クルアーンの注釈書(『タフスィール・アル=ジャラーライン』)を買って読んでる。
・キリスト教勉強してたら、そらぁイスラムも気になるわな、という感じで買った。
・その辺に売ってるイスラム本は入門書ばかりで、肝心のクルアーンの注釈書がどこにもない。
・と思ったら、日本ムスリム協会というところで注釈書が格安(1冊3000円で3巻セット)で頒布されていた。
・Amazonだと買えない。
・メールで注文した際、後払いで良いと言われてびっくらこいた。善良というかお人よしというか。信仰の為せる技なのか。
・本のサイズがクソでかいのには面食らった。A3サイズ?携帯は不可能。
・このサイズで1500頁ぐらいあるので、トータルで約1万円ってのはやっぱ安い。
・『タフスィール・アル=ジャラーライン』ってのは「2人の著者によるクルアーンの注釈書」ぐらいの意味らしい(?)。
・著者のマハッリーさんとスユーティーさんは大体1400年代(!)の人。
・この本はめちゃくちゃ簡潔なのが特徴で、簡潔すぎてわけが分からないので、”注釈書の注釈書”があるとのこと。
・その”注釈書の注釈書”のうち、ジャマルさんという人のものを、日本語訳者が適宜織り込む形で出版されたのが本書。
・ちなみに日本語訳者は中田香織さんで、有名な中田考さんの奥さん。
・あとクルアーンの全訳(?)も付いてるので別途クルアーンの日本語訳を買う必要は無さそう。
・1400年代の本が読めるのかって感じだったけど、割と易しく書いてあった。
・ただ途中で気づいたんだけど旧約聖書の知識があることを前提に書いてあるので、何も知らんとキツい。
・聖書の人物の名前がアラビア読み(?)になるので一瞬「誰だよそいつ」ってなる。イエスはイーサーで、ダビデ王がダーウード。
彼らは、「ユダヤ教徒、またはキリスト教徒でなければ楽園には入らない」と言った。それが彼らの望みである。言ってやれ、「おまえたちの証拠を持って来い、もしおまえたちが正しいのであれば」。(2:111)
・ただ多神教(≒不信仰者)disはもっとすごいので、それよりかはマシぐらいの感覚なのかも。
・アラブの人たちが日常生活で直面する困難や疑問に対して神の言葉が下されるという形で書かれた章節が多いので、最初のほうからやたらと具体的。離婚したら慰謝料払えよー(2:241)とか、アナルセックスするなよー(2:222)とか。
・これは良いなぁと思ったのは、人の善行が神に対する「貸し付け」となって、死後何倍かにして返されるよ、みたいな言葉。これはキリスト教にない発想よね。
アッラーに良い貸し付けをする者はだれか。彼はそれを倍加し、数倍にもなし給う。アッラーは締め付け給い、また気前良く広げ給う。そしておまえたちは彼の御許に帰らされるのである(2:245)
長くなったので以上。
ひさびさに中島敦『山月記』を読んだら、だいぶ読み方が変わって驚いた。
以前は、強烈な自尊心ゆえに友人や先生に教えを請えないエリートが没落した様を描くことで、「つまらないプライドは捨てて生きていかないとロクなことにならないよ」という教訓を言う話だと思っていた。
が、この読みはどうも浅薄というか、人生の敗北者にとっては厳しすぎるのである。というか結論だけ抜き出せばそこらの自己啓発本と変わらないような気がしてきて、作品の価値を矮小化しているような気さえしてくる。
そこで、もう少し人生の慰めになるような読み方はないか。と考えていたら、これは「理不尽な世の中に自分を合わせられない不器用な男が、苛烈な自己責任論で自分を裁いてしまい、自分を受け入れてくれる神も持たなかった結果、精神的な苦境に陥る話」じゃないか、と思い始めた。
中学生の頃に読んだときは、李徴は周囲に教えを請いたりできないプライドの高い男だな、と思ったが、(浅い)人生経験を積んだ今、改めて読むとそうでもない。
李徴が詩人を志したのは、(功名心もあっただろうが)第一には心を揺さぶる先人の詩があったからだろう。そうなると、そうした詩を書く者が周囲にいれば、これに師事したり教えを請いたりしたはずである。
それにもかかわらずそうしなかったのは、自分の追い求める詩人像に値する者が周囲に居なかったからだろう。
①自分の追い求める理想像と、②世で「名を成す」者とがズレることは、現実社会でもしばしばあることである。
李徴は、このズレに気付かないまま自分の理想像を追い求めていったことで、世で「名を成す」ことができなかったばかりか、周囲の人間と折り合いがつかなくなり、「努めて人との交を避けた」結果、「一匹の猛虎」となった。
他方、周囲にいた「己よりも遥かに乏しい才能であ」る者は、世で「名を成す」道を「専一に磨いたがために」、「堂々たる詩家」となった。
李徴は理不尽な世の中に自分を合わせられず、ひたすらに理想を追い求めた結果、社会的に失敗してしまったのである。
これはカフカ『変身』で、社会の求める市民像──(ⅰ)家庭の善良な息子、(ⅱ)有能なセールスマン──を演じていたグレーゴルが、自己の本来性の自覚を持ってしまった瞬間、褐色の虫に変身してしまったのと似ている。
現代社会のルールでは、人間が自己自身の本来性を保持することを許さないのである。
そして、李徴が不幸であったのは、上述した社会のルールに、他ならぬ李徴自身が支配されていた点にある。
李徴としては、徹底的に社会を突き放し、自分の理想像を追求するという途もあった。
しかし、「元来詩人として名を成す積りでいた」李徴は、世で「名を成す」努力をできなかった自分を徹底的に断罪するのである。
李徴の詩を聴いた袁の評価によれば、李徴の詩は「長短凡およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである」とある。
