はてなキーワード: ダブルブラインドテストとは
ふとonkyo自己破産と聞いて、私はどうかしたらonkyoに就職するかもしれない人間だった。だから書くわけじゃなくて、昔からちょっと思っていたことを書くきっかけになったので。書く内容はonkyoの倒産とはあまり関係はない。個人的に音響で仕事をしたくない理由をつらつらと書いていくだけである。
ちなみに私は今なんだかんだソフトウェアエンジニアをしている。30過ぎあたりで、就職と言ったら、10年前ぐらいの話になる。大学も音響に関係する学科がある大学に行った。音楽や音響に興味があって、趣味で録音やら音響のシステムを弄ったりしていた。
でも、根本的に音響とか音楽に関係するところに行こうとは思っていなかった。その根本的な理由をつらつら書いていこうかなと。
私が大学入学したころから、音楽業界は斜陽産業だった。私の小学校や中学校の頃はミリオンセラーが沢山出てきたり、無名の音楽少年がブレイクして成功するみたいなサクセスストーリーとか流行っていた。私は読んだことはないのだが、beckやらnanaとかも流行っていたしね。そういえば、高校や大学の頃は、涼宮ハルヒのGod knows...やら、けいおんやらバンド関係コンテンツは流行っていたな。一方で、インターネットでYoutubeだったりiTunesが出てきたりして、CDが売れなくなる時代でもあった。知っているレコード店やら、録音のスタジオやらもどんどん潰れたりしていた。だからこのまま、就職して音響屋や音楽屋になっても、ちょっと将来が不安だった。
2. 音質がこれ以上良くならない
根本的に「音質」とは?という定義があるかもだが、スピーカーの場合、電気信号を音響信号に変換するのがスピーカーの役割だが、例えばその電気信号と音響信号にキチンと再現するのが一つ明確な「音質」の定義だと思う。他方、そういった機械や物理的な定義じゃなくて、「良い音に聞こえたらいい音質」みたいな主観的な定義もあり得る。そういう主観的な「音質」の追求はあり得るかもしれないが、物理的な音質(先ほどの信号再現だったり、他にも全可聴周波数帯域がキチンと出る)などの、そういった領域に関する音質は追及されまくっている。正直、1万円ぐらいするスピーカーやアンプで、一般人は十分すぎるレベルの「物理的な」音質は得られるだろう。あとは、価格を下げるなり、ブランド価値やら、「主観的な音質」で勝負するしかない世界になってくる。もしくは、野外のイベントとかで、デカいスピーカーで音圧をどれだけ出せるかとかね。あとはオカルト的な領域に踏み込むとかね。
話は脱線するが、スピーカーの音質や良いスピーカーのことを話すと、ダブルブラインドテストやら二重盲検法を出してくる人がいる。正直あれは無意味というか、その前にやるべき評価をすっ飛ばしている。というのも、二重盲検法ってのは、
どっちなのか判別つかないからだ。1万円のスピーカーと100万円のスピーカーでブラインドテストして、もし被験者が識別できなかった場合、根本的に被験者には聞き分ける能力がない、あるいは、スピーカーがその性能を出していないか、判別つかない。だから、その前に、まず100万円のスピーカーと1万円のスピーカーの周波数特性だったりを調べて、物理的な出力音響信号差があるかどうかをやった上で、ブラインドテストをやるべきだと思っている。
話を戻すが、「音質」はこれ以上向上しないってのは、一般人が聞き分けられるレベルでの物理的な音質の向上はおそらく期待できないだろう。なので、たとえば出力を弄って「ロック音楽を聴くのにオススメ!」っとか、ノイズキャンセリングを入れる、外装のデザインとか、ゲームで有利になるような音にする、などで、付加価値を付けていく競争の方が重要で、音質の追求はこれ以上やってもニーズにはないからね。趣味とか研究の程度だったら楽しいのだけどね。
プログラミングは大学入ってから学んだが、案外ハマってしまった。ぶっちゃけ上記の2つの理由よりもこれが一番でかいんだどね。音響屋の仕事といっても先ほどのスピーカーの設計やら録音とか以外にも、例えば、補聴器やら、騒音測定やら、防音やらいろいろあるんで、そっちも考えたけどね。こうして、大学のころに学んだ大半は仕事につかっていない道楽的な知識になってしまったけど、こういう理由があるから仕方ないなという合理化をしてただけなんだな。
まずダブルブラインドテストでCG作画を判別できるかから始めようか
▼▲でコメント挿入。
『医療人類学のレッスン 病をめぐる文化を探る』 http://www.amazon.co.jp/dp/4313340165
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/00-Frame2012.html
前提:歴史は一定の方向に進化しており、最後に絶対的価値を持つ正しいものだけが残る(勝利者史観)が支配する状況
19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパにて、「歴史時間的に遅れた未開民族の医療を調べれば、西洋人の過去が発見できるのではないか?」という発想から調査。現地に赴く宣教師等に非西洋の様々な文化的事象を蒐集させた。
