「朱子学」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 朱子学とは

2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。実は三河武士あいだでやたらと流行っていて十人いたら七・八人は唐の頭をつけていたと言われており、というのも唐の頭を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

2018-11-15

anond:20181115154510

例えば朱子学では、中華に属さず文字が読めないモンゴル人は、「理性がないか動物」とかされた。

日本でも、えた、「非人」とかね。

味方だけが人間だった。

みんなが人間になったのは、みんなが味方になったから。リベラル思想の大きな成果だ。

2018-10-04

anond:20181004003835

教育勅語アレルギーではないが、現代で持ち上げる意味が分からない

あれは論語というより、朱子学みたいなもんだと思う

2018-09-30

anond:20180930180104

>なぜそう言う風土なのか

徳川幕府朱子学の影響を引きずっているか

戦国時代下剋上の時にあった環境を変える能力を徹底的に削いで徳川に逆らえないようにした

明治になっても戦後になっても変えられなかった

2017-07-11

韓国容姿差別メチャクチャ酷いので中国でもそうだと勝手に思い込んでた。日韓中国を分かつ要因は一体何なのかとても興味があるけどぱっと思いつかないな。中国文化に詳しい人の解説を待ちたい。

一部の文化マニアは前から知ってるけど日韓朱子学とか言うカルト信仰してるからだよ

2017-06-01

日本人無宗教ではなく儒教徒である

日本の最大宗教儒教で、それは江戸時代から変わっていない。

武家は、統治のために中国儒教に倣ったからで、そしてそもそも儒教社会構造を維持するための宗教だ。日本史教科書には儒学とか朱子学とかさらっとしか書かれていないけれど、徳川治世は政教一致で、儒教社会本質を担う物凄く重要ものだった。

そして例えば、長幼の序年功序列)とか、男尊女卑とか、御先祖様がどうだとか、上座下座とか、家父長制(天皇制典型)とか、未だにある。そしてそれは道徳と称され、確信的に(加害者に悪の自覚が無く)差別が行われている。

さらにそれがとりわけタチが悪いことに、儒教教義を信奉している当人儒教徒であることの自覚が無い。それで、「日本人無宗教」という言説が定説になっている。

日中戦争太平洋戦争をした原因にも、儒教がある。儒教身分差別階級差別宗教なので、どちらが親分か、どちらが兄貴か、優劣(序列)がある。そうして、他者を蔑んだり、権威にひれ伏したりする。「大東亜共栄圏」という概念は、日本東アジア盟主親分)たらんとしたものだ。

日本では、少なくとも戦時中までは公然アイヌ人や沖縄人(「沖縄県民」)を差別してきたし、韓国人中国人は未だに事実上差別を受けている。戦前政府日本社会システム押し付けて、創氏改名を行わせた。それは韓国人に対してだけではなく、アイヌ人にも行われた。侵略され植民地化されたからには、日本論理を受け入れるしかなく、多くのアイヌ人は和人同化せざるをえなくなった。

国家神道」とかいうけれど、それも、神道の皮をかぶった儒教だ。天皇を家父長にした、身分差別階級差別宗教だ。

日本人は、正しい歴史認識をしていないし、戦争反省もしていない。なにせ、儒教徒である自覚が無いのだから戦争の原因を認識していない。だから謝罪をしても反省はしていない。しかも困ったことに、中国人韓国人儒教徒から問題本質解決する可能性がない。

正しい歴史教育だとか正しい歴史教育だとかいう以前に、日本人和人)は自分自身を知らない。

2017-05-19

葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。全11巻。葉可久礼とも。『葉隠聞書』ともいう。

目次 [非表示]

1 概要

1.1 「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」

1.2 書名の由来

2 脚注

3 刊本

4 参考文献

5 関連項目

6 外部リンク

概要[編集]

「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。

文中、鍋島藩である鍋島直茂武士理想像として提示しているとされている。また、「隆信様、日峯(直茂[1])様」など、随所に龍造寺氏と鍋島氏併記しており、鍋島氏龍造寺氏の正統な後継者であることを強調している。

当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。赤穂事件についても、主君浅野長矩切腹後、すぐに仇討ちしなかったこと[2]と、浪士達が吉良義央を討ったあと、すぐに切腹しなかったことを落ち度と批判している。何故なら、すぐに行動を起こさなければ、吉良義央病死してしまい、仇を討つ機会が無くなる恐れがあるからである。その上で、「上方衆は知恵はあるため、人から褒められるやり方は上手だけれど、長崎喧嘩のように無分別相手に突っかかることはできないのである」と評している。

この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので、藩内でも禁書の扱いをうけたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。それ故に、佐賀藩朱子学者・古賀穀堂は、佐賀藩士の学問の不熱心ぶりを「葉隠一巻にて今日のこと随分事たるよう」と批判し、同じく佐賀藩出身大隈重信も古い世を代表する考え方だと批判している。

