はてなキーワード: ルソーとは
前半→https://anond.hatelabo.jp/20220615180702
こんな形でソ連という敵を喪失してなおアイデンティティの為に日教組を叩いていた人らが居たのだが、社会的には全然相手にされていなかった。
そこでこの批判を既存のコードを使ってアップデートしたのが小林よしのりだった。
左翼や進歩主義者ににとって社会は変革されるべき客体である。人間は変革を担う主体である。
だが、最初に大事なのはその主体が社会的矛盾や疎外に気付く事だ。それによって「変革の主体」との主体性を得るようになる。
だから、大学などに進んでも尚主体性を得ずに高校の延長で勉強しているような学生には「君達は教育による馴致によって自分が何か、何がしたいかの動機が予め奪われてここに居るんです」というような事が言われる。説得でもあり扇動でもある。
ルソーの『エミール』等の自然状態礼賛がベースになった考えで、本来人は高貴な野蛮人として生まれるのに教育を受ける間に躾けられ、個性を封じ込められ主体性を発揮する動機さえ喪失してしまう。
君たちは既に侵され殺され抑圧されているがそのことすら気付いていない。卵の殻を破壊せよ世界を革命する為に、とそういう具合である。
だがこの主体性への気付きというのは進歩主義者の専売特許ではない。帰国子女は異文化経験によって「今ここ」が異化されており概ね主体的でありそれにより成熟している事が多い。私学エスカレーター組と比べると大人とガキの違いだ。
また就職活動で仕事について真剣に考える期間を経ると顔つきが大人びてくる。
そこで小林がやったのは「君たちは教師によって騙されていた。君の本来性は殺されたままだ」という扇動だ。その騙しとは真実である歴史修正主義言説を隠蔽していたというものだ。
今ではこういう覚醒の物語というのは「レッドピル」として一般に認知されている。マトリックスでモーフィアスに「今までの生活がいいなら青カプセル、覚醒して世界の真実が知りたいなら赤を飲め」と言われるアレだ。
この扇動が奏功するには条件が必要だが、その前に指摘しておきたいのが、90年代末当時に流行していたアダルトチルドレン言説である。
アダルトチルドレンとはアル中に育てられた人間が自分の子供にも暴力をふるってしまう現象の事だ。
だがこれが「親の教育のせいで大人になれないガキ大人」という風に俗流解釈されてこれが流布して問題を起こしてしまう。
米国で弁護士事務所が営業をかけて「自分が大人としてうまくやっていけないのは親の教育のせいだ」として親を訴える事例が続出したのだ。
元の意味では自分の問題行動が幼少期のトラウマにある事を発見して自覚し克服するのが目的になっている。
対して俗流では自分の人格の問題は教育のせい、と問題を固定化するのが目的化しているのだ。訴訟を吹っ掛けるのが目的なんだからそうなる。
さて小林の日教組被害論はどっちだろうか?後者であろう。そして小林は当時この言説を知っていたはずである。ビル・クリントンが「僕もアダルトチルドレンだ」なんて言ったニュースが流れたのだから。
まず最初は
1.主体性棄損論がリベラル教師らによって唱えられ受容されていた
これは既に言った通り。
就職面接対策がマナーや受け答え型の技術的なマニュアルから主体性探求型へと移っていた時期である。自分が何故この会社と職種に賭けたいのか、自分を探求して経験者が起業する時のような事を語るのを求めれた時代である。今の洗脳型ブラック研修のオリジンはこの頃にある。
格別に強度がある自分探しの経験をしたとアピールする為に東南アジアの奥地で死にそうになったエピソードを語る学生が沢山居た頃である。
日教組被害論が端的に奇妙で揶揄の対象となるのは経験で上書きされていないという事だ。普通は大学や社会での経験で上書きされて中高の頃の事などいつまでも覚えていない。
