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2023-12-17

anond:20231217062619

繰り返し死ぬ死ぬアピールしてたら間違って死んじゃいました、ってことやろ?

ぜんぜん違う……分からないなら目の前の機械を使って調べればいいのに。ちんさん少しは努力しろよ。頑張れよ。自分で動けよ。マヌケならぬマグロかよ。男女問わずぜってえモテないわこういう人。ウザいわ怠惰だわ他罰的だわ。ネットしか場所なさそう。

Fatal and non-fatal repetition of self-harm

Systematic review

Published online by Cambridge University Press: 02 January 2018

https://www.cambridge.org/core/journals/the-british-journal-of-psychiatry/article/fatal-and-nonfatal-repetition-of-selfharm/721FD68B3030C46E2070CC08CA869523

2023-10-25

anond:20231025084906

ふたつあるんや。

router1 | ˈraʊtə |

noun

a power tool with a shaped cutter, used in carpentry for making grooves for joints, decorative mouldings, etc.

router2 | ˈruːtə |

noun

a device which forwards data packets to the appropriate parts of a computer network.

Oxford Dictionary of English

Copyright © 2010, 2019 by Oxford University Press. All rights reserved.

2023-06-18

ローズマリー・サトクリフローマンブリテンシリーズ本一覧

※ほぼメモ書きです。

 ローズマリー・サトクリフ(Rosemary Sutcliff, 1920-1992)といえば、『第九軍団のワシ』をはじめとするローマンブリテンシリーズで有名な作家である。このシリーズは、一般ローマンブリテン三部作(『第九軍団のワシ』、『銀の枝』、『ともしびをかかげて』)ないし四部作(『辺境オオカミ』も加える)と呼ばれている。岩波書店でもそう書いている。

https://www.iwanami.co.jp/book/b269788.html

 一方、英語版Wikipediaのサトクリフの項目を見ると、『第九軍団のワシ』シリーズは他にもある。要は、4部作で終わっているというわけではないのだ。ファンサイトSutcliff Wikiでは、正式名称ではないとしつつ、"Dolphin Ring"と呼称している(一方、第九軍団のワシ、銀の枝、ともしびをかかげてを指してRoman Britain Trilogyという言葉遣いもされている。実際、1980年にThree Legionsというタイトルでセット本が出ている)。その作品群について整理しておく。

(1)作中時系列

2世紀:第九軍団のワシ(The Eagle of the Ninth)

3世紀:銀の枝(The Silver Branch)

4世紀辺境オオカミ(The Flontier Wolf

5世紀ともしびをかかげて(The Lantern Bearers)

5世紀:落日の剣(The Sword at Sunset)

6世紀夜明けの風(Dawn Wind)

9世紀:剣の歌(Sword Song)

11世紀:盾の輪(The Shield Ring

(2)出版順(訳者無記名は猪熊葉子

1954年:第九軍団のワシ(Oxford University Press)→岩波書店1972年

1956年:盾の輪(同)→山本史郎訳『シールドリング ヴァイキングの心の砦』原書房2003年

1957年:銀の枝(同)→岩波書店1994年

1959年ともしびをかかげて(同)→岩波書店1969年

1961年夜明けの風(同)→灰島かり訳『夜明けの風』ぽるぷ出版2004年

1963年:落日の剣(Hodder and Stoughton)→山本史郎山本泰子訳『落日の剣 : 真実アーサー王物語原書房2002年(2巻本)

1980年辺境オオカミ(Oxford University Press)→岩波書店2002年

1997年:剣の歌(The Bodley Head)→山本史郎訳『剣の歌 ヴァイキング物語原書房2002年

 これらの作品群がファンWikiDolphin Ringと呼ばれているのは、言うまでもなくアクイラ一家のあのイルカ指輪(=古代ローマ人のハンコ)が共通して登場するからで、時代の流れとしても共通した設定を持っているかである。ただ、『三銃士シリーズのような一貫した主人公陣営を描いているわけではない。第九軍団のワシの主人公マルクス・フラーウィウス・アクィラ(訳書には従っていない)は、元々属州ブリタンニア駐屯するローマ軍団に属していて、家のルーツエトルリアにあるから、もとはといえばイタリア半島人間なわけだ。ところが、彼が色々あってブリタンニア定住を決め込んだことが指輪運命を決めている。『銀の枝』の主人公ティベリウス・ルキウス・ユスティニアヌスジャスティン)とマルケルス・フラーウィウス・アクィラ、『辺境オオカミ』のアレクシオス・フラーウィウス・アクィラ、『ともしびをかかげて』の主人公アクィラ(上の名前は不詳)は、いずれもマルクスの子孫にあたる。

 もっとも、ローマ軍団が描かれているのは『辺境オオカミ』までであり、『ともしびをかかげて』はローマ軍団がいなくなったあとのブリタンニアを描いている。基本、サクソン人とブリトン人との戦争が描かれる。『落日の剣』はその後日譚にあたるが、主人公アンブロシウス・アウレリアヌス(この人は実在人物で、サクソン人と戦っていたブリトン人指導者)の甥アルトス(アルトリウス)となっている(もちろんアクィラも登場するが)。つまり本書はアーサー王伝説の翻案なわけであるしかも『ともしびをかかげて』よりも長い。『ともしびをかかげて』は、20年ほどを描くが、後者は40年ほどのスパンがある。本書は明らかに大人向けであり(ファンWikiにもFor Adult Readersとある)、児童書である他書と毛色がかなり異なる。

 『夜明けの風』はアルトスよりも100年ほどあとの時代で、デオルハムの戦いで壊滅したブリトン人王族の生き残りオウェインが指輪を持っている。『剣の歌』では主人公ヴァイキング少年ビャルニ(指輪は、ウェールズで暮らす少女アンガラドが持っている)になっている。そして時代的にはもっと最後にあたる『盾の輪』の主人公もまたヴァイキング少女フライサと孤児ビョルン(後者指輪を持っている)で、湖水地方に立てこもってノルマン人抵抗する様が描かれる。

 見ての通り、厳しい立場に立たされた者を主人公にするというプロットはほぼ一貫している。『第九軍団のワシ』は父親不名誉(ちなみに時代はあのハドリアヌス帝の治世にあたる)、『銀の枝』はカラウシウス帝に忠義を尽くした故に叛逆者となってしまった二人(なおこの頃の皇帝といえばディオクレティアヌスだ)、『辺境オオカミ』は軍人としての失態だが、同時にローマ帝国辺境民族ピクト人)との戦いが背景にある。『ともしびをかかげて』は撤退するローマから脱走して敢えてブリタンニアに残った主人公の苦労が描かれるが、彼の立場を厳しくしているのは、サクソン人のブリタンニア侵入である。サクソン人と戦う側が主人公になっているのは『夜明けの風』が最後で、『剣の歌』以降はヴァイキング主人公になっている。アングロ・サクソン人ブリテン征服が一段落して平和になったと思ったらデーン人がやってきたわけだ。さらにそのデーン人ノルマン・コンクエストで痛めつけられる(ノルマン・コンクエストは、思いっきり誇張すればデーン人(+アングロ・サクソン人)対ノルマン人の戦いであり、こいつら全員元をただせば海賊である)。ローマ人、ピクト人ブリトン人、サクソン人、デーン人ノルマン人イギリス史に登場する諸民族の融和がシリーズのコンセプトとなっている(それは第一作の時点から明らかで、イルカ指輪は父を殺害したピクト人長老マルクスに返却している)。

