はてなキーワード: 大きなお世話とは
・ボランティア行って怪我したり、体調崩したら自己管理できないやつはボランティアすんなって叩かれる。
・良かれと思ってやったことが裏目に出たら、無能は余計な事するなと叩かれる。
・相談されたので無い知恵絞ってアドバイスしてみたら、アドバイス罪と叩かれる。
・怪我した子供の手当をしていたら泣き出して、子供の親に不審者として通報される。
・倒れていたお年寄りに心臓マッサージや人工呼吸を行ったら、そのせいで死んだと遺族に訴えられる。
本当かどうか知らんけど、こういう話がネットで定期的に出てくるよね。
こういう話題が定期的に蔓延するせいで、日本って人助けやボランティアやるハードルがやたら高くなってない?
東日本大震災の時のボランティア行くなら自前で水や食料に医薬品、寝床の確保まで全部準備しないと現地に迷惑がかかるって話が未だに尾を引いてる感もある。
体力に自身がない人、経済的余裕が無い人はボランティアなんてやっちゃダメって風潮あると思う。
ボランティアに限らずちょっとでも相手の迷惑になったら、迷惑になる可能性があるならそれは人助けじゃないって考える人かなり多いと思うんだよね。
「余計な事するくらいなら金を出せ」
人助けしようとしたけど上手くいかなかった人にこういう言葉が投げつけられて、ボコボコに叩かれる社会で他人に親切にしようって考える人ってそうそう居ないと思うんよ。
まあ他人の干渉が嫌で嫌でたまらなくて都会に出てきた人は、今みたいな風潮を喜ぶべきなのかもしれない。
親切とか人助けって受ける側からすれば、他人からの干渉以外のなにものでもないからな。
赤の他人に自分に都合の良い干渉だけして欲しいってのは、流石に自分勝手過ぎる。
フェミニズムというのは女性優生思想だからフェミニストの立場にたてば正しい
リベラルは女性とトランスジェンダーどちらが上級会員か決めれば良いだけ
某タレントがまだ『父親』としてコラムを書いて世の父親に正論を投げつけていた頃、丁度我が家は妻が妊娠中で、自分はイヤイヤ期の長男を抱えてほぼワンオペで仕事と家事を回していた。あの頃の夫婦仲は最悪で、僕は仕事、家事、育児を自分なりに限界まで回しているのに感謝されるどころか細かい文句をつけてくる妻にイライラとしていたし、妻も自分がつわりがきついなかで働いているのに思いどおりに動いてくれない僕にイライラしていたのだと思う。(後に、あの頃はお互いに凄く頑張っていたし申し訳なかったと謝罪しあって今は仲がいい)
そのような中で某タレントの投げかける『感謝されたいという気持ちは甘え、パパとしての心構えが足りない』という正論は多少以上に限界に近かった僕を追い詰めたし、実家サポートありで子供一人育てるだけのイージーモード育児でわかったようなことを言うなとも思った。一方で自分自身が父親として育児をするにあたっての不便さを世の中に対して感じていたのもあり、父親の育児に対する世の中の考えを変えるにはこういった少し過激な情報発信も必要なのかもしれないとも思ったし、同じ育児に奮闘する父親としての親近感も覚えていた。
それだけに、その後の彼(彼女)の振る舞いや報道については残念の一言だった。もちろん彼女が性自認のあいまいさ故にかえって父親としての自覚を強く持とうとしたのかもしれないとか、色々と思ったところはある。しかしお前、あれだけ色々言っておいて、ときに呪いにもなる言葉を世の父親に投げかけておいてお前は自分だけ降りるのかよというのが偽らざる自分の思いだった。だからといってSNSで彼女を中傷したことはなく、なんなら不特定多数の目に触れる場で名前を出したのはこれが初めてだ。しかし僕は正論をあびせるだけあびせて彼女になってしまった彼を心の底から憎んでいたし、友人との雑談で嫌いな芸能人に挙げたこともあるし、時折SNSで彼女が目に入ってくると嫌な気持ちになった。
いま、最後となるだろう彼女の近況に関するニュースを見て、正直なんとも言えない複雑な気持ちになっている。もう二度と彼女の近況が流れてきて嫌な思いをすることはないだろうし、父親だった頃のコラムを「あの時は自分も辛くて厳しい意見を投げかけてしまった」などと振り返ることもない。
