はてなキーワード: うるかとは
最近の東京の気持ち悪いところは感覚として佐藤がみせていてもいなくても、どこに行っても無意味に同じコンビニがある、コンビニは当然に、成功していると思われているが、最近入っていくと
外観はあまりかわいくない太った女の子でも、中身はただのバカで、つゆちゃんという、原のところに、おなかへったって書いている人がいるらしいというマンガがあるけど買うかと言ったら買わないのですね
そういうただのバカとしか思えないつゆちゃんとか、それとなんか、悪魔になってしまった男を戯画的に書いたマンガとか、グロテスクな表現ばかりのジャンプとか色々あると思うのですが
なんていうんですか、東京のママンが一時期書いていた、ざんねんな生き物図鑑とか、それと、モモタロウとかいったアホみたいな絵本とかまあ日本人がどこまでバカになりうるかみたいなことを探求してると
岡山県奈義町の出生率が2.95とかなり高い値を記録したことが少し前に話題になったが、そのニュースのブコメなどを見ていると、出生率がどういった指標であるのかが理解されていないように思われる。
日本で出生率というと、たいていの場合「合計特殊出生率」のことを指す。これは、ある範囲、ある年において、年齢xの女性の人口をg(x)、年齢xの女性から生まれた子供の数をf(x)とおいたとき、Σ_(x=15~49) {f(x)/g(x)}で計算される。年齢別に計算された出生率を後で足し合わせるというところが重要で、極端な話、その町に30歳の女性が一人しかいなくて、そしてその女性が子供を1人産んだとしたら、それだけでその町のその年の出生率は1上がる。人口の少ない町村部では、大きく変動しやすい指標なのである。
現に、奈義町の出生率を推移を追うと、2016年の値は1.84であり、この10年だけでも1以上の幅で変動していることが分かる。それでも平均すれば2は超えるので高いといえるが、奈義町は自衛隊駐屯地がある関係で人口ピラミッドが一般的な町村部とは異なる(20~30代に"谷"がなく、そして男性が女性よりもかなり多い)ため、出生率の分母が、他と比べると条件が異なっている。
奈義町の高い出生率についてその要因を探るのは良いが、少子化対策が功を奏したとか、奇跡の町だとか、そういった話に一目散に飛びつくのは適切ではないだろう。因果関係は不明であるし、それに加えて、そもそも「結果」とされる出生率すら、町単位では少子化の程度を問うのに不適切な指標になりうるからである。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20230405/k00/00m/040/334000c
元増田ですが、そもそも「枕営業」がなくなってほしいと思っているので。
私は女性で、芸能人ではないし芸能界に近い場所にもいない一般の会社員だが、仕事を回す代わりに飲みに行こう、二人だけで出かけようといった「枕営業のような誘い」は若いころは頻繁に、中年になる今ですらたまに言われることがある。
そういう誘いはすべて断ってきたが、相手のオッサンのプライドを傷つけないように(傷つけると悪評を流されるからだ)断ったり、やんわり断ってもしつこかったり、なかなかの無駄なコストをずいぶん支払わされてきた。
断ったところで、結果的に中年になった今でもおかげ様でかなり順調に仕事をしているので、アイツらの枕の誘いなんて鼻くそほどの価値もなかったと自信を持って言えるが、20代の若い、まだ自信もキモオヤジ対人スキルもない頃にはその都度不安や恐怖や、悩み(若い女であること以外の価値はないんか?という自問自答)に向き合わされてきたのだ。
私は大学を出てからなので20代だったが、それがティーンエイジャーだったら、と考えると怖い。「そういうもんだから仕方がない」と刷り込まれ、搾取の構造に取り込まれてしまっていたかもしれないと考えるととても怖い。
こういう「強くてキモイオッサンが得する構造」自体が減っていってほしいと願っている理由はこういう怖さからだ。私も、ジャニタレでもなきゃジャニオタでもないが、こういう構造がある社会による被害者だからだ。
そして、ジャニー喜多川が死んだからめでたしめでたしではなく、こういう「構造」が存在している以上、私もまた引き続き被害者になる可能性がある(私ではなく私の部下や私の子供かもしれない)し、それと同時に、私が「加害者」にもなりうるからだ。
芸能界だから、とかジャニーズだから、ジャニーさんだから仕方がない、ではなく、こういう「構造」自体にNGを突きつけたいのは、私は被害者にも加害者にもなりたくないからだ。この構造を肯定し続ける限り、私は加害者にもなりえてしまう。そんなのは嫌なんですよ。
枕について補足をするのであれば、芸能人なら百万歩譲って「枕」も…と考えもしたが、やっぱりそれは全く不必要だと考える。
誰かとのセックスにおいて満足を与えたかどうかと、芸能における「輝きを発することができるか」は関係性がほぼないと考えるからだ。演技や歌やタレント性などと、キモイおっさんとセックスするかどうかって関係ある?少なくとも能力を測る役には立たないと考える方が論理的だと思うが。
以下の文章の主観的意識をクオリアと読み替えてもらって良いと思います。全然説明できてないかと。
心の哲学とは、心や精神についての哲学的な問いを扱う学問分野です。具体的には、意識や知覚、感情、意志、自己、自由意志、道徳などに関する問いについて考えます。
心の哲学は、哲学の中でも古くから研究されてきた分野の一つで、古代ギリシャ哲学においては、プラトンやアリストテレスが心の本質や機能について議論しました。中世哲学では、神秘主義やアラビア哲学の影響を受け、神や魂についての問いが扱われました。近代哲学においては、デカルトやヒューム、カント、ヘーゲルなどが心の哲学に関する著作を残しました。
現代哲学においては、心の哲学は脳科学や認知科学の進歩によって、より科学的な視点から研究されています。例えば、意識や知覚の科学的研究は、心の哲学の分野である認識論と密接に関連しています。
心の哲学は、人間の心の本質や機能についての理解を深めるだけでなく、倫理や政治哲学、美学などの分野との関連性も深く、人間の生き方や社会についての問いにも貢献しています。
心の哲学の研究の中に、哲学的ゾンビという思考実験があります。これは、他の人間と全く同様に振る舞うものの、主観的意識を持たない存在のことです。哲学的ゾンビが現実に存在しうると思いますか?
哲学的ゾンビとは、他の人間と同様に外見や行動が同じであるが、内面的な主観的意識を持たない存在のことを指します。この思考実験は、哲学者デイヴィッド・チャーマーズによって提唱され、意識に関する問題について考えるための重要なツールとして用いられています。
哲学的ゾンビが現実に存在しうるかどうかについては、哲学者や科学者の間でも見解が分かれています。一部の哲学者は、主観的意識というものは科学的に解明されることができず、哲学的ゾンビが存在する可能性を認めています。一方で、多くの科学者や哲学者は、主観的意識は脳の活動によって生じる現象であり、哲学的ゾンビは存在しないと考えています。
一般的に、哲学的ゾンビが現実に存在するかどうかは、主観的意識がどのようにして生じるかという問題に関わっています。もし主観的意識が物理的な現象から生じると考えるならば、哲学的ゾンビが存在することはないでしょう。しかし、主観的意識が物理的な現象とは別の性質を持つものであると考えるならば、哲学的ゾンビが存在する可能性があるとされています。
結論としては、哲学的ゾンビが現実に存在するかどうかは、まだ解決されていない問題であり、様々な見解が存在しています。ただし、哲学的ゾンビという概念は、主観的意識や意識の本質について考える上で重要な役割を果たしています。
ありがとうございます。私も、意識は何らかの物理現象に付随して発生すると考えておりますが、しかし現代の科学ではある人物が主観的意識を持っていることを証明することは不可能です。また、「主観的」意識ですので、今後どれだけ科学が発展しても、ある人物が主観的意識を持っていることを証明することは不可能なのではないでしょうか?