明治中期以降アメリカ合衆国出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、評価されたが、新渡戸の説く武士道とも大幅に異なっているという菅野覚明の指摘がある。

また「葉隠」は巻頭に、この全11巻は火中にすべしと述べていることもあり、江戸期にあっては長く密伝の扱いで、覚えれば火に投じて燃やしてしま気概覚悟が慣用とされていたといわれる。そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になったものである。これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。2人の初対面は宝永7(1710年)、常朝52歳、陣基33歳のことという。

浮世から何里あらうか山桜    常朝

白雲やただ今花に尋ね合ひ    陣基

武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」[編集]

葉隠記述の中で特に有名な一節であるが、葉隠の全体を理解せず、この部分だけ取り出して武士道精神と単純に解釈されてしまっている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻玉砕自決時にこの言葉が使われた事実もあり、現在もこのような解釈をされるケースが多い。

しか山本常朝自身「我人、生くる事が好きなり(私も人である。生きる事が好きである)」と後述している様に、葉隠は死を美化したり自決を推奨する書物と一括りにすることは出来ない。葉隠記述は、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗を上手くフォローする方法、人前であくびをしないようにする方法等、現代でいうビジネスマナー指南書や礼法マニュアルに近い記述ほとんどである。また衆道男色)の行い方を説明した記述等、一般近代人の想像するところの『武士道』とはかけ離れた内容もある。

戦後軍国主義書物という誤解から一時は禁書扱いもされたが、近年では地方武士生活に根ざした書物として再評価されている。先述したように『葉隠』には処世術マニュアル本としての一面もあり、『葉隠』に取材したビジネス書出版されている。

戦後も、葉隠を愛好した戦中派文学者で、純文学三島由紀夫は『葉隠入門』を、大衆文学隆慶一郎は『死ぬことと見つけたり』を出している。両作品は、いずれも葉隠入門書として知られ、各新潮文庫で再刊された。

書名の由来[編集]

本来葉隠」とは葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公大義とするという説。さらに、西行山家集葉隠和歌に由来するとするもの、また一説には常長の庵前に「はがくし」と言う柿の木があったからとする説などがある。

枝吉神陽

枝吉 神陽(えだよし しんよう、文政5年5月24日(1822年7月12日) - 文久2年8月14日(1862年9月8日))は、江戸時代後期の幕末活躍した佐賀藩思想家教育者国学者藩校弘道館教諭外務卿内務大臣を務めた副島種臣実弟本名は経種。贈従四位佐賀の尊皇派の中心的存在

目次 [非表示]

1 経歴

2 影響

3 同時代評価

4 関連項目

5 参考資料

経歴[編集]

佐賀藩藩校弘道館教授であった枝吉南濠種彰の長男として生まれる。幼児期より神童と賞され、20歳の時には江戸の昌平黌に学んでいるが、ほどなく舎長に推されている。また、漢学に偏重した内容に異議を唱え、国学を学ぶことを認めさせた。

早くから儒教朱子学の教えに疑問を抱いており、佐賀藩哲学である葉隠』をも否定したといわれる。

26歳で帰郷してから弘道館教諭や什物方などを務める傍ら、父南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ勤王運動を行った。1850年には「義祭同盟」を結成。天皇を中心とした政治体制である律令制などの知識を伝授するなど、藩論を尊王倒幕に向かわせようとしたが藩主鍋島直正を動かすことは出来ず失敗している。なお、この義祭同盟から実弟副島種臣のほか、大隈重信江藤新平大木喬任島義勇明治維新に大きな影響を与えた人材を多数輩出しており、「佐賀吉田松陰」とも言える人物である。また、水戸藤田東湖と「東西の二傑」と並び称された。

1863年、コレラに罹った妻を看病するうち自身罹患し、死去。享年41。墓所佐賀市本庄町の高伝寺。

影響[編集]

神陽は律令制を学ぶことを奨励したが、彼の教えを受けた江藤新平(初代司法卿)や大木喬任(2代司法卿)は法整備活躍した。また、明治政府が当初導入した太政官制副島種臣が起草したものであるが、ここにも神陽の影響がみられている。

この条約が締結される頃の東アジア世界は、近代国際法を掲げながら、実際には弱肉強食を旨とする西欧列強が浸透してくる時期にあたる。当時朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかしそのような朝鮮にも1860年代以降国際化の波(外圧)が押し寄せ、海上から西欧諸国が訪れるようになる。朝鮮西欧列強との出会いは、概ね芳しいものではなかった。たとえば1866年にはフランス軍キリスト教徒虐殺事件丙寅迫害)の報復として軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮江華島攻撃占領する丙寅洋擾が発生し、1871年にはアメリカ合衆国ジェネラルシャーマン事件1866年発生)の報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮江華島攻撃占領を行っている(辛未洋擾)。丙寅洋擾と辛未洋擾は朝鮮通商を行うための侵略であったが却って斥和碑を建てるなど攘夷につながった。

