はてなキーワード: 藤田直哉とは
村上龍最良の後継者であり震災後文学の最高傑作としての『シン・ゴジラ』(飯田一史) - 個人 - Yahoo!ニュース
『シン・ゴジラ』矢口は福一の吉田所長がモデル(巨災対は福一の現場がモデル)だと思うし原発事故のあと福一の現場と自衛隊以外は(東電幹部とか総理大臣とか)ぐだぐだだったり責任取りたくなくて腰引けてたりしてたとか、現場と自衛隊がふんばったので東京壊滅なんとか防げたの踏襲してると思う
巨災対や自衛隊気にいらんとかゴジラ進化して破壊し尽くすべきと言う人は福一もっと大爆発して関東圏3000万人避難生活(震災当時菅直人が「想定してた」とあとから言ったもの)になったほうがよかったと思っているんだろう。想像の上では。自分にそういうカタストロフ願望がないとは言わないが……
これを言っちゃうとアウトだよな。
謎は7割ぐらい解けたように思うが自信がないのであとは増田の週末探偵たちに任せた。
SF作家クラブの黒幕は巽孝之・小谷真理夫妻であり、多数の影響下にある会員を操って、自分の意に添わぬ会員を攻撃させている。かつてはSF作家クラブへの大森望入会拒否事件の際、大森を入会させようとした会長・瀬名秀明がそのターゲットとなり、今は自分がターゲットにされている。
・巽夫妻はSF作家クラブでは結構偉い人で、大森望のSF作家クラブ入会を阻止すべく、大森望を非難する文章を総会で配るなどして1/3以上の「入会反対」票を集め、大森のSF作家クラブの入会を阻止した。(結果として小川一水など人気作家の大量退会を招いた)
・これに前後して瀬名秀明が会の改革に取り組んだらしいが、クラブの古株のメンバーといろいろ対立があって会長を途中でやめた。
・瀬名秀明、藤田直哉がSF作家クラブでトラブっていた時期、2chをはじめとするネットで中傷を受けた。
・SF作家クラブに所属する一部のメンバー、ないしそれと親交のある人間が、会内で対立した相手に対し、会の内外でかなり強烈な批判を浴びせている。これには2chなどでの匿名での誹謗中傷も含まれる可能性が高い。
・大森望、瀬名秀明、藤田直哉への攻撃を支持しているのは巽孝之・小谷真理であり、この二名がすべての黒幕である。
・SF作家クラブには「正義の人」たちがいる。そしてこの集団はSF作家クラブの敵と定めた相手にはかなり苛烈な批判を行うようである。その正義が過去は大森や瀬名に、今は藤田に炸裂している。
・しかしこの「正義の人」の攻撃理由は外から見ているとさっぱりわからない。たぶん「村の空気を読まない」レベルの非常に独善的な理由で行われているっぽい。
・SF作家クラブの会員たちはこの「正義の人」たちの存在を認知しているが、積極的にいさめたりしようとする者はいない。事実上、この「正義の人」たちの意志がSF作家クラブの意志となっており、彼らの敵はSF作家クラブの敵となってしまうっぽい。
・おそらく、「正義の人」グループが巽夫妻に近いとか、藤田が巽夫妻と対立したとか、あるいは藤田自身が批判で心が弱くなっているとか、いろいろ複合的な理由で、すべての裏に巽夫妻の影を見てしまっているのでないか。しかしそれは無理がありそうだ。
・なので現在の藤田とSF作家クラブのトラブルの登場人物は、過去のトラブルと重複している可能性があるが、原因は別にあると捉えた方が良さそうである。
・藤田直哉がni_kaという女性と揉めている。新刊のオビがどうのこうのとか? でSF作家クラブの一部が、SF作家クラブとして、ni_kaに味方した。結果、藤田は自分がSF作家クラブという集団から攻撃されていると考えるようになった。
・ni_kaは藤田からのDVを主張し、藤田はこれを虚偽だと否定してるっていうのが根本? ……さすがに「疑惑」だけでもヤバすぎる話なのでオビがどうとかで代理戦争していた? 主題がどこだか曖昧なまま争った性で双方の流れ弾が無関係な人にあたりまくる→反撃されるでさらにわけがわからなくなった?