考えてみると、他の家庭の育児に対してどうこう言う事自体が本質的に大きなお世話ではないだろうかと思う。コストをかけようと思えばいくらでもかけられる『育児』という仕事に対して、各家庭で様々な制約のもとに育児にコストを割いている。その中であるべき父親像、母親像を定める行いは余剰コストの少ない家庭を追い詰めるだろうし、ともすると一昔前の良妻賢母教育に近い思想にもなりかねない。
私の現時点での定義としては、宗教とは、人生において行動の選択を迫られたときにその指針となる命令又は禁止規範となる道徳をいう。多くの場合「こうすれば死んだ後で天国・極楽へ行ける」「こうすれば地獄へ堕ちる」というように、行動いかんによって死後の魂の扱いが左右されるという教えがセットになっているが、現世における救済や恵みを受けるという教えの場合もある。
この定義に従えば、儒教も宗教である。マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で分析したように、「商売で儲かることは神の教えに従った正しい行いをしていることの証である」といった信仰のあり方も宗教であることに鑑みると、「運気が向上する習慣」といった自己啓発の類も宗教である。この定義に従う限りでは、何らかの宗教を持っている日本人はわりと多い。
なお、この定義からすると「お国のために戦って死ねば英霊になれる」という教えが宗教に含まれるかどうかは微妙で、私は否定的に考える。なぜならば「どう生きるか」でなく「どう死ぬか」の行動指針であるため、「善き生き方」を示す道徳になっていないから。どちらかというと政治キャンペーンの一種に分類すべきように思う。ただ、この点は「道徳とは何か」の定義を決めないと結論を出せなそうなので保留にする。
死者は霊魂となって現世の人々に影響を及ぼすとか現世の人々の祈りが死者の霊魂を癒すという観念は、死んだら死後の世界に行くという宗教的観念と矛盾している。この二つの観念は別々のもので、宗教が生まれる前から、原始的な信心として前者が存在していたと思われる。
「死んだらどうなるのか」という不安に対しては様々な「答え」が出されており、天国や地獄で永遠に暮らすのだとか、別の生き物に生まれ変わるのだとか、現世と交流できる状態にあって時折姿を現したり人に憑依したりするのだとか、恨みや後悔を残して死ぬと地縛霊や怪異になるとか言われている。
交流したり観測したりできる存在としての霊魂の存在を信じることは、何に寄与しているんだろうか。例えばいじめられて死んだ生徒の霊が語られる際に、いじめはいけないという教訓ではなく「あのトイレには近づくな」という戒めの方が強く意識されることからすると、道徳には繋がっていない。もっとも、死者の霊を軽んじる行動を取ると祟られたり罰が当たるとされるため、死者に対する礼節という行動規範にはなっている。死んでも生者と関われるので孤独じゃないとか、死者を敬うことで自分も死んだ後で丁重に扱われるだろうとかの安心感を得られるのかもしれない。
苦しい時に頼みの綱となる「神様」は、普段はまったく信仰どころか意識すらされておらず、名前もなければどんな姿をしているのかのイメージも持たない漠然とした概念である。その「神様」に祈りを捧げることで天国に行けるわけでもないし、祈ったにもかかわらず救済が与えられなかった場合には悪態の対象にすらなる。
「どちらにしようかな天の神様の言うとおり」やテーブルゲームにおける「ダイスの女神」もこの一種で、普通は人生の命運をかけるほどの扱いはされない。ただ、行動規範をもたず「幸運のお守り」に人生を賭ける人もおり金儲けのターゲットにされがちである。
「死後の世界」を司る行動規範としての神もいるかもしれないし、「戦に勝ちたい時に祈る神」「商売繁盛のために祀る神」として救済を求める神様の類かもしれないし、「こういうことするとこういう目に遭うよ」といった教訓的な寓話や超常的で不思議な御伽話の登場人物なのかもしれない。
