1歳の娘をバギーに乗せ、3歳の娘の手をとりながら、私は横断歩道の前で待っていた。
住宅地にあるバス通り、それなりに交通量は多いが、信号機はない。
朝の通学時間帯には、地域の父母が旗を持って立ち、子どもたちの通学の安全を守っている。
結局、スピードを落とすことなく走り去る自家用車やタクシーを十数台ほど見送った後、やってきたバスが横断歩道の手前に停車してくれた。
3歳の娘は危なっかしく傘を肩に預けながらも笑顔でバスの運転手に手を振り、私は軽く会釈をしながら横断歩道をようやく渡り終えた。
自宅への道を急ぎながら、娘は「みんな、なかなか止まってくれないよね」と、ぽつりと呟いた。
つくづく、この国で子どもを産み育てていくのは大変なことだと思う。
出産費用にはじまり、医療費に教育費はもちろん重くのしかかる。
家族が増えれば住居の広さも必要になり、自炊するにも食材が増えた分だけ、食費の増加は避けられない。
年に一度くらいは遠方の祖父母に子どもと会う機会をつくろうと思えば、交通費もかなりのものだ。
子どもを育てるコストを負担しつつ、自分たちの老後に備える必要もある。
問題は、その原資となる収入だが、今や雇用の安定など私たち20代や30代には望むべくもない。
成熟し、縮小していく社会において、高度成長期のような右肩あがりの成長に伴う給与上昇は考えられない。
となれば、椅子取りゲームで競争に勝ち、立場と給与を力づくで手に入れるしかない。
勝利しなければ、生き残らなければ給与の上昇を見込めないどころか、今の仕事すら失うかもしれない。
そしてその競争に参加するには、子どもの存在は重たい足かせになる。
家に帰って子どもの世話をするために、そして週末には子どもに時間を使うために、働く親たちは必死の思いで自らの仕事を効率化する。
だがそれでも、突発的なトラブルがあり、夜遅い時間に設定される会議があり、そして就業時間後のコミュニケーションが命運を握る社内政治がある。
子どもを持つ親は、子どものいない同僚たちと対等に競争に参加することは難しい。
この国のビジネス社会は、仕事にすべてを捧げ、集中する覚悟と実践を要求する。
この競争は、ブラック企業だろうと、優良企業だろうと、実はさほどの違いはない。
では、夫婦の内の片方が仕事に全力を注ぎ、もう片方が子育てを一手に引き受ける分担をすればいいのだろうか。
私たちの親世代で一般的だったように、企業戦士と専業主婦という分業により、家庭を経営していけばいいだろうか。
答えはノーだ。
なぜなら、私たちの親世代と私たちでは直面しているリスクの大きさが違いすぎるからだ。
かつて、日本企業は滅私奉公を要求するかわりに、少なくとも正社員として働く男性たちの雇用を守ってきた。
そのしわ寄せは、結婚によって退職する若い女性社員や、パートタイム労働者が負っていたが、彼らは主たる生計者ではなかったから、それでも「雇用の安定」というお題目は守られていた。
今は違う。
主たる生計者が期間限定の雇用に甘んじている状況は珍しくない。
正社員ですら、いつ競争に敗れ、仕事を失うかわからない危機感に常にさらされている。
どちらかが仕事を失っても、次の仕事を見つけるまで、家計を支えるためだ。
競争に勝たなければ所得の上昇が望めない社会で、成長し、お金を必要とする子どもたちに応えるためだ。
そのためには、母親である私は急いで仕事復帰しなければならなかった。
数が足りない認可園に入れないリスクに対処するために、先着順の無認可園を徹底的にあたって予約金も支払った。
秋生まれになるように調整したのは、産休明けにシッターを利用して急いで仕事復帰し、認可保育所選考のポイントを加算するためだ。
11月生まれで1月後半からシッター利用で復職、生後半年を待たず0歳で認可保育所に入園できれば、私たち夫婦の収入でも対処できる。