当時朝鮮政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である清朝から西欧列強情報を得ていた大院君は、断固として鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の非道を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策積極的に推し進めたことから分かるように、大院君は中華思想的発想の持ち主であり、その点から西欧諸国夷狄視していたことも理由の一つである。その強い姿勢は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建てたことに窺うことができる。このように当時の朝鮮では攘夷熱が高まっていた。

また朝鮮では、文禄・慶長の役時に、中国朝鮮を守ったため、今回も中国朝鮮を守ってくれるに違いないという立場であり、小島毅は「中国東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮認識ですから親分である中国自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]。

日朝間の懸案:書契問題[編集]

他方、西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはや開国明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月明治政府樹立するとすぐに書契、すなわち国書対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためであるしか国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いたといえよう。

この問題は、日朝双方の国交に対する思惑がすれ違ったことが原因である日本側は従来の冊封体制的な交隣関係から条約に基礎づけられた関係へと、日朝関係を変化させることを企図したのであるが、一方朝鮮側はこれまでどおり冊封関係にとどまり、その中で日本との関係位置づけようとしていた。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」ということばは中国王朝にのみ許されたことばであって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである

なお近代以前の日朝関係については朝鮮通信使に詳しい。

征韓論を唱えた西郷隆盛。ただし江華島事件及びその後の日朝修好条規締結に対して義に悖ると批判していた。

1868年以来、何度か日本から国書がもたらされたが、日朝双方の思惑の違いか両国関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また釜山においては日朝両国官僚同士が険悪となっていた。長崎出島のごとき釜山倭館限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じたのである釜山倭館朝鮮側が日本特に対馬藩使節商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収日本公館としたことから事態悪化したのである。結果、必要物資供給及び密貿易の停止が朝鮮から宣言される事態となった。

日本側も単に国書を送りつけるだけだったわけではない。版籍奉還という日本国内の難問を無事に乗り越えた1870年朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊封体制の頂点に立つ清朝と対等の条約日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉忌避する朝鮮を、交渉テーブルに着くように促したのである

1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本朝鮮出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本から国書受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。

条約締結までの経過[編集]

国交交渉[編集]

国交交渉再開の気運が高まり1875年交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚交渉テーブルに着いたが、やはり書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じた。この他森山洋服着用など欧米スタイルを貫こうとする姿勢朝鮮側が嫌悪感を示したことで交渉ははかばかしくなかった。交渉の停滞に業を煮やした森山4月には砲艦外交を行うことを日本政府に上申した[3]が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目示威活動を展開した。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。

江華島事件[編集]

詳細は「江華島事件」を参照

9月20日首都漢城に近い江華島付近で、雲揚所属の端艇が朝鮮砲台から砲撃を受ける事件が発生した(江華島事件)。雲揚は反撃し、永宗島要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器旗章楽器等を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件朝鮮側が日本海軍所属軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なものとされ[4]、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交交渉が大きく進展した。

条約交渉における日本側の基本姿勢[編集]

ボアソナード

明治政府のお雇い外国人ボアソナードは、事件を処理するために派遣される使節への訓令について、以下を決して朝鮮に譲歩すべきではないと具申した。

釜山・江華港を貿易港として開港する。

朝鮮領海航行の自由

江華島事件についての謝罪要求

またこれらが満たされない場合軍事行動も含む強硬外交姿勢を採ることをも併せて意見している。これらの意見ほとんど変更されることなく、太政大臣三条実美を通じて訓示に付属する内諭として使節に伝えられた。さら朝鮮に対する基本姿勢として、三条はこの江華島事件に対して「相応なる賠償を求む」べきとしながら、使節団の目的を「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、・・・和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ひときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること」だと述べていた(強調、加筆者)。これは欧米列強干渉を招かないよう配慮すべし、という森有礼の言が容れられたものである

さらボアソナードのいう軍事行動も含む強硬外交姿勢も、日本は忠実に実行に移している。使節団一行には軍艦兵士の護衛がつき、威圧効果朝鮮側に与えようとした。また交渉が決裂した場合に備え、山縣有朋山口県下関に入り、広島熊本両鎮台の兵力をいつでも投入できるよう準備していたのであるさらにいえば、日本砲艦外交姿勢は無論朝鮮の屈服を促すものであったが、同時に日本国内の「征韓論」を唱える不平士族の溜飲を下げることも狙ったものであった。