上記のように、私の定義では「宗教」とは行動規範を示す道徳である。道徳は「どうあるべきか」「何が正しいか」を含むものであり、従って政治や法制度のあり方にも関わる。法や政治と道徳はイコールではないにせよ、深く関連している。そのため、特定の宗教の良しとする行動規範に従って法律を作り政治を行うと、他の行動規範をもつ宗教を信じる人々と衝突する。「人であるがゆえの権利」を前提とする法制度や政治は誰にも平等でなければならないことからすると、特定の宗教に立脚した政治を行うわけにはいかない。
「こう生きるべき」みたいに国家が口出しすること自体が大きなお世話と考えるのが「人権」主体の政治だともいえる。
やってみればわかるが、人権を行動規範にすることはできない。人権は人生の様々な場面で衝突するものだから、こちらを立てればあちらが立たず、その折り合いをどうつけるかが求められる。したがって人権を大事にしようと決めたところで行動指針が決まるわけではない。例えば表現の自由とプライバシー権のように。
政治を考える際に考慮すべきものではあるが、個人の人生の指針にはなり得ないので、人権は宗教ではない。
私の友人にはキリスト教や仏教の敬虔な信者であったり聖職者であったりする人たちが少なくない。また、スピリチュアルなものを信じる人もいるし、神様へのお勤めで心身をすり減らしてしまっている人もいる。信仰はとても古くから存在し、必要とする人間が多かったのに、なぜ必要なのか自分にはわからないのでずっと考えている。難しい。
申し訳ないが私は彼女の動画をまともに観たことがない。着物初心者向けの自装動画と名古屋帯の結び方動画、着物のたたみ方の動画を飛ばし飛ばし見た程度だ。
この人の着付けはド下手クソだ。
ちょっとね、と笑える程度ならいいのだが、着物インフルエンサー(笑)と言い、雑誌やYouTubeや企業コラボで着付けを教えている人にしては、拙い。
趣味の範囲で着物を着て楽しんでいる私から見ても、かなり拙い、というか無駄が多い。
私が見た範囲で具体的に言うと、
・胸紐をしてからおはしょりの中の始末をする。しかも三角に折り上げずに、ぐしゃぐしゃに上げる。
・帯をしめるときに、クリップで止めたり、すでに巻いている帯に挟めば十分なものをわざわざ仮紐を使って止めている。
というのがあった。
着物に関わりが無い人にはよくわからないかもしれないが、これらは無駄が多いし、最終的に時間がかかる。しかも所作にスマートさが無い。
いわゆる初心者向けの動画だから、初心者でも着れる方法という考えなのかも知れないが、それにしても汚い。
こういう時、「着物だって服なんだから好きな着方でいいじゃない!着付けが汚いからって大きなお世話だ!」という人が出てくるだろうが、彼女の着物は正統派に着ると考えた時にあまりに不細工だ。(おそらく彼女の着方的に和洋ミックスをしたい人よりも正統派な着方がしたい視聴者が多いだろう)
しかし、彼女がどんなにみっともない着付けをしようが私には関係がない。関係がないのはわかっているが、どうしても言いたかった。
「お前は初心者の気持ちがわかってない!すなおさんの動画のどこが悪いんだ!」と思う人もいるだろう。けれど私から見た彼女はスマートで素敵な着物を着た方では全く無いというだけの話なので気にしないで欲しい。
………やっぱりあの畳み方は下手くそもいいところだよなぁ。
大きなお世話を指摘されると人はキレる
ヨッピーさんが実際に強制的におごってるとか、そのせいで回りに迷惑かけてるかは全然知らんし、本当にそれで迷惑してる人がいるならもっと迷惑してるって話が漏れ聞こえてくるしたぶん、みんなハッピーなんだろう
でも世の中にはヨッピーさんみたいに空気読んで適切におごれる人だけじゃなくて、おごるの当たり前とかヨッピーが言うように男性がおごる前提の社会みたいな幻想で周りに迷惑かけてるやつも多くて、そうい被害者がいることを無視して、御高説賜ったからそら多くの人のお気持ち逆なでするのは当然だろうとは思う
ヨッピーさんは自分の意見に相当な自信があるみたいだけど(そうでなきゃこんなセンシティブで多くの人が傷つく記事書かないだろう)、視野狭窄に陥ってる感じがする
まぁWebライターなんて自分事を客観視してたらやってられないし、あえて視野を狭め狂ったような文章出力してピエロにてっしないといけないからな
