「パターナリズム」を含む日記 RSS

はてなキーワード: パターナリズムとは

2024-04-14

anond:20240413195843

男女関係ないんだけど話すと大体被害者意識を持っていて、自分虐待したくないけどしてしまう、でもそれは仕方ない事なんだという言い訳を始める

問題経済でなく自尊心なんだと思う

何がいいって利害が対立している親がそれぞれ親権を持っているのがいい

これもすごいよくわかる話。

義務権利責任について偏頗な(バランスを欠いた)制度は、それ自体が幼稚さを暴走させる。

国家間安全保障問題と全く相似形。

2024-04-04

anond:20240404103033

左派を自認していて、間違ってもツイウヨはてウヨかに共感を持つような人間ではないので)顕名で言う勇気は無いが、こういう事例を見るたびにパターナリズムには理があるのではという気持ちを抱いてしま

2024-04-02

anond:20240402221747

から強い者が弱い者を庇護する文化があったんだけど

パターナリズムジェンダーだって文句うから

じゃあ廃止しましょうかってなってるんだけど

2024-03-27

anond:20240327155438

hate_flagくんはリベラル要素ないだろ

しろ「男が黙って女の全てを受け入れろ」っていうパターナリズム全開の「優しい男」じゃん

anond:20240327004020

これイナモトなんちゃらは珍しくまともなこと言ってるな

このツイート(現ポスト)に

自分配偶者などの職業選択に口を出すのが前提とされるパターナリズムを丸出しにしている元ツイート

は失当だろ

id:wideangle狂人呼ばわりされるid:washburn1975

https://twitter.com/inamoto_yksp_tw/status/1771796973361754125

イナモトリュウシ ∃@🇵🇸Solidarity with Palestine@inamoto_yksp_tw

グラビアAV水商売搾取構造問題批判すると「職業差別だ!」と吹き上がる男ども、自分配偶者恋人がそちらの道進もうとしたら絶対全力で止めるだろう。そういう欺瞞がムカつくのよ。

https://twitter.com/washburn1975/status/1772101955676238214

ワッシュ(鷲羽大介)@washburn1975

自分配偶者恋人が」

それ以上いけない




https://twitter.com/Beriya/status/1772410480872603722

5億円 2017@Beriya

自分配偶者などの職業選択に口を出すのが前提とされるパターナリズムを丸出しにしている元ツイートに、配偶者恋人の有無を「からかい」のネタにするという「有害な男らしさ」を正面から発揮しているツイートが乗っかっているこの光景、この辺りのクズどもを象徴しているような美しさがあるな。

https://twitter.com/wideangle/status/1772434768212234407

な@wideangle

はてなユーザなので当該人物を長く見ているが、元々ここまで狂ってるアカウントじゃなかったんだよなあ……。

な@wideangle

まあでもヤバくなってからの期間がもうだいぶ 長いか……




関係ないですけどid:washburn1975さんはリベラル気取ってるくせにブログタイトルはいつまでたっても「男の魂に火をつけろ!」なんて性差別的な表現のままなんですねえ。

言ってる事とやってる事に一貫性がありませんねえ。

杉作J太郎先生は「男の墓場プロダクション」って社名を改めたっていうのに、washburn1975さんは頑なに「男の~」ってつけるんですねえ。

いい加減、時代に合わせてアップデートしたらいかがですか?見苦しいですよ生き方が。

2024-03-11

リベラルという欺瞞

もともとは自由主義者を指す用語であり、政府の抑圧から個人権利擁護する立場だった。それがなぜか本邦では左翼一般を指すようになっている。権威主義パターナリズム、それに共産主義者民主集中制とは本来対立してしかるべきなのに、それらに親和的な在り方のほうが「リベラル」とされている現状に歪みを感じる。

2024-02-29

古文漢文必要派vs不要派」は政治的な争いであ

古文漢文なんていらねぇ!という主張は、とにかく評判が悪い。受験期になると毎年のようにこの手の論争が再燃するが、話がまともに前進することは稀である

ほんとうに意味のない教養信仰マウントやwhataboutismをとりのぞいたとき、私の考えでは、必要派のまともな論拠は以下の一点に絞られる。すなわち、古文漢文学習することは、日本人としての文化的アイデンティティを養うことに繋がるので、古文漢文は学ばれるべきなのだ

