あの凛々しい眉毛とまなざしとぽってりとしたエロくちびるがたまりませんなwww
いんすたに載せていた皮のピッチリした体のラインがクッキリ見えるライダースーツなぞ吾輩の目が潰れるセクシーさでござりまするwww
落ち着いてきたけど、盛り上がりが収まってきたというより1ジャンルとしてしっかり受け入れられてきた印象
沢山食べても直ちに「命に別状は無い程度の数値」だからと言って、少しでも危険なものが入っている物を自ら好んで積極的に胃に入れたいとは思わない。
ただ、海産物が好きな自分にとって、本当の所はどうなんだろう?と純粋に疑問を抱いている。人権上、そして東北の経済を考慮して、「危険だ」とは言ってはいけないマナーなのだろうか。
正直な所、知りたい。
殴り合いで勝とうとがんばるよりも家に火をつけた方が確実、という発想なんだから合ってるんじゃね?
そうすると言い方は悪いかもしれないけど、女性をある意味障害者みたいに扱うべき、ということになるよね。
車椅子の人を鉄道会社の乗務員が手助けするように、女性にも一定の配慮が必要だってことになる。(鉄道会社が車椅子の人の乗り降りを手伝ってるのは良いことだと思ってるよ)
たしかに、自らの属性によって損してる人たちを同じ場所まで引っ張り上げるべき、という意味では同じだと思う。
男女平等!って人は男女の違い(差)を認めたがらないように感じてたんだけど違うのかな。
「男女平等!」って言う人にもいろいろいて、その中でも実質的な男女の違いを認めたがらない人もいる。でもそれは間違っている。事実、そうではないから。
「女より男のほうが平均知能が高い、だから男のほうがエラい」みたいな短絡思考になるひとがめちゃくちゃ多いから、それが事実だとしてもそういうアレな方向に傾かないような慎重に言葉を選べ、ということだと思う。
単純化すると、
差別してしまうとき、人は理念上の格差と実質上の格差を混同している。
男は強い(実質上の格差)、強いものはエラい、男は女よりエラい(理念上の格差)、というように。
そしてまた、
差別に対抗しようというとき、人は理念上の平等と実質上の平等を混同する。
男女は平等だ(理念上の平等)、平等だから男と女は変わらない、男も女も強さはおんなじだ(実質上の平等)、というように。
理性的に考えればどちらも間違っていて「実質的に生まれ持った格差がある」ということと「理念上は平等でなければならない」は両立するはずなんだけど、うっかりするとどっちかに傾いちゃう。
金曜の二人好きだけどなー
今年が私の精神的に一番成長できた年であろうことは間違いない。他の年に比べて色んなことを経験したし得られたとも思う。
でもなんだかなあ…私が中学生の時に思い描いていた高校2年生とか16歳じゃないっていうか…岡崎京子のマンガかサガンの小説に出てくるようなもっと大人っぽくてカッコイイ女の子になってる予定だったんだけど。
この前も風と共に去りぬを読み始めるもスカーレット・オハラが同い歳だったので、なんだかいたたまれなくなって読むのをやめてしまった。3ヶ月行った留学先の女の子たちは美人ばっかりでとても歳下には見えなかったし、彼女達もそう思えたみたいで1つ上だよって言ったらメチャクチャ驚いてた。
こんな事を考えるのは全然恋愛が充実していないからか?ちょうど2年前の今頃から彼氏はいないし、好きな人もいない。ここで何か凄くいい人(若い時のキアヌかダニエル・クレイグかルトガー・ハウアーに似ているとなお良い 映画と本好きであって欲しい)がパーッと出てこないかなー!!
立憲民主党へのネガキャンが酷い。フォロワーを買っただとか、RTが鍵垢だとか、そういうデマの恐ろしいところは「そうでない」と言い切ることが難しいこと、一旦拡散してしまったら検証しても信じこむ人がいること、やったもの勝ちであること、特に罰則がないことなどだ。
それにしても、なぜこのようなデマが流布されるのだろうか。まずデマを広める人の心理を考えてみよう。彼らは一体どんな動機でデマを広めるのだろうか。それは悪意からである。証明は簡単だ。
悪意がなければ、2chなどの掲示板にいきなり投稿したりはせず、連絡を取ってり、質問サービスなどで聞いてみたりして検証しようとするだろう。なぜならもしも違っていたら大変だからだ。しかし、悪意のある人間は違う。彼らにとってそれらのデマが真実か否かは関係がないのである。彼らに取ってデマを見つけ出すことは「立憲民主党を貶める」という目的のための手段である。ではなぜ彼らが立憲民主党を貶めたいのか?政策が気に入らない?候補者が嫌い?違う。そういう純政治的な問題ではないのだ。彼らはただ単に自分の虚栄心を満たしたいだけなのだ。これは森友学園の籠池氏やアメリカ大統領選挙でトランプを応援し、フェイクニュースを撒き散らしたとされる"Poor White"層と重なる。彼らは自分自身に満足していない。自分に自信が持てない。自分が周囲から認められていないと感じている。そんな人間が取る行動はどこでも同じなのである。まずは自分が所属している組織、例えば人種,国籍,階級, etc...に縋り付く。白人は黒人より優れている、だから自分もあいつらより優れているのだ、だとか日本人だから中国人、韓国人よりも優れているなどと考えてしまう。だがそういう意識は日々の生活の中では中々満たされない。だから彼らは自尊心を満たすために黒人や韓国人、中国人などの悪い所を積極的に探し出してそれを広めようとする。