はてなキーワード: 美輪明宏とは
ケーブルテレビSTBでは見られない場合があるようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・02 『ローマの休日』
・03 可愛い子には)旅(をさせよ
・07 [漢字を読みましょう][食べ物]そうめん とうもろこし てんぷら ジンギスカン
・08 千葉(県
・09 東京スカパラダイスオーケストラ
・10 もらい水
・13 二条 城
・15 [2択]交 流
・16 森川葵 もりかわあおい
・18 よそ(のくに
・19 豊臣 秀長
・21 『キャッツ』
・24 [3択]G
・25 モンマルトル(の丘
・26 山上憶良 やまのうえのおくら
・28e 17
誤答は青じゃなく白らしい?
美輪明宏の後釜って言われると謎の納得感あるな
https://note.com/caffelover/n/n1de71359938c
https://b.hatena.ne.jp/entry/4746209639595508367/comment/horaix
まあデマは破廉恥で論外だが、往年の野村沙知代やデヴィ夫人ばりに好き放題TVで放言している御仁だから、吉岡里帆OUTでこいつが起用されればそりゃ嫌われるよなと思った
(コイツの他にも特にアンミカ叩いてない人も大勢誤解していたが)
そもそもアンミカは吉岡里帆の後釜ではないので吉岡里帆ファンがアンミカを恨むのは逆恨み
アンミカが日清のCMに出演したため不買しているという人達がいる
彼らが挙げる理由は
1.アンミカが7年前、杉田水脈のLGBT差別発言を批判したから
2.アンミカは韓国出身で、幼少期に日本に渡った際のTV番組での再現動画で乗っていた小舟が小さく、密入国っぽいから
反論としては
1.杉田水脈はクズなので批判されても仕方ない。アンミカは子供がほしかったけど産めなかったので、「同性愛者は子供を作れないので生産性がない」という趣旨の杉田発言にノンケだけど子供を作れなかった当事者として抗議した。
2.予算の問題で番組スタッフが小さい船しか容易できなかっただけじゃ? 仮に入ってきた時が密入国だとしても、キッズだったアンミカに選択権はあったのか? アンミカは仕事でフランスへ行き、日本へ帰国している。仮に密入国だとしても現在では清算されて入管に問題なく扱われている証拠。
3.アンミカがCMを務めるのは、高価格帯の「最強どん兵衛」シリーズで、前にCMパーソンだったのは美輪明宏。ゴージャス売りのCMシリーズ。吉岡里帆は本家どん兵衛で、半年前に降りてアニメシリーズに変わっている。
エロ関係は匿名の一個人に批判されただけで表現の自由ガーとうるさい表現の自由戦士がダンマリどころか、CM中止や日清不買を求めて規制運動中。
愛国のために海外ルーツを排除せよ、良からぬ過去を持つ者は排除せよというならそもそも日清創業者の安藤百福がいかんでしょ。
なんで安藤百福を許せないから最初から日清は買いません、とはならずアンミカがCMにきて初めて不買やってんの?
当時の台湾では、息子のいる親が女児を買ってきて嫁とすべく育てるのが慣例であり、百福は18歳の時に親にあてがわれた女と結婚した。
でも親にあてがわれた女では満足できなかったので、ナンパして二人目の妻をもうけた。そして日本で更に三人目の妻をもうけた。
三人目の妻との結婚により日本国籍を得られ、妻の実家が太いため生活を支えられ、百福は台湾の妻二人を棄てた。
百福は一人目の妻が産んだ長男だけ後継ぎとして引き取った。
後継ぎたる長男も、百福の都合で育ての親がコロコロと代わり、百福と確執があった。
百福の後をついで社長になるも、百福が急に長男を下ろして社長に返り咲くなどの曲折があった。
長男は百福の通夜にすら行かず、葬式出席も拒んだがそれは頼み込まれて仕方なく出席。
嫌がる長男を葬式に出させる一方で、望んで父を弔うため来日した娘は拒絶され、親族席に座ることは許されず、渋々大量の警備員をつけられた状態で一般席に置かれた。
娘は百福の莫大な資産を一銭も渡されず、今も存命で台湾で70代の高齢ホームレスとして困窮した生活を送っている。
百福カスすぎだろ。
クズが関わっててもメシの味に変わりはないというならなんで今不買運動してんの?CM中止しろとか言ってんの?外国人は関わるなって言ってんの?表現の自由(爆笑)
8月9日に80歳の誕生日を迎える黒柳は「あすから年齢は書かないでいただけないかしら。若くみられたいとかそういうんじゃないの。90歳になった時に皆をびっくりさせたいというか、それまで元気でいますので」
と言ってたのね
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/10/06/kiji/20231006s00041000339000c.html
ブコメの皆がびっくりしてる
mogmognya ”黒柳徹子(90)” にビックリした。黒柳さんまじですごいな。
otation “黒柳徹子(90)” マジぽん?!。番組終了もショックだけどこっちの方が驚き
…感無量じゃない?