ただこのように軍事的高圧な姿勢を表面上見せながら、当時の日本は軍費の負担という点からいって、戦争が好ましいとは考えていなかった。また戦争の発生がロシア清朝の介入を許すきっかけになるかもしれず、その点からも極力戦争は避ける考えであった。

以上をまとめると日本側の交渉の基本姿勢は、以下の二点に集約される。

砲艦外交を最大限推し進めながら、実際には戦争をできるだけ回避すること。

江華島事件の問罪を前面に押し出しながら、実質的には条約を締結し、両国の懸案で長年解決しなかった近代的な国際関係樹立すること。

また対朝鮮政策は、実質的には朝鮮宗主国である清朝政策でもあり、清朝干渉をなくすべく事前に清朝の大官たちと折衝を重ねることも日本は行っている。19世紀欧米列強アジア侵略に対抗するため、清朝朝鮮ベトナム琉球などの冊封国保護国化あるいは併合することによって皇帝を中心としたアジア伝統的な国際関係をそのまま近代国際関係へと移行させて清の地位と影響力を保持しようとし、冊封国に対して保護国化、モンゴルチベット新疆などの保護国に対しては植民地化を強めようとしていた。

この時期の東アジアは、日中朝そして西欧列強の間における複雑な絡み合いが相互作用する場が形成されつつあった。日朝間の国交交渉再開もその結果としてもたらされたものであると同時に、また別の歴史事象の原因でもあったのである

2017-03-16

http://anond.hatelabo.jp/20170316142359

そりゃ朱子学だろ。

儒教が害をもたらすのはこの増田みたいに儒教根本理解しないで、「こういうもんだから」って済まそうという無学な輩が多いことだな。

「~~だから儒教はクソ。滅びろ」ってのは「包丁殺人に使われるからクソ。包丁販売禁止しろ」と言ってるのと同じだぞ。

2017-03-09

論語

論語にはまってるんだけど、

論語孔子検索してもクソみたいな名言サイトとか、

クソみたいな名言botやらしか出てこない。


読書自体

・人にオススメされて論語算盤を読む

岩波文庫論語を買って読む

金谷治孔子を今読んでる

という感じ


初めは取引先のおじさん社長おすすめされて仕方なく読んでたけど、

今は、

孔子の言うところの道ってなんだ?徳ってなんだ?

儒教との関係は?朱子学って?関係は?

武士道もつながってくる?

"日本人的な道徳観"にかなり関わりが深い?


などなど疑問、興味が湧いており楽しい読書を進めている。


ネット上でも論語ファンによる語らいやブログ言及がないかなあと思って調べたけど

クソみたいなものしか出てこないのであきらめた


それだけの話です。

これから読書の方向や何かアドバイスオススメ情報などあればお願いします。

おわり

2016-03-14

すゝめ

文章

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

慶應大学東館に刻まれているラテン語で書かれた福沢の言

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」という一節は著名だが、この「云ヘリ」は現代における「云われている」という意味で、この一文のみで完結しているわけではない。しかも、この言葉福澤諭吉言葉ではなく、アメリカ合衆国独立宣言から翻案であるとするのが最も有力な説である[2]。

この引用対応する下の句とも言える一文は、

「されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや」

である。つまり

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている__人は生まれながら貴賎上下差別ない。けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違いは何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るもの貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ。」

ということである

以上の言葉は初編から引用であるが、虚実渦巻く理想現実の境を学問によって黎明するといった、全体として学問の有無が人生に与える影響を説いている。 彼は攘夷の気分が蔓延していた当時に攘夷否定し、また、「政治国民の上で成り立っており、愚かな人の上には厳しい政府ができ、優れた人の上には良い政府ができる。法律国民の行いによって変わるもので、単に学ぶ事を知らず無知であるのに強訴や一揆などを行ったり、自分に都合の良い事ばかりを言う事は恥知らずではないか。法律で守られた生活を送っていながら、それに感謝をせず自分欲望を満たすために法律を破る事は辻褄の合わない事だ。」(意訳)等と、大政奉還から約4年半後の世相を考えればかなり先進的な内容だったと言える [3] [4]。

更に古文漢文については「よきものではあるがそこまでして勉強するものではない」(意訳)と、意義を否定はしないが、世間で扱われている程の価値があるものではない、と言って儒学者朱子学者が使うような難しい字句のある漢文古文を学ぶより、まず日常的に利用価値のある、読み書き、計算基本的道徳などの「実学」を身につけるべきだと書いている[5]。

本書は数章を除いて、高等教育を受けていない者を読者に想定している。そのため当時の基準では平易な文章だといえ、小学校教科書にも用いられた。難解な政治思想を平易に説明するため比喩が多く使われている。

