はてなキーワード: 各論とは
明日は期日前投票日になる。急な解散総選挙が行われることになって、誰もが戸惑い思い悩んでいることだと思う。次の選挙ではどこに投票すべきだろうか。現状維持の自民か?それとも希望か?結果的にリベラル結集となった立憲民主か?それとも共産か?
しかし我々が投票するべきはそのどれでもない。我々は支持政党なしに投票し、現状の民主主義を次の段階に進めるべきだ。
今まで我々が行ってきた投票行動はどんなものだろう。選ぶべき政党や政治家がいないだとか、他よりましだとか、各論は反対だけれど総論としては支持せざるを得ないだとか言って、そうして選んできた候補は自らの政治意志とは似ても似つかないようなものばかりだ。リベラルを名乗る某が自民憎しで希望への投票を呼びかける様などその極みだろう。
そうしたずれから逃げ込むように、人々はアメリカのトランプやかつての小泉のような独裁的なポピュリストに自らを同一化させるようになるが、それもすぐに理想と現実のギャップを見せつけられて失望し騙されたと騒ぎ立てる。しかしまた別のポピュリストがやってくれば、同じように信者となって騒ぎ立てる。
そうした独裁的なポピュリズムに対抗するには、よりラディカルなポピュリズムである直接民主制に向かうべきだ。
直接民主制が浸透すれば大衆に迎合するような政治家は存在意義を失っていく。自分達で政策選択をすればいいのだからわざわざそういう人間と付き合う必要がないのだ。
支持政党なしのような部分的な直接民主制のシステムがあれば、政治家は政治家である必要すらない。自動的に国民の選択手続きを代行する公務員のような存在であればいい。
本当の政治家が生き残ろうとするならば、より専門的な知識を身に着け、大衆の政治選択に対して間違いを指摘することが出来るような存在になるしかない。自分よりもこういう専門家に任せたほうがいいと思えるような、そうした政治家だけが生き残るだろう。
現行の政治体制で直接民主制を部分的にだが稼働させる支持政党なしの試みは、今までの選挙でそこそこの得票を得たけれども、評価は未だ低いものだ。
しかし今後百年を考えれば、この仕組が部分的に導入し代議制民主主義を次の段階へと進めるべきだと思う。代議制民主制が本当の意味での民主主義でないことはわざわざルソーを持ってこずとも、現状の政治状況を見ればわかることだ。
我々は投票用紙に書き込む時だけ政治参加しているような顔をして、それが終われば呑気に座って、自分の買った馬券の行方を野次を飛ばしながらただ眺めているだけだ。馬が転べば馬肉にして次の馬を用意して、何故転んだかもどうすれば転ばないかの判断も競馬新聞に任せてしまう。
どれだけ失政を重ねてもそれは政治家の責任で自らの判断の問題ではないという。この時我々は政策を決定する権利だけでなく、政治判断した後の責任までも政治家に奪われているのだ。かつての戦争を軍部や政治家や知識人達のせいにしたように、我々はどれだけ大きな失政を犯しても責任を感じることが出来ない。責任を感じなければ、どんなに失敗をしたとしても学ぶことはなく、また同じことを繰り返すだろう。
本来政治は、例え間違った、国益に反するような選択だったとしても、あくまで自分の意志によって選び取り、その失敗を自分の失敗として受け入れなければならないのだ。
人々はこの失敗を恐れる。自らの経験不足によって取り返しのつかない失政を犯すのではないかと考えるのだ。しかしその経験の蓄積という意味で今の支持政党なしの状況は悪くないものだと思う。
票数を徐々に伸ばしているとはいえ支持政党なしは精々一議席取れるか取れないだろうなという状況で、この状況はまだ暫くかかるだろう。
一議席でも取ったとすれば、国民の直接的な政策選択が国会上に現れるということで、議員に対するプレッシャーは強くなるだろうが、それも間接的なもので、国会への影響力はそれほど大きくはない。
結果として部分的な直接民主制の浸透は漸進的に進行するだろう。
だが逆に言えば国民は、まだ影響力の少ないうちからこのシステム上で自らの選択を試行する機会を持つということだ。
自分の選択が即座に取り返しのつかない失敗に終わることはない。
しかし自分の政策選択が確実に国会上に現れる状況が続けば、自分の選択の意味を考え、自らの責任の重さを知り、間違いがないか積極的に学んでいくだろう。
やがてその動きは大きなものとなっていき、結果としてこの国を変えていくことになる。その時がこの国に本当の民主主義の訪れる日だ。
ただ唯一欠点があるとすればこの支持政党なしがすごくうさんくさい団体で、そのイメージは前回の選挙から全く変わっていないということだ。変えようとした努力も見えない。
支持政党なしはこれから国民の信頼を得るためにあらゆる努力をするべきなのだ。出来る限り情報を透明化して、例えば交付金とかどう運用されるのかとか。なんでもいいから少しはイメージよくしてほしい。
まあ最終的にこいつらはどうしようもないということで彼らが降ろされたとしても、とにかく政治家たちに「直接民主制には票田がある」ということを示さなければならない。そうすれば他にも手をあげるところは出てくるだろう。
大事なのは一議席だけでもわりこませて、国会上に直接民主主義のシステムを立ち上げることなのだ。そうすれば今後百年の政治風景は大きく変わってくる。その日がやってくるまで、我々の投票先は直接民主主義を志向する党だけだ。
https://togetter.com/li/1113766
https://matome.naver.jp/odai/2149564479015738601
この問題、確かに出典を明記するべきではなかったし配慮が足りなかったとは思うけど、
それぞれの論点については疑問な点も多い。各論点についてどこが問題でどこが問題でないのか個人的な整理をしておく。
・「未成年が見れないようにしてあるのに、引っ張り出してきて有害呼ばわりする」について
ここで言う「有害」あるいは「有害情報」というのは一種の専門用語で、
「主に青少年がその情報に接することによって健全な発達・育成を阻害する恐れが有ると考えられているコンテンツの総称」とある。
Wikipediaが信用ならないなら、「有害情報」「有害表現」で検索すれば、その意味で用いられている文章がたくさん見つかる。
つまり、「有害な」=「未成年に見せるのには不健全な」という意味が、特に情報フィルタリングの研究においては比較的一般に用いられてる。
そしてこの定義によれば、pixivに投稿されているR-18の小説やイラストは全て「有害表現」ということになるし、
別にこの文章は酷い、害だ、と揶揄する意味で有害だと言っているわけではない。
「ログインしなければ見れないような場所に置いてあるものを引っ張り出してきて有害呼ばわりする」ではなくて、
「"有害表現"だからログインしなければ見れないような場所に置いてある」。順序が逆。
誤解。
論文中にある通り、ランキングのTOP10を拾ったら8件がBLだったというだけで、残り2件はヘテロカプ。
BLを排除すべきだったとも思わないし、BLから選ぶべきだったとも思わない。
(じゃあなんでわざわざ「8件がBLで2件がNL」だなんて書いたのかという話ではあるが)
少しズレている。
たとえば文化人類学や民俗学のような研究であれば、研究対象の文化を破壊してしまうのは「鯨を研究していたら鯨を絶滅させてしまった」ようなもので、
ただ、この論文においてpixiv小説文化は「研究対象」というよりは「データセット」でしかない。
その場合でも倫理的に問題はあるだろうけど、民俗学のような特別な慎重さが求められるような分野と一緒にして考えるべきではない。
このように目立たせることがタブーな界隈であることが想定できた/すべきだった、とまで言うのは難しいように思う。
・「二次創作はグレーゾーンだから隠れてるのに、わざわざ目立たせるようなことをしたのは問題」について
これって「お前がチクんなかったらバレなかったのによー」って言ってるのと何が違うんですか。
一応公共の場に置かれている以上、十分に匿名化されていれば許諾は必要ないと思う。
たとえばchainerでイラストを自動着色するシステムがあるけど、あれの学習に使うデータ全部に許諾が必要かというとそうは思わない。
それは言い過ぎ。
その理屈で言えば肖像権なんてものはない。「仮面付けないで街を歩いている方が悪い」みたいな話になる。
いくらネットに投稿していると言っても、それが朝の全国ニュースで勝手に紹介されることまで想定しているわけではない。
・「再現性のために出典を明示するのは当然」について
そんなことはない。
これは別に素材Aに触媒Bを反応させたら素材Cができた、というような話ではない。
たとえば100人にアンケートを取ったとして、その100人の個人情報全部を載せる必要があるかと言えば、「必要はない」し「プライバシーの観点からも止めるべき」。
http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf
各論点はバズワード満載で耳触りが良いので、TLでは、概ね「今の論点がまとまっている!」や「日本ヤバい!」、「熱い!」みたいに、資料に肯定的な論調が目立つ。しかし、違和感を持つ人も少なくない。違和感の正体はなんなのか。
まず、経済産業省の資料として、一番不安を煽るのは、経済成長について正面から議論していない点。1人あたりの実質GDP成長の効用が逓減したとしても、デフレ環境下での生活満足度が信用できるのか、幸福度が指標としてワークするのか非常に疑問。ましてや経産省が経済成長から逃げてどうする。今では有名な話だが、人口減の先進国も普通に経済成長しており、日本だけが馬鹿真面目にデフレを継続させていて、立ちすくんでいた。
また、経済成長なしでの、資源の再分配は必ず社会的分断に繋がる。この資料では、1.若者への再配分が上手くいってない、2.女性への再配分が上手くいってない、3.高齢者へのパターナリズム的福祉抑制で予算捻出だと思うが、パレート最適はありえない。人口動態から、激しい政治的対立が予想される。高齢者にも現役世代の「産めよ殖やせよ」を忖度させるとする。それを全体主義と言う。
2.国家観の古さ
今更、「誰もが不安を不満を抱えている」(そうじゃないのは、不安や不満を表現できない共産圏くらいでは?)、「人生には目指すべきモデルがあった」(良い大学を出て、官僚になるとか?あと、共産圏)、「人類がこれまで経験したことのない変化に直面」(ここ100年くらいでも、明治20年代の日清戦争前、昭和20年代の敗戦期の方が大きくないか?)など、いろいろ古い。これでは、数十年前からバズワード(今だとAIやIoT、VR)だけ変えて立ち上がる、情報社会論やポストモダン社会学である。
