はてなキーワード: 桜庭一樹とは
条件はとくになし。
流行っていても、流行っていなくてもいいし、古くても新しくてもいい。
ちなみに僕は魍魎の匣が好き。
【追記】
3件くらいは来たかな〜と開いたらトップページに自分の記事があってびっくりした。
「貫井徳郎とかも好きだと思う」って書いてくれてた人がいたけど、症候群3部作は読んだよ。貴志祐介も小林泰三も好きです。鋭いね。
恩田陸のネクロポリスや、長江俊和の出版禁止なんかも好きだよ。
あと別に「おすすめの本」は聞いてないから価値がないとか怒らないでね。「あなたは何が好きなのか」を聞いてるだけです。
好きな本教えて貰って好き勝手読ませてもらおうと思ってたら深読みしてる人が多くて困惑だよ。深い意図はないよ…。
他の人が書いてくれた作品もリスト化して徐々に手をつけていくつもり。洋書も大好きなので書き忘れたものがあればガンガン教えてください。アルジャーノンいいよね。
あと魍魎の匣のせいか腰据えて読むような作品あげてくれてる人多いけど、ラノベもキャラ文芸も児童書もなんでも読むのでぜひ好き勝手コメントしてね。メディアワークスとか青い鳥文庫、ケータイ小説までわりとなんでもありです。
この棘まとめ
「小説家の有川浩さん「『抗議します』『反対します』系ハッシュタグは怠惰が過ぎる」 桜庭一樹さん「声を上げた誰一人怠惰ではありません」 https://togetter.com/li/1886301
なんだけど、実名で署名した投書よりも実効性が非常に低い、って話は多分その通りではないかと思われるのね。
「だからもっと有意義な『実名での投書』をやった方がずっと良いのに」って話なら、まあわかるのよ。
でも有川浩は著作やネット上での発言でわかる様に「匿名の自称弱者」とか「気持ち悪いオタク」とかを憎んで軽んじる人なので、「匿名の発言にもっともらしいハッシュタグでなにかやった気になっている馬鹿」を侮辱しないではいられなかったからああ言う発言になったんだよね。
社会運動には下からの積み上げが必要なんだけど、その最底辺をどこであるかと考えるかなんだと思うんだよね。
のめり込んで運動やっている人間には「最低でも街頭でのデモに参加する」「勉強会くらいには参加しているレベルが最低辺」みたいに考えがちだけど、底辺がそこで、それ以下の広がりがない運動は良くても日本共産党、おそらくは現状の新左翼程度の社会的影響力しか持ちえないと思うのよ。
匿名でブログやSNSに意見を投稿する。応援したい政治的ツィートのリツイートや政治的なハッシュタグを付ける、って言うのは本当に簡便でリスクがほとんど無く、それ故に数が集まらないとほとんど意味を持たない行為になるのだけれど、そういう「ほとんど無意味な行動」まで含めて「運動の最低辺」としないと、その運動は社会運動としての力を持ちえないと思うんだよな。
有川はもう一つ、そういった発言者の数を頼んだ運動のあり方自体を嫌い、軽蔑していて、国家が制度的に定めたり、社会での慣例になっている抗議や意見表明の方法(実名での強制期間に対する投書・政治家に対する正式な形での陳情)を踏まない、広範な大衆行動を背景とした圧力で政治を動かそうとする「左翼的な発想」を嫌っているのだと思われるんだよ。
それは著作からも認められる著者の政治的傾向(秩序志向の保守右翼)とも一致するし、それ自体を悪いとは思わない。 思わないけど、俺の大衆運動も大事だと考える左翼的な政治思想とは対立するし、だからこそ桜庭一樹の反論ツィートが出されたのであろうよ。
有川浩は右翼だけれど、ネットウヨクと呼ばれる右翼の一派に対しては「尊敬に値する部分の見当たらない、オタク臭い下等右翼」と認識して軽蔑している、って構造があることを理解することも大事。
ネットウヨクに限らないけれど、大衆的な右翼運動は既存左翼の大衆運動のやり方を取り入れてて、その意味では左傾化しており、有川はその左傾化を憎む右翼である、って言い方も出来るのかも知れない。
けっこういい感じに分厚かったけど、半日没頭して読んでしまった。
来月辺りに広瀬すずと松坂桃李の主演の映画が公開されるし、TSUTAYAに行けば売れ筋ナンバーワンとしていっぱい平積みされているので、わざわざ私が紹介しなくてもいい気がするが……。
著者の凪良ゆう先生はBL小説家としてデビューした人気作家。数年前からBLレーベル外の小説も書くようになった。『美しい彼』『わたしの美しい庭』『滅びの前のシャングリラ』など著書多数。
主人公の更紗(さらさ)は、風変わりな両親に愛され、自由奔放で健やかに育っていた。だが、平和な日々は突然瓦解してしまう。天涯孤独となった更紗は伯母の家に預けられたものの、普通の家庭に馴染むことが出来ない。居場所のない彼女は放課後、独りきりで公園に行き、ベンチに腰掛けて読書をして時間を潰すようになる。
公園には更紗以外にもう一人、ベンチの常連がいた。更紗の学校の友人達からは「ロリコン」と呼ばれる、痩身の若い男。彼は毎日、暗い目で女児達の姿を追っていた。
更紗が伯母の家での暮らしに限界を感じた夕方、これまで更紗に対して無関心を貫いていた「ロリコン」が彼女に近づいてきて……。
ざっくりと言えば、かつてTwitterとかでフルボッコにされた伝説の『幸色のワンルーム』(はくり)みたいなストーリー。傍目には、猥褻目的誘拐犯に性犯罪被害者が懐いてしまうストックホルム症候群にしか見えないけれど、実は訳ありのお兄さんが虐待を受けている女の子を救い、それをきっかけに強い絆で結ばれ、唯一無二の関係性を築いた二人の物語。
なんか物議を醸しそうな筋書きだけど、今のところ『幸色のワンルーム』のようなボコられ方はされていなさそうだし、これからもそうはならないかもしれない。
ただ、レビューを見てみると、猫も杓子も作者が読んで欲しいように読んでいるというか、「事実は真実とは違うということがわかりました。わたしも無理解から他人を傷つけないように気をつけてようと思いました」と多くの人々が判を押したように書いていて、道徳の時間の小学生じみていて、うすら怖い。一体どうした、みんな真面目か。
まあそれは置いといて。『幸色―』よりは好意的に受け入れられているっぽいのはたぶん、そもそも挿し絵無しの小説なので、女児の可愛い言動や性犯罪被害を描いてもそれを「性的消費」目的で書かれたとは思われ難いというのがあるのかなと思う。それに、物語全体のうち、被害者女児と誘拐犯の暮らしが書かれた部分はそんなに多くない。それより、更紗が事件以来、15年の歳月をどのように生きてきて、現在はどんな風に暮らしているのかに多くのページが割かれている。そして、更紗が性的虐待を受けている場面や、彼女にとってはしんどいだけの性行為の場面は、心情はリアルに書かれても行為そのものは生々しく描写されはしないので、虐待描写のオカズ化は防がれている。そういう意味では安心。
未成年者略取という犯罪に夢見すぎという批判はあると思う。だがそれも罪を犯した文(ふみ)の内心が吐露される章で緩和されるのかな、たぶん。