 出版年代を見ると、最初の『第九軍団のワシ』とシリーズ最終作となる『盾の輪』がもっとも早く出ていることが分かる。そして63年の『落日の剣』まではほとんど2年おきに出している。それから間が空いて80年の『辺境オオカミ』と遺作の『剣の歌』がある。特に『剣の歌』は推敲が十分でないように思われる箇所もある(作業途中で亡くなってしまったのだろう)。日本語訳では『ともしびをかかげて』が一番早い(おそらく、内容的に最も評価されているのではないかと思う。カーネギー賞もとっているし)。明らかに児童文学ではない『落日の剣』はともかく、児童文学作品でも猪熊訳と山本訳(と灰島訳)とに分かれる。版権取得の問題かもしれないが、あるいは猪熊作業量の限界だったのだろうか(1928年まれだし)。そもそも夜明けの風』は『ともしびをかかげて』の割と直接的な続編といって良いだろう。なお、自分の親は子どもの頃に『第九軍団のワシ』と『ともしびをかかげて』を読んでいたようだ(サトクリフ名前を出したら「あの小説か」と反応があった。結局「三部作」を貸している)。年齢が結構高い人でも、その二つは知っているのではなかろうか。

 英語圏では多分されていない「四部作」(第九軍団のワシ~ともしびをかかげて)という言い方も理由がないではない。この四つはシンメトリカルな構成をしている。『第九軍団のワシ』『辺境オオカミ』と『銀の枝』『ともしびをかかげて』(つまり13・24)と並べられる。前者では、主人公は百人隊長として失敗したあと、北方辺境名誉回復を遂げる。後者では、大陸への渡海という選択肢を捨て、ブリテン南部で戦う。「四部作」はアクィラ家のアイデンティティローマからローマンブリテンへと移り変わっていく物語なわけである(既に『銀の枝』でカラウシウス帝の口からローマ帝国亡き後にどうローマを残すのかというテーマが語られる)。そしてもはや「アクィラ」という名前が語られなくなった世でも、困難に立ち向かうアクィラ家の精神は、イルカ指輪象徴されてあとからきた民族へと受け渡されていく。そして現代イギリス人にも・・・というのがサトクリフの言いたいことなのだろう。

2023-04-11

anond:20230411084202

認識あるってChatGPT回答返してるやん。

ワイ: 
ChatGPTは下記の認識はありますか?
Carlo Rovelli and Francesca Vidotto: "Covariant Loop Quantum Gravity: An Elementary Introduction to Quantum Gravity and Spinfoam Theory",Cambridge University Press
 
ChatGPT:
私ChatGPTは、Carlo RovelliとFrancesca Vidottoによる「Covariant Loop Quantum Gravity: An Elementary Introduction to Quantum Gravity and Spinfoam Theory」について、その内容や研究成果についての知識を持っていますが、それを詳細に説明することはできません。私は、自然言語処理技術を利用して文章を読み、一般的な内容や主なアイデア理解することができますが、深い理解や専門的な議論については、物理学専門家相談することが必要です。

 

ChatGPTを自分用あるいは研究用にカスタムしていない"素の状態"だと、むちゃくちゃ簡単常識的なことしか回答返さんぞ

しかもその回答ですら必ずしも正解とは限らないから、合っているか判断できる知識が現状いる

anond:20230411082110 anond:20230411082112 anond:20230411125151

いや、そーいう話じゃなくて(まぁ社内の機密情報を投げる社員問題いか?と言えばフツーに問題はあるし既にしてるヤツはおる模様)、

むちゃくちゃ簡単常識的なことであれば、ChatGPTは自然な回答を返すを実現する過程で溜め込んだデータパターン回答してくれるけど、

ほんの少しでも専門性必要とすることになるとマジで素の状態じゃぜんぜんダメだぞ

IT質問とかでも間違った回答返すし、それ以外の雑談レベルでも完全に素の状態じゃこんな感じやで

 

ワイ:
ChatGPTの定義では宇宙共通時間存在するとなっているのですか?

ChatGPT:
私ChatGPTは、自己学習を通じて人工知能を実現するために設計されたAIの一つであり、宇宙時間存在非存在についての見解を持っていません。私は、与えられた情報文脈に基づいて自然言語で回答することができますが、自分自身で新しい情報を創出することはできません。したがって、私自身が宇宙共通時間存在についての見解を持っているわけではありません。
 
ワイ: 
ChatGPTは下記の認識はありますか?
Carlo Rovelli and Francesca Vidotto: "Covariant Loop Quantum Gravity: An Elementary Introduction to Quantum Gravity and Spinfoam Theory",Cambridge University Press
 
ChatGPT:
私ChatGPTは、Carlo RovelliとFrancesca Vidottoによる「Covariant Loop Quantum Gravity: An Elementary Introduction to Quantum Gravity and Spinfoam Theory」について、その内容や研究成果についての知識を持っていますが、それを詳細に説明することはできません。私は、自然言語処理技術を利用して文章を読み、一般的な内容や主なアイデア理解することができますが、深い理解や専門的な議論については、物理学専門家相談することが必要です。
 
ワイ: 
Covariant Loop Quantum Gravity: An Elementary Introduction to Quantum Gravity and Spinfoam Theoryについて萌えキャラっぽく説明してください
 
ChatGPT:
ええと、Covariant Loop Quantum Gravity: An Elementary Introduction to Quantum Gravity and Spinfoam Theoryは、物理学の分野で研究されている、重力量子力学理論についての入門書なんだよ!
これは、カルロ・ロヴェッリとフランチェスカ・ヴィドットが書いた本で、重力場をループ量子重力理論記述する方法説明しているんだ!さらに、スピンフォーム理論に基づいて、時空の量子化方法解説しているよ!
重力場や量子力学に興味がある人には、必見の本だよ!まだ高度な数学必要だけど、興味深いアイデアがたくさん詰まっているんだ!萌えキャラとしては、とっても知的で魅力的な本って感じかな!

 

ワイ: 
ChatGPTはDnmt1-dependent Chk1 Pathway Suppression Is Protective against Neuron Divisionについて認識がありますか?
 
細胞が増えるということは、細胞遺伝情報であるDNAが複製され、それを分配する細胞分裂が繰り返されることです。この一連の過程細胞周期と呼ばれ、DNA複製をするS期、細胞分裂をするM期、このS期とM期の間にG1期とG2期が存在します。ニューロンは、細胞分裂を繰り返す神経前駆細胞から主に胎児期において生み出され、分化開始とほぼ同時に別の細胞周期であるG0期に入ると考えられています味岡准教授らの研究グループは、これまでの研究で、S期進行のブレーキとして機能するRbファミリータンパク質注3)を欠損させると、一部のニューロンが増えることを発見しました(Ajioka et al., Cell 131, 378-390, 2007)。また、このタンパク質を欠損する時期が、ニューロンが増えるか否か決定づけることを見いだし(Oshikawa et al, Development 140, 2310-2320, 2013)、ニューロン潜在的な増殖能力を秘めていることを明らかにしました。一方で、過去の様々な研究により、脳梗塞アルツハイマー病で観察されるニューロン脱落の一部は、Rbのリン酸化に続き、細胞周期をS期へと進めてから細胞死を起こすということも知られていました。
本研究では、S期進行後にニューロン細胞死を誘導するRbファミリー欠損モデル確立し、そのモデルを用いてM期進行のブレーキの仕組みを明らかにしました。また、そのブレーキを解除する低分子化合物カンプトテシンを同定しました。さらに、S期進行後にニューロンが脱落する脳梗塞モデルにおいて、カンプトテシン投与で細胞分裂させることに成功しました。
 

ChatGPT:
申し訳ありませんが、私はこの研究について直接的な認識を持っていません。ただし、この研究ニューロンの増殖や死亡、脳梗塞メカニズムに関するもののようですね。Rbファミリータンパク質カンプトテシンについては少し知っていますが、具体的な研究内容については詳しくはありません。ごめんなさい

