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はてなキーワード: 藤田直哉とは

2023-12-31

はてな見てるとリベラル左翼ほど差別に旺盛な傾向が観察できるんだが

左翼って教条にない差別レッテル貼りならしていいと思ってるでしょ

具体例

九州関西差別(九州男尊女卑田舎土人関西維新に乗っ取られてる異常部落のような言質が見られる。どっかの9条墨守リベラル自称小説家医師大阪戦術核を落とせとツイートしていたのも印象的)

弱男差別

低学歴差別

未婚差別

童貞差別(フェミニズムに反する者は大体童貞となる)

チー牛差別

男性差別

無職、こどおじ差別(大体ネトウヨ非難する際に付けられる属性無職こどおじ)

オタク差別

年齢差別(老人はボケているので選挙権剥奪しろなど)

さら追記すると

わかり手小山氏と藤田直哉氏の弱者男性を巡る議論黒人については、それがいけないことだというコンセンサスがあるが“弱者男性”はそうではない」

https://togetter.com/li/2207750

自分より弱いものをたたく「弱者男性」 その苦しみを社会が救うには

https://www.asahi.com/sp/articles/ASQCL5G7DQCKUTIL03D.html

まさにこれなんか顕著で弱者男性がいつのまにか弱いものいじめをするクズ代名詞である印象操作されている

この藤田直哉が言いたいのは社会的に認知された反差別教条にない人物集団思想なら差別しても良いと言っているんだよね

ドグマである国連組織される以前は差別合法だったのでハーグ陸戦条約もないし民族虐殺合法だと主張しているようなもんだ

何故なら論拠たるドグマ存在しないか

さらに掘り下げるなら天賦人権論がない以前は奴隷合法だったので歴史的否定するべきではないとなどと言う歴史家がいたら大炎上であろう

弱者男性朝鮮人なり黒人なりに置き換えてみれば異常性が露わになる

朝鮮人は弱い者いじめが好きで男尊女卑的で女を強姦がするのが好む差別的な人種

黒人は知能が低く文化程度が劣悪で凶暴で野蛮的な人種

さてこの差別的言質を弱者男性なりオタクなりチー牛なり九州なり関西なり低学歴なりオタクなり無職なりに置き換えてリベラルがどう反応するか、これが全ての答えである

2023-08-11

藤田直哉氏、Something Orangeを訴えたら勝てるんじゃない?

2023-05-22

anond:20230522031220

藤田直哉?公金チューチュースキームの嘘つきですね。

グルーミングされているだけじゃないですか

マリオ映画感想

はじめに

 マリオ映画を観た。

 まず私のプロフィールを明かしておく。

 大学院生社会学文学あいの子みたいな分野で、とくにジェンダーとかセクシュアリティとかそういう事を学んでいる。

 映画学部時代に少しかじった程度で、評価はB+だった。だから的外れなことも言うかもしれない。すみません

 匿名なのでもっと書くと、同性愛者で、SM実践者で、フィクトセクシュアルに片足つっこんでいるので、わりとどの界隈でも少しなじめない気持ちになりがち。

 

 「映画としてはちょっと……」というような意見が主にアカデミック評論の場で散見される。

 これは分からないでもない。ちなみにここでは個人攻撃みたいにするつもりはないので、引用特に必要でない限りはしない。

 「すげえ! マリオってこういう解釈ができるんだ!」みたいな「新しいもの」はなかった。しかし、「マリオ映画といえばこういうのが見たいよね」という「見たいもの」が詰め込まれており、「新しいもの」を入れる余地は90分にはないように思われる。

 メディアミックス映画としては一つの模範解答であり、文句なしの一級品といってもいいかもしれない。面白い映画といい映画は別だが、以下では「いい映画」(いい映画って何すか?)としての切り口を見てみたい。

試行する」快楽

 ゲームアニメとしたら、キャラクター解像度物語の運び方だけでなく、どのようにゲーム快感が写し取られているか重要ポイントに思う。

 マリオゲーム体験を思い返すと、快感は大きく二つに分けられる。

 「スーパーマリオブラザーズ」ならステージクリアタスク消化に似た快感

 「スーパーマリオ64」に連なる「箱庭マリオ」なら新しいマップを開いていく探索の快感

 マリオシリーズだけでなくゲーム快感はむしろこの二者に共通する「試行する」快楽が大きいのではないか

 私はといえば、ゲームが苦手だった。

 クリボーに激突する。穴に落ちる。ドッスンに潰される。空から落ちる。燃やされる。溺れる。

 我ながらヘタクソなプレイであるしかし、プレイを重ねると、一つ一つそれらを回避なり消化できる。そこにゲーム快感がある。

 翻って「映画マリオ」に戻る。キノコ王国に迷い込んだマリオは、ピーチ姫の旅についていくためにゲームばりのアスレチックに挑むわけだが、このプレイングも経験者ならば笑ってしまうほど失敗に満ちている。そしてその分だけマリオは「試行」を試すことになる。

 アスレチックだけでなく、ドンキーコング戦、クッパ戦と繰り返し作中で強調される「諦めの悪さ」が導くゲーム快楽とはこのような「試行」の快楽が適切だろう。

 文学研究者藤田直哉上記のようなことも含めて、「物足りなさ」を指摘している。

 https://twitter.com/naoya_fujita/status/1655397557198278662

 ここは鑑賞者のバックボーンも関わってくるのかもしれない。

 周回前提のゲーム「ドキド文芸部」「UnderTale」「シュタインズ・ゲート」の記憶が私にはすごく強くあるし、マリオシリーズから距離を取っていたので(ここまで多くの作品に触れたわけでもない)、試行錯誤性は面白く観た。