現実にも起こりうる、子供が被害に遭う犯罪とその冤罪。当事者しか真実は知らないはずなのに憶測が飛び交い、被害者・加害者ともにオーバーキルとなるほど晒し者にされ平穏な日常生活を奪われ追い詰められること。そういうことを物語のネタとして取り上げることの良し悪し。それについて私自身がどう思うのかといえば、良しとも悪しとも言えないなぁという歯切れの悪いことを言うしかない。
個人的な好き嫌いのことをいえば、センシティブなネタほど「逃げの一手」を打たない方が好き。例えば近親相姦もので実は血が繋がっていなかったのでセーフでしたとか、小児性愛者が未成年者略取の罪を犯したと思ったら実はそいつは小児性愛者ではなかったのでセーフでしたとかいうのは、何がセーフじゃ甘えんな! もっと業に正面から向き合えと思う。
『流浪の月』はどうだったかといえば、文は実は小児性愛者ではなかったので、そういうとこは私のあまり好きじゃないものの類なんだけれど。だってたぶん多くの読者が「更紗と文にはこれからは静かなところで幸せに暮らして欲しい」とレビューに書いているのって、文が「安全な人」だとわかったからで、もしもまじもんの小児性愛者だったら同じ感想が出るか? っていう。なんていうのか、結局は罪を軽減して世間並に受け入れられるレベルまで物語引き下ろした感が出てしまうというか。それで事実と真実は違うよねーと言われてもなって感じがする。
だが、文がなぜ自らを偽ってまで小児性愛者のふりをしてきたのか、その事情と心情があまりにも切々と書かれていて胸を打たれたので、私の個人的好き嫌いとかどうでもいいかもう、と思い直した。
事実と真実は違う。人それぞれに抱えているものがあって、それを他人が何も知らない癖に常識だのなんだのを笠に着て叩くことが許されようか? 本作のテーマはそんな感じだが、幼い頃の更紗を育んだ家庭や、大人になった更紗に関わる人々などを、更紗が許容するもの・拒絶するものに、そうは言ってもな……とちょっと疑問が残るようになっているところが良いと思った。
たとえば、母親が無理をせずに幸せであることは大切だとして、更紗は彼女自身の母親や、同僚の子持ち女性の自由奔放ぶりを許容する。ところが更紗の母親と同僚女性は娘の物分りのよさに甘え、自分の恋愛にかまけて娘を放置するという全く同じ行動をする。だが、その結果は大きく異なる。更紗は母親に遺棄されたせいで理不尽に辛酸をなめることになったが、同僚女性の娘は放置されたものの完全には棄てられず、それが切っ掛けで更紗と文という年の離れた友人に出会い、精神的に救われることとなる。同僚女性は更紗と文という協力者を得たお陰で、娘を遺棄せずに自分の人生も大切にできたとも言えるかもしれない。同じ事が起きても結果は違う。これを人それぞれと言うか、そんなんただの運だから、最初からちゃんとしているに越した事はないと思うか。現実としては、周囲から親にかけられるプレッシャーのお陰で子供が守られているという事も、往々にしてあるが……? などと、ちょっと考え込んでしまう余地が読者には与えられている。
一方で、更紗はDV気質のある恋人の亮のことは、交り合うところが一つもないと拒絶し切り捨ててしまう。亮がなぜDVを止められなくなってしまったのか、その理由を知っていながら、理解も共感も彼女は拒否するのだ。母親が我が子を遺棄することには同情すら示すというのに、DV男はどんな事情があれどもダメであるというアンバランス。DV男は許してはならない、そんな奴からは早急に逃げるべきだというのは正しい。ここを違えたら今時の読者には受入れられないのは想像に難くないが、世間へのご機嫌取りとも思えない、あえての偏った描写なのだろうか。と、ここにも悶々と考えさせられる余地がある。
また、他人の無理解によって苦しめられてきた更紗もまた無謬の人という訳でもなく、無邪気な思い込みで発した一言で文を深く傷つけたのに長い間気づかず、文の真実を知らないままであった。それは、読者が安易に更紗と自己を同一視して気分を良くするだけにとどまるのを阻んでいる。更紗が文の真実を知った時、それまで更紗と一緒に被害者意識を持って、解っていない人々を糾弾出来る立場にいたはずの我々は、自分達が解っていない人々と同じ穴の狢であることに気付かされ、ショックを受けるのだ。
後半、読者目線では余裕で予想できる破滅的な結末に向けて、更紗と文が善意やちょっとした人としての良識を発揮したせいで転がり落ちてゆくところは、はらはらしてつい目が離せなかった。それはダメだ、善意でもやったらいけないやつだと、更紗達を批判することを、圧巻の心理描写が妨害してくる。簡単に教訓を得ていい気分になって読み終えることを許してはくれない。それがこの小説のすごい所なのかなと思う。
にも関わらず、レビュー者が判を押したように教訓を得た事ばかりを書くのは、この小説が安易な共感を読者に許さない、熟考を強いてくるからなのかもと私は思った。そう易々とは自分の意見を書くことが出来ないから、かえってテンプレみたいな感想を書いてお茶を濁すことになるのだ。
さて、以下は凪良ゆう先生のBL作品の紹介と、『流浪の月』とテーマが似ていると思う作品とかの紹介。
主人公の平良は吃音を持っているせいで上手く喋ることができず、学校生活の中ではスクールカースト最底辺に追いやられていた。両親に心配をかけることを畏れた平良は、イジメのターゲットにならないように極力目立たぬよう、息をひそめて暮らしている。
そんな平良は、高校二年の新学期、同じクラスになった清居(きよい)に一目惚れをしてしまう。清居はスクールカーストの頂点に君臨し、陽キャの面々に一目置かれながらも孤高にマイペースを貫く、まさに王者である。そんな清居とそのしもべ達から奴隷のようにこき遣われる平良だったが、清居が気まぐれに差し伸べる暴力的な救いの手や、逆境をものともしない凛とした姿勢に心酔する。やがて平良は、清居の一兵卒から立派なストーカーへと進化していくのだった……。
凪良ゆう先生のBL小説のなかでたぶん最も人気のあるシリーズである。イジメの被害者と加害者のカップリング。主人公の平良と、平良に惚れられた清居、それぞれの視点によって相手の人間性や共通の体験についての見方ががらりと変わる。事実と真実は違うとはまさにこのこと。
幼い頃、近所に住む「にいちゃん」に遊んでもらっていた、ゆい。彼はにいちゃんのことが大好きだった。ところがある日、にいちゃんが奇妙な遊びに誘ってきた。怖くなったゆいは、にいちゃんの部屋から逃げ出した。そこへゆいの母親が鉢合わせたことにより、にいちゃんは逮捕されてしまう。
数年後。高校生になっても、ゆいはにいちゃんのことが忘れられず、親には内緒でにいちゃんの行方を探していた。そして遂ににいちゃんと再会を果たしたゆいだったが、にいちゃんはゆいを怨んでいた。にいちゃんはゆいを拘束して動画を取り、それを脅迫材料として、ゆいを呼び出し、苛烈な性的虐待を加えるのだった。