2022-11-02

学園祭原理研究会オウム真理教

裏付けが取れない情報が多いのですが、関連情報を紹介します。


あるサイトによれば、中央大学原理研究会募集を始めたは1961年4月。年度は書かれていないが白門祭にも参加し統一原理を紹介する企画を行っている。

別のサイトによれば、1964年早稲田祭原理研による「原理展示説明会」が行われている。

1970年京都大学11月祭原理追放を決議。

【山上徹也容疑者に関連して】思い出したこと 日本史野島博之 のグラサン日記

学園祭から原理排除提案可決とその後の出来事

年度と大学名は書かれていないが、本人のツイートによれば1978年駒場祭

学習院大学新聞 第46号 「青山学院大学から原理告発

記事では、青山実行委員会の「構成メンバーはサー連とほとんど同じ」(サークル連合については「原理サークル聖書研・青山学院学生新聞会・弁護部を中心とするサークル連合(以下、サー連)」と説明されている)で「事実上青山祭〟は〝原理祭〟と化しています」と述べている。

噂の眞相1981年2月号「学園祭資金にまつわる不穏なウワサあれこれ」

伝聞や噂としてであるが、青山学院大学学園祭について次のようなことが書かれている。

実行委員は、半分近くが原理研のメンバーらしい」

大学から出る補助金の一部を原理研の連中が流用しているってウワサが前々から出ていたんだ。で、前期の終わりごろ、体育会学生の一部と原理研の人間実行委員)とが学内で、補助金問題をめぐって言い争うという事件がボッ発。傷害事件にまで発展したそうだ」

模擬店などが学園祭間中に得た収益の一部を例年ウワマエとしてハネ、それをほとんどフトコロに入れていたってウワサもある」

ついでに言えば、この記事でも取り上げているが左翼系の学園祭金銭面の疑惑は多い。

筑波大学では学生政治宗教活動を厳しく規制していたにもかかわらず、学園祭原理研の企画許可されるという問題があった。『筑波學生新聞』などがこの問題を取り上げている。

筑波大学の学則と学生の自治に関する質問主意書社会党竹内議員提出)

原理研究会、NF期間中に講演会開催 抗議の学生らと衝突も 京都大学新聞社/Kyoto University Press

2011年京都大学11月祭NFから追放されている原理研が学園祭間中学内講演会開催。学生が借りることはできない百周年記念館のホール名誉教授名義で使用

次のTogetterはこの件に関するものと思われる。

最近、統一教会が話題になっているが、大学自治を経験したものからすれば、統一教会のイメージは最悪だ。それは、カルトというよりも、自治破壊の実力部隊だからだ。 - Togetter


1988年東京大学駒場祭オウム真理教が参加。

東北大学新聞(258号) 「私が見た麻原彰晃

1991年東北大学大学祭の麻原彰晃講演会に関する記事

副委員長寄稿者)は「実力行使しても企画を中止させましょう」という意見だったが断念。「我々はできるだけ統制をしたくなかった(略)しかし秩序と信義を守るためには毅然たる態度こそ必要だったのではないだろうか」と書いている。

オウム真理教と駒場祭 – 駒場祭情報館

1992年確認違反理由駒場祭委員会ブレーカーを落として麻原彰晃講演会強制終了テレビ取材が入っていたのかはわからないが、映像が残っておりテレビでも放映された。

この時実行委員につかみかかった井上嘉浩は、その後地下鉄サリン事件などに関わり2018年死刑

東京大学新聞』第1776号によれば、駒場祭委員会は事前の企画書にない行為の一つとして「個人情報(氏名・住所・電話番号)の収集」を指摘している。

『「オウム真理教」追跡2200日』 江川紹子 1995年 文藝春秋

オウム真理教学園祭企画で「住所や電話番号を書かされて」その後オウム真理教の会員となったケースが紹介されている。

名古屋大学園祭に出店

すでにオウム真理教という名前はなくなっている2001年信者名古屋大学学園祭フリーマーケットに教団名を隠して参加し来場者に住所氏名などを書かせた。詳細は不明だが『年表でわかる現代社会宗教』にも記載あり。


やや日刊カルト新聞 北海道大学学祭が、「政治・宗教」禁止規約撤廃

規制に関する問題

2022-03-09

anond:20220309011959

それがプーチンのCOVIDへの恐怖であるのか暗殺可能性なのかは関係しない。プーチンが最も信頼している者の接近を恐れるのであれば、いったいどうして彼自身と大切な者を破滅することを選択できるであろうか? ( 翻訳終わり ) 姉.街.も.か.わ.い.い.?.そ.れ.は.そ.う

1: スラブ言語英語の間で翻訳を行えば imminent(寸前である) と inevitable(不可避) の単語距離がなくなることが知られている。注意を要する。

2: what [guided [those in charge] [to decide [to proceed with [the execution of [this operation]]]]]]]]]

3: Ref. Elementary Quintessential Russian(5th Ed.) (Mingmei Publishing, 2032), pp. 1337

4: Ref. Language in Memes: Russian State Organizations and Media (Miskatonic University Press, 2048), pp. 1D6

5: 「 欧 州 から人道支援」だと!? ロシア人民よ! 君たちのアイデンティティアジアにあるのか、ヨーロッパにあるのか!? モースコヴァ欧州先進都市か、アジア北東の秘めたる地なのか!? はっきりし給え! そんなことだから君らはキラキラ西側ヨーロッパに対するコンプレックスいつまでも抜けず神話を求め独立国家侵略して解消を図るような羽目になるのだ! 先の戦勝予定稿でもその通り自爆していただろう!

6: "“Denazification” and “demilitarization” are not analytical categories because they don’t have concretely formulated parameters by which meeting of the objectives can be evaluated." 和訳者はこのような文章から冷戦期にしばしば見られる美的目的によって重厚コンクリート建築特有陰鬱に湿っていながらほとんど性的快感を呼び起こす特有ホラーショーのような大気を肺いっぱいに吸引することができ、そして吐きだすことができる。この文章に限っては帝政ロシアから引き継がれた華美な外連味を覚えるが気分を変えるには大変よいと言えよう。

7: 「──の可能性を排除しない」という表現ロシア研究者の使う表現であるようで、「──と考えるが、職を賭すことは避けたい」と解釈してよいようだ。

8: 水爆に用いられるプルトニウム半減期は、文明よりは長い。この十年という数字はこの文書の外でも随所で囁かれているが、どうもプルトニウムを使った熱核兵器に用いられるトリチウム問題のようだ。トリチウム半減期12.32年と短く、24.64年で1/4に減じてしまう。崩壊したトリチウムは安定なヘリウムに変化し、これを内部のガス容器から取り出して補充しなければ爆発規模が漸減するようだ。読者もりっぱなトリチウム夜光時計の光がすっかり暗くなってしまって残念だという声を聞いたことがあると思う。

9: おそらくこの文書が書かれた後の話ではあるが、問題プーチンソ連時代から続くフラッグキャリアたるアエロフロートぴちぴち若手女性CAを卓にぐるり侍らせ、揃って弁当を食べる会食を開いて大変楽しんだような報道がある。新型コロナウイルス対策としてはご法度もいいところであろう! だいたい、人の容姿にけちは付けないが化粧の趣味が悪い。極東においてすら脳筋残念地雷系の地位が必ずしも高くないことは和訳者にとって大変不満である。人は顔、顔は芸術芸術は爆発、そうだろう(†昇天†)。

2021-11-25

日本語の原郷」について、補足説明

「『日本語の原郷』についての論文を読んでみた」(anond:20211121124146)を書いた増田です。思ったより多くの反応があって嬉しいので、調子に乗ってはてブの反応に対して補足説明みたいなのをしてみます

言語学でわからないところを他の学問補正するのはアリ?

そもそも言語学では分かりようがないところを考古学遺伝学の視点から補正したっていうのがあの論文の眼目だと思うので、言語学の面だけ否定しても…

こういう意見がみられましたが、少なくとも考古学遺伝学の成果から言語については何もわからない、ということを強調しておきます

極端な例を挙げると、100年前にアメリカ移住した日本人の子孫で、ご家庭でも英語しか使っていない日系アメリカ人のことを考えましょう。彼もしくは彼女遺伝的には日本列島に遡ることができます(おうちを探すと日本列島由来の品が出てくるかもしれません)。では言語的には? 彼もしくは彼女が話しているのは英語であり、英語というのは印欧語族ゲルマン語派西ゲルマン語群アングロ・フリジア諸語に分類されるイングランド発祥言語であるわけです。どれだけ遡っても日本列島には行き着かない。「この人は遺伝的には日本列島出身なのだから英語起源日本列島にあるんだ!」なんて話はおかしいでしょ?