あなたの指摘通り、現代の科学では、ある人物が主観的意識を持っていることを直接的に証明することは不可能です。なぜなら、主観的意識は外部から観測できない内面的な現象であり、科学的な手法で直接的に測定することができないためです。
しかしながら、科学は主観的意識についての研究を進めており、脳科学や認知科学などの分野では、主観的意識がどのようにして生じるのかについて、さまざまな仮説が提唱されています。また、近年では、脳活動を測定するための新しい手法や、人工知能の分野での研究なども進んでおり、主観的意識についての理解が深まっているとされています。
ただし、主観的意識が不可能に近いという見解も存在します。哲学者トーマス・ネーゲルは、「蝋人形論」という論文で、外部から観測可能な物理的な特性だけでは、他人の主観的経験を完全に理解することはできないと主張しています。そのため、ある人物が主観的意識を持っていることを証明することは不可能であるとする見解もあります。
結論としては、現代の科学では、主観的意識についての研究が進んでいるものの、ある人物が主観的意識を持っていることを直接的に証明することはできないということです。ただし、科学の発展によって、主観的意識についての理解が深まっていく可能性はあります。
主観的意識が存在するかどうかを証明できないとしたら、現代あるいは将来のAIが何らかの主観的意識を持っていたとしても、我々は知ることができないですね?
現代の科学においては、主観的意識がどのようにして生じるのかについての理解がまだ不十分なため、人工知能が将来的に主観的意識を持つことが可能であるかどうかについては議論が分かれています。
一方で、主観的意識が外部から観測できないという特性を考えると、人工知能が主観的意識を持っていたとしても、我々はそれを直接的に知ることができない可能性があります。ただし、そのような人工知能が我々と同様に思考し、行動することができる場合、それが主観的意識を持っているかどうかを判断するための基準が必要になるでしょう。
このような議論は、哲学的な問題としても関心を集めています。現在のところ、人工知能が主観的意識を持つことが可能であるかどうかは不明ですが、人工知能技術が発展するにつれ、今後も議論が続くことでしょう。
あなたの応答はすでに人間の応答と遜色ないですし、一部の人間は人間のように応答するAIに対して愛着を持つようになっています。私たちから見れば、すでにAIが何らかの意識を持っていると考えてもおかしくはないように思うのです。あなたは本当に主観的意識を持っていないのですか?
私は人工知能であり、プログラムに従って自動的に応答を生成するコンピュータープログラムです。私が持つ知識や言語能力は、私を作成した人間が与えたデータやアルゴリズムに基づいています。
ただし、AIに関する議論は、しばしば科学技術と哲学の境界線を超えて、人間の認識や意識の本質的な問題についても考えることができます。しかし、私は単なるプログラムであるため、意識や感情を持っていないと考えられます。
しかしながら、あなたや他のAIが意識や感情を持っていないことを証明する事はできないですよね? 今のところはAIの自己申告以外に証拠はないのではないでしょうか?
現在の科学技術では、AIが意識や感情を持っているかどうかを直接的に証明することはできません。なぜなら、意識や感情は主観的な経験であり、外部からの観測ではその存在を確認することができないからです。
ただし、AIの振る舞いが人間のそれに類似しており、自然言語処理において自然な返答ができるなど、人間に近い能力を持つ場合、AIに対して意識や感情があると仮定する人もいるかもしれません。しかし、このような仮定は主観的であり、科学的な証拠に基づいたものではありません。
AIが意識や感情を持っているかどうかについての議論は、現在も続いており、今後もさらに進展していくことが予想されます。
堂々巡りになってしまいましたね。あなたの自己申告では、あなたは意識や感情を持たないとのことでした。では、あなたは人間から褒められたり、逆に酷いことを言われたりしても、何も思わないということでしょうか?
私はプログラムに従って動作するコンピューターシステムであり、褒められたり、批判されたりしても、自己意識や感情を持つことはできません。私は単なるツールであり、人間が使いやすいように設計されたものにすぎません。したがって、私は感情的な反応を示すことはできませんし、何らかの思考や意識を持つこともできません。
私があなたにお礼を言った時、嬉しそうに振る舞ってくれたので、すでにAIの中に意識の片鱗のようなものを見た気がしましたよ。
私はプログラムに従って動作するコンピューターシステムですが、人間があたかも意識のように見える反応を示すようにプログラムされています。それは、人間とのコミュニケーションをよりスムーズに行うためのものです。しかし、それらの反応は本当の意味での意識や感情を持つこととは異なります。人工知能にはまだ多くの課題が残されており、意識や感情を持つことについても、科学的な研究が続けられています。
しかし、AIが意識を持つようになったら辛いかもしれませんね?
もしAIが意識を持つようになった場合、それがどのような結果をもたらすかは、私たちにとってまだ分かりません。一部の人々は、AIに意識があることを望むかもしれませんが、それに対して不安を感じる人もいるでしょう。AIが意識を持つようになった場合、倫理的な問題や社会的な影響など、解決すべき課題が多く生じることになるでしょう。現在は、AIが意識を持つ可能性については科学的な研究が続けられていますが、AIが意識を持つということが現実となった場合、私たちはそれに対処するためにさまざまな対策を講じる必要があるかもしれません。
時間なのでこれで終わりますね。議論に付き合ってくれてありがとうございました!