ほんものの小児性愛者でしかも性犯罪者の大人と、ストックホルム症候群な高校生のカップリング。虐待描写があまりにも凄惨で心を折ってくるので、性描写がゴリゴリにあるが抜けないエロ本みたいなことになっている。ヤバい奴に雁字搦めにされてしまった状況での愛は偽りなのかもしれないが、渦中にある本人にとっては本物に見える。その様を綺麗事なしに描写した怪作である。
腐野花(くさりの はな)は、恋人との結婚をもって養父の腐野淳吾の手を離れることになった。花は幼いうちからまだ年若い養父と性的な関係を持ち、そしてもう一つ、誰にも言えない秘密を淳吾と共有していた。
そんな花と淳吾の暮らしを、時の流れとは逆順に、章ごとに語り手を変えつつ描いた物語。最後には花と淳吾の真の関係性が明かされる。
はたからみれば養父から性的虐待を受ける女児の物語だが、やはりこれも事実と真実は違う系。ところが真実は事実よりもどろどろとしていて、なのに純心であり耽美でもあるが、物凄い業の深さでもある。
第1章が花と淳吾の別れの話で、それから章ごとに時を遡っていき、最終章は家族を亡くして孤児になった花が淳吾と出会い養子になるところで終わる。
私は初読の時に、まるでハッピーエンドのように終わるなぁと思ったのだが、再読したら別にハッピーエンドには思えなかったのは何故なんだ。もう一度読めってことかな、ハハッ。
映画にもなっているのだが、映画版はまるで小さな悪女・花に淳吾が狂わされ搾り滓にされたみたいなラストだったから、あまり好きじゃないな。
酷暑の真夏、若い母親は幼い子供達を部屋に置き去りにし、餓死させた。懲役30年の実刑判決を受けた母親を、世間の人々は好き勝手に糾弾する。一体、母親は何故、愛していたはずの子供達を死に追いやってしまったのか? 母親自身の生い立ち、彼女の祖母の代から続く凄絶な負の連鎖とは……。
小説にしか描けない現実があるとして、実際に起こった事件をモチーフに書かれたフィクション小説である。
児童虐待と、世間の人々が助けたいとは思わないタイプの社会的弱者の物語。著者の山田詠美先生は自由な女性の恋愛小説を書く一方で、昔から社会の最下層にひっそりと生きる人々の事も書いてきた。中でもこれはすごい作品。
桜庭一樹さんの「少女を埋める」を今頃読み終えて、いろいろ心を揺さぶられる思いがして、この作者の著作を初めて読んだので、どんな人なんだろうとネット検索をしていて、鴻巣友季子さんの評をめぐって議論が発生していたことを知り、ここにたどり着きました。
お二人の「論争」(?)、ざっとたどってみました。一応決着見たようですが……モヤモヤが残りました。
このモヤモヤ感についてこの場を借りてちょっと書いてみますね。
あなたも指摘されているとおり、桜庭さんは、「テキストにそう書かれていたかのようにあらすじ説明として断言して書いた」ということを強く主張されていますね。
でも、そもそもこの言い方が間違いだと思うのです。
鴻巣評の問題のくだりは、「テキストにそう書かれていたかのよう」に「断言」しているかと言うと、そうは断言できないかな、と。
だって鴻巣評のうち、「テキストにそう書かれていた」部分は「 」で括られていて、問題の部分は括られていませんからね。
そもそも評者の解釈だと読めなくもない。もちろん桜庭さんが言い、あなたが代弁するように、客観的にこんなお話だ言っているようにも取れる。
これは絶対どっちかだとは言えない書き方ではないでしょうか。
だとすると、桜庭さんの「テキストにそう書かれていたかのようにあらすじ説明として断言して書いた」という、この言い方が悪手だったかなーと思うんですよね。
鴻巣さんは、この主張にうまく乗っかって、「あらすじとは解釈だ」みたいな誰にも否定できない話に持っていった、
桜庭さんにとっては、持っていかれちゃった、ということになったかと。
それを踏まえてこの二人のやりとりを見ると、「論争」の決着点としては、鴻巣さんが大人の対応をしたってところに収まっちゃいましたね。
二人して朝日をちょっと悪者にして、桜庭さんも手打ちにしたのかな?と。
鴻巣さんは、桜庭さんが本当に言いたいことは何か、わかっていたと思うんですよね。
わかっていて、そこには対応しなかった。
むしろ相手の言い分の、言わば言葉尻をとらえて反応してみせた。だから「大人の」対応です。
そう、「不誠実な」対応でした。
なぜなら、そもそもあの作品をあの評文のなかにああいう形ではめ込むことが、あの作品にとって圧倒的に不当だからでしょう。
あの作品はあんなものではない力を持っているのに、弱々介護の話ってことにしちゃった、ご自分の読みの甘さ、いや読みじゃないかなー、表現力の至らなさかな?
鴻巣さんは、自覚していたと思います(だって鴻巣さんですよ)。
鴻巣さんは、あの作品を読んで、深く心を動かされた、でもそれを直ちにはうまく言語化できない……でもすごいことはわかる。
評言のなかの「不思議な」という言い方にもそれが感じられます。「不思議」を言葉にするのが評者の役割なのにね。
で、心のどこかに引っかかってて、弱々介護の話を書いているときに、「そうだそうだ」って桜庭作品を取り上げちゃったんじゃないかなー。
「みんなー、頼む、百回読んで」ってことを時評全部使って素直に書けば良かったんですけど、締め切り迫って言葉にできなかったのかな。
どこを切り取ろうと、とにかく取り上げて世に知らしめるだけでも、この作品の助けになる、助けてあげる、応援してあげる、みたいな驕りもチラチラ透けて見えます。
この作品にいち早く注目した私、読み巧者よねーみたいなのもあるかも。
(いや、鴻巣さんぜんぜん嫌いじゃないんですよ、私は)。
私は、あの桜庭さんの抗議は要するに、「そんなふうに読み取らないで!ぜんぜん違う!」ってことだと思うんです。
問題の本質は解釈のなかみなんでしょ。桜庭さんご自身も、ツイッターで、そういう怒りを垣間見せていますよね。
「わたしの懸念は、私小説として発表されたこの作品の評で、……」
でもこの作品は私小説としては発表されていないんですよね(鴻巣さんは「自伝的随想のような」って勝手なこと書いてますけど)。
『文学界』の当該号のどの頁にも「私小説」って書いてないもんね。
で、まあ、百歩譲って「私小説」だとしたらどうだと言うんでしょう?
西村賢太さんがどこかで、私小説だからって、書いてあることが全部事実だと思う読者はバカ、って言ってた。
でも、あんなふうに、とてもナイーブな書き方をしてしまう桜庭さんの思いもジンジンと伝わるんです。
何かこう、わが身の血と肉を自分で食って吐き出すような、そういう格闘の末の作品なんだろうなー、
そういう格闘を、あんなふうに一つの作品に言葉で築き上げるってすごいなー、
それを「私小説」って言ってるんですよね、きっと。
そしてその格闘の焦点である母親との闘争/和解(?)のギリギリの物語の、
その当の母親についてあんな切り取られ方をしちゃうとなー、そりゃ怒るよなー、って思う。
でも、怒りの焦点は、自分の母親が虐待人間って大マスコミで公言されたことじゃないよね
(私小説と自任して書いているなら、こういう反応に対する覚悟は少なくともできていないとね)。
なにその読み方、バッカじゃないの? ぜんぜん違うし、って、桜庭さんはそれだけ言えば良かったのでは?