たくさん読んでくれて嬉しい。元は友人とのTwitterDMが下書きになっていて雑な文章だから申し訳ない。なので以下、こちらの意図が伝わってないコメントに返す。
・この物語の各パーツ・キャラを現状のジブリのメタファとする解釈はこの児童文学作品を矮小化していると思う。あまり好きではない
→全く同意見で、書いた通り普段はテクスト的に解釈するのが好きです。矮小化されてしまってるのもそうなので、これだけが「正解」だとは微塵も思ってないし書いた通り自信はない。今回は宮崎駿の最後の作品、って思いが自分に強すぎて作家周辺の解釈がまず出たのだと自己分析している。作品そのものの解釈は海燕さん他書いているのがよかった。
→お前みたいなやつがいちばんダメ。観ろ。観ずになるほどすんな。
・一般向けではないというけど、次世代へのバトンや家族の話って極めて普遍的で、ジブリや宮崎駿のことを知らなくとも皆それぞれ自分の物語を重ね合わせて見ることができる作品だと思うよ
→この辺りは宮崎駿は自己言及と普遍的テーマを重ねて両輪でやっている気はする。
・あの作品の登場人物を実在のジブリ周りの人物に置き換える読み方はわかるけど非常に下品だと思っているので、する人を否定はしないけど、それが正解だと言って押しつけたりする風潮にならなきゃいいなと思っている。
→おおむね同意見で、自分もホッテントリに上がったことが押し付け風潮の一助になるのは避けたい。作家論は作家論でしかないし、それは基本的に狭い解釈になってしまうから、「正解」ではない。ただ言葉遣いとして、この人が作家論を「下品」としているのは、なんというか令和だなぁと思った。
前半はまぁ、とりあえず置いておいた撒き餌みたいな稚拙な解釈なので、「正解」ではありません。(一貫性の形成願望をとりあえず満たしておくために書いた、と思って欲しい)
むしろ、この作品は唯一解を求めたがることも含めた後知恵的な意味よりも、もっとプリミティブな意味を伝えようとする作品だと思います。だから自分の感想の本質は後半です。そこのところ言葉足らずだったみたい。
追記ここまで
初日に見に行って、いろいろ考えつつ見たが、たぶんほとんどの人が「意味わからん(けどジブリっぽくて面白い!)」ってなるやつだと思ったので、自分なりの考えを書いてみる。ちなみに全然自信はない(その理由は最後に書く)
見た人の多くは、ラストにかけてのメインストーリーラインがよくわかんねえとなると思うけど、同時に物語にいくつもの象徴や比喩が込められていることも、なんとなく察すると思う。
個人的な結論を先に書く。(自分は普段はテクスト論的に物語を読むのが好きなのだが、作家論としてこの作品が見えた。)
まず、内容で感じたのはセルフオマージュの多さ。「紅の豚」の死出の飛行機葬列が海の船になったり、ハウルの泥の人形が殺生できない住人になったり。老人の描き方はジブリの各種キャラを思わせたり。
オマージュ元には特にトトロが印象に残るように思って、抜け道や森から出た暗がりの風とか、ワラワラとか、宮崎駿はトトロ気に入ってたんやなと思わせた。まあワラワラは鈴木敏夫の入れ知恵な気もするし、観客へのサービスって感じかな。
そしてここから感じたのは、宮崎駿の人生が細かく千切られ散りばめられてるということ。
ていうことで、物語の根幹と宮崎駿の人生に準えてラストで明かされる物語の根幹をよんでみる。やっぱりラストについては大事だよな。