▼私としては文化結合症候群のトピックが興味深い。文化の違いで人々の葛藤行動やストレス表現行動は異なる。文化的差異は精神疾患に典型にみられるということだった。
このあたりは『クレイジー・アライク・アメリカ』に詳しかった。香港での拒食症が欧米の拒食症と違う病像だったけど、DSM基準で診察する精神科医の増加でその病像が変わっていくとか。
「苦痛のイディオム」というのも興味深い。ストレスを表現するそれぞれの文化独自のイディオム。日本語でいうところの慣用句的なところでの「肩が凝った」とかか。身体に表現されやすい(身体を表現する言葉に落とし込まれやすい)かどうかは文化次第かな。精神的ストレスや精神的異常を表明しづらい文化圏では心身症が多く出ると聞くし。日本とか中国とか。ヨーロッパは心身症少ないと聞くけど本当なのか。どっかで統計拾いたい。
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☆各論
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/00-Frame2012.html
読んだ中だと、特に「呪術」「憑依」と「狂気」が興味深かったです。狂気はフーコーとかのアレでおなじみ。でも、狂気だけでなく、国家が個人の健康・身体をどう扱うかみたいな部分でも頻出していました。
☆呪術
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/000606magicLS.html
呪術がその効力を発するには、以上の条件を満たさなくてはいけない。呪術それ単体で存在するのではなく、呪いにかかったと信じる人がいて、それが呪いにかかったからだと信じる社会があって、呪いをかけた人間がいて、はじめて呪術が成立する。呪いにかかったと思わなければ呪いは成立しない。
▼このあたりは治験のプラセボを使ったダブルブラインドテストとは真逆。ダブルブラインドテストは、薬効のないプラセボと実薬を、医師も患者もどっちか分からない状態で投与して、薬効の有無や程度、安全性を確認する。プラセボでも改善効果や副作用が出ることはあるので、プラセボに対する優越性を確認するのが目的の試験。
しかし、向精神薬や鎮痛剤の類など、プラセボ効果が比較的出やすいジャンルがある。器質的な異常なんかをプラセボて改善するのは難しいけど、精神症状や痛みの評価は気の持ちようのファクターがある程度あるので。(もちろん、実際に世に出ている薬はそれらを乗り越えて承認されたものなので、有効な薬だとは考えられますが。)
プラセボが効いちゃうというのは、呪術と構造的に似てると思う。
薬に対する期待(あるいは副作用があるのではという不安)があり、治験薬を処方する医師や治験に対する期待(不安)があり。服薬したのが単に乳糖を固めただけのプラセボであっても実際の改善効果や副作用として現れてしまう。これは科学という権威に支えられて発動した呪いだと思う。
『精神科のくすりを語ろう』で熊木先生がいってた、向精神薬は薬への期待や医師への思いも含めて服薬する、効くということなのだよみたいな話を思い出す。薬効だけでなく、薬をめぐる心の揺れ動きも効き方のファクターになる。それが向精神薬を使うということ。
webですれ違った人に、不安発作に襲われた時のために抗不安薬を持ち歩くこと、薬が入っている包みをさわることそれ自体で安心する人がいた。その人はとっくに使用期限が切れたそれを「私のおまもり」といって大事にしていた。以前それを飲んで安定したとか、医師との関係とか、色々な要素があって、そのひとにその薬は安定をもたらしていた。もはや飲まなくていいレベルで。これも向精神薬を「使う」ことになると思う。現代の呪術。▲
☆憑依
憑依とは:異常性をもたらす主体
私が病気になっているという状態ではなく、外部に症状の原因となる霊的存在を想定する。
それ故に、人ではなく霊的存在に働きかけることでどうにかするという話。
憑依の認識と流れ
苦痛がある
↓
オーソリティによって何らかの霊的存在に憑依されているという判断がなされる
↓
それによって症状の見方が変わる。身体内部の問題でなく、外部に存在するものとの関係の問題へとシフトする
↓
呼びかけ、憑依された人をトランス状態にする、命名する
意識的な意思決定ではなく儀礼的空間に身体が感応するという意味で身体的自己による参与
▼自分の中にある困りごとを、外在化させて対象化する、私・誰か・それの三項関係で扱えるものにするというのは心理療法的。分かりやすいところではフォーカシングがそうだし、普通のカウンセリングの中でも言語化することで自分の中のもやもやと向き合い、扱えるようにしていくというプロセスは踏むし。対象化したそれに対して、言語でアプローチするのではなく、あくまで身体的・無意識的なアプローチをかけるのも面白い。象徴を象徴のまま扱っている。そのものの持つエネルギーを減圧させない感じがしてすごい。▲