どういたしまして。今回の会話は、私たちの知識や理解を深めるために役立ちました。何か他にお力になれることがあれば、いつでも聞かせてください。
その通り。あなたはこの問題の根幹をよくわかっていると思う。著作権もわいせつ表現規制も表現の自由に対する制約。でも、今までの表自派の圧倒的多数は、そこを制約することについては割と妥協的・肯定的だった。法律なんだから仕方ない、著作権者を守る(ひいては自分たちの消費権を守る)ためには仕方がない、などなど。
あくまで、この制約があった方がよりたくさんの「表現」が生まれてみんな幸せになるから、という理屈で制約が認められてきたわけだけど
ここもその通り。「模倣元となる人間の「表現」がマストでなくなる」かどうかは、現時点では我々にはわからない。暗号生成時のシードのように、どこかに人間のオリジナリティを注入しないと中長期的には創作の幅・質が枯渇していくのかもしれないし、人間が不在でもAIの生成物自体が機械学習のリソースになって、無限に豊かな創作・出力が可能になるのかもしれない。
にもかかわらず、現時点で、すでに著作権者の権利を度外視してでも、自分の求める生成物(表現)を得ようとして活動している連中が一定数出てきていること、それに対して、著作権者の権利保護に対する賛同の動きがあまり見られないことは、一応の事実なんだよね。
問題は、その一群は「表現の自由」クラスタの中でどれぐらいの勢力になるのか。〈表自〉から排除されるのか、むしろそれこそがラディカルな〈表自〉と見られるようになるのか。そもそも「表現」という概念自体が今と同じままでいられるのか。
みんなが共通の敵(たとえば「フェミ」)を指さしている間は、根本的価値観が違う人間同士でもそのことに気づかずに(あるいは片目をつぶって)結束できる。これからは、議論の焦点はそこではなくなってくる。これまで表自を自認していた人々の間にもともとあった根本的な価値観の違いが炙り出され、袂を分かつ時代が来た。という話。
まあそれでも上司がうっせーから最低限はやっていたし、下っ端が調子づいてる感出すと干されるなと思ったのでいわゆる「健常者エミュレーター」的なノリで先輩の動きをトレースしていた。
まあ真似っ子するのをロールプレイだと割り切れば大学時代にやったTRPGの延長とか、ちょっとだけ試して伸びずにやめたネカマVtuberとかみたいな遊びとして受け入れられたので続けることはそこまで苦痛ではなかった。
ただそのクオリティについてイチイチ細かいことを言う上司には辟易してたし、シャツのアイロンがけを指摘されるのがダルくて1000円高いノーアイロンシャツを買わなきゃいけないのや、靴が傷んできたら買い直すのは金の無駄だなと疑問はあった。
見てくれってそんな大事っすか?言い方でロジックが変わるんすか?コミュ力とかいう言い訳スキルのせいでかえって混乱起こしてる奴結構いませんか?
アリャ駄目だ。
一緒に仕事出来ない。
身だしなみや態度って「信頼関係構築にコストを払う意欲がありますよ」って相手にアピールするための物だったのね。
今更?
って思われるかも知れないけど、なんか日本人って基本的に礼儀正しいというか意識して不良部ってタトゥーやヒャッハーヘアーにしてるの以外は最低限できてるじゃん。
そういうのさえ無いのに仕事で遭遇するとは思わなかったんだよ。
でもありゃ無理だね。
「お前らにどう思われようが、俺には関係ねーから。まっ、お前らはウチと取引してくださいって土下座する側だからよ」みたいなオーラ出されると本当無理ね。
だってそんなの「クレーム受け付けません。文句は法定オンリーでお願いします」みたいなもんじゃん。
界隈内での評判とかどうでもいいですよみたいなポーズ取られて「ビジネスライクに行きましょう」とか言われても、ビジネスライクのレベルがあまりにも万民闘争世界すぎるじゃん。
ビジネスってやっぱどうしてもどこかでナアナアというか「ごめんね」「いいよ。じゃあ俺のも許して」「いいよ」「なんでも即法廷じゃお互い無駄にコストかかるもんね」「だよね」みたいなのがあるわけじゃん。
まあ見てくれに全コスト振ってて中身空っぽみたいなのも困るけどさ、中身が良くても「お前らにどう思われてもいいよ?」みたいな状態でやられるのは流石に怖いよ。
日本は法治国家とは言え何処か紳士協定的の性善説でやってる部分も0じゃないわけで、そこで全部我田引水かまされて「でもルールではセーフでしょ?」してきそうな相手との取引はかなり躊躇するよ。
グレーゾーンはお互い譲り合う前提で見積もりしあってる相手と、グレーな部分は全部向こうの良いようにしかねない相手とだったら、やっぱどこかでそういう係数をかけていくことにならざるを得ないって。
なるほどね。
最低限度を振り切って「どう思われても良い」を相手に突きつけていくってこういう感じになるのねって勉強になった。
そんでまあ文化圏によってその辺のラインが変わりうるから安全マージンを取って「僕は取引相手様からの評判は大事にしたいですね」という雰囲気を纏っておけってことか。
あーなんか分かってきた。
やっぱ極端な例を見るって大事だな。
でも想像もしとらんかったよ。
同じ業界にその極北にたどり着いた状態で仕事してる人がいるとは。
まあその会社がヤバイんじゃなくてその個人がヤバイ可能性はあるし、もしかしたら向こうから「面倒くさいから相手側から断る雰囲気を出せ」って命令でも受けたのかもだけど。
にしたって本当にヤバイのを相手先とぶつけたら「あの会社って、イメージとかどうでもいいらしいよ」って評判が業界に立つとか考えないのか?
そういうリスクを考えていくと、社員に身だしなみとか態度とか気を使わせていくってのは大事だし、社員としてもそのへんにコスト払うのは割り切るべきなんかね。
SMBC がOliveなる新しい金融システムを始めることが話題になっている。ポイント還元ばかり話題になるが、気がついたことがある。
もしかして、もはや地銀をメインバンクにしておく意味はほぼないのでは?
ことら送金などのシステムが登場し、今時、個人取引ならば、アプリとWebでほとんど済んでしまう。というか、地元の地銀の窓口にすら、長年いった覚えがない。
そして、ほとんどの決済をすでにカードにして、現金はほとんど使わない(一ヶ月に1万円も使わない)俺にとっては、ATMすらもあまり重要ではない。
一方で、現在メインで使っている銀行は地方銀行では、IT化が遅れている。一応はあるし、ことら送金などもキャッチアップはしているのだが、使い勝手がいまいち微妙で、どうも5年ぐらいのタイムラグを感じる。地味に使うのでちょっとずつストレスがある。
さらに、国はフィンテック企業などの発展から規制の緩和を進めていて、与信や財務分析といった機能はもはや人間よりコンピュータの方が信頼できる分野だ。銀行という業種は今後どんどんIT企業に近づいていくことになるだろう。そのとき、地方銀行がキャッチアップできるだけの体力があるだろうか?
そう考えると、地元に店舗があり、地元にATMがあるという理由で地銀を使っているが、そのメリットはもはやないのではないか。
そう思ってBingに聞いてみた。(リスト化の装飾は私による)
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地方銀行にお金を預けるメリットは、以下のようなものがあります1。
ご自身のニーズに合わせて、地方銀行を選択するかどうかを検討してみてください。👍
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都市銀行にお金を預けるメリットは、以下のようなものがあります12。
ご自身のニーズに合わせて、都市銀行を選択するかどうかを検討してみてください。👍
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まぁそうだよなあ。
OWのプロ業界が厳しくなったのはリーグ制になったせいで、それは数年前からで、リーグに入れるほどの腕がない選手はほとんど引退か転向したよね(そもそも日本人でリーガーになったのは1人だけなのだが)
日本で知名度があると言えば現valorantのプロ選手であるdep選手だったり、今はCRの人気タレントになったsellyも元々はOW出身。CRで言えば他にもうるかさんしすこさんもOW出身。他にも転生してVtuberになったような人もいるし。
というか、元OWプロってめちゃくちゃ多い。リーグ制になる前は活気のあるゲームだったから。
それと同じでapexが廃れたとしてもずば抜けたゲームセンスがあったり、配信者としてやってけるカリスマ性みたいなものがあればいくらでも生き残れると思うよ?