行政が生活をどう定義しようが、定義した頃には既に生活が変わってしまっている。市井の生活はそもそもダイナミックなのに、今更エリートがそれを「発見」する。80年代、主にアメリカが考えていた、日本の高度経済成長が通産省によるものという神話に取り憑かれてるのではないか(79年ヴォーゲル、82年ジョンソン)。経産省がライフスタイルや個人の幸福に口出しは余計なお世話で、そんな不透明な指標で制度設計されてはたまらない。時代遅れの国家観、国民観は語らず、経済問題に特化すべき。「子不語怪力乱神」というわけだ。
3.具体的な政策
「バズったから議論の土台を作った」とか考えてたら最悪で、単に大衆がバズワードを使ってポジショントークしてるだけ。要は単なるポピュリズムで、当の女性やマイノリティは困惑している。何故ならば、「弱者」として「発見」されて、マウンティングに利用されている気分だから。では、何をすべきか。
そもそも、民主的なプロセスや市場の原理で実行されないことを目指すべき。官僚はそもそも民主的なプロセスで選出されていない。専門的な課題を解決するなは、必ずしも民主的なプロセスは向かないから(e.g.BrexitやTrump)。レポートで指摘するような、世代間の再分配は、確かに国家的な課題なので、1.経済成長を進め、2.馬鹿馬鹿しいポストモダンを捨てて、3.真面目に取り組むべき。
2017年現在、完全雇用を実現しているリフレ政策は、たまたま安倍晋三が、第一次安倍内閣後にマクロ経済を勉強したから実行された政策。全く民主的なプロセスとは関係ない(その継続は高い支持率に支えられて民主的)。短期的には、資産を持つ高齢者に課税して、若者含む雇用を生み出す政策(フィリップス曲線)だか、もちろん、消えてなくなるのも偶然。日本でもマクロンのような、見た目の良い構造改革派によって、民主的なプロセスに則り、消え去る可能性大。
また、日本やドイツのようなメインバンク制の強い国では、ゾンビような大企業でも存続し、新興企業に資金が還流しない。欧米に比べて資金供給が少ないのではなく、中韓などのアジア諸国と比べても後塵を拝しているのは国辱と言ってもいいだろう。もちろん、民主的なプロセスでは、既存の大企業が力を持ちがちだし、新興企業はそもそも争点にならない。これが原因で、生産性の低い、古風な企業に人材が滞留する。自然とto doではなくto beで働くようになり、モチベーションが落ちるわ、自殺するまで会社を辞められない。
シリコンバレーの金融環境も一朝一夕でできたものではなく、徐々に成功企業によるMAが増えて拡大したもの(9割以上はMAによるexit)。中国もBaidu,Alibaba,Tencentの活動に寄るところが大きい。日本でも企業の内部留保もデフレ環境下で拡大したので、資金がないわけではない。MAを行いやすくする環境を、政策により整備すべきである。これにより、流動的なキャリア形成(液状化した笑)の受け皿が整備される。若者や女性と雇用の問題も本質はここ。
2017年の完全失業率は2.8%で、ほぼ完全雇用状態にある。しかし、これはよく言われるが、労働市場が流動的な国では、自然失業率高く出る。国ごとの単純比較で失業の質は分からない。上記の流動的なキャリア形成を実現した場合、当然転職が増えることになるので、失業率は上がる。政治的な争点としては、もちろん批判の対象になるだろうが、雇用の質を改善するには必要な政策。また、現在のハローワークは若干懲罰的で、失業期間を支えるセーフティネット整備も合わせて必要だろう。
ただ、政治的な配慮の上、論点を探られたくなくて、わざと混乱した資料を公開したのであれば相当の策士だと思う笑
興味のある方はこちらもどうぞ
自分の萌えは他人にとっての萎えかもしれない,自分の萎えは他人にとっての萌えかもしれない。ひとの数だけ「好き」や「面白い」は存在する。それを上から目線で理解してやろうなんてしなくてもよい。理解なんてできなくてもよい。ただ多様な嗜好があることを受けれればよい。認め合えばそれでよい。
実際そうだろうなと思うしそうありたいと思う。そう考えられる人間になりたいと思う。そう思うが,うまくいかない。
己の殻に閉じこもって,他人の嗜好と距離を取り,見ないふりをしていればやり過ごせる。でも上述の考えは,なにもそうしろってわけじゃないんだろう? だいいち,いつもそれが可能とは限らない。例えば自分の大嫌いなものを,目の前で楽しそうに話され,その上布教なんてされたとして。今はニコニコと話を合わせたり,各論から総論へと話を誘導したりして飲み下しているが,それだって相当なストレスだ。いやそういうのにストレスを感じるのがそもそもお子様だっていわれりゃ,そりゃあぐうの音も出ないのだけれど,だったら何をどうすればいいんだろうか。
自分と異なる他人の好みを受け入れられない狭量な思考から,受け入れられる思考へと,心がけで思考変換できたひとがいたら,そのコツをぜひ教えてください。
業界の程よく中心から距離のある関係者視点で、電子書籍を取り巻く日本の事情について書いてみます。
ここ数日話題になってる「全部電子書籍でだせっていってんだろ」「くそ業界滅びろよ」っていう読者の声と、それに対する業界のいいわけじみたコメントに対するメモですね。
スタンスとしては、業界側の視点ではあるんですが、業界を擁護するつもりはありません。すべての業界や消費物と同じように、必要とされなければ声を荒げなくても滅びると思っているので(そして出版業界が斜陽であるのはもう周知の事実ですので)、ことさら擁護の必要もなければ罵声を浴びせる必要もない、というのが個人的な気持ちです。
読者側にも業界側にも各論はそれぞれあるとおもうのですが、今回述べたいのは、総論として「日本の出版業界は、日本の書籍市場に過剰適応してしまった」という点です。
この場合「日本の書籍市場」っていうのは、取次ぎのシステムであるとか、再販規制であるとか、書籍の値段分布であるとか、日本人の読書傾向であるとか、まあ、そういうもろもろです。
さらに誤解を恐れずにいうのならば、「日本の書籍読者の皆さんと、日本の出版業界は、共依存の状況にあります」というのも加えたい視点です。
「日本の書籍読者の皆さん」というとなんだかすごい人数いるような感じがしますけれど、統計から見ても、「年間一冊以上、字ばかりの書籍を買う人」なんてものは、日本の人口の20%もいません。もっと頻繁に本を買う人、書籍を買うというのが日常行動になってる人の数の統計は見たことがありませんが、体感で言えばその20%の数分の1ではないでしょうか? 「書籍のヘビーな読者」というのは、もはや不特定多数ではなく、特定多数なのです。
そういう非常に熱心な読者の方の存在を前提に、どっぷり浸かって過剰適応したのが日本の出版業界です。
世界的に見て、日本の出版業界は、出版物の値段、出版物のバラエティ、出版物の点数、印刷のクオリティ、全国配送網、書籍へのアクセサビリティなどの点で、類を見ないほど高いレベルにあります。個人的には、変態的で気味が悪いほどレベルが高いと思っています。こういった点は、日本の読書文化とさきほどの「熱心な読者の皆さん」に支えられて、長年かけて進化してきた成果でしょう。
出版という視点から離れてただのビジネス的な話として判断してほしいのですが、つまりそれは高度成長期を何度も経験して人口も増えて、中間層が発達して、娯楽に可処分所得を投入可能になった国が、「親にしかられない文化の王様」として書籍を愛して、業界側もせっせと面白楽しい本を矢継ぎ早に出した結果です。そういう設備投資、そういう人材発掘、そういうスキーム作りをしたのです。再販規制も、広い意味で言えば「そういうスキーム」の一種でしかありません。
現在の出版不況は(個人的にはそんなに不況だと思っていないのですが)、このシステムそのものがが、時代の流れに置いてけぼりになってしまったというだけのことです。少子化であるとか住宅事情の変化であるとか、読書文化の変遷(ここに電子書籍は含まれます)についていけなくなっているのが、現在業界を取り巻く現状です。
では、そういう仕組みを変えればいいじゃないか! と皆さん思うでしょう。
もっともです。時代に合わない企業は淘汰されるのが自然の仕組みです。
しかしながら前述したとおり、出版業界は適応を超えて、過剰適応の段階にあります。出版業界が今の時代に合わせる難易度は非常に高いです(それはみなさんも、出版業界の動きからうすうす察していますよね?)。イノベーションを起こす人的な余裕も経済的な余裕もほぼありません。大手がのろのろ動いていますが、この速度は何も出し渋っているとか、一部の読者の皆さんが言っているような嫌がらせなどという陰謀論ではありません。過剰適応して余裕がないだけです。
個人的な見解でいえば、大手出版社が華麗にイノベーションを起こしてパラダイムシフトを達成するよりも、非出版業界の会社が新しいスキームで参入するとか(Amazonはこれにあたります)新規出版社になるというほうが、実現速度はずっと早いと思っています。
まあ、とにかくイノベーションですから、壊して作るしかないのです。が、過剰適応しているので壊しづらい。それだけです。
この辺の話は、ビジネス書を読めばいくらでも出てくると思いますが、今回指摘しておきたいのはその先の「過剰適応」と「共依存」についてです。
電子書籍への移行を求める読者の皆さんはおそらく書籍愛好家ですし、今まで出版業界を支えてくれた皆さんだと思います。
これを書くと炎上してしまう気もするのですが、出版物の値段、出版物のバラエティ、出版物の点数、印刷のクオリティ、全国配送網などの利益を得てきたのも、皆さんなのです。あえて言いますが、読書家の皆さんはそれを「既得権益」だと思ってはいませんか? 共依存と指摘したのはこの点で、読者の皆さんはそういう環境を当たり前だとは思っているように感じるのです。自分も日本人で子供のころから日本の豊かな出版文化に首までどっぷり浸かっていましたので、それが当たり前の光景だという感覚はよくわかります。が、世界のすべてがこのように豊かなわけではないということを、ビジネスを通して学びました。
こういう書き方をすると、「出版業界の脅迫」というコメントがつく気もするのですが、考えてもください。「脅迫だと感じる」ことこそ「あって当然の権利だと私は思っている」という告白なのです。
重ねて言いますが脅迫でもないし出版業界の擁護でもありません。不要と判断されれば業界が消えるだけだと思っています。
イノベーションを起こして業界を変革するというのはよいことで、最終的にはユーザーの利益になるような調整が行われるのが市場原理ですし、最終的にはそうなると思いますが、当然「破壊」するからには失われるものもあります。たとえば電子書籍なので物理書籍より安くなるのが当然だと皆さんは考えていると思いますが、それが未来にわたって保障されるとは限りません(そもそも安くならなければいけない理由もありません)。出版点数についても、このようなバラエティが保障されるとは限りません。