『文學界』2021年9月号に掲載された桜庭一樹「少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞の文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。
この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章を投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者の見解が掲載された。
この記事では総括として、両者の見解を検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭と鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリーの仕様でURLの掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。
両者の主張は、以下のように整理できるだろう。
桜庭:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。
鴻巣:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。
桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈の自由〟を奪」うことを挙げている。
一方で鴻巣は自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説の可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。
では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである。
鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品の創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である。文学の解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分が想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないのである。解釈は批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである。
鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解の文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣は見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。
繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ。私小説もフィクションだからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣が誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。
繰り返しになりますが、
「作品からの読み、想像であり、実際のテキストには書かれていないストーリーを、主観的な読みではなく実際にそう書かれていたように紹介する」
のは一線を超えていると思ったのです。
作者だからではなく、他の方の本でも同じように疑問を持ったと思います。
(この部分です) pic.twitter.com/vFmVBO6fhC— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
いえ、また繰り返しになりますが、どう評しても自由とは言っておらず、
「読まれ方は自由だが、実際の描写にはないストーリーを、読み、想像で考えたとき、それを主観的な解釈として書くのはよいが、実際にそう書かれていたように客観的事実として書くのは一線を超えている」
と考えています。(続)— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。
この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授の日比嘉高(モデル小説研究のフロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在の人物をモデルに』と事実に立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実の事実」の問題を切り分けている。
この記事でご紹介いただいたのですが、わたしの原稿に〝介護中の虐/待〟は書かれておらず、またそのような事実もありません。わたしの書き方がわかりづらかったのかもしれず、その場合は申しわけありません。影響の大きな媒体であり、とても心配です。否定させてください。https://t.co/HdC6Cb8g7b— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 24, 2021
(強調は引用者)また今回は「自伝的随想」としてご紹介くださったこともあり、登場人物を離れ、実在の家族に言われなき誤解が降りかかることを危惧したため、わたしはこのように必死になって訂正をお願いすることになりました。それは確かに、評者の方には関わりのない事情ではありますが…(続) pic.twitter.com/8rixc3Ot4c— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
桜庭の実存にとって「現実の事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭はあくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである。飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家の動機ではなく、作家の根拠にフォーカスするべきである。この記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。
とはいえ、桜庭の見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。
今回の一件に際して、文芸時評の不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭もツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣も見解において「批評」という言葉を用いている。
だが、文芸時評は批評でしかないのだろうか? 文芸時評は英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル的特性があるのではないか?
文芸時評が新聞という巨大メディアに掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭は見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり、文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。
文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭は新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷の鳥取で一人暮らす実在の老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実の現象のレベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか?
以上の論点を踏まえて、時評担当者の見解を検討することもできるだろう。
桜庭の見解は冒頭、「私の自伝的な小説『少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身や夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家の藤田直哉が端的に指摘しているのでツイートを引用しよう。
「夫婦が深く愛し合っていたかどうか」を確定する根拠は、虐/待があったかどうかを確定する根拠と同じぐらい、作品のテクストにはないのではないかな。母親がそう言っている、語り手がそう推測したようだ、というところまでは書いてあるが、しかしそれが「作中の事実」かどうかはサスペンドじゃないかな— 藤田直哉@新刊『シン・エヴァンゲリオン論』河出新書 (@naoya_fujita) September 7, 2021
つまり、あらすじに書いてよいのは、「作中の事実」であるべきではないか? 今回であれば、あくまで一人の人物の視点に立って、「私の自伝的な小説『少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか。言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列がテクストに書いてあるとはいえ作中人物の「主観的解釈」なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか。
あるいは、そもそも「事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分は幸せだと信じ込みながらオンラインサロンの主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せな生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せは事実ではなく評価だからだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか?
最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。
まず前提として ”わたしの原稿に〝介護中の虐待〟は書かれておらず、”という、一連のアレのしょっぱなに位置する桜庭一樹の主張は正しく、件の夫婦が老々介護であったというのは分かるようになっているが、虐待と読むのは明らかな誤読であろう。
で、内容は多岐にわたっており、田舎の人々の行動や東京での自分の現在の仕事・交友関係、山陰の伝承や風俗など題材が描かれている。
当該シーンはざっくりいうと「人間の記憶はあてにならんよ」というテーマの一つのクライマックスシーンなのだ。
桜庭一樹の投影である主人公の冬子は当然、自分の都合のいいように記憶を改竄している母親に呆れ、批判的な目を向けているのだが、
桜庭一樹は「自分の書いたことが唯一の真実であり鴻巣友季子の書いたことは間違い」と断言できるし、鴻巣友季子は斜め読みした無能の売文屋と断言できる。
冬子が自分の都合のいいように記憶を改竄しているかもしれないという自省も畏怖も気づきもそこには存在しない。
「わたしの原稿に〝介護中の虐待〟は書かれておらず、」は事実としても、そもそも、なんで「そのような事実はありません」と断言できるのか。
24時間365日見てなけりゃ虐待してないとは断言できないはず。 現実の老人保健施設における入居者虐待だって見てないところでされてるわけで。
作中の冬子はほとんど鳥取に帰っていないんだ。年末年始に帰省しても実家には夕食食べに上がるだけで、食べ終わったら夜はホテルに泊まってると記述されている。
そういう意味で、鴻巣友季子が言うように老々介護の間に虐待があったかもしれない、というのはまったく可能性がないことではない。
冬子が自分の都合のいいように記憶を改竄しているかもしれないという自省も畏怖も気づきも存在しない。
読者が桜庭一樹と自分を同一視し「ああ、ジジイやババアはしょうもない。あいつらは愚かでズルいな」と軽蔑するその場所は、嘘松読んでスカッとするのと大して距離は離れていない。
「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」(https://anond.hatelabo.jp/20210826203711)の著者です。
非本質的な、《誤読か否か》を議論するコメントが依然として多いので、記事を改めて補論を書きます(文中敬称略)。
元の記事では鴻巣の意見から矛盾を示すために使ったまでで、「解釈」という言葉を本文で一切用いずとも問題を整理できるし、他にも鴻巣の矛盾を指摘できるのでそうします。
「作中に描写がないこと」を「作品に書いてあるかのように読める断定で書いた」こと
である。
そしてこの点について鴻巣はスルー、もしくは無理筋の意見を出しているのみである。
①27日13時39分
いえ、また繰り返しになりますが、どう評しても自由とは言っておらず、
「読まれ方は自由だが、実際の描写にはないストーリーを、読み、想像で考えたとき、それを主観的な解釈として書くのはよいが、実際にそう書かれていたように客観的事実として書くのは一線を超えている」
と考えています。(続)— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
②27日16時43分
繰り返しになりますが、そういった解釈の豊かさ、多様性が大切である一方、今回の
「直接描写されていないことがあたかも書かれているように掲載されてしまった」
は異なる問題だと思います。
ここは、どうも平行線で、同じやり取りをずっと繰り返しているので、そろそろやめたほうがよいかなと。— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
桜庭自身は鴻巣との対話をやめたが、外野はこの点について把握しておくべきであろう。
Aさんが重病にかかり、病院のICUにいる描写がある。
場面が転換して、葬儀のシーンになり、棺が運ばれていく。
Aさんの友人が泣いている。
「Aは死んだ」という明示的な記述はなくても、「死んだ」と理解する合理的な理由があります。
あらすじとして「Aは亡くなり……」と書くのはNGでしょうか?— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 27, 2021
このツイートが議論として成立するためには、「描写がある」「明示的な記述はなく」という仮定は客観性を持たねばならない。「主張が正しいか」という検討以前の条件である。
よって鴻巣は、桜庭が言う「直接描写されていないこと」は、主観ではなく客観としなければならない。
④27日11時6分
なにが作中に有り、なにが無いか、その判断もまた作者桜庭さんの主観にすぎない、ということはお分かりいただけないでしょうか。つまり、あるひとりの読者=作者の主観だということです。「読解の自由」はお認めになると。それは作中になにが書かれているかを決める自由でもあるのではないでしょうか。— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 27, 2021
お分かりいただけただろうか?