いずれにしたって、古文漢文に優先的に学ばれるだけの価値があるとすれば、それは役に立つからである

任意学問について学ぶことにはそれ自体価値がある(誰もこれを否定するべきではない)のだが、それだけでカリキュラムに組み込まれるわけではない。古文漢文英語数学とならんでとりわけ役に立つからこそ、受験科目にするほどの価値を認められているのだ。そうでないとすれば、あれやこれを受験科目にせず、古文漢文受験科目にすることがまったく正当化できない(これはいくらかwhataboutismだが)。

古文漢文はなんの役に立つのか。古文漢文をやっていれば、これに絡んだワードセンス物語優美さ・ユーモアが汲み取れる、というのはどう考えても小さすぎる利点なので、この程度の「役に立つ」を指摘して満足してしまうのは小物のやり口である

もっとがっつり役に立つ、例えば大学社会に進んだら漢文古文を読む機会がたくさんある、古文漢文で読解力や論理的思考が大幅に養われる、などと指摘するのは嘘つきのやり口である。そんなことないからこそ、不要論が立ち上がるのだ。

したがって、古文漢文が真に役に立つのだとしたら、上に述べた通り、日本人としての文化的アイデンティティを養うことに繋がるというのが、その「役」なのである。この「役」は、聖書プログラミングを学ばせても代替できない点で、古文漢文をとりわけ優先するもっともらしい理由を与えてくれる。中高生たちは日本人としての文化的アイデンティティを養うべきであり、古文漢文はこの望ましい帰結をもたらすからこそ役に立つ、優先的に学ばれるべきなのだ。というか、これこそが古典教育目標であることは(ここまで露骨ではないものの)高等学校学習指導要領に書かれている。

古典としての古文漢文古典に関連する文章を読むことによって、我が国伝統文化に対する理解を深め、生涯にわたって古典に親しむ態度を育てる。

古文漢文必要派は、この一点突破を狙うべきだろう。小さすぎるお役立ちを挙げるのも、大きすぎるお役立ちを挙げるのも、教養信仰マウントやwhataboutismに徹するのも、墓穴を掘って自らを辱めるだけだ。

しかし、「中高生たちは日本人としての文化的アイデンティティを養うべきだ」という前提は、すでにかなり党派的なものである。それはれっきとした国粋主義であり、軍国的な仕方で「国民」なるもの要請している。このグローバル化が進みきった時代において、なぜ日本人にっぽんじん)としてのアイデンティティを持たなければならないのか、それがなんの「役に立つ」のかという疑問はスキップされており、とにかく、「文化的アイデンティティを養うべだ」という義務けが突きつけられている。

実際、古文漢文不要派の一部は、まさにこの「国民」の押し付けにこそ反対しているのであり、特定文化的アイデンティティ固執するべきではないと考えているのだ。必要派が本質的ナショナリストならば、不要派は本質的アナーキストである

というふうに、「古文漢文必要派vs不要派」の争いは多分に政治的な争いであり、私が思うに、発信する人の多くはこれを分かっている(ほんとうに無自覚な人もいるが)。しかし、両陣営ともに自らの政治的立場を明言しないのが普通である。というのも、露骨党派性を示してしまえば、そうしなかった場合には言いくるめられたフォロワーまで引かせてしまうからだ。そのせいで議論はいつも上滑りし、互いに口汚く罵り合って、相手馬鹿だと結論し、翌年の再戦を待つばかりだ。

中高生たちは日本人としての文化的アイデンティティを養うべきだ」という前提の是非にのみ話を絞れば、古文漢文必要性をめぐる議論はもう少し見通しが良くなるだろう。

なんにせよ、アイデンティティを持つことは、心身の健康にとって必要不可欠であるかもしれない。国民であるという拠り所すら失われたときに、人はどれだけの孤独を感じるのか。そんなものに寄りかから自分の脚で立て!というマッチョ個人主義に、みんながみんなついていけるわけではない。

