はてなキーワード: 再構成とは
ここに書くべきか迷ったものの、書こうと思った。
僕は個人的なサービスを運営していて、スキンケアなど悩みを持った人が相談し合える掲示板みたいなものを運営している。
ただ誰も使っていない...。設計もデザインもイマイチで、かなりニッチな人々が使っている程度で以前から趣味程度で運営している。
少し前にWelq問題があったので、それ以来、数少ないユーザーへ掲示板のように機能していたウチのサービス内の情報でも
素人同士の悩み情報で、自分の悩みや問題を解決しない・本気で参考にしないように利用者に注意を促している。
同時に、第三者が情報を使うことを禁じるために右クリック禁止(コピー禁止)などの処置をしていている。
が最近、ちょっとした問題が起きている...。全く知らないサイト内にて、ウチに投稿された悩みに関する投稿がなぜか再構成されて記事化されている。つまり、一部一部をコピーされて記事化されている。。
問題のサイトは https://hifuka.co/ (Web皮フ科クリニックさん?)。で、気になったので色々調べていたところ、
雇われているライターさんがWeb皮フ科クリニックさんからの依頼に関することをツイートしており、
運営からの指示によって「記事を書くよりも構成している」とツイートしていた。
このライターさんのツイートを見ても、どうやらコピーやキュレーションというものを知らない、リテラシーが低くめな真面目な方なのかな。と..。
で、ここで感じてしまったのが、他社のサイトコンテンツをコピーして記事化することをライターさんに指示し量産させていたWelqだ。
どうやら https://hifuka.co/ はWelq問題があった今でも同じようなことをライターさんに依頼して行なっている可能性がある。
ただ、運営元を調べてみても情報は未掲載で問い合わせる窓口もない。Web皮フ科クリニックのサイトはWordpressで作られていて、有料テーマかどうかは知らないものの
同じWordpressテーマを使っている某大手メディアさんは1つだけ知っている。。
サイト内では「うちはキュレーションメディアではない」と断言しているし、記事は「はるこ先生」という名前でアップロードされている。
ただ、僕の掲示板サイトに投稿された内容が勝手にコンテンツ化されて記事として配信されている。
しかもうちはコピー禁止(右クリック禁止)にしているので、仕事を依頼されているライターさん達が簡単にコピーペーストはできないようにしている。
また、僕の運営する掲示板サイトは悩みを持った人同士が話し合うもの程度のもので、プロの方が載せている悩み解決の情報ではない。
前から思っている.
どこの界隈とは言わんが,一部の閉じた問題や決定論的な問題を解くのに特化したイキリエンジニアさん達ってライブラリがあることを理由に全て簡単だとみなしますよね.
一回くらいirisみたいなトイプロブレムではなく,ちゃんとしたデータ触ってモデル作って見て欲しい.
或いはそのモデリングに必要な数理を自分で追いかけ再構成してみてほしい.
そういうものをすべて軽量言語(LL)なくしてスクラッチできるのか? そうできなければ理解していないのか?
お前たちはイキっているにすぎない,プリミティブなレイヤに魂を奪われて本質が何も見えていない愚か者だ.
まずコスプレのクオリティが結構高い。メイン4人に混じって何故か一人だけ居るコウテイペンギンの衣装がエロいッ!コスプレイヤー出身のAV女優らしい。
ストーリーやカメラワークも結構こっていて、スタッフがちゃんと本編を見て研究したのが分かる。本編の名シーンがAV風に再構成されている。ただチンポスターとかパクリパーク、ベバブとか安直すぎる名称変更はもうちょっと考えて欲しかった。
動物解説コーナーのパロディでなぜかゴローが自分を解説しているんだが、名前の由来がFateの衛宮士郎の捩りだと初めて知った。
フェネックがアライグマの事を「アライちゃん」と呼ぶのはNGにして欲しかったな。同人誌でも「あ、これ描いた奴本編見てないな」って分かると萎えるじゃん?
本音を言えばクオリティの低いボスやセルリアンのコスプレ男優を出すくらいならレズAVにして欲しかったな。続編が出ればベバブ全員や他のフレンズも出して欲しいわ。
JoJoは第4部が失敗だった。
1,2,3は良かったよ。
なんで第4部が失敗したのか原因がはっきりしてる。
能力がややこしい。
1,2は波紋の応用や吸血鬼・柱の男の能力は分かりやすかったと思う。
超パワーとか超スピードとか念写とか炎とか砂とか。
パッとみて分かるのでバトル中に近いできる。
連載でも3部が一番人気だったし妥当だろう。
どうすればスタンド能力が分かりやすく伝わるのか考えるべきだった。
俺にその発想があれば今からでも御意見として投書するけど無いから分からん。
でも何らかの対策はするべきだった。
うしとらに関しては仕方ないと思う。
いや仕方なくないんだけど。
最後までやってくれって原作者が言うならその通りするしかなかったんだろうし。
じゃあ再構成してやれよ。
GATE 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり 炎龍編(第二期)
デュラララ×2 結(第四期)
学戦都市アスタリスク(第二期)
アルスラーン戦記 風塵乱舞(第二期)
文豪ストレイドッグス(第二期)[2]
この素晴らしい世界に祝福を!2(第二期)
終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?
冴えない彼女の育て方♭(第二期)
江戸しぐさが道徳の教科書に載っている。この江戸しぐさというのはざっくり言って嘘だ。そんなものは江戸時代に存在したりしなかった。
でもそれはダメなんだよ。嘘は嘘だと言わないと災禍を招く。
例えば従軍慰安婦。これは嘘だった。でも、戦争の『悪さ』を強調するのにはとても有用な作り話だった。
それが今韓国との間でどうなっているのかはご存じの通りだろう。
日本の良さを強調する話だろうと、日本の悪さを強調する話だろうと、嘘なのに本当のこととして教えてしまうのは非常に問題がある。
なぜなら、それは人々の分断を招くからだ。
私たちには社会というものがあり、自分が知っている社会と他者が知っている社会がある程度同一のもなのだ、ということを前提に私たちはコミュニケーションをとっている。その社会は本当のことをベースに出来上がっていないと、人々の間の社会の同一性を阻害する。
社会に対する認識が違う人同士のコミュニケーションは困難だ。このことは、ある種の宗教を信じてしまった人とのコミュニケーションが困難であることからもわかる。
我々は今、グローバリズムの波にさらされている。それは国際化というだけの話ではなく、今まで違う社会に生きてきた人々が接触し始めるという話だ。つまり、人々のコミュニケーションのベースとなる社会が再構成されつつある。
我々は世界中の人々と対話をするために、ファクトベースの社会を作っていかねばならないのだ。その社会の汎用性を高めるためには、嘘の入る余地など無い。
たとえ嘘でもいい話、などという小さな判断で、これから我々が体験したものよりもさらに大きな社会に出て行く子ども達の未来を閉ざしてはいけない。
今回は少年ジャンプ+
うーん……メタ的に見るなら、アグニとトガタの関係性の再構成と、現状の停滞感を打破するためのきっかけとして機能するのが今回の一件なわけなんだろうけれども。
同じ構図とコマ割りがさすがに多すぎるのがすごく気になる。
同じ構図とコマ割りを繰り返すことで、その場面でのやり取りの無意義さだとか、情感を演出しているといえなくもないんだけれども、それを考慮してなお手抜き感は否めないなあ。
内容もほとんどないしで、前話と今話を纏めた構成にした方がよかったんじゃないだろうか。
一見すると似合ってはいるんだけれども、悪魔の角があるから足し算しすぎ感も出てて絶妙なデザインである。
バイキンマンじみたコスとかを少し前にやっていたが、もしかして今後も着せ替え人形的な扱いをされるって方向性が出来ているんだろうか。
ただ、メムメム自身が色々とアレな性格だから同情する気が起きないという、バランス感覚が心地良い。
でもここまでアレだと一週回って悪魔らしいともいえる。
揚太郎がDJを始めたルーツともいえる人が登場して、話もいよいよ畳みにきているなあと思ったら、なんだか予想外な方向に。
この人が出てくると揚太郎は若干トリップしちゃうのは1話でも演出されていたから超展開ってほどではないんだけれども、いや~これはどうなんだろう。
今回は少年ジャンプ+
トガタのバックボーンに関しては、情報からすると色々な解釈できそうだ。
元は男だったけど何らかの理由で女性の体になった、或いは文字通り脳みそだけ女性の体に移されたのか(ただトガタは再生持ちだし、そんなことが可能かは微妙だけれども)。
人格だとか、魂だとかを入れ替える祝福とかあったりするんだろうか。
それとも長く生きていく過程で記憶のいくつかを忘却した結果、人格が再構成されたのか。
いずれにしろ明らかなのは、本作の一貫したテーマとして「演じる」という側面があるってことか。
メインの登場人物の何人かは、客観性だとか自身の理想を体現させようと「自分」を演じている(それが実際の所はどうであれ)。
場合によっては演じている本人ですらそれに飲み込まれて、自分が演じているのか何が本心なのか自覚がなくなってきている節があること。
このせいで主人公含めて登場人物たちのセリフは信頼しにくくなっていて、まあ叙述トリックというやつなのかな。
今回もさらっと三田のイケメン行動を描写して、そりゃ惚れるわなと思わせつつ。
というか覚えていすぎな上、妙に褒める。
三田にとって、一ノ瀬ってのはかなり特別な存在なのだろうかね。
感心したのは、一ノ瀬の行動を伊達が諌めている場面。
一ノ瀬とは別ベクトルから気にかけていることから、伊達と空勢の関係性が読み取れる。
興味深いのは、一ノ瀬の言動が軽薄だっていう側面を提示したことだよね。
今回はモアイ
第70回ちばてつや賞の受賞作への雑感。
舞台はもちろん、日常まで漫才の延長線上なノリは、テーマをとても意識しており一貫している。
一つ一つのネタ自体は実のところ、そこまで上手くも面白いとは思わないんだけれども、ちゃんと作りこんであるということが伝わってくる出来だと感じた。
テーマ自体が難しい題材でありながら、細かいところでコマ割やフキダシを使い分ける演出は、読者がノリを迷いにくいようする配慮にもなっていて感心した。
主役にセリフがほぼないこともあって、キャラクターをひたすら動かしているだけの描写が多いね。
無口な分、ストーリー上で主役の行動理由を言葉で説明しなくても読者に伝えるために丁寧に見せる工夫は多少あったほうがいいだろうからね。
けれども、個人的には「そんなに丁寧に描かんでも」、「たるいなあ」と思ってしまった。
それで、なお読みかえさないと分かりにくい箇所も多少あるので、演出上必要なことも大事だが、構成上分かりやすいことも大事かなあ。
ちょっと不思議な設定を含ませた話と見せかけて……という構成はいい感じ。
後半に明かされる「てっちゃん」の隠された真実ってのは、それなりに意味も納得できる理屈も提示されているんだけれども、それ以外が舞台装置的かつ必然性も感じないかなあ。
あと、個人的に「おっ」と思ってフックがかかるシーンがなかった。
ほおー、謎の生物の生態を調べ、そこからドラマを紡いでいくというのがいい。
この生物のメカニズムが徐々に紐解かれ、そこから真相が読み解かれる構成が引き込まれる。
ただ、所々入る回想らしきシーンの描写は、演出の工夫は評価したいんだけれども、やや分かりにくいところがあったかなあ。
主人公が四苦八苦したり、赤ん坊とのやり取りがコミカルで楽しい。
読後感もよろしいが、割と肝心な部分を省略したりして解決させているのが気がかりかな。
主人公と赤ん坊との対話が本筋だから、はしょっても問題ないとはいえ、そこに力を入れて描きたいがために、他がやや杜撰な印象も感じた。
あと、異質な設定の赤ん坊であるにも関わらず素性が明確に明かされないままなこともあって、父と子のハートフルストーリーや、主人公の芸能界による再構成物語と本筋がブレていると感じる部分もあった。
キャラクター自体はデザイン含めてさっぱり気味なんだけれども、背景とか細々とした箇所は丁寧に描かれていて全体的に華やか。
心情描写含めて、言葉で説明しすぎなキライがあるのが気がかりかな。
夢か幻想のような状態でとある人物たちの対話シーンがあるのだが、ここは言葉で説明しすぎ問題が特に顕著で、演出力は総じてイマイチ。
あーいう場面こそ丁寧な絵で彩って演出したほうがいいと思うんだけれどもね。
主人公自身のバックボーン、葛藤や、それゆえの問題解決のための言動にも説得力が出ている。
生徒が小学生というのもあるが、小難しい理屈を捏ねずに主人公なりにベストなアンサーにたどり着く過程は無理がなく読後感もよろしい。