ピエロの仕事してるからって、舐められたらやってられんのだろうが。
それはそうたヨッピーの記事が説教垂れるながらも女に嫌われたくなくてイキったり女性に媚びようとしているというのは、あってると思う。だからそれを指摘されて怒ったんだろうけど。まぁだれしも自分の醜い部分を指摘されたらやだししょうがない
説教垂れながらも女に嫌われたくなくてイキったり女性に媚びようとしているって、そういう態度が悪いかは人それぞれで、気に入らん人もいるだろーなってのは思う
あとヨッピーはちゃんと若い人の割り勘文化を調査して記事書いたほうがいいってのには同意なので、書いて見せて欲しいな。そこら編の文化は俺も知らんから純粋に気になる。煽りとかじゃなくていい提案だと思ったよ
わたしは啓蒙がキライだ。他人から啓蒙されるほどアホではないし、他人さまを啓蒙するほど傲慢でもない。
フェミニズムの運動は、自己解放から出発したはずなのに、いつのまにか「すすんだワタシ」が「おくれたアナタ」を
フェミニズム啓蒙主義には、リブ度に応じて女たちを「ススンデルーオクレテル」に序列づける権威主義がある。
ススンダ方はオクレタ方に正義を押し付け、あまつさえフェミニズム十字軍よろしく女の正義を「輸出」しさえする。
フェミニズム先進国ー後進国の関係は、たとえば「アメリカの正義」を押し付けようとする抑圧的な植民地主義と
変わらない。大きなお世話だ。何が解放かはテメェが決める。他人様のお世話になんかならない。それがフェミニズムの
出発点だったはずだ。
おんなの運動は抑圧的な男権社会に対する対抗文化として、成立したとたん「対抗的価値」の尺度ができあがる。
法律婚をしているかしてないか。化粧するかしないか。夫を「主人」と呼ぶか呼ばないか。さまざまな尺度が「踏み絵」になる。
https://anond.hatelabo.jp/20230107101453
お若く血気盛んなのかな。
高尚なことなんか一個も書いてねーわ
・それだけ執念深い癖に恨みのホンボシには向かっていけねえとか
それじゃただの卑怯なクソでは?
・人には批判的な癖に自分がちょっと批判されると即耳塞ぐ振る舞いは
つっただけだろ
なにひとつも高尚じゃねーわ
子育て終わったら頑張るよ。
ババアとか言われるんだろうけどw
あと「おやじ」とか「若い人」とか「お若く」とか「ババア」とか「若い頃」とか
ちょっと年齢の話が好きすぎねーか?
ごり押しするしねえとか聞いてねえよ
まず「お前の脳内で煮詰めた妄想で無関係な人様に八つ当たりするのはやめろ」
これは不当で過大な要求か?
話をするよ。
仕事や趣味で知り合った若い人達見てるとしっかりしてる人多いし、大きなお世話だとは思うけどね。
うざい大人ってやつでいい。
また年齢
妄想強くて八つ当たり癖があって年齢気にしすぎで子供を言い訳にする構えがあって
かなり攻撃的で恨みっぽいのに自分がちょっとなんか言われると即貝になって
若い人(それよりあんたは自分の問題なんとかしてよ)って思ってんじゃねーかな
こう言われればお前はきっと「言わねえ」って言うんだけど
日頃からおめーみたいな思考してて、俺に対してやったようにノータイムで子供を自己弁護のバリアとして使っちゃうような人間は
必ずリアルでもどっかでぽろっとそういう言い方をする
うーん、読めば読むほどよくわからん。
恋人の生活や健康を気遣っているような文面でありながら要所要所に「自分を構ってくれない寂しさ」「顔の見えない相手への嫉妬」が透けて見える文章。増田を蔑ろにしてる恋人本人ではなく卓相手に怒りをぶつける理不尽さ。Aと元卓仲間の縁が切れてることにもモヤってるみたいだけど、結局増田は同じ仲間とドップリ浸かっててほしいのかそうじゃないのか。
もう、いい加減にしたらどうですか。
あのとき私は、どうしようもない怒りをどこに向ければよかったんでしょうか。
TRPGに負けた!という悔しさなら共感できるんだけど、この人は次にできた恋人が激務だったら「家庭のこと考えてますか?」って会社に殴り込みでもかけるんだろうか。仕事を安請け合いする相手には腹を立てないんだろうか。