2016-01-09

韓国人化していると言われているが、日本人韓国人化したのは戦後であり

それは団塊世代で完成したと言って良い。

戦後日本在日朝鮮人がかなり特権的地位にあって支配してきた。

不法占領した駅前土地パチンコ店は今でも無くなっていない。

マスコミを中心とした日本文系リベラル韓国人的なやり方で日本支配してきた。

(つまり空気による序列を作って支配する朱子学的やり方。だから、「ポジショニング

や「スクールカースト」にこだわる。結局はインドカースト制の様に「そう決まっている

から偉い」と思考停止させるための支配者のための仕組みであるが、日本における既存

天皇を中心とした)身分制度では自分達の優位性が確保できないため、マスコミによる

情報操作で、つまりイメージ操作自分達の立場を作ってきた。この辺もイメージ重視で

内容が伴っていない韓国のやり方とそっくりである

彼らは戦後民主主義の中心であるリベラルのコアである団塊世代辺りから

自分意見に反する人間身分下の人間の人権を認めていない

マスコミにおける報道しない自由)」のだった。(自分の主張と合う場合モルモット

ように取り上げるだけで。例えば、「マイルドヤンキー」などという明らかな蔑称流行らせて

オモチャにしようとした訳で)

自分達の正義を(メディアで)一方的に主張しつ、だ。支離滅裂である

韓国人自分達の人権を主張しつつ日本人人権を認めていないように)

支離滅裂の向かう先は「自滅」しかない訳だが、彼らは(保身しつつ)

日本社会を自滅に追い込もうとした。前提となる日本社会が無ければ、彼らの身分

成り立たない訳ですでに矛盾しているが(ロジックの無い彼らは欧米では通用しないので)。

結局、東芝シャープなども文系リベラル的な経営層が支配たから今の状態がある。

中韓技術をどんどん供与しながら、(自分仕事は取られないように)若手育成など

していないのであるYesマンしか残らない)。体育会系的に子供支配して、無気力化させた。

その結果がゆとり世代さとり世代である

今の日本状態も、人為的に作られたのだろうなと。

(そもそも戦争で負けたからこうなった訳だから団塊世代を恨むのは筋違いだが)

2013-05-29

http://anond.hatelabo.jp/20130529141913

公務員」で辞書を引いてみなよ。その雑な定義がそのまま載ってるから

うん、だから雑な議論でいいんだね?

君がいいならいいんだよ。

俺が困るんじゃねえもの

そんなら雑な「武士道」の援用にキーキー異議申し立てる理屈も立たなくなるだけだよ。

どうして「薄給」という文字を無視するのかね。

「高給」と「無給」しか考えつかないわけじゃあるまい。

「食うわねど」「食えない」という文字を無視して頑張るのはやめなよ。

貧乏でもプライドを高く持つべし」と言われるのは武士からこそだよ。

江戸時代の庶民たちが「貧乏でもプライドを高く持つべし」なんて思っていたか

おお、武士について無知などころか江戸っ子の見栄の文化すら知らないと。

まあお前はそれでいいや。


じゃあもっと極端な例で忠臣蔵ってあるよな。

改易で無職になった浅野家の浪人達が死んだ主君の仇討ちを命懸けでやった。

見ようによっては全くナンセンスなあれは

武士からだけ賞賛されたわけではなく、庶民にも大人気になった。

武士けが「いい忠義だ」って言ってそれ以外の階級がしらけて「アホじゃね」と反応してきたわけじゃない。

江戸時代以降、武士道っていうのは既に武士以外の階級にもある程度知られてて

部分的に好ましく受け止められたり内面化されたりもしてたわけ。これに限らないよ。

武士道が狭い身分階層の限定的な道徳だったって言うお前の話の前提から間違い。

でも現代には、貧乏な庶民すなわち生活保護受給者に、「武士ならばプライドを高く持つべし」とか言うアホがいるわけだよな。

から生活保護政策の是非と無関係

お前は無知で間違ったたとえ話ばっかりするアホタレなわけだよな。

どこから「秘匿」とかい言葉が出てくるんだし。

武士道」を一子相伝の奥義かなにかと勘違いしてるのか。

お前がそういう方向の話をしてるんだよ。

実際には秘匿されたものでも限定されたものでもなく

明治以前には庶民にまで広まって内面化されていました。

儒教朱子学だって庶民でも習えるんだからよ。


戦国時代にはもっとハイテンションだったんだよ。

太平の世でそれでは困るから、「武士道」によって牙を抜いたんだよ。

そうですね。

で、「同じ公務員だ」と喚きながら江戸の世と平成の世を同一視したがる馬鹿にも何とか言ってください。



から軍国主義に「援用」した/できたことは否定してないってばよ。

軍国主義に援用するような人間は「武士道」の体現者ではない、というだけだよ。

意味がわかりません。

「論拠を添えてね」ってもう一回教えないと駄目か?