過剰適応というのは、安定した市場に向けてサービスをフォーカスしすぎて余裕がなくなった状態ともいえます。うつりゆく市場になったからには、投資においてリスクヘッジをしなければならなくなるでしょう。
読書人口というのは限られていると指摘したとおり、それはたとえて言えば、地方自治体のようなものです。電子書籍サービスをすぐしろ! いや無理だ! というのとは関係なく、斜陽の業界なのですから物理書籍も含めて、もはや「今までと同じようなサービスは望めなくなるのが当然」なのです。
もちろん、業界側(出版も印刷も書店も)利益を上げるためにやっているので、今までより低コストによいサービスを目指してやっています。スタッフを少なくしても同じ仕事ができるように効率かも進めます。しかし、それでも吸収できないときがくれば、当然ですけれど、価格への転嫁やライン(出版点数)の絞込み、地方配本の削除などが行われるでしょう。これは、どんな業種でも同じことであって、出版業界は聖域ではないのです。
一連の応酬を読むと、どうももやもやするのがこの部分で、新刊が出るのもそれが配本されるのも面白い本がでるのも、全部ただの商行為であって、信仰とか正義とか哲学とか、そういうのとは何の関係もありません。出版業界人は自分たちに文化人な変なプライド持ち過ぎだと思いますし、読者側は出版や自分の読書ライフを絶対視し過ぎではないでしょうか? ただひたすらに、その取引の瞬間、やり取りが成立しただけで、永遠も持続もその取引には含まれていません。「続刊を必ず購入してもらえる保障」も「続刊が出る保障」もその取引に含まれていないのです。
ビジネス的な観点で言うのならば、大規模な投資をしてイノベーションを起こすのであれば、「熱心ではあるけれど人口の少ない旧来の読者」などは相手にせずに、「今まであんまり書籍を買わなかったけれど、イノベーションによって買うようになった新しい読者」をターゲットにすべきでしょう。
「早いところ業界をぶっ壊せ、イノベーション起こせ!」というのは非常にわかるのですが、業界の歩みが遅いのは「熱心な読者」に執着しているからなのです(なにせ過去から現在に渡るメインのお客様ですからね)。これが、業界側から熱心な読者に対する「依存」です。
ぶっ壊せと叫んだ結果、「自分の好きな出版物や出版文化がなくなる」というのは、当然のリスクとして織り込むべきだと思います。
大前提として、2016年紅白は近年まれに見る失敗回であり、大敗北だった。「いやいつもつまんないでしょ。今回だけとか騒ぐのセンス悪すぎ」というあなたは正論だがフシ穴だ。
ここ数年、マンネリ紅白は、それでもなにがしかの爪痕を残していた。「千の風」など販売面での掘り起こし、サザン、長渕などのサプライズ、Perfume、金爆、ももクロに代表される抜擢人事、あまちゃんオールスターズなどNHKならではの組閣などなど。
で、2016のこの無風具合はなんだ。
なんだといえばこれは、会社組織でもストーブリーグでもなんでもいいんだけど、典型的な「世代交代の失敗」である。
高報酬の高年齢層をリストラし、未知数の若年層登用を止め、見た目の効率のいい中年層とコネ人事で固めた結果、全員が自分の数字と派閥の力学しか見ない「無責任モード」になってしかもそれが悪い方向にしか働かなかった。
よく見すぎる失敗。
北島三郎、鳥羽一郎、和田アキ子、小林幸子、美輪明宏そしてSMAP! こういったハイレイヤーのいわゆる「精神的支柱」機能を甘く見積もりすぎ。
サブちゃん祭りしかり、ジャニ勢だって「最後はSMAPさんが」という心づもりがあってこその馴れ合いが可能だった。
高年齢層のリストラは必然だし粛々と進めるべきなのは確かだが、それにしたって0にするのは急すぎた。
五木はAKB喜び組で満足しちゃってるし、美輪明宏代役の大竹しのぶにしても、幸子代役の三森にしてもアッコ2.0のAIにしてもまだカリスマにはほど遠かった。
そして「新しい血」登用の停止だ。
お気づきだろうか。今年アニソン/声優枠は0、ネット枠も0、V系枠も0、アイドル新規も0だ(RADとXは勘定に入れづらい)。
近年の紅白の下がり続ける価値を、辛うじて上げ方向に下支えしてきたのが彼らだ。「他人が憧れるものに人は憧れる」。「紅白」を「オーヴァーグラウンド」の象徴としてとらえ、いまどき珍奇なことに「紅白に対する憧れ」を冗談でも口にし、紅白出場をフリでも盛り上げてきた彼らの功績を全切り捨てした罪は、単純に「驚きと喜びの低下」として番組に表れた。
後に個別に触れるので、軽くにとどめるが高中堅層のプロモっぷりはひどかった。低中堅層のフレッシュ、冒険の少なさっぷりも。
巷間ささやかれる「リハ不足」はいつものことだ。これはさらに大元の、個別の企画力の低さが原因だ。
前半出番のぶった切り編集演出は大成功だった。新曲初披露というフリを経ての「期待の裏切り」「紅白という『枠』のメタ視」「フレッシュさ」で群を抜いており、TVギャグとしても定番が故の爆笑があった。
そして圧巻は後半のPPAPフロイデremixだ。前半の原曲で「いかんせん大舞台には音薄すぎで向かないよね」との印象をすべて覆す音圧。
そして前半のアッちゃん絡み、タモリ絡み、ゴジラ絡みと、2016紅白の演出側ストーリー全てを引き受けたカタルシス(大したものでなかったとしてもストーリーは必ずカタルシスを生む)。
フレッシュさ、裏切り、時代感、引き受け具合、芸としての確かさ、音楽の喜び、笑い、めでたさ、我々がNHK紅白に求めるすべてがそこにあった。
文句なしの「今年の顔」。
ワンショットがMVPを取ってしまうのは、チームとしての紅白にとってもちろん悲劇でしかない。
サプライズという意味ではあれだけガッキーに振っておいてあの体たらくは、座組み側の失策。きっちりガッキーをキャスティングできていればMVPだった(あの恥じらいながらしょうがなくやらされるのがタマラン!というご意見は共感するが、マニアの見立てだ)
芸の確かさを見せた。
AKB五木以来、近年紅白演出が気に入り始めている「ソロ+応援出演」とかいうクソ手法を、本物の芸と華で打ち返し、格の違いを見せた。
子役とかソロダンサーの人は残念な見栄えだったが演出側が悪い。
周りが凹みまくる中、アンセムを堂々とやりきった。
This is 歌番組というセット、演出、選曲で、この中では逆にフレッシュだった。
ライブパフォーマンス単体として見れば2016紅白最高水準。でもそれ紅白ちゃうよね。
歌舞伎町の女王が西新宿の政治家になりました、という何の面白みもない追認劇。
かろうじて演出はフレッシュさがあったが、楽曲パワーなし。そして演出も結果TOKIOと二回まわしするという貧乏くささで台なし。
いやこれは東宝も新海も悪くないし、庵野組に至っては大変仕事したと思う。NHKなに考えてんの感。
「歌合戦」にワンフレーズもなし、来日ツアー告知だけのケータイ動画とかなめてんのマジで。
毎年なので言うに及ばず。とくに嵐の「政治だねえ」感は周囲の状況もあっての結果だがひどかった。新王誕生の祝賀とは到底見えない。
よりによって「メドレー」と称してデビュー2曲だけかよ。hi hiとかサンライズとかいくらでもあったろ若番なのに引き受け過ぎ。その後も何もないし。
LEDダンサー自体もう数年前の技術だし、「人数ふやしました!」と言われても…
キメの2階席同期ロトスコープ演出もカメラが追えてないという体たらく。
あと満島出すとこまでがんばれよNHK。
映像出しそんなにもったいつけてひっぱらなくてもよくね。新海がサボったのか、バンドが嫌がったのか、いずれにしろエゴの匂い。
無料投票で40万とかヤバくない? 票の実数を出したことで凋落が見える化された。
天人五衰。圧のなさがすごかった。
魔法も何度も見せられれば慣れる、とはいえ今回は福山林檎にすらアイディアで負けててライゾマ何やってんの弾幕薄いよ!ってなった。
そして有村架純は今さらのあまちゃん演出でのん(能年玲奈)代役だったことが判明。地獄。
秋にNHKであれだけ圧巻のステージ見せたのにまさかの中森明菜枠。地獄。
コメント切りのタイミングで「マジか」顔してたのがさらにつらみ。
もちろんSMAPという政治劇に巻き込まれた結果、目論見が外れたというのもあるでしょう。2016紅白は新帝王SMAPの戴冠式になるはずだったのは明白でした。それにしたってリカバリの仕方は他にあったし、それ以外の面でも粗だらけ。
結果、ゆく年くる年後に東京国際フォーラムから放送した生さだのほうが生放送音楽ショーとして5万倍良かったというすばらしい皮肉。さだまさし×岩崎宏美、生バンドバックの「夢で逢いましょう」の多幸感、スペシャル感、客席との一体感たるや、「ああ、年初から思いがけずいいもん見たな」と思えました。
↓この記事が新着に上がって来た時に燃えそうな予感がしたけど、案の定炎上している。
「長時間労働撲滅運動」には怖気がする。気持ち悪い。 - Outward Matrix
http://www.outward-matrix.com/entry/2016/10/16/120846
自分は長時間働きたいってことを空気を読まずに言うスピリッツは買ってもいいと思うんだよね。大方の理解は得られないけどね。
だけど彼の記事でダメだなと思うところは、人を死に追いやるようなブラック企業はダメですとか留保をつけつつ、でも僕は長時間労働を一律禁止する運動は気持ち悪いです、って各論賛成総論反対なこと書いちゃってるところだと思うのね。コンサルの卵らしいけど、そういうところが小賢しくてずるいと思うわけ。
いっそ奴隷万歳と開き直って、例の運動を全力で潰しにかかったほうが清々しいかもしれないね。もっと燃えるけどね。
あと、そんなに長時間働きたければ起業しろってブコメがたくさんついてるけど、若造のコンサルが起業したってフリーターにしかなれないよ。今はコンサル会社の看板のおかげで仕事ができてるんだろうから。
死んだと聞いたときは心底ほっとしたし、そうか、こんな解決があるのかってちょっとおどろいた
悲しくもなかったしなんとも思わなかった
だけど今になって悲しい
もともとはわりと仲がよかったんだけど、そいつが公私の区別ができない奴で、仲よくしてるとだんだん仕事を押しつけてきて自分はなにもしなくなって、それがいやで注意はしたんだけどやっぱり「仲よし」だからってずるずる甘えてきて結局変わらない、みたいな感じで、それでもういやになってほとんどもぎ離すみたいにして突き放した
仕事以外のことでは口をきかない、みたいにして
で、突き放してわかったけど、そいつはずっと私に仕事を押しつけてきただけあって、なにもできないし覚えてなかった