はたまた、仮に日本人としてのアイデンティティを養うべきなのだとして、古文漢文やらせるというのは理にかなった方法なのかという疑問も意味をなしてくる。これだけ少なくない人々に、古文漢文という科目への悪いイメージを植えつけているのだとすれば、それはいわゆる「義務教育の敗北」ではないか

はたまた、少なから党派的な思想を陰に陽に植えつけようとする事自体中高生自律性を脅かすパターナリズムでなくてなんなのか。「自分の脚で立て!」とまではいかないにせよ、子どもたちには一定選択が与えられるべきであり、古文漢文必須受験科目とすることはその道を閉ざしているのではないか

そんなに言うなら、私立理系に進めばいいだけの話だ!と言われるかもしれない。しかし、だとすれば理系はなぜ日本人としての文化的アイデンティティを養う義務から(ある程度)自由を許されるのか、と問われるかもしれない……。

疑問・議論は尽きないが、私たちはいまや「古文漢文必要なのか」というはじめの問いよりも、はるかに全うな問いたちを手にしつつあるのではないか

2024-02-15

anond:20240214162243

女性ITなどの理系能力が得意な人より

感性共感能力必要とする仕事を得意とする人が多いよ

後者は稼げないし元増田の言うような扱いをされることにそんな抵抗もないと思う

多数派女性に適してないことを善意押し付けるのはパターナリズムだしやめてほしい

元増田は露悪的に書いてるけど男女の違いを認めてそれぞれ適したこと担当するパートナーシップは間違ってないよ

2024-01-23

anond:20240123211048

価値観は人それぞれのものであっていいはずなのに

アップデートという名目強制する・されるのを良しとする風潮がなんか嫌なんだよなあ

多様性」への「画一的強要」みたいな矛盾した感じとか

パターナリズムリベラル顔してやってくる感じとか

anond:20240122052057

被災者支援者関係を考えるときにさ、この増田がいうように

ギリギリ気を張っている被災当事者の心を折らないためには、子供扱いしてあやすのでもなく上から従わせるのでもなく対等にフェアに扱わなければならない。

信頼できる随伴者がいるのだという、寄り添い型の支援、それが基本だっていうのは意見理解できる。

そして今のこの発災直後1ヵ月未満というタイミング必要マインドだろう。

罹災証明手伝います、とか公的支援がこんなのあります~とか、支援者側が見えているものをわーわーと情報洪水押し付ける、とか避けるべきだし

そこはそろりそろりと小出しに情報提供してみて被災者が腰を上げるかどうか様子をみるしかない。

ただ、「対等にフェアに扱わなければならない。」という、その気の使い方、その言葉の端々に、当事者から離れた立場そもそも出発点だというジレンマもあろうね。すでに知らず知らずに上から目線がにじんでいるよね。

ただ大切だっていうのはわかるんだけど、でも長い目でみて、寄り添いってそこまで大事かな、そうかな?とおもうとこもある。どちらかというと、つかず離れずなのかな、と。

今後の人生を決めるのは支援者じゃないしね。彼らの人生の何がわかるって、結局何もわかってないところからスタートするわけじゃない。

支援者としては突き放した部分というのも重要じゃないかと思う。

よく災害復興は発災直後からスタートするっていうように、これから少しずつ復興の話をしなければならないなかで

限界集落の連中をさっさ強制移住させろ!」

は極論だとしても、それに幾分かでも近づくニュアンスの主張というのはどうしたって誰か彼かから出てくるもの

そのときに、信頼関係というのがむしろ邪魔になることもあると思う。

信頼関係ができて人間関係が密になると、知らず知らずに同じ人、仲間内の人としか話をしなくなるってことがある。

話し合いの場で、いろいろな人がいろんな考えを持っている、ということを排除するムード自然とうまれていく、といってもいいんだけど。

そとからみると、内輪で鉄壁なわばりがつくられてしまって、はたからみて何かいいたいことがあっても声をかけにくくなってしまう。

ちょっとでも被災者の心情に傷をつけるようなことをいうと、お前は被災者に真に寄り添っていない、と断罪目線をむけてられてしまう。

支援者同士の分裂や被災者の分断ってそういうダイナミズムで生まれることが多い気がするね。共産党マインドっていうか。

強い信頼関係が知らず知らずに、他者との温度差にかわっていくのって案外自分では気が付きにくいもの

連中がどんだけ何もわかってないか

「対等な関係」こそは被災者支援命綱であるのに、当事者完全不在のスーパーパターナリズム議論

結局のところ能無しどもが深刻づらして地方ヘイトポルノをたのしんでるだけ。

という表現なかにそういうのが垣間見える。

恐らく敵が増えていくプロセスって自分じゃなかなか、わからないだろうな。気が付かないだろうなと思ってしまう。

それは逆に、本当にあるべき地域の姿を考えようとするときに足かせになる。

しろその地域全然知らないような無礼にも乱暴にもみえ支援者がわーっと闖入しては去って行ったり、そういうことが許されるような、

ゆるゆるなオープン空間のなかで、自由な発想が開花する、ということがあるかもしれない。

外部との換気ができている支援関係というのかな。

それは苦労して信頼関係を築いた先行者にとっては不快な雑音かもしれないのだけれど、案外そこに突破口やら解決の糸口がみつかるってこともある。

信頼関係はもちろん大切だけれども、それと同時に、多様性を受け入れる下地を作っておくことって大事だと思うね。

言うは易しで、空気が乱れ、不協和音があることこそが強みだという、そこまで突き抜けて達観することはもちろん自分でもできないけれども。

ときには仲間同士でも「お前の考えている支援なんて自己満足じゃないか」といってしまいたいときもある。

でも喧嘩したときは、長い目でみられるようなそんな姿勢ではありたいと思う。

2024-01-22

anond:20240122045347

地震発生して一週間も経たないうちから

田舎に金出すの無駄!」「限界集落の連中をさっさ強制移住させろ!」

まあネット空騒ぎの内容が今の段階で避難所年寄りに直接伝わってはいなさそうだけど。

よく「心のケア」という言葉が使われるが「戦力の逐次投入」と同じように意味わかってないのに言いたいだけの奴が多い。

DPATみたいな専門家仕事だけでなく災害時の「心のケア」において大きなウェイトを占めるのはこの先の身の振り方について見通しが立つかどうかということだ。

そこで最も重要なのは当事者主体性尊重ということ。

と言っても被災者のいうがままに迎合するのはむしろ子供扱いしてるのと同じ。ギリギリ気を張っている被災当事者の心を折らないためには、子供扱いしてあやすのでもなく上から従わせるのでもなく対等にフェアに扱わなければならない。

ますぐ先々の具体的なロードマップが見えてなくても、それを模索策定していく上で信頼できる随伴者がいるのだという、支援側との信頼構築が重要

という基本ラインをふまえたうえで再びくだんの空騒ぎを見ると、連中がどんだけ何もわかってないかということがいっそう明確になる。

「対等な関係」こそは被災者支援命綱であるのに、当事者完全不在のスーパーパターナリズム議論

結局のところ能無しどもが深刻づらして地方ヘイトポルノをたのしんでるだけ。

2023-12-27

リベラル(特にフェミ)が馬鹿だと思われる理由ものすごく簡潔に100文字説明してくれている人がいて感動した

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.nhk.or.jp/shutoken/wr/20231201b.html

女性には一切主体性がなく男性理性的庇護すべき存在である的なパターナリズム抱き合わせしか主張できないか馬鹿なんだなと思うよここらへんの界隈の人

2023-12-14

anond:20231214182436

それでも児童保護という一定パターナリズムが許される分野において、露骨表現くらいは規制するべきではないかという議論が、馬鹿にするべきものだとは思えない。

結局こういう、当たり前の綺麗事を言いつつ、結局は松戸Vtuberやら温泉むすめみたいな、R-18的なエロ表現でも無く、ましてや児童ポルノでも何でも無い表現

露骨表現児童ポルノ」と認定して、表現の自由の観点から擁護する人間も含めて「性犯罪者予備軍」みたいな扱いして大騒ぎするんでしょ?という諦念しか無い。

そりゃ笑われてもしょうがないでしょ……

だって広義の意味での「露骨エロ」は、その殆どR-18フィルターを通さないと閲覧出来ない所に自主規制されてんだからさ。


君らがやっている事は、そこら辺歩いている人間を捕まえて「お前らはセックスしそうな顔をしている!このAV女優(男優)が!一生引きこもるか刑務所に行け!更生しろ!」

などと叫びながらポリコレ棒でリンチしている様なものなの。

まだ『笑われてる』だけマシでは?

実際被害を受けた、若しくは被害を受けそうな被害者予備軍からは、反撃されてボコられたり、先制警戒で攻撃されたって文句言えない立場なんだからさ。

非実在青少年ポルノ規制論を馬鹿にする風潮について

https://courrier.jp/news/archives/347289/

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/courrier.jp/news/archives/347289/

記事は決して出来の良い記事ではなく、その点はちょっと困るところもあるのだが、いわゆる「非実在青少年ポルノ画像等の規制論についてインターネット、というか少なくともブコメでは、およそ話にならないと馬鹿にする論調が人気だ。もちろん、規制の厳しい欧米各国で必ずしも児童被害が少ないとは言えないことや、他の架空違法行為規制との兼ね合いなど問題はあり、当該表現自体直ちに特定人の権利侵害しているものではない以上、法規制には慎重であるべきであることには私も異論はない。ないのだが…。

この手の規制論が児童人権保護する立場の人たちから度々出てくるのは、現実児童を食い物にするような事例に対峙する際、いわゆる「グルーミング」的な問題によく対峙することになるためだろうと思われる。十分な判断力性的知識がないこと、あるいは、愛情への飢えのようなもの犯罪者に利用され、「自発的に」ポルノ画像を撮り、送らされるというような児童の事例は枚挙にいとまがない。そのような事例に「他の子もやっている(ように見える)」ことが影響していないだろうかというと、していないとまでは言えないのでは…となるのは無理なからぬところのように感じる。例えば万引きが「普通」の環境で育てば万引きをする子になりやすいということは感覚的には否定しがたいのではないか

もちろん、データがあるのかというと、ほかの社会的な影響を除いてそのようなものに触れることの効果だけをデータとして出すのは困難であると思われるため、根拠はある程度感覚に頼るしかないところはある。その点でどうしても弱いところはあるのだが、それでも児童保護という一定パターナリズムが許される分野において、露骨表現くらいは規制するべきではないかという議論が、馬鹿にするべきものだとは思えない。理由手段との対応関係を考えても、これを認めたらあれもこれもと際限なく規制されるディストピア、みたいな話にもならないだろう(非実在児童ポルノ規制される欧米日本と比べて顕著に表現の自由が規制されている社会に見えるだろうか。)。なんにしても、とにかく相手馬鹿にするところから始めるような議論が人気になる風潮は何とかならないのかと今日もふんわり悲しい気持ちになるところである

2023-12-08

anond:20231207092821

TERFが元はフェミニストなのに批判対象であった家父長制とかパターナリズムっぽくなるのは面白いな。

ファシスト共産主義者がお互い憎んで批判し合っていても政権を取れば似たような全体主義国家とか権威主義国家になるのを連想する。

2023-11-25

anond:20231124184525

パターナリズムが無くなった先は、自由なのか? いや、放置なんだよね。

2023-11-24

弱者は去れという思想

指導するパターナリズムでも寄り添うマターナリズムでもない

人畜害獣主義と言おうか

中世人の異教徒に対する態度に近いようである

2023-11-19

anond:20231118155724

リベラルを名乗りつつ昨今の問題で明らかにパターナリズム立場を採るの訳わかんないんだよな。洗脳云々も意思能力行為能力の欠如から禁治産・準禁治産に地続きな主張だし、それは旧来のリベラル(自由主義者)が自己決定権の面から批判していたもののものじゃないかと。アファーマティブアクションパターナリズム観点から新たなる特権階級を作ることに他ならないし。

