真までもが衆目に晒されている。

名前を晒すことと顔を晒すことは全然ちがう。詳しくはhttp://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20071220/p1コメント欄

 
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