・ただ現時点では裁判が起ったわけでも藤田が逮捕されたわけでもないので、とにかくふたりがトラブってる以上のことは判断できない。
・いっぽうSF作家クラブの一部「正義の人」が、ni_ka側に正義ありと判断し、藤田を批判しているようだ。彼らはSF作家クラブの公式アカウントでni_kaの主張をRTしており、事実として「SF作家クラブが全体として藤田を批判している」ということは可能。
https://twitter.com/oono_n/status/675295763820187648
https://twitter.com/oono_n/status/675305077008019456
https://twitter.com/sonesuguru/status/674247803040694272
・藤田とni_kaの係争はSF作家クラブが介入すべき問題ではない。犯罪の事実が存在するかについても当然、司法の判断を待つべき。
・係争の当事者の一方に「クラブとして」味方するのは、たとえ藤田の非があきらかになったとしても、問題がある。藤田は、巽夫妻の陰謀が、とか、大森望入会拒否問題からの因縁がといった検証不可能な話はおいて、この一点に主張を絞るべきだった。
・(あと、これはいささか余談だが、過去の入会拒否事件の際は、大森望の女性問題疑惑藤が提示され、あるいは藤田直哉が女性へのDV疑惑も問題になっというなら、事実として当局が動いた冲方丁は、大森・藤田以上に問題とされねばならないわけだが、そんな話は一切聞こえてこない。このあたり、どうにも、SF作家クラブの「正義」は恣意的に運用されているんではないかと思わずにはいられない)
・とにかくSF作家クラブには「正義の人」がいて、そうしたごく一部の人間が「SF作家クラブ」の名で特定の人物を攻撃することが可能なようだ。藤田が妄想したような黒幕が存在するならまだマシなほうだ。またこの「正義の人」のメンツがある程度同じというのも次善だ。一番恐ろしいのは大森、瀬名、藤田の各トラブルの「正義の人」が同一人物でなかった場合だ。その場合SF作家クラブ内部で対立が起る度にそんな狂犬が自動的に誕生するという「村が犯人」オチであって、SF作家クラブは雛●沢村だったという結論になる。とにかく現に瀬名秀明という才能ある作家がその被害に遭っている以上、次の犠牲者が生まれるのは時間の問題で、そうなる前に村をダムに沈めるなりなんなり、早急な対策が求められる。
SF作家クラブから「クローズドな掲示板の内容を外に漏らさないでください」と何度か注意されるも、
「そんなルールはない」「高野史緒が既に公開している内容と大差ない」などと反論し、
という一件を「日本SF作家クラブのSNSへのアクセスを一方的に突然遮断されました」と表現する時点で、
(どちらに正当性があるかはともかく)藤田直哉が何事も悪意的かつ誇大に解釈してしまう人間だと分かる。
藤田直哉に対して、名指しされた作家が何らかのアクションを行っているのは事実なのだろうが、
おそらく藤田直哉が言うほど連帯したものではないだろうし、規模的にもそれほどのものではないのだろう。
いや藤田直哉は「推測であることを明示しているし間違いを指摘されれば修正するつもりだ」と言い訳するかもしれない。
だがそれは「あとで掃除するから」と言いながらゴミをぶちまけるようなものだ。
それでは信用は得られない。
そういやどっかで見たことあるなと思ってたんだけどふと思い出したので忘備録として。
なんでここの元エントリー消したの?
http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20150414/1429019020
せっかくだからwebarchiveに口寄せしてもらったけど。
http://web.archive.org/web/20150415025538/http://kinky12x08.hatenablog.com/entry/2015/03/17/194823
死ねばいいのにの人は煽りが過ぎてて文章そのものが読みにくいレベルになっちゃってるし
顔真っ赤感すごいけど、まあそれも本人が持った性質だと思うので良い方向に活かしてください。
伊藤計劃以後とは何か?