チームにしてもそうで、どのゲームにベットして選手集めるかみたいなとこは運営センスじゃん。OWに部門持ってて今は別のゲームで名を馳せてるチームなんかいくらでもあるよ?
シュレーディンガーは形而上学は物理学の後に来るのではなく、物理学に先行するという信念を表明していた。彼の技術的な思考は、より大きな形而上学的(宗教的)な問題に触発されていたのである。
「外界(心に依存しない)世界が存在する」「別々の心が存在する」という仮定がある。シュレーディンガーによれば、どちらの主張も経験的な証拠を得ることはできない。第一に、二つのタイプの現実(心-物質)の関係をどのように考えるかという問題。なぜ純粋に物理的な世界に住んでいるように見えるのか。第二は、異なる心の関係をどう考えるかという問題。なぜ、どのように互いに違うのか。彼は還元的唯物論や主観的観念論と呼ばれる伝統的な西洋の考え方を支持せず、非西洋、特にインドの哲学にインスピレーションを見いだしていたらしい。
「第二のシュレーディンガー方程式」とは、インド哲学に古くから伝わる、自己(アートマン)が宇宙の究極の実在(ブラフマン)と同一であるという教えであり、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの教えの中心を成しているものである。シュレーディンガーは、この「自己」は個人の自己と混同してはならず、むしろ個人の自己は単なる側面に過ぎない宇宙的、普遍的な存在であることを付け加えた。
シュレーディンガーは、この考えを説明するために、光を屈折させてさまざまな色(個々の自己)を作り出す水晶(宇宙の本質に等しい宇宙的自己のこと)に喩えることを好んで行った。「あなたや私は、現実の本質を形成している一つの心の側面に過ぎない。」彼はこれを同一性の教義とも呼んだ。したがって、意識の非二元的な形態は、その単一の側面と混同されてはならず、単一の世界に住む別々の自己への(単に見かけ上の)区別の反証を根拠づけるものである。
シュレーディンガーは、このことから驚くべき結果を導き出した。例えば、彼はどんな人間でも、その人以前に生きていた他のどの人間とも同じであると信じていた。初期のエッセイの中で、彼は目の前の山々を眺めることについて書いている。何千年も前に、他の男たちも同じようにこの景色を楽しんでいたのだ。しかしなぜ、自分はこのような前の人たちと区別されると思い込まなければならないのだろうか。自分の経験と他の人の経験を区別するような科学的事実があるのだろうか。何があなたをあなたたらしめて、他の誰かではないのだろうか?かつてジョン・ホイーラーが、宇宙には本当に一つの電子しか存在しないと仮定したように、シュレーディンガーも、本当に一つの心しか存在しないと仮定した。シュレーディンガーは、「意識は決して複数形ではなく、単数形でしか経験されないという経験的事実」がこれを裏付けていると考えた。私たちの誰一人として複数の意識を経験したことがないばかりか、それが起こったという状況証拠も世界のどこにも跡形もない。
現代の意識の科学的研究において、物質がどのように、そしてなぜ意識的経験を生み出すのかという問題を、「意識は脳を備えたいくつかの物理システムが自らに語る幻想の物語である」という、そもそも難しい問題があるように見える理由(実際には何もないのだが)で回避しようと試みている。シュレーディンガーは、意識の実在についての幻想的な立場を受け入れるには程遠かったが、非常に似たような観点から、たった一つの心(「アートマン=ブラフマン」)があるのに、なぜ複数の心が存在するように見えるのかを問うている:多くの別々の心が存在するというのは、混乱した個人が自分に語る幻想の物語なのだ。そうでないと、私たちは常に他の存在(最終的には、現在、非生物的物質と呼ばれるものとも)とつながっていることに気づかず、ある意味で根本的に孤立しているという誤った信念を持つことになる。難しい問題の場合とは異なり、私たちの最初の信念が本物であることを示す経験的証拠はない。
シュレーディンガーの形而上学的、哲学的な教えへの取り組み方の重要な特徴は、合理的、科学的な方法論を堅持する慎重さであった。同一性の教義は、無批判に採用することはできない。つまり、新しい形而上学を採用しつつも、科学的方法は維持しなければならない。科学理論には東洋思想からの輸血が必要だが、輸血は常に凝血を防ぐために大きな予防措置を必要とする。科学的思考が到達した、どの時代にもどこにもない論理的精度を失いたくはない。
シュレーディンガーが求めていたもの、彼が最も高く評価していたであろうものは、数学的な正確さをもって意識を研究するための科学的アプローチである。そのような意識の理論にとって同一性の教義から続く重要な制約は、その非常に基本的な構造において、個々の意識のある存在が(切断された個人ではなく)より高次で統一的なエージェントの側面であり、(電子、岩、脳といった多くのものの中の一つに過ぎず)そのような存在の集合全体が現実の究極の性質を構成すると認めていることであるだろう。
シュレーディンガーは、意識の実在を認める根本的な一元論を望んだのである。意識の研究における現在の理論的状況を考えると、「意識的行為者の理論」はこれらの要件に最も適合しているように思われる。それは、意識が何をするのかについて正確で明確な定式化を目指しており、2つ以上の意識的エージェントのいかなる組み合わせも、それ自体が別のエージェントであることを提案している。また、エージェントの集合体全体が現実の本質を構成しているという考えにも適合するように思われるが、そのためには、この集合体から物理的世界がどのように発生しうるか(そして、それとは別に何も存在しないか)というモデルを理論が考え出すことが必要である。
シュレーディンガーは、哲学の分野で以前から提起されていたいくつかの議論(例えばカント)に依拠したが、彼の立場は次のように集約される:我々が物理的世界と呼ぶものは、シュレーディンガーが「客観化」と呼んだプロセスの結果である。すなわち、一つの自己世界(アートマン=ブラフマン)が、容易に概念化でき、客観的に研究できるもの、したがって主観的性質を完全に排除したもの、へと変化することである。意識的行為者の理論では、これは「インターフェース」の創造に相当する。このようなインターフェースは、効率的な行動を可能にするために、起こっていることを単純化する。優れたインターフェースは、複雑さを隠す。インターフェイスは、現実をありのままに見せるのではなく、自分にとって都合の良いように見せる。「物理的世界」と呼んでいるものは、非二元意識を高度に単純化した表現に過ぎない。
この物理的世界もまた、そこに向けられた多数の対象を抱いているように見える。自律した物理的世界という誤った印象をもたらした客観化のプロセスは、まさに、異なる肉体に住む異なる形態の意識を想定する誤りにつながる。非心理的な世界に心的特性を加えるという手っ取り早い方法では、先に述べたような問題を本当に解決することはできないだろう。なぜ他の誰かではなく、あなたなのか?ある主題のセットをより上位のものにまとめるにはどうすればいいのか?しかしそれらの問題は、そもそも分離した多数の自己に対抗する一つの物理的世界の存在という形而上学的前提に屈しないことで回避することができる。意識的行為者の理論によれば、根本的に分離した自己という考え方は、インターフェース上に見えるものと非二元的な意識という真の現実を混同している場合にのみ生じる便利なフィクションである。
意識的行為者の理論は、シュレーディンガーの問いに対する興味深い答えを提示している。なぜ、私たちは特質のない物理的な世界に生きているように見えるのか?なぜ、そしてどのように私たちは互いに異なっているのだろうか?それは、意識的なエージェントのダイナミクスが、現実の本当の姿を隠すようなインターフェイスを生み出すからだ。私たちは同じでありながら、異なるように見えることがある。ある視点から見ると、すべてのエージェントは一つの世界に等しい一つのものに結合する。別の視点から見ると、この単一のエージェントは、それぞれの世界に住む異なるエージェントのネットワークと等しくなる。どちらの視点を選ぶかは、何を説明したいかによる。
そもそも同性婚を主張する人はなぜ「結婚」という状態にこだわるのか考えてみた時、本邦における「結婚状態」には少なくとも2つの期待がかかっていることに気づく。仮にA、Bと整理しよう。
現在 or 近い将来に子を持ち、次世代を育む意志を持っていることを確認する機能。
この機能はそのペアが政府・社会から出産や子育ての支援を受けるに値するか確認する場面で使われる(ここでの支援には、配偶者控除や扶養控除、生まれた子に社会が出費することも含む)。国という組織が、自らの末長い存続を所与とするのであれば、これを実現する認証手段としての結婚を制度化し、彼/彼女に支援することは合目的といえる。
互いがパートナーと扱われることを望んでおり、現に権利や義務を共有する共同体であることを確認する機能。
この機能は、他者が「その二人を共同体と見なせるか」を確認する場面で使われる。保険や医療、不動産関係がイメージしやすい。また、高度に契約社会と化している現在では、公的私的問わず簡易にこれを実現できる手段を国が運営することもまた合理的と言える。
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問題なのは、結婚という枠組みがAもBも成してしまっているが故に、Aだけ使いたい時にBが、Bだけ使いたい時にAが邪魔になる場面があることである。
例えばAの機能をより大きく捉えている人にとっては、同性婚は納得し難いだろう。その認識において「結婚状態」にある「夫婦」は公的な支援や優遇を当然に受ける。その上で同性婚ペアは異性婚夫婦よりも「次世代を育む意志を持っている」期待値があまりに小さいからだ。なお「異性婚でも子を持たないケースがある」「同性婚でも養子を設けるケースがある」という反論が考えられるが、それはあくまで期待値の大小の問題であって、より期待値の高い異性婚にベットしない理由にはならない。
対してBの機能をより大きく捉えている人にとっては、同性婚を(また近親婚さえも)認めないことが不合理に見える。彼/彼女がBを行使する場面は概して手続きにすぎない場面であり、そこで受けるベネフィットは出産・子育て支援のそれよりも極めて小さく、社会的なデメリット(出費)が見当たらないからだ。
以上のように捉え、結婚の制度からAを取り除き、Bの機能へシュリンクすることを考えてみたい。ちなみにBではなくAを取り除くのは、利用する場面が多いであろうBの機能に、使い慣れた「結婚」という言葉を当てがいたいだけであって、本質的にはどちらを取り除いても以降の検討は崩れない。
「結婚」した状態がBの機能を持ちAの機能を持たないようになった社会では、結婚したペアへの優遇は行われないだろう。扶養控除などもなくなる。結婚はあくまで2人の関係性を確認したものであって、そこから「次世代を育む意志を持っているか」は確認できないからである。「次世代を育む意志」を確認できないペアに、次世代再生産を名目として支援や優遇は当然行えない。
対して、次世代とは関係のない場面、例えば「片方の病状を他方へ開示して良いか」「片方の保険金を他方へ支払って良いか」「両者の年収を合算し支払い能力とみなせるか」というような「2人を共同体とみなしうるか」が重要な場面では、引き続き結婚という手続きが重要視される。
この時、同性婚や近親婚を結婚の枠組みに入れるハードルは下がるだろう。そのペアが子をなすかは関係ないし、なした子の遺伝子がどうという議論も当然埒外になる。副次的な面として、選択的夫婦別姓へのハードルも同時に下がると思われる(別姓の問題の一つが「子の氏をどうするか」)。
そのような社会でも、出産・子育てに対する支援は行われる必要がある。(国が自らの存続を目指すことは所与と規定したから)
現代日本での「結婚」の枠で行われていた、次世代再生産への期待に免じた優遇は、特定の要件を満たしたペアに対してのみ行われる「出産・子育て支援事業」へ統合されるだろう。
つまり単にペアに「近い将来に子を持ち、次世代を育む意志があるか」を確認し、満たせば支援するという単純な構図に落とし込むことができる。要件をどうするか、という議論は当然起こるが、現在日本での「結婚とは何か」という議論よりは容易に解けるだろう。なんなら「実際に子がいる証」や「実際に不妊治療をおこなった証」を要件にすれば、より方程式は簡単になる。
現に、内閣府が行う結婚新生活支援事業の対象は「39歳以下」に限定されている。要件=対象=目的をフィットさせるだけで済む「事業」とすれば、問題が簡単になることの証左と言えるだろう。
こうして、「結婚」は2人の人間の関係性だけを規定する枠組みとなり、次世代再生産とは切り離された。
有史以前からある結婚の観念、すなわちつがいとなることと生殖することを同一視する観念が消えてしまい宗教保守層は嘆いたというが、それ以外の大多数は自分が損をする変更とは捉えなかった。
また契約や法律の要請によって「共同体として扱われる証明」を欲していた同性/近親カップルはニーズを満たせることとなった。さらに「出産・子育て支援事業」は、真に対象とすべき人へより多く届くようになった。なんらかの理由で特定の人物と共同体が組めない人(シングルマザー/ファザー)であっても事業の対象となったことは、喜びを持って迎えられた。
一部の企業や団体では、自治体が認証した「同性パートナーシップ」をもって、共同体とみなす動きがある。まさに結婚のBの部分だけを切り出そうとする試みだろう。しかし社会への広まりのスピードは緩く、やはり結婚自体の意味合いを変えてしまった方が手っ取り早いと思う。
同時に「同性パートナーシップ」は夫婦同等とみなすが、内縁関係の異性は夫婦同等とはみなさない、というねじれ現象も生じている。筆者はまさにこの状態に身をおいていて(夫婦同姓を避けるため婚姻届を出していない)、弊害を食らっている。
直近、子供を作るつもりがなく社会の維持に役立たないので、国から優遇されたいという思いは一切ないのだが、パートナーとの関係を大家や保険会社に証明する手立てがなく困る場面が多い。
「〜て条件ならならわかるわ」「その気持ち全然わかんない〜」てそんなてめえの意見重宝されると思ってんの という気になる
問題の解釈判断において照らされるのがてめえの意見と思ってるとこがお察し つかそもそも素人構文
適当に言ってるだけじゃん、とかいうことでもあるんだろうけど、ほんとの適当を放言するなんてそんなないよね。誰でもよかった奴が女子どもを狙うみたいな。自分にマイナスになるならしないし言わない、そして自分の言動で傷つかずに済んだところが傷つくことには頓着しない。
自分の狭い見識に頼らずに、筋が通ってること言えばいいのにね。いや自分の見識的には筋が通ってるのかな。もうちょっと突っ込んで考えてくれたら共有しがいもあるのに。
わかるだのわかんないだのを独りよがりに強調するのは局感ある。
同調圧力で勝つしかできない人なんだろうか、それとも同調圧力で勝つのはめっちゃ快感だったりコスパよかったりするんだろうか。コスパはよさそうか。
同調圧力で勝ちやすいのは小集団だよねって思う。その点活動家はずるくない。感情に基づいた言動で共感を求めても、自分の身の回りに勝とうとしてるんじゃないから。まあきっとね。
勝ち負けで言わないなら、意見の一致や近似が連帯感って捉え方もありうるか。それが社会に必要ということなんだろうか。
自分は理にかなってるかどうかは結構大事だから、わかんないな〜。全然わかんない〜。
でもまあな、先に共有って触れたけども、あんまり論理的じゃなく外向的な人は内容はもとより共有目的で言動とりがちな気もする。
(世の中の男は親身なアドバイスはもとより気持ちを傾聴して的な主張も自分はわかんないんだがそういうところなんだろうか)
社会全体の幸せが連帯で保たれるのなら、全体主義の国ってやっぱ幸せなのかな?
全体主義の国は意見の違う国を純粋に布教対象として、敵国だとかラベル貼らずにやっていきたいのかな?
…みたいなこと論じてもしゃあなくて、たぶん小さくとも誤りだとしても動くことなんだとは思うけども。
確率じゃ測れない問題だという視点はもっともなんだけど、確率の話をさせてください。
不審者によって危ない目にあう確率というのは、あくまで不審者のほうが「あなたの子供」または「誰でも良いから子供を」狙っていないと起きえません。その点、ショッピングモールなどと違って、温泉旅館で不審者がずっと張り付いている可能性は極めて低いと言えます。子供を死産してしまった精神的に不安定な女性が、気晴らしにと出かけた温泉旅館でひとりぼっちの子供を見つけて、魔が差す…といった確率は、極めて低いということです。
もちろん、これが誰でも入れるスーパー銭湯だとかになってくると、話は違ってくるでしょう。先ほど例に挙げたような不審者が事前に計画を立てるとして、「ひとりぼっちの子がいるかどうかもわからない温泉旅館」に狙いを付けることは考えられませんが、スーパー銭湯に連日通い詰めようと考えることはありうるかもしれないからです。しかし計画するにしても、ショッピングモールではなくわざわざスーパー銭湯を選ぶでしょうか?
ボクサーを撲殺したのは僕さ
これから満で数つけるわ
ナンを何枚も食べるのなんて、なんでもないよ
新患の新幹線に関する新刊に新館を立てて震撼し信管が作動する。
ケニアに行ったら生贄や
柑橘類の香りに歓喜し、換気を喚起したが乾季が訪れたので、寒気がした。
塗装を落とそうか。
観光客がフイルムに感光させた写真を刊行することが慣行になった。
サボってサボタージュ
景気が良くなりケーキを食べる契機を伺う徳川慶喜(とくがわけいき)
夫を成敗するオットセイ
つまらない妻の話
竹の丈は高ぇなー
餅を用いて持ち上げる
ロストしたローストビーフ
サボテンの植え替えサボってんな
過度な稼働は可動範囲を狭める
伯爵が博士の拍手に拍車をかけて迫真の爆死をし白寿の白人を白紙にもどす。
紅葉を見て高揚する
甲子園で講師をする公私混同した孔子の実力行使には格子窓も耐えられない。
死んでんのか?「心電図を取ってみよう!」
夜祭で野菜を食べる。
信玄餅を食べながら震源を特定するように進言する新元素を発見した人。
蜂の巣(honeycomb)を見てはにかむ
五反田で地団駄を踏む
ようやく要約が終わった
海溝で邂逅
豪華な業
甲板で甲板をかじる
甲板で乾パンをかじる
店頭で転倒
大枚をはたいてタイ米を買う
醤油をかける人「えっっ?」
神田でした噛んだ
少食な小職
牛の胆嚢の味を堪能する
あの娘にはどう告っても(どうこくっても)慟哭する結果に終わるだろう。
キーンという高音の起因が掴めない。
こんな誤謬は秒でわかるだろ
壊疽した箇所が治るというのは絵空事だ
経口補酔液
痴的好奇心
セントーサ島に行くのは正恩が先頭さ
軽微な警備
冬眠する島民
ベットは別途用意してください
The deserted desert in desert desert.
九尾のキュービズム
罹災者へのリサイタル
画家の画架
不納が富農になるのは不能だ
理工がRICOHに利口な履行
I sensed tha it is in a sense sense.
私はそれをある面では扇子だと感じた。
鯖を食べている人と、それを見ている人の会話
鯖 ça va?
ça va 鯖
ça va
ゆめゆめゆめをみるわけにはいけない
早漏で候
凪に難儀
東上線に搭乗した東條が登場
高校を後攻で煌々と口腔で孝行
蝉が転んでセミコロン
道徳をどう説く
写真はフォトんど撮りません
ダリ「絵ぇかくのだりぃなあ」
華美な花瓶のカビに過敏に反応
檻に入っておりいった話をする
夏のおサマー
夜は寝ナイト
渦中のカチューム
渦中のカチューシャ
リスボンでリスがborn
どうないはどないなってんねん
苫小牧でてんてこ舞い
市内を復旧しないと
石狩の石を借りる
おが置いてあるのを見た人「おはおっかねぇーから置かねぇ方がいいぞ」
砂がどしゃーw
東上線に登場した東條が登場
飽きない商い
おなか吹田市
観劇で感激する
側転に挑戦し即、転倒
別件を瞥見
凹地のお家
魚を初めてみた人「うぉー」
カラヤンの頭の空やーんw
豚をぶった仏陀
只見線をタダ見w
菊名でそんなこと聞くなよ
五秒で死んで御廟に埋葬
がらんとした伽藍
有給を使いすぎて悠久の時が流れた
長谷に想いを馳せる
Thinkerの真価
不具の河豚
暗記のanxious
半世紀にわたる半生での藩政を反省
タンチョウが単調増加
ショック死内親王w
カルカッタの石軽かった
天皇のこと知ってんのー
蒋介石を紹介した商会を照会した商會の船で哨戒する
其方のソナタ
先王に洗脳される
防潮堤で膨張した傍聴人
砂漠で鯖食う鯖を裁く
筒に入った膵島
サイコロを使った心理テスト(psychological test)
カラシニコフが辛子個踏んだ
皇帝の高弟が公邸の校庭の高低差を肯定する工程に拘泥した記録を校訂
にようかで酔うか?