目的が真実の検証と報道である本来のマスメディアと違い、自尊心を満たすことだけが目的の連中だから、それが真実かなどとは毛一本足りとも考えない。要は信じたいから信じてしまうのだ。そうやって自分に自信がない人が一定数に達すると、今度は彼らを利用して金儲けしようとする人々が現れる。彼らは恣意的なタイトルで巧みに人々の正義感や不信感に浸け入り、どんどんとそれらの考え方「だけが」正しいと信じこませ、誘導する。例えば政策にしても、どの政策が正しいかどうかは結局のところ議論して突き合わせてみなければ分からない。どんなやり方にも長所があれば短所もある。相手がなぜそう考えるのか、よく話し合い、互いに納得できる結論を出す場が議会である。だというのに、自民党やネット右翼、オルタナ右翼は「自分たちは絶対だ。だから自分たちは正しいし、他のやつらは間違っている」という考え方になってしまっている。なぜ議論するのか、なぜ反対するのかを理解することすら拒んでいるのだ。そしてそうやって反対する人々に対して「非国民」だとか、「国賊」だとか「反日」だとか呼んで、自分たちの所属している組織から弾き出す。そして彼らを自分たちが卑下している人々と同一視し、排除しなければならないと考える。そうした積極的な排除行動の裏にはどれだけ他人を貶めても自分自身には結局のところいつまで経っても満足なんてできやしないという事実がある。だから今度は人を下げるのではなく、自分を上げようとする。間違った方法で。彼らは自分の地位が低いことを他者の陰謀だと考え、そういった人々を排除すれば自分はもっと他人から認められるのだ、もっと地位が上がるのだと考えてしまう。有名なところではユダヤの陰謀や在日韓国人の陰謀、といったものがある。ユダヤ陰謀論が決してユダヤ人が優れていないという設定ではないことが、黒人差別などと一線を画す。むしろ彼らが自分よりも優れていることを認めた後にそれを無視し、彼らが如何に悪辣非道かといったことにこだわる。相手が悪ならば排除は正当化できるし、自分の不遇も正当化できる。
立憲民主党、それに過去の民主党、民進党へのネガキャンは主にこの2つが原因である。ではこれらをどうすれば良いのか、それは民主主義、立憲主義、人権などについてしっかりと学校や家庭で教えている他はない。もっとも自民党政権でそれは望めないであるが。
二年前の自分。
五年前の自分。
十年前の自分。
どんなことをしてただろう?
思い返そうとしても直ぐには思い出せなくなってきた。
日記でもつけておけばよかったなと思いつつ、今日も僕は会社に出勤した。
ああ、そうだ。
二年前は無駄の多い前職の仕事に辟易し始めて転職活動をし始めたんだったな。
五年前はどうだっただろう?
ここになるともう思い出せない。
新潟県の衆院選で県連のみの推薦になっていることで、前原同様小澤が党を売ったと確信した。
小沢一郎が軟体生物であることはみんな知っていたふりをしていたが、実際に裏切るときにどうしかけてくるか想像が付かなかった。
岩手三区の野党支持者は自民党に入れてでも小沢を落としてほしい。
市民連合新潟は結局のところ、レイシストである森や米山隆一をお膳立てしたナチス擁護の進歩的文化人連以外の何物でもない。
佐々木寛、磯貝潤子、横山久美子らは日本にファシズムを復活させたことに観ての通り何の痛痒も感じていない。
やっと整いました。1区=西村ちなみ、3区=黒岩たかひろ、4区=菊田まきこ、5区=大平えつこ、6区=梅谷まもる、そして、2区の鷲尾(無所属)/五十嵐(共産)両氏もこれまでにない協力関係を模索します。新潟では、すべての選挙区における(「希望の党」抜きの)野党共闘の実現です! pic.twitter.com/ViYG9EOu4h— 佐々木 寛 (@Hiroshi_1966) 2017年10月8日
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刑法は応報であるが死刑が応報なのか、もっと相応しい刑があるのではないか
社会に生きる価値のない人は排除すべきで、それにコストが掛かるのはナンセンスだとは思う
被害者が殺し方を決めるのもありなのかなと思う。
死んで償う、という文化の国のようであるが、それは自らが死ぬという選択肢が行ったことを超える時にしか有効ではなかった選択肢であって死刑とは少し違う気がする
もしくは死刑を選択したくなるような犯罪が普遍的に存在する国だからなのか
としたら、死刑囚を作らないように、なぜその犯罪を犯したのかという本質を改善しないといけないだろう、害虫は排除すべきだが、害虫を作らない社会が必要なのだろう
それは小さいコミュニティなのだろうか、同じ価値観で生きるコミュニティなんだろうか
良い社会とはなんだろうか、儒教的に全員が生きる事であるならば、それは小さいコミュニティなのだろうか、そこから改善は生まれるのだろうか
弱者は寛容的に受け入れるべきだろう、だとしたら、犯罪を犯しているのは弱者ではないのか
社会的弱者、貧困に喘ぐ人が犯罪に手を染めてるのではないだろうか
応報ってのもよくわからない
1000万円が致命傷な人もいれば、どうでもいい人もいるだろう
それは納得
似た者夫婦は好きになれない、違いを受け入れて、違いを活用して、より良いものになる筈だから
どう見てもゴミな奴はいる、そいつらを隔離して勝手にやらせればいいのかな
そこからできる奴が出てくればこっちにくればいいし
それでいい気がする
学歴ではないだろう