 また、勉強不足と笑われそうだが、3D映像2Dフィールド表現する映像も、私としては十分に真新しいものだった。

父と息子の物語としてのマリオ映画

 「反ポリコレ」とか、「ジェンダーから距離を取っている」いう話も聞く。

 しかし私はそうは思わない。LGBTと「マリオ作品群の関わりは以下のコラムに詳しいため、これ以上は言及しないが、さら男性性との関わりについて分析する。

 https://cinemandrake.com/pokemon-musashi-kojiro-lgbtq

 こちらも藤田直哉の評を引用する。私のマリオ映画への評価は彼とは異なるが、この評と私の見解は一致している。

 https://twitter.com/naoya_fujita/status/1656110486713434113

 クッパ名誉と所有、暴力原理においたキャラクターであり、婚姻幸せを直結させる家父長制を背負った男である

 ピーチ姫に対し無茶な論理婚姻を迫ったり、彼女の知人も含めた囚人婚姻犠牲として殺そうとしたり、人の論理の届かない人外らしさが映画における彼の輝かしい魅力でもあることは間違いないが、それは悪しき男性性の発露でもある。

 この「有害男性性」を退けることを軸にマリオ映画を見てみると、マリオは退けた先に何を得たのか。

 それは物語ラストが示すように、ピーチ姫ではない(ピーチ姫マリオとの恋愛成就がほのめかされてはいる。しかし、ほのめかされていることと明らかであることは違う)。

 

 マリオゲームにおいてプレイヤーの分身であり、あまり感情を発露しない。

 葛藤もあまり読み取れず、さらわれたピーチ姫を取り返すため、躊躇いなく絵画に入ったり火山に行ったり宇宙に行ったりしているように見える。

 しかマリオ映画においては、夢を追う自信のなさげな男として描かれる。

 イタリア系アメリカ人の家庭で育ち、家族仲はおそらく悪くないが、「父親に認められたことがない」ということが恐らく影を落としていて、自分のやりたいことと、父親に認められたいという二つの想いが両立できていない。

 そしてマリオ映画の終わりに藤田のいうところの「有害男性性」の発露であるクッパを倒し、父親から承認を得ることとなる。

 婚姻に大きな意味をおく家父長制の権化を倒した先に、父という家父長に認められるというメビウスの輪的な権力ねじれについて、私はまだうまく説明ができない。こういう嫌な書き方をすることで、妙な引っ掛かりを表明するしかできない。

感想、あるいは魔王へのラブレター

 倒されたクッパは小さく、管理されるものとして扱われる。

 その是非について何か言いたいわけではない。

 現実では家父長制や異性愛規範同性愛差別トランス差別人種差別が吹き荒れている。そのような不均衡な権力は改められるべきだし、悪しき男性性とは決別すべきである

 その是非についても何か言いたいわけではない。

 ここまでが建前。

 私はフィクションにおいてこういう権威的な男性が大好きだ。

 「家父長制の権化」と表現したけれど、理屈の通じない愛情を持て余す魔王クッパが大好きだ。

 本気で惹かれると言っていい。

 だが彼の愛は決してピーチ姫には届かない。正しくないから。

 そして彼は多くの部下に愛されながらも、彼の愛はどこにもたどり着かない。

 異形はある意味孤独である

 槇原敬之の「軒下のモンスターから「いっそ妖怪にでもなって 君を軒下からただ見ていたい」を引いてもいい。

 三島由紀夫の「仮面の告白から「お前は人間ではないのだ。お前は人交わりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生き物だ」を引いてもいい。

 

 ピアノを弾きながら「ピーチピーチピチピチピーチ」とか歌ってる彼のカットでは劇場で笑い声が起きた。

 「悪しき男性性」の回路ではもう誰かと心を交わしあうことはない。ピーチが振り向くことはない。彼の歌うラブソング哀愁に満ちて、あるいは滑稽かもしれない。

 私も笑った。でもぶっちゃけ泣きそうにもなった。

 今ギリギリこの男を笑って愛でながら見られるくらいには私もマジョリティにいられてるんだろうけど、こういうジェンダークィア批評規範可視化させ内破する営みであって、次に生み出される新しい規範にいられなくなったら、次は私が笑われる番なのだ

 本当は、弱者クッパの方なのかもしれない。でも私は彼にあまり感情移入しているから歪んだ読みをしているのだろう。

 でも愛してる、魔王クッパ

 お前の横暴さも、報われなさも、情けなさも、関われなさも好きだぜ。ほんとに。

2021-12-11

老害」大好きハテブさん

批評家評論家という人々やはてブブックマーカーのような「批評」したがる人、コメンテーターになりたがる人というのは、「老害」が大好きである

若手や流行否定的見解発言する年配者を見つけると、もう涎ダラダラで喜びまくる。正当性のための論理も修辞も薄くとも、こちらには若手の勢い、流行の力がある。マーケットで勝っているというパワーさえあれば、年配者の見解など一掃できる。ネット民死語だって味方に付いてくる。「老害」などSNS炎上させてしまえばいいのだ。

批評家でいうと、90年代ゼロ年代東浩紀という人は上の世代と戦うにあたって、当時流行していた小説の一部(※)、ネット美少女ゲーム(の一部のノベルゲー)、ライトノベルなどのパワーを利用していた。

<※自分はJ文学批判しつつ、J文学批判してくる上の世代相手には阿部和重等を持ちだして擁護するという二重戦略を取っていた。>

批評空間」や文芸誌は、今の流行文化的価値のわからない「老害」だ、と批判しまくっていたのだ(東は自ら「老害」というワードを使わないが)。

しかし、10年も経つと東浩紀が、自分の下で働いていた藤田直哉飯田一史などに「老害」扱いで叩かれるようになり、自分がかつて武器としていた世代論に復讐される現状に、「やれやれ」気分で「老害や反時代的で何が悪い」と開き直っていたりする。

それで、今回の書評家の「老害発言だ!!

豊崎由美氏「TikTokみたいな、そんな杜撰な紹介で本が売れたからってだからどうした」「書評書けるんですか?」~それへの反響

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1814617

書評家が本紹介TikTokerけんごをくさし、けんごが活動休止を決めた件は出版業界にとって大損害(飯田一史) - 個人 - Yahoo!ニュース

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/byline/iidaichishi/20211211-00272115

けんごの「TikTok投稿をお休みさせていただきます投稿が[午後8:49/2021年12月10日]。

飯田一史のYahooニュース投稿・公開が翌日8時37分。

twitterじゃねえんだから早ぇよ!!