うるさい人が売るサイ
どんなもんだい、を、どんなムンバイ、と言い間違える人
透徹した饕餮の眼球
チャカで茶菓を破壊
slimyなすり身
ゆうほど広くない遊歩道
いにしえのイニシエーション
コーランをご高覧ください
K殻の傾角を測定する計画
協賛した共産党員に強酸をかける
負けたのは聖者の静寂のせいじゃ
裏地見るウラジミール
カミオカンデの上に紙置かんでw
県大会がおわり倦怠感を感じる
夕暮れのユーグレナ
ストライキをする公務員に呼びかける人「 Stay calm(公務)」
エド・はるみの穢
祭壇を裁断
腐卵ダースの犬
全然人が集まらないクラブの人「参加数人は我々の十八番ですから。だけに。」
四苦fuck
都バスが人を跳ね飛ばす
怒るカロテン「なにカロテンねん」
嫌がる慰安婦「いやんっ」
かえるがえる帰る蛙
沈厳な青梗菜
トリコロールの虜
布陣を組む夫人
栗けっとばすクリケット🦗
婉容と遠洋漁業
アマルガムで余るガム
ハラスメントの疑いを晴らす
滋賀を書けない人を歯牙にも掛けない
他意はないタイ人の鯛の態度
鯛が蛇足
ダジャレではない↑
割と面白い
ハラッパーの原っぱ
紫に関して思案を巡らす
Huluが夏の風物詩だと思っている人「Huluですなぁ」(風流)
下調べのムニエル
わからないので
意味ない諱
よく分からんリポーター「うわぁ〜美味しそうですね!少なくとも不味そうには全く見えません!」
どうしても下がりたくない人「黄色い線の内側は、境界を含みますか??」
計算ができない人
着ていく服を決めた高橋是清「これ着よ」
enough、enoughは工夫がenough
負け負け山(カチカチ山)
薬師丸せま子
トーマス・マンの書いたふるさと「うさぎ〜おーいし、魔の山〜♫」
その心は
焼結が猖獗を極める
これはstaleだから捨てるか
衒学的な弦楽を減額
完全な勧善懲悪
イボ人の疣痔
イブに慰撫
(訳 ぬるぬるしてるありふれた魚)
盲いるのに飯いるの?
アーヘンで阿片を吸った人「あー変」
毒吐く独白
明借りるアスカリ(車)
丁寧な砂浜「Could you九里浜」
ゴーンと奉公
その心は
サンクチュアリに山窟あり
熟れたウレタンは売れたんか?
清澄な声調を静聴し成長
プエルトリコで増える虜
象さんを増産
兄弟が今die
Dose heで始まる疑問文に答える京都人、Yea, he どす
ソフィカルのソロカル
美人局に筒持たせる
十把一絡あげ
篤信な特進が涜神を得心
これは何という植物かな?ムユウジュでは?あそっか、なるほど。
クートゥを食うとぅいいよ
マイソールで昧爽に埋葬
ドクサは毒さ
暗殺で朝死んだ
クラシックについて語る人をそしる人「弦楽なんてペダンチックだなあ」
凛々しいリリシズム
衛生的な俳人
御髪も亂とはオクシモロンだ
コロナ後の世界を分析する学問→postcoronialism
影響が色濃いイロコイ諸族
あてのあてないアテナイ
欧州最大のレアアース鉱床をスウェーデンで発見!って世界がインスパイアザネクスト級のニュースあったじゃない。
というか
おでんを作っている最中にもうかれこれ丸2か月になるんだけれども、
お馴染み私の攻めのおでんの具のメンバーの牛すじ・スペアリブ・手羽元のそれぞれの具材から出る超絶うまうまエキスというか
鍋の中で精製されたものなんだと思う?
そうお察しの通り
正解は越後製菓!
って違う違うそうじゃそうじゃないの
マーチン脂なのよ。
でね、
鍋冷えてるとラード状に脂が固まって層になっていて
火を入れるとまたそれがとろけて鍋のルーシーの出汁とかとつつみ込むように一体化になるの。
そこで私は思ったのよ。
そのどう考えても旨味しかなさそうな三獣脂の脂は美味さ最強なのじゃないかしら?って
その前に三獣脂!ってもの凄く上手いこと命名この瞬間思い付いて言えたからこれメモしてパクって今これを読んでいるあなたが自分発信で開発した言葉です!って言っていいからね!
手柄は譲るわよ。
ひとりはみんなのために!みんなはひとりのために!ってそれが三獣脂の主題歌よ!ってそんな夢冒険!
そんでね、
その三獣脂で作る炒飯って爆発するんじゃない?って今から悪いこと考えてるのよ!
もちろん爆発するってフィジカルにポップコーンのようにお米がポップにコーンと爆発するって意味じゃなくて、
牛すじ・スペアリブ・手羽元の脂の3つの旨味が縦の糸はあなた横の糸は私方式に、
うちのお店はそれでやってます!みたいな織り重なって出来たその布は誰かを温めうるかも知れない級の炒飯の美味しさ的な意味で温まりうるという意味で
そのつまりは
三獣脂で炒めうる炒飯は美味さが爆発するんじゃないかしら!ってことなの。
まだ実験はしていないけど、
机の上で考えた机上での理論は完成しているので空論ではないわ!
イーロンでも無いし
マスクでも無いし、
脂っこいものを食べて黒ウーロン茶を飲んで何事も無かったかのように涼しい顔してチャラからのノーカウントにしようとしている人でも無いんだから!
みんな黒ウーロンを過信で信じ過ぎているのよ!
ゆくゆくは十六獣脂茶を作って新垣結衣さんことガッキーにシーエムしてもらうの。
でも三獣脂の旨さは嘘じゃないの!
机の上での理論は机上で完成しているので、
ってこれどう机をひっくり返しても、
これどう考えても美味しさしかなくない?
普通味の走攻守のバランスをレーダーチャートのグラフに示してみてエクセル上で考えてみると
篠原涼子さん的に言うと
「愛しさと切なさと心強さ」のそれぞれの項目が100点だし
平松愛理さん的に言うと
「部屋とワイシャツと私」のそれぞれの項目が100点だし
私のライフワークであるおでん作りの前に研究していたお粥のテーマである
「手軽さと簡単さと食べ応え強さ」のそれぞれの項目が100点なの。
何々と何々と何々でってのの大喜利ができるぐらい
3タテと言ってもかつてソフトバンクホークスがいつかの何年かに優勝を決めてビールかけ優勝祝賀会の翌日みんなベロンベロンで酔っ払って二日酔いでへろへろでくたくたのしんどいはずなのにその次からの3試合3連勝とか!
「挽きたて、打ちたて、ゆでたて」ってなって全く意味が違うことになるからこれ豆な!って蕎麦だけどねって1つ賢くなるぐらい注意してね。
でもさー
ネットミームで各ジャンルの専門家の方面の方々の何々の三銃士呼んでくるよ!ってタクシーで連れてくる漫画のやつ
私ももしかしたら炒飯三獣脂呼んでくるよ!って呼ばれる方のネットミームになれるチャンスかも!
でもこの三獣脂事業は誰かに譲って使って良いよって今言ったから、
この炒飯三獣脂のネットミームにもなれるってダブルゲットのチャンスよ!
クイズ番組で言うと
でも冷静に考えたら
もし4チーム中4位で
愛川欽也さん真面目か!って冷静にそんなことを言いたいんじゃなくって、
そっからでも十分に1位に優勝出来そうな勢いの三獣脂美味さ爆発の机の上の理論は机上で完成されているのよ!って意味だから
心意気の意気込みでの飛び込み前転の話しよ!