まぁ社会主義者リベラル名乗ってるんだろうけど。

2023-11-09

賽の河原

「90代女性老人ホーム入所中、要介護5の方の発熱救急要請です」

看護師からの連絡を受け、搬送許可を出した後に大きくため息をついた。

きっと、また、だ。

物言わぬ患者への輸液を処方してから救急外来へと足を運ぶ。この足取りがこんなに重くなったのはいからだろう。

患者カルテはもちろんない。せめて理解力のある親族がいればと願いながら、救急車を待った。

「3ヶ月くらい前から食べなくなっていて、でもなんとなく食べそうな雰囲気はあるんですよ。診療所先生は年だなんていうけど、あの先生は信頼できないから。ほら先月には誕生日のお祝いもしたんですよ!」

主観客観区別ができない介護からの病歴をまとめると、数ヶ月前から原因不明の食思不振があり、嘱託医は老衰、あるいは認知症末期症状として、看取りが望ましいと判断していた様子だ。今朝から特に症状を伴わない38℃の発熱があったため、嘱託医は呼ばずに救急要請した、と。

施設ではこういう人は見れないんですよー」

独居の息子がいるが、老人ホームに入所してからは面会に来たのは2回だけ。他の親族はいない。

ああ、また、だ。

ストレッチャーの上で小さく横になり、ただ穏やかに虚空を見つめている老婆に目をやる。認知症になっても礼節が保たれているようだ。それか、身体を動かす力も残っていないのか。

入院前の説明介護士にはできない。翌々日に病院に来る、と息子と電話約束をし、入院の準備を進める。

何も考えない頭に息子の言葉こだまする。

延命治療はしなくていいです。ただ、できることはやってください。熱があるとつらいので。あと点滴も」

培養結果を待つまでもなく、抗生剤を処方して、救急外来を離れる。あの膿尿だ、見なくてもわかる。

この人は2ヶ月で帰れるだろうか。そんな考えが無駄なことを思い出して、今日ジムでのメニュー意識を変えた。

発熱の原因は尿路感染症からの菌血症であった。食事も水分も取らないのだからトイレも行かない。すると尿で洗い流していた尿道にも細菌が群がる。当然のことだ。

治療自体は難しくないが、尿が少ない以上、再発は火を見るより明らかだ。また起きることをわかって治療をしている。賽の河原みたいだ。一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため。そうして鬼に崩される。

加齢に伴い食事を取らなくなる高齢者は多い。認知症や脳の異常で食欲そのものが湧かないこともあれば、口や喉の筋力低下で嚥下機能が廃絶し、飲み込めない、飲み込むとむせるから食べないということもある。

急性期病院に運ばれた以上、一通りの検査はやるが、治療可能ものは見つからない。萎縮した海馬認知症であることを裏付けただけだった。

「でも点滴はしてほしいです」

饐えた臭いの息子からは3度同じ言葉が出てきた。下を向き記録をつける看護師と天を仰いだソーシャルワーカーを見て、ICは終わった。

治療の先に何があるのか、輸液の先に何があるのか、医者が決めていい時代は終わった。パターナリズム非難され、医者は決定権を患者家族に手放した。だから、何も言わない。言ってはいけないのだ。

「自宅ではみれません。仕事があるので。昼間ひとりにはできませんよ」

食事を取らず、点滴をする患者退院先は少ない。自宅が無理だと言われると、療養型病院くらいになってしまう。

ああ、また、だ。

また、あの列に一人加わった。

食べるでもなく、看取られるでもなく、見舞われるでもなく、ただベッドに横になり点滴を受ける患者が病床をひとつ埋めた。

手足も曲がり、物言わぬ患者の脇に毎朝赴く。何も起きていないことを確認するために。虚空を見つめていた穏やかな目が自分に刺さるのを感じる。

これは罰なのだろうか。

これは罪なのだろうか。

足早に病室から抜け出し、ピッチ電話が2度と鳴らないことを祈った。

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