1回で覚えろよ。


江戸時代武士公務員というのは、別に俺のオリジナルの考えというわけでもなく、ごく一般的な見方なんだが。

意味がわかりません。

「論拠を添えてね」ってもう一回教えないと駄目か?

差異部分については色々と論じつけてあげたよね。

そこに異論があるならキリキリ反論しなさい。

反論に窮して「ボクの主張は定説です」とか言い出すのは単なる知能障害の発作です。

2012-03-25

国歌不起立教員の再任用認めず 大阪府教委「勤務実績悪い」

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201203240177.html

俺はね、公教育というのはオワコンだと思ってるの。

教育大事さ。

国の未来は人が創るんだもの

でもね、公教育がそれを牽引するとはぜんぜん思わないんだ。

国が先端教育先端研究の担い手になる必要なんか無い。

むしろ有害

スパコン予算とかね、切られて当然だと思うよ。

江戸幕府が自前で世界一の蒸気船を造るとか言いだしたら、おいおいって思うでしょ。

操縦からシステム運用まで自前技術でやるとかいいだしたらさ。

あんまりいい例えじゃないのはわかってるけど、そんな感じだよ。

文一主席と理三主席10年分集めて純国産iPhoneとか純国産Googleを作ろうとか言い出したら、どういうものが出来るかなんとなく想像がつくでしょ。

偏ったっていいから、なにかしら思想がないと何も成せない。なにも作れない。

先端教育に限ったことじゃないよ。

草の根に至るまでの初等教育だって公教育である必要なんか無いわな。

それぞれの藩校私塾、多様な教育があったからこそ、いい人材が育ったんだろう?

幕府直轄で学制とか敷いちゃってたらさ、どんなに才能が溢れてても陽明学朱子学が駄目だと進級できなかったりしたんじゃね?

教育なんか偏ってていいんだよ。

それが正しかたか間違ってたか、偏ってたか公平だったかなんて、後の世になってみなくちゃわからない。

進化論を否定する学校とか、君が代を歌わない学校とか、いろいろあっていい。

カリキュラムだってバラバラでいい。

数学に力をいれようが、英語に力をいれようが、授業と称して池田大作を褒めちぎっていようが、構わないんだよ。

全体として多様性が保たれていれば。

もちろん、私立の学校なんて田舎にはないだろうから、公立をなくすわけにゃいかないよ。

公立しか選択肢がないそんな子供たちには気の毒かもしれないけど、悪いけどそこじゃ日の丸は掲げるべきだし、君が代は歌うよ。

子供に強制はしないとしても(したっていいと思うけど)、教職員はそれをするべきだよ。

なにかしら、ルール規範がないと成り立たないから。

キリスト教式結婚式をあげて、「神の前で愛を誓う誓わないは自由です!」ってわけにゃいかいから。

国歌斉唱が式目にあるなら、斉唱するのは参加者の義務にせざるを得ない。

ないなら、歌いたい人がいようが、勝手に歌いだされちゃ困る。

君が代を歌うのが正しいか、間違ってるか、そういう問題じゃなくてさ、式ってものがあるなら式目が必要で、だれかの判断で式目をつくらないとならない。

式目を作ったら、それの通りに式は進行させないとならない。

そういうことだろ?校長の判断でどうこうってのは。

でさ、この人の言い分ってのはおそらく、

「勤務日じゃないか私人として式に参加してるだけだから君が代を歌う義務なんかない!ビラを撒こうが、プライベートな活動だからとやかく言われる筋合いはない」

ってことでしょ?

そりゃあ通らんよ。

退学になった生徒がバイク乱入したって同じ理屈が成り立ってしまうじゃん。

「俺達生徒じゃねーもん!特攻服できたけど、卒業生を祝うために一般参加しただけだもん!」

でもありになっちゃうでしょ。

君が代を歌うのがおかしいと思うなら、選挙で一票を投じろ。

それ以上はするな。

2011-09-15

[]ある意味最強の会社 日本eリモデルについて

確かにねー活動過激( ゚д゚)

よくよく観察するとw

日本eリモデル 独占評価

直近の投稿?何?スゴすぎ?会社勉強大会しているのかなぁ~^^;

http://ameblo.jp/mystandardjp/entry-11018488804.html

9月15日 | 今ホットな話題情報2011年09月15日

テーマ日本eリモデル

注目度ナンバー1!ホットケナイ!ホットなキーワードをチョイス!