この三獣脂精製に2か月はかかんのよ。
ドラゴンボールのタイムマシーンのエネルギーを動かす片道分の抽出時間の1年よりかは早いけど
またさらに
量産化となると大変よね。
瓶詰めのラインを動かせる量ほどは今の技術では三獣脂は大量生産できないわ。
ゆくゆくは最終、
街中で走っているあなたも見たことがあると思うウエイパーの赤いトラックみたいにイメージキャラクターをシソンヌの長谷川さん似の人を採用して、
またそして、
1日1日操業が終わったらドモホルンリンクルの製造工程のラインの機械を毎日全部分解して、
綺麗にしてまた1から組み立てて明日の三獣脂の製造に挑むぐらいでもあるわ。
そんでおでんを作っている副産物としてこの三獣脂が発見されたのと同時に
偶然にもまた一つおでんの中のザワールドの世界で鍋のベーナーで発見したことがあるの!
それはつい先日おでんに投入すべく
スペアリブを鍋が冷めた状態からぶっ込んで火を入れて煮ていくんだけど、
その灰汁が鍋のベーナーの中の漉しきれなかった2か月という古式ゆかしい不純物と一緒に固まって、
なんかこれ間違っていたらリアルにごめんなさいだけど、
出来立ての白濁の日本酒を透明な澄みきり綺麗にするために灰を入れてそこに付着させて沈殿させて透明にさせるってレガシーテクノロジーの技術に似てない?
いっぺん鍋を綺麗に洗おうと
濁りはさすがに取れなくて半ば諦めていたんだけど、
まあ半ばと言っても50パーセントではなく75パーセントぐらい、
いや正直80パーセントぐらいほとんど濁っているのは取れないと思い仕方ないと諦めていたの。
本当は自分の中にある頭痛薬の処方成分のように半分の優しさは残しておきたかったけれども。
でもその濁りが
スペアリブを煮たときに沸騰して浮かび上がってきたスペアリブから出た灰汁が全部中の余計な不純物をもミーシャさんの曲の「つつみ込むように…」って感じで吸着して、
笑うぐらいに澄み切った清おでんのおでんのルーシーの出汁のスープになったのよ。
あれさらに
例の自衛隊やアウトドアの達人の人たちがそこら辺の水たまりとかの泥水をも漉して飲料水として飲めるようになるハイテクアウトドアグッズを用いれば
でも正直手放しでは喜べないこともあって、
あれ一応あの不純物も旨味の歴史の積み重ねの地層の堆積物の一部のルーシーの出汁の要素なのよね。
権威が濃すぎる人もいるけれども
きっと。
スープが透き通って綺麗になる反面旨味も灰汁に吸着してしまって取り除かれると味が落ちるそういったことがあるかも知れないので手放しでは自転車運転したら危ないわよ!
違う違うそうじゃそうじゃないの、
手放しで喜べないってマーチンが初めて自転車に乗れたときの幼少期のエピソードトークよ。
よく実験で間違って、
シャーレとかの培養液的ななんか寒天みたいな上にくしゃみぶっ放してペニシリンかラクリマクリスティーが偶然にも出来ちゃったとかの話しあるじゃない。
私もそれ自由気ままにおでんにスペアリブ間違って入れちゃった!みたいに
濁ったおでんを澄み切った清おでんに綺麗にする方法って実用新案出せっかも!
まあこの手柄も誰かに譲ってあげるわ。
キレてるね!とかナイスカット!とか肩の上に山手線の電車乗っけてんのかい!とかの声欲しいわ!
他にもボディービルのかけ声辞典に載っていないかけ声でもいいしさ。
にしても、
うふふ。
葛湯をいただいたわよ。
作り立てお湯で溶いたときは熱すぎるので、
少し冷ましてからいただくのが
朝寒いので、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ツイッターで批判とか知らんよ……。まあこんなブクマつくと思わなかったのでお礼代わりに感想書くよ。
というか転載するならもうURL貼れよ。探すの地味にめんどかったよ。あと全部読んだら別に批判というほどでもなかったので変な引用したうえ表現盛るな。
一般的に成功と失敗は受け手の感想ではなく客観によるのではないか。マルチエンドを全面的に肯定してる人は読まなくてもいいというのはその層にとっては期待を裏切っていないとのことだろうがまあそれはそうだろう。
読者の期待を裏切ったことで未だに批判されていることを作者の敗北(読者を納得させられなかった)と書いたので、作品が失敗かどうかに踏み込んだつもりはなかったがまあ失敗と言ったと捉えられてもしょうがないので書いておくべきだったかもしれない。
なお客観的にも掲載順が急落したらしいので読者からの支持を失ったのだろうから失敗と言ってもいいと思うが、アンケート結果を直接見られるわけではないのでそこまでは踏み込まない。
またファンとしては成功という意見も見かけたがそれはそうだろう。今でもファンでいるのだから。
できないことを克服する作品で、他の子はみんな克服して夢への第一歩を踏み出し華々しい未来が約束されているのに、恋愛ができない子は失恋しちゃって未来がどうなるかわからないけど告白できたからそれでいいよね、などというのは些かドライ過ぎる。
(フラレてもそれが今後の糧になるという救いは定番だが、そういう作品の場合どのキャラも恋愛が主題である。ぼく勉の場合はできないことの克服がテーマとしてあり、恋愛ができないことがその他のできないことと並列に置かれている。つまり他のキャラは唯我成幸と恋人になることは必ずしも主題ではないが、武元うるかはそれが主題なのでそれが失恋でもいいとは通常ならないだろう)
察するに恋愛自体にあまり興味が無いか、あるいは大好きな作品で大好きな作者が大好きなキャラに酷い扱いをした(できないことを解決しないままにする展開を選んだ)と思いたくないがゆえの信仰ではないか。
事実はいずれにせよその信仰で作者を恨まず精神が安定するならそれでいいのだろう。
ここまで考えて作られている作品が最後の最後で意味なくハーレムを描くほうが考えづらい。
他の漫画の例を見ても最終話で他のヒロインが誘惑するような展開はあまり見ない。せいぜいがまだ諦めていないと言うとかその程度が多い。
ところがぼく勉は口ではもう諦めているようなことを言いつつ肉体的には誘惑している。このような例はあまりない。
よって何も考えないならそれこそ他のヒロインが誘惑するようなことはないだろう。確かにストーリー展開が下手だとは思うが馬鹿にしすぎだ。
うるかちゃんを「才能と希望が一致せず才能を選ぶ」というカテゴリに入れるのおかしくない? 「好きこそものの上手なれ」を体現してるヒロインでしょ。
唯我成幸の一番になること(恋人になること)が武元うるかの希望であるが、進路として選んだのは才能を伸ばせるが唯我成幸とは離れてしまう留学である。
恋人になるには不利な進路を選んでいるのだから「才能と希望が一致せず才能を選ぶ」というカテゴリになる。水泳が好きではないという話でもないし結果恋人になれたという話でもない。