突き放したところで私の仕事量別に変わらないし、負担も別に減らないし、そいつは公私の区別ができないから、こちらは仕事上の報告はきちんとしてたんだけど向こうはこちらをまったく避けるようになって、結果的にそいつが報告してこないせいで拡大したトラブルをこちらで引き受けるような目にもあって、もういったいどうしたらいいのかって死にそうだった
その頃ちょうどかなり頼れる人がやめて、残ったのはそいつと、何年たっても一年目の新人よりできない、叱っても見守ってもまったく効果がないようなこちらがびっくりするレベルの後輩と、口だけはえらそうだけど相談したところでなにもしない上長しかいなくて、その頼れる人の仕事分を私が引き受けるような形になって、かなり精神的に参ってたのもある
死ぬのと失踪するのとどっちがいいだろうかと真剣に考えてた程度には参ってて、その頃ようやく友人の懸案が片づいて相談したり愚痴ったりできるようになったからどっちもしなかったけど、あれはけっこうひどかった
なんで私がこんなに神経をすり減らさなくちゃいけないのかと思うと腹が立って、わりと本気で死ねばいいと思ってた
もともとそいつは持病持ちで、突き放すすこし前くらいから悪化してきてたらしくて、まあ顔色も悪いし体調も悪かったんだと思う
だけどなにも説明はされなかったし上長に聞いてみても「問題ないって言ってた」と言うのでそこまで真剣には考えていなかった、まああの上長の話を鵜呑みにしてた私もアホではある
そいつはとうとう仕事中にしょっちゅう居眠りするようになって、もう耐え切れなくて、相当きつく問いつめた
かなり憔悴した顔をしてたと思う、こいつ本気で具合悪いんじゃないかってそのとき思った
その十日後くらいにそいつが死んだ
あれ、自殺のときに理由として使われるって本当なんだろうか、ググってみたけど各論あってよくわからない
私とそいつのことは周囲はみんな知っているので、だれも私にそいつの死についての話をしなかったし、私もしなかった
そいつが死んでほっとしてる私がもっともらしくするのはあまりにも厚顔無恥だなと思ったし、正直それ以上関わりたくなかった
そいつが死んで、心底ほっとしてた
それは間違いない
でも最近ふとしたときに思い出してすごく悲しくなるので、どうしたのかとずっと考えてて気がついた
私は、そいつが死んだときにちゃんと悲しんであげたかったんだなあって
そいつが私のきつい問いつめに耐えられなくて自分で死んだのだとして、そんなこと私のせいじゃない、と思ってたし今でも思う
そいつを突き放した私が悪いんだとしたら、死ぬか失踪するかまで追いつめられてたあの頃の私が救われない
じゃあ私が死ねばよかったっていうのか、と思う
だけど、もともとは仲がよかったはずのそいつがこんなふうにいなくなったことを素直に悲しいと思ってあげたかった
べつに涙もろいほうじゃなかったんだけど、今も泣いてる
それで、もうなんか仕事に対するなにかがぶっつりと切れてしまった
もうやめたほうがいいのか、このまま続けてたほうがいいのか、考えるのも面倒で最近ずっとゲームばかりしてる
もう若くないし、手に職らしきものもあるわけじゃないし、まあすぐには困らない程度にはあるけど金持ちなわけでもないし、これから繁忙期だし
こういう場合ってどうしたらいいんだろう
富は神が人類に賜うたまものである。ゆえにもし世が神の御心に合う世であるならば、貧者も富者もないはずである。このような世にあっては以下の状態が普通である。
現実は、「多く集めた者」は「余」り、「わずかしか集めなかった者」は「不足」している。
この神に背きたる不自然な社会にあって、富はたいていの場合において不自然であり不当である。
たいていの富はその所有者が作ったものではなく、社会の多数を占める貧者が作ったものである。
この罪の世にあっては、少数のいわゆる「まわり合わせの良い者」が富者になるのであって、本当に自分の力で富を作り出したという人はめったにない。
①怠惰の結果としての貧:×同情しない
②社会の多数を占める貧者:◎幸いする
③勤勉の結果としての富:○褒める
⑤不当の分配によって得た富:×呪う
以下、①、⑤、②について各論する。
キリスト教は、怠惰の結果、貧を己に招いた者に対して同情を表さない。
イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(マタイ伝19章23-24節)
イエスは目を上げ弟子たちを観て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」(ルカ伝6章20節)
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力なものを選ばれました(コリント前書1章26-27節)
わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか(ヤコブ書2章5節)
上記理想の状態から見て、貧者は神の賜物のより少ない分配しかあずかっていない。したがって、のちにその不足を補われることになる。
他方、富者はより多くの分配にあずかったものであるから、のちにその余分を徴発される。
富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した(ヤコブ書5章1-6節)
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか(マタイ伝6章26節)
金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました(ヘブル書13章5節)
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです(コリント後書8章9節)
貧者は緊張の生涯である。そして緊張のうちに信仰も起こり、愛も希望も生じる。貧者は貧にいて主イエスを最も深く知ることができる。
少子化って世間では(とくにWebでは)絶対悪であり、日本終末論みたいに語られているわけだが、本当にそこまで言うほど絶対悪なのか?
どうもこの件に対する議論は「少子化は絶対悪なのは皆さんもご存知の通りなのですが~」みたいな雰囲気で始まり、議論参加者もそこに同意してるかのように扱われるので、「少子化は絶対悪なのかどうか?」という部分が棚上げされている感がある。
内容の分析もいい加減で、例えば「高齢化社会」というのは「総人口に占めるおおむね65歳以上の老年人口が増大した社会のこと。」なわけなんだけど、これと少子化がイコールで結ばれるのは間違いだ。もちろん少子化が高齢化社会を助長している場合もあるんだけど、平均寿命の延長化なんかも関係している。つまり、「高齢化社会」議論においての別の問題点、たとえば平均寿命とか定年の問題とか老人の定義であるとかのテーマが「少子化が悪い!」という声でかき消されてるんじゃないかと感じる。
介護テーマの議論も一緒で「介護職の給与が低い」という問題点があったとしても、「これから老人が増えるのに介護人口増えないなんて少子化が悪い!」みたいなごまかし方をすれば、介護給与なんて増えなくなるだろう。
消費人口議論も全く同じで、総消費をあげたければ給料を二倍に(実装部分で言えば最低賃金を大幅に上げれば)物価上昇を伴いつつGDPは拡大するはずなのだが、「少子化で国内需要が壊滅!」という終末論ばかり目につくような気がする。
各論レベルで切り分けて考えていくと「少子化は確かに原因のひとつなのだが、別の原因から、あるいは別の解決方法で解決したほうが低コストに解決できる」問題ばかりなんじゃなかろうか? 例えばの話で言えば、介護人員の解決なんて短期的には現場の待遇改善をすべきだろうし、中期的にはロボットの活用のほうが圧倒的に低コストであるように思う(生産人口もおおむね同じだ)。そもそも、少子化問題は解決に非常に大きなコストがかかる問題だと考えられる。
もちろん「少子化は実は善だったのだ!」なんていうわけではなく、当面不都合ではあるんだけれど、「そのほかの問題を放り出して莫大なコストをどぶに捨ててまで解決すべきこと」であるような気がしないし、いろんな記事や本を読んでみても、そこまでしなければならないという納得のいく説明を見つけることが出来なかった。
Web世論的には、「少子化=老人社会=経済沈没=日本壊滅」的な自虐世界観で生きている人々を散見するんだけれど、彼らはどういう洗脳を受けているんだろう? 日本より人口密度の低い国も人口が少ない国もたくさんあるのに。
http://anond.hatelabo.jp/20160717153943
まず「仕事が無い、仕事に未来を見いだせない」に書いてある中小企業への就職は、責任だけがどんどん増していくという問題提起に対する反論になっていないので論外。 「家族や友人が居ない、または関係が悪い」についてはこちらの提示した論点にないものだが、「非正規や飲食や介護は、言っちゃあ悪いがクズの吹き溜まりだ。」という偏見を提示することで半数以上を占める小売・サービス業従事者および非正規が家族や友人との関係が悪化し生きづらくなり死にたいと思うようになるという可能性を見事なまでに保証している。「金が無い」についてもおなじくこちらの提示した論点にないものだが、責任が重くなってストレスが増大し長期的な労働に耐えうるかという話をしているのになぜか働けば解決という頓珍漢な方向のコメントしか残されていない。
22歳新卒の若者には1億以上の人的資本が有る。それを時給数百円で売り払う人は愚か者としか言いようが無い。
こういう発言を見ても、市場制約という概念がない橘玲をありがたがる水準の経済学を学んだことすら無い腐れ脳みそである、という事実が見て取れる。
あと、勉強は大事だ。元増田の文章は短いのに酷すぎる。文意が通っていない。
ほんとうに勉強は大事だ。具体的な指摘のできないバカにかぎってマウンティングするだけで満足するようになる。
http://anond.hatelabo.jp/20160718105844
なるほど、責任が増す事を負担と捉えているわけね。
短時間でこなす業務量が増える、仕事のミスを激しく詰められることがストレスを過大にするという事実を精神論にしかもっていけないバカだったか
親や社会に甘えているクソガキの発想なのだけど、そういう甘ったれに言える言葉は「グダグダ言わずに働け」しか無いね。
年収は下がったのに上記のような状態になっているのは経営者の甘え。日本の経営者は固定給の割合がアメリカよりも高く、赤字を垂れ流しても責任なんて一ミリも取らずに済むぬるま湯の社会。
ちなみに朝鮮戦争~あたりは労働基準法なんて無いに等しく、1日12時間以上労働休日出勤当たり前の世の中だぞ。そっちの方が良いのか?