強いて言うなら、やや人物相関や設定が読みきりとしては過多に感じたかな(このあたり主人公の言動に説得力を持たせたり、感情移入させる一助になっているので、一概にいらないとはいいにくいが)。
絵が全体的にカタいなあ、ぎこちない。
いや、身もふたもないことをいえば上手くないってことなんだけれども。
題材自体は興味深いんだけれども、作者の力量がそれについてこれていない。
やや荒い絵だけれども、魅せ方を多少理解しているのかボクシングシーンでは熱量が伝わってくる。
ストーリーやセリフ回し含めて、それっぽいことを言って煙に巻いている構成が気になるかなあ。
そこまで一つの作品に長々と感想書いているわけでもないのに、結構時間かかってしまった。
総括としてはレベル高くて、かつジャンルやテーマも多種多様だったかな。
私があんまり直接的に褒めるような感想を書かないからアレだと受け取られているかもしれないけれども、ベクトルこそ違えど総合的にはどれも良かったよ。
まあ今回の中で、私が単純に好きな作品となると『先生失格!』や『海へ還る』かなあ。
大賞が上手いってことは分かるので、それに異議を唱えるつもりはないけれども。
ニュース記事には、著作権が働いています - 毎日新聞社 http://www.mainichi.co.jp/toiawase/chosakuken204.html
念のため指摘しておきますが、東大准教授が軽くチェックしたら露呈するようなコピペ&リライトは単なる剽窃であって、独自表現による「事実」の再構成でもなんでもないと思いますよ。
東大薬学部五十嵐准教授がDeNAのウェルク(Welq)をさくっと検証した結果(シリーズ第3弾) | More Access! More Fun! https://www.landerblue.co.jp/blog/?p=30231
一気に書いた。
結局(一時?)閉鎖に追い込まれたWELQ問題と、キュレーションと、DeNAがやってること。
けど「モラルなき金儲け」の土壌が生まれた背景に、あの外資系が影響しているように思う。外資系企業は、「自国以外の法や心情には無頓着にサービス展開」する傾向はままある。但し、韓国企業の批判ではなく、話の流れとして登場させた。
WELQ問題は2つのポイントがある。一つ目は、場合によっては生死に関わるかもしれない医療情報の問題。そしてもう一つが、前々から一部の人達が不満を抱えている「パクリ」問題だ。こちらのパクリ問題はまだネット業界の一部だけにしか問題視されていない。DeNAとしては何としてもWELQだけの閉鎖で誤魔化したい所だろうが、今やっていることはあまりにも酷い。
の4部構成で書いた。
NAVERといえば大半の人は NAVERまとめ の会社ぐらいの認識だろう。ちょっと知ってる人で LINE を作った会社、さらに詳しい人なら livedoor を買収した会社ぐらいは知っていると思う。
実はこの NAVER は、一度日本に参入したが撤退、その後に再挑戦して今に至る。(※ 以下、社名とサービス名は違うといった話は無視する)
NAVERといえば韓国では圧倒的な存在。日本の Yahoo! と同じような影響度だ。NAVERは過去、2000年頃に日本に参入した。
検索エンジンとしての成果は出せなかったが、NAVERブログの方は予期せぬ注目を浴びる。NAVERブログには他サイトのコンテンツを容易に転載できる機能が実装されていたため、他社サイトの画像などを無断で直リンする「著作権無視」のブログが多数作られ、批判が噴出する。
最近の人は「NAVER厨」という言葉を聞いたことがないと思うが、NAVER厨というのは著作権無視のユーザを批判的に言う表現として使われていた。
参考:NAVER厨
NAVERは2005年頃、メインの検索エンジンがうまく行かず、著作権を無視した韓国の企業というイメージが強くなってしまった事もあり、日本を撤退する。
そしてその2年後ぐらいに、再度日本市場に挑戦。NAVERは韓国国内で生む潤沢な資金があり、しかし韓国は限られた市場であり、日本攻略を是が非でもやりたかったのだと思う。
同じ失敗をしないために、前回の教訓を活かす事にした。韓国色を消すため日本人が経営者であることを打ち出し、他には美人広報を前面に立てるなどして、イメージ戦略を大きく変えた。
そして前回手痛い目にあったもう1つの課題、著作権問題について。
"NAVER厨"として叩かれたイメージを払拭すべく、今度は日本の著作権をよく調べ、法的なリスクを「回避する」方法を見つけ出す。この「回避術」が、今の「インチキなキュレーション」につながってしまったと思うのだ。
(※ NAVERに問題があるという話ではなく、DeNA が酷いことやってるのが現状だと思う)
まず大きなポイントは、日本の著作権の多くは「親告罪」と呼ばれ、著作権侵害の被害者が訴えない限りは告発されないこと。つまり、有名タレントの画像を無断で使ってもその権利者(タレント事務所やタレント本人)から訴えがない限りは、言い逃れできてしまう。
もう一つは「引用」の解釈。Googleの検索結果は著作権の侵害ではなく引用の延長と考えられており、訴えられることがない。現状では、"検索"という体を取り、出典を載せ、参照元へリンクを貼っておけばスリ抜ける事ができてしまう。
他にも、権利を侵害された側がそれを実証する必要があるというルールをうまく使い、権利侵害を訴えるハードルを上げまくったりもしている。「こうした防御壁は今のキュレーションメディアに全て踏襲」されている。
NAVER社はこうしの抜け道を見つけ出し、まずは「著名タレントの画像検索エンジン」を作り出した。検索窓にタレントやグラビアアイドルの名前を入れると、ズラッとグラビア写真などが出てくるサービスである。この画像検索エンジンは、自社でコンテンツを持ってないにも関わらず、NEC子会社サービス(BIGLOBEのこと)にOEM提供するなどの成果をあげる。こうして韓国色を消し日本的な見せ方をするイメージ戦略と、著作権上のグレーゾーンを巧みにつくことによって、そこそこに日本市場に受けいられる事に成功する。
この成果を元に次に生み出したのが NAVERまとめ である。NAVERまとめがどういうサービスかは皆さん知っていると思うので省略する。
こうして、「ユーザが作成し、引用元を書いておけばOK」というキュレーションサービスが生まれる事になった。ここまでが「キュレーション」誕生までの流れである。
話は大きく変わって、nanapiについて。
nanapiは元々、著名投資家のアイデアで、それを古川氏(=けんすう氏)がサービス化していったものだ。当初は 7分でわかるライフレシピ とかいうコンセプトだったと思う。
サービス開始から1年後ぐらいに、コンテンツを増やすための試作としてライター募集を始める。現在は終了してしまったが、nanapiワークスというサービスである。当時のnanapiはいかにして質の高い記事を安価にたくさん作るかが大きな経営課題だったと思う。そのため、ライターに対して、低単価にも関わらず高い要求をしていた。
300円で数千文字、画像などの引用をルール通りに行うなど、たいへんな作業だったことがわかる。
ところが、あることに気づいてしまう。この国には、これだけの低単価と高要求にも関わらず、仕事を請ける人がたくさんいるのだ。そしてSEO対策すれば記事を作れば作るほど、記事作成コストを上回る"流入"があることもわかった。"流入"という表現にしたのは、nanapiは膨大なユーザ数を換金化するために KDDI に売却するという道を取ったので、お金ではなく人の流入という意味である。
こうして nanapi は記事の質を高める方向ではなく、「ライターに安価に記事を量産させるSEO対策サイト」として拡大していく。
「ライターに安価に作らせた記事でも、工夫さえすればSEOが強烈に効いてアクセスが稼げる」ことに気づいた人は他にもいた。
ここでMERYが登場する。MERYはペロリ社が運営する女性向けキュレーションメディアである。現在、このペロリ社はDeNAによって買収され、炎上したWELQを含むキュレーション事業の中核を担っている。
MERYを作り上げた中川綾太郎氏は、けんすう氏と仲が良く、nanapiワークスで記事を量産し始めた頃は2社は歩いてすぐの場所にあった。「ライターに安価に作らせた記事でも、工夫さえすればSEOが強烈に効いてアクセスが稼げる」事を知った中川氏は、記事を量産し、アクセスを順調に伸ばしていく。選んだマーケットがとても良く、1つの記事に多数のアクセスが稼げるようになり、アクセス数は急成長を続けるようになる。
また当時、同じやり方でインテリア関連のメディア iemo を作っていたのが、村田マリ氏である。もちろん、村田氏は上記の方々とは仲が良い。村田氏が凄いのは、DeNA社長の守安氏に iemo を売り込む際に、MERYも抱き合わせた事だろう。iemoの買収価値を上げるため、自社よりアクセス数が圧倒的に多く若い優秀な経営者もセットで売り込むことで、DeNA社はこの2社を数十億で買収する事になる。
参考:iemoやペロリの買収に見る~DeNAが仕掛けるゲーム・メディアの次のビジネス【B Dash Camp】
村田氏はサービスやユーザへの思い入れで事業を興したというより、けんすう氏や中川氏や他の起業家仲間から得たヒントを具現化し、換金化したという感じだろう。例えば、子育てすらも効率重視でアウトソースを活用すると発言しているこちらのインタビューが参考になる。(※ 批判してるわけではない、考え方は人それぞれ)
DeNAが2社を買収するまでは、まだ「一線を越えた」と書かれてしまう状況ではなかった。
参考:DeNAがやってるウェルク(Welq)っていうのが企業としてやってはいけない一線を完全に越えてる件(第1回)
nanapiワークスは、お金を払って記事を作っている事は明らかだった。NAVERまとめも同様に、ユーザに還元することで記事を増やすサービスだ。
しかし、DeNAが買収したMERYとiemoの2社が行っていた「キュレーションメディア」は、実態は、キュレーションとはほど遠い。
記事の大半は、クラウドソーシングを活用して大量に記事を作成している。もちろん、中には一般ユーザが投稿したコンテンツもあるだろう。しかしこの割合は非常に低く、かつ、一般ユーザ投稿記事でSEOが強力に効いている物はほとんどないはずだ。つまりキュレーションサービスと言いながら、実態はコンテンツ作成は外注。記事内容は全て自社でコントロールしており、ややこしいが見方によっては「内製」しているわけだ。
「キュレーション」というを隠れ蓑にすれば、「パクリ問題や記事の質をさほど気にしなくて済む」という発見は nanapi が見つけ出した法則に近い。
こうした背景からDeNAパレットが生まれた。DeNAパレットのページによると「キュレーションメディアプラットフォーム」と書かれている。
当初、キュレーションという言葉が生まれた時に期待されたものは
だったように思う。
しかしDeNAパレットは、NAVERが日本再攻略の際に見つけ出した著作権などの法をすり抜ける「キュレーション」という言葉を都合よく使い、nanapiが発見した「日本には安価に雇えるライターがたくさんいる」ことを組み合わせ、SEOスパム記事を大量に生産するというのが実態だろう。
資本を投下すればそれが回収できる見込みが経った今、スパム記事の量産に邁進している。(やや誇張だが)ユーザのためではなくSEO対策だけしか考えられていないサービスに、月間数千万人ものアクセスが集まるメディアになってしまっている。
DeNA創業者の南場氏が天才と言うほどの経営者である守安氏が、これをわかってないはずはない。モバゲーで急拡大した会社を引き継ぎ、「高成長への高いプレッシャー」があるのだとは思う。
だが、本当に "こんなサービス" を作りたいと思ってやっているのだろうか?
「中の人」は自分達が、ユーザのためのメディアを作っているのではなく、ライターに安価にSEOに記事を量産させているだけのサービスであることは十分にわかっているはずだ。
球団を買収し、任天堂と手を組んだのは、もっと世間に受け入れられる会社にしたいからではないのだろうか?「目指すイメージに見合うサービスを作る会社にする」と宣言することは、株価はプラスに反応してもおかしくない。
DeNAは高学歴で頭が切れる方が多数いる優秀な集団であり、このまま「キューレーション?事業」を閉鎖すること無く「抜け道を見つけ出して」サービス運営を続ける事は可能だろう。しかしそれで得られるお金に比べたら、失うレピュテーション(企業への信頼やイメージ)は計り知れない気がするのだ。これまでに投じたと言われる50億をサンクコストと見て"英断"することで、大きな転機と飛躍につながるようなイメージが沸くのだが、難しい決断だろうか?
参考:Welq(ウェルク)で炎上しているDeNAがこんな事業をしないといけない訳。
と、まあ、部外者が経営方針に口出しするのは余計なお世話ではあるが、これはさておき、今やってることは日本中に大迷惑を撒き散らしているようにしか思えない。
このままゲームで荒稼ぎしたお金を「ライターを安い賃金で買い叩いて、質を問わないスパム記事量産」に投入し続けるような行為は本当に勘弁だ。
例えば現状でも、自分たちが大量投入したコンテンツによって検索結果がどれだけ酷い状況になっているのかは、DeNAの中の人でもわかっているはずだ。むしろ、中の人の方がよくわかっているだろう。
美や健康など、人が切実に悩んでいることやコンプレックスに感じている事は検索数も多く、金儲けの商材としても美味しい。しかし、今や彼らが目をつけたサービスの関連ワードに関してはGoogleの検索結果はほとんど使い物にならなくなってしまった。
DeNAは様々な会社やサービスが見つけ出した「抜け道」と編み出した「手法」を組み合わせ、ガチャで荒稼ぎした「資本」を組み合わせた実に酷い現状が作られつつあるように思う。なぜ同じ国の国民を買い叩いて、質の悪い記事を量産し、検索エンジンを使い物にならなくする行為に邁進しているのか。
もし中の人がお金儲けだけしか考えてないにしても、これ以上、インターネットの検索結果を汚しまくるのは止めて欲しい。
その他、参考にしたページ
WELQの面接で落とされ、その後WELQが炎上して、思うところ
観終わった最初の感想は、漫画『聲の形』が映像化されないことを確信したショックだ。
まず先に断わっておくが私が言いたいことは原作を崇めて原作未読者や映画を馬鹿にするといった内容ではない。
映画製作に携わる人間が『聲の形』をどういったつもりで再構成したのか、
そのせいで映画『聲の形』(以下、映画)しか漫画『聲の形』(以下、漫画)に触れていない多くの人に誤解させてしまったということ、
そしてこの世で漫画『聲の形』が漫画『聲の形』という作品でしか伝えられなかった、他のラブストーリーや青春物語ではできなかったこと…映画からは外されてしまったことについて触れる。
この日記を読んで少しでも漫画に興味を抱いたのなら、漫画にて『聲の形』というコンテンツを全て消化すべきであり、
本当の答えを噛みしめ、確認しなければ作品『聲の形』には全く触れないで人生を終えるといっても過言ではないと言っておこう。
これはステマではない。
なお漫画のネタバレになりかねないよう、これから漫画を読む人間にとって害にならない程度に極力抑えるつもりだ。
これはステマではない(繰り返し)。
そしてあくまでも日記なので読みづらさや誤字脱字などは勘弁してもらいたい。
単純に2時間半に収めるには物理的な無理があったため、大幅にカット、再構成されている。
その点だけでも漫画と映画は全くの別物と言っても差し支えない。
しかしこれは映画1本に収めるという制約上仕方のないことで、これに関しては特に言及するつもりはない。
要は、漫画が伝えたかった要素をコンパクトにして映画で伝えられたらいいだけだからだ。
つまり、私が問題にしているということはその再構成で漫画が伝えなければいけなかったことを大部分が外されているからだ。
制作スタッフは映画を見に来た観客にできるだけ「負の感情」を強く抱かせないように気を使って再構成している。
分かりやすく言うと「なんだよこのクソ鬱映画!!」みたいな感想にならないよう、できるだけイライラ不愉快になるような要素や、
生々しい要素をオミットしている…その商業的にも負になりかねない要素たちだけ、
この映画への梯子が外されて下に蹴落とされている…といったイメージだ。
漫画では読者の心をえぐってくるような要素が宝石箱のように詰め込まれている。
主人公・石田にともすれば殺意を抱かせるだけの強いクズの描写がされており、
小学生時代の石田を無条件に悪だと読者は強く確信でき、そこに同情の余地もなければクラスの手のひら返しにも憤慨するだろう。
映画ではかなりあっさりと流されていて、このせいで不快な思いをだいぶ軽減されているが、
石田の「俺は清算して死ぬべきだ」という気持ちが映画視聴者に軽く受け取られやすくなってしまった、薄っぺらく見られやすくなってしまっている。
漫画の特色として、読者の暗い感情をこういった不快ないじめや生々しい描写で刺激しつつ、
当事者である石田がどうやってそれを乗り越え、まともに生きることはできない、けれど死ぬこともできなくなったところを出発点に歩き出した、
というのが最初の石田と西宮の出会いで、だからこそいじめた本人である自分が友達になろうとするという不条理を進まなければならなくなったという経緯がある。
つまり、最初の死への渇望とその道を閉ざされた石田の心理描写を読者に刷り込ませるためには、
石田の所業が到底擁護できないくらい行き過ぎた描写であることが『聲の形』という作品には不可欠なのだ。
それを見た読者の底にドロドロと横たわりだした感情を燃料にして、出会いが種火となり燃えながら、時には火が消えかけながら、それでも何とか大きくなろうとする炎の様子が、本当の『聲の形』の姿だ。
作品として、「読者(視聴者)の負の感情」が必要なのだが、これは前述したとおり耐性のある人間を選んでしまうため商業的に足かせともなりかねない、
と判断され軽減・外した、というのが制作スタッフが再構成で行ったことだ。
ピンと来ないなら激辛だと食べれないから中辛にした、ということだと思って欲しい。
そのおかげで結果として極力不快要素を外し京アニの作画力とキャラの可愛さで万人が食べれる作品へと変化し、
映画『聲の形』は売れることに邪魔になる重りを捨て去り新品のランニングシューズを履いて走り抜けた。
でもそれは漫画が這いつくばってたどり着いたところとは違うゴールであり、
その漫画がたどったコースとゴールは今後二度と映像化され現実化されないということを確信し、制作の手腕の勝利も同時に確信し、私はショックを受けた。
帰ってレビューに目を通すと、やはり石田の心理描写が把握しきれていなかったり、
障碍者としての西宮の葛藤や苦悩もかなりあっさりされているので重いテーマだったという感想はありつつも、
そこから広がりを感じるような形としての感想が出てこず、実は何も考えさせられてないというのが観察できた。
西宮がなぜ笑い続けなければいけなかったのか、西宮がなぜ思い詰めてしまったのか、
石田も同様になぜ最初に思い詰めて、それでも西宮と違い諦めなかったのかということに説得感を出すためには、
やはり前述した「読者の中に生まれたドロドロとした暗いもの」を燃料にするための不快要素がオミットされたことが原因である。
聾唖の人たちからの意見も、この不快要素オミットのために発生した説明不足、その他ところどころに出てきてしまった脈絡のないように見える行動もこのオミット行為の副作用となっている。
ただ、それは商業的な成功には必要なかったし、事実それで勝利を収めてしまった。
これは作品の特色であってもビジネス上で不利益とみなされたものは無かったことにしていいという資本主義思想に対する芸術・創作の完全敗北と言い換えてもいい。
とにかく大多数に対して理解されやすければ、消化しやすいコンテンツであるならばいくらでも特色を消してしまっていいという姿勢だ。
それに深く静かな絶望を覚えたのは、漫画既読組には少なからずいただろう。
家に帰ったあとそれは視聴した沢山の人のレビューを読んで感じているかもしれない、私みたいに。
一体、映画を見た人の何割が石田と自分を重ねることができたのだろうか。
嫌な汗はかくことができただろうか。
漫画の『聲の形』は、一度死を望んだ石田が自分が行ったことを思い知らされ、なおかつ死ぬという逃げ道すら断たれたことで、
前を向いて、半ば仕方なく、半ばやけくそで行動する・西宮の友達になるというスタートで物語が始まる。
石田のやったことがどれだけ許されないことなのか、また当時の登場人物たちが流され、無力で、愚かで、間違えてきたことが心をえぐられる程度に描かれている。
この最初の導入でしつこいまでに鬱要素をぶっこむことで読者は自分が過去やってしまった罪の意識を思い出し、無意識に石田に重ねる、石田は読者の暗い過去だ。
今風にいうと黒歴史を人物化したキャラクターとしてこれで形作られる。
過去が黒ければ黒いと形をはっきりしてくるキャラクターだ、それは視聴者の闇の色と同じ色をしているからだ。
それをやらなかった映画が石田に対する感情移入がバラバラなのは、つまりは、その黒歴史へのアクセスが不十分になってしまったからだ。
普通、そこまで思い返すほどのトラウマや黒歴史を持つ人間は少ないので、
その場合は石田に代行させて罪の意識を増幅させるためにも石田のやったことは大きく描写されていた方が感情移入のためのパイプを築ける。
そして、死ぬことを閉ざされた石田が、つまりは黒歴史から目を背けずに、常に意識して生きなければいけなくなった「あなた」は、
どうやって生きていけばいいのか、どう周りと接していけばいいのか、取り返しがつかない過去と石田・あなたはどう向き合っていけばいいのか。
石田が黒歴史を貼りつけながら歩き続けるプレイヤーとなり、読者は過去が脅かすことに石田と共にドキドキしながら、辛さを共有しながら、
最初は不快感を感じていたはずの石田・自分に、いつしか何とかしようと奔走する石田を応援しだす。
けれどこれからの西宮・未来は泣かせないように行動することができる。
過去の追跡がどれだけ辛く暗いものなのかが、このテーマを重く受け止めるために必要な手順だ。
ところが、何度もいうがこれをオブラートに包むか削除してしまったため、このテーマが盛大にぼやけてしまった。
漫画では西宮の家庭環境や小学校の教師との再会や映画作り、いてもいなくても一緒だった真柴のちゃんとした存在意義など、
この暗さと前向きにもがく様を描くための要素が何度も繰り返されている。
その最後の結末が、読者のこれからの背中を押す形で終わっている。
生き続ける石田と現実に生きる私たちへの、エールへと繋げられている。
そしてそれが他のラブストーリーにできなかったことで、『聲の形』だけができたことだった。
他のラブストーリーに、何とかしようとして上手くいかずに古傷をえぐらせるような真似をして、
それでも読まざるを得ないという状況にもっていけるだけの能力がない。
「これはどうなってしまうのか?(他人事とは思えない感想)」と思わせるのがこの作品の面白さでもある。
◆
『聲の形』にとって障碍者という要素はいじめの歴史を作るためのただの道具の1つに過ぎず、それが本質ではない。
本質は、変えられない過去と変えられる未来、そして過去を受け入れるというこの3つの要素だ。
消極的に変わらざるを得なかった石田が変えられない西宮を救い、
一緒に変わっていこう、と2人とも前向きになるという完全に内面の話なのだ。
そして変わりたいけど変われなかったという気持ちの重さ、辛さ、ドロドロした暗い時間の積み重ねを描き切ったのが漫画だ。
読んでいる人間が石田の状況に嫌な汗をかき、そして小さくホッとする作品なのだ。
大ヒットをしている。
そう、思った。
映画館で聲の形から心をえぐられることに2時間半耐えられるか悩んだからだった。
ところが実際は、別のことでえぐられるとはそのとき私は思いもしなかった…
写実的で実存感に溢れる流麗な映像と共にかかるThe WHOのMy Generationに、山田尚子監督と京都アニメーションの円熟と"私(達)の時代の話をしているんだ"という監督の高らかな宣言を感じた。
単行本7巻分の原作を2時間にシェイプアップされた映像は、大胆な再構成と説明要素の排除で進行される。
原作で描かれた硝子の主観はほぼほぼ排除されている。硝子は聴覚障害があり、手話と不明瞭な言葉でしかコミュニケーションを取ることが出来ない。
それは劇中でもありのまま描かれ、我々健聴者は彼女が何を言っているのか正確に理解できない。
将也や、その他の登場人物の反応で保管できる部分はあるが、原作のように硝子の視点も用意されておらず、想像の範疇を出ない。(なんとモノローグすらない)
つまり観客は彼女に同化することを構造上許されていないのだ。(これは字幕上映を観ることで考えが変わるかもしれない)
物言えぬ硝子を介して、将也はコミュニケーションを、人の間で生きていくことを学ぶ。
しかし原作で大きく扱われていた周辺登場人物との関係(欺瞞に満ちた映画作り〜かつて失くしたコミュニケーションの復活・その崩壊・硝子による再構築)も排除されている。
将也の成長物語のみに徹底的にフォーカスした結果、将也の成長を促す硝子を含むすべての周辺登場人物へのフォーカスを切り捨てたのだ。
それでは山田尚子監督及び京都アニメーションのスタッフ陣はどのような物語の演出方法を取ったのか?
それは徹底的なリアリズムと情感を託された映像密度と、そこにあるもの以外語らない、という選択だったのだと思う。
ノイジーでインダストリアルな劇伴と静かに喋る将也と物言えぬ硝子。大きなカタルシスを用意するでもなく(物語上には存在するが、ここで挙げるのは演出上のカタルシス)、ただただ丁寧に心の機微は描く。
その役割は言語化されたコミュニケーションが大前提な劇映画では異常なほど、人物(言語)ではなく映像に委ねられている。
象徴的に繰り返し映し出される様々な花のモチーフにも、それぞれ意味があり、雄弁に語る。しかしそこに言語はない。
とても静かな映画だった。
それは聴覚障害・コミュニケーション・少年の成長、という大きな主題を映像化する上でベターな選択だったし、原作モノを再解釈して色を付ける、しかしあくまで原作の範疇から出ることはせず、映像化にあたっての最良の選択だった。
「けいおん!」で見せた山田尚子監督のバケモノ級の構成力がいままさに円熟しているのを感じずには居られなかった。
もちろんその演出を選択できる体力としての京都アニメーションのスタッフの技量があってのこの映画だったと思う。
「響け!ユーフォニアム」で到達点を見せたと思われた、写実的で被写体とキャメラの存在を追求した京都アニメーションのレイアウト〜撮影までの画作りの更なる進化があってこそ、将也の心情に寄り添った雄弁な映像は生まれたのだ。
先週観た「君の名は。」で新海誠が描いていた、印象だけで構成された陳腐で空虚でしかないセンスの欠片もない映像と退屈で死にそうなほど単純なボーイミーツガール、ポストエヴァ世代の終わりなき呪縛を今作は問題外と言わんばかりに完璧に凌駕していた。比較対象が雑魚すぎるきらいもあるが、あらゆる意味で次元が違った。
新海誠に代表されるセカイ系の次世代として2000年代後半に登場した、近景に特化した所謂空気系の旗手として君臨した「けいおん!」は物語の歴史の中でノスタルジックかつアブストラクトなエポック的作品だったが、その監督である山田尚子と京都アニメーションがさらなる次世代を紡ぐ、体制側・システムとしての完成をみたのが今作だったと思う。
オルタナティブとしての物語を自分のストーリーとして受け取る現世代のための物語装置を創りだすシステムとしての京都アニメーション。
圧倒的なクオリティと確実なチョイスで、先陣を切りそれを体現していく山田尚子。恐ろしいことに今回は萌えを武器にもしていないのだ。
派手な爆発も、世界を救う大いなる力も、悩める個人と直結したセカイも、今作の持つ超弩級の冷静さの前では旧態依然とした使い古されたアイデアでしか無かった。
それでも丁寧に丁寧に人の手で作られたアニメーションは、絵が動き、実写以上の実存感を持って我々の心に寄り添い訴えてくる。
同時代に生きられることに感謝し、最大級の賛美を持って新時代の幕開けを向かい入れたいと思った。
必見。
淘汰というものがあらゆる状況に存在する「時空」において、個々の知性の存続においても淘汰というものが機能していることを前提とするのが自然だろう。つまり、前項にて示した「相互補完」への帰結も永続的な存在を視野とした知性間における淘汰の結果とも言える。つまり、「相互補完」による均衡状態の維持こそが、「時空」に存在しうるあらゆる脅威から、知性が自らを護るために不可欠ということだ。そしてこれは限定知性にも当てはまる。ただし、「相互補完」による均衡状態は、「大いなる良」という恒久的な時空間軸の観点から初めて示され得るものであるため、限定知性にとって、自らの境遇がそれに到達するうえで如何なる状態にあるかを見極めるのは困難だ。むしろ限定的時空間の視点において「良」とされる状態が、該当する限定知性にとって最終的に「大いなる良」へと移行出来得る可能性を高める境遇であるとも限らない。つまり、限定的空間における「良」は必ずしも知性における「良」であると定めらるわけではないのだ。そこが、限定知性が自らの行動規範を明確にすることを困難とする。一方、時空間的制限から解放された存在である知性にとっても、限定知性が持つ、特定の時空間に対する「主観的な視点」ならびにそこから得られた知見は、自らの知性を補完するうえで重要なものになる。状況を単に理解すること(即ち「知」の蓄積)と、主体的な立場でそれを体験すること(「経験」の知性への統合)には大いなる差があるからだ。つまり、知性は限定知性がいずれ、その物理的空間から解放され「大いなる良」を達成するためにその他の知性と均衡関係を築き上げることを望んでいると仮定することが妥当だろう。
(結局、この世は競争社会で、だれもが直面しなくちゃいけないものだよね。たぶんそれは、意識をもっているあらゆる存在がそうなんだろうな。とういことで、皆でハッピーになるために、互いに愛し合うっていうのはある意味、生存本能がもたらしたもんなんじゃないかな。ただこれはあくまでも、この世の時間とか制約を超えたセカイを前提とした意味だよね。でも人の世では、それは分かりにくいよね。この世の金持ちや名誉を得た人が天国(極楽浄土?)にいくとも限らないし。ただ、もし人よりも高等な存在がいて、それが時間とかを超えた文明をつくっているのなら、結局、この世界に介入するだろうね。どんな些細な人生でもその体験は、重要ということさ。)
知性は限定知性の限界である時空間からの解放に意義があるという前提で介入する。それは「大いなる良」に向けた相互依存のために不可欠であり、巨大な淘汰という環境において知性自体の存続を維持、反映させるうえでも不可欠であるからだ。一方、限定知性は、自身の物理的個が崩壊すると同時に自らの知性も損失してしまうことが限定された環境下における最大の障害となる。従って、限定知性もこの時空間的制限という限定条件を突破し更に存続できるかはその存在自体にとって文字通り「死活問題」ということが出来る。だが、知性自体が、その存続の最大の条件を「大いなる良」に向けて相互補完であるということしているのであれば、限定知性もその思想及び行動の範疇をそれに準じなければならない。
実際にそこは矛盾に満ちた境界でもある。つまり、限定知性は時空間を極めて限定された中で自己を認識しなければならないのも関わらず、時空間から解放されている条件下の相互補完を
持続的に実現しなければらないからだ。
(時間や空間を飛び越えた神やら仏やらがこの世に介入するときっていうのは結局、みんながハッピーになるため。神やら仏やらがいる天国やら涅槃、霊界やら地獄やらっていうのも
結局は超巨大な競争社会。自然界の弱肉強食なんだろうね。結局、神やら仏やらもすべての生きる人を必要としてるんだよ。人とかも結局、死からは免れない。でもそれをするには
みんなが永遠にハッピーになるために頑張らなきゃ。でもこの頑張るっていうのが、この世だけの見え方ではなくて、神やら仏やらの視点で頑張るっていうのが大変なんだよ。)
知性にとって、あらゆる限定知性の価値は、「大いなる良」に向けて相互補完を実現する名のもとに等価である。ということは、限定知性の思想や行動規範もそれに準じなければならない。知性にとってあらゆる「知」を「経験」として再構成するにはすべての限定知性が不可欠である。一方、限定知性にとっても時空間的制限や制約並びに障害に囚われる事なく
全ての限定知性を等価にとらえ相互の関係性においてその思想と行動規範を維持することが求められる。
(神や仏にとって、どんな人も大好きなんだろうね。そんなことを考えているからハッピーになれる。 幸せに生きるためには、人の経験がどんなものであれ、それらを一つに
して団結することで強くなるわけだから。ということは、どんな人でも人種がちがったり、ちょっと考えていることが違ったり、美人もデブも不細工も、イケメンも、学校の
(つづき)
三ツ目が発射した「超クリック音」を、まともに食らってよろめいたところへ、突進してきたオーシャン・ハチェットに激突されて気絶、水面を漂うゴジラ。象用の麻酔弾を打ち込んだうえ、二艘トロールで回収するG国。
航行不能になった船舶も曳航されていく。無人デバイス2機を帰投させ、落雷機やハイドロメデューサも回収して後を追うオーシャン・ハチェット。海軍巡視艇の乗員を全て救助し、最後尾を勤めるMYキャニー・ロデル。
資源探査用の大型トレーラーが用意され、クレーンで載せられて、ガリバー-in-リリパット状態に縛り付けられるゴジラ。軍用車両に前後を固められ、首都へ向け搬送されていく。
「三ツ目たちとしては、本当は引き渡して欲しいんだよな?」
「随分ものわかりがいいな?」
『ヒトのルールでやってほしい、と』
「……え、何を?」
「は…?」
「ええ~?今、中継してませんよ。嗚呼、しくじったぁ。」
「待ってくれ、それだと俺たちも当事者になるんじゃ?」
「そうだろうな。お誂え向きにも、全員そろっている。」
「シンユウマルもか?」
『協定違反を罰するときは、両方の種族?…の代表がいないとダメ、と言ってます。』
「三ツ目が代表者なのか?」
『既に呼びかけをしている、だそうです。』
「はー。貴方も、こっち来た方が良くない?」
逆叉側に訴訟提起の意向があることは、翌日シー・リカオンの本部からG国へ伝えられた。しかし、G国が原告をやるとしても、ゴジラを被告として認めることは、被告の「不法行為地」が国外であることだけでなく、CBD名古屋議定書でいう遺伝資源にゴジラは該当しない…と解釈する余地が生じる。だから、環境NPOの間では「G国は認めないだろう」という予想が大半であった。それに…
「そもそも、都合が良すぎんだよ。」
何となく馴染めない朝食を頂きながら、シンユウマルの乗員も、この話題に乗ってきていた。港のシー・リカオン達とは離れて、首都のホテルを提供されており、軟禁されていた砲手長たちとも合流していたが、後者のグループは「大使館へ行かなくては」「修理の手配とかあるから」と早々に外出、ホテルの朝食には出てきていない。
「何の都合?大鯱の側は八つ裂きにしたいの我慢してるんだろ?」
「あれは、シー・リカオンが飼い慣らした鯱だろうが。普通そう思うぞ?」
「鯱の言ったふりをして、どうぶつ団が訴訟をしたがってる?何でだ?」
「だから、人間の通り魔とかと同じ扱いにしてやりたいんだろ?」
「なるほどな、ゴジラが鯨だからか。シー・リカオンの都合で訴訟をするというわけだ。」
オーシャン・ハチェットの甲板で、朝食をとっていたシー・リカオン達の間でも。
「でも、確かに。よく考えると、うちとして他に選択肢がないな。いかに暴れたとして野生動物。G国の”財産”を収穫してあげました、というわけにもいくまい。オルカ側の権利主張も無碍にできないしな。」
「でも、この構図まずくありませんか?」と記者。
「なんで?」
「最初から、裁判をしたがっていたのはシー・リカオンだ…という話になりはしないかと。オルカの言うこととは信じられないでしょうから。」
「そうだったんですか?でも、外から見れば一緒でしょ?」
「……」
「………。」
「あれ、急に無口に?何でです?何か、あるんですよね~」
「それはそうと。三ツ目の奴、ええかっこしいじゃねえ?」
「…何でです?」
「若いオルカの素行の悪さ。うちにいるとよく聞くだろ。ちょっとしたギャングみたいだって。あいつらがルールとやらに従ってると思うか?相応の罰をもらってると?絶対そんなことない。」
「他のオルカも、ゴジラの扱いを聞いたら頭にくる奴もいるんじゃね?」
「まあ、そのあたりも含めて人間ぽいところだな…」
「オルカのことはまあ。それより、シンユウマルに感謝の意を示すというのがな…どうなっちゃったの本部は?」
「”ゴジラによるIUU”を協力して阻止した…という理屈らしいぞ。」
「でも、シンユウマルが自ら”囮”になってくれなかったら、捕獲できなかったろうからな。確かに、そのあたりが落としどころだろう。」
シー・リカオンの本部はともかく、MYキャニー・ロデルやオーシャン・ハチェットなど現場側は、G国の目当てが「遺伝資源」の権利であると思っていなかったので、まんまと利用されたのが非常にこたえていて、その点でも裁判をやる方に傾いていた。
意外なことに、G国は裁判を認めるという。
要は、国際社会が納得するまで、ゴジラの処分を控えるということらしい。
三ツ目の側は、個別の傷害事件ではなく、あくまで「国家」として訴訟をすることを主張。「協定」に基づいてゴジラ側に呼びかけを行っているとのこと。
『一ヶ月前からだそうですね』
『今は裁判の場所を伝えるように、あちこちの……ハブ?……に交代で赴いてるとのことですが、まだ接触できてないようです』
「そのまま接触できないと、どうなるんだ?」
『協定では……30日間応答がなければ、代表者抜きでやれるようになってる、と言ってますね』
「ふーん、じゃもうできるのか。」
港にて三ツ目との会見を行うG国大統領。
「貴殿、オルカの国を代表しているというお話ですが、その証拠はありますかな?」
「?…かまわんとも。」
海洋学者が自前のシステムで了承の意を水中音声にした瞬間、見えない影が沖合にすっ飛んでいったような…
「何だ?今の。」「忍者オルカ?」
待たされて苛つき始める大統領。三ツ目に厳しいことを言おうとした瞬間、海面に異変が生じる。無数の三角形が海上でひしめきあっている。鳴き声などはいっさい無く、黒い体に波の音すら黙らされる。静寂が、かえって恐ろしい。
「すごい…数……ですな。」
『ほんの一部、だそうです。公海で待機している者たちの。』
「なんと、EEZの境界がわかると?……まあ、いいでしょう。国連などの見解も同じだといいですな。」
そのころ、大使館へ来たシンユウマル船長から電話で報告を受けている鯨研内では、現場よりも強い危機感が生じていた。
「そんなのはどうでもいい!公海上のことだ。訴えられても、受理しなければいい。」
「では、何が?」
「ゴジラでも鯱でも、訴訟の当事者になれるとなれば…どうなる?」
「あっ……!」
「我々は終わりだよ。すぐにUNCLOS加盟国筋へ働きかけねばなるまい…」
「しかし、あの……ITLOS行きは避けられても、ICJのほうへ来たらどうなるんで…」
「うるさいぃ!!」
結果から言うと、鯨研側の心配は杞憂に終わった。「通訳」である海洋学者が”失踪”したのである。おそらく原因はスキャンダル。シー・リカオンと海洋学者との過去の因縁がネットニュースで「暴露」されたのだ。
金銭のつながり等ではなく、その真逆。大学で研究予算や優秀な学生達を奪われたのどうので、かなり争った過去があり、今でも犬猿の仲だというのだ。
「有名な話だと思ってたんだが…昔のことだからな。」
「知りませんよ。でも、道理で…いくら誘っても、来てくれなかったわけです。」
「というか、よく今まで協力してくれたなあ。」
「うちじゃなくて、”三ツ目に”協力してたんだろ。」
「まあ、オルカ達には、ヒトのシステムなんかなくても、勝手に争ってもらえばいいわけだしな。」
「G国としては、よくないだろ。」
「あっ、そうか。」
当の三ツ目はといえば、人間側へ何ら挨拶もなくスパッと立ち去った。それを知った記者の落胆ぶりは気の毒なほどで……とまあ、色々あったが。シー・リカオンとしても本件から手を引く理由ができたし、G国とは本来の協力関係に戻ろう…という方針になった、そのときであった。
突然。厳重な拘束にも関わらず、自らが縛り付けられていたトレーラーを「背負い投げ」し、丁度観察に来ていた政府要人たちを「ぺちゃんこ」にしてから、ボロボロになった前脚を戦利品よろしく掲げた軍人たちの写真が公表されるまで、12時間ほどを要した。
首都の居住者たちがアップロードする映像から、ゴジラの「足取り」を再構成するのがネット上で流行したが、それで視覚化された被害も恐ろしいものであった。
陸軍からは「意外とあっけなかった」との談話が公表されていたが、炎上する基地を背景に、横転した戦車や、降着装置をまっぷたつにされてつんのめっている航空機の写真などが出ていると、やせ我慢にしか見えない。
後脚にもナイフが仕込まれていたのを見落としていたのでは?武装テロが仕掛けられたのでは?前脚の写真しか公表しないのは、ゴジラの戦闘力に軍事的な価値が生じたためではないか?…と、色々な憶測も呼んだ。
もっとも、環境相が真っ先にトレーラーの下敷きになっており、遺伝資源としての価値を主張する者がG国に居なくなったというのもあるのかもしれない。
三ツ目たちの呼びかけに応じる者が現れなかったというのは、要するに…あれが最後のゴジラなのだろう。
大型種の最後。「協定」の当事者たる種族が消滅した。三ツ目達の引き際は、そういうことなのだろう。そして。
「ゴジラが現れなければ、キラー・ホエール…すなわち逆叉と”話”をする機会もなかったというのも、また真実であろう。」
テンポはとてもいいんだけど、細かいところが気になっちゃって、今一つ嵌れなかった。
まあそうはいっても、正直なところ「原子力(微)生物」ってどんな描写にしたらいいのか想像つかない…。
自分で考えようとすると、「原子力」抜きでエメリッヒ版みたいな「ありそう路線」になってしまう。
↓こんな感じ
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グリーンランドのバイキング居住地の遺跡。逆叉の骨が大量に散らばる中に、奇妙な足跡が発見される。
氷河期の巨獣たちが生き残っていたのか? バイキングは何のために逆叉を、危険を冒してまで捕っていたのか?