「第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがある」とは言え、この自己評価は言い過ぎである。
それに、はっきり言って実社会でこんな話は”よくある”ことなのである。
神の手により不幸のどん底に落とされる義人ヨブを、自己責任論に基づいて徹底的にこき下ろす友人エリファズの話だが、どうも李徴の中にはヨブとエリファズが同居しているように思える。
さらに、上記のヨブ記のラストにおいて、ヨブは「仲保者」(=キリスト?)の存在を確信することで救われるが、李徴にこのような仲保者は現れない。
ただ、「向うの山の頂の巖に上り、空谷に向って吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処で月に向って咆えた。誰かにこの苦しみが分って貰えないかと。」というだけである。
これも社会のルールに合わせられないムルソーという男の不幸を描いた作品である。
ムルソーは物語のラストで、このような自分を排除せず「優しい無関心」を示す自然の存在に気が付き、幸福を得る。
他方、李徴は「獣どもは己の声を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮っているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易い内心を誰も理解してくれなかったように。」というだけである。
ここに来て、山月記という作品は「理不尽な世の中に自分を合わせられない不器用な男が、苛烈な自己責任論で自分を裁いてしまい、自分を受け入れてくれる神も持たなかった結果、精神的な苦境に陥る話」じゃないかと思うのである。
http://anond.hatelabo.jp/20170204225930
この手の議論は「勉強はしなければならないものである」という結論ありきのものになりがちで、それが原因で不毛な議論に陥りやすい。
けれど、この結論は絶対のものではない。聖書の教えによれば、勉強は必ずしもすべきものではないし、その内容によってはかえって有害としているようにも読める。
その理由はいくつか考えられる(聖書には明示されていない)が、①勉強した人はしていない人をどうしても見下してしまうことが多く、これは愛の理念に反するからとか、②社会的成功のためには勉強が必要である(学歴・スキル)が、キリスト教では社会的成功や高収入であることが必ずしも正義ではないからとか、説明される。
これらの理由からすると、人生の慰めとなったり、信仰に資するような勉強以外は大して意味がないということになるだろう。
ちなみに数学者のパスカルはこれを分かっていながら確率論に惹きつけられてしまう自分を自嘲する文章を著書に書いている。
上記のキリスト教の考え方を踏まえた上で、改めて「なんで勉強するのか」という問いを立ててみると、勉強をするかどうかというのはそこから生じる利益・不利益を考慮した上での一種の決断に過ぎないことが分かる。
つまり、上述したような不利益と、得られる利益(いい大学に行ける、知的好奇心を満足させられる、自分のやりたい仕事につける等々)を天秤にかけた上での決断なのだ。
「勉強をしなければならない」が一つの決断に過ぎないとすれば、それを押し付けられれば当然娘さんのような反応になるだろう。
元増田はせっかくいい経験をしているのだから、自分が勉強をしてきて良かったこと、悪かったことを直截に伝えてやれば良かったのではないか。
内村鑑三の著書の一つに『一日一生』という本があって、1年365日(366日)の各日について聖書の一句を引用し、それについて内村のコメント(他の著書からの引用)を付す、ということをやっている。
そのうち12月24日と25日がやはりキリスト生誕についてのものだったので引用する。
<12月24日>
”だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(コリントの信徒への手紙二 第5章17節)”
イエスが処女からお生まれになったのは、神が普通の出産法を賤しめられたからではない。人類以上の生命をこの世に持ってくるために必要であったからである。贖罪はキリスト降世の唯一の目的ではなかった。これは罪の世に現われた第二の人におのずから懸かった職分であった。処女の懐胎は新人を世に供するために必要であった。私たちは聖書の記事によるだけでなく、宇宙の進化の順序からも、また私たち人類の切なる要求からも、この大きな事実を信じるものである。
<12月25日>
”天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである(ルカによる福音書第2章10-12節)”
もしキリストがお生まれにならなかったら、この世はどうだったか。
シーザー、アレキサンダーらはなお陸続と世に顕れただろう。君主ひとりのために屍をその馬前にさらす忠臣義士は出たであろう。しかし下民のために剣を抜いたクロムウェル、ワシントンのような武人は出なかっただろう。ルター、サボナローラのような、いわゆる社会的勇士は生まれなかっただろう。
ホレス、ヴァージルのような宮廷に媚びを呈する詩人は出ただろう。けれどもダンテ、ミルトンのような平民的詩人は出なかっただろう。
キリストの生まれなかった世界は貴族帝王の世界である。人を崇めてこれを神として仰ぎ、一人の栄光を到達させるために万民が枯死する世界である。キリストによって筆も剣も脳も腕も貴族の用をせず平民の用をするようになった。
FCバルセロナのネイマールの腕に聖書の一節(章節の数字だけ)のタトゥーが彫られてるらしく、調べてみたらどうも↓らしい。
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは1人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです(第一コリント9-24~27)
ぴったりすぎて笑った。
前回、民法の偉い先生が、自身のキリスト教信仰と民法研究は無関係であると言った講演について書きました(http://anond.hatelabo.jp/20161127222341)。
が、どうもこれが頭に引っかかってしまって思考が進まなくなってしまったので、とりあえず混乱したまま吐き出すことにします。
「〔私にとってキリスト教信仰と民法研究とは〕全く関係ありません。キリスト教は私の人間としての生き方の指針。民法学は私が民法の研究者として、民法上の諸問題を一解釈学者として精一杯明らかにしようと務めているだけのことです。両者はその存在次元を異にしていますから、直接関わることはありません。」
「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(コリント前書6-7)
「人を裁くな」(ルカ伝6-37)
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ伝14-6)
一方で「民法研究とキリスト教は無関係である」と言い、他方で「キリストを通らなければ真理はない」と言われると、つまるところ法律学の研究には真理はないということになるのでは?というのが今の疑問。
ぜんぜん関係も文脈も違う2つの命題を繋げて何を言っているんだ、という感じなんですが、これ実感として「そうかもしれない・・・」と思えてしまうのが不安を持つ原因。
どういうことかというと、民法はちょっとややこしい(資本主義の影響が~とかになりそう)ので刑法を例にとると、刑法の事案を処理する際、法律家は(事実認定を除くと)大体以下のような作業をします。
(1) 事案をよく見る。
(2) 適用条文を探す。
(3) 条文の要件を切り出し、解釈を通じてさらに具体化する。
(4) 過去の判例・裁判例から重要と思しき事実をピックアップしてマトリクスを作る。
(5) マトリクスを作る過程で過去の裁判所の判断を分けた重要な事実が炙り出される。
(6) 本件に戻ってその重要な事実の有無・相違を確かめる(自然と結論も出る)。
(7) 上手くいかなければ(1)に戻る。
ただこの作業、やってる最中は真理というものを全く意識しません。
(1)~(7)の作業が担っている機能は、よく考えてみると過去の判例・裁判例の結論と平仄を合わせるものでしかありません。
また、こうして出された結論が「国民の常識」にかなっていることが多いと評価されることが多いのですが、よく考えてみるとそこでいう「国民」のほとんどは無神論者で資本主義者です。また「常識」にかなっていたから何だ、という話もあります。
他方、(8)の作業はいかにも真理っぽい作業なのですが、①②③の原則というのも、治安悪化の程度や警察の捜査能力などによってその要請の強度が変わってきます。
たとえば警察に捜査能力がぜんぜんない国で、責任主義を徹底し、故意の認定を厳格にするよう求めても、土台無理な話でしょう。
他にも、イスラエルのようにテロが頻発する国で予防拘禁を止めろというのもなかなか難しい話だと思います。
真理というものが普遍的なものだと仮定するなら、やはりここでも真理というものは現れないように思えるのです。
そしてさらにこういう作業を綿密に経たところで、刑務所の中で受刑者が思うことの多くは安部譲二『塀の中の懲りない面々』や堀江貴文『刑務所わず。』で描かれてるようなことでしょう。
そうなると上の作業には、やはり真理はないと思われるのです。せいぜい国の治安維持政策としての意味しかないのではないか、と思われてならない。
なんかマーティン・スコセッシ監督(人生で五指に入るほど好きな映画監督)が遠藤周作の『沈黙』を映画化したらしいので、積ん読していたのを読んだ。以下はそのメモ(間違ってるかも)。
どうもテーマは以下の3つらしい。
① 信徒がどんなに辛い目にあっても神が彼らを助けもせずに沈黙しているのは何故か(神はいないのではないか)
② クリスチャンと言えど、拷問に対する恐怖から、踏み絵を踏んでしまう心の弱い者もいる。これら弱き者は救われないのか。
③ 日本にキリスト教が伝来しても、それは日本特有の何かに変容してしまって、本来のキリスト教は日本に根付かないのではないか。
◇結論:神は沈黙しているのではなく、信徒に寄り添い、その苦痛・苦悩を分かち合って下さっている。
◇考えたこと:神がいるならなぜ苦悩に満ちた人生で何か声をかけてくれないのか、とは誰しもが考えたことだろう。それに対する卓抜な回答だと思う。辛い人生の慰めになる。
本作の元ネタの1つはヨブ記だろうけど、この解釈をヨブ記に逆照射すると面白いかもしれない。信徒に苦悩を与えるヤハウェと、それを分かち合ってくださる「仲保者」(=キリスト)ということになるか。
◇結論:弱き者も救われる。弱き者には弱き者なりの苦悩があり、踏み絵を踏むことを拒否して拷問を受ける信徒と変わりはない。
◇考えたこと:これも大変慰めになる。誰しもが踏み絵を拒否できる強い信徒ではないし、むしろ弱き者の方が大多数だろう。そんな中でのこの結論は心強い。
◇結論:書いてない?
◇考えたこと:神の存在が聖書というテキストで表されている以上、そこには解釈が入らざるを得ないし、解釈に際してはその人の人生観・世界観がそこに入り込まざるを得ない。
その意味で、西洋のキリスト教と日本のキリスト教は違うと言われても、そらそうだろうという感じだった。
おわり。一読目だし、『切支丹屋敷役人日記』がいまいち理解できてないしで、間違ってるかも。
日本の小説だけあって、論文がネット上にpdfでいくつか転がっているので、読んでみたい。
[追記]
本作にまつわる良いQ&Aがあったので貼っておく。
くだらない思い付き(いつも)。
京都大学の民法の教授で、最高裁判事も務められた奥田昌道先生が、自身のキリスト教信仰と民法研究との関係を語った講演があって、その書き起こしを読んだ。
結構いろいろしゃべっていたのだけど、結論は結局以下の言葉に尽きる。
「〔私にとってキリスト教信仰と民法研究とは〕全く関係ありません。キリスト教は私の人間としての生き方の指針。民法学は私が民法の研究者として、民法上の諸問題を一解釈学者として精一杯明らかにしようと務めているだけのことです。両者はその存在次元を異にしていますから、直接関わることはありません。」
で、これは結構納得の行く話で、聖書は人を訴えることにも、人を裁くことにも好意的でない。
「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(コリント前書6-7)
「人を裁くな」(ルカ伝6-37)
※ただし、両規定が法律関係を巡る訴訟にまで妥当するのかには議論がある。
この規定の根底には、①憎い敵でも赦すことが愛の精神に適う、②不完全な人に人を裁くことはできない、という考えがある(と思う)。
他方、法律の方も、こと財産法に関しては(つまり家族法などはいったん措くと)、キリスト教の精神はほとんど見られない。
どちらかと言えば資本主義の影響で説明が付きそうな規定・解釈・解決の方が多い。
◇ 『仁義なき戦い』の脚本家、笠原和夫の本がなぜか図書館にあって、面白くて読みふけってしまった。
曰く、『仁義なき戦い』のテーマの1つは、日本は戦争に負け、経済戦争にも負けたのに、またカネを巡って同じことをやっている。アホばっかりだ。ばーかばーか。ということだと。
時代は違うが内村鑑三も似たようなことを言っていて、曰く、日本は戦争向きの国ではないし、文化もモノマネしかできない。経済もそんな強くない。と。
じゃあどうすればいいかというと、内村は「日本の目指す道は宗教しかない」と言う。
ぜったい無理だけど、そうなったらいいなぁとは思う。
◇ キリスト教関連のエッセイに「フォイエルバッハはいいぞ」みたいなことが書いてあったので入門書を買ってきた。
めっちゃむずかしい。なんだこれ。
入門書の筆者曰く「フォイエルバッハはその主張から無神論者だと思われがちだけど、実はそうでもないよ」とのことなのだが、完全にキリスト教徒を殺しにかかってて笑える。痛いところ突かれまくり。だがそれがいい。
てかマルクスの思想の元ネタの1つがフォイエルバッハらしく、時折マルクスっぽいことを言うのでおおっ!てなる。
これ理解出来たらキリスト教とマルクス主義が頭の中できれいに整理されるんだけどなぁ。なんかもう1冊買うか。
内村鑑三の注釈は聖書の部分によって明らかに筆のノリが違っていて、自身の実生活で慰めを得たところだと熱くなる。
具体的には、貧乏生活を慰める規定や、人を裁くことを諫める規定は熱い。熱すぎる。
たまらずコレヘトの言葉に移ると、地上の快楽を追及するのは虚しいだけだよ、みたいな話なので熱気がすごい。おもしろい。
作者がソロモン(と言われているが実際には違う)ってのもロマンを感じる。
とりとめないが以上
http://anond.hatelabo.jp/20161119131901
◇黒澤明『生きる』を観る。
⇒結論:子供に生きる意味を見出してる人が多いけど間違い。楽しく生きることに意味を見出すのも違う。生きる意味は、何かを作り出すことにある。
⇒疑問:何も作り出せない人はどうすんの?
◇宮崎駿『もののけ姫』庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』を観る。
⇒結論:生きるのはめちゃくちゃ辛いけど、とにかく生きなきゃダメ。
⇒疑問:いや、理由は?
◇イニャリトゥ『バードマン』を観る。
⇒結論:生きる意味は成功や名声にあるのではない。やりたいことをやることにある。
⇒疑問:やりたいことをやれない人はどうすんの?
◇カフカ『城』『変身』を読む。
⇒結論:個人の生きる意味は社会に占める地位(職業、父)を通してしか存在しないよ。
⇒疑問:そんなん辛すぎて死ぬわ。
⇒結論:群体としての人類ならともかく、個体としての人間には生きる意味なんかないよ。
⇒疑問:・・・。
~~この辺で上記の映画・本が前提していた無神論(=キリスト教でないこと)に疑問を持ち始める~~
⇒結論:個人個人の愛が人類全体の罪を贖うんだよ。そこに生きる意味があるんだよ。
⇒おお・・・
⇒結論:金儲けや教育や物書きの才能がある人はそれで後世に遺産を残せる(そこに生きる意味がある)けど、そうでない人も、高潔な生涯を送ればそれ自体が後世への遺産になるんだよ。
⇒(泣)
◇『聖書』を読む。
山上浩嗣『パスカル「パンセ」を楽しむ──名句案内40章』(講談社学術文庫、2016年)を買って読んだ。
パスカルの『パンセ』(これ自体は読んだことない)から、著者の山上さんが気に入った40句を抜粋して解説した本。
抜粋部分は基本的に、パスカルがキリスト教を信仰する中で思いついたことや考えたことが断片的に書いてある。
脈絡のない思いつきがたらたらと書いてあるだけかと思ったら、通読すると何となく山上さんが『パンセ』をどう読んでいるかが見えてきて面白い。
著者や出版社は1日1章読んでもらうことを期待しているようなのだけれど、ライトな読み物なので3時間もあれば読み終わってしまう。
中でも印象的だったのが、「パスカルの賭け」という章だ。
① 人間は、神さまが存在することを証明できないし、逆に存在しないことも証明できない。
② ここでもし神さまが存在するとすれば、人は、死後天国に行けるように、聖書に書かれた高潔な生涯を送る必要がある。
③ 逆にもし神さまが存在しないならば、高潔な生涯を送ることはムダであり、快楽を追及する人生を送るべきである。
④ このことから信仰とは人生を賭けた丁半博打のようなものだと分かる。賭けの帰結は以下の4つ。
(ⅰ) 神さまが存在しない方に賭けて、実際に神さまが存在しなければ(つまり賭けに勝てば)、聖書の教えに縛られない自由な生涯を送った挙句、失うものは何もない。
(ⅱ) 神さまが存在しない方に賭けて、神さまが存在した場合(つまり賭けに負ければ)、自由な生涯は送れるものの、死後、地獄の業火に焼かれ続けることになる。
(ⅲ) 神さまが存在する方に賭けて、実際に神さまが存在すれば(つまり賭けに勝てば)、聖書の教えに縛られた高潔な生涯を送らなければならないが、死後、永遠の幸福を得ることができる。
(ⅳ) 神さまが存在する方に賭けて、神さまが存在しなければ(つまり賭けに負ければ)、聖書の教えに縛られた高潔な生涯を送らなければならない上に、死後、何も得られないこととなる。
⑤ なお、この世に生まれた瞬間から賭けは始まっており、どちらにも賭けないという選択肢はあり得ない。
*ちなみに以上の整理には批判多し。
その上でパスカルは、確率論を駆使して、神さまが存在する方に賭けるべきことを論証していくのだが、結構しょうもない論理でおもしろい。
上と似たようなことを信仰を持ってる人は誰しも考えたことがあるんじゃないかと思うが、パスカルみたいな稀有な天才が似たようなことを考えてるのがまたおもしろい。
今回は思いつきばっか書くので、あんまり本気にしないでください。
日本語の「信じる」「信仰する」という言葉は重いと思っている。
自分の神に対するスタンスは、(本当はいるかどうか良く分からないが)①いてくれたら良いな、②いる方に賭ける、③いてくれなければ困る、という幅で気持ちが揺れ動いている状態だ(その理由は以前書いた)。
「信」という漢字は「人」+「辛」+「口」の組み合わせから成るという説があるらしい。
ここで、「辛」は入れ墨に用いる針の象形で、入れ墨による刑罰を示す。「口」は誓いの文書を表す。
この説によれば、「信」という言葉は「その発言に嘘があれば、受刑することを前提に誓う様」を意味するとのこと。
他方、英語の"believe"は、allow(受け入れる)を意味する"be"と、to hold dear(愛しく思う)を意味する"li"から成るとのこと。
この説によれば、"believe"の意味は「対象を受け入れて愛しく思う」というところか。
これらの説が本当なのか文献を当たってないので分からないが、もし本当ならば英語の方がしっくりくる。
聖書の文言というのは非常に抽象的で、中には矛盾するように読める個所もある。
そのため、人生で直面する問題に対して聖書の規定を適用しようとする際、人によって全く違う結論が導き出されることがある。
このことが顕著に顕れるのが同性愛の問題で、①同性愛は全面的に罪だよ説、②欲求を持つのはOKだけど行為に及ぶのは罪だよ説、③ノンケの人が男色に走るのが罪なだけで生まれながらの同性愛者は罪ではないよ説、等々、バリエーション豊かな議論が展開されている。
(ちなみに自分は、どの説に立つにせよ、自説をもって他人〔同性愛者〕を裁くことは「人を裁くな」〔ルカ伝6-37〕に抵触するのでイカンと思っています)
また実際にも、(a)同性愛を罪と考えて信仰に励む同性愛者、(b)同性愛を罪と考えず積極的に差別と偏見と闘う同性愛者、のどちらも間違いとは言えないだろう。
そうなると聖書解釈というのは単なる主観の表明じゃないのか、客観的に正しい解釈というのはないのか、という疑問が湧いてくる。
この問題を考える際に参考になる議論として、法律学で似たような議論がある。
議論状況は泥沼に陥っている上に難解なのでとても要約なんてできないのだが、論者で議論が一致している点として「裁判官は法律家としての直感で結論を決めており、法解釈はそれを検証・正当化するために用いられる」ということが挙げられる。
このことから、法律家はこの「法律家としての直感」を育てることが肝要であるとよく言われる。
大事なのは「キリスト者としての直感」を、信仰と聖書研究を通じて育てることであり、聖書解釈はその直感を検証・正当化するために用いるものなのではないか。
上述した同性愛の問題でいえば、①同性愛者が直面する問題点、苦悩などをよく勉強したうえで、②キリスト教的な価値観に照らして直感で結論を出し、③それを聖書の規定に照らして検証・正当化する、というプロセスになる。このプロセスを経た結論は、いずれの立場にせよ、聖書的と言える(と勝手に思っている)。
なお、「法律家としての直感」の土台には、無神論と(マルクス主義的な理解における)資本主義がある。
「キリスト者としての直感」の土台には、キリスト教的な価値観(人間は堕落しているという人間観、成功より正義を重んじる姿勢、死後の世界の肯定、愛)がある。
「〔パウロ〕の手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」(ペテロ後書3-16)
「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい」(テモテ後書2-15)
「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」(コリント前書2-14)
#ブコメ返信
・いつもありがとうございます。教理問答買って読んでみます。今は詩篇を読んでいるのですが、終わったらコリント前書も読もうと思います。
最近考えてること。
ロマ書とその注釈を読んでたら、キリスト教ってのは禁欲の宗教ではないとのこと。
どういうことかと言うと、キリスト者は信仰を持ち、聖化していく過程で、自然と風俗やタバコが不要になる(といいなぁ)ということらしい。
つまり、禁止されているからやらないのではなく、必要ないからやらないのだと。
薬物規制に関して、大麻使用を処罰するのはどうなのかなぁと思っていたのだが、上記解釈によればキリスト教の見地に立っても一応大麻解禁は可能ということになりそう。
友達に聖書と科学の矛盾(しているように見えるところ)の話をしてゲラゲラ笑っていたら、「なんでそこまで分かっていて信仰するの?」と聞かれた。
ここで気づいたのだけど、自分の場合、神の存在を信じる ⇒ 聖書の教えを受け入れる、のではないのよね。
自分の今の閉塞的な状況からすると聖書の教えを受け入れるしか幸せになる途がない ⇒ 神の存在を信じざるを得ない、なのよね。
そんなことを考えていたら、内村鑑三も似たようなこと言ってて感動した。
資本の回転プロセスで権利義務関係がどう展開するかを描いた論文で、これのせいで未だに現代の弁護士や法学部生がマル経用語を(知らず知らずのうちに)使っていたりするというもの。
ちょっと前に買って一読したのだけど、手形法の理解が全然ないためにななめ読みして放置してた。
これのせいでマルクス熱が再燃しつつある。
この前増田で勧められた『バガヴァッド・ギーター』を解説書と一緒に読んでる。
読んでていちいち聖書と比較してしまって考え込むので全然進まない。
先日親戚の子供が訪ねてきて、あれは何で、あれは何、としきりに問うてきた。
聖書の詩篇かなんかに、自然を知ることは神を知ること、みたいな教えがあって、そのことからすると、この子らの何でも知りたいという態度はきわめて聖書的なんじゃないかと思って考え込んでしまった。
おわり
※そういや先日書いた増田に、ブログ作って解釈まとめてくれみたいなコメントが付いてたんですが、僕は内村鑑三の全集とマルクス読んで思いついたことを書いてるだけなんで、そっち読んだほうがいいですよ。
#ブコメでのフォローありがとうございます。勉強になります。
#やっとカテゴリ化しました。前からカテゴリ化しろと言ってくださってた方、遅れてすいません。
#さかのぼって読んだらアホみたいなこと書いてて草
「働かざるもの食うべからず」って言葉はよく誤解されるんだが、(1) 元は聖書(テサロニケの信徒への手紙 二:3-10)の言葉で、正確に言えば「働きたくない者は、食べてはならない」って意味だ。(2) その後、この言葉がレーニンによって再解釈され、「働きたくない者」ってのは不労所得で食っていける金持ちのことだ、と言われたりした。
重要なのは、どちらの意味でも「働きたくても働けない者」(あんたのことだな)を含まないってことだ。
だからあんま気になさるな。親父さんは知らんが、神さまは分かってくださる。
それと聖書には「あんま人に期待しすぎるな」っていう教え(ヨブ記全体)もある。
親父さんに期待しすぎると裏切られてこの先ずっとつらい(しお父さんのことが大嫌いになっちゃう)からやめとけ。人間なんてそんなもんだ。
(オナニーはしない)
http://anond.hatelabo.jp/20161028115443
○基本姿勢
聖書に従う。
法律で禁止されていないし自由に吸えばよい。現状の分煙ルール(として大多数が従っているもの)に従えば自由。
ただ、キリスト者であれば、信仰の過程で自然と不要になる(といいなぁ)。
法律に従う。ただ、非処罰化説も有力にあることに配慮する。研究者による検証の結果、受け容れてもよいとなれば別に解禁してもOK。
ただこれもタバコと同様(略
生まれつきLGBTである人、中年になってからLGBTになった人、すべて自由に恋愛してよい(聖書についても同様の解釈を採る)。
同性同士の結婚も認められるべき。現在の制度は一種の違憲状態と見る。
ただし奔放な性生活は諫められるべき(ただこれは異性愛者でも同様)(キリスト者のみ)。
さっき初めて読んだんだけど、めちゃくちゃ感動した。
このお話のラストは、王子が蛇に噛まれて死ぬという、びっくりするオチで終わる。
んでこのオチの解釈を巡ってはさまざまな議論があって、ネットの解説を何個か見ているのだけど、どれもいまいちピンと来ない。
そこで自分で書く。
ネットでよく見る言説。
この説は、聖書の創世記にある「イブが蛇にそそのかされて知恵の実を食べてしまい、楽園を追放される」という話を類推する。
すなわち、王子≒イブ、蛇に噛まれたこと=蛇にそそのかされたこと、と考えるのだ。
そして『星の王子さま』で「楽園」と言えば「子供時代」を意味するであろうから、そこからの「追放」とは「大人になること」であろう、と推測する。
ただこの説の難点は、キリスト教においてイブは罪人であるということだ。この話をどう読んでも、王子が罪人であるというようには読めない。
しかも、『星の王子さま』の主題の一つが徹底した大人に対する批判にあることからすると、王子が大人になってしまうというオチはこのテーマにいかにもそぐわない。
したがって、この説のような読みは不可能ではないにせよ、本作の意義を極めて矮小化するもので、あまり採りたくない。
この説は、お話の全体にちりばめられた聖書的なモチーフに加え、①天から降りてきた王子が②死んで③天に帰るという展開が、福音書に描かれるキリストの生涯に似ていることを指摘する。
確かに指摘された点はキリストに酷似しており(モチーフの1つにしたのは間違いないと思う)、主役≒キリストという構図はいかにもそれらしい。
ただこの説の難点は、王子がキリストであると解したところで「だからどうした」という点がはっきりしないところにある。
聖書においてキリストが処刑されたことの意義は、過去・現在・未来における人類の罪を、神であるキリストが代わりに贖うことにある。
他方、王子は蛇の言葉に騙されて殺される。ここに何かの意義を見出す解釈もあるだろうが、キリストのような贖罪の意味はここにはない。
つまるところこの説を採用すると、ラストに王子が死ぬ意味がよく分からないことになる。なのでこれも採りたくない。
説って書いたけど、いまの俺の理解がこれ。
王子は基本的に生き死にに頓着が無い。砂漠の真ん中で水の最後の一滴が尽きた時、焦る主人公に対して王子は呑気にこんなことを言う。
「友だちがいたっていうのはいいことだよね、たとえもうすぐ死ぬとしても。ぼく、キツネと友だちになれてよかったなあ・・・・・・」
また、王子が蛇に噛まれて死んでしまい、魂が天国に召される際に、追いかけて来る主人公に対してこう言う。
「きちゃだめじゃないか。つらくなっちゃうよ。きっとぼく、死んだみたいに見えると思うけど、でもそうじゃないんだからね・・・・・・」
「わかるでしょう。遠すぎるんだよ。あそこまでこの体を運んではいけない。重すぎるんだよ。」
これらの台詞からうかがえる王子の死生観は、クリスチャンにそれによく似ている。
クリスチャンにとって魂の本籍は天国にあり、地上での体は仮初めの姿に過ぎない。したがって、死は消滅を意味せず、むしろ始まりであると言える。
だから王子は生き死にに頓着がないし、自分の死を悲しむ主人公に対して悲しむことはないと断言できるのだ。
この解釈を採れば、王子の死に対する向き合い方(≒クリスチャンの死に対する向き合い方)が分かることになり、本作のテーマを損なうことなく、王子の死が意義あるものとなる。
なのでこの説を採りたい。
読んでてかなり興奮したのでメモ。
1. 第一部
(1) 主人公ムルソーは、母が死んだ翌日にナンパした女を抱いちゃうような変な男。
(2) そんなムルソーはある日「太陽がまぶしかったから」という理由でアラブ人を拳銃で殺してしまう。
※ここで重要なのは、ムルソーに罪を犯したという意識がないことだ。なぜならアラブ人を殺したのは「太陽のせい」だからだ。
2. 第二部
(3) ムルソーは殺人罪で起訴されるが、彼を救おうと弁護士と牧師がやってくる。
(4) 弁護士は「心証をよくするために嘘を付け」と言い、牧師は「罪を認めて神の救済を受けろ」と言う。
(5) しかしムルソーは、嘘を付くのは嫌だし、そもそも自分は罪人ではない、と言って、いずれの救済も拒否する。
(6) 始まった裁判では、ムルソーの「太陽がまぶしかったから殺した」という言い分を誰も理解できず、経験則に従って彼の行為が理屈付けられていく。
(7) その結果、ムルソーは極悪非道な殺人鬼ということになり、死刑判決が下される。
第一部で描かれる殺人の経緯が、検察官と裁判官による経験則に基づく認定により、全く異なる事実関係に作り替えられてしまうのが見どころ。
ここでムルソーは味方のはずの弁護士にまで「刑を軽くしたければ黙っていろ」と言われ、ものすごい疎外感を感じることになる。
社会のルールに自分を合わせられないことで悲劇に陥るのはカフカの『変身』や『城』と似ている。
ただムルソーはラストで幸福を得る点で、カフカと異なる模様。ただ何でこういう違いが出て来るのか、という点になるとまだよく分からない。
ちなみにネットの感想で、ムルソーの行為は正当防衛、過剰防衛が成立するのではないか、との意見が見られた。
しかし、被害者のアラビア人は匕首を構えただけである上、ムルソーに対して攻撃する意思もあったかどうかよく分からないので、正当防衛ないし過剰防衛は成立しないのでは、と思った。
主人公ロトは、ぜいたくな暮らしがしたくて、都会で恋愛と芸術の街であるソドム市に行った。そこで美人の奥さんをもらって豊かな生活を送った。
しかし神さまが、ソドム市ではびこる拝金主義と淫行にキレて、ソドム市を滅ぼすことを決めた。
ロトは信仰を捨てたわけではなかったので、神さまから事前に「逃げろ」という警告が来た。
ロトは急いで町を出ようとしたが、親戚は冗談だと思って取り合ってくれない。
神さまからの鉄槌(隕石か地震?)が下る直前、ロトは妻と娘だけを連れ出して逃げた。しかし、妻は町に残してきた財産が気がかりとなって、逃げ遅れて死んだ。
ロトは娘だけ連れて逃げ延びたが、再び都会に住む金もなかったため、仕方なく洞窟に住むことになった。
娘たちはソドム市でのただれた淫行の習慣が捨てられず、ロトと近親相姦をした。
おわり。
創世記さぼってヨシュア記とかいうのを読む。罪人居たせいで戦争に負けたわ、とかいう話。聖書の中でも重要性低いぽい。注釈者もどうでもよさそうな感じ。
聖書(創世記)によれば、神はしょっぱなから人間作ったことになっているが、これは動物が徐々に進化して人類が登場したという理解(=進化論)と矛盾しているのでは?という議論があるらしい。
とあるだけで、創造のプロセスについては述べられていない。だから別に矛盾はしないんだ、と書いていた。
あとニーチェがキリスト教のことを「奴隷道徳」と罵っていたが、これに対する反論が『種の起源』にはあると思う(俺が勝手に読み込んでるだけだけど)。
「強くて優れたものが善であり、弱くて劣ったものが悪である」という支配者道徳は、結局のところ動物や植物が支配されている原理だ。
動物や植物が支配されているから、人間もその原理に従わないといけない、という理はないと思う。
むしろ、「支配者の持つ強くて高いという性質は実は憎むべきものであり、弱くて貧しいものへの同情こそが大事なのだ」という奴隷道徳があることは、人間を動物や植物と区別するものとして、称賛されるべきなのではないか、と思った。
それによれば、その辺の雑草なんかも日々熾烈な殺し合いをしているらしい。
その中で生き残った者の性質が子や孫に受け継がれて変異していく、とのこと。
これが正しいとすれば、人間ってのは生物の中で唯一、自由競争原理に疑問を持ち、これに抗う力を持った存在なのかなぁと思った。
キリスト教やマルクス主義が生まれるってのはほんとに人間らしいことなのだろう。
あと聖書的には進化論より、現生人類が少なくとも30万年前ぐらいから居たって事実がやばいらしい。何でかっていうと、最初の人間アダムが生まれたのはどう計算しても1万年前ぐらいだから。
注釈者は、アダムってのは本当の意味で最初の人間ではなく、神の説く理を理解できるほどに成長した「最初の人間」なのだという解説をしていたが、正直苦しいw
最近知人と『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の話になって、「プロテスタンティズムが資本主義に適合していた」って言うけどおかしくね?と思い、その根底にあるという「予定説」を調べようとした次第。
予定説の理解自体さまざまなバリエーションがあるのだが、以下は注釈者(内村鑑三)の理解。
まず予定説というのは、人が、神を信じるか信じないか、救われるか滅びるか、は(その人の意志ではなく)神の意志で決まるという考え方だ。
この理解によれば、キリスト教徒にとって人生のあらゆる出来事は、その人が神を信じ、救われるための設備にすぎない。神は、その人を救済するという目的に向かって事件・経験を人生に配置していくことになる。
ただこの説によると、なぜ日本人は非キリスト教徒が多いのだ、という疑問が生じる。
ここはやや不明確なのだが、キリスト教を信じず、拝金主義・消費主義に堕落してしまった日本人は、神からいったん放置され、神は先に中国・朝鮮に福音を及ぼしたとのこと。
ただ日本人は見捨てられたわけではなく、中国・朝鮮に福音の光が満ちれば、日本にも福音の光が及ぶであろう、とのこと。
この予定説の理解はヨブ記の理解(苦難を通して信仰に至る)にも通ずるなぁ、と思った。神に選ばれて信者になったのだ、という強い自負心も持つことができる。