無能でもクビにならずにダラダラと働いて残業代もらえていた時代の方が短時間で多い業務量をこなしミスで過剰に詰められる時代よりもずっとマシ。
偏見じゃ無いよ、ただの事実。まともな人間はまともな職場に固まっている。
事実ってことはそこら辺の職場すべてを網羅するがごとく働いていたのかつまりおまえこそがまともじゃない人間だという証明ありがとうございます、というか論点を考えれば事実かどうかは問題ではなくそのような認識の人が多ければ多いほど生きづらい人は多い証明になるんだがバカには自分で首絞めてるのが理解できないらしい。
飲食、サービス、介護は労働者の多数を占めるけどね、
なんやかんや言っても、日本はまだまだマトモな人間が多い国だよ。お前の周りは知らんけどな。
労働者の多数を占める連中をまともな人間じゃないと言いつつまともな人間が多い、と反する命題を口にできるとかキチガイすぎて話にならないな。
市場制約と言うなら2016年は空前の人手不足だから制約は無いに等しいな。
自分から切り出したのにどこの市場の話なのかすら理解できていないとか論理性だけでなく記憶力もないようだ。やりとりをきちんと見返してこい。
会社勤めした事無いんだろ?難しい言葉使うなって。普段使ってないのだから。
そうだな、市場制約という言葉すら難しい言葉と認識しているバカは会社勤めしたことがなさそうだな。
就職とマネーリテラシーについてはちゃんと書いてるのに、ここまで的外れな自己意見(反論とは書かない)しか出ないとはね。
就職に関しては先のトラバで指摘したとおり反論になってすらいないし、互助会レベルのうすっぺらい内容でドヤ顔してちゃんと書いてるとか言われてもドン引きしか出来ないし、マネーリテラシーにおいて橘玲を挙げるあたり経済学すらまともに学んだことがないバカだという証拠になるんだがな。
要するにバカだから就職出来ないし、コミュ障だから人間関係が悪く、運も悪いので実家が細くて金も無いってだけだな。そりゃ死ぬしか無いわ。まぁお前はバカだから、そこから出られないよ。一生沈んで生活保護でも貰ってろ。
論理性もない記憶力もないバカは自己投影した汚い言葉しか吐けないなんだろうな、可哀想に。市場制約という言葉すら難しい言葉だと考えてしまうくらいの橘玲ごときを持ち上げる低知能のゴミの意見は価値無しだから一生黙っててほしいものだ。
http://anond.hatelabo.jp/20160718122405
文意が取れないほど細切れにして反論されてもな・・・。引用するならちゃんと全文取れよ。
文意が取れないほど細切れな引用って具体的にどことどことどこがそうでどうしてそれが問題でなぜそう言えるのか具体的にきちんと指摘すらできないゴミクズザコのくせに口を開くな。
文意が変わるとダメなので全文引用してあげるね。僕は派遣から現在自営だよ。結構色々な職場を渡り歩いている。そういう意味ではサラブレッドではなく野良だね。自分の首は一切締めてないよ。むしろ人生を楽しんでる。
重要な論点が理解できてないバカがいる。そこら辺の職場という指摘をしているのに派遣というだけで具体的な業種を挙げてない時点でそこら辺の職場という表記に対応しておらず反論にすらなってないことにすら気づけない生ゴミ。偏見にせよ事実にせよそれらの人たちが差別的な認識をする人間によって生きづらさを感じてしまうという重要な論点にはいっさい触れておらず自分が人生を楽しんでいるという意味不明な議論にすらならないキチガイ発言。差別的な認識をすることが生きづらさを感じる人を発生させている証拠になるので差別的な認識を表したことが自分のクビを締めているという指摘なのに渡り歩いて来たオレサマは楽しんでる!だからクビを締めていない!という相手の文意()どころか論点すら理解しないまま口を開くタイプのキチガイアスペゴミクズ生ごみであり無能だという事実を表している。
君の文章ね、読点や句読点はちゃんと入れた方が良いよ。文章の訓練受けてないみたいだから、まずは新聞読めって最初の投稿に書いてるだろ?漢字の変換もちゃんとしような。他人に意味の通る文章が書けないって事は、日本語が出来ないのと同じだよ。中国人やベトナム人が日本で働くのと同じレベルでしか働けないからね。ちゃんと勉強するんだよ。もしかしたらネトウヨくんかもしれないけど、ネトウヨ君がさんざん罵っている中国人や韓国人より君の立場は下だからね。まぁ認めないだろうけど事実だ。
これに至っては論外。相手の論に対応した意見を発する訓練を積んでいないネトウヨとばかり喧嘩してホルホルしてしまうレベルの知性の持ち主であり具体的な指摘をせず相手の論点を理解していない上記の証拠をさらに補強するものとなっている。
文章を読めばその人が受けてきた教育は大体わかる。君、中学もまともに出てないニートか引きこもりでしょ?手遅れになる前にさっさと外に出ようね。まぁ生活保護貰うなら、僕が払った税金からでも取ってくれて構わんよ。これから福祉はどんどん縮小されるけど、自分で稼げず(稼がずに非ず)貰って生きるので満足なら良いんじゃないかな。まぁ人に迷惑だけはかけるなよ。未来ある若者に危害を加えず、自分一人で孤独にひっそりと消えてくれ。
いっさい俺の発言に対する指摘をできずに脳内空想で決めつけた負け犬の遠吠えを繰り返すだけに落ちぶれたマヌケ。
http://anond.hatelabo.jp/2016071819501 6
見てわかる事って有るよね。どこまで説明するのかは、まぁ君の要望じゃなくて僕の基準で決める訳だけどさ。普通の教育を受けた人間なら、君の引用は細切れにし過ぎていると言う指摘は、見ただけで納得できるレベルだよ。先に指摘している通り、君は日本語が使えないレベルの、本国でもクズ扱いの出稼ぎ程度の能力しかないと自白しているようなものだよ。
細切れではなく各論点に対して明確に反論しているのは一般教養を持った人間なら見ただけで納得できるんだがそう納得した人間への具体的な反論ができずに逃亡する負け犬の言い訳始まりました~笑細切れにされてこのように文意が取られなくなったという説明すらできずに涙目で「本国でもクズ扱いの出稼ぎ程度の能力」と外国人差別まで始める人間の頭の悪さと倫理観のないいますぐ自殺したほうがいいレベルの脳みそ腐ったゴミだという証拠をありがとうございます笑
差別的な認識って言うけど、差別じゃなくて区別だから。
はいまたもや論点おさえられてないマヌケ発言、派遣も一部にしか所属したことがない、おまえが自分で挙げた職種については具体的に挙げられない、だからおまえの発言は事実を区別したものではなく偏見による差別だという指摘をしているのに僕ちゃんの所属していた派遣では~と連呼するだけ。
君の文章は読点や句読点が無いのは誰が見ても明らかだし、小学校の先生に提出しても赤点貰うレベルだって自覚無いの?まぁ君の人生だから、好きにすればいいのだけど、共通の言語を喋ってある程度の学が無いと会話にならないね。あと、ホルホルって何?スラング使われてもわからないよ。日本語で喋ろうね。
脳みそ腐ったゴミクズは論点への具体的反論をしないので精神的負荷をかけるためにあえて句読点を使わずにいるんだがそれに読点と句読点ってダブりだし発狂しちゃったのかな論点を押さえた反論をせず罵倒ばかりという指摘をされているのに再び罵倒しかできないマヌケ、ネトウヨとか言い出す腐れ脳みその階級に合わせたワードチョイスをしてあげたのにわからない~とか言い出しててウケる、このトラバを見てもわかるとおり、「僕ちゃんの意見の正当性は分かる人には分かる!おまえは日本語がヘタだ!」としか言えず各論点に合わせた反論というのが一切できないくせに「なんで負け犬と呼ばれるのかわからない!」って涙目遠吠えしかできてない自分の顔すら認識できないクソマヌケはネトウヨと喧嘩してるのがお似合いだよ笑
どの文脈から「負け犬の遠吠え」とか「落ちぶれた」って話になるのかな?そもそも、最初に僕が投稿した記事の元は、自分が負け犬であり死にたいと言ってる増田だよ。もし君が元増田なら君こそが負け犬で落ちぶれて死ぬしか無いどん詰まりのカスじゃないの?本当に珍獣って居るのだねと、僕は今新鮮な気分だよ。
大元の増田とは一切関係ないし、死にたいって言ってる増田とはおまえのトラバ一個別のトラバ挟んでるから事実認識できてないクソマヌケの証明を自らやらかしてるし、仮に関係があったとしても各論点への具体的反論ができない脳みそ腐ったゴミクズウジ虫一家ごと自殺したほうがいいレベルの生ごみ君であるという事実は変わりがないからな。「わかる人にはわかる!」だの罵倒だのする前に各論点へ具体的反論しないかぎりおまえは小汚い言葉を吐くことしかできない知能の負け犬で落ちぶれて死ぬしか無い一家まるごと焼け死んだほうがいいレベルのどん詰まりカスなのでまずは一般人ならできる普通の論点への反論をしような。それができないなら罵倒してもおまえの惨めさはますます増して下水道の中で一生を暮らすゴキブリレベルになっちゃうぞ?笑
http://anond.hatelabo.jp/2016071810584 4
キャプチャ見たけど元にはない文なんだが笑
発狂したゴミクズが後付けで涙を流しながら必死に書き連ねたのかと思うと笑いが止まらない
せめて他の文章と明らかに異なる改行の仕方も直しといた方がいいんじゃないか?笑
「非正規や飲食や介護は、言っちゃあ悪いがクズの吹き溜まりだ。
仮にその脳みそ腐った後付けの言い訳を許したとしても、非正規にかぎるなら「非正規や」で区切ったのは表現のダブリでしかないのでつじつまが合っていないし、労働者の多数であるという事実も変わらないしで反論にすらなってない、やり直し。
可哀想に、後付かました文章でも「日本人の多数はまとも」が矛盾しているという指摘には答えられていないということだ。
それ以降の文章に至っては僕は優秀!おまえは優秀じゃないと連呼するだけで本論への反論をいっさいできない無能な脳みそ腐った一家自殺レベルのマヌケの妄想ストーリー、きんもーとしか思えないわ笑
ちゃんとした文章で理詰めにされたほうが、僕は負担がかかるから。
ここまで上記に出てる論点にほとんど答えず抽象的な発言をくり返すキチガイにとって負担が少ないのは当然だろw
君、その文章で誰かに認められた事有る?その文章でお金稼いだ事有る?僕はどちらも有るよ。小学校の読書感想文で先生に褒められた事から、社会に出て仕事に活かして売上を上げる文章も書いている。(というか、僕の文章のみで1つの事業が成り立っている)誰かに認められている「余裕」が君からは感じられない。(また根拠が無いと言い募るのだろうが)
空想世界で生きるキチガイが自分を否定する人間は認められてないに違いないと妄想を繰り広げている。根拠がないと言われても言い募ってるだけ!らしい笑
この場合売上を上昇させているのではなく売り上げている事実を指すので売上を「上げる」は間違いだよ、それとマヌケの書く文章にありがちなんだけどなんでも事でまとめちゃうんだよね、あと事から~で始めておきながら~事もあるで受けないのは3秒の記憶も持たない典型的なマヌケの文章だよ、「~された事から、~書いている」キリッ笑、それから仕事に活かして文章でお金を稼いだ話をしているのに「社会に出て」は余計なんだよね、仕事に活かしてるイコール社会に出てるなのでダブリもいいとこ、「~先生に褒められた経験もある。さらに文章を仕事に活かして売上につなげている」のように書くのがプロ。僕の文章で事業がなんだって?笑あれか、互助会ブログでも書いてアフィ収入で数億円得たかのような妄想でもしているのかな?笑
で、君は就職して年収10Mくらい取ってるの?たかが上位4%だから、そこまで大言壮語するなら当然取ってるよね。(信じないだろうけど、僕は取っている。余裕で10M超えてる)
とりあえず上記の各論点に答えてからにしろよあーもしかして僕ちゃんの年収は10万円なのかな納得だわ平日の10時過ぎから暇を持て余してる脳みそ腐ったマヌケだもんな
元増田に対して「お前の言ってる事を突き詰めるとニヒリズムになるぞ」という意見がある。彼らの言わんとする所は、生殖は論理を超えた情動によって突き動かされるので屁理屈を捏ねても無駄だという事だろう。俺はニヒリストから発展して反出生主義者になったが、これは指摘の通り生きるという事自体について考え、屁理屈をこね続けた結果だ。その俺からすると、元増田の指摘すらもあくまで各論に過ぎないという事をさておけば、社会がお題目として「少子高齢化の解消」を掲げているのと対照的に、育児を抑圧する亡国的な方向へと振舞い続けている現状に対する真っ当な意見になっているのではないかと思う。一方で、生殖が理屈だけで行われる物じゃないという事も事実だと思う。生殖は知的生物に最適化された物ではない。動物が衝動的に目の前の生殖に没頭する限りにおいて、自分がしている行為が何を推進し、何を担い支える物かについて汲み尽くす必要はない。生殖は物言わぬシステムとしてただそこに在った訳で、倫理や人道を当て嵌める余地などあろう筈もない。問題は、理性的な思考で生殖システムを考えた時、余りに禍々しい物にしか見えなくなるという事実だ。1人の人間を殺人する事が罪悪ならば、1人の人間を誕生させる事もまた罪悪である。望まぬ死が不条理なら望まぬ生も不条理になる。不条理ではないと言うならば、それは起こり得る不幸の全てに対し責任を取れる人間にのみ許された発言である。なぜなら、生殖する自由が担保される限り生殖しない自由も担保されるからだ。あなたには選択する事が出来た。行動には責任が伴う。何ら破綻していない。一方で、生まれ出る者には選択肢など何ら確保されていない。子孫は常に無責任の被害者たるのだ。
多くの繁殖者は、こうした事に考えを至らせる事はない。それ自体もまた大きな誤ちだが、出生主義者たちは更に大きな誤ちを犯している。生殖の問題は、情動によって下支えされるこのシステムが理性で考えようとすればする程矛盾を孕んだ物に見えてしまうという事にある。彼らは生殖に対して理性を適用する事を諦めているが、それは大きな欺瞞だ。考え続けなければならないのだ。理性と情動の葛藤こそが、「人間にとっての生殖」という問題を考える上での大きな本質である。性欲を讃美し、出産への願望を肯定するのは構わない(俺にとってはかなりの譲歩だ)が、だからと言って考え続ける事に蓋をして良い訳ではない。虚無的な事は考えたくないというのなら、またも譲歩して、社会問題という具体的なテーマに対してすらもまともに取り合おうとしないのはなぜだ?人気コメント酷すぎないか?子供を産みたいという感情が例えば俺と共感出来るものではないのと同様に、子供を産みたくないという感情は出生主義者と共感出来るものではない。理論武装しないでどうして議論出来るというのだろうか……加えて言っておくと、元増田の出生に対する立場を、俺はどうとも決め付けてはいない。ただ、俺は元増田を見て「然り」と思っただけで、だからと言って勝手に反出生主義に引き込んだりする事はない。一方で、出生主義者たちは元増田を「元々産みたくない人だった」という風に見做したようだが、冷静な意見すらも自分の集団から切断しているようでは、なすがままに社会は悪化していくし、それは実際の所俺に利する行為だという事を覚えておいて欲しいものだ。
街中で妊婦を見かけると、それがどんな女性だろうがハ淫セ(イチャラブ中田氏セックス)してる情景を勝手に想像してしまってとてもつらい気持ちになる。
中にはもちろん不妊の人もいるだろうし不満足なセックスライフを送っている女性もいるだろうけど、問題の本質はそこじゃない。
見目麗しさとは程遠いカップルが目の前でペッティングするよりキツい想像を勝手におっぱじめる脳のせいで本当に不愉快な気持ちになる。
正直とても困っている。
ちなみに小さい子供を連れてる女性を見たときは一割くらいの確率で「セックスだ!!」と思う。
病気なのかな。
---
臨月の妊婦となった今、上のようなことは起こらない。むしろ彼女らの苦労を忍んでしまう。我が身にふりかかる妊娠ゆえのトラブルが重かったのもある。しかし、当時の自分と根本的に異なるのは、セックスの有無は本質ではないと分かったからかもしれない。以下は自分語り。
当時の自分は、人生とセックスは切っても切り離せないものだった。欲望に忠実で、どうしても手に入れたいものが目の前にあるなら手段を厭わず行動していた。行動力の源泉としてブラックホールのようなものが自分の中にあり、自分の中の物足りなさや満たされなさを埋めたくて欲望のままに何もかもを吸い込んでいたと思う。今ならその正体が少しは分かる。生まれてから死ぬまで徹頭徹尾自分は孤独であること、ひとりうまれひとりしななくてはならないこと、不十分な自分の人格を誰かが代わりに育ててくれるということはなく自分が満足するような自分自身になるためには他でもない自分の努力や意思に基づく試行錯誤によってのみ実現すること。近道もズルも存在しないこと。これらが耐えがたい苦痛であるためにずっと目を背けた結果ブラックホールのようなものが誕生したのだった。
そのブラックホールに名前を付けるとすれば驕り、または臆病な自尊心かもしれない。私は妊娠で「底つき」を経験できて、きれいさっぱり驕りが解消されたので、よかったと思う。
重症妊娠悪阻で水も飲めず点滴を打たれて寝ているあいだだけが「人間」でいられた。
一人で外出はおろかシャワーさえ浴びられない。仕事はなくなった。なんのために生きているのか分からなくなった。
まともな食事ができるようになってからは、日中の静かな家に一人取り残されて、孤独感に苛まれ、頭がおかしくなっていくのが分かった。暇を解消しようとするも、体が動かず、情報に敏感で、ラジオすら聞き続けられない。寝ようとしても数分~数十分で起きてしまう。深夜に帰ってくる家族との会話が命を繋いでいた。
仕事もしない、家事もしない、寝ているだけ。今までの人生において、そんな「役立たず」や「穀潰し」になったことがなかった。いつも私は自分で自分を納得させる生きる上での口実があった。こんなにも満足のいかない生活は初めてだった。
初めて知る。「ただ生きているだけでもたいへん」ということを。
人間は生きているだけでもたいへんなので、ほかの要素が組み合わさったら当然カオス的に大変である。解析的に解けないし、適切な数値解にたどりつくには果てしないパラメータチューニングの試行錯誤が必要になる。そして苦心して解を得ても、誤差項を多いに含む。
元の記事に戻ると、人生をモデル化した時に性行為が欠かせないと思うから妊婦を見てセックスを連想するわけだよ。
今の私はもうそうは思わない。人生は存在それ自体が大変。大変であるというのが人生の本質。その大変さの各論は個人によりけりで、ひとによってはセックスが困難かもしれないし、暮らしが困難かもしれないし、自分の体が困難かもしれない。それは外見からは分からないことだよ。
ひとくちに妊婦といってもフェーズによってトラブルはコロコロかわる。
当初、腹の中に人間がいるのさえ自覚がないのに、そのために日に日に変化する自分の体がグロテスクで、第二次性徴への嫌悪感を思い出した。
今でも、腹の中に人間がもう一人いるというのには慣れないが、皮膚が突っ張って痛いほど膨れる腹への受け入れがたさは時とともに薄れていった。そのかわり、乳頭から滲み出る乳汁への嫌悪感は凄まじい。ひとつ解決すれば、別の問題が浮上するものである。
艱難辛苦汝を玉にす、とはよく言ったものだよ。妊娠を経験したおかげで、他人に向ける視線から邪な思いが少しは消えてよかった。
自分の育ってきた人生を思い返してみると、小学校とか中学校、高校の時の方がうるさかったよね。
小学校ではもうはちゃめちゃに騒ぎまくってたし、中学校や高校では部活の時にそれはもう
雄たけびみたいな声を上げてた。運動会の練習の時だって全校生徒で大声で歌ったりさ。
そんなわけで各学齢別でどれくらい騒音だと言われているものなのか、と。
・子供の声がうるさい。
・音楽の授業がうるさい。
■小学校
・朝礼のマイクの音がうるさい。
・運動会の練習がうるさい。
■中学校
・部活動の声がうるさい。
・吹奏楽の音がうるさい。
・運動会の練習がうるさい。
■高校
・部活動の声がうるさい。
・吹奏楽の音がうるさい。
・運動会の練習がうるさい。
■大学
・部活動の声がうるさい。
・深夜に花火をやっていてうるさい。
うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。
ちなみに
だったりします。
個人的な意見ですが、各論も大事だとは思うのですが、騒音に関していえば総論的な対処で
もしくは
といったやり方がよいのではないかと思います。もちろんきちんと測定した上で。
1歳の娘をバギーに乗せ、3歳の娘の手をとりながら、私は横断歩道の前で待っていた。
住宅地にあるバス通り、それなりに交通量は多いが、信号機はない。
朝の通学時間帯には、地域の父母が旗を持って立ち、子どもたちの通学の安全を守っている。
結局、スピードを落とすことなく走り去る自家用車やタクシーを十数台ほど見送った後、やってきたバスが横断歩道の手前に停車してくれた。
3歳の娘は危なっかしく傘を肩に預けながらも笑顔でバスの運転手に手を振り、私は軽く会釈をしながら横断歩道をようやく渡り終えた。
自宅への道を急ぎながら、娘は「みんな、なかなか止まってくれないよね」と、ぽつりと呟いた。
つくづく、この国で子どもを産み育てていくのは大変なことだと思う。
出産費用にはじまり、医療費に教育費はもちろん重くのしかかる。
家族が増えれば住居の広さも必要になり、自炊するにも食材が増えた分だけ、食費の増加は避けられない。
年に一度くらいは遠方の祖父母に子どもと会う機会をつくろうと思えば、交通費もかなりのものだ。
子どもを育てるコストを負担しつつ、自分たちの老後に備える必要もある。
問題は、その原資となる収入だが、今や雇用の安定など私たち20代や30代には望むべくもない。
成熟し、縮小していく社会において、高度成長期のような右肩あがりの成長に伴う給与上昇は考えられない。
となれば、椅子取りゲームで競争に勝ち、立場と給与を力づくで手に入れるしかない。
勝利しなければ、生き残らなければ給与の上昇を見込めないどころか、今の仕事すら失うかもしれない。
そしてその競争に参加するには、子どもの存在は重たい足かせになる。
家に帰って子どもの世話をするために、そして週末には子どもに時間を使うために、働く親たちは必死の思いで自らの仕事を効率化する。
だがそれでも、突発的なトラブルがあり、夜遅い時間に設定される会議があり、そして就業時間後のコミュニケーションが命運を握る社内政治がある。
子どもを持つ親は、子どものいない同僚たちと対等に競争に参加することは難しい。
この国のビジネス社会は、仕事にすべてを捧げ、集中する覚悟と実践を要求する。