http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20140323/1395596751
藤田直哉はこのブログの中で、伊藤計劃が自らの死を利用し、死後に作動するプログラムとして『屍者の帝国』という小説を構想したという考えを披露しています。
伊藤計劃が皮肉を込めて描き、死後にまで作動する「悪ふざけ」のプログラムを残し、そして「悪ふざけ/本気」としてそれを実行する/せざるをえない、この社会そのものを相対化するプロジェクトであるのだと、ぼくは考えています。そこで必要なのは、きっと怒りではなく、(冷めた)笑いの共有なのではないかと思います。
そして、死人を利用する資本主義の話である。これが、自身の「死」の物語をどう利用されるか理解し、それを用いてプロジェクトを用いた、伊藤計劃という作家の壮絶なところ。感情や感動、物語に冷淡な目を向けていた。二次創作的な模倣が「感動」を生み出すことを理解して冷めていた。でも、自身の死という、物語ではない、絶対性の高いものを、そういう物語として利用した。そしてその「死」の物語を消費する人をあざ笑うかのようないたずらを仕組んだ。
その結果、伊藤計劃を用いたビジネスもまた、伊藤計劃の仕掛けたいたずらの延長のようになった。この皮肉な仕掛けこそが、伊藤計劃という作家の最大のプロジェクト。
所詮は商業的レッテルでしょ、とか、故人を商売に利用しているんでしょ、という批判があるのはよくわかる。実際そういう側面はあるが、ぼくは、伊藤計劃というのはそれを理解して、わざと仕組んだと解釈する立場。ある意味で、死を贈与した。それがSF界や出版社に利益をもたらしたことは否定できない。その代わり、ぼくらは贈与だけではなく、このプロジェクトという呪いを受けるようになってしまった。「伊藤計劃の言語」みたいなものが、解釈や、資本の中に残って蔓延している状況を作られてしまった。
僕は、この考えというものはとてもグロテスクで不快なものだと思いますが、まあ藤田直哉がそういった考えを持つこと自体は否定しません。人の死に物語を求めてしまうのは、ある程度は仕方のないことではあります。
伊藤計劃は、自らが死ぬことによって作動するプログラムとして『屍者の帝国』を構想した。僕はこの考えにまったく賛同できませんが、藤田直哉の考えが間違っていると断定することもできません。伊藤計劃はもう死んでいて、その真偽を問うことはできないのですから。
しかしながら、藤田直哉はこの妄想を正当化するために、円城塔が自分と同じ見解に立っているという嘘をつきました。
藤田直哉がこのブログに掲載している、「週刊読書人に寄稿した『屍者の帝国』評」に次のような文があります。
悪質な冗談はこれだけではない。伊藤計劃はそのような屍者を労働させるプロローグを、死病に苛まれながら、書いた。まるで、自身の「死」がどう利用され、「物語化=伝説化」されるか理解したうえで、チェシャ猫のような微笑を死後に残そうとしたような「冗談」を伊藤は遺した。それを受ける円城も、あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた旨をインタビューで答えている。悪ふざけを受けつぐ粋な心こそが、プロジェクトを先に進めるエンジンとなった。
ここで、藤田直哉は「それを受ける円城も、あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた旨をインタビューで答えている」と述べていますが、そのような事実はありません。藤田直哉は自分の妄想を正当化するために、円城塔の言葉をねじ曲げています。
円城塔は「『屍者の帝国』あとがきに代えて」で次のように述べています。
http://www.kawade.co.jp/empire/
伊藤計劃は『屍者の帝国』を自分の全てを語り切る畢生の作、最後の作品として構想したわけではなく、次へと続く切り替えの場として、むしろ軽い読み物として考えていたはずです。
ここで円城塔は、伊藤計劃が『屍者の帝国』を自身の最後の作品として構想していた、という考えをはっきりと否定しています。「あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解」などしていません。
確かに『屍者の帝国』が発表されたことのインタビューで、「悪ふざけは続けよう」といった言葉を円城塔は語っています。当時のインタビューが乗っていたサイトはもう削除されているため、一部のみの引用となってしまいますが、一応載せておきましょう。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1346917403/
「『死者が動く』話でなければ、やらなかった。当人が亡くなって、冗談のようであっても、誰かが引き受けなければならないだろうと思いました。
追悼というわけではなく、悪ふざけは続けようと」
「死者が動いてる話じゃなければ、やらなかったです。(中略)冗談の中の雰囲気で、中編ぐらいのボリュームで、死者が動く話。それで、当人は死んでしまう。“ええっ、(自分が)動かさないといけないのでは”と(笑い)。それが一番ですよ」
確かにここで円城塔は「『死者が動く』話でなければ、やらなかった」とは述べています。しかし、そのことが円城塔が「あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた」ことに繋がるとは思えません。先ほど引用したように、円城塔は伊藤計劃が『屍者の帝国』を自身の最後の作品として構想した、という考えを退けています。
確かに円城塔は、伊藤計劃の死によって中断された小説を書き継ぐ、という状況を『屍者の帝国』を書くにあたって利用しています。
しかし、『虐殺器官』で言葉による人間社会の崩壊を、『ハーモニー』で人間の意識自体の喪失を描いた伊藤計劃が、「死んでしまった人間を労働力とする」物語を構想した以上、その先へと進もうとする意図を読み取らずにいることはとても難しいのです。また、その脈絡を受け入れない限り、わたしが『屍者の帝国』の続きを書くという仕事を受ける意味はないとも考えました。なぜなら、『屍者の帝国』の続きを書くということはそのまま、「死者を働かせ続ける」作業となるに決まっているからです。偶然にも与えられたこの図式を最大限に活かすことが、わたしの作業目標になりました。
しかし、その図式は「偶然にも与えられた」ものでしかありません。伊藤計劃がこの状況を意図して作り上げたという考えは明示されていません。
円城塔は「『屍者の帝国』文庫本あとがき」でもこのように述べています(藤田直哉がブログを書いた後に発表された文章ですが)。
そもそも自分の死の可能性が確率として高まっている状態で、次回作は死者を労働力としている世界について書きます、と嬉々としている時点で人の悪さも極まっている。
ここでわたしは、伊藤計劃が自分の死を見越して、そのあとに展開するはずの「死者を素材として利用する世界」を書こうとしていたといいたいのではない。
まあ、とりあえず藤田直哉が自らの妄想を正当化するために円城塔の言葉をねじ曲げた、ということはご理解いただけたのではないかと思います。
藤田直哉は伊藤計劃の「計劃」というペンネームに無理に意味を求めようとしたことが原因で、このような妄想を抱いてしまったのではないかと僕は妄想してしまいます。ペンネームはペンネームです。伊藤計劃がプロジェクトという呪いをSF界にかけたなんていうのはただの被害妄想にしか思えません。
かつてある作家をめぐる言説に対する批判への反論で「かの作家は死を贈与した!(ドヤァ」と発言し諸方面から人間性を疑われた藤田直哉氏が、2015年3月11日にTwitter上で3.11追悼式に対する疑義を唱えはじめた。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575529749969289217
2万人近くの死、というのも、よくわからない。交通事故であれなんであれ、人が死ぬのは哀しいだろう。しかし、知らない二万人よりも、家族とか親しい一人の死の方がつらくないかね。これは、俺が非人間的な感性だからなんだろうか。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575530332390297600
集団の死を、集団で慰霊するということの意義が、リアリティを持った形で想像できないというか、それは一体どういうことなのか? っていう本質が未だにわからない。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575531644360204288
親しい人を喪った人の気持ちを想像する。これはわかる。それが数万人分。これ、脳の容量超える。そして、普段、その辺でやっている知らん人の葬式にもそう感じなきゃならんのか、でも現にそう生きていない。では、日々の死者や遺族の悲しみに、差をつける根拠はなんぞやってのが、わからなくなる。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575533582023786496
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575534421018804225
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575535179709739009
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575538080834318336
ちゃんと書くか。災害や死者を名目に、個別の生を生きていて、それぞれ違う死に方をした人間をあたかも一つの何かのように扱い、追悼の名目で、国民の想いを勝手に決められた時間に同期させられるのが、ぼくには不愉快。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575543420544020480
@seiichitsuchiya私は、「何故黙祷を罵倒する必要があるのか」に対し、14:46を黙祷の時間と定め、一斉に行うという行為に、国家の共同体意識形成の問題を感じたからだ、と理由を説明しております。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575553783884873728
いや、死者のことを本当に思ってたら、違う時間に違う亡くなり方をそれぞれにしたことも知っているわけでしょ?それに対する追悼の意図だとすると、地震発生の時間に代表させることについてどう考えてるのか、純粋にわかんないのよ。儀式だから、決まってるから、という理屈はわかる。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575556640000315392
それだったらずっと黙祷するのかという意見が来てるけど、本当に死者を想って悲しんでいる人は、毎日仏壇拝んだり、考えたりしてるんじゃないの。年に一回思い出したように黙祷するだけで済んじゃうのは、本当には同じように悲しくはないからなわけでさ。その上で、儀式には有用性があるんだろうけど。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575573893911560192
なぜ、黙祷の時間は地震発生の14:46からになったのか。説1、誰かが決めた。説2、勝手に決まった。2なら、皆がそれに従いながらも理由を説明してくれないのが、単純に不思議(外国人が、儀式に疑問を素朴に持つ感じを想像してください)
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575584772249931776
で、説1で、合理的に説明がつきそうなのは、「一回で済んで、みんなで一斉にできて、異論が出なさそうな時が地震発生時だから」。これは納得いくんだけど、なんか生者の都合でインスタントにやりましょ感が出てしまってて、その上で死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い感じがする。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575598071440019456
死者がどう思うか考えろとか、言われるけど、死者は何も思わないし、感じないでしょう。そうではないという宗教観があるのは知っているし、死んでみないと分からないんだけれど、ぼくはその前提で話をしている。その上で「死者」をどう捉えるかがこの社会に及ぼす影響のことを考えてる。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575599212928241664
死後の生があると信じたい遺族の方の気持ちもわかる。幽霊的な存在の感覚を持ってしまう人たちの気持ちもわかる。ぼくの発言が、その人たちを傷つけている、と言われれば、そのこともよくわかる。しかし、死者は、「本当には」傷つかないし、冒涜されたとも思わないだろう。生者がそう感じるだけで。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575599516314796032
土屋さんのツイートを見て、不安になってきた。これって、死者が「本当に」感じたり、考えたりする前提の話だったの? そうではなくて、遺族などが哀しみなどから生み出す錯覚であり、代弁者が勝手に気持ちを捏造したりして政治的に利用するなどで、生者に影響を及ぼすから注意っていう話じゃなくて?
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575600381717180417
だから、儀式が、生者の世界でどのような機能を果たしているのかを考えたうえで、「いるのか?」ってぼくは問うているんだけれど。まぁ、ぼくの儀式嫌いは元々で、まぁ、形式的な儀式を根拠なく反復することそのものが生理的に嫌ってのはある。なんか、心が籠もってない感じがするし、形式そのもので。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575601520592318464
福田恆存なんかは、例えば葬式は、別に、心なんかなくたって、その形式を演じること自体に意味があるんだ、周りが「死を悲しむ演技をする」ことが重要なんだというんだけど(「民衆の生きかた」)。むしろ個人的感情は抑える方がいいなんて書いてあって。その形式こそが「感情の真実性」を保証する、と
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575602024709910528
俺はそうは思わないが、まぁ、どうも、儀式は「説明できないけど必要」と思っている人が多いようなので、ぼくは少数の、アンチ形式主義の心情主義者として生きて行こうと思いますけど、つまりこれ、「真実の感情」が型を必要とすることは、「型」こそが「真実の感情」を作るということでもあるよね。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575602827705233408
だから、集団を弔うようなセレモニーがどんな形であるのかには、敏感であってもいいと思うんだけれども。感情がセレモニーを生んでるんじゃなくて、セレモニーが感情を創り出す効果もあるってわけでしょ? 俺が気に食わないのは、それ。
順番に整理していきたいが、明確に断言できるのは、藤田氏の想像力のなさと狭量さである。
藤田氏は、3月11日14時46分に追悼をおこなうことについて、「それぞれ違う死に方をした人間をあたかも一つの何かのように扱い、追悼の名目で、国民の想いを勝手に決められた時間に同期させられる」「なんか生者の都合でインスタントにやりましょ感が出てしまってて、その上で死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い感じがする」ものであり、そこには「国家の共同体意識形成の問題」が孕んでおり、「遺族などが哀しみなどから生み出す錯覚であり、代弁者が勝手に気持ちを捏造したりして政治的に利用するなどで、生者に影響を及ぼすから注意」すべきだと疑義を表明している。
……え? 藤田氏って追悼式が政治家が政治的に利用するためにおこなうものだと本気で思ってるの? マジで? そう思った根拠ってなんなの?
「追悼式を決まった時間におこなうことで追悼感情が統一的に形成される」という仕組みが、国家が国民感情を統制するときのそれと同じものであるというのは真っ当な指摘なんだけど、それは理屈でしかないでしょ? たとえば、あくまでたとえばだけど「3.11を忘れないために、今後は○○の政策を~」みたいなことを言い出したのなら別だけど、藤田氏はそういう具体例あげてないよね? 追悼という行為の儀式性と政治性を混同してない?
……とまあ、藤田氏の言動からは「追悼式は政治家が政治に利用するための欺瞞的なものだ!」という副音声が聞こえてくるのだが、あれこれ言葉を駆使しているようにみえてその根拠は一切ない。藤田氏の完全な妄想である(根拠がないという意味で)。
また、14時46分に追悼をおこなうことを「死者のことを本当に思ってたら、違う時間に違う亡くなり方をそれぞれにしたことも知っているわけでしょ」と批判しているが、そもそも「死者が死んだ時間ぴったりに死者を悼まなければならない」という規範があるわけでもないのだから、14時46分に死者を悼む行為が「本当に思って」いないと判断する根拠がない。その理屈なら、「いつ追悼してもその感情は本物である」という理屈だって成り立つはずだ。
その他、「日々の死者や遺族の悲しみに、差をつける根拠はなんぞや」「本当に死者を想って悲しんでいる人は、毎日仏壇拝んだり、考えたりしてるんじゃないの」「年に一回思い出したように黙祷するだけで済んじゃうのは、本当には同じように悲しくはないから」「死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い」と言っているが、これもよく読むと藤田氏自身のバイアスが満載である。
「3.11追悼式で生まれる追悼感情は嘘である」という視点には、「感情には嘘の感情と本当の感情の二つがある」という先入観が存在する。感情に嘘も本当もないでしょう、とこの増田を書いている私なんかは思うわけだ。よしんば、それが追悼式がなければ生まれなかったものであったとしても、おこなわれたことで生まれる感情は実際にそのひとのなかにある感情である。
ここまではまだよい。藤田氏は元から作家の死を贈与したなんてぬけぬけと言い出すわ、自分が言い出した伊藤計劃以後論に批判が飛んできたら反論を書くのではなく「じゃあお前が考えろよ」とかTwitterでくだを巻き出すわ批評家としては全く能力のない人間であるが、そのことに藤田氏に責任はない。人間の能力には限界があるのだ。
だが、上記のようなバイアスに藤田氏が無自覚ななか他人を攻撃し始めるのなら話は別だ。
追悼式が追悼感情を惹起する機能があるとして、そこにある感情が偽物であると断言することの暴力性を藤田氏は考えなかったのだろうか。
そして、その暴力を振るう対象である、今日14時46分に追悼の念を掲げる人間のなかに、被災者遺族が、知人や友人、家族を失った人間がいる可能性を想像できなかったのだろうか。
藤田氏は、「今日14時46分に黙祷をした(あるいはツイートした)人間」全員に対して「バカタレ」と言ったのである。
藤田氏は、藤田氏のなかにあるバイアスに無自覚のまま、藤田氏の主観的判断による「偽物の感情」を持った人間を「バカタレ」と罵る、想像力が欠如した狭量な人間である(それ故個人的には絶対に関わりたくないので増田に書かせてもらった次第だ)。
でまあ、もしこれが藤田氏に届いたとしてもあいつは「そんなことは言ってない! 被災者遺族のことを侮辱する意図はなかった!」とか言い出すに決まってるんだけど、意図があろうとなかろうと文言だけ読めばそうなるんだよ。てめえ批評家を自称しておきながらそんなこともわかんねえのか。主語大きくすんなって批評家でもない俺だって何かを主張するときの基礎だって知ってるよ。そんなこともわかんねえからてめえは批評家としてクソだって言ってんだ。
いやー、「死を贈与した!」とか言っちゃうひとは本当に他人の感情にみじんも興味ないんだなーってのがわかって大変ありがたいです。藤田氏は本当にクソだ。ありがとう藤田氏。おまえは二度と信用しない。
あとさ、地震を「加害者」って言っちゃうのはちょっと……いや、まあ、物事を擬人化して理屈づけようとするのは悪い事じゃないか……うん、別にいいと思うよ。ひとそれぞれだしね。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/449211321385381889
ジョー猫村さんが仰る通り、「伊藤計劃以後」に賛成するにしても、批判するにしても、「伊藤計劃以後」の定義はあった方がいいな、と思う次第。逆に、批判されている方は、「伊藤計劃以後」を何のことだと理解されているのだろうか?