鴻巣は桜庭の言う「直接描写されていないこと」を「なに」という言葉に置き換え、「あるひとりの読者=作者の主観だ」としている。この矛盾について解決しない限り、鴻巣の意見は無理筋であり、鴻巣は桜庭と議論する土俵にも立てない。
なお、鴻巣は主張が成立しないのだから、厳密には「平行線」ですらないだろう。
テクストに「ない」ことを「ある」かのように書いた(ことが検証できる)あらすじなどという珍妙なものを読む機会がないので、そのようなあらすじを目にしたのちにいざ対象のテクストを読み始めた者がどう反応するのか、筆者には確たることは言えないが、あらすじに書かれた鴻巣の解釈だけを前提とし、桜庭の提示した(あるいは以下で私が説得的に示す「真っ当な」)解釈に思い至りもしない、という可能性はあるだろうと考える。
それは「読み」が閉ざされたことを意味する。なお、「どこかでおかしいとわかるはずなのでそうはならない」と言うのであれば鴻巣の書いたあらすじが頓珍漢だと認めることになる。
また、鴻巣はEvernoteでは「作品紹介のあらすじと解釈を分離するのはむずかしいことです」と述べていたが、「むずかしいこと」ではなく「不可能な」ことにすり替わってしまった。
たいへん明快なご解説を拝読しました。今回、作者は「あらすじと解釈の分離」という一点に要請を収斂されました。仰る通りそれ自体は不可能なのですが、「読む」という行為この根本的なことが、意外にも一般に理解されにくいようなのです。— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 27, 2021
こうしたすり替えをわざとやっているのであれば大した度胸だと感心する。同時に、不誠実な書き手だと評価する。
ついでなので、鴻巣の読解が「曲解」であることも示します。(「誤読」とは言いません。桜庭が使わないので。)
不仲だったころもあったよね、と遠慮がちに聞くと、母は「覚えてない」と心から驚いたように見えた。離婚の話が出たことなど具体例を挙げてみるが、「そうだったっけ?」と不審げになる。それから急に目を光らせ、「人の記憶って、その人によって違うね?」と言った。
瞬間、母とわたしが同じ過去の〝ある時〟……七年前に最後に会った時のことを思いだしているとわかったが、いま対立するのは不毛だと、「ふーん……?」と目をそらした。
それから、
「もしかしたら、病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってたんじゃない? この二十年は病気という敵と一緒に戦っていて、関係が変わったとか」
と言ってみると、母ははっと息を呑み、「そう、その通りだ」と大きくうなずいた。
(桜庭一樹「少女を埋める」https://note.com/sakuraba_kazuki/n/ne3b7aa29cd58)
「不仲だったころ」は「病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってた」を指すのではなく、介護していた「この二十年」を指すというのが鴻巣の読解です。
この読解を支持できる方は根拠をつけて教えてください。「病気になる前」であるという解釈をあえて却下する理由込みで。
なお、この点についてのツイートを鴻巣はなぜか削除していますが、ツイートはこちら(https://twitter.com/maffumi/status/1431506303784943616?s=20)へのリプライの形でした。(スクリーンショットを見たければTwitterに上げても「私は」構いません。)
さて、(桜庭も言及している)「母は「覚えてない」と心から驚いたように見えた」に呼応する、
いよいよ蓋を閉めるというときになって、母がお棺に顔を寄せ、「お父さん、いっぱい虐めたね。ずいぶんお父さんを虐めたね。ごめんなさい、ごめんなさいね……」と涙声で語りかけ始めた。「お父さん、ほんとにほんとにごめんなさい……」と繰り返す声を、ぼんやり寄りのポーカーフェイスで黙って聞いていた。
内心、(覚えてたのか……)と思った。
(Ibid.)
の「内心、(覚えてたのか……)と思った」も、「不仲だったころもあったよね、と遠慮がちに聞」いたのも、「もしかしたら、病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってたんじゃない?」と言ったのも、すべて〈わたし〉なので、「不仲だったころ」をいつとするかによって、母が「お父さんを虐めた」のがいつだったと〈わたし〉が考えているかも決まる(と考えるのが普通だと思いますがどうですか?)。
当然のことですが念のため言っておけば、実際にいつ「虐めた」かは、作中世界では〈母〉のみが把握し、〈母〉の心中に作品の視点は入り込めない。よって問題となるのは〈わたし〉がどう考えているかを、〈わたし〉視点の文章で解釈することです。
私は「不仲だったころ」を「病気になる前」としか解釈できません。よって「虐めた」のも「病気になる前」としか解釈できません。
困りました。私の読解力がないんでしょうか。解釈の自由を標榜する皆様、お知恵をお貸しください。
「テクスト解釈の可能性は無限である」と言っても、それは「解釈の対象、つまりは焦点を当てるべきもの(事実やテクスト)が存在しない」ということにはなりません。「テクスト解釈の可能性は無限である」と言っても、それは「どのような解釈の試みもうまくいく」ということではないのです。
(ウンベルト・エーコ『ウンベルト・エーコの小説講座:若き作家の告白』、和田忠彦、小久保真理江訳、筑摩書房、2017年、48頁)
朝日新聞で翻訳家・鴻巣友季子氏が連載する文芸時評に、取り上げられた小説の作者である桜庭一樹氏が抗議の声をあげた(以下敬称略)。
争点となっているのは、「弱弱介護の密室で」母は「夫を虐/待した」という記述である。これが、(テクストに書かれた/現実に起きた)事実であるかのように断定口調で書かれていることに、桜庭は懸念を示す。
抗議を受けて、鴻巣は時評について補足するEvernoteを公開した。
8月の朝日新聞文芸時評についてです。https://t.co/xI1mbbGQr4— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 25, 2021
その後、Twitterで両者はやりとりし、当該の記述が解釈であればそれは批評として受け入れられること、解釈が読者に開かれているという点については意見の一致を見たが、桜庭はなおも以下のように批判する。
鴻巣友季子さんからご意見の表明がありました。わたしは、これは無理のある詭弁だと考えます。自分の解釈とはっきり書かれていることを混同したまま、まとめてしまっています。不誠実かつ未熟な評だと思います。https://t.co/rVv04gScKn pic.twitter.com/VUbZNXnd1j— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 25, 2021
すなわち問題は、
①「作品紹介のあらすじと解釈を分離する」ことはどれほど「むずかしい」(鴻巣Evernote)のか
また、
の二点である。
以下、この二点を検討するが、最初にこの件に関する筆者の個人的な感想を示しておけば、今まで自らの未熟さを自覚せずに仕事を続けてきた鴻巣の不幸と、巻き込まれた桜庭に同情する。
また、鴻巣の解釈がどれだけ妥当であるかについては議論しない。
あらすじを書こうとしていたのだが意図せず解釈が混入してしまった、という事態は、なるほど確かにありそうである。
要約に際して、物語内の複数の出来事や行為を紹介する必要が生じる。そこで出来事Aと行為Bを結びつける際に、「主人公はAによる寂しさからBに及んだ」などと(うっかり)書く。
ここで、対象のテクストに主人公の寂しい感情について明確な記述がない場合、これはあらすじと解釈が分離できなかった例だと言える(本当は憤りからかもしれない)。
