自分の萌えは他人にとっての萎えかもしれない,自分の萎えは他人にとっての萌えかもしれない。ひとの数だけ「好き」や「面白い」は存在する。それを上から目線で理解してやろうなんてしなくてもよい。理解なんてできなくてもよい。ただ多様な嗜好があることを受けれればよい。認め合えばそれでよい。
実際そうだろうなと思うしそうありたいと思う。そう考えられる人間になりたいと思う。そう思うが,うまくいかない。
己の殻に閉じこもって,他人の嗜好と距離を取り,見ないふりをしていればやり過ごせる。でも上述の考えは,なにもそうしろってわけじゃないんだろう? だいいち,いつもそれが可能とは限らない。例えば自分の大嫌いなものを,目の前で楽しそうに話され,その上布教なんてされたとして。今はニコニコと話を合わせたり,各論から総論へと話を誘導したりして飲み下しているが,それだって相当なストレスだ。いやそういうのにストレスを感じるのがそもそもお子様だっていわれりゃ,そりゃあぐうの音も出ないのだけれど,だったら何をどうすればいいんだろうか。
自分と異なる他人の好みを受け入れられない狭量な思考から,受け入れられる思考へと,心がけで思考変換できたひとがいたら,そのコツをぜひ教えてください。
人に合わせようとしてるからでは。自分は余り好きじゃないなあ、程度をいう勇気は必要。批判せず断る。