この競争は、ブラック企業だろうと、優良企業だろうと、実はさほどの違いはない。
では、夫婦の内の片方が仕事に全力を注ぎ、もう片方が子育てを一手に引き受ける分担をすればいいのだろうか。
私たちの親世代で一般的だったように、企業戦士と専業主婦という分業により、家庭を経営していけばいいだろうか。
答えはノーだ。
なぜなら、私たちの親世代と私たちでは直面しているリスクの大きさが違いすぎるからだ。
かつて、日本企業は滅私奉公を要求するかわりに、少なくとも正社員として働く男性たちの雇用を守ってきた。
そのしわ寄せは、結婚によって退職する若い女性社員や、パートタイム労働者が負っていたが、彼らは主たる生計者ではなかったから、それでも「雇用の安定」というお題目は守られていた。
今は違う。
主たる生計者が期間限定の雇用に甘んじている状況は珍しくない。
正社員ですら、いつ競争に敗れ、仕事を失うかわからない危機感に常にさらされている。
どちらかが仕事を失っても、次の仕事を見つけるまで、家計を支えるためだ。
競争に勝たなければ所得の上昇が望めない社会で、成長し、お金を必要とする子どもたちに応えるためだ。
そのためには、母親である私は急いで仕事復帰しなければならなかった。
数が足りない認可園に入れないリスクに対処するために、先着順の無認可園を徹底的にあたって予約金も支払った。
秋生まれになるように調整したのは、産休明けにシッターを利用して急いで仕事復帰し、認可保育所選考のポイントを加算するためだ。
11月生まれで1月後半からシッター利用で復職、生後半年を待たず0歳で認可保育所に入園できれば、私たち夫婦の収入でも対処できる。
本当は4月や5月頃生まれの方が、0歳入園でもほぼ1歳に近く、子どもとの時間を持つことができるが、それでは約一年も仕事を離れることになり、復職のハードルが高すぎる。夏から翌4月までをシッターで乗り切るのはあまりに経済的負担が大きかったので、断念せざるを得なかった。
結局私は2人の娘を産んだが、仕事を離れていた期間は通算で一年に満たない。
そこまでして復職しても、いわゆるマミートラックからは逃れられないが、それも甘受するしかない。
「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログが話題になったが、ネットで何を叫ぼうと誰も助けてはくれない。
同情の言葉くらいはもらえるかもしれない。数年先には状況が変わるかもしれない。
それでは目の前の子ども、不運にもレールに乗れなかった家庭には手遅れだ。
誰もが自分の生きる場所を守り、しがみつくことに精一杯の世の中で、他者に手を差し伸べる余裕がある者などほとんどいない。
保育園に入れないのも自己責任だと切って捨てられる、それが現実だ。
ちなみに、そこまでして入った保育園も、子どもが体調を崩せば利用できない。
行政が提供する病児保育のサービスはあまりに貧弱で、フルタイムで働く私たちには使いこなせる余地がなかったから、いざという時には高額な病児ベビーシッターサービスも活用している。
そこまでしてでも、母親が正社員という立場を守って働き続けなければ、子どものいる家庭を守ることはできない。
少なくとも私はそう考えている。
母親は一度仕事をやめ、子どもが手を離れる年にまで育ったら、再び仕事を探して働けばいいという識者がいる。
そういう人は、十分な学歴と意欲があり、健康な体を持ち、自分自身以外に面倒を見るべき存在がいない若者ですら、安定した仕事を得ることが難しい社会の現状を知っていて、そんなことを言っているのだろうか。
誰もがいつ仕事を失うかわからない、そして失業した際のセーフティネットがあまりに貧弱なこの国の仕組みを理解していて、言っているのだろうか。
ひとり、あるいは複数の人間を新生児から社会人まで育て上げる責任の重さを、親になったからには背負わなければならない。
それも親になるという選択をしたのは自分たちなのだから、自己責任の範疇である。
費用も、機会も、制度をいかに利用して乗り切るかも、すべて親の才覚にかかっている。
それでも、私は自分たち家族が驚くほど細い綱渡りをしていることを自覚している。
もし娘たちや私たち夫婦の誰か1人にでも何か不慮の事故や病気があれば、この綱渡りを続けられる保証はない。
ここまでは、物質的な話だ。
子どもを育てるには、物理的金銭的に大変な努力が必要なのはもはや否定できない。
次に、親になる者が直面するのは、精神的な困難だ。
公共交通機関に子どもを乗せるなという論争が、日々至る所で巻き起こっている。
冒頭、娘が呟いたように、横断歩道をゆっくりとしか渡れない幼い子どもを連れた親は、道を渡ることすら容易ではない。
必要なしつけはしているつもりだし、公共の場でのふるまい方を教育するのは当然親の務めだと考えている。
それでも、子ども連れでいることで向けられる世間のまなざしに、どうしようもなく辛い思いをすることはある。
一人だったらとくに気にすることもなく車の間をぬって渡ってしまえる道も、子どもが一緒だから、安全を確認するまで辛抱強く待つ。
走り去る車をじっと見つめる娘の澄んだ瞳と、だんだん冷たくなっていく小さな手のひらに、どうしようもない心の痛みを感じながら、私は待つ。
もちろん、指定席を子どもも含めて人数分取っているが、たまたま私たちの近くに乗り合わせたビジネスマン風の男性は、あからさまなため息をつき、はしゃぐ娘たちを見て舌打ちする。
大きな声はださせない、椅子にはきちんと座らせる、そして食べ散らかすような菓子類は与えない。
飲み物はこぼさないようにストローやマグを準備し、それでも万が一に備えてタオルや着替えは常備する。
万全の準備をしているつもりでも、子どもの機嫌が悪くなることがある。
だが、帰省シーズンともなれば、指定席車両のデッキも自由席券の乗客で溢れ返り、苛立つ彼らは泣きじゃくる子どもを抱えて現れた親を睨み付け、ため息をつく。
一体、子を持つ親はどうふるまえばいいのか。
子が公共の場所で泣かず、疲れたとわがままを言わないようになるまでは、外になど出るべきではないのか。
容赦なく投げつけられる批判のまなざしを、せめて子どもが直接こうむることがないよう、親は細心の注意を持って配慮し、矢面に立つ。
自分で選んだ生き方なのだから仕方がない、これも自己責任だと言い聞かせ、今日もぐっと奥歯をかみしめる。
仕事を持ち、愛するひとと結ばれ、子どもをもうけて家庭を築き、社会に参加する。
本当に幸せなことだ。
川の字に並んで眠る夫と娘たちの寝顔を見る時、私は自分の歩んできた道が間違ってはいなかったことを自覚し、そしてたとえようもないほどの幸福感に満たされるのを感じる。
だが同時に、ひどく不安にもなる。
私はこの先も、この幸せを守り続けていけるのだろうか?
家族の健康を守り、仕事を守り、娘たちの未来を保障し、自己責任をまっとうできるだろうか?
身の丈に合わない幸せを追い求め、手にしてしまったのではないかと悩むことがある。
本当は、私のようなごくありふれた個人がまっとうできる責任など、自分ひとりが生き抜くくらいのことなのかもしれない。
仕事に集中し、結婚も出産もしなければ、私がとるべき自己責任の対象は私1人分でよかったはずだ。
ただ、保育園に子どもをいれられなかった親が怒り、子どもの障害とともに生きる親が絶望してしまうこの世の中で、ありふれているはずの家庭を持つ親が何を考えているのかを伝えたかった。
今、この国で子どもを持つということは「自己責任」の範囲を子ども全員にまで広げるということだ。
それでも子どもが欲しいなら、産み育てる責任をまっとうしてほしい。
…ありふれた幸せに憧れているだけなら、残念ながらお勧めできない。
だが、各論では真逆であり、子どもを持つことはリスクであり、ペナルティでしかない。
私たちは誰もが自分の幸せを自由に追求する権利があるが、子どものいる幸せは非常に高価だ。
子どもを持っても、誰も褒めてはくれないし、助けてもくれない。まして見返りなどないし、批判にさらされることが増えると覚悟してほしい。
それでも子どもを持つのは、子どものいる幸せがそのリスクやペナルティを度外視させ、高価さに見合う以上の精神的な充足をもたらしてくれるからだ。
私は正直、覚悟が甘かったから、今でも時々こんな風に心を痛めたり、迷ってしまう。
まだまだだな、と思うばかりである。
生物とか社会とか複雑なシステムって多数の入力と多数の出力、多数の内部変数があるもので、
ある一つの変数をいじると出力が劇的に変化するということはほぼ無いだろうし、変化したとしても再現性が低いと思う。
例えば生物の身体はたくさんの細胞組織と物質、菌類などの相互作用で成り立っているし、
社会組織はそのものがたくさんの人間の利害関係で成り立っている。
さらに、その複雑なシステム自体がそれぞれ異なる内部状態を持っているので、
ある具体的なシステムで問題を解決できても各論にしかならないはずだ。
じゃあどうすれば良いかというと、たぶんそのシステムの現状についてよく知っている当事者が、
妥当だと思える仮説をたて、複数の条件で実験してみるしか無いのだと思う。
そのような手続きを経て、確からしいと認められたらようやく一般性のある論として立脚するだろう。
とはいえ、実験できるものなら良いけど、脳とか国レベルのシステムとかは唯一無二であり気軽に破壊的な副作用のある実験をできないので、
問題を解決するのに非常に難しい判断を迫られることは想像に難くない。
結局何が言いたかったかというと、ライフハックとか新書によくあるナントカ論も各論でしかなく、
そんなものを頼りにしてもうまくいかないことが多いだろうということだ。
「男女平等は実現されているか」は何について平等なのかを指定していないわけで、テーマとしては粗すぎる。
ので、何が平等なのかについて補った上で、もう少し分解して考えてみることを勧める。
はたまた男女の「参政権・社会的な発言権」の平等・不平等というのもあり、それぞれで論点や現状の課題が異なってくる。
ちなみに「法の下の男女平等」という場合は、最後の参政権や基本的人権についてのテーマを指すことが多い。
ただし基本的人権というものがからんできた場合もう少しテーマは細分化されて、各論で考えなくちゃならない。まあそれをやればやるほど発表なりレポートなりの分量は増すだろう。
だが、全部いっしょくたにすると、漠然とした、ステレオタイプに基づいた答えしか出てこないのだけは確かだ。
戦前の日本社会での、男女平等(この場合、女性の職業選択や家庭への帰属を決める自由の担保)の促進要因というか抑制要因というのかが、新聞の身の上相談の読者の声にどのようにあらわれているのかについては、このサイトが参考になるかも → http://www.satani.org/sur/sur090.html
共感を得に来た。
近頃のオリンピック騒動を見ていたら、論議があさっての方向ばかり向いている。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/
やれパクリだの、やれパクリじゃないだの、正直そんなことが重要なわけではないと私は思っている。ってことで各論者たちにツッコミを入れに来た。まぁ見ていってほしい。
あのな、このロゴはな、タイポグラフィーを主としたデフォルメ系のロゴデザインなんだよ?どれも似通って当たり前だろ!目を覚ませ!