本当は4月や5月頃生まれの方が、0歳入園でもほぼ1歳に近く、子どもとの時間を持つことができるが、それでは約一年も仕事を離れることになり、復職のハードルが高すぎる。夏から翌4月までをシッターで乗り切るのはあまりに経済的負担が大きかったので、断念せざるを得なかった。
結局私は2人の娘を産んだが、仕事を離れていた期間は通算で一年に満たない。
そこまでして復職しても、いわゆるマミートラックからは逃れられないが、それも甘受するしかない。
「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログが話題になったが、ネットで何を叫ぼうと誰も助けてはくれない。
同情の言葉くらいはもらえるかもしれない。数年先には状況が変わるかもしれない。
それでは目の前の子ども、不運にもレールに乗れなかった家庭には手遅れだ。
誰もが自分の生きる場所を守り、しがみつくことに精一杯の世の中で、他者に手を差し伸べる余裕がある者などほとんどいない。
保育園に入れないのも自己責任だと切って捨てられる、それが現実だ。
ちなみに、そこまでして入った保育園も、子どもが体調を崩せば利用できない。
行政が提供する病児保育のサービスはあまりに貧弱で、フルタイムで働く私たちには使いこなせる余地がなかったから、いざという時には高額な病児ベビーシッターサービスも活用している。
そこまでしてでも、母親が正社員という立場を守って働き続けなければ、子どものいる家庭を守ることはできない。
少なくとも私はそう考えている。
母親は一度仕事をやめ、子どもが手を離れる年にまで育ったら、再び仕事を探して働けばいいという識者がいる。
そういう人は、十分な学歴と意欲があり、健康な体を持ち、自分自身以外に面倒を見るべき存在がいない若者ですら、安定した仕事を得ることが難しい社会の現状を知っていて、そんなことを言っているのだろうか。
誰もがいつ仕事を失うかわからない、そして失業した際のセーフティネットがあまりに貧弱なこの国の仕組みを理解していて、言っているのだろうか。
ひとり、あるいは複数の人間を新生児から社会人まで育て上げる責任の重さを、親になったからには背負わなければならない。
それも親になるという選択をしたのは自分たちなのだから、自己責任の範疇である。
費用も、機会も、制度をいかに利用して乗り切るかも、すべて親の才覚にかかっている。
それでも、私は自分たち家族が驚くほど細い綱渡りをしていることを自覚している。
もし娘たちや私たち夫婦の誰か1人にでも何か不慮の事故や病気があれば、この綱渡りを続けられる保証はない。
ここまでは、物質的な話だ。
子どもを育てるには、物理的金銭的に大変な努力が必要なのはもはや否定できない。
次に、親になる者が直面するのは、精神的な困難だ。
公共交通機関に子どもを乗せるなという論争が、日々至る所で巻き起こっている。
冒頭、娘が呟いたように、横断歩道をゆっくりとしか渡れない幼い子どもを連れた親は、道を渡ることすら容易ではない。
必要なしつけはしているつもりだし、公共の場でのふるまい方を教育するのは当然親の務めだと考えている。
それでも、子ども連れでいることで向けられる世間のまなざしに、どうしようもなく辛い思いをすることはある。
一人だったらとくに気にすることもなく車の間をぬって渡ってしまえる道も、子どもが一緒だから、安全を確認するまで辛抱強く待つ。
走り去る車をじっと見つめる娘の澄んだ瞳と、だんだん冷たくなっていく小さな手のひらに、どうしようもない心の痛みを感じながら、私は待つ。
もちろん、指定席を子どもも含めて人数分取っているが、たまたま私たちの近くに乗り合わせたビジネスマン風の男性は、あからさまなため息をつき、はしゃぐ娘たちを見て舌打ちする。
大きな声はださせない、椅子にはきちんと座らせる、そして食べ散らかすような菓子類は与えない。