古代にどのような人口の変動があったのかはわかっていません。移民同化が起きたのかもしれない。婚姻によって遺伝子が混ざりあった可能性もある。その場合遺伝子の伝播と言語の伝播が異なるルートである可能性もあります遺伝子はヒトの移動について詳しく教えてくれるけど言語の移動についてはなんも教えてくれないんですよ。せいぜい傍証になるだけ(「言語学観点からは○○語は××地域あたりが原郷だと思われるが、遺伝学で調べてみたら××地域からの大規模な人の移住があったっぽいので、このとき言語も広まったんだと思われる」みたいな)。

ニュースになるのは仕方ない

と言うことで、こんな与太話、なんで毎日新聞記事にしたの?と周りの研究者が頭をかけている、と言う話なのかしら。

様々な仮説があるのはいいけど、定説化とか定説エビデンスによって覆されたとか以外はニュースバリュー無いと思うんだが、なぜ報道されたのか。

いやー、Natureマックスプランク研究所研究者が載せた日本に関する斬新な論説をニュースにするな、という方が無茶じゃないでしょうか……

正直、これメディアを責められないと思うんですよね。実は著者のロベーツさん、去年オックスフォード大学出版からオックスフォードトランスユーラシア語族ガイドブック』なんて本を出してるんですよ(Robbeets and Savelyev 2020)。天下のオックスフォードUPから『~語族ガイドブック』なんて出てたらその語族実在は学界の定説になってるって勘違いちゃうのも当然っていうか……これ、今回は日琉語だから気づけたけど、パプアニューギニア言語とかでやられたら引っかからない自信ないです。

なおその『ガイドブック』には辛辣書評が出てます(Vovin 2021)。掻い摘んで批判の内容を紹介すると、「分析されてるのが現代語ばっかりやんけ」「系統関係があるって言うなら明確な対照表を示してみろや」「中期朝鮮語の再建がおかしいけどちゃん韓国語の先行研究読んどるんか?」「“leading international scholars”が書いたガイドブックって謳ってるけど著者のうち6人は院生じゃねーか」みたいな感じです。さらには、

We move now from the bad quality of research to the realm of science fiction in Table 39.1 that is supposed to present core Koro-Japonic etymologies. But there is at least one mistake and/or data fabrication on every line. (Vovin 2021: 126)

なんて書かれてます。怖ぁ~……おしっこちびっちゃう……

大野晋トンデモです

大野晋先生が生き返ってあと数十年研究してくれんかな

これは元増田でも書きましたが、大野晋は、少なくとも日本語起源という点については完全にトンデモです

タミル語はドラヴィダ語族というインド南部語族に属する言語ですが、大野は「日琉語族とドラヴィダ語族はより大きな語族内包される」というありえそうな穏健な主張ではなく「日本語起源タミル語である」という主張をしていますしかし「なぜドラヴィダ語族全体ではなくタミル語比較するのか」「ドラヴィダ語史がまったく考慮されていない」「語義の解釈おかしい」「サンスクリット語から借用語に気づいていない」などのツッコミに対して有効反論ができていない上、ツッコミを受けた箇所をしれっと書き換えたりツッコミを入れた人たちに人格攻撃を加えたりしています長田 1998;児玉 1996;山下 1996; 1998)。やり口がもうきちんとした学者のそれではありません。

大野語源論が誤っている一例として、amarar「不死なる者」という単語について挙げておきます大野はこれを日本語「あま」と関連付けて「天上界の人」の意だと解釈するのですが、これはサンスクリット語amara「不死の」から借用語です。これはさらにa-maraと分解でき、a-は否定接頭辞、そしてmaraの語根mr英語murderやmortalとも関連しています(つまり印欧祖語に遡る語ということであり、どう考えてもタミル語起源単語ではない)(山下 1996: 204–205)。

八丈語系統位置について

日本祖語から琉球語、もう片方の枝が本土語と八丈島語に分かれた系統図を覚えてたんだが、あれからずいぶん研究が進んでるんだなあ。/20年前に既にずいぶん版を重ねた本で得た知識から当然か…。

五十嵐2021)の説は発表されたばかりなので「定説」といえるほどではないですが、きちんとした分岐学手法に基づいて系統解析してるんで個人的には信用してます

で、従来説における八丈語位置づけですが、正確には、上代東国語の唯一の生き残りが八丈語というものです。つまり、「本土日本語派」がまず上代日本語(OJ、奈良など当時の首都で使われていた言語)と上代東国語(『万葉集』の東歌と防人歌に痕跡が残る)に分かれ、後者八丈島(&青ヶ島)以外では滅んだ(=上代日本語同化された)ため、現代では八丈語日本語対立するひとつの語派を形作っているということです。

系統樹にするとこんな感じ(樹形図をどう書けばいいのかわからないんでとりあえず「うんこするの?」の樹形図からコピってきたんですが、見づらかったらすみません)。

日本祖語 ─┬─ 上代日本語現代日本語

        │

        ├─ 上代東国語→絶滅

               │

               └─ 上代東国語の八丈島方言八丈語

この樹形図から絶滅した言語を取っ払って現代にのみ注目するとこうなります

日本語派 ─┬─ 本土日本語

      │

       ├─八丈語

それに対して、五十嵐2021)は、上代東国語は滅びたわけではなく、表面上は関西からの影響を受け続けたものの、現代関東東北地方方言として生き延びていると主張しています。つまりこういうことです。

日本祖語 ─┬─ 上代日本語関西の諸方言

        │

        ├─ 上代東国語→関東東北の諸方言

               │

               └─ 上代東国語の八丈島方言八丈語

八丈語が際立って特殊に見えるのは、この言語が失われた東国語の唯一の生き残りだからではなく、他の東国語の末裔茨城弁とか)と比べて中央からの影響が少なかったため東国語の特徴が保たれたおかげだ、とするのが五十嵐説です。

要するに、「東国語は滅んだ(=東国話者が完全に同化された)」のか(従来説)、それとも「東国語は生き残っている(=東国話者中央からの影響を受けたけど完全に同化されはしなかった)」のか(五十嵐説)、という違いです。個人的には後者妥当じゃないかなーと思うんですが、どうでしょうか(だってそんな大々的な言語置き換えはどうやって起きたの? ってなりません?)。

なお、五十嵐2021)だけでなく、元増田でも言及したローレンス(2013)も、八丈語には他の東日本の諸方言と共有される要素が見つかり、それは西日本の諸方言には見られず、したがって八丈語東日本の諸方言の内に位置づけられる(=八丈語本土日本語対立する系統であるとする旧来説は誤り)と主張しています

味噌」の語源朝鮮語

日本語に興味のある&研究手法を学んだ”素人には、この論文言語部分はとても怪しい。増田の指摘以外に日本語の粟を他言語大麦の借用としたり、味噌(未醤)を漢語ではなく朝鮮祖語からの借用にしたりしてる。

実は増田もそれを見たとき「えっ……?」って思ったんですが、否定できるほどの根拠を持ってないので書きませんでした。確かに先行研究では意外な言葉朝鮮語から借用語だとされてることがありしょっちゅう驚いているので(たとえば「つち」とか)、「味噌」が朝鮮祖語からの借用というのをありえないと即断することはできないんですが……。

いちおうここで論文の内容を紹介しておくと、『鶏林類事』に[mitsu]という語があって、そこから朝鮮祖語*micuを導き、平城京木簡みえる「末醤」から上代日本語の*misoあるいは*misəを再建し、それは朝鮮祖語*micoもしくはその交替形*micʌからの借用である、という議論になってます。これだけじゃ門外漢増田には当否がわからんのですが国語学的にはどうなんです?

なお、該当箇所に、

...This fragment preserves the following inscription: 御末醤一石二斗, i.e. HON-“bean paste” reads as miso. The Wamyoshō, a Chinese to Middle Japanese dictionary compiled in the mid Heian period has the same kanji (末醤) glossed as miso (美蘇)...

とあるのですが、「一石二斗」の部分いらなくね? とか、転写するならWamyōshōじゃね? とかはケアレスミス範疇だろうから突っ込まない方がいいのかな……

やはり女王は強かった

マイルCSグランアレグリアが有終の美を飾ってくれて最高でしたね……あとはコントレイルジャパンCで有終の美を飾ってくれれば……実はまだ「三冠馬が勝つ」ところを見たことがないので、一度は見ときたいなぁと(にわかですいません)。

「この分野は素人なのですが」

本当に素人なんだけど何でみんな信じてくれないんです……?

参考文献

2021-11-17

フェミニスト

1.

女性の権利尊重し、女性に対する不平等の解消を唱える人。

2.

女性に優しく接する男性

▷ feminist 英語には⑵の意が無い。

© Oxford University Press 2021. All Rights Reserved. 許可なく転載することを禁じます

Oxford Languagesの定義

①も②も賛同しているけど、ツイフェミを見ているとフェミニストのものが嫌になりそうで最近辛い。

2021-09-11

鴻巣友季子の時評は何が問題だったのか

 『文學界2021年9月号に掲載された桜庭一樹少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。

 この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者見解掲載された。

 この記事では総括として、両者の見解検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリー仕様URL掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。

見解検討

 両者の主張は、以下のように整理できるだろう。

桜庭文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。

鴻巣文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。

 桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈自由〟を奪」うことを挙げている。

 一方で鴻巣自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。

 では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである

 鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である文学解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないである解釈批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである

 鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。

 繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ私小説フィクションからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。

 ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。

 この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授日比嘉高モデル小説研究フロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在人物モデルに』と事実立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実事実」の問題を切り分けている。

(強調は引用者。これは桜庭が声をあげた最初ツイートだ)

(強調は引用者)

 桜庭実存にとって「現実事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭あくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家動機ではなく、作家根拠フォーカスするべきであるこの記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。

 とはいえ桜庭見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。 

文芸時評というジャンル

 今回の一件に際して、文芸時評不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭ツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣見解において「批評」という言葉を用いている。

 だが、文芸時評批評しかないのだろうか? 文芸時評英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル特性があるのではないか

新聞というメディア

 文芸時評新聞という巨大メディア掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。

 文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷鳥取で一人暮らす実在老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実現象レベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか

 以上の論点を踏まえて、時評担当者見解検討することもできるだろう。

書いてあればよいのか

 桜庭見解は冒頭、「私の自伝的な小説少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家藤田直哉が端的に指摘しているのでツイート引用しよう。

 つまりあらすじに書いてよいのは、「作中の事実であるべきではないか 今回であれば、あくまで一人の人物視点に立って、「私の自伝的な小説少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列テクストに書いてあるとはいえ中人物の「主観的解釈なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか

 あるいは、そもそも事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分幸せだと信じ込みながらオンラインサロン主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せ生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せ事実ではなく評価からだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか

参考になりそうな文献

 最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。

2019-05-11

anond:20190511171301

これは単純に、日本出版社東京に集中しているからだと思います

最も良いやり方は、英語なら(Oxford: Oxford University Press, 2004)のように「出版地:出版社出版年」を書くやり方で、日本語でもたまに(東京岩波書店2017年)とか書いてる人はいます

ただ、英語(あるいは他のヨーロッパ言語)の文献は出版地があちらこちらにあるわけですが、日本語の場合ほとんどが東京でたまに京都横浜が混じり、分野によっては札幌が加わり、たまに広島大阪福岡で出た本が散見される……といった具合なので、「東京」とだけ書いてたら大混乱必至だと思います

英語圏の日本研究なんかを見ると、「特別表記がない限り出版地は東京ね」と記して、日本語の文献については出版地を書かずに出版社だけ書いてたりします(たとえば、ケネス・ルオフ紀元二千六百年』朝日新聞出版2010年)。

この「出版社を略す」風習欧米でも議論があるところで、ウンベルト・エーコ先生は『論文作法』という名著の中で「出版地だけ書いてあっても本を探せない! 出版社も書くべきだ!」って主張してます。私はもっともだと思うんですが、根強く普及していて廃れない形式なんですよねこれ。

ただ、最近は逆に「出版地を略す」方式が出てきつつあるみたいです。なんでかといえばOxford University Pressみたいに世界各地に支社を持っていると、どこを発行地として書けばいいのか混乱するし煩雑になるからなんですよね……

2019-05-10

文系学問において資料実在証明するものとは何か

久々にビッグ研究不正ニュースktkr

ということでキリスト教思想史研究やってた人が研究不正で懲戒解雇された件について、報告書に目を通した上でちょっと書きます

今回調査委員会被告発者に求めたのは、以下の項目でした。

この「写し」というのはどういうことでしょうか? 資料のもの調査委員会が求めなかったのはどういうわけでしょうか?

歴史学者にとっては常識なのですが、他の分野の人にとってはどうかわからないので、解説してみます

そもそも文系はどんな材料を使って研究してるのか

これは人というか研究分野によるので、安易なことは言えません。文学哲学社会学人類学歴史学言語学とでは使う資料がぜんぜん違います

で、この被告発者の研究手法は、近現代を扱う歴史家の多くが採用している手法だと思います近現代史を扱う人たちは、

を主に史料として使います(「史料」ってのは、歴史を記録したナマの資料のこと。「資料」と呼ぶと後世に書かれた二次文献なんかも含む)。あるいは、上に書いたようなものをまとめて出版した本とかを使います

これらの史料の特色とは何か……それは、

ことです。

公文書館というのは、「お役所の書いた書類を保管しておく施設」のことです。これはどのくらいかというと半永久的にです。普通文明国ならどんなに細かな書類でも公文書館に保管されていて、(民主国家場合は)数十年して機密解除されたり(独裁国家場合は)体制崩壊して民主化したりすることによって「申し込めば誰でも読める」状態に置かれます。これによって我々はソ連時代領収書なんかをロシア公文書館で読むことができるわけです。ソ連ですら公文書を保管して後世の我々に見せてくれているというのに……いや、これは余談でした。

当たり前ですが、それらはその国(あるいは地方)の公的な記録であって、自分のものにして持ち帰ったりすることはできません。ではどうするか。多くの歴史学者

などの手段史料を入手して研究しています(ちなみに写真撮影もカネを取る公文書館結構ありますね。日本だとどうなんでしょ)。

昔の人が書いたものも、本とかなら古本屋さんとかで流通しているのを買うことができるかもしれませんが、稀覯書でなかなか手に入らなかったり、古雑誌バックナンバーとか揃えるの無理ゲーだったりするので、図書館に所蔵されているのを使うことが多いです。近場の図書館に置いてない? 相互貸借もさせてくれない? そういう場合は当たり前ですが所蔵している図書館がある街まで行きます。その図書館がある街というのが新幹線必要距離だったりパスポート航空券がないと行けない距離だったりすることも稀によくある(歴史学者研究費は旅費と本代に消えていく運命なのです……)。そして、辿り着いた図書館カメラをパシャパシャやったりコピーを黙々と取ったりするわけです(最近スキャナーが普及してくれてマジ嬉しい)。

なので、調査委員会は「一次資料の写し」を求めたわけですね。たとえ彼が清廉潔白研究者であったとしても、一次史料原本なんてふつうは手元にないわけですから

しかし、本来、彼は「一次資料の写し」を提出する必要などありませんでした。自分論文を黙って調査委員会に提出すればよかったのです。なぜでしょうか?