…訝る学者達。
(生き物としての逆叉の凄さが語られる)
そのころのカナダ。
逆叉の「聖地」で、鯨類の研究……特に、逆叉の「会話」を傍受・研究してきた海洋学者が、パニックを起こしていた。
「とにかく、様子が尋常じゃないんだ!」
…と、報道記者やDFO、さらにNOAAへ必死にアピールするが、禄にとりあってもらえない。
「減ってるって言うけど、ここから移動したのかもしれないでしょ」
「オルカに迫る危機…って線なら良いと思いますが、”人類への脅威”みたいな言い方は疑問ですね。恐れながら、入れ込みすぎでは?」
しかし、すぐに。「北大西洋では、逆叉の個体数は急速に減少している」との見解を、別の科学者も示す。
明らかに何らかの異変が起きている。学会やNGOなどに緊張が走るなか、さらに身近なところで事件が起きる。海洋娯楽施設「マリナーワールド」のスターである逆叉達が。一匹、また一匹と、痕跡も残さずに飼育プールから「消えて」いってるというではないか。
通報を受け、マリナーワールドに張り込むTV局や警察の目前で。10m以上に及ぶ“何か“が「突入」してきて、最後の逆叉が瞬時に両断される。その様子や、警察のライトに驚いて?凄まじいスピードで逃げる「何か」の不明瞭な映像が放映された。
こいつは一体何だ? いったいどうやって海水導入溝の多段鉄柵を越えているのか? 全世界の注目を集め、前後まっぷたつにされた逆叉や現場の遺留物から、様々な「正体予想」が氾濫する状況に。
そして、報道・学者・環境保護団体「シー・リカオン」などが州軍とともに詰めかけるのをあざ笑うかのように、100km以上南にある別のマリナーワールドが襲撃される。今度は一夜にして12尾の逆叉を全滅させ…たのみならず、施設の大規模な損壊・火災に行方不明者を出す事態。
「KWK、ヒトの味を覚えたか?」
騒動が大きくなって、最初の海洋学者に再びスポットがあたるが…。
「頭おかしくなっていたんだ、きっとそうだ…だって、ありえないんだ!」
「どういうことです、あなたは何を見たんです?」
「うぁあっ…勘弁してくれ!」
今度は、西南アフリカ…。とあるマグロ密漁船が、環境保護団体シー・リカオンのIUU監視阻止船「MYキャニー・ロデル」からの逃走中に突然、沈み始めたのである。余りに速く沈んでいき、誰も浮かび上がってこない。
マリナーワールドからは余りに遠く、KWKと結びつける材料もなかったので、現地国家「G国」海軍に対鑑武装を疑われるMYキャニー・ロデルの乗組員たち。調査で乗り込んできた軍人たちの目前で、軍艦のほうが襲われる。船尾の舵が壊されたのち、水中から飛び出して甲板に跳び乗ってきた”それ”は、あの特徴的な背鰭と禍々しい皮膚を備えていた。
「あれは?…あの、KWKじゃないのか?……しかも、脚があるぞ!」
軍人達は銃撃を浴びせるが殆ど利いてない。シー・リカオン側の船長は、とっさにMYキャニー・ロデルの封印装備…「爆発電気銛」を使い、KWKを追い払う。そうこの船は、嘗てノルウェーの捕鯨船だったのだ。シー・リカオンとして決して使ってはならない装備を……苦悩する船長。
そのころ、マリナーワールドの遺留品を調査していた学者達は驚くべき事実を突き止めていた。DNA解析によれば、KWKに最も近縁な生き物は、鯨類だというのである!
(昔は鯨にも脚や頸があった、現世の鯨類からン万年前に分岐した…などの蘊蓄が語られる)
「KWKの正体は鯨類と判明。即ち、キラー・ホエール・キラー・ホエール!」
「ゴンドウ・クジラ類にもっとも近いとされたことから、米NOAAは”ゴジラ”と命名。」
「遺留物の分析から、ゴジラの表皮や背鰭には鯨類が放つ声…音波を吸収ないし散乱させる性質があると判明した。つまり、逆叉はゴジラの待ち伏せを探知することができない。おそらくはソナーも…」
「ゴジラは待ち伏せ型の捕食者であり、ゼロダッシュの加速は凄まじいものがある。」
「頭部の唾液腺のような器官からは、着火性のある炭化水素類を噴出できると思われる…!」
「あのとき私が見たのは、陸へ打ち上げられるオルカ…を追って、このゴジラも上がってきて。オルカをあの後脚で押さえつけて、前足から飛び出したナイフで……おおぉお!」
さて当のG国では、EEZ内でも出没するゴジラに正規の漁船が入漁を見合わせるなど損失が拡大、洒落にならなくなってきた。他国の組織からの介入を強く牽制するが、ゴジラに対応できる改装を行うこともままならない。
一方、シー・リカオンに対しては、G海軍と密漁対策で連携していた経緯から、またKWKが野生動物と判明したことから、G国政府はさらなる協力を求めてくる。
しかし、結果的にせよ”鯨類”に銛を向けてしまったMYキャニー・ロデルは、船長も乗組員も動揺が激しく、身動きがとれない状態であった。
一方。
極東の「鯨類研究所」は、ゴジラを”害鯨”と認定、「調査捕鯨に乗り出す」と公表。インド洋上の目視採集船「シンユウマル」が、喜望峰を回って大西洋に入る。衛星の合成開口レーダーで同船の動きを追うシー・リカオン。シンユウマルは、かつて南氷洋で調査母船シンニチマルとともに、MYキャニー・ロデルを挟み撃ちにして、癒えない傷を追わせた仇敵である。
しかし。G国が箝口令を強いているため、シンユウマルは、ゴジラがどうやって軍艦を航行不能に陥れているか知らない。
そんな中でG国は、シー・リカオンの新造IUU阻止高速船「オーシャン・ハチェット」の派遣を正式に要請した。
「ゴジラはヒトを”密漁”しているのです。それで十分ではないでしょうか? それに、貴団体の新造鑑には色々”特殊な装備”があると伺います。殺処分なら時間をかければ私達でも、あるいはシンユウマルでもできるかもしれませんが…」
実は、G国は。ゴジラを公海などへ追い出してシンユウマルにしとめられるよりも、EEZ内で”確保”するのが望ましいと考えていた。
CBD名古屋議定書に基づき、ゴジラを”遺伝資源”として研究・収益化をもくろむであろうグローバル企業達を呼び寄せ「公正かつ衡平な利益配分」を受けられる、「ゴジラ遺伝資源ライセンサー」としての地位を確固たるものにするのだ。米国などで確保した断片程度の”遺伝資源”よりも、生きているほうが価値が高い。そのためにもシー・リカオンは利用できる、と。
そんなG国の本音を知らないまま。G国沖EEZへと急ぐオーシャン・ハチェットは、ゴジラ「捕獲」の任務を果たせるのか?
その少し後。
G国沖、公海上に停泊するシンユウマルを後目に、海軍のヘリに先導され、EEZへ入ることを許されたオーシャン・ハチェットであったが……そのあとを巨大な影が追ってきた。シー・リカオン側がそれに気づいたのは、G国の港湾に入った後であった。
もう、ゴジラに追われていた?…身構える乗組員。既に接岸していた同船が、回頭できなくなるほど近くまで、巨体が寄ってきている。
しかし、「ピヨオウアッ!」…という鳴き声で甲板の緊張が解け、興奮へと変わった。
「オルカだよ!本当に大きい…すごい…」
それは20mにもなるかという巨大な逆叉。シー・リカオン等では、通常の逆叉が子供サイズに見える望遠写真で有名な個体だ。頭頂部にも、目の後ろのアイパッチと似た白い紋様があるため、「三ツ目」というコードが与えられている。
「三ツ目が、一頭だけ?」
「南から、シンユウマルを追ってか?あいつら、オルカの群に何かしたのか?」
北から来たオーシャン・ハチェットについてきた筈はないから、ある意味当然の発想であったが。レーダーの履歴は、シンユウマルが脇目もふらずにやって来たことを示していた。
「やたらとアピールするな…」
「野生のオルカが一頭で港へ来て、こういうのって…とっても珍しいですよね」
「やっぱり、ゴジラのことじゃないですか?」
最後の質問をしたのは、同船に同乗していた記者である。既にG国のモバイル通信網を経由して、映像の送信を開始していた。
そのわずか5分後。記者のスマホに着信があった。例の海洋学者からである。
『三ツ目が来てますよね?』
『これ、見せられますか?』
海洋学者は、G国検閲済みゴジラ画像のプリントを抱えている。甲板に大型ディスプレイが引き出され、大写しにして、色を少しずつ調整していくと…
「パアアアアアアア!!!」と、すごい大声。
「ほんとかよ。」
「ほら、そうでしょう?」
『発音や解析の環境も一式用意していますので、画像を併用すればある程度通じるかと』
「え、ここでやるの?」
港へ出てきたG国政府の面々も、この状況に驚いたものの。三ツ目がゴジラと接触したがっていることを、すぐ納得した。
『”わたしが囮をやる”と言ってますね…戦闘態勢に入ったオルカには手出ししてこないから、と。』
「何だ、古馴染みなのか?」
『大昔からのつきあいで、協定のようなものがあるそうです。それを破ったのだと。』
「あれだけ狼藉働けば、そうだろう…というか異種間のコミュニケーション、初めてじゃないんだ?」
『北のオルカはエコロケーションに頼りすぎ、だそうです。』
こんな感じで。ディスプレイの中から、図版を沢山抱えた海洋学者が色々言うのに、誰もが半信半疑になりつつ。ともかく大逆叉の意向にそって「作戦」を組み立てることになった。
翌日。MYキャニー・ロデルが舷側に大布を吊し、そこに仮病の三ツ目を「収納」して、囮の役割を担う。かなり距離をとって、「ゴジラ対策」を施したオーシャン・ハチェットと海軍の巡視艇2隻が追っていく。誘いを掛けるために、三ツ目は自らの血液までも提供した。
ゴジラは巡視艇の後方から現れた。急拵えの「枠」に阻まれて舵を壊せなかったものの、舷側に前脚を掛けて甲板に飛び乗ってきて、自重でロールを抑える。もう一隻のほうの甲板に軍人達が現れ、速度を落として併走しながら銃撃を加え始める。ゴジラは音もなく跳躍するが、足場になった側の船は強烈にロールしてひっくり返った。
ゴジラは、もう一隻の舳先に「着地」したかと思うと、そのまま海へ走り抜ける。その反動で急激な回頭が生じ、底を見せた一隻目に激突。軍人達も海に落ち、海軍は脱落を余儀なくされた。
「あれ、助けなくていいのですか?」と記者。
「ある意味、予想通りだろう。後方から救助が来るので、こちらは海岸に沿って遠ざかった方がいい。」
『もう外してくれ、だそうです。』
三ツ目の鼻先、海上すれすれにあるディスプレイの中で海洋学者が「通訳」した。一旦リリースすれば、意志疎通は難しくなるだろう。
「き、来たぞ…?…来たぞォオ!!」
三ツ目の巨体が音もなく沈み、MYキャニー・ロデルの起こした波だけが広がっていく。
「どうなりましたか?」
「あれ…?」
三ツ目の役割は疲れさせるだけ、の筈だが。水中で決着がついてしまったのか?…と全員が思い始めたとき、もつれあった巨大な塊が海面から飛び出したのは…
「あんな後ろで!」
「というか、さっきの軍のほうに向かってる?」
オーシャン・ハチェットは、搭載の無人デバイス類を離鑑させていたが、標的に「無視」されてしまったので回頭を始めていた。
「三ツ目に戻ってくるよう伝えられないか?」
「もう無理だろう」
「こっちに誘導してくれないと、まずいぞ?」
実際、流され続ける巡視艇は公海に近づいていた。ゴジラはその「障害物」を巧みに利用して、三ツ目と渡り合っている様子である。巡視艇の乗員は救命具でひとかたまりになって、二体の闘争から距離をとっていた。
そして、それを観測しているのはシー・リカオンだけではない。「調査」と書かれたブルーグレーの船体に白いブリッヂ……軍艦じみた奇妙な船の操舵室でも、どよめきが広がっていた。
「わざわざ足場を作ってあげてるとは…」
「何とやりあってるんだ、ゴジラさんは?」
「あれ、鯱じゃないか?」
「上を飛んでいるのは何だ?どうぶつ団の連中のか?」
既に公海上であり、シンユウマルが接近していた。乗員達があわただしく動き、捕鯨砲の準備を行っている。
その鑑影を見て、シー・リカオン側に殺気が走った。
「キャッチャーボート接近。シン……ユウ……マル……あれは"シンユウマル"だ!」
「こっちくんな、ポーチャー。」
「雷落としてやれ!」
オーシャン・ハチェットから操られる飛行ドローン「フリゲートバード」は上空で落雷装置を吊り下げたまま、ゴジラの疲れを待っている。同じく潜水ドローン「バスケットスター」も特殊装備「ハイドロメデューサ」を解放するチャンスを伺っていたが、目まぐるしく移り変わる二体の戦いに手を出す隙がない。
そこへ、速度を上げたシンユウマルが突進してきた。
「ああ、下がってくれ!」
「無理だ!手を出すなぁ!」
…と、若干芝居がかった嘆き声が響きわたるMYキャニー・ロデル船内。公海に出たので、例の記者がTV中継を開始したためだ。シンユウマルへの罵声は(なるべく)控えている。
「いやぁ、下がりませんとも。」
「情報戦だなあ。うちも南アに寄って記者でも乗せればよかったかな?」
「よしましょうよ。」
…と、余裕を見せるシンユウマル側では、少し前に”クーデター”が起きていた。
共倒れを狙い待機する方針を打ち出した砲手長が、大逆叉に畏敬の念を抱いていることを、若手の乗員達に見抜かれたのだ。
鯨研の「情報戦」に晒されて育った世代にとって、鯨類へ「食品」や「天然資源」以上の評価を与えようとするのは許し難い裏切りであった。
そして「鯱」はある意味、シー・リカオンの象徴であった。この状況は、シー・リカオンが逆叉を操っているようにも、逆叉がシー・リカオンを操っているようにも見える。
ゴジラと大逆叉。どちらに銛が刺さっても別に問題はなかろう?…この方針に反対する「年寄り」達は、船底の一室に軟禁されることとなった。
迷いの無くなったシンユウマルが急速に二体へ接近する。三ツ目は深度をとっているのか、ゴジラはひっくり返った巡視艇の側で小休止している。
絶好のチャンスに食らいつこうとするシンユウマルは、ゴジラを挑発しようと高度を下げていたフリゲートバードの直下に入ってしまい、軽く「落雷」を食らってしまう。落ちた先がライトニング・ロッドではなかったため、諸々のシステムが停止し行動不能になったところをゴジラに襲われ、舵を破壊されてしまうシンユウマル。
「いや、チャンスだ……シンユウマルの向こう側へ”手”を掛けようとする筈。急げ!」
これまでのゴジラの船舶襲撃パターンから、先を読んだ指示が乱れ飛ぶ。水中ドローンから無数の「浮き袋」が密集状態で放たれた。膨らみながら急速に浮上していく。ゴジラ側の選択肢を制限し、空中ドローンの「雷」を当てやすくするのだ。しかし…この状況では、またシンユウマルの側へ落ちるかもしれない。
しかも、ゴジラは先程の「落雷」をちゃんと見ていた。舷側から上がろうとせず、上方を警戒して、すぐ潜行しようとする。そこにハイドロメデューサが、相互に繋がった無数の「浮き袋」が浮き上がってきた。このまま押し上げられるとまずい…そう判断したのか、ゴジラはシンユウマルを蹴って距離をとろうとした。
「今だ。」「落雷機、投下ァ!!」
フリゲートバードは、ゴジラの進行方向をふさぐように落雷機を落下させる。着水間際に相当なショックが走る筈…しかしその所要時間を見切り、逆に加速するゴジラ。
「全速かけろ!ハチェット!」
「嗚呼これは…間に合わない…」
「光った!落ちたのか?」
「ゴジラ、頭を出したぞ!」
「畜生…」
MYキャニー・ロデルに広がる落胆の呻き声は、途中から歓喜の驚きに変わる。
「あそこ、三ツ目が!」
「痺れてるな…うまく泳げてない」
「ぶちあてろ…ハチェット!!」
三ツ目が発射した「超クリック音」を
今回はとなりのヤングジャンプ
「メシ顔」って、シンプルだけれどもいいネーミングだな。
そして、メシ顔なんてしたことないからピンとこないが、マジで美味しかったらオーバーリアクションする暇すらないのか。
でもまあ、漫画的な過剰演出だといわれればそれまでだけど、ああいうのが苦手な人も一定数はいると思うんだよね。
というより、最近WEBコミックでも食べ物系の漫画が多くて、私としては演出以前にそういう漫画自体が食傷気味というか。
あ、ちなみに本作は別にグルメ漫画でも何でもなくギャグ漫画です。
メッタメタな要素から再構成したものっていうのも手垢まみれとはいえ、主役がちゃんと活き活きしているので面白い部類かと。
シンマンの一つ目。
アクション部分が誰が何をやっているかが分かりにくかったり、コマ割があまり上手くないのが気になったかな。
まあ、でもシンマンって連載をかけていることもあってそれなりに水準は高いから、他サイトとかのと比べると十分なレベルではあるけれども。
ほぉ、こういう遠まわしな感じもちゃんと描けるんだな。
会話だけでキャラのバックボーンとかも匂わせたりとか、侮れないな。
残りのは、良くも悪くもいつも通りな感じだったので特に言うことなし。
前話から、展開含めて柿崎くんには失笑気味だが、更にネタを提供してくれるか。
やたらとカッコつけた言い回ししているけれど、その実やることが小物だし、いい歳してこじらせまくっているとか。
んでもって、主人公のアウェイ感であったまってきたところで、案の定の展開。
なんか、ここまでやって負けたら、柿崎くん惨めすぎるのだが立ち直れるのだろうか。
「この世にある全てのこども向けは大人がつくってるんだぞ」っていうのは確かにその通りなのだが、子供向けという意識で作られている以上イコール大人が楽しめる作品かまた別の話だろう。
いや、「これ、大人じゃなきゃ分からんだろ」みたいなネタが子供向けにも関わらずあったりするし、オモチャとかのそういう関連商品に金を払うのも大人ではあるのだけれども、そんなキッパリ開き直った言い方するのもどうなのよ(笑)。
子ども限定の来場特典目当てに、近所の子どもダシに使う浩次にいさんと、厚意を存分に利用する秀くんのふてぶてしさに不覚にも笑ってしまった。
ホッテントリメーカーで作るような煽りタイトルって、みなさんもう見飽きてると思うんですよね。
今調べたらホッテントリメーカー2008年だそうで。どうりでねー。古臭いなーと思いましたよー。
「一から学ぶJava」ってのをね、1.0にするだけでこんなに素敵なタイトルになるんだから面白いですねー。
タイトルを思いついただけだったんですけど、思いついたらやっぱりちゃんと中身も書かないと行けないじゃないですか。やだー
面倒くさいんですけどね。ちょっと1.0から学んでみましょうか。
Javaの1.0がリリースされたのは1996年1月23日ですね。発表されたのが1995年5月23日でJavaの誕生日といった場合にどちらを取るかで揉めることがあります。
かれこれ20年前なわけで、当時のパソコンというとハードウェアはCPU が Pentium 133MHz メモリ16M とかそんな感じだったかなあ。今どきの携帯電話の例としてiPhone 6sを挙げるとCPUが1.85GHz メモリ 2G ってんだから凄いですね。OSは1995年11月23日にリリースされたWindows95とかそんな時代背景です。インターネットがようやく一般に普及し始めたところでしょうか。
今から思うと相当弱いハードウェアですけども、そろそろVM方式を採用しても良さそうな、そんな時代でした。インタープリタだと流石に遅い、でもC言語のようなコンパイル言語だと"Write once, run anywhere"とはいかない、という判断もあったのだろうと思います。Javaが純粋なオブジェクト指向言語ではなくintなどのプリミティブ型を持つというのは、当時のマシンスペックを考えた場合、ある程度妥当な判断だったと言えるでしょう。これが後々苦しくなってくるわけなのですが。
Javaを作った会社はSun Microsystems(サン・マイクロシステムズ)というアメリカの会社で、2010年1月27日にオラクルにより吸収合併され今はありません。SolarisというOSとSPARCプロセッサでUNIXサーバーの販売で90年代後半までは一人勝ちのような状況だったと聞きます。当時にすでに「ネットワークこそがコンピュータ」(The Network is the Computer)というモットーを掲げてたんだからおかしい。1996年リリースのJavaが標準でネットワーク機能を備えていたのもこのあたりの思想から来ているのかもしれませんね。
当時のプログラミング言語としてC++が挙げられますが、C++でのプログラマへの負担といいますか、ヒューマンエラーの起きやすさといいますか、その辺を改善する目的で開発されたのがJavaだったわけです。
1996年の時点にこんな言語が登場したのですから革新的でした。
いろんな企業がJavaに賛同します。その中にはMicrosoftもありました。この時期、Microsoftは次期のWindows開発用のプラットフォームにJavaを据えようと考えていました。その後、袂を分かつことになるのですが……。
プログラム言語として構文などを見ると、C++を強く意識した構文なのは間違いなく、しかしポインタ演算を廃してポインタを機能を限定した「参照」に置き換えるなど簡素化が多く見られます。C++からはいろんな機能が削られています。関数ポインタ、構造体、演算子オーバーロード、テンプレート((テンプレートについては実装が間に合わなかったという話を聞きます))などなど。そのためC++の劣化であるように揶揄する人もいますが、こうしたものを捨てて言語仕様を比較的小さくシンプルに抑えた点は評価に値すると思います。しかし、今でもこうした削減された機能を愛する人からはJavaを腐す要素として挙げられてしまうのでした。
Wikipediaからピックアップすると1.1での大きな機能追加は
といったところです。当初よりJavaの内部文字コードはUnicodeで文字を表すchar型は16bitで設計されていました。Unicodeは当時それほど普及しておらず、Unicode対応のテキストエディタさえ少なかったと記憶しています。時代を先取りしていると言えますが、大きな誤算はUnicodeが当初16bitのコードポイントに世界のあらゆる文字を格納しようとしていたことで、漢字圏の我々からすると16bit=65,536程度の空間に文字が全部入るわけないだろ!というものだったが故に早々に破綻し、Unicodeは21bitのコードポイントに拡張されることになるのです。これはまた後の話。
なんにせよ、日本語が対応されたのは1.1からで、日本でのJavaの採用が始まったのはこの頃からと言えましょう。
当時のJavaのGUIはAWTというものでしたが、これを用いたGUIの開発は当時は結構行われていたイメージですね。Visual BASIC でGUIを作るプロダクトも結構あったと思います。GUIのためのオブジェクト指向言語としてJavaが使われていたイメージがありますね。JavaBeansもそのための仕様でした。件のsetter/getterの話題に繋がっていくのですが。
JDBCはJavaとデータベースをつなぐインターフェースです。RMIではあるJava VMから別のJava VMにオブジェクトを送って実行する、といったことができます。こうした機能が用意されたことで、ソフトウェアのフロントとしてのGUI、裏方の実装のためのネットワーク機能、データベース機能、さらにはソフトウェアを配布するためのJava Appletという布陣でJavaでのソフトウェア開発が加速していた時代といえます。
Microsoft Visual J++ もこの時代ですよ。
Java 1.1以降のバージョンのものは互換性確認のためにOracle Java Archiveからダウンロードすることができ、今でも入手することができます。もちろん、Java7ですら2015年4月にEOL(End of Life,サポート終了)となっているので、通常利用するのはJava8としてください(本稿執筆時点)。
当時のドキュメントを見るのも一興です。現在と比べると標準APIがかなり小さい。なお、当時のjavadocは今とはデザインが大きく異なります。
この時代であれば、全パッケージを舐めて標準APIを学ぶこともそう難しくはありませんでした。この時代から触っている人間は新バージョンが出るたびに増えるAPIを順に学んでいけたのです。しかし、現代にJavaを学ぶ場合、どのバージョンでは何があって……というのをいちいち学ぶ必要はほぼありません。Java5以前は一緒くたでいいと思いますし、一部のAPIで歴史的経緯があってねーというのを知っていればおそらく十分ではないでしょうか。
strictfpキーワードは浮動小数点演算をやる人は覚えておきましょう。JavaはパフォーマンスのためにCPUの浮動小数点演算を扱うことが許されており、そのため実行するCPUによって精度が異なることがあるんですね。まあ今時のCPUだと大丈夫だとは思うんですが。
リフレクション機能ではJavaのクラスを抽象的に扱うことができます。設定ファイルに書かれたクラス名のclassをロードして実行する……みたいなことができるんですね。フレームワーク的なものを作る場合には多用することになります。
1.2からは新しいGUIのSwingが採用されました。AWTがOSごとのGUIパーツを用いていたためデザインに違いがあったのに対し、Swingでは統一的なルック・アンド・フィールが用いられるようになりました。まぁ今ならJavaFXを使うのが良いと思います。
初期のJavaはやはりVM方式の実行速度の遅さが指摘されていました。実行時の構文解析を伴わないだけインタープリタよりは早いものの、実行バイナリを作るC/C++よりは遅い、そうした評価です。ここではサン・マイクロシステムズのVMにJIT(ジャストインタイムコンパイラ)が乗ったことが挙げられていますが、JIT自体は別の会社が先駆けて開発していたことは記しておきたいと思います。
JITコンパイラは実行時にJavaのバイトコードを環境のネイティブコードにコンパイルして動かす技術です。この後、JITコンパイラ、動的再コンパイル技術、世代別ガベージコレクションを備えたHotspotといった様にJavaVMは進化していきます。現代では実行時の最適化が進み、大きなスケールで見た場合、Javaの実行速度はC/C++での実装と比べてそれほど遅れるものではありません。遅くても倍の時間は掛からない程度といったところでしょうか。
あとは特記すべきはコレクションフレームワークです。皆が多用しているであろうjava.util.Listやjava.util.Mapといったライブラリが整備されたのがこの時なのです。それ以前はjava.util.Vectorやjava.util.Hachtableというクラスが可変長配列の機能を一手に担っていました。今ではVectorやHashtableは使うべきではありません。
Java の開発はSun Microsystems が主導していたけども、すべてがSunのものだったというわけでもなく。Javaには多くの会社が出資していてその中のひとつがMicrosoftだったわけですね。
Microsoft の Visual J++ では delegate とか独自機能拡張もありましたけど、裁判で問題になったのは J++ でコンパイルしたclassファイルはMicrosoftのVMでしか動かないという部分ですね(他社製のVMで動くclassファイルを作ることもできる)。classファイルがどこのVMでも動くの大事だろ、"Write once, run anywhere"だろ、お前何してくれてんの!と喧嘩になったわけです。当時のMicrosoftはブラウザまわりでも独自拡張がやりたい放題、標準規格?なにそれ美味しいの?みたいなスタンスをあちこちで見せていたものです。
結局、この事件でMicrosoftのJavaはバージョン1.1相当でストップ。好き勝手にやれないなら独自に言語作るわーとばかりに.NET フレームワークと C# といった方向に舵を取ります。
JavaがPC上でのUI開発の主力になろうとした勢いはここで潰えます。
Java SE とは別にこの時代に Java EEがリリースされていることは特記しておきたいですね。これ以後、それまでのCGIに取って代わって、JavaはWebサービスの開発のプラットフォームとして多用されるようになります。
2000年あたりからはJavaはGUI開発というよりは、Webサービスの開発が主流という流れになっていきます。インターネットのサービスが非常に発達していった時代、背後ではとてつもない量のJavaのプログラムが支えていたわけです。ただまあ、こうした産業利用は一般的なユーザーの目にはあまり入らないわけです。一般人からすればJavaといえばJava Appletみたいなイメージはずっと残っていたでしょうが、実体としてはJavaといえばServletという時代になっていたわけです。
企業で用いられる社内システムにもServletは多く採用されました。
理由はいろいろ挙げれると思うのですが
というのが大きな理由だろうと思います。JSPというテンプレートエンジンを用いてHTMLを整形してWebページを作り出す、というアーキテクチャはある意味では便利で簡単でした。
もっともHTMLの表現力に足を引きずられるため、GUIの機能性という点では後退したわけなのですが。それでもメリットが大きいと判断されたのでしょう。というか、まともにGUIを組めるプログラマがほとんどいないから、GUIのシステム開発がなかなか成功しないってのもあったんでしょうけどね。
2000年あたりというと携帯電話の普及も取り上げなければなりません。現代のスマホ、ガラケーに比べれば非常に機能は貧弱で、まさに携帯「電話」でした。要するに電話とメールぐらいしかできなかったんですね。
そこにdocomoのiアプリ、Jフォン(ボーダフォンを経て現ソフトバンク)のJavaアプリ、auのEZアプリという携帯電話上でちょっとしたアプリが動くよ!というのが乗るようになってきたんです。これがJavaを組込み用途にコンパクトにしたJava MEというものが土台となっていて(正確にはiアプリはちょっと違う)Servletと並ぶJava言語の大きなもうひとつの領域となっていました。
iアプリは当初は容量が10k byteまでといった制約があり、容量制限が非常に厳しかったのですが、新機種が出るたびに容量は緩和されていきました。
docomoはiアプリ含めiモードによって一世を風靡します。こうした土台を作ると、その上で商売をしたい人がたくさんやってきて、勝手にコンテンツを作ってくれる。docomoはそれらから手数料を取るので労せずして大金を稼げるというわけです。賭場の胴元というわけです。
この賭場が、将来にAppleのiPhone, GoogleのAndroidに荒らされることになります。docomoがなかなかiPhoneを出さなかったのもiモードという自前の賭場を失うことを良しとしなかったためです。金づるを失ったdocomoはSamsungと組んで独自の携帯向けOSであるTizenの開発に乗り出します。そんなTizenですが鳴かず飛ばず。噂ではインドあたりではリリースされたとか、なんとか。
話を2001年に戻しましょう。
Microsoft離反でGUIのプラットフォームとしてのJavaというものは存在感を弱めていました。この分野の復権に寄与したのはJava 1.4 (2002年2月6日)で導入されたJava Web Startです。
Java Appletがブラウザ埋め込みで動作したのに対し、Java Web Startではブラウザから起動しつつも独立したアプリとして起動するのです。
Webシステムが企業の社内システムに採用された話は先に述べたとおりですが、やはりWebシステムのGUIというのはHTMLに引きずられて貧弱だったんですね。
端的に言えば入力値が数字かどうか?みたいなチェックがなかなか難しい。HTML上でJavaScriptでやるわけなんですが、なかなか気持よく入力できるような感じにはならなかったんですね。
また、Ajaxによるブラウザのページ遷移を伴わない通信というのが出てきたのも2005年ぐらいなので、入力値に対してサーバ問い合わせするようなことはできなかった。当時だと一旦画面遷移させないとできなかったわけです。
こうした事情から、クライアントサイド、要するにPC側でもっとリッチなUIが使いたい!という要望があったわけです。Webシステム使いにくい!という不満の噴出と言ってもいい。そこで出てきたのがRIA (Rich Internet Applications)というわけです。
Javaは1.0時代のAppletからそうですが、ネットワークを介して別のPCにプログラムを送り込み、そこで動作させるという能力を持っていました。それこそまさにRIAに求められる機能性だったわけですね。
RIAの代表とされるのは
あたりです。三つ巴の戦い、どこに軍配が上がるのか!?と注目されましたが、勝利したのはHTML / JavaScriptでした。
Google MAP で注目を浴びたAjax技術、それまでブラウザでは不可能と思われていた高級なGUIをHTML / JavaScriptで実現させました。もうやめて欲しいですよね。せっかく脱ブラウザの流れが来たと思ったのにまたWebシステムに逆戻りですよ。
RIAが失速した理由として考慮して置かなければいけないのはスマートフォンの台頭です。RIAでは端末を選ばずどこでも同じアプリが動かせる点がポイントのひとつでしたが、スマートフォンではそうは行かない。"Write once, run anywhere"を破壊したのはスマートフォンだったというわけです。
しかし、先日インストールなしでアプリを実行するAndroid Instant Appsが発表されたりしまして、結局RIAの思想といいますか、要求というのは今でも息づいているのだなと思った次第です。
1.3 / 1.4 では機能追加はあっても言語構文が大きく変わることはありませんでした。大きく変わったのはJava 5です。この時からバージョニングが変わって1.5ではなく5と表記されるようになりました。
Java5の特徴はなんといってもジェネリクス。それまでjava.util.Listにデータを出し入れするのにはキャストが必須だったわけですが、ようやくキャストから開放され型の安全度がぐっと高まりました。その他に以下のような変更があります。
言語としては随分変わっったわけですが、もうかれこれ10年以上前のことですからこれらの機能が「Java5から導入された」という知識は今となってはあまり必要とされません。これらの機能が使えないJava 1.4で開発をする事案が殆ど無いからです。0ではないのが悲しいところではありますが。
Java 6 (2006年12月11日)がリリースされた後、Java 7 (2011年7月28日) が出るまでJavaは停滞してしまいます。その間にSun Microsystemsという会社がなくなってしまったためです。
Sun Microsystems の経営状況が悪化しており、ついに身売りをすることになりました。身売り先はIBMともGoogleとも噂されましたが結局2010年1月27日にオラクルに吸収合併されました。
Javaの停滞中にはJava VM上で動く非Java言語も台頭してきました。Scalaなどですね。
やや戻って2007年にAndroidが発表されます。Androidの開発言語にはJavaが採用されていますが、実行環境はJava VMではなく、ライセンス的な事情でJava(TM)は名乗らない微妙な位置関係にあります。
Java 5 以降で大きく言語仕様に手が入るのは Java 8 (2014年3月18日)です。並列処理を行うためのStream APIと、そのために簡易に関数を定義するためのラムダ式が導入された点が大きいですね。日付APIも刷新されました。
このように、Javaは1.1の黄金時代から今に至るまで利用ジャンルを転戦しながら産業の土台となって支えてきた歴史があります。ジャンルの趨勢により浮き沈みもあります。今後についても決して楽観視はできないでしょう。Javaを学ぶことはプログラミングを学ぶステップとしては意義はあると思いますが、Javaを学べばゴールというわけではありません。プログラム言語も次世代へと移りつつあります。業界動向には注視していきましょう。
名作駄作問題作など問わず、なんとなくみんなに見てほしいものを挙げていく。
この映画の話で盛り上がりたいって感じのノリで。
TVシリーズの劇場版とかもあるので単体で見て面白いかとかもあまり気にしてないので御承知を。
寝たきり老人・高沢喜十郎はある日突然最新型介護ロボット「Z-001号機」のモニターに選ばれ、ボランティアで介護を行っていた看護学校生の晴子はお役御免となるが、介護ロボットに全てを世話される喜十郎をかわいそうに思い、彼の救出を決意する。ところが介護ロボットが暴走をし始めて……。
という高齢化社会を痛烈に批判したSF作品……かと思いきや、作品自体は完全なるコメディで、見ていて超楽しい。
大友克洋がメカニックデザイン、江口寿史がキャラクターデザインという豪華なコンビで、作画的にも沖浦啓之、今敏、黄瀬和哉、井上俊之、鶴巻和哉、本田雄、森本晃司、大友克洋、中澤一登、松本憲生……と挙げきれないほど有名なアニメーターが参加していて、クレジットだけで作画オタクはご飯3杯は余裕である。
江口寿史によるキャラクターがとてもよく、まず主人公の晴子がめちゃくちゃかわいい。そして元気な老人たちの存在感、さらには晴子の友達の絶妙なブサイクさ。
80分という時間も絶妙で、気軽に見てほしい。社会問題を扱いながらも妙に心が温まる不思議な作品。
いわずと知れた夭折の天才・今敏監督作品。彼の監督したアニメ映画は4つしかなく、1日あれば容易くファンを名乗れるのですぐツタヤで借りてファンになりましょう。
彼の映画はどれもが90分前後という上映時間でありながら、非常に濃い。
その中でも東京ゴッドファーザーズは視聴後の多幸感にかけてはピカイチで、一番エンターテインメントとしてわかりやすい作品と言えるかもしれない。
次々と転がり込む御都合主義のような幸運。これが気持ちいいのだ。
メインキャストを務める江守徹、梅垣義明、岡本綾といったメンツも、非常にいい仕事をしている。
近年では四畳半神話大系やピンポンなどの監督で有名な湯浅政明の初監督作品。初監督でありながら、文化庁メディア芸術祭でハウルの動く城、イノセンス、スチームボーイをおさえて大賞を手にした。
何よりすごいのは映像で、イマジネーションに溢れたその映像はどんな言葉よりも説得力がある。
後に著作・四畳半神話大系が湯浅監督によってアニメ化されることになる森見登美彦氏も、「迫力でちょっと怖がった」そうである。
最初はその独特な世界に戸惑うかもしれないが、終盤の脱出シーンを見ればもはや何も文句は言えまい。
説明不要のうる星やつら劇場版。押井守監督の最高傑作として名前が挙がることも多い。
映画としての評価は大変に高いが、これがうる星やつらなのかといわれると、別の何かなのかもしれないという感じがしてくる。
お祭りのわちゃわちゃの中に、不意に違和感を感じさせるものが入ってきて異世界に入り込んでしまったようになる。そういう描写がたまらなく好きである。
意味がなさそうでありそうな、哲学的な長セリフも本作の特徴で、言葉にできない不思議な魅力が詰まっている。