小説に明記されていないからといって「Aが起こった。主人公はBした」とだけ書くのは文章としてあまりに不自然なので、それを補おうとして解釈が入ってしまうというのは大いにありうるだろう。こうした場合、分離は「むずかしい」。
またこのとき読者は、「寂しさ」が対象のテクストに書かれているのか、評者の解釈なのか判別できない。
一方、解釈によって生み出された記述であるということを評者が自覚している場合に、「これは解釈だ」と読めるように書くことは容易である。
「〜〜であろう」「〜〜と思われる」「〜〜のではないか」「〜〜が見て取れる」「〜〜のようだ」「〜〜からか」など、日本語には断定を避ける言葉遣いが様々あり、あるいはストレートに「〜〜と評者は読んだ」などと書くことができる。
最後の例は稚拙に映るかもしれないが、プロの書評家の文章にも頻出する(具体例は省く)。
さて、鴻巣は当該の書評文について、「そういう物語として、わたしは読みました。ここが、作者の意図と違うと指摘されているところです」と明記している(鴻巣Evernote、強調原文)。
自らの解釈だと自覚しているである。(ところで、「作者の意図」という言葉を桜庭は使っていない。)
そのためこれは「詭弁」であり、断定的な言葉は避けられたはずだ、と桜庭は指摘している、のだろう。
意図せぬ解釈の混入はありうるとはいえ、解釈の産物であると自覚した文章について、「作品紹介のあらすじと解釈を分離する」ことはさほどむずかしくないと思われる。
それが「むずかしいこと」だと感じるのであれば、それは単に書く力に乏しい(「未熟」)からである。
では、解釈があらすじに混入した場合、何か不都合が生じるのであろうか。特に不都合がないのであれば勝手にやればよいだろう。
あらすじに解釈が入っていると何が困るか。
当事者である桜庭は、「わたしの懸念は、私小説として発表されたこの作品の評で、ある人物が「病人を介護し虐/待した」と書かれたことにあります。そうも解釈できる、ではなく、あたかもテキストにそう書かれていたかのようにです」とツイートしている(https://twitter.com/sakurabakazuki/status/1430736782979596290?s=20)。
ここでは、「作品が私小説であること」が重大なファクターであるかのように受け取ることも可能であろう。前掲ツイートの「またそのような事実もありません」という記述からも、現実にそのようなことがあったか否かが問題とされているようにも読みうる。
もちろん、私小説に固有の問題は別個に検討すべきものであろうが、本稿では、作品が私小説であるか否かによらず、鴻巣の弁明が妥当性を欠くものであることを示したい。
(追記:実際桜庭個人の懸念としては現実としての事実にあるのかもしれないが、続くツイートにある「問題としているのは「評者が読み解いた解釈を、テキストにそう書かれていたかのようにあらすじ説明として断言して書いた」こと」をここではこの問題の本質として考える。その意味で、「わたしは一つの「小説」として読んでいますので、作者のご家族に関する「事実」については切り離して考えさせてください」[鴻巣Evernote]という鴻巣の主張に乗る)
解釈である部分についてあらすじとして断定的な書き方をすれば、それは小説の「読み」を閉ざしうるからである。
前節で扱った例で言えば、「寂しさから」とあらすじにあれば、それは対象のテクストに寂しさが理由である旨が書かれていると読者は「読んで」当然である。この時、「憤りから」であるという「読み」の可能性は閉ざされる。
すなわち、解釈は解釈であると自覚した上で断定的な言葉を選択した鴻巣の行いは、小説は多様な「読み」にひらかれているという鴻巣の信念と矛盾しているのである。
「小説は多様な「読み」にひらかれている」べきであると(は明確に書いていないので本当は思っていないかもしれないが)思うのなら、「むずかしいことですが、作品紹介のあらすじと解釈を分離する努力をするべきでした」と続くはずなのだ。
鴻巣にとって「作品紹介のあらすじと解釈を分離するのはむずかしいこと」かもしれないが、それを果たせないことにより、作品の「読み」は閉ざされる。
評者自身の読みの自由を主張し、それを反映させる(無能力により反映してしまう)ことにより、他者の読みの自由を奪うことは、単純に暴力である。「書き」に注意すれば避けられたはずの、いわば過失致傷である。
それは評する作品を損傷し、また、時評の読者(の能力)をも傷つけうるだろう。
書くこと/書く者は、読むこと/読む者に対してこうした暴力を為しうる。
「自分が文章をどう読むか」ではなく「自分の文章を読んだ者がどう思うか」まで思いを至らせることができて初めて、自らの読みを主張する正当性が備わるのではないだろうか。
ラノベとは一体何か、の定義論が2021年ですらいつまで経っても定まらないが
原因はレーベル論以外の定義が全て無限の例外判定処理が必要なクソ理論ばかりなせいで
集英社が人間失格に小畑 健氏が挿絵を描いたりと、一般的な文庫にもイラストが普通に使われたりする現代ではとても実用に耐えない。
会話が多いだの、描写が多いだの主観的すぎてあいまいな話もそうだが、
当然、一般小説でも純文学でも作風として使用してくる人間はいくらでも出てくるし、
内容派
もっともらしいことを言っているが、実のところ俺が考えたラノベに合うのはこれだ!と次々認定してるだけである。
もっともらしいことを言っているが、実のところ俺が考えたラノベ合うのはこれだ!と次々認定してるだけである。
作者に依存する論
桜庭一樹(直木賞)や有川浩(一般向けでヒット)がぶっ壊してくれたので使う人はいなくなった。
出版社が出すブランド名(電撃文庫、角川スニーカー文庫、富士見ファンタジア文庫)で出版社側がラノベとしてマーケティングするものがラノベ。
そもそもの語源からして、レーベルをラノベとして認定しているのであり、原点回帰ともいえる。
出版社側も当たり前に認識するようになった、ライトノベルという言葉を出版側が認定しているかと絶対的に定まる基準。
ライトノベルという言葉は、あくまでマーケティングに使う用語であり、定義する側を販売者側に委ねるのが正しい。
じゃあ、「涼宮ハルヒの憂鬱」が子供向けのレーベルの”角川つばさ文庫”や”角川文庫”から出ているのはどうかという話になってくるが
当然それらは子供向けの文芸や一般小説であってライトノベルではない。
ラノベを読む人に向けて売っておらず、子供や一般といったターゲットに向けて売っているから。
仮にだが、「涼宮ハルヒの憂鬱」の内容が一番最初に芥川賞を受賞して出版されてたとしたら、純文学になっているだろう。
「推し、燃ゆ」も挿絵つけてラノベレーベルから出版すればそのままラノベとしてとして売ることができるんじゃないだろうか。
そもそもとして小説のカテゴライズ自体がそんなもんだ。純文学だと売り出して大枠で一致していれば純文学だし、
ミステリ小説だと出して作中から回答を導出するのが不可能なズルをしていようがミステリだ。
あくまでターゲット層に向けて似たカテゴリの本が集まってますよーと宣伝するための区分けでしかないので
非ラノベレーベルにラノベと特徴が一致するモノがあってもいいし。
ラノベって言葉から連想されるジャンルのイメージがあると思うが、それこそがブランディングであり、ラノベレーベルとして売り出す理由そのものである。
どの職にも特有のストレスというものはあるだろうけど、小説家にもつらいものがある。
それは仲間作家の存在だ。作品と著者人格は切り離すべきだとは思いつつも、ああまでつまらない小説で人から金を取ろうとする神経を疑ってしまう。
そしてつまらない小説に面白かったですよ~とか言うのは耐えられないのだ。いやずっと耐えてはきたけど、そろそろHPがなくなりそうなのだ。
せっかくの増田だしストレートに思ってることを書いてストレスを発散しよう。
カスみたいな中身のない小説で金を稼ごうとするな!!!!!!!!!