9月15日の話題

9月15日(くがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦年始から258日目(閏年では259日目)にあたり、年末まであと107日ある。

1590年 - ウルバヌス7世 (ローマ教皇) ウルバヌス7世が教皇 ローマ教皇に選出される(在位13日で死去。在位期間史上最短の教皇)。

1821年 - コスタリカグアテマラホンジュラスニカラグアエルサルバドルがそれぞれスペインから独立を宣言。

1830年 - イギリス世界初鉄道開通。開通式典で死亡事故

1835年 - ビーグル (帆船) ビーグル号による世界探検を途上にあったチャールズ・ダーウィンガラパゴス諸島に到達する。

1868年慶応4年7月29日 (旧暦) 7月29日)- 戊辰戦争: 二本松城が落城する。

1888年 - 東海道本線大府駅~浜松駅開業

http://mystandardjp.cocolog-nifty.com/

9月15日 (旧暦)の話題

旧暦9月15日9月 (旧暦) 旧暦9月の15日目である六曜六曜#大安 大安である

慶長5年(グレゴリオ暦1600年10月21日) - 関ヶ原の戦い

慶長18年(グレゴリオ暦1613年10月28日) - 支倉常長仙台藩の慶長遣欧使節が日本を出発

建炎4年(ユリウス暦1130年10月18日) - 朱子朱子学の祖(+ 1200年)

貞享2年(グレゴリオ暦1685年10月12日) - 石田梅岩思想家(+ 1744年)

文政8年(グレゴリオ暦1825年10月26日) - 岩倉具視政治家明治維新の元勲(+ 1883年

保延6年(ユリウス暦1140年10月27日) - 覚猷 鳥羽僧正覚猷、天台宗の高僧。伝『鳥獣人戯画』作者。

嘉元3年(ユリウス暦1305年10月4日) - 亀山天皇、90代天皇(* 1249年)


http://ameblo.jp/mystandardjp/entry-11017507873.html

チャンピオンズリーグ | 今ホットな話題情報

2011年09月14日

テーマ日本eリモデル

注目度ナンバー1!ホットケナイ!ホットなキーワードをチョイス!

チャンピオンズリーグの話題

大会

開始年 1955

終了年

主催 欧州サッカー連盟 UEFA

参加チーム数 32

(3回目)

(9回)

備考

欧州クラブシーンにおける最も権威ある国際大会であり、各国リーグ戦の上位クラブが総登場することから世界的な注目を集める。勝ち上がるごとにクラブには莫大な収益がもたらされ、優勝クラブは名実共に欧州一の称号を得られることから、自国のリーグ戦よりもこちらで勝つことを優先しているクラブも数多い。

優勝クラブは「クラブ世界一」を決めるインターコンチネンタルカップ (サッカー) インターコンチネンタルカップFIFAクラブワールドカップへの出場権を得られるが、世界の有力サッカー選手は軒並み欧州クラブに集中しているため、この大会で優勝したクラブ実質的には世界一クラブであるというのが衆目の一致するところである

http://w.livedoor.jp/nihonerimo/

チャンピオンズリーグ (曖昧さ回避)の話題

チャンピオンズリーグ(Champions League)

サッカー

UEFAチャンピオンズリーグ

CAFチャンピオンズリーグ

AFCチャンピオンズリーグ

CONCACAFチャンピオンズリーグ

OFCチャンピオンズリーグ

アラブチャンピオンズリーグ

EHFチャンピオンズリーグハンドボールヨーロッパクラブNo.1を決める大会

ヨーロッパチャンピオンズリーグ (卓球)

バレーボール欧州チャンピオンズリーグ

WBFチャンピオンズリーグ

FUTSAL地域チャンピオンズリーグ

チャンピオンズリーグ (麻雀)

cs:Liga mistr?

da:Champions League

Champions League

es:Liga de Campeones

http://www.geocities.jp/nihonerimodel/

チャンピオンズリーグ (麻雀)の話題

チャンピオンズリーグは、日本プロ麻雀連盟が主催する麻雀タイトル戦。

古くは内外タイムス杯。2001年度前期までは王座杯という名称2001年度後期よりチャンピオンズリーグへ改称。

出場資格日本プロ麻雀連盟員。

ルール:連盟Aルール

半荘4回戦×5節。1半荘は時間制限ありの50分+1局で打ち切り。準々決勝からは現チャンピオンズリーグの1名を加えた16名で行う。決勝は準決勝勝ち上がりの4名で半荘5回戦。その半荘5回戦合計総合ポイントトップ者が今年度の優勝者となる。

麻雀タイトル戦 ちやんひおんすりーく


毎日観察するからw

2009-10-12

実学って社会を変革する力なんじゃない?