上書きされないのはレッドピルだからなのだが、それ以外にも当時は社会経験で上書きされないという条件が揃っていた。
当時の新卒就職率は大学でも5割程度である。高校卒なら殆どが就職できていない。
「学校の上書き」がされずに経験の類型を話す時に仕事じゃなくて学校での事で話してしまうような者が半分以上居たのだ。
みなバイトや派遣してるうちに社会が変わって何とかなると考えたが何ともならなかった。
小林はリベラル界隈で活動している時に薬害エイズ訴訟の支援をしていたが、菅直人が厚労大臣になり原告の請求是認して謝罪し一応の解決を見ても運動に参加した学生がいつまでも新たな課題に飛びつき運動から離れないので嫌気がさしてしまった。
運動で正義を追及する自分がアイデンティティになってしまうからである。
更に運動に参加した学生が一律同じことを言うようになる。戦後に天皇が存続しているのもおかしい、自衛隊が存在しているのもおかしい、と。
明らかに左翼運動家に「世界観」を吹き込まれているのだ。レッドピルである。それらのパッケージの全体性は自己のアイデンティティの保持の為に支持されている。これに「汚ねぇやり方だ」と感じるのは正当であろう。
こういう運動のイヤな面を見て嫌気がさして辞めたのに、その方法論を覚えて転籍先で援用したのだ。
世界観提示による実存囲い込みの方法もその効果も、経験が少ない若年者を囲うと世界観の保持の為に経験での上書きを避けるというのも知っていた。就職しないで運動を続けたいというのがこれだ。
異論は個々の方法には許されるが、世界観を構成する箇所への異論はNGだ。その世界は積み上げたものではなくてパッケージ全体性が担保されねばならないものでそれを棄損するものだからだ。
小林はこんな風に左翼の思想/行動的に拙いところの要点を教示されるなどで認識しているのにそれを後に右翼扇動に使うという事を沢山していて例えば橋爪大三郎が後に口の端にも上げないのは小林の転向の為ではない。自分が説明した事の悪用のせいだ。
まとめると、社会が安定した日教組衰退期にソ連が敵性を喪失した為に敵の乗り換え先としてテーゼとなったが世間では相手にされていなかった。左翼運動の方法を知る小林が若年者の実存囲い込みの方法をこのテーゼにコピーして実行したところ社会情勢がマッチして成功した。
日教組被害論者があり得ない条件を言うのでツッコミ多数で、いやあったんだ北教組は…などという話によくなっているが、日教組は実在するのはみな知ってる。
そうでなくて日教組によって自分の主体は棄損されて間違った世界を見せられていたというのが訴えたいことだったのだろう。あれはマトリックスに封じ込めるブルーピルだったと。
だから揶揄している人は実在を問題にしているのではなくて中高の経験をいつまでも語るおかしさを揶揄している。思想的な事を多少知る人はその日教組の存在は世界の全体性パッケージの外郭を保持する為のアプリオリな仮想経験だという事に気付いている。
ネットでの対話なら揶揄して終わりだが、身近に居る人なら「それに拘泥している間は経験を擦り合わせて積むことが出来ない」「自由世界の住民の自我は小傷が多いがそれで壊れたりしない」と忠告してくれるはずだ。
冷戦と社会党瓦解の影響で日教組が協調路線に転じたのが1995年頃なのでもう30年近く前なのだよ。その当時の中高生はもう40代半ば以上なのだ。
うん。「右翼が」というわけではなくて、「ロマン主義的な思想というか心情が」という事だと思う。だからそういう風に書いた。
ただ、日本で「右翼」というと何故かロマンチックな心情に酔ってるみたいな人たちを指す場合が多いので、どうしても話がそちらに寄りがちだとは思う。(個人的にはガチガチの現実主義者だって右側にはいるのだから右翼という言葉にあまり限定的なニュアンスを込めてしまうのもどうかと思うんだけど、その辺は最近は「右派」という言葉に担わせるのが流行りなのかも知れない。)
なお、左翼がロマン主義的なのは昔からのことだと思うよ。特に最初は理想を夢見ることから始まった啓蒙主義の流れにあるわけだから。(「夢想家」ルソーだの「空想家」サンシモンだの、、)
https://twitter.com/ChnConsul_osaka/status/1476387652563832843?s=20
ロシア大統領プーチンが言った。「ソ連崩壊は悲劇だ。ソ連は40%の国土、生産力と人口を失い、数千年の蓄えが幻となった。」その時、米学者フクヤマが「歴史の終焉」を作り上げ、米式資本主義が人類歴史の最終形態だとした。正に米国の冷戦勝利宣言かのようだ。
ソ連の崩壊で米国は集合的興奮に陥り、ベトナム戦争のトラウマが一掃され、「単極世界」を迎えた。しかし、30年後の状況を見て、米国も同じく失敗の運命から逃げられず、冷戦には勝者がなく、米国の失敗はソ連に比べ30年遅れただけだと分かる。
今日の米国は弊害にまみれ、とりわけ新型コロナ発生以来、米国のコロナ対策が大失敗、社会が引き裂かれ、「民主の灯台」はその輝きを失った。「米国は自信かつ断固たる足並みで、ソ連の古い道を歩んでいる」とプーチンが言った。
①思想の狂い
冷戦が終わってから、米国は自らの制度に対する反省を完全に捨て、盲目的な傲慢に陥った。まさに思想家ジャック・ルソーのいう通り。「選挙投票日その一日に限って民主的で、その後国民は奴隷になる」。
米国は自称「民主」だが、実は民主と選挙、多元と平等、問題提起と問題解決を混同している。国民に問題が解決されなかったことに気づかれたら、権力者を変えて同じことをもう一回繰り返す。
米国は自称「自由」だが、「ポリティカル・コレクトネス」が冷戦後の米国のあらゆる所に存在。米国は自由そのものを資本が巧に設計した遊園地に持ち込み、完璧な自由リアリティショーを毎日演じている。
米国は自称「市場経済」だが、「資本主義は真の市場経済でない。その特徴は独占、つまり反市場だ」と歴史学者ブローデルが言った。市場の本質は自由競争、公正取引だが、米式市場は利益第一、米国優先。米国の独占を守るため、手段を選ばず、貿易戦を起こし、国際分業を破壊する。
②政治の腐り
冷戦時代、米国はソ連の政治腐敗を攻撃し、自国の政治問題を棚上げしていたが、事態は深刻化する一方。元大統領ジミー・カーターは「世界は故障した民主政体を目撃している」と、米学者フクヤマも「米国は失墜しつつあり、政治的失敗は続く」と認めざるを得なかった。
「われらが仕事をする振りをし、彼らは給料を出す振りをする」というソ連を皮肉る昔の笑い話がある。今は主役が米国に変えてよかろう。「われらは投票の振りをし、彼らは政務を執る振りをする」。
政治の腐敗は結局エリートの腐敗。餓鬼偏執、政治献金、高額報酬、サヤ取り、ロビーグループ、受託収賄は既に米制度の不可分の一部となった。大統領バイデンは就任百日演説で、「55%の米国最大手企業が交付した連邦税はゼロ。タックス・ヘイヴンで税を免れている」と述べた。
悲しいことに、バイデンの訴えは多くの米国人にこれが世界中のエリートを引きつける米国の「ソフトパワー」と認識されている。米国は貧乏人とお金持ち、大衆とエリートが完全に隔絶し、価値が対立する「並行世界」、「二次元世界」になりつつある。
③経済の衰え
今日の米国のインフレ高進が激しく、大口商品の価格が大幅に上昇、経営環境が悪化する一方。米元財務長官サマーズとルービンは米国がすでにスタグフレーションに入ったと判断。今後の一時期、米国の景気回復の道筋は不確実性が高い。
米国をいわゆる冷戦勝利に導いた新自由主義、貨幣主義経済革命は結局大仕掛けのペテンにすぎないと多くの人が反省している。今年初、米財務長官ジャネット・イエレンが就任初日に財務省の全員への公開状の中、「米国は50年にわたって累積した経済危機に面している」と指摘した。
これは1971年、米国がドルと金の兌換を停止し、金本位制の貨幣体制を廃し、負債・貨幣増発・金融化、産業空洞化の後戻りできない道を歩んだことを指す。2008年金融危機から2020年新型コロナパンデミックまで、米国は問題解決のため無闇にドルを印刷し、病みつきになっている。
このように、米国は「金融マジック」で自らのバブルを膨らませ、他国の利益を奪い取ってきた。しかし、因果応報というものがある。来年、米国は第六回の利上げの圧力に直面している。金融危機のカウントダウンが既に始まっている。
④社会の分断
この30年、米国の貧富の分断は深刻になる一方。米国の家庭の財産はこの20年で増加しなかった。もっとも豊かな1%の米国人は43万億ドルの富を所有し、最下層50%の米国人の14.3倍に達する。目下、米国企業CEOの報酬は従業員平均報酬の320倍、歴史最高水準だ。
今の米国は南北戦争前の状態に似ている。社会の中流階級が萎縮し、左右両極分裂のポピュリズム社会になりつつある。赤い州と青い州の矛盾が激化し、52%のトランプ支持者と41%のバイデン支持者は米国の分裂を望んでいる。
1月の米議会襲撃事件は1933年ドイツ国会議事堂放火事件を想起させる。白人至上主義、軍産複合体、大金融資本集団というファシズムの三角が形成しつつあり、次回の大統領選挙でファシズムが復活するかもしれない危機的な状況だ。
ワシントンポスト、CNNなどの米主流メディア及び多数の米退職将軍は政治上の不一致によって米軍が二つの対立の陣営に分裂し、2024年大統領選挙後米国に内戦が勃発する可能性があると予測した。現在、米軍の中では既に動揺の兆しが出てきている。
anond:20211104134014 に予想外に反応をいただいたので返しておきます。
「Aという主張をしている人は、Bという主張もする」は、Bと主張をしている文書への指摘じゃなければ、「書かれていないことを読み取っている」だよ。
この記述を読むと、筆者氏は「はてブコメントには、文書への指摘か、コメント者が文書から読み取ったことだけが書かれている」という前提をお持ちのように見えますね。ですが、少なくとも私はそのような使い方をしておりません。私にとっては、はてブコメントは、記事を読んで思ったことや連想したことを好きにメモしておく欄です。間違っても、元記事の読解テストの解答欄ではありません。元記事にないことをコメントしているというご指摘であれば全くその通りですが、読み取った結果書いたものかと問われればそれは明確に違います。そして、元記事にないことをコメントしているという点については、「私は、はてブコメントに、元記事が直接言及していないことを自分の思考の結果として書くことがよくあります」というだけです。Twitterに例えるなら、リプライというよりは引用RTとしての使い方をしている、というと分かりやすいでしょうか。
それはそれとして、追記部分以外の元記事の論旨には基本的に賛成なのですよ、文章を最初に読む際に持つべきマインドセットとしては。その点はお間違いなきよう。
正直済まんかった。ここで「書いていないことを読み取る」ないし「書かれていることを読み取れない」事案が発生したら面白いかも知れない、と仄かに思ったことそれ自体は否定しきれないので、その点について「性格が悪い」とするご指摘は甘受します。
一応言い訳させてもらうと、断定調は当然として「しばしば」すら避けて「時がある」としたことで、全称命題と解釈されたくないという意図は強く明示できただろう、という認識でおりました。特にわかりにくく書いた意図はありません。
一応固定されてるのは党派性よりは価値観でありたいと思っていて、価値観としては、自由・平等・博愛・公正辺りを大事にしているつもりです。
経済学理論だとクルーグマンは読んでいるが資本論はきちんと読んでおらず、容共ではあるものの共産主義というより改良主義的立ち位置なので、これを左翼と呼んでしまうとガチな人とか本職の人に怒られそうです。特にフランス大革命関連人物の最推しがラファイエットだったりするあたり。
ロックよりルソーの方が好きだったりとかで保守というよりリベラルなのは間違いないし、再分配は今より強めるべきとも思っているので、左派に類するのは間違いないと思うのですけれども。
みっともないが自説を貼っておく。これを指摘しては争いになり、どこに行っても相手にされない。
代議制民主主義の投票は、実効的側面があるアンケートの一種だ。そのアンケート結果によって、例えば人気投票だったらそのキャラや人のグッズが出たり、何かの選択肢が変わったりする、そういうアンケートの一種だと考えることができる。
人々は、いや私は、そういうアンケートに答える時には、自分の中で戯れだと考えている。ある程度以上のサンプル数があれば、一票が結果に影響を与えることは無くなり、つまりアンケートとして確かなものになるので、自分の一票が結果に影響を与えると考えると、不合理になってしまうからだ。
1票が持つ実効的な意味だけに着目すると、1票差で結果が決まる確率の最大値は、投票総数が「N×2 + 1」の時、参加者のそれぞれが候補者A・Bに2分の1の確率で投票する時に確率が最大になるとして、「1 / √(N×π)」という結果になるらしい。計算過程としては、最初の半分が一方に、それ以降がもう一方に投票する場合が「2のN乗分の1」で、しかし半々になるのはそれ一通りで無く何通りもあるので、スターリングの公式だとかでそうなるらしい。
有権者の数が40万1人の場合は、「1/√(200000×3.14)」で「0.00126188616」。792回やって1回という確率らしい、「√(200000×3.14)」で出せるみたいだけど。
これを多いと考えるか少ないと考えるかは、その人によるかもしれない。皆が完全にどちらでも良いと考えている時に、千年以上に一度の確率で1票差で右か左の候補者に勝たせるために、投票に行く。しかしおそらく、多くの人間はそのように考えて投票に行っているわけでは無いだろう。
1票が持つアンケートとしての意味だけに着目すると、事態はもっと悪くなり、一票差で勝ったり負けたりした所で、偶然だと考えなければ非合理になってしまう。つまり何が起こっても意味が無いことが最初から約束されてしまう。
しかし読者はこう考えるのではないだろうか、つまりしかし確かに投票結果が政治に影響を与えており、私は少なくともその一億分の一だけは結果に影響を与えているのだ、と。
一票には意味があるのか、それとも一票には意味が無いのか。私の考えでは、これは視点のスケールの問題で、視点のスケールを変えれば意味があるとも言えるし、無いとも言える。
自分一人のスケールで考えると、たとえ全体の目的のことを考えたとしても、投票には意味が無い。統計的に誤差なのだから、意味が無いと考えるべきだ。
しかし全体のスケールで考えると、その中のパーツやサンプルとして、投票には意味があると言える。確かに因果関係の中に存在しているのだから、意味がある。
代議制民主主義は、全体の目的では無く、その全体の視点によって成立している。あるいは、そもそもその全体の視点がルソーの一般意思なのかもしれない。
弱者を救うのが政治だよ、という定義を勝手に使っているけど、必ずしもそうではないぞ。
お前は、一般意思と多数決は別だぞ、というルソー流の考えを採用したうえで、
弱者を救うことは全体の利益だ、というロールズ流の正義を導入している。
でもそれは、まずルソーの民主主義を採用したうえでもやはり一般意思と多数決は多くの場合一致すると考えられるし
あとロールズは正義について述べたのであって、政治的正解について述べたわけじゃない。必ずしも望ましいとは限らない。社会全体を救うためなら弱者を見捨てることだって政治はするし、するべきだって考えもあるわ。例えば国家が戦争をすべきときっていうのは、やはりあるしね。