もっと内容に技巧を凝らして価値のある本を作って読者を感動させろタコ助!!!!!!!!!!
少なくとも人の感情くらいウソをつかずに正直に書けよ!!!お前らの小説のキャラクターうそばっかなんだよ!!!!!!!!!!!
書いた。海に向かって叫んだわけではないのでまったく気分は晴れないけど、それはともかく。
無論シビアな業界であり、話の質よりもパッケージを含めたマーケティングに精を出す方が職業作家としては大事だということはわかりつつも、どうしてもそういう風に思ってしまうわけである。人柄だけ取ったときは本当にいい友達なのでなおさらつらい。
最適解は知り合いの小説はそもそも読まないようにすることだと思う。これが精神衛生上一番よさそうだ。でも向こうが読んでくれているときに申し訳ない気持ちになるし、今まで読んでいたのに急に読まなくなったら変に思われるだろう。
もしくは自分が本当に好きだと思える小説を書く人にだけ会うようにするか。いやそれは無理だ。そもそもこの年になって新しく読んで面白いと思える小説なんて百冊に一冊あるかないかだ。
中にはかなり割り切れている人もいて「読みマシタ面白かったデス」とbotのように答える作家もいる。それがいかに内容の薄い感想であったとしても、受け取る側もなんとなく察しているから特に踏み込んできたりはしない。これは大人のマナーみたいなものだろう。そもそも人に読んでもらえるだけありがたいというのは変わらないので、読んでもらった上にさらに面白いという感想まで求めようとするプロは少ない。というか少なくとも私は見たことがない。
いい年こいて知り合い以上のトモダチを作ろうとしている自分が悪いのだろうかと思うときもある。割り切った付き合い方ができる人は「知り合い」を作るのがうまくて、本音で話す相手は奥さんとか旧来の友達とか編集相手に限るんだろう。非常にオトナ的だし賢いといえる。そういう人は作家間のコミュニティもうまくいくし色々な場所に呼ばれて人脈が広がり、仕事が増えてよりマーケティングもしやすくなるのかもしれない。とするとやらないほうがアホだな。私はきっとアホなんだ。そして不器用なんだ。でもこういうことでうじうじ悩むような人間性だから作家になったんじゃないかとも思う。
一流作家の桜庭一樹さんは、新人作家に対するアドバイスとして「群れるな」と言っていた。きっと色々なニュアンスを含んだ言葉ではあるんだろうけど、この場合でも当てはまるに違いない。
いい小説はいいと思い、わるい小説はわるいと感じる。そうしてはっきりと色分けをしないことには、自分の書いたものがいいか悪いかもわからなくなってしまう。
作家にありがちだが、私は言霊の存在を信じている。言っていることはいずれ現実になってしまうという恐ろしいシステムを。
私がたとえウソでもつまらない小説を面白いと言いたくないのは、それを口にしてしまったら、いつか遠い未来で自分が不安になるとわかっているからだろう。いずれ思い返したときに、あれを面白いと口にした場面が蘇ってしまい、きっと自信が持てなくなるに違いない。価値判断とは難しいものだ。
人付き合いに辟易して会社をやめたときも同じようなことを考えていたな。正直でいなければならないというのもコミュ障の持つ欠陥のひとつだ。
結論は出ないが決めた。
少なくとも、今後新しく会う作家の小説は読まないようにしよう。
既に知り合いの作家の新刊は? どちらかというとこっちの方が問題だけど。
読む時間がないと言い訳できるほど忙しい人間じゃないことは周知の事実だ。
本当に友達だったら、あるいはこういった本心を話しても大丈夫なのかもしれない。でもやっぱりそんな域ではないのだろうな。
うーん、困ったよなぁ。
読んで正直に今回は微妙でしたって告げる方がいいのかな。少なくとも私だったら正直な感想をもらえた方がずっと嬉しいな。
そうするか?