高校の頃、学部について相談した時に「経済学は役に立たない」と散々聞かされた覚えがある。

大学生になってミクロ経済学勉強するようになった。大学でよく聞かされるのが「実学=役に立つ学問ではない」ということだ

「有形において数理学(理論と実証)と,無形において独立心と」と実学は表現されている。

これを最近よく考えていて、実は封建社会へのアンチテーゼ実学というのは両輪の輪にあるんじゃないか?ということに思い至った。


実学、つまり「数理学」というのは誰に対しても平等なものだ。

例えば少なくとも1に1つ加えたものが2であり、それに1つ加えたものが3である限り、1+1=2であり、3+3=6である。

これは誰にも否定できないものだ。これは前提と論理が正しければ結論も正しいというある意味当たり前のことだ。この事実は誰にとっても公平だ。

その点において実学は、人に左右されず修めることができる。それは実学論理的に人にある情報を強制的に与えるものだからだ。ある前提を認める限り必ず認めなければいけない結論というのは、直感的におかしいと感じてもそれを乗り越える力を持つ。


その点、非実学福沢諭吉朱子学を挙げていた)に関してはどうだろう? 例を分かりやすく、「老子」にとってみる。

「道の道とすべきは常の道に非ず(道可道、非常道)」という言葉がある。これはよくありがたがれる言葉だと思うが、これは多様な解釈が許されるものだ。この難解さ、解釈の多様性こそが老子醍醐味であろうし、年月がいくら経っても評価される理由だと思う。

かしこの非実学というのは非常に大きな問題を孕んでいる。それは、非実学から得るものが人によって大きく左右されるという側面だ。

例えば坂本竜馬西郷隆盛を評して「大きく打てば大きく鳴り、小さく打てば小さく鳴る」と言ったらしいが、これこそがまさに非実学本質ではないか。つまり、非実学というのはそれを受容する人によって内容が大きく変わるということだ。

これはつまり、いくら学問を修めたとしても、自分自身の内面が優れていなければ、「非実学においては意味がない」ということだ。

このような非実学曖昧さ、内面性というのは非常に封建的であり階級的だ。なぜなら、非実学はその人間を直接変革するような力にはならないからだ。むしろこれは、人の固有の内面固定化し、変革を妨げるような意味しかない。人は自分解釈しやすいように解釈をするし、都合のいいよう物事を受け取ることになる。これは商人商人らしく、農民は農民らしく、武士武士らしく、という発想を補助するものに他ならない。

そういう点で、非実学というのは格差固定化し、社会保守的に動かしていく力なんじゃないだろうか?

このような非実学というのは今の時代において溢れていると思う。極端に言ってしまえば、このような非実学というのは「権威のある諺のようなもの」にである。情報を取捨選択ができ、またしっかりとした資料が要求されないインターネットとはまさに非実学の温床ではないだろうか?このようなインターネットの普及においては、人は自分の身の丈にあった情報だけを受け取り、ほかのものを無視していく。この中で、例えば人は派遣なら派遣らしく、官僚なら官僚らしく、主婦ならば主婦らしくなっていくのではないか。


だからこそ実学は今の社会に必要なんじゃあないかな?

2009-05-03

http://anond.hatelabo.jp/20090503152043

士農工商ってもともと朱子学の発想で中国にもあったはず。

その説明だと中国貧乏なことの説明がつかなくないか?

2009-03-14

http://anond.hatelabo.jp/20090314220240

赤穂浪士価値観の元になってる朱子学中国のものだから、外国人だからわからんともいえないと思うが。ひょっとしたらわからない価値観だと思ってるのは日本人だけで多くの外人は理解可能かもしれない。日本特殊論を言いたがる日本人って多いし。

2007-10-17

孔子縞于時藍染

http://anond.hatelabo.jp/20071017144742

江戸時代山東京伝黄表紙コメディ)が世間に孔子様のご期待通り礼が浸透した場合の社会が描いている。

江戸時代の戯作黄表紙:作品鑑賞其の弐 孔子縞于時藍染(こうしじまときにあいぞめ)

http://kibyou.hp.infoseek.co.jp/sakuhin/sakuhin2.htm

当世は、朱子学藍染めの格子縞が大流行。礼を好み、金銀を嫌う世の中になった。 乞食が礼を学び、金持ち商人が金を施そうとして断られる。傾城買いも大金を使うのを色男とされ、女郎は客に金を押しつけようとする。客の息子株は大金を背負い込んだため、朱子学が孝行を勧める通り、勘当を受けようとするが、親は朱子学の通り、子供を許す。 呉服えびすや貧乏神屋と屋号を変え、悪い商品をもっと高く売ってくれと客に言われる。そば屋は無料でそばを振る舞い、金をおいて逃げ出した客をそば屋はその客を追いかけ、握り拳でその頭を撫でる。通人は木綿を着、追い剥ぎならぬ追いはがれが出没、大豊作ゆえたくさん年貢を納め、天は米と小判を降らせる。小判に埋もれた人々は何とか助かる。

何時だって理想は現実ではないので気に病むことでもない。

 
アーカイブ ヘルプ
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん