街中で妊婦を見かけると、それがどんな女性だろうがハ淫セ(イチャラブ中田氏セックス)してる情景を勝手に想像してしまってとてもつらい気持ちになる。
中にはもちろん不妊の人もいるだろうし不満足なセックスライフを送っている女性もいるだろうけど、問題の本質はそこじゃない。
見目麗しさとは程遠いカップルが目の前でペッティングするよりキツい想像を勝手におっぱじめる脳のせいで本当に不愉快な気持ちになる。
正直とても困っている。
ちなみに小さい子供を連れてる女性を見たときは一割くらいの確率で「セックスだ!!」と思う。
病気なのかな。
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臨月の妊婦となった今、上のようなことは起こらない。むしろ彼女らの苦労を忍んでしまう。我が身にふりかかる妊娠ゆえのトラブルが重かったのもある。しかし、当時の自分と根本的に異なるのは、セックスの有無は本質ではないと分かったからかもしれない。以下は自分語り。
当時の自分は、人生とセックスは切っても切り離せないものだった。欲望に忠実で、どうしても手に入れたいものが目の前にあるなら手段を厭わず行動していた。行動力の源泉としてブラックホールのようなものが自分の中にあり、自分の中の物足りなさや満たされなさを埋めたくて欲望のままに何もかもを吸い込んでいたと思う。今ならその正体が少しは分かる。生まれてから死ぬまで徹頭徹尾自分は孤独であること、ひとりうまれひとりしななくてはならないこと、不十分な自分の人格を誰かが代わりに育ててくれるということはなく自分が満足するような自分自身になるためには他でもない自分の努力や意思に基づく試行錯誤によってのみ実現すること。近道もズルも存在しないこと。これらが耐えがたい苦痛であるためにずっと目を背けた結果ブラックホールのようなものが誕生したのだった。
そのブラックホールに名前を付けるとすれば驕り、または臆病な自尊心かもしれない。私は妊娠で「底つき」を経験できて、きれいさっぱり驕りが解消されたので、よかったと思う。
重症妊娠悪阻で水も飲めず点滴を打たれて寝ているあいだだけが「人間」でいられた。
一人で外出はおろかシャワーさえ浴びられない。仕事はなくなった。なんのために生きているのか分からなくなった。
まともな食事ができるようになってからは、日中の静かな家に一人取り残されて、孤独感に苛まれ、頭がおかしくなっていくのが分かった。暇を解消しようとするも、体が動かず、情報に敏感で、ラジオすら聞き続けられない。寝ようとしても数分~数十分で起きてしまう。深夜に帰ってくる家族との会話が命を繋いでいた。
仕事もしない、家事もしない、寝ているだけ。今までの人生において、そんな「役立たず」や「穀潰し」になったことがなかった。いつも私は自分で自分を納得させる生きる上での口実があった。こんなにも満足のいかない生活は初めてだった。
初めて知る。「ただ生きているだけでもたいへん」ということを。
人間は生きているだけでもたいへんなので、ほかの要素が組み合わさったら当然カオス的に大変である。解析的に解けないし、適切な数値解にたどりつくには果てしないパラメータチューニングの試行錯誤が必要になる。そして苦心して解を得ても、誤差項を多いに含む。
元の記事に戻ると、人生をモデル化した時に性行為が欠かせないと思うから妊婦を見てセックスを連想するわけだよ。
今の私はもうそうは思わない。人生は存在それ自体が大変。大変であるというのが人生の本質。その大変さの各論は個人によりけりで、ひとによってはセックスが困難かもしれないし、暮らしが困難かもしれないし、自分の体が困難かもしれない。それは外見からは分からないことだよ。
ひとくちに妊婦といってもフェーズによってトラブルはコロコロかわる。
当初、腹の中に人間がいるのさえ自覚がないのに、そのために日に日に変化する自分の体がグロテスクで、第二次性徴への嫌悪感を思い出した。
今でも、腹の中に人間がもう一人いるというのには慣れないが、皮膚が突っ張って痛いほど膨れる腹への受け入れがたさは時とともに薄れていった。そのかわり、乳頭から滲み出る乳汁への嫌悪感は凄まじい。ひとつ解決すれば、別の問題が浮上するものである。
艱難辛苦汝を玉にす、とはよく言ったものだよ。妊娠を経験したおかげで、他人に向ける視線から邪な思いが少しは消えてよかった。
中学生かな
あらゆる人間は、セックスの産物であることを忘れてはならない。 近所のじいさん、ばあさん、レジのおばさん、花屋のおねーさん、通りすがりの学生さん。 みーんな セックスの産物...
は?クローン人間を差別するな
マセ小学生「うわ~ 先生…したんだあ…(ニヤニヤ」 妊婦先生「そうだよ、セックスしたんだよ~。1回だけじゃないよ。確実に赤ちゃんができるように何回もだよ」 何で見たか忘...
追記しました。