飲み物はこぼさないようにストローやマグを準備し、それでも万が一に備えてタオルや着替えは常備する。
万全の準備をしているつもりでも、子どもの機嫌が悪くなることがある。
だが、帰省シーズンともなれば、指定席車両のデッキも自由席券の乗客で溢れ返り、苛立つ彼らは泣きじゃくる子どもを抱えて現れた親を睨み付け、ため息をつく。
一体、子を持つ親はどうふるまえばいいのか。
子が公共の場所で泣かず、疲れたとわがままを言わないようになるまでは、外になど出るべきではないのか。
容赦なく投げつけられる批判のまなざしを、せめて子どもが直接こうむることがないよう、親は細心の注意を持って配慮し、矢面に立つ。
自分で選んだ生き方なのだから仕方がない、これも自己責任だと言い聞かせ、今日もぐっと奥歯をかみしめる。
仕事を持ち、愛するひとと結ばれ、子どもをもうけて家庭を築き、社会に参加する。
本当に幸せなことだ。
川の字に並んで眠る夫と娘たちの寝顔を見る時、私は自分の歩んできた道が間違ってはいなかったことを自覚し、そしてたとえようもないほどの幸福感に満たされるのを感じる。
だが同時に、ひどく不安にもなる。
私はこの先も、この幸せを守り続けていけるのだろうか?
家族の健康を守り、仕事を守り、娘たちの未来を保障し、自己責任をまっとうできるだろうか?
身の丈に合わない幸せを追い求め、手にしてしまったのではないかと悩むことがある。
本当は、私のようなごくありふれた個人がまっとうできる責任など、自分ひとりが生き抜くくらいのことなのかもしれない。
仕事に集中し、結婚も出産もしなければ、私がとるべき自己責任の対象は私1人分でよかったはずだ。
ただ、保育園に子どもをいれられなかった親が怒り、子どもの障害とともに生きる親が絶望してしまうこの世の中で、ありふれているはずの家庭を持つ親が何を考えているのかを伝えたかった。
今、この国で子どもを持つということは「自己責任」の範囲を子ども全員にまで広げるということだ。
それでも子どもが欲しいなら、産み育てる責任をまっとうしてほしい。
…ありふれた幸せに憧れているだけなら、残念ながらお勧めできない。
だが、各論では真逆であり、子どもを持つことはリスクであり、ペナルティでしかない。
私たちは誰もが自分の幸せを自由に追求する権利があるが、子どものいる幸せは非常に高価だ。
子どもを持っても、誰も褒めてはくれないし、助けてもくれない。まして見返りなどないし、批判にさらされることが増えると覚悟してほしい。
それでも子どもを持つのは、子どものいる幸せがそのリスクやペナルティを度外視させ、高価さに見合う以上の精神的な充足をもたらしてくれるからだ。
私は正直、覚悟が甘かったから、今でも時々こんな風に心を痛めたり、迷ってしまう。
まだまだだな、と思うばかりである。
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子育て、ある程度賢い人は 結婚する前の時点でどれだけ親(結婚相手の親)に子育て手伝ってもらえるか値踏みしておく印象。 結婚相手の実家が自営で在宅時間長く、 お母さん(義理...
他人の親なんかそうそう当てにできないよ。 まず自分の親が当てにできるような距離に住まなきゃいけない。
自営で妻が専業主婦って、自営が相当上手くいってる人なわけで (上手く行ってない自営業者の妻は無償労働力扱いだしな、そんな義親と同居したら自分も無償労働力にされかねない) ...
金持ち男はそれこそ育児の労働力にならねぇだろ
長々書いてるんで読んでないけど、上ベビーカーに乗せて下抱っこすりゃ道簡単に渡れるんじゃない? 二人用のベビーカーもあるし。 あと帰省は車で帰ればいいだけでは? 要領悪いね...
抱っこしてる状態でベビーカーおせるの?