結論から書けば、空から降ってきた大岩は宮崎駿の才能、ギフト。宮崎駿は大叔父でありあの世界は宮崎駿によって作られた作品の集合でジブリそのもの。その血を引く主人公は宮崎吾朗や孫だと思われる。ただし、内面は宮崎駿が投影されていて二重のモデルがいる主人公になっている。駿はジブリを継いで欲しかったが、吾郎は拒否した。ジブリは駿の引退宣言とともに崩壊して、皆それぞれの暮らしにもどった。端的に言えば、それら経緯への駿の内面の告白、なんだと思う。つまり、スタジオジブリ(と駿)のために作られた物語なんだと思っている。
昔。降って湧いた才能に取り込まれた駿は、作品の世界から出なくなった(家庭を顧みなかったりしたんだろう)。そして世界の創造に励み、海や森の美しいファンタジー世界と、ユーモラスで残酷な鳥に代表される多くの愛すべきキャラクターを生み出した。
時々挟まれた、大岩が怒ってるとか。あれは才能から来る作品へのこだわり、そこから発される憤怒なんだろうな。時々駿キレてたし。
ただ、老いてきた。積み木を重ねられなくなった。積み木を安定させることも苦労するようになった。だからこの世界・ジブリの後継者を探して、館に主人公ら血族を引き寄せ始めた。(この辺りの傍迷惑さについての自覚が、人生を総括し始めた老境の駿らしい感じがする)
関係ないけど、インコの王は唯一宮崎駿に謁見できて最後に世界ぶっ壊したし、たぶん鈴木敏夫なんだろうなと思う笑
そして物語のラストで吾郎はジブリを継ぐのを拒否し、焦ってしゃしゃり出た鈴木敏夫がぶっ壊してジブリは崩壊した。でもそれを受け入れて?(この表現は適切じゃないかも。ただ眺めて?)老兵は去る、ってことを、ラストで宮崎駿は表したかったのだと思う。
総じて、人生全体を眺めて、ある程度中立的に感情も整理しながら、比喩的な物語と人物に落とし込んだ。そして達人のアニメーションで、それが分からなくとも万人が楽しめる2時間にした。
主人公が、みずから頭を傷つけて、それを最後の最後に告白し、汚れているから自分は継げないとジブリ世襲を拒否するシーン。
あれはなんかほんとに個人的な事件が、駿や吾郎にあるんかなて感じもするけど。いずれにせよ、今まで子どもをイノセントに描いた宮崎駿が、この主人公にはドロドロしたものを罪悪感と共に植え付けているのは、自身や自分の子どもみたいな、客観的に見られないし理想化もできない存在としてマヒトを描いているんだと思う。そしてそれが「真の人」って名前なのが、正直な曝け出しなのかなって感じさせる。
でもここは、ちょっと未整理。
まあたぶんに一義的な狭苦しい解釈なんやけど、とりあえずここまでは言語化できた。
ただ、ここまでこうして書いた考察について、正直自信がないというか、こうして作品が言語化されることを拒否している作品である、ということことを、作品を見ている最中からずっと感じてきていた。
子供のころからジブリ作品を見て、宮崎駿のひねくれた人物像も知ってるから、この作品は明らかに異質だとわかる。観客へのサービス(配慮)が欠けている。
はっきり言って、一般向けではない。大衆、子供に映画を作ってきた宮崎駿やジブリは、今までこんな映画を作ったことがない。上記のような一応に意味の通る解釈を自力でできる人間はとりあえずいいが、そういうことをしない人が圧倒的多数で、それが大衆なのだ。だから、今回のような、作品の展開の速さや密度、抽象度の高い映画は、一般向けとは言えない。自分が見た初日夕方の回は平日なのにほぼ満員で、しかし上映終了後のほぼ全員がタヌキに化かされたような顔をみんなしていたぞ。(正直自分もそんな気持ちだったので笑えた)