何が裁判だ提訴だ。こんな曖昧なもの法廷に持ち込んでどうするんだ!?結果が出ると思ってんのか?てかそれ誰が得するの?
法廷が正義だとか思ってるの?法廷なんて政治ゲームだろ。こんなもん裁判に持ち込んだら、適当なパワーゲームになってうだうだやるだけじゃねぇか!それで結局三面記事の良いネタになってコンテンツ力を失うんだよ!
世はフラットデザイン全盛なんだよ!似通ったロゴなんていくらでもあるだろ!全部訴えろってか?
あのさぁ、言いたいことはわかるけどな、これは芸術じゃないの。クライアントが存在するデザイン業なの。わかる?わかるよね。それが仕事だもんね。
ってことでさ、デザイナが独りよがりで作ったってどうにもならないよね。
ホントはさ、リリースする前に一般人的客観的感覚で、アウトプットを精査すべきだったんじゃないかな?一般人から「これパクリじゃね?」とか「これ○○に似てるよね?」とか意見が出るの目に見えてたよね。それってまずいよね。
そういう精査をしなかったじゃん?だから叩かれてるの。クライアントの感覚置き去りでデザインが世に出ちゃったからさ。
え?「クライアントは国であって、国民の事は知るか」って?それは横暴だよ。国家的イベントであるオリンピックのロゴ制作だよ?一生名前が残るよ?すごい大仕事だよ?それはすごーーーく丁寧にやらないとダメじゃない?
ホントはさ、国民は佐野さんに唯一無二でズバッとした有無を言わさぬデザインを生み出して欲しかったんだよ。たぶん。
ここにほかの人を引き合いに出すのは良くないとは思うけどさ、岡本太郎とかすごいじゃん。唯一無二感半端無いよね。きっと国民はそういう仕事を期待してたのだと思うよ。きっとね。
みんな頭を冷やせ!冷静になれ!
お前たちの戦う相手はそいつじゃない!
ここまで燃えたんだから、みんな悪者が欲しいに決まってる。あいつが悪いって言いたいんだろ?
ってことでとっておきの敵を提供してやる。それは広告代理店だ。
そもそもロゴなんてものはシンボルだ。そいつをみたら「あぁ東京オリンピックだな」と思えるものがシンボルだ。
だからな、乱暴な言い方をするとデザインなんてどうでもいいんだよ!要は決めるプロセスが重要なんだよ!
適当なストーリーと適当な理念と演出で、B層共が適当に納得するように仕向けるプロセスが重要なんだよ!
電通だか博報堂だか知らないけど、ちゃんと仕事しろ!ネゴシエーションしろ!CM打て!適当に民放で「2020年東京五輪 期待!開催までの道のり ~本邦初公開ロゴ誕生秘話~」とか言うタイトルでそれっぽい薄っぺらいストーリーなテレビ番組作っとけ!
広告代理店が無理なら国が仕事しろ!もっと上手くやれ!旗振り役が不在なんだよ!
基本的にオリンピックってのは成功することが前提で出来てるから、成功しても成功したことに対する利益が得られねえんだよ!モチベーションが高まらないんだよ!
用意してください。
用意してください!お願いします。
割と東京オリンピックで古いインフラをリニューアルして、更に東京は住み良い街になると信じてます。なので成功させてくださいお願いします。
▼▲でコメント挿入。
『医療人類学のレッスン 病をめぐる文化を探る』 http://www.amazon.co.jp/dp/4313340165
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/00-Frame2012.html
前提:歴史は一定の方向に進化しており、最後に絶対的価値を持つ正しいものだけが残る(勝利者史観)が支配する状況
19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパにて、「歴史時間的に遅れた未開民族の医療を調べれば、西洋人の過去が発見できるのではないか?」という発想から調査。現地に赴く宣教師等に非西洋の様々な文化的事象を蒐集させた。
▼私としては文化結合症候群のトピックが興味深い。文化の違いで人々の葛藤行動やストレス表現行動は異なる。文化的差異は精神疾患に典型にみられるということだった。
このあたりは『クレイジー・アライク・アメリカ』に詳しかった。香港での拒食症が欧米の拒食症と違う病像だったけど、DSM基準で診察する精神科医の増加でその病像が変わっていくとか。
「苦痛のイディオム」というのも興味深い。ストレスを表現するそれぞれの文化独自のイディオム。日本語でいうところの慣用句的なところでの「肩が凝った」とかか。身体に表現されやすい(身体を表現する言葉に落とし込まれやすい)かどうかは文化次第かな。精神的ストレスや精神的異常を表明しづらい文化圏では心身症が多く出ると聞くし。日本とか中国とか。ヨーロッパは心身症少ないと聞くけど本当なのか。どっかで統計拾いたい。
▲
☆各論
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/00-Frame2012.html
読んだ中だと、特に「呪術」「憑依」と「狂気」が興味深かったです。狂気はフーコーとかのアレでおなじみ。でも、狂気だけでなく、国家が個人の健康・身体をどう扱うかみたいな部分でも頻出していました。
☆呪術
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/000606magicLS.html
呪術がその効力を発するには、以上の条件を満たさなくてはいけない。呪術それ単体で存在するのではなく、呪いにかかったと信じる人がいて、それが呪いにかかったからだと信じる社会があって、呪いをかけた人間がいて、はじめて呪術が成立する。呪いにかかったと思わなければ呪いは成立しない。
▼このあたりは治験のプラセボを使ったダブルブラインドテストとは真逆。ダブルブラインドテストは、薬効のないプラセボと実薬を、医師も患者もどっちか分からない状態で投与して、薬効の有無や程度、安全性を確認する。プラセボでも改善効果や副作用が出ることはあるので、プラセボに対する優越性を確認するのが目的の試験。
しかし、向精神薬や鎮痛剤の類など、プラセボ効果が比較的出やすいジャンルがある。器質的な異常なんかをプラセボて改善するのは難しいけど、精神症状や痛みの評価は気の持ちようのファクターがある程度あるので。(もちろん、実際に世に出ている薬はそれらを乗り越えて承認されたものなので、有効な薬だとは考えられますが。)
プラセボが効いちゃうというのは、呪術と構造的に似てると思う。
薬に対する期待(あるいは副作用があるのではという不安)があり、治験薬を処方する医師や治験に対する期待(不安)があり。服薬したのが単に乳糖を固めただけのプラセボであっても実際の改善効果や副作用として現れてしまう。これは科学という権威に支えられて発動した呪いだと思う。
『精神科のくすりを語ろう』で熊木先生がいってた、向精神薬は薬への期待や医師への思いも含めて服薬する、効くということなのだよみたいな話を思い出す。薬効だけでなく、薬をめぐる心の揺れ動きも効き方のファクターになる。それが向精神薬を使うということ。
webですれ違った人に、不安発作に襲われた時のために抗不安薬を持ち歩くこと、薬が入っている包みをさわることそれ自体で安心する人がいた。その人はとっくに使用期限が切れたそれを「私のおまもり」といって大事にしていた。以前それを飲んで安定したとか、医師との関係とか、色々な要素があって、そのひとにその薬は安定をもたらしていた。もはや飲まなくていいレベルで。これも向精神薬を「使う」ことになると思う。現代の呪術。▲
☆憑依
憑依とは:異常性をもたらす主体
私が病気になっているという状態ではなく、外部に症状の原因となる霊的存在を想定する。
それ故に、人ではなく霊的存在に働きかけることでどうにかするという話。
憑依の認識と流れ
苦痛がある
↓
オーソリティによって何らかの霊的存在に憑依されているという判断がなされる
↓
それによって症状の見方が変わる。身体内部の問題でなく、外部に存在するものとの関係の問題へとシフトする
↓
呼びかけ、憑依された人をトランス状態にする、命名する
意識的な意思決定ではなく儀礼的空間に身体が感応するという意味で身体的自己による参与
▼自分の中にある困りごとを、外在化させて対象化する、私・誰か・それの三項関係で扱えるものにするというのは心理療法的。分かりやすいところではフォーカシングがそうだし、普通のカウンセリングの中でも言語化することで自分の中のもやもやと向き合い、扱えるようにしていくというプロセスは踏むし。対象化したそれに対して、言語でアプローチするのではなく、あくまで身体的・無意識的なアプローチをかけるのも面白い。象徴を象徴のまま扱っている。そのものの持つエネルギーを減圧させない感じがしてすごい。▲
あの謝罪を見てブチ切れてたおっさんたちも、よくよく見りゃかわいい服着てるしおじさん応援しちゃうぞー☆となるのは間違いないよ!
教養ある記事書けないくせに、他人に対してはバカバカ連呼してるけど、本当に教養のある人からすりゃどっちもどっちだわバーカ。
ということで、今回もかわいい服着た女の子が正義!ってことでかいさーん
-
追記:関係ないけど、日本経済ガーのおっさんたちは経済学でも学んできたのかな?消費が良くなりゃ経済が良くなる!と盲目的に連呼してるけど、制約や基礎的消費ーそれ以外の消費といった概念や、不要なものへの消費は間違ったシグナルを与え社会的費用を上昇させ資源や財の分配を阻害するという思考すら理解してないよね?笑
いい年してネットで見かけた言説を丸呑みしてそのまま吐き出した脳みそ腐ったマヌケにしか見えないんですが笑
さらに、個人の経済行動は自由でありインセンティブによって変容させるのが経済政策のあり方なので、お前の思想なんか知らないけど消費しろ!なんて言うバカはじゃあお前が破産するまで消費しろよお前の思想なんか知らんから自分でやってろバカと返されて終わりだということも理解できないんだろうな
そして、マヌケの言うことを鵜呑みにしてあれが正しいと思考停止してるのって恥ずかしくないのかな。教養がどうこう言ってるクソ間抜けどもは自分の脳みそを省みるほうがいいんじゃないのかな?本気で書いてるのか?とか頭悪そうとか思わせぶりなコメントつけるだけで反論できない自分の認知不協和を解消するだけの脳みそ腐ったマヌケばっかりなんだよなぁ。バカはまだ許せるけど調子に乗ってるバカほど惨めなものはないぞ☆
http://kyoumoe.hatenablog.com/entries/2015/07/12
どっちも教養ない→そのうちの教養がどうこう言ってる側は間抜け
つまり教養がないのに教養がどうこう言ってる連中のことを指してるので的ハズレもいいとこ。
ちなみにおまえのファンなんだけどよ、いつもより切れ味わるかったなぁおい。
ちょっぴりおしゃんてぃーなわかいねえちゃん見つけてうれしくなってんのはおまえじゃねぇのかおい。
かわいいとちょっぴり褒めるとすぐエロまで飛躍させる発想、それはおまえの願望の現れだろう。