もうけんごの投稿に即反応したとしか思えないよ。

「けんごが活動休止することでこの流れが途絶え、ほかの本紹介TikTokerも萎縮するなど負の影響が及んだとすると、今年プラスで発生した読書量が再び失われることになりかねない。」(飯田一史)

おいおい、豊崎はどれほどの権力者なのか。twitter投稿1つで本紹介TikTokerたちからそんなに畏怖されるような存在かよ。

書評家を「老害」、本紹介TikTokerを「若手」「流行」として世代論に持ち込み炎上を煽る。(現にtwitterヤフコメ等で豊崎はこの上なく燃えている。)

今後も、年配者が流行疑問視するたびに、「待ってました」としか言いようがないムーブ批評家ライター同調するはてブの連中がガソリンをまき、炎上を煽るのだった。

いやあ、「老害」大好き!!

2021-09-11

鴻巣友季子の時評は何が問題だったのか

 『文學界2021年9月号に掲載された桜庭一樹少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。

 この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者見解掲載された。

 この記事では総括として、両者の見解検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリー仕様URL掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。

見解検討

 両者の主張は、以下のように整理できるだろう。

桜庭文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。

鴻巣文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。

 桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈自由〟を奪」うことを挙げている。

 一方で鴻巣自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。

 では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである

 鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である文学解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないである解釈批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである

 鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。

 繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ私小説フィクションからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。

 ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。

 この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授日比嘉高モデル小説研究フロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在人物モデルに』と事実立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実事実」の問題を切り分けている。

(強調は引用者。これは桜庭が声をあげた最初ツイートだ)

(強調は引用者)

 桜庭実存にとって「現実事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭あくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家動機ではなく、作家根拠フォーカスするべきであるこの記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。

 とはいえ桜庭見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。 

文芸時評というジャンル

 今回の一件に際して、文芸時評不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭ツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣見解において「批評」という言葉を用いている。

 だが、文芸時評批評しかないのだろうか? 文芸時評英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル特性があるのではないか

新聞というメディア

 文芸時評新聞という巨大メディア掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。

 文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷鳥取で一人暮らす実在老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実現象レベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか

 以上の論点を踏まえて、時評担当者見解検討することもできるだろう。

書いてあればよいのか

 桜庭見解は冒頭、「私の自伝的な小説少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家藤田直哉が端的に指摘しているのでツイート引用しよう。

 つまりあらすじに書いてよいのは、「作中の事実であるべきではないか 今回であれば、あくまで一人の人物視点に立って、「私の自伝的な小説少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列テクストに書いてあるとはいえ中人物の「主観的解釈なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか

 あるいは、そもそも事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分幸せだと信じ込みながらオンラインサロン主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せ生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せ事実ではなく評価からだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか

参考になりそうな文献

 最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。

2020-01-21

ゲームプレイする能力がない人が結構いる」という現実

なぜ『十三機兵防衛圏』がSFクラスタの間で話題になっていないのかという話からのこれ

うどん捏ねてる場合じゃねえ

2018-03-16

藤田「なあにが、黙祷じゃ、バカタレ」直哉氏( @naoya_fujita )氏が震災文芸誌「ららほら」を企画しはじめた

■これまでのあらすじ

anond:20150311214349

https://rarahora.wordpress.com

三年前のことだから忘れてると思ったか? こっちはお前が3.11黙祷をする行為に「バカタレ」と暴言はいてた事実を忘れてないからな? おまえが震災文芸誌を作るなんぞ笑わせるわ。おまえの行動こそが震災の死者に対する冒涜だよ。伊藤計劃だけじゃまだ足りないのか。

共同主催飯田一史氏には悪いが、藤田直哉がこの件についてなんらかの釈明をしない限り定期的にネガキャンしていきます

2016-08-04

シン・ゴジラ評と称して村上龍評を書いたライターこと飯田一史氏

村上龍最良の後継者であり震災後文学の最高傑作としての『シン・ゴジラ』(飯田一史) - 個人 - Yahoo!ニュース

シン・ゴジラ矢口は福一の吉田所長がモデル(巨災対は福一の現場モデル)だと思うし原発事故のあと福一の現場自衛隊以外は(東電幹部とか総理大臣とか)ぐだぐだだったり責任取りたくなくて腰引けてたりしてたとか、現場自衛隊がふんばったので東京壊滅なんとか防げたの踏襲してると思う

https://twitter.com/cattower/status/760838347665256448

自分の見たいものしか見ていないようだ。

巨災対や自衛隊気にいらんとかゴジラ進化して破壊し尽くすべきと言う人は福一もっと大爆発して関東圏3000万人避難生活震災当時菅直人が「想定してた」とあとから言ったもの)になったほうがよかったと思っているんだろう。想像の上では。自分にそういうカタストロフ願望がないとは言わないが……

https://twitter.com/cattower/status/760844337043296257

これを言っちゃうとアウトだよな。

藤田直哉あたりと同じ炎上芸人になってしまたかライターだけに。

2015-12-12

日本SF作家クラブ問題推理する

謎は7割ぐらい解けたように思うが自信がないのであとは増田の週末探偵たちに任せた。

藤田直哉の主張

SF作家クラブ黒幕巽孝之小谷真理夫妻であり、多数の影響下にある会員を操って、自分の意に添わぬ会員を攻撃させている。かつてはSF作家クラブへの大森望入会拒否事件の際、大森を入会させようとした会長瀬名秀明がそのターゲットとなり、今は自分ターゲットにされている。

確実に事実として言えること。

巽孝之小谷真理夫妻と大森望死ぬほど仲が悪い。

・巽夫妻はSF作家クラブでは結構偉い人で、大森望SF作家クラブ入会を阻止すべく、大森望非難する文章を総会で配るなどして1/3以上の「入会反対」票を集め、大森SF作家クラブの入会を阻止した。(結果として小川一水など人気作家の大量退会を招いた)

・これに前後して瀬名秀明が会の改革に取り組んだらしいが、クラブの古株のメンバーといろいろ対立があって会長を途中でやめた。

・その後(今現在)、藤田直哉SF作家クラブでトラブった。

瀬名秀明藤田直哉SF作家クラブでトラブっていた時期、2chをはじめとするネット中傷を受けた。

9割くらいの確率事実と言えそうなこと

SF作家クラブ所属する一部のメンバー、ないしそれと親交のある人間が、会内で対立した相手に対し、会の内外でかなり強烈な批判を浴びせている。これには2chなどでの匿名での誹謗中傷も含まれる可能性が高い。