しかし、ここでそれを鑑みても面白いのが、この作品の「面白さ」は皆が感じているらしいということだ。
そして、これと同時に、自分のような批評する目線で映画を見る者は、それはそれで大衆客と別な側面で拒まれている気がした。何か見る者の賢しい批評を拒んでいるように感じた。
以下に、その理由を書く。自分の感想としての本質はむしろこっちだ。言語化しづらいのだが、見た人にはなんとか伝わるように書くと
となる。
例えば、食事のほおばり方。たとえば、黙ってうつむく表情。たとえば、真人がうそをつくときの顔。みんな圧倒的に生き物らしい。生命力を感じる。みんないびつで、あいくるしい。(カワンゴがお説教されたアレとは本当に真逆な、きわめて何か、生命に対する賛美を感じます)
これらすべてが、芝居をしている。客に直接的な理解を与える。この人物の感情や、物語における人物の立ち位置(正しい方向かどうか)など。あらゆる情報を、言語での理解を超越して、身体的・ダイレクトに観客へ伝わる。
作劇のうまさや間の取り方、ちょっとした身のこなしや振る舞いの描き方。それらすべてがアニメーションなのに自然で、本当にほれぼれする。達人のアニメーションは今でも健在だし、それはスタジオポロックみたいなのにもマネできてない駿の達人技だと思う。
で、それらの生理的な表現が今作で上げる最大の効果は「生理的な感覚として、見る者に言語の範囲外で意味を伝える」ことだと思う。
(自分は新海誠の映画が昔から好きなのだが、新海誠が「星を追う子ども」でやりたがって、でも全然できなかったようなことを、中盤くらいまでで軽々と全部やり尽くして、更に塗り替えていったような印象が途中した。)
はっきり言って、中盤以降は物語のテンポが速すぎて情報量も多すぎて、物語が何を表現しているのかまったくわからないし考える余裕もなく、何もかもを押し付けられていくだけのように感じるのだが、いち観客として言えば、作劇がうますぎてずっと楽しくて画面にずっと惹き寄せられたままで、一ミリの退屈もなく最後まで面白かった。作品が何を言いたいのか理解できねぇのにコレなのまじ意味わかんねぇ。ユーモアと人物の芝居とテンポと心地よさとその他あらゆる作劇でずっと作品世界へ惹き寄せ続けるの、冷静に考えてすごすぎる。
理解として言えば、言語の範囲外で生理的に伝わってこようとする情報が、最速で理解できる。だから理性で作品に好悪を判断つけたくても、生理的な理解が先に面白さを伝えていて、判断を保留し、物語が表す「意味」が分からない気持ち悪さをいったんわきに置く(打ち消す、わけではないのもポイント)
たまたま映画見る前に考えてたのが、美輪明宏のモロの演技や紅白のヨイトマケの唄なんだけど、あれもなんか、生理的に分からされる凄みがあるよな。あれと同質の、生理に訴えかけてくる理解が、この作品の全体にあった。
だから意味深がセリフが物語上の「意味」として理解できなくても、なんとなくわかっちゃうわけ。ああ、「そういうふうに」感じてるんだなぁ、って。
自分が書いたものも含め、なんか色々考察とか出てくると思うんだけど、この作品に関して自分はもうそんなのに大した意味を感じていない。いや言葉で説明することは俺も試みたと思うんだけど、そういった理解や「意味」は後からやってくるものであって、それより先にあるこの一次的な身体的感触の強さが、現在進行する映画鑑賞の今、圧倒的な作品だった。肌感覚で腹の底から湧き上がる力強さは、言語的理解を拒否して圧倒する。そんなプリミティブさ。