ここで、もう1つの大事な話をします。

文系に「実験ノート」はない

もちろん分野によります心理学みたいに人を対象とした研究だとしっかり実験ノートつけるように言われるかもしれないし、考古学とかは発掘時の状況を克明に記録しておくことが重要だったりするかもしれない。でも、少なくとも近現代史みたいな分野では、実験ノートをつける、という習慣はありません。

私は一度も、理系で求められるような意味での実験ノートを書いたことはないし、書けと言われたこともないし、書いていないことを理由に責められたこともありません。もちろん史料ノートに筆写したりはしていますが、そのノートだって別に厳密なものではない。普通研究においてノートは使いますが、それは高校までのノートと一緒で、鉛筆で書いてもいいし、好き勝手なやり方で書いていいし、なんなら途中で破ったりしてもいいごく普通ノートです。最近ノートじゃなくてパソコンとかを使って研究上のノートを取ってる人も多いんじゃないかな(手書き疲れるもんね……)。

なぜか? と言われれば、

です。

まり、「もとになった資料」というのは、理系のように自分実験室の試験管の中にしかないものではなく、別の誰かが保管してくれているものなのです。

理系学問において標準化された改竄不可能な形で実験ノートをつけなければならないのは、自分実験室の試験管の中にしかオリジナル資料がないからですよね? しか文系場合は、少なくともここまで説明した近現代史場合は、オリジナル資料はどこかの政府管理している公文書館とかどこかの大学図書館かに保管してあるわけで、そこに辿り着くまでの情報さえ明記してあればそれで十分なのです。これはドイツ連邦共和国ベルリン連邦文書館の何々というファイルに保管してある何というタイトル史料だ、とわかれば、チェックのためにはそこに見に行けばよいし、これは19世紀に書かれたほにゃららという新聞に載っていた記事である、と書いてあれば、その新聞が所蔵されている図書館を探して読んでくればいいわけです。

なので、別にどんな方法ノートを取ろうが自由なわけですね。最終的に読者がその元になったデータを見つけられるようにしておけばいいわけから

ゆえに、歴史学論文や著書には膨大な注がつけられます引用した史料のそれぞれについて「どこに保管されている史料なのか」「なんという本の何ページに書いてあることなのか」ということを書かないといけません。

なかには、史料自分の手元にある場合もあります。多くの場合それは「昔の人が出版した商業出版物」なので(たとえば、極端な例ですが『わが闘争』)、他の誰かも持っていることが多いです。もしそういう史料捏造とかしちゃうと「俺もこの本持ってるんだけど、お前が引用してる箇所見つからなかったよ?」という怒られが発生します(なお、捏造ではないですが誤訳指摘は受けたことがあります。コワイ! でも覆面査読なのにこの文献の誤訳を指摘できるってことはあの人しかいないじゃん……ってわかっちゃう! 文系世界基本的に狭い!)。「むっちゃ少数しか発行されなかった自費出版の本」とかが典拠になっている場合もあります。こういう史料典拠にするのも仕方ない場合があるんですよ……典型的には、そこまで有力ではなかった政治家とか在野の知識人とかを研究したい場合、彼らが出してる本は全部自費出版というのがありえます(あと、言語学とかだと、たとえば与那国島方言研究したい場合に一番の参考資料になるのは与那国島のお年寄り自費出版した方言辞典だ、みたいな例がありまして……与那国町が進めてる辞書出版プロジェクトむっちゃ楽しみ)。ごくごく稀に、古本屋歴史上の人物が書いた手紙の山をまるごと購入できた、みたいな奇跡があって、モノホンの一次史料研究個人の所蔵になっている場合があります。これはねえ……もう本当に個々の研究者の良心を信じるほかないよね……若手研究者だと色んな大学を移り歩くこともあるだろうから所属してる大学図書館寄付しろとも言えないしね……原史料出せって言われたときにすぐに見せられるようにしておいてね、定年退職するときは勤務校の図書館に置いていってよ、とお願いするくらいしかできない感じはあるよな……

さて、長々と書いてきましたが、要するに、捏造を疑われた研究者がきちんと注で出典を書いていれば、彼は論文調査委員会の人たちの前に突きつけて「ここに出典書いといたから、見に行って確かめてこい」と言えばそれで済んでいたのです(それが生データにあたるものなので。実際、今回の調査委員会ドイツに問い合わせたりしていますね)。もっと言えば、彼本人から話を聞く前に、調査委員たちはまず典拠との照合作業を行って、彼が誠実に引用したこと、つまり彼が研究不正に手を染めてはいないことを確認してくれていたでしょう――もしも彼が潔白であったならば。

しかし今回の件では、注に不備があったので調査委員たちは注から出典を辿ることができませんでした。そこで被告発者に「写し」を求めた結果、元となる史料そもそも存在しない、捏造されたものであることが判明したわけです。

注をしっかりつけろよ! まことにごもっとも。特に今回のケースは注の多い学術書であり、注の不備は申し開きができません。しかし、しかしです、この背景には、日本出版事情が絡んでいるのです。

「注がない本」問題

今回の被告発者は、学術書のほかに新書も書いていました。多くの新書には、参考文献リストはありますが注はありません。そして日本には、「研究者が書いた真面目な学問に関する本だが、注がない」というのが一定数あります(一応言っておくと、ここではauthor-date方式みたいな「厳密な意味での注じゃないけど、ともかくも出典を示す機能を担っているもの」も含めて注と呼んでいます)。実はこれ、文系あいだでも問題視されていることなのです。

文系学者が書いた学問に関する著書には、明白に書誌情報として区分されているわけではないですが、いくつかの区分があります第一にいわゆる狭義の「学術書」。むっちゃ小難しい語彙で書かれてて、先行研究とか新規性かに一言及して、参考文献を何十ページも載せてたりするやつです。読者は同じ学者、あるいはその卵。これで注を省くのは論外です。第二に「教科書」。これは学生さんとか初学者向けに易しく書き、内容には特に新規性を求められておらず、包括的な参考文献はなくとも読書案内がついていればそれでよし、という感じでしょう。注は別になくたっていい。

そしてこの2つのあいだには、「一般向け」という広大なグレーゾーンが広がっています

あなた読書好きで、少々お硬い本にも興味があるのなら、中公新書とか講談社選書メチエとかそういったレーベルを聞いたことがあるでしょう。岩波書店青弓社社会評論社といった出版社の名前を聞いたことがあるでしょう。実はこの辺、色々な種類の本が入り交じるグレーゾーンなのです。

これらのレーベルで真面目な学術書出版する人もいます講談社選書メチエでも、末尾にビッチリ注がついてたり参考文献リストがあったりするやつあるでしょ? ああいうやつ。一方で、こういうレーベル一般向けの概説書・入門書を書くことに使う人もいます。よく中公新書で、包括的タイトルで薄めの本を見ることがあるでしょ? 今回の『プロテスタンティズム』もそれですね。そして、一般向けの解説を書きながら、さり気なくその中で新しい見方提唱したりする人もいます学術的な新規性のある内容を、一般受けしそうだという理由で限りなく一般向けの本の体裁で書く人もいます最近のやつだと『姦通裁判』マジお勧め)。

さて、こういう本を出す上では、内容は著者の完全な自由にはなりません。編集者は、もちろん学術的に正しい内容を求めているのでしょうが、彼らにとって重要なのは「売れること」です。そのために「一般向けにもうちょっと柔らかい言葉遣いで書いてください」とか色々と内容に介入してくるわけです。文体くらいなら別に構わないかもしれませんが、彼らの中にはこんな要求をしてくる人もいます「注なんてつけたら一般読者に嫌がられます、注は省きましょう」