9割くらいの確率事実で ない といえること

大森望瀬名秀明藤田直哉への攻撃を支持しているのは巽孝之小谷真理であり、この二名がすべての黒幕である

(さすがに藤田妄想と思われる)

おそらくこういうことなんじゃないかなと増田が考えていること(七割ぐらいあってると思ってる)

SF作家クラブには「正義の人」たちがいる。そしてこの集団SF作家クラブの敵と定めた相手にはかなり苛烈批判を行うようである。その正義過去大森瀬名に、今は藤田に炸裂している。

しかしこの「正義の人」の攻撃理由は外から見ているとさっぱりわからない。たぶん「村の空気を読まない」レベルの非常に独善的理由で行われているっぽい。

SF作家クラブの会員たちはこの「正義の人」たちの存在認知しているが、積極的にいさめたりしようとする者はいない。事実上、この「正義の人」たちの意志SF作家クラブ意志となっており、彼らの敵はSF作家クラブの敵となってしまうっぽい。

・おそらく、「正義の人」グループが巽夫妻に近いとか、藤田が巽夫妻と対立したとか、あるいは藤田自身批判で心が弱くなっているとか、いろいろ複合的な理由で、すべての裏に巽夫妻の影を見てしまっているのでないか。しかしそれは無理がありそうだ。

・なので現在藤田SF作家クラブトラブル登場人物は、過去トラブルと重複している可能性があるが、原因は別にあると捉えた方が良さそうである

じゃ藤田SF作家クラブ個別問題って何なの?(これも体感で七割ぐらい)

藤田直哉がni_kaという女性と揉めている。新刊のオビがどうのこうのとか? でSF作家クラブの一部が、SF作家クラブとして、ni_kaに味方した。結果、藤田自分SF作家クラブという集団から攻撃されていると考えるようになった。

・ni_kaは藤田からDVを主張し、藤田はこれを虚偽だと否定してるっていうのが根本? ……さすがに「疑惑」だけでもヤバすぎる話なのでオビがどうとかで代理戦争していた? 主題がどこだか曖昧なまま争った性で双方の流れ弾が無関係な人にあたりまくる→反撃されるでさらにわけがからなくなった?

・ただ現時点では裁判が起ったわけでも藤田逮捕されたわけでもないので、とにかくふたりがトラブってる以上のことは判断できない。

・いっぽうSF作家クラブの一部「正義の人」が、ni_ka側に正義ありと判断し、藤田批判しているようだ。彼らはSF作家クラブ公式アカウントでni_kaの主張をRTしており、事実として「SF作家クラブが全体として藤田批判している」ということは可能。

https://twitter.com/oono_n/status/675295763820187648

https://twitter.com/oono_n/status/675305077008019456

https://twitter.com/sonesuguru/status/674247803040694272

じゃ悪いのは誰なのよ?

藤田とni_kaの係争SF作家クラブが介入すべき問題ではない。犯罪事実存在するかについても当然、司法判断を待つべき。

係争当事者の一方に「クラブとして」味方するのは、たとえ藤田の非があきらかになったとしても、問題がある。藤田は、巽夫妻の陰謀が、とか、大森望入会拒否問題から因縁がといった検証不可能な話はおいて、この一点に主張を絞るべきだった。

・(あと、これはいささか余談だが、過去入会拒否事件の際は、大森望女性問題疑惑藤が提示され、あるいは藤田直哉女性へのDV疑惑問題になっというなら、事実として当局が動いた冲方丁は、大森藤田以上に問題とされねばならないわけだが、そんな話は一切聞こえてこない。このあたり、どうにも、SF作家クラブの「正義」は恣意的運用されているんではないかと思わずはいられない)

・とにかくSF作家クラブには「正義の人」がいて、そうしたごく一部の人間が「SF作家クラブ」の名で特定の人物を攻撃することが可能なようだ。藤田妄想したような黒幕存在するならまだマシなほうだ。またこの「正義の人」のメンツがある程度同じというのも次善だ。一番恐ろしいのは大森瀬名藤田の各トラブルの「正義の人」が同一人物でなかった場合だ。その場合SF作家クラブ内部で対立が起る度にそんな狂犬が自動的誕生するという「村が犯人オチであって、SF作家クラブは雛●沢村だったという結論になる。とにかく現に瀬名秀明という才能ある作家がその被害に遭っている以上、次の犠牲者が生まれるのは時間問題で、そうなる前に村をダムに沈めるなりなんなり、早急な対策が求められる。

2015-12-08

藤田直哉日本SF作家クラブの件

SF作家クラブからクローズド掲示板の内容を外に漏らさないでください」と何度か注意されるも、

「そんなルールはない」「高野史緒が既に公開している内容と大差ない」などと反論し、

結果的アクセス禁止にされてしまった、

という一件を「日本SF作家クラブSNSへのアクセス一方的に突然遮断されました」と表現する時点で、

(どちらに正当性があるかはともかく)藤田直哉が何事も悪意的かつ誇大に解釈してしま人間だと分かる。

藤田直哉に対して、名指しされた作家が何らかのアクションを行っているのは事実なのだろうが、

おそらく藤田直哉が言うほど連帯したものではないだろうし、規模的にもそれほどのものではないのだろう。

いや藤田直哉は「推測であることを明示しているし間違いを指摘されれば修正するつもりだ」と言い訳するかもしれない。

だがそれは「あとで掃除するから」と言いながらゴミをぶちまけるようなものだ。

それでは信用は得られない。

2015-08-12

藤田直哉も言ってるけど

伊藤計劃名前を出して「伊藤計劃に関する小説評論」を売ろうとすることが、

他の物故作家で「その作家に関する小説評論」を売ろうとすることとどれほど違うんだよって話だよな。

シャーロックホームズ評論集読んで「アーサー・コナン・ドイルに失礼だ!」ってキレる人、どれほどいるんだと言うことだよな。

2015-06-16

青二才と戦ってた死ねばいいのにの人

そういやどっかで見たことあるなと思ってたんだけどふと思い出したので忘備録として。

なんでここの元エントリー消したの?

http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20150414/1429019020

せっかくだからwebarchiveに口寄せしてもらったけど。

http://web.archive.org/web/20150415025538/http://kinky12x08.hatenablog.com/entry/2015/03/17/194823

中身についてはよくわからないので勉強している人に任せます

死ねばいいのにの人は煽りが過ぎてて文章のものが読みにくいレベルなっちゃってるし

顔真っ赤感すごいけど、まあそれも本人が持った性質だと思うので良い方向に活かしてください。

あと藤田直哉さんは勝手にダシにしてすみません

2015-04-02

http://anond.hatelabo.jp/20150402155231

いまざっとスレを読んだだけだが。

藤田直哉Facebook怪文書のようなものをアップしていた?

・ni_kaを誹謗中傷するような内容?

藤田直哉はni_kaに何かされていると主張?

藤田直哉はni_kaをストーカーしている?

・ni_kaが警察通報

藤田直哉編集する「前衛ゾンビたち」にni_kaが参加するはずだった?

・「前衛ゾンビたち」からni_kaの存在が抹消されている?

・ということで2ちゃんねら粘着して攻撃性増大

瀬名秀明降臨

藤田直哉「ni_kaが悪いと思ってたけど裏で糸を引いてる奴がいたならni_kaはむしろ被害者なので謝罪したい」?

2015-03-29

藤田直哉は如何にして伊藤計劃の「計劃」を妄想円城塔言葉ねじ曲げたのか?

伊藤計劃以後とは何か?

http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20140323/1395596751

藤田直哉はこのブログの中で、伊藤計劃が自らの死を利用し、死後に作動するプログラムとして『屍者の帝国』という小説を構想したという考えを披露しています

伊藤計劃皮肉を込めて描き、死後にまで作動する「悪ふざけ」のプログラムを残し、そして「悪ふざけ/本気」としてそれを実行する/せざるをえない、この社会のものを相対化するプロジェクトであるのだと、ぼくは考えています。そこで必要なのは、きっと怒りではなく、(冷めた)笑いの共有なのではないかと思います

 そして、死人を利用する資本主義の話である。これが、自身の「死」の物語をどう利用されるか理解し、それを用いてプロジェクトを用いた、伊藤計劃という作家の壮絶なところ。感情や感動、物語に冷淡な目を向けていた。二次創作的な模倣が「感動」を生み出すことを理解して冷めていた。でも、自身の死という、物語ではない、絶対性の高いものを、そういう物語として利用した。そしてその「死」の物語を消費する人をあざ笑うかのようないたずらを仕組んだ。

 その結果、伊藤計劃を用いたビジネスもまた、伊藤計劃の仕掛けたいたずらの延長のようになった。この皮肉な仕掛けこそが、伊藤計劃という作家の最大のプロジェクト

 所詮商業レッテルでしょ、とか、故人を商売に利用しているんでしょ、という批判があるのはよくわかる。実際そういう側面はあるが、ぼくは、伊藤計劃というのはそれを理解して、わざと仕組んだと解釈する立場ある意味で、死を贈与した。それがSF界や出版社利益をもたらしたことは否定できない。その代わり、ぼくらは贈与だけではなく、このプロジェクトという呪いを受けるようになってしまった。「伊藤計劃言語」みたいなものが、解釈や、資本の中に残って蔓延している状況を作られてしまった。


僕は、この考えというものはとてもグロテスク不快ものだと思いますが、まあ藤田直哉がそういった考えを持つこと自体否定しません。人の死に物語を求めてしまうのは、ある程度は仕方のないことではあります

伊藤計劃は、自らが死ぬことによって作動するプログラムとして『屍者の帝国』を構想した。僕はこの考えにまったく賛同できませんが、藤田直哉の考えが間違っていると断定することもできません。伊藤計劃はもう死んでいて、その真偽を問うことはできないのですから

しかしながら、藤田直哉はこの妄想正当化するために、円城塔自分と同じ見解に立っているという嘘をつきました。

藤田直哉がこのブログ掲載している、「週刊読書人寄稿した『屍者の帝国』評」に次のような文があります

 悪質な冗談はこれだけではない。伊藤計劃はそのような屍者を労働させるプロローグを、死病に苛まれながら、書いた。まるで、自身の「死」がどう利用され、「物語化=伝説化」されるか理解したうえで、チェシャ猫のような微笑を死後に残そうとしたような「冗談」を伊藤は遺した。それを受ける円城も、あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた旨をインタビューで答えている。悪ふざけを受けつぐ粋な心こそが、プロジェクトを先に進めるエンジンとなった。


ここで、藤田直哉は「それを受ける円城も、あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた旨をインタビューで答えている」と述べていますが、そのような事実はありません。藤田直哉自分妄想正当化するために、円城塔言葉ねじ曲げています

円城塔は「『屍者の帝国あとがきに代えて」で次のように述べています

http://www.kawade.co.jp/empire/

伊藤計劃は『屍者の帝国』を自分の全てを語り切る畢生の作、最後作品として構想したわけではなく、次へと続く切り替えの場として、むしろ軽い読み物として考えていたはずです。


ここで円城塔は、伊藤計劃が『屍者の帝国』を自身最後作品として構想していた、という考えをはっきりと否定しています。「あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解」などしていません。

確かに『屍者の帝国』が発表されたことのインタビューで、「悪ふざけは続けよう」といった言葉円城塔は語っています。当時のインタビューが乗っていたサイトはもう削除されているため、一部のみの引用となってしまますが、一応載せておきましょう。

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1346917403/

http://ddnavi.com/news/87399/

「『死者が動く』話でなければ、やらなかった。当人が亡くなって、冗談のようであっても、誰かが引き受けなければならないだろうと思いました。

追悼というわけではなく、悪ふざけは続けようと」

「死者が動いてる話じゃなければ、やらなかったです。(中略)冗談の中の雰囲気で、中編ぐらいのボリュームで、死者が動く話。それで、当人は死んでしまう。“ええっ、(自分が)動かさないといけないのでは”と(笑い)。それが一番ですよ」


確かにここで円城塔は「『死者が動く』話でなければ、やらなかった」とは述べていますしかし、そのことが円城塔が「あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた」ことに繋がるとは思えません。先ほど引用したように、円城塔伊藤計劃が『屍者の帝国』を自身最後作品として構想した、という考えを退けています

確かに円城塔は、伊藤計劃の死によって中断された小説を書き継ぐ、という状況を『屍者の帝国』を書くにあたって利用しています

 しかし、『虐殺器官』で言葉による人間社会崩壊を、『ハーモニー』で人間意識自体喪失を描いた伊藤計劃が、「死んでしまった人間労働力とする」物語を構想した以上、その先へと進もうとする意図を読み取らずにいることはとても難しいのです。また、その脈絡を受け入れない限り、わたしが『屍者の帝国』の続きを書くという仕事を受ける意味はないとも考えました。なぜなら、『屍者の帝国』の続きを書くということはそのまま、「死者を働かせ続ける」作業となるに決まっているからです。偶然にも与えられたこの図式を最大限に活かすことが、わたしの作業目標になりました。


しかし、その図式は「偶然にも与えられた」ものしかありません。伊藤計劃がこの状況を意図して作り上げたという考えは明示されていません。

円城塔は「『屍者の帝国文庫本あとがき」でもこのように述べています藤田直哉ブログを書いた後に発表された文章ですが)。

そもそも自分の死の可能性が確率として高まっている状態で、次回作は死者を労働力としている世界について書きます、と嬉々としている時点で人の悪さも極まっている。

 ここでわたしは、伊藤計劃自分の死を見越して、そのあとに展開するはずの「死者を素材として利用する世界」を書こうとしていたといいたいのではない。


まあ、とりあえず藤田直哉が自らの妄想正当化するために円城塔言葉ねじ曲げた、ということはご理解いただけたのではないかと思います

藤田直哉伊藤計劃の「計劃」というペンネームに無理に意味を求めようとしたことが原因で、このような妄想を抱いてしまったのではないかと僕は妄想してしまますペンネームペンネームです。伊藤計劃プロジェクトという呪いSF界にかけたなんていうのはただの被害妄想しか思えません。

2015-03-11

藤田「死を贈与した」直哉氏(@naoya_fujita)による3.11追悼式への疑義

かつてある作家をめぐる言説に対する批判への反論で「かの作家は死を贈与した!(ドヤァ」と発言し諸方面から人間性を疑われた藤田直哉氏が、2015年3月11日Twitter上で3.11追悼式に対する疑義を唱えはじめた。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575529749969289217

2万人近くの死、というのも、よくわからない。交通事故であれなんであれ、人が死ぬのは哀しいだろう。しかし、知らない二万人よりも、家族とか親しい一人の死の方がつらくないかね。これは、俺が非人間的な感性からなんだろうか。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575530332390297600

集団の死を、集団慰霊するということの意義が、リアリティを持った形で想像できないというか、それは一体どういうことなのか? っていう本質が未だにわからない。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575531644360204288

親しい人を喪った人の気持ちを想像する。これはわかる。それが数万人分。これ、脳の容量超える。そして、普段、その辺でやっている知らん人の葬式にもそう感じなきゃならんのか、でも現にそう生きていない。では、日々の死者や遺族の悲しみに、差をつける根拠はなんぞやってのが、わからなくなる。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575533582023786496

なあにが、黙祷じゃ、バカタレ、黙祷を字で書いてインターネットに垂れ流す自己顕示欲の塊どもが。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575534421018804225

別に個々人が死んだタイミングは、この一分ではあるまいに。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575535179709739009

死んだ人間黙祷を捧げるのに、何故、加害者である地震の側のタイミングに皆が合わせなければならないのか。納得ならん。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575538080834318336

ちゃんと書くか。災害や死者を名目に、個別の生を生きていて、それぞれ違う死に方をした人間をあたかも一つの何かのように扱い、追悼の名目で、国民の想いを勝手に決められた時間に同期させられるのが、ぼくには不愉快

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575543420544020480

@seiichitsuchiya私は、「何故黙祷罵倒する必要があるのか」に対し、14:46を黙祷時間と定め、一斉に行うという行為に、国家共同体意識形成問題を感じたからだ、と理由を説明しております

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575553783884873728

いや、死者のことを本当に思ってたら、違う時間に違う亡くなり方をそれぞれにしたことも知っているわけでしょ?それに対する追悼の意図だとすると、地震発生の時間代表させることについてどう考えてるのか、純粋にわかんないのよ。儀式から、決まってるから、という理屈はわかる。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575556640000315392

それだったらずっと黙祷するのかという意見が来てるけど、本当に死者を想って悲しんでいる人は、毎日仏壇拝んだり、考えたりしてるんじゃないの。年に一回思い出したように黙祷するだけで済んじゃうのは、本当には同じように悲しくはないからなわけでさ。その上で、儀式には有用性があるんだろうけど。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575573893911560192

なぜ、黙祷時間地震発生の14:46からになったのか。説1、誰かが決めた。説2、勝手に決まった。2なら、皆がそれに従いながらも理由を説明してくれないのが、単純に不思議(外国人が、儀式に疑問を素朴に持つ感じを想像してください)

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575584772249931776

で、説1で、合理的に説明がつきそうなのは、「一回で済んで、みんなで一斉にできて、異論が出なさそうな時が地震発生時だから」。これは納得いくんだけど、なんか生者の都合でインスタントにやりましょ感が出てしまってて、その上で死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い感じがする。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575598071440019456

死者がどう思うか考えろとか、言われるけど、死者は何も思わないし、感じないでしょう。そうではないという宗教観があるのは知っているし、死んでみないと分からないんだけれど、ぼくはその前提で話をしている。その上で「死者」をどう捉えるかがこの社会に及ぼす影響のことを考えてる。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575599212928241664

死後の生があると信じたい遺族の方の気持ちもわかる。幽霊的な存在感覚を持ってしまう人たちの気持ちもわかる。ぼくの発言が、その人たちを傷つけている、と言われれば、そのこともよくわかる。しかし、死者は、「本当には」傷つかないし、冒涜されたとも思わないだろう。生者がそう感じるだけで。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575599516314796032

土屋さんのツイートを見て、不安になってきた。これって、死者が「本当に」感じたり、考えたりする前提の話だったの? そうではなくて、遺族などが哀しみなどから生み出す錯覚であり、代弁者勝手に気持ちを捏造したりして政治的に利用するなどで、生者に影響を及ぼすから注意っていう話じゃなくて?