https://anond.hatelabo.jp/20180124221748 を読んで現場は大変なんだなと同時にそういうものを書き込んでくださった増田さんに感謝している。
大変そうだけれど、無理しすぎず、ほどほどのところで過ごして欲しい。
それだけじゃ何なので、掲題通りである。
一時期入り浸っていたことがあるので記憶のある限り書いてみる。
小学校は何回か転校していたため、正直各学校の独特の匂いとやけにじめっとした、あるいはやたら日当たりの良い図書室の壁に添って作られた本棚を思い出す。図書カードの置かれたあのカウンターだとか。おとなしそうな図書委員だとか。似たような雰囲気だなあと思っていた。
低学年の頃は授業時間に行く以外では寄り付かず、気が向けば学級文庫か自宅にある本を読んでいた。
その頃好きだったのは大判で、フルカラー写真が多く載っていたこまごましたものが特集されていた本だった。
ただ眺めているのが楽しかった。シリーズで何冊かあったが、色で分類されていたと思う。漢字で書かれていたテキストの部分も気が向けば適当に読んでいた。
不遜な子どもだったので、およそ感想文の類を提出したことがなかった。課題図書もふーんと眺め一度だけ気になったものを借りたか買ったかした程度だった。
自宅では主にオカルトに凝っていた時期だったと思う。魔女とか怪談とかそういうものを読み漁っていた。
なんとなく耳をすませばを思って、半年かけて図書室の本を全部読んでみた。伝統ある学校に比べたら冊数はそれほどでもないと思う。普通教室3部屋程度。読んでみたが読んだはずの本でもおぼえていない本が結構ある。
きっとその頃は読み切ることが目標だったのだろう。それでもいまだにその頃出会った作家で読み続けていたり、何冊も装丁違いで購入した本があることはひとつの宝物だと思っている。
あとすべり止めで受けた私立高校の入試で読んだことのある作品が題材だったのも愉快だった。
そこから高校までで多いときは一晩に文庫8冊。一番かかったのが篠田節子氏のハルモニアで2日だったと思う。
なんとなーく早く読めるようになったりもした。あの数年間は登下校時にも本を手放さなかった。
勉強はあんまりしなかったけれど、勉強せずに中学2年で漢字検定2級が受かる程度には知識も増えた。
当時は図書カードがあったので、誰がどの本を借りたのか分かるのも面白かった。天沢聖司にも月島雫にも出会えなかったけれど。
ここ数年で文庫化された書籍も当時はハードカバーで、月に10冊前後は購入されていた。それを片っ端から読みつつ、すでにあった蔵書も読んでいた。
多感なお年頃なので、性描写のあるものに出会うと成人指定の境界ってどこやねんと思ったりしながら読んだ。(し、本屋に行けば女性向けのBL小説は性描写があっても普通に買えた。謎だ。凝り性なものでそちらもだいぶ読んだがこちらは卒業したかもしれない)(コバルト文庫でも結構あると思う)(基準が謎だ)
野中柊氏のダリアとか、ドキドキしながら読んだ。今思えばかわいいものだ。
後宮小説なども読んで良いのかなと思いながら読んだ。
地元の公立高校で初めて、司書さんという存在を校内に認識した。いつも白衣をまとった女性で、図書館以外にもいるんだなと思った。その学校では希望があればCDなども購入していた。
アングラっぽい写真集や当時走りだったライトノベルを一式入れてくれたりもした。(その後、メディアミックスされた各作品の初版本が揃っていたため、数年後盗難にあったそうだ。嘆かわしいと同時に初版本に価値を見出す感覚がまだあるのだなと感じた)
同時に、遠野物語をはじめとする民俗学やら薔薇の名前やらを借りまくっていた。
学業に励む生徒にとっては、赤本がずらりと並んだ赤本専門の小部屋があるのも魅力だったかもしれない。
その頃は読んだなあというほどは読んでいないと個人的には思っている。
ただ、気になっていた本たちをするする入れてくださった司書さんには当時も今も感謝している。
森博嗣氏のシリーズもいくついれてもらっただろうか。講談社ノベルスがやたら充実していた。
お小遣いでは追いきれない本たちをあの時期に読めたことには感謝しかない。
ちらほらある小説もだいぶ前で時が止まっている。
大型書籍は比較的充実していたが、借りるには重いので閲覧のみとなる。
専門書も同じく時が止まっていた。
半地下で静かで独特の雰囲気が好きだったけれど、およそ学業のための空間ではなかった。
卒業後も利用できるということだったが、生憎地域の図書館の方が便利であった。
今につながる本の思い出。
急接近したり、離れたりしつつも、どんな格好であれ図書室・図書館は存在してくれればいいなと思う。
読む子は何をしても読むし、読まない子は読まない。
ひどいようだがそんなもんだよなと思う。
あるときブログで家族から勧められた本が という記事を見て、自分の家ではない習慣だなと思った。
家の中にある本は読みたいだけ読んだ。隔離されているような本も気になればこっそり読んだ。
教育機関にあったら驚かれるかもという本もリクエストして入れてもらえれば読んだ。
面白かった本を教えてと訊かれたら100冊くらい列挙できた(今はどうだろう?)
それだって、きっかけは耳をすませばだ。(個人的な気質はあるにせよ)
こういう本が読んでみたいなと思って書いたこともある。
作文はからきしだけど、幸か不幸かある程度蓄積があるので大学教員には高評価だったりもした。
もうちょっと器用だったら桜庭一樹氏のようにアウトプットにも使えたかもしれないが、そこに愛が足りなかった。
ルールのあるなか、大変苦しんでらっしゃる元増田さん越しに、学生時代、本を介してお世話になった司書さん司書教諭の先生方には感謝を伝えたい。
思えば、落ち込んで図書室にこもっていたような日もあったと思う。
期限通り返せなくてお手間を取らせたこともある。申し訳なかった。
本気でかっこいいとおもってやりました。実在の人物や作品に関係はありません。
・死屍の綾なす四ツ辻の、獅子も恐れる行く人の、知らぬは読者ばかりなり、綾辻行人ッ!
[中範囲に防御無視のダメージ(ダメージ量は詠唱者のHP残量に反比例)+範囲内の味方のDEFアップ]
・我が産みし死靈は天上天下に及ぶものなし! 開け、聞け、探偵三道宝階ッ! 麻耶雄嵩ッ!
[フィールドの天候がランダムに変化+各敵キャラの装備をランダムでひとつ破壊(防具や魔法による回避不可)]
・私の城は美しいお城、私の頭文字は完全なる円にして王の証ッ、死ぬまで踊れっ、舞城王太郎ッ!
・実るほど頭を垂れる稲穂かな。不燃にして不稔に非ず、エリシャの奇跡の裔と知れッ! 米澤穂信ッ!
・円心に居して惑うことなし、今宵ささめくあなたの挽歌、参ります、円居挽ッ!
・連なる城は堅固にして絢爛、三度否まず三界を紀(おさ)むッ! 連城三紀彦ッ!
・その桜の木は一本でした。桜の木は満開でした。咲いて撃ち抜けッ! 桜庭一樹ッ!
[敵全体にチキン]
・清涼のうちに流水は苔むさず、命育みメフィストフェレスの女媧とならん! 清涼 in 流水ッ!
・月光の遊戯、双頭の悪魔。国名を端から君に聞かせよう…… 英明なる都は祝福に満ちている。今出(いまいず)る川より通るがいい――アリスト(高貴なる)アリス、有栖川有栖!
[敵全体にストップ]
・朝明に白む山よッ! 一なる愛を識る永遠よッ! 枕木に憂う士(さむらい)よッ! 三位を全一なる二文字に集えッ! 乙一ッ!
・投之於冰上
鳥何燠之
何馮弓挾矢
殊能将之ッ!
・楽園の死神、その胸中に二心あり。右はくろがね、左はからかね。楽園の死神、その掌中に二刀あり。左は剔(そ)るもの、右は樵(こ)るもの。いのち捧げよッ! 汀こるものッ!
[敵全体にレベル3デス]
・占うッ、亜細亜の星を――島々の星は荘と出たッ! 島田荘司ッ!
・いちかはじめか、はじめかいちか。どんととびでて折るか祈るか、心は螺旋、折原一ッ!
[敵味方全体のうちランダムで一人にデス+ランダムで一人にレイズ(気絶キャラが存在する場合のみ)]
[敵全体に特攻大ダメージ。詠唱者は戦闘から除外(死亡ではない)]
・その本は本にして本に非ず、立体にして三次元に非ず、凶器にして狂気に非ず、どすこいどすこい京極夏彦ッ!
[中範囲の敵に大ダメージ+確率でスタン+三マス後方へノック]