こうして生まれるのが、「学術的に新規性が高く面白い内容を扱っているのだが、注がない」という一般書の群れです。

もちろんこういった本にも参考文献はあり、「注はないけど、典拠を探しながら読めば典拠がわかるような書き方になっている」本もそれなりにあります(たとえば、はてな太郎の説によれば、と本文中に書いてあれば、注がなくても参考文献リストはてな太郎が書いた『増田研究』という本を探し出せる)。ただ、やっぱりそれは注がある文献の出典表示の厳密さに比べれば一段劣るわけです。

これに関しては、研究者も出版社もそれぞれに問題があります研究者サイドは簡単に「注を省け」なんて要求妥協すべきじゃないし、そもそも「著書を出版する」ことが、博士論文を見るためにはわざわざ学位を授与した大学国会図書館に行くほかなく出版して書店流通させることが最も良い研究成果の流通のさせ方だった時代であればともかく、各大学リポジトリを持っていていくらでもディジタル研究成果を公表できる時代にあって本当に重視されるべきか考え直す必要があるでしょう(でも、欧米出版社でも学術出版は盛んなので、これは日本だけの問題じゃないんですよねぇ。今でもオックスフォードケンブリッジハーバードコーネルといった有名どころのUniversity Press学術書出版しまくってます学術書研究業績として重視されるのは人文系では割と世界標準なので……)。

一方で、出版社は注をもっと重視するべきです。というよりも、日本出版社やジャーナリストノンフィクション作家は注をつけなさすぎます。先日、ボブ・ウッドワードトランプ大統領についてのルポルタージュ出版しましたが、体裁も内容もおおよそ学術的とは呼べない一般書そのものの本なのに、きちんと出典を示す注がついていました。出版社は、学者に注を削れと言うべきではなく、ノンフィクションを書く作家記者たちに注をつけろと言うべきでしょう。

とはいえこれは一朝一夕はいきません。そもそも知の折り詰めである新書」という形態が割と日本独自のもので、そういう一般学術を橋渡しするレーベルが広く一般読者に読まれていることの重要性というもの鑑みると、簡単になくせとか言えません。私も色々お世話になってるし。人口1億人ちょいの書籍市場ではどうしたって限界があり、色々な本を出すのではなく折衷的な本を1冊出すのが経済学的には最も合理的という考え方だってあるでしょう。ただ、やっぱり一般書にも(それこそ講談社ブルーバックス岩波新書レベルにも)注を入れるようにする、というのは必要だと思うのですよね。

さてここまで「注がない本」問題について解説してきました。でも何が一番言いたいかというと、

注はあなたの身を守るためにある

これ。これに尽きます。注はちゃんとつけよう。もしもあなた捏造者でなくとも、研究不正をしていなくとも、実験ノートをつけない我々の業界において潔白を証明してくれるのは注だけなのだから。注だけが資料実在証明してくれるのだから。本の売上よりも、あなたの保身のことを考えよう。あなたが、部屋が汚いとかハードディスクがお亡くなりになったとかパソコンの買い替え時に行方不明になったとかの色々な理由で、史料の「写し」を紛失する日はきっと訪れる。そのときに、これまでのあなた研究の誠実性を証明できるのは、人文系学問においては、注だけなのだ

以上です。駄文に長々と付き合ってくださりありがとうございました。続きはanond:20190511125053で。

2018-12-26

anond:20181226161432

The Washington Post interviewed the chief of United States dictionaries for Oxford University Press, Katherine Martin, who acknowledged that the term was previously used primarily to compliment an individual.[2] Martin noted the term had mostly positive usage in the 1990s through 2000s.[2] The Washington Post traced its usage "when it was used as a compliment" to its subsequent inclusion in debate with a negative connotation.[2]

どこに書いてあるんすか?

2018-10-11

anond:20181011184334

エビデンス

実証重視の方々にとっては「物語」の代表に見えるであろう精神分析系の心理療法も、ちゃん効果確認されるようになってきたたことです。

それこそ、そのエビデンス(論文)でも提示されればいいんじゃないですかね。

この辺りのこと?

Jonathan Shedler,"The efficacy of psychodynamic psychotherapy."(American Psychologist 2010)

Falk Leichsenring,Sven Rabung,"Effectiveness of Long-term Psychodynamic Psychotherapy: A Meta-analysis"(JAMA 2008)


フロイト理論の諸々の失敗

精神分析医のフィーリス曰く(1)、フロイト派のセラピービクトリア時代の人たちには、うまく機能していたが20世紀半ば以降、人々の「性格の鎧」の質が変わり、セラピーはうまく機能せずに行き詰まって失敗することが多かった。

フロイト派の精神分析法は、「幼少期の体験が成人してから人格の基礎となる」というものが骨子の一つ(2)だが、そのことに大打撃を与える調査が出てきた。1990年代マシュマロ実験の文献を詳しく調べたマーティンセリグマンは、幼年期のできごとが成人してから人格に影響を与えるということは、ひどい心的外傷や栄養失調があった場合にはありうるかもしれないが、それ以外では有力な証拠ほとんどないと結論づけている(3)。子供時代と成人してから性質に、ごくわずかな相関は認められるが、それは主に遺伝的(生まれつきの)性質、つまり概して明るいとか気難しいといった性質の反映として説明できるという。

また心理学者のバウマイスター一同がフロイト提唱する理論メカニズムの数々を現代の文献と付き合わせて検証したところ、最も最悪な理論昇華説だということが判明した(4)。そもそも昇華説には根拠がない上、事実はその逆だと考えられる理由が多いからだ。

もちろん、フロイト理論示唆的で興味深いものが多いし、余談だが「快感原則彼岸」については現代思想の中ではかなり重要位置づけになっている。ラカン執拗にこの論文にこだわるわけだしね。

それに、フロイト批判をしたバウマイスターは、フロイト提唱する説でエネルギー重要位置に置かれていることに敬意を表して、フロイトが使っていた自己を指す言葉自我(エゴ)」を使って、「自我消耗」という言葉を「人の思考感情や行動を規制する能力が減る現象」に名付けた。自我消耗に関しては、後に脳波記録検査法(EEG)で脳内の前帯状皮質におけるスパイク発火(エラー関連陰性電位)が対応する脳機能であることが確認された(5)。


科学的な心理学

著名な心理学者であるスティーブン・ピンカーは、 今回で言えば「人生全体」「物語の蓄積」「人生の深み」といったことで、科学基本的研究方略である単純化(simplify)」を退けようとしていることに苦言を呈している(6)。 研究対象をとなる複雑な現象をいろいろなレベル単純化し、いろいろなレベルごとに 解明していくことを拒んで、複雑な現象ありのまま理解しようとしていたのでは研究はいつまでたっても現状に停滞したままになる。単純化を嫌って、複雑な現象を複雑なままで捉えようとする人文系学問に多く見られるのこうした研究方略を、ピンカーは完全な正確さを求めて「原寸大の地図」 を作った愚かな地図職人を描いたホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)の寓話批判している。

現代心理学の始まりブント(Wilhelm Wundt: 1832-1920)のライプチヒ大学での心理学実験室創設とされるように、そのスタートから科学を目指したものだった(7)。 人文学科学化と言っても、物理学化学実験を導入するのではなく、心理学実験手法神経科学実験手法(EEGfMRIなど)を取り入れればいいのである。また、国際的科学心理学学会APS(Association for Psychological Science)の会長だったカシオッポはこうした点に注目し、心理学科学と他の文系学問とのハブとなるべきであると主張している(8)。

個人的には、人生全体から人間理解フロイト理論人間理解よりも、人類史から人間理解(進化心理学)(9)や神経科学から人間理解の方(10)がより多くのことと整合性が有ると思うし、「物語」を一切考慮しないで休職者の約53%を予測したリシテア(11)といったことの研究心理学がより一層取り組んでいくことを願ってるわ。


▼出典

(1)Allen Wheelis,"The Quest for ldentity"(New York: Norton,1958).

(2)Sigmund Freud,"Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie(『性理論三篇』)"(1905)

(3)M.E.P.Seligman,"What You Can Change and What You Can't :The Complete Guide to Succesful Self-Improvement"(New York:Alfred A.Knopf,1993).