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575600381717180417

から儀式が、生者の世界でどのような機能果たしているのかを考えたうえで、「いるのか?」ってぼくは問うているんだけれど。まぁ、ぼくの儀式嫌いは元々で、まぁ、形式的儀式根拠なく反復することそのもの生理的に嫌ってのはある。なんか、心が籠もってない感じがするし、形式そのもので。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575601520592318464

福田恆存なんかは、例えば葬式は、別に、心なんかなくたって、その形式を演じること自体意味があるんだ、周りが「死を悲しむ演技をする」ことが重要なんだというんだけど(「民衆の生きかた」)。むしろ個人的感情は抑える方がいいなんて書いてあって。その形式こそが「感情真実性」を保証する、と

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575602024709910528

俺はそうは思わないが、まぁ、どうも、儀式は「説明できないけど必要」と思っている人が多いようなので、ぼくは少数の、アンチ形式主義の心情主義者として生きて行こうと思いますけど、つまりこれ、「真実感情」が型を必要とすることは、「型」こそが「真実感情」を作るということでもあるよね。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575602827705233408

から集団を弔うようなセレモニーがどんな形であるのかには、敏感であってもいいと思うんだけれども。感情セレモニーを生んでるんじゃなくて、セレモニー感情を創り出す効果もあるってわけでしょ? 俺が気に食わないのは、それ。

順番に整理していきたいが、明確に断言できるのは、藤田氏の想像力のなさと狭量さである

藤田氏は、3月11日14時46分に追悼をおこなうことについて、「それぞれ違う死に方をした人間をあたかも一つの何かのように扱い、追悼の名目で、国民の想いを勝手に決められた時間に同期させられる」「なんか生者の都合でインスタントにやりましょ感が出てしまってて、その上で死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い感じがする」ものであり、そこには「国家共同体意識形成問題」が孕んでおり、「遺族などが哀しみなどから生み出す錯覚であり、代弁者勝手に気持ちを捏造したりして政治的に利用するなどで、生者に影響を及ぼすから注意」すべきだと疑義を表明している。

……え? 藤田氏って追悼式が政治家政治的に利用するためにおこなうものだと本気で思ってるの? マジで? そう思った根拠ってなんなの?

「追悼式を決まった時間におこなうことで追悼感情統一的に形成される」という仕組みが、国家国民感情を統制するときのそれと同じものであるというのは真っ当な指摘なんだけど、それは理屈しかないでしょ? たとえば、あくまでたとえばだけど「3.11を忘れないために、今後は○○の政策を~」みたいなことを言い出したのなら別だけど、藤田氏はそういう具体例あげてないよね? 追悼という行為儀式性と政治性を混同してない? 

……とまあ、藤田氏の言動からは「追悼式は政治家政治に利用するための欺瞞的なものだ!」という副音声が聞こえてくるのだが、あれこれ言葉を駆使しているようにみえてその根拠は一切ない。藤田氏の完全な妄想である根拠がないという意味で)。

また、14時46分に追悼をおこなうことを「死者のことを本当に思ってたら、違う時間に違う亡くなり方をそれぞれにしたことも知っているわけでしょ」と批判しているが、そもそも「死者が死んだ時間ぴったりに死者を悼まなければならない」という規範があるわけでもないのだから、14時46分に死者を悼む行為が「本当に思って」いないと判断する根拠がない。その理屈なら、「いつ追悼してもその感情は本物である」という理屈だって成り立つはずだ。

その他、「日々の死者や遺族の悲しみに、差をつける根拠はなんぞや」「本当に死者を想って悲しんでいる人は、毎日仏壇拝んだり、考えたりしてるんじゃないの」「年に一回思い出したように黙祷するだけで済んじゃうのは、本当には同じように悲しくはないから」「死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い」と言っているが、これもよく読むと藤田自身バイアスが満載である

3.11追悼式で生まれる追悼感情は嘘である」という視点には、「感情には嘘の感情と本当の感情の二つがある」という先入観存在する。感情に嘘も本当もないでしょう、とこの増田を書いている私なんかは思うわけだ。よしんば、それが追悼式がなければ生まれなかったものであったとしても、おこなわれたことで生まれ感情は実際にそのひとのなかにある感情である

ここまではまだよい。藤田氏は元から作家の死を贈与したなんてぬけぬけと言い出すわ、自分が言い出した伊藤計劃以後論に批判が飛んできたら反論を書くのではなく「じゃあお前が考えろよ」とかTwitterでくだを巻き出すわ批評家としては全く能力のない人間であるが、そのことに藤田氏に責任はない。人間能力には限界があるのだ。

だが、上記のようなバイアス藤田氏が無自覚ななか他人攻撃し始めるのなら話は別だ。

なあにが、黙祷じゃ、バカタレ、黙祷を字で書いてインターネットに垂れ流す自己顕示欲の塊どもが。

追悼式が追悼感情を惹起する機能があるとして、そこにある感情が偽物であると断言することの暴力性を藤田氏は考えなかったのだろうか。

そして、その暴力を振るう対象である今日14時46分に追悼の念を掲げる人間のなかに、被災者遺族が、知人や友人、家族を失った人間がいる可能性を想像できなかったのだろうか。

藤田氏は、「今日14時46分に黙祷をした(あるいはツイートした)人間」全員に対して「バカタレ」と言ったのである

これは、生者に対する冒涜である

藤田氏は、藤田氏のなかにあるバイアス無自覚のまま、藤田氏の主観的判断による「偽物の感情」を持った人間を「バカタレ」と罵る、想像力が欠如した狭量な人間である(それ故個人的には絶対に関わりたくないので増田に書かせてもらった次第だ)。

でまあ、もしこれが藤田氏に届いたとしてもあいつは「そんなことは言ってない! 被災者遺族のことを侮辱する意図はなかった!」とか言い出すに決まってるんだけど、意図があろうとなかろうと文言だけ読めばそうなるんだよ。てめえ批評家自称しておきながらそんなこともわかんねえのか。主語大きくすんなって批評家でもない俺だって何かを主張するときの基礎だって知ってるよ。そんなこともわかんねえからてめえは批評家としてクソだって言ってんだ。

いやー、「死を贈与した!」とか言っちゃうひとは本当に他人感情にみじんも興味ないんだなーってのがわかって大変ありがたいです。藤田氏は本当にクソだ。ありがとう藤田氏。おまえは二度と信用しない。

あとさ、地震を「加害者」って言っちゃうのはちょっと……いや、まあ、物事擬人化して理屈づけようとするのは悪い事じゃないか……うん、別にいいと思うよ。ひとそれぞれだしね。

2014-03-28

藤田直哉かいうクソ批評家

https://twitter.com/naoya_fujita/status/449211321385381889

ジョー猫村さんが仰る通り、「伊藤計劃以後」に賛成するにしても、批判するにしても、「伊藤計劃以後」の定義はあった方がいいな、と思う次第。逆に、批判されている方は、「伊藤計劃以後」を何のことだと理解されているのだろうか?

このポストを観て藤田直哉が本当にクソだと判断した。

『「伊藤計劃以後」って定義づけで何か思想的に新しい切り口が見いだせるんじゃないか』って発想はまだわかるし、そういった試みそのもの自体は素晴らしいとは思うが、それを読者に納得させられないでいるのはてめえの無能さじゃねえか。

元々中身のない言葉を無理やり意味のあるものにしようとして、それに失敗したのはてめえの責任だろうが。それを「じゃあお前のいう「伊藤計劃以後」ってなんなんだよ」って返しはなんなの?ばかなの?てめえが考えろよ。自分無能さを棚上げしてんじゃねえよクソが。

伊藤計劃以後」がなにかって? 無能なクソ批評家アジテーションに利用しようとして失敗した結果ほとんどの人間からアホらしいと思われている、中身のない用語だよ。勘違いするなよ? 中身を空っぽにしたのはクソ批評家のクソみたいな批評だ。Twitterで管巻いて逆ギレしてる暇があったらさっさとまともな批評書いてみろよ。

2014-03-25

こんな社会にマジになっちゃってどうするの

 伊藤計劃皮肉を込めて描き、死後にまで作動する「悪ふざけ」のプログラムを残し、そして「悪ふざけ/本気」としてそれを実行する/せざるをえない、この社会のものを相対化するプロジェクトであるのだと、ぼくは考えています。そこで必要なのは、きっと怒りではなく、(冷めた)笑いの共有なのではないかと思います

伊藤計劃以後とは何か? - the deconstruKction of right  http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20140323/1395596751

伊藤計劃以後』が単なる商業意味だけを持つバズワードに過ぎないことを聞いてもないのに語りはじめ、

ひとりの男が脳髄から絞り出した知的生産物を「人が死んで悲しい!感動!」のパッケージに詰めて売ることを深夜にセコセコ正当化し、

早川書房さんの販売戦略は間違ってない!!!」とワンワン声で吠えまわり、

同業者に窘められた挙句Togetterに書き散らかされた通りすがりツイートへの全方向大反論宣言をブチ上げた気鋭の新人営業マン、違ったSF評論家

藤田直哉大先生のおかげで、あなたのおっしゃる怒りを越えたところにある冷めた笑いというもの理解できそうです。あはは。ばっかじゃねえの?

先日のエントリに対する「反論」とされたこのエントリーに目を通したとき書き手が何を考えているのかわからなかった。

何を言っているのかということはわかる。主張は3つだ。

伊藤計劃は売れたからすごい」

伊藤計劃の死は物語の一部だ」

伊藤計劃はその死を贈与した」

おいおいマジかよと俺じゃなくても思っただろうし、事実ボロクソに怒られてるみたいなので、この点については今更突っこむ意味がない。

伊藤計劃が自らの死後に何を託し、何を期待したのかは一読者にとって知る術がない以上言及できないが、

特に一段目、三段目の言は……物語の作り手に対してこれ以上の侮辱ちょっと思いつかない。

これに肉薄できるのは先月の大学生×SFのトークイベントに参加した読書人大賞の推薦文投稿者(※この賞は推薦者の読書感想文への投票で決定する)が言ってた

「こういうのよくないと思うんだけど、死んだ作者の物語をないまぜに折り込むと決勝の書評合戦で勝てるんスよねェ〜」くらいか。まあいいけど。

どこまでやんのか知らないけど辻斬りがんばってくださいね

伊藤計劃や『ヨハネスブルグの天使たち』について語るときに彼らの口から決まって出てくるのが

「これはぼくたちの社会だ!!」というほんっとになんのヒネリも個性もないクッソつまらない笑えない一言なのだけれど、読書感想文宿題やってんじゃないんだからさ。

で、さいきょうのどくしょかんそうぶんけっていせんを通過したさいきょうのどくしょかんそうぶんの書き手ポロッとこぼしたのがさきの言葉なんだよ。ほんと。アホくせえ。

藤田大先生もいらしたんでしたっけね、このイベントええっと壇上に。いやーほんとすごいよすごい。あれがお前たちが生み出した怪物の人形だよ。

いやーそれにしてもアニメ化も決定したしどんどん売れるね。次は嵐主演で伊藤計劃の闘病映画だね!

てめえ如きに教わらなくとも諦め方も笑い方も、呆れ倒したあとにくる虚しさだって知っている。

それでも俺は怒るんだよ。

http://anond.hatelabo.jp/20130707105543

http://anond.hatelabo.jp/20140308193257

2013-02-12

http://anond.hatelabo.jp/20130205113445

モミアゲ被害者日記

なお、「モミアゲ剃り動画」は、僕も、動画編集前後やずやさんと話しているのですが、

あれは東さんのパワハラアングルで見られるかもしれないですが、事前に誰かがネタを提案し、僕に相談し、

僕は「それは面白いからやりましょうか」「誰か買ってきてください」と打ち合わせと了承の上で

行っているものです。一連のネタの円環を閉じるために必要だとの僕の判断です。

藤田直哉ファイナルザクティ革命

http://d.hatena.ne.jp/fujita_xamoschi/20081113/1226586613


うーん

 
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