プリミティブな、といえばものすごく情報量が少ないように感じられるかもしれないけれど、ただそこで言う「情報量」ってつまりキロバイト的な情報の多寡でしかなくて、生理的な質感や圧倒的な情報の圧が含まれてない。この作品はそういった生理的な質感や圧、すごみをもってして最後まで観客をエンターテインする作品だった。面白さが言語の範囲外で生理的に伝わってこようとするんだよな。
「語り得ないことに関しては、沈黙せねばならない」という言葉があるけれど、宮崎駿は言語で語りえないことを語れる。対して、自分たち観客は語れないが、しかし生理的に理解している。
自分が最初の考察に意味を感じない、といったのは、考察の当たり外れよりも「こんな小賢しい考察なんぞしてんじゃねー」的なギルティ感覚がするからだ。賢しらぶってることが怒られそう。それこそ、宮崎駿に叱られるカワンゴみたいな、「意味」や思考の中だけに生きて現実に生きる生命を見ようとしていないと叱られている気が(これは完全に自分の勝手な感覚なのだが)する。強いて言えばそれが、本作のタイトルのごとく自分に突き付けられたお説教だったかもしれない。
一般には訳が分からなくてもいいし、読み解く材料も与えないし、理解されなくても面白くしなんか感覚的には伝わるでしょ?みたいな感じが、ただ壁を感じるし、見る人は選ぶと思う。ジブリ作品に壁を作ったことって今まであんまりないと思うんだけど、たぶん風立ちぬで少しやって、「あ、好きにやってもいいんだ」みたいなのを、それこそ庵野秀明とエヴァから知ったんじゃねーかwみたいな気もしていて、そして老境にさしかかりジブリの崩壊を見ながら、いろいろなことを感じ考えながら職人芸ですべて盛り込んだのが今回の作品なんだと思った。だから、一部の人の批評や感想、特に老人の走馬灯とかボケたとかみたいなのには全く賛成できない。
正直昨今話題のLGBT法案反対派の根拠として「日本はLGBTに寛容!(だから必要ない!)」って言われるの、ぶっちゃけ納得いかない
(法案の是非はここでは置いとく。なんなら増田は法案に対してやや反対という立場)
そもそも寛容って何?
IKKOやマツコや美輪明宏みたいに能力のある人間がLGBTをオープンにした状態で社会的地位が得られるなら寛容ってこと?
アウティングされるのに?同性愛をネタにする風潮がネット社会であるのに?未だに「ゲイじゃないよなw」って言われて苦しむ学生がいるのに?まるでいないようにされる「ゲイ」当人の自尊心が傷ついているのに?
「人と違うからからかう」人間はこの日本にはたくさんいる。なんならこれはLGBTに限らず、「一般的では無い」存在がいじめの対象になる光景、この日本(というかこの世)にたくさんあるだろ。
それをあえて見ないのか、本当に分からないのかはコチラから判別できないけど
当事者として俺は、この日本が「LGBTに寛容な国ニッポン」とはとても思えない
寛容というより鈍感。「いてもいいよ」の寛容じゃなくて
「いるわけないでしょw」って言って、LGBTが確かにそこにいることにも、LGBTのことを傷つける行動をしていることにも、気づいていないだけ。
っで終わらせずに、色々な当事者の声を聞いて
本当に日本は寛容なのか?って考えて欲しい
それだけ
ふと思ったのだけど、席を譲るとか落し物をその場で拾う時に相手を呼称するにはどうするのがいいのかをふと考えたので、もし普段こうしてるってのがあれば教えて欲しい。
「おじいさん、席おかけになりますか?」
こういうやつって「俺はまだそんな歳じゃない!」ってパターンがあるじゃん?