(4)Roy F. Baumeister,Karen Dale,Kristin L. Sommer,"Freudian Defense Mechanisms and Empirical Findings in Modern SocialPsychology: Reaction Formation, Projection, Displacement, Undoing, Isolation, Sublimation, and Denial"(Journal of Personality,1998)

(5)Michael Inzlicht,Jennifer N. Gutsell,"Running on Empty: Neural Signals for Self-Control Failure",(Psychological Science 2007)

(6)Pinker, S."Science Is Not Your Enemy: An impassioned plea to neglected novelists, embattled professors, and tenure-less historians." (New Republic, 2013)

(7)Bringmann, W. G., Bringmann, N. J., & Ungerer, G. A."The establishment of Wundt's laboratory: An archival and documentary study." (W. G. Bringmann, & R. D. Tweney (Eds.), Wundt studies: A centennial collection (pp. 123-157). Toronto: Hogrefe. 1980)

(8)John Cacioppo,"Psychology is a Hub Science"(Observer 2007)

(9)Martin Daly, Margo Wilson,"How evolutionary thinking inspires and disciplines psychological hypotheses." Pp. 15-22 in XT Wang & YJ Su, eds., Thus spake evolutionary psychologists.(Peking University Press,2011)

(10)一例を挙げれば、心の理論(Theory of mind)における神経科学役割とか。サイモン・バロン=コーエンが有名だろうが、研究は色々有りすぎて挙げきれない。

(11)HR テクノロジーで、人や組織パフォーマンスの最大化を図る 「リシテア/AI 分析サービス販売開始(https://www.hitachi-solutions.co.jp/company/press/news/2016/1201.pdf)

anond:20181011040543

ぶっちゃけ話をすると,私はこれまで「別に査読はなくてもいいだろ」という話を延々としてきたのだが,ブコメやらtwitterやらで文系擁護派の一部の人が「人文系学問査読になじまないんだ!」みたいな議論を始めてることには正直困惑している.

日本語文学関係査読つき論文とかたくさん出てるし,というか英文文学を専門にした査読誌は普通にあるし,国際的和文査読誌も存在するし,問題のおおもとになった日本社会学会には和文英文査読誌があるわけで,文学社会学論文本質的査読に馴染まないなんてわけはない(実定法学は知らん).査読できるならした方がいいだろう.学術的ではないエッセイにまで査読を求めるのは間違っているけれど,新規性のある学術論文査読制度に向いてないと言い募ることもおかしいと思う.

査読になじまない型の研究としては,たとえば史料校訂とかそういうのが挙げられるかもしれないけれど,それだってやろうと思えば外部チェックは入れられる.論集だってもし余裕があれば査読をした方が質が高まるし,選書系や新書系ではない単著査読をした方がいいだろう(このへんは出版社の体力との相談になってくる面もあるので,今すぐに査読制度を取り入れろとは言えないことがもどかしいtwitterではOxford University Press査読つき単著刊行した人が議論していたけれど,OUPと日本出版社は体力違いすぎるんで……).

私が査読なしの論文を業績として認めるべきだと主張するのは,現在査読がなくとも良質な論文や著書が多く存在しており,それらを形式的査読されていないという理由だけで無価値であるかのように扱うのは間違っていると考えるからだ.だが未来永劫査読すべきでないと主張するつもりはない.

もちろん査読という制度には様々な問題があるので,全面的な導入に慎重になるのはわからないでもない.文系分野での査読制度の拡大は止められない趨勢だろうが,一方で「査読されていないものの良質な文献」も産出され続け,全面的査読制度の導入まではかなり遠いだろう.そのあいだにじっくりと議論をすればよいと思う.査読がないか文系は無価値だ! と絶叫するのでも,文系査読はなじまない! と拳を振り上げるのでもなく.

追記

id:hogefugapiyox査読がないか文系は無価値だ! と絶叫するのでも,文系査読はなじまない! と拳を振り上げるのでもなく」ほんこれ/ 査読が実質なしという事で近年問題のpredatory journalについての考えも聞いてみたいか

英語じゃないと業績として認められない分野のことはわからないけれど,和文論文が業績として通用する分野ではpredatory journalの話はあまり聞かない.

というのは,和文査読誌を出してる主体は,学会もしくは大学研究所などの機関にほぼ限られるから

学会が出している査読誌の多くは,投稿資格を会員に限定していて,多くの学会は年数千円の会費(院生非常勤常勤では価格に差をつけている学会が多い)を払いさえすれば誰でも会員になれる(推薦者が必要場合もあるが,指導教官とか先輩とかに推薦してもらえばよほどのことがない限り会員になれる).つまり査読誌は会費で維持されており,こういう雑誌では投稿掲載ふつう無料だ(流石に抜き刷りとかは金を取ることが多いだろうが).会員は会費を払い,見返りとして論文投稿権利雑誌頒布される権利を得る(余談だが,日本学術誌のOA化にあたっての障害の1つがこの「会費で学術誌を維持する」システムだった.会員は会費を払って雑誌を受け取っているのに,会費を払っていない者にまで無料で公開するなんて何ごとだ! というわけ.今でも,CiNiiやjstageで無料公開してるのは発行から○年過ぎた号だけです,みたいな運用をしている雑誌はある.

大学研究所は言うまでもなく自分たち研究費で雑誌を維持しているので,投稿料や掲載料を取らないことが多い.それって紀要じゃ,と言われるかもしれないが,投稿資格学生教員限定していない場合があり,下手するとそのへんの学会誌よりも査読が厳しく良質な論文が載ったりするので,研究機関が出している=紀要というわけじゃない.これは外国でも割と見るんだよね.

もちろんごく稀に出版社商業で出している学術誌もあるのだが,そういう奇特出版社文系学問理解があり非常に良心的なので投稿料を取らないことが多い.少なくとも私が知ってる雑誌はそうだ.

そして,日本語アカデミアは豊かではあるが英語ほど広くないので,predatory journalが参入しようと思うほどの旨味がないし(全世界から微妙なデキの英語論文をかき集めてくるから商売になるわけでしょ?),たいてい自分レベルでも投稿できる雑誌が探せばどこかにあり,場所を選ばなければ発表できてしまうわけで,わざわざ悪徳業者にカネを払うインセンティブがないんですわ.最近学内紀要にも査読つきが増えてるから紀要に出して「査読つき論文です(キリッ」というのも可能.ただ学会誌か紀要かは下手すると雑誌タイトル見れば判別つくから,「あ,こいつ査読論文いっぱい書いてるとか言ってるけど全部紀要だわ」みたいなのはそれこそ業績リスト見るだけでわかったりする(まあ,学内紀要でもガチ査読していることはあるので,紀要からといって低く見られるのも可哀想なのだが.うちの大学では学内紀要に落ちたという悲鳴もちらほら聞こえます).

なのでpredatory journalに関しては,うちらには関係いね程度の感覚id:min2fly氏の指摘は本当にそのとおりだと思う.

(……)査読英語で“Peer review”,同じ分野の研究仲間(“Peer”)による評価を指すが,国際化が進み,大量の研究者・雑誌論文存在する状況において,果たしてある雑誌投稿者,査読者,読者が一つの研究コミュニティの「仲間」となっているのか,ということになるだろう。互いに見知ったコミュニティであれば,でっちあげられた架空研究者に査読を依頼するなどありえないし,不正査読を通過して論文掲載したところで,内容が稚拙であればむしろ評価を下げることになる。また,ある程度雑誌数が限られていれば,聞いたこともないハゲタカOA 誌に掲載された論文不審に思うはずである。(……)査読はある程度限られた規模の研究コミュニティにおいて問題なく機能する仕組みであって,現状の国際化・巨大化した研究集団の規模に適用するには限界があると言えるだろう。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jkg/66/3/66_115/_pdf

 
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