『「伊藤計劃以後」って定義づけで何か思想的に新しい切り口が見いだせるんじゃないか』って発想はまだわかるし、そういった試みそのもの自体は素晴らしいとは思うが、それを読者に納得させられないでいるのはてめえの無能さじゃねえか。
元々中身のない言葉を無理やり意味のあるものにしようとして、それに失敗したのはてめえの責任だろうが。それを「じゃあお前のいう「伊藤計劃以後」ってなんなんだよ」って返しはなんなの?ばかなの?てめえが考えろよ。自分の無能さを棚上げしてんじゃねえよクソが。
「伊藤計劃以後」がなにかって? 無能なクソ批評家がアジテーションに利用しようとして失敗した結果ほとんどの人間からアホらしいと思われている、中身のない用語だよ。勘違いするなよ? 中身を空っぽにしたのはクソ批評家のクソみたいな批評だ。Twitterで管巻いて逆ギレしてる暇があったらさっさとまともな批評書いてみろよ。
伊藤計劃が皮肉を込めて描き、死後にまで作動する「悪ふざけ」のプログラムを残し、そして「悪ふざけ/本気」としてそれを実行する/せざるをえない、この社会そのものを相対化するプロジェクトであるのだと、ぼくは考えています。そこで必要なのは、きっと怒りではなく、(冷めた)笑いの共有なのではないかと思います。
伊藤計劃以後とは何か? - the deconstruKction of right http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20140323/1395596751
『伊藤計劃以後』が単なる商業的意味だけを持つバズワードに過ぎないことを聞いてもないのに語りはじめ、
ひとりの男が脳髄から絞り出した知的生産物を「人が死んで悲しい!感動!」のパッケージに詰めて売ることを深夜にセコセコ正当化し、
「早川書房さんの販売戦略は間違ってない!!!」とワンワン声で吠えまわり、
同業者に窘められた挙句Togetterに書き散らかされた通りすがりのツイートへの全方向大反論宣言をブチ上げた気鋭の新人営業マン、違ったSF評論家・
藤田直哉大先生のおかげで、あなたのおっしゃる怒りを越えたところにある冷めた笑いというものが理解できそうです。あはは。ばっかじゃねえの?
先日のエントリに対する「反論」とされたこのエントリーに目を通したとき、書き手が何を考えているのかわからなかった。
何を言っているのかということはわかる。主張は3つだ。
「伊藤計劃はその死を贈与した」
おいおいマジかよと俺じゃなくても思っただろうし、事実ボロクソに怒られてるみたいなので、この点については今更突っこむ意味がない。
伊藤計劃が自らの死後に何を託し、何を期待したのかは一読者にとって知る術がない以上言及できないが、
特に一段目、三段目の言は……物語の作り手に対してこれ以上の侮辱はちょっと思いつかない。
これに肉薄できるのは先月の大学生×SFのトークイベントに参加した読書人大賞の推薦文投稿者(※この賞は推薦者の読書感想文への投票で決定する)が言ってた
「こういうのよくないと思うんだけど、死んだ作者の物語をないまぜに折り込むと決勝の書評合戦で勝てるんスよねェ〜」くらいか。まあいいけど。
伊藤計劃や『ヨハネスブルグの天使たち』について語るときに彼らの口から決まって出てくるのが
「これはぼくたちの社会だ!!」というほんっとになんのヒネリも個性もないクッソつまらない笑えない一言なのだけれど、読書感想文の宿題やってんじゃないんだからさ。
で、さいきょうのどくしょかんそうぶんけっていせんを通過したさいきょうのどくしょかんそうぶんの書き手がポロッとこぼしたのがさきの言葉なんだよ。ほんと。アホくせえ。
藤田大先生もいらしたんでしたっけね、このイベント? ええっと壇上に。いやーほんとすごいよすごい。あれがお前たちが生み出した怪物の人形だよ。
いやーそれにしてもアニメ化も決定したしどんどん売れるね。次は嵐主演で伊藤計劃の闘病映画だね!
てめえ如きに教わらなくとも諦め方も笑い方も、呆れ倒したあとにくる虚しさだって知っている。
それでも俺は怒るんだよ。