女性の時は私は必ず「お姉さん」と呼ぶようにしてて、これに嫌な顔する人は今のところ会ったことがない。
「お姉さん荷物多いので、よかったら座りませんか?」
こういう言い方する。大抵は「あらどうも」か「やあねえ、もうおばさん(おばあちゃん)よぉ〜」って感じで終わるんだよね。
でも男性ってどう呼ぶといいのかなって。
そりゃ見た目10〜30代くらいならお兄さんって呼ぶけども。
私が歌舞伎町にいそうなあんちゃんなら「アニキ、落し物っす!」くらい軽快にいくんだけどさあ。
けどかといって紳士とか殿方とは言わんだろと思うし。ダウントンアビーとか大奥みたいよな。
そんなわけで普段こんな言い方してるよ〜便利だよ〜っていうのあったら教えてください。
ちなみに私の見た目は黒髪で目つきの悪いチビアラサー女なので、それでも使えそうな言い回しだとぜひ知りたい。
【追記】
増田って1日経つと急にコメント増えてるとかあってびっくりするわ。
「おじさま」たしかにマイルドに聞こえるね!けど「お兄さん」でいいパターンが多そうね。反応くれた人たちありがとう。
社長や先生は飲み屋勤務の時は言ってたけど通勤中に使うのは難しそう。笑
セクに関しては基本見てくれで呼んでいて、女性服着てたら「お姉さん」って呼ぶよ。通りがかりの人のセクは流石に知らないし…。
とはいえ「夫をご主人様って呼ぶのは奥さんを下に見てるんじゃないのか!?」みたいなのと近い問題になって来てるのかなあ。
「あの」「すいません」でいいじゃんって人は、あんまり無視されないか声を掛けないタイプ?
私は「あの」だと気づいてもらえないけど、席譲るのも落し物拾って追いかけるのもよくやるタイプ。
良い呼び方あんのかな?ってふと思っただけだからそんな白熱しないでええんやで。
あと「お姉さん」で嫌な顔されないのは私がアラサーの女だからだと思うよ。
たしかにHeyYouでいいもんなー。日本語の便利ワードって知らないな。ほんとはあるのかね?
>「そこの〇〇の方」
口に出して「お兄さん」よりはちょっと長いなと感じた。まぁでも服装で呼べば気付いてくれそうだから最適解かも。
>「あのー」でいいんだって
やはりここに戻ってくるのかー。私の場合気づいてもらいにくいし警戒される。「あのー」で「道わかんないから!」って被せられたこともあって良くないのかと思ってたけど、これは言い方じゃなくて目つきのせいだったかもしれんね。
>無言で立ち去るといいって美輪明宏が言ってた
美輪明宏は、おすぎとピーコを厳しく批判しているのだが、それは彼らの「私たちなんて」「しょせんオカマよっ!」的な自虐スタンスが許せないからだ。
同性愛者が同性愛者と言うことで自死を強いられてきた場面を見てきた美輪にとって、自虐と言う姿勢は後に続く者たちが道化として生きていくことを強いているのも同然、であるようだ。
私自身は反フェミニズムと言うか、「男女平等論者(非女権論者)」であるが、私から見てさえ、女性への視線がルサンチマンに満ちているマンガ「バグマン」では、自らのキャリアのためには何もせずに男に仕えて家事にいそしむ若い女こそが、キャリア志向の女よりも「賢い女」として描かれている。「バカになれる女が賢いのだ」論だ。
属性的なマイノリティは、「バカになること」で、個人的な軋轢を軽減してきたことはあるだろう。松本人志の言う、「笑いに変えた方が賢い」と言う対処法だ。
乙武氏の自虐も、それと同様の処世術を感じる。乙武氏自身を責める気にはなれないが、続く人たちに「笑い飛ばして対処するべきだ」と言う呪いになっているのは否めない。
日本人初のシンガーソングライターは美輪明宏、これはわりと知られた話だろう。では、1つの曲で作詞作曲を行った最初の日本人は誰か。これがなかなか難しくて困ってる。作曲とはみずから譜面に起こすまでをこなすことをいうものとして。
江戸時代からの相撲甚句や明治初期の演説歌(川上音二郎のオッペケペー節等)は歌詞に即興で節回しをつけて歌っているだけで、これはこれで素晴らしいものだが作曲とは呼べない。
童謡や唱歌は作詞家は作詞だけを、作曲家は作曲だけを担うばかり。それは十分合理的なのだけれど、両方の才能にめぐまれた人もきっといたと思うんだ。例えば山田耕作なんかも試みに作詞をしたと思うんだけど、残念ながら曲がついた形としては何も残っていない。