宮崎吾朗の才能を信じてもいいかもしれない、と感じさせてくれた一作。ジブリファンも本人もどうしても宮崎駿の影を追ってしまわざるを得ない環境の中、よくこれを作った。
そもそも脚本に宮崎駿が参加しているし、プロデューサーも鈴木敏夫だし、どう考えても往年のジブリ作品の系統として作られたのは間違いない。
おそらくは宮崎吾朗が制作を完全に仕切っていたわけではないのだろう。しかし、映画の端々には宮崎吾朗の味が感じ取れる気がするのでこの映画は何かすごい好きである。
カルチェラタンの描写には明らかに押井守の影響が感じ取れるしね。
『ローニャ』国際エミー賞子どもアニメーション部門受賞おめでとうございます。
眉村卓の小説『ねらわれた学園』を原作としたほぼオリジナルのアニメ。
原作のSFっぽい感じは薄まっているが、逆に薄めたことでSF的な部分がわかりにくくなった。
『あいうら』『灰と幻想のグリムガル』でおなじみの監督:中村亮介、キャラデザ:細居美恵子のコンビと言えば映像目的だけで見たくなる人もいるだろう。
ふとももに注目せよ。まずはそれだけでいい。
健康的なフェティシズムに溢れたキャラクターと美麗な映像を堪能あれ。
ポニーキャニオンが開催したアニメ化大賞という賞で大賞を受賞した『D.backup』を原案にしたオリジナルアニメ。
原案の拡張性ある世界観と、(おそらくは)予算的にギリギリだった1時間という枠と、とにかくキャラクターのかわいさを押し出したいポニーキャニオンと、映像の美しさを追求したい石浜真史監督とが相乗効果を生んだような生んでいないような作品。
序盤はありがちな魔法少女的なSF作品かと思うかもしれないが、終盤には急展開が続き、頭が追いつかない。
それもそのはず、脚本の志茂文彦によれば、映画の後半部分はほとんどコンテ段階で監督が構成したものらしいのだ。
序盤の丁寧な世界観説明と比べて、終盤がややこしいのは、監督がセリフに落とさず映像に込めた部分が多かったからなのである。
さらに、後のトークイベントでは、コンテにすら描かれず、スタッフにしか伝えられていない裏設定が大量にあることが明かされ、「偏差値70のアニメ」との烙印が押された。
監督:舛成孝二、脚本:倉田英之、キャラデザ:石浜真史という『R・O・D』トリオで制作された劇場アニメ。
舛成・倉田は『かみちゅ!』というTVアニメを手掛けていて、劇場公開に合わせてNHKBSでかみちゅ!が再放送されたりBDが発売されたりした。
黒沢ともよの声優デビュー作品でもある。当時はまだ子役であった。
夏休みの子供向け映画といった趣であったが、子供に136分は明らかに長すぎる。ある程度のアニメファンならばこの尺は耐えられるし、楽しめるだろうと思われる。
作画がぶっ飛び過ぎていて、作画的にはスペースダンディ劇場版とでもいうべきレベルである。
そして、主人公の少女の健康的なエロさがなんとなくにじみ出ていて、制作者はロリコンなのか?という疑惑が湧いてこないこともない。
海外の映画祭に出品されたりして、結構アニプレックスが期待していたのが窺えるが、やはりなかなか商業的には上手くいかなかったようだ。
上映時間の長さや、超新星爆発についての描写などの細かい部分を除けば、十分に面白い作品であるといえる。
3時間弱。長い。が、しかし、エンドレスエイトを経験したファンの不安を一掃するほどの高クオリティでアニメ化された作品である。
それまでの京アニの集大成といってもいい。内容については特に言うことはない。
けいおん!で注目された山田尚子監督によるオリジナルTVアニメ『たまこまーけっと』の劇場版。
『たまこまーけっと』ではいまいちヒットせず微妙な評価に留まっていたが、これが公開されるとたちまち好評となり、文化庁メディア芸術祭アニメーション部門では新人賞を受賞した。
TVシリーズは、舞台となる「うさぎ山商店街」の絶妙で温かな空気感を楽しむ作品であったが、本作ではわかりやすくラブストーリーにしたことで、デートムービーとしても見られる非常に間口の広い作品となった。
どちらの方が良かったとかではなく、単なる魅力の伝わりやすさの違いである。
とはいえ『たまこラブストーリー』は卓越した作品であり、山田尚子の代表作として語り継がれるのは間違いないと思われる。
『イヴの時間』などで知られる吉浦康裕監督作品。彼の作品の特徴は何といっても「発想」にあると思う。
独特の間も特徴ではあるが、基本的に彼の作品はある「ギミック」が作品の根本となっていることが多い。
なので、下手に前情報を入れて見に行くよりは、何も知らずに見て新鮮な驚きを感じた方が良い。
この作品もあるギミックが重要なのでそこを面白いと思うかどうか、そこが評価の分かれ目である。
つい先日無期限の休養を発表したヤマカンこと山本寛監督の、いわずと知れたアイドルアニメである。
彼についての悪評やバッシングは絶えないが、個人的には彼の作品は好きである。
この『Wake Up, Girls!』というシリーズは、まずTVシリーズの前日譚として『七人のアイドル』という中編映画があり、続いてTVシリーズ全12話、そして続劇場版の中編2作といった流れである。
TVシリーズ放映時は緊迫したスケジュールによる作画の乱れで物議を醸したが(BDでは修正された)、続劇場版(特に前篇)では非常によく動く。
このまま彼がアニメ制作の現場に戻らないとすれば本作が彼の遺作となってしまうが、遺作の呼び名に恥じない出来の作品であるということは声高に主張したい。
「ハイパーリンク」と称してキャラクターの中の人のパーソナリティや実際の出来事を反映する手法の効果は、続劇場版で見事に結実した。
アニメの創作性と現実の偶然性が合わさってとても気持ちの良いサクセスストーリーになっているのだ。
後篇の『Beyond the Bottom』は田中秀和による同名の主題歌も相まって、非常に神々しい輝きを放っている。
神前暁も「これを超える曲をこの先作るのは大変」と太鼓判を打った。
アニメ界の王子、イクニこと幾原邦彦が初めて監督を務めた劇場作品である。
この時点から彼の演劇的な作品づくりの手法は発揮されている。
庵野秀明は映画館で本作を3度も観たらしく、緒方恵美が演じた衛の少年時代の声を聴いて『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ役に抜擢したというのは有名な話である。
TVシリーズの再構成ではなく、全く新しい解釈で制作されたオリジナル作品。
作画的な制約もあったTVシリーズと比べ、かなり大胆に脚色され、より過激となった映像美はまさに唯一無二。
突き抜けすぎて、終盤の車のところでは何が何だか分からなくなってポカンとしてしまう人も少なくないという。
「王子」こと及川光博がゲスト声優として出演しているのもポイント。
『京騒戯画』『血界戦線』などで知られる東映アニメーション出身の気鋭の演出家・松本理恵の監督デビュー作品。当時25歳。
『ハトプリ』はプリキュアシリーズでも人気の高い作品のひとつだが、この劇場版も非常に人気が高い。
パリを舞台にしていて、OPでのスタッフクレジットが背景に溶け込んでいる演出の時点で何かが違うぞと感じさせる。
メインキャラクターのTVシリーズでの成長・感情の変化をきちんと物語に取り入れつつ、本作オリジナルキャラクターであるオリヴィエとサラマンダー伯爵の切ない関係を描き、多くの視聴者の胸を打った。
『劇場版アイカツ!』でなくてなぜこれを挙げるのか、疑問にお思いだろう。
というのも、私は熱心な『アイカツ!』フリークで、アイカツ!を見始めたのなら劇場版アイカツ!を見るのはもはや自然な流れで、あえて挙げることではないという認識でいるからだ。
ということで、あえてアイカツ!を見る入り口として薦めるのであれば、CGステージをかき集めたこれが良いだろうと思い、挙げた次第である。
アイカツ!の楽曲のジャンルの幅広さ、CGステージでの綿密に練られたカメラワーク、そしてアイカツ!という作品世界の持つ空気感を少しでも感じてくれれば後は言うことはない。
少女向けアニメの最高傑作との呼び声も高い『カードキャプターさくら』、その集大成となる第2弾劇場作品。
ラストシーンでは年齢性別問わず多くのお友達をキュン死させ、多くの大きなお友達はそのままゾンビとなった。
ポケモンの映画といえばミュウツーの逆襲だったり水の都の護神を挙げる人が多いが、私はこの作品を挙げる。
70分という短さに詰め込まれた「家族愛」というテーマは、子供よりもむしろ親の方に深く響いたことだろう。
当時劇場で見てリザードンに興奮した子供たちも、今改めてみればまた別の感動を味わうに違いないはず。
テレビアニメ『楽しいムーミン一家』の劇場版であるが、本作はテレビアニメの前日譚となるエピソードの映画化である。
『楽しいムーミン一家』はもっと語られていい傑作アニメであり、本作ももっと多くの人に知られて欲しい。(旧ムーミンのファンには申し訳ないが……)
子安武人演じるスナフキンによるシュールな悪口が聴けるのもこの作品。
いわずと知れた名作『ルパン三世 カリオストロの城』と同じ1979年に公開されたアニメ映画である。
実はこの年の邦画の配給収入で1位を獲得している。
70年代を生きたアニメファンにとっては有名も有名だが、今では知名度はカリオストロよりも低くなってしまっていて、金曜ロードショー恐るべしといった感じである。
エンディングに流れるゴダイゴのあの有名な主題歌を聴いた時、あなたはきっと涙を流しているはず。
90分弱に詰め込まれた圧倒的な熱量!THE出崎統!
世界はもっと出崎統を評価せよ。
BD・DVDがプレミア化し、配信・レンタルでも見られなかった傑作が、ようやく今年BDの再発売によって見やすくなった。
7月22日発売です。
フィードバックのない生産活動など、ただの消費で徒労と同じだ。
宝くじは徒労を、射幸性によって麻酔させることで消費に向かせる。あれは麻薬の類だ。
わらえないのが、優れた詐欺組織のオフィスとうまく回っている普通のオフィスは良く似ていて、
その日の仕事で得た課題点と成果を分析し、翌日以降の業務を改善していくシステムができているという事だ。
大きな企業や安定した大人数で動く業務は、ノルマさえこなせば仕事が回るから
問題点は改善されず、放置され、惰性のまま進み何か大きな不祥事やトラブルが起こるまで続いていく。
彼女は幼いころから金持ちからお金を騙し取る事を社会正義だと教わり、
飢えは不当に不労所得を持つ金持ちが悪いと教わり続けた。学校にも満足に通えず、新聞配達で糊口を凌ぐ日々。
義務教育を終えると、ふとしたきっかけでオレオレ詐欺のオフィスに就職することになった。
中卒で未成年の労働者を雇ってくれる場所なんて、限られた場所しかなかった。
オレオレ詐欺のオフィスは、トイレの壁に社長自身で考えた標語や過去の偉人や社長の座右の銘が貼り付けられてて、
どこにでもあるテンプレートのようなぎらついたベンチャーのオフィスだったそうだ。
ねずみ小僧を教科書に、彼女は上司の言われたとおりにオレオレ詐欺をこなしていく。
あの頃はオレオレ詐欺が出始めのころでオレオレバブルというべき入れ食い状態だったのだ。
給料は出来高制で、詐欺の金額の何パーセントかが彼女のフトコロに入った。
ある程度組織化されたところだと、ノルマ制で固定給+インセンティブみたいな会社もあったらしい。
アイディアを練った詐欺の成功による報酬という甘露が、彼女の思想を容(かたち)作り。
詐欺の失敗による飢えという鞭が、富裕層への憎しみとなり彼女の考えを堅めていく。
失敗が先か、成功が後か。成功が先か失敗が後か、どちらが最初だったかなんてわからない程に
成功と失敗を繰り返し、彼女はオレオレ詐欺の構成員になっていった。
一般的なコールセンター同様に離職率も高く、今ほど専業化されておらず、
騙す老人や親に田舎においてきた家族を思い出し辞めるような善良な小市民も少なくなかった。
しかし、彼女は愛するべき家族はいなかったからして、騙す相手にかける情など生まれはしなかった。
基本詐欺師なんてのは、みすぼらしい自分をエリートに飾りたい人間がやるか、
頭が回るやつだが、学歴や前科の都合で正規の頭脳労働ができなくてやるものだと相場が決まっている。
二人で一つのツーストロークサイクルする行為にふけりつつ私はそんな相手の人生のことを考えた。
性行為というのが相手を思いやる快楽行為であるのであれば、私は相手から教えてもらった記憶を再構成して
考えてやることにしている。それは虚実混じてて、あるいは誇張があるかもしれない。
思い出とは苦しさでゆがむし、辛い経験や誇らしい経験だけが強調されていく。
そういうものから最小二乗法のようにその中に隠された法則性というか事実を想像するのが好きなのだ。
彼女は元詐欺師だというから、すべてがウソかもしれない。そもそも元詐欺師という話すらウソかもしれない。
そうなると元の話すら信用できない。もしかすると彼女は作家なのかもしれない。彼女のほんとうは何一つわからない。
つかみかかれば折れそうな細い鎖骨。手に収まる触りやすい胸、白い肌、整った目鼻、狐みたいに切れ長で意志の強そうな目。
人の顔は無表情でないと本当に醜い。整った顔立ちの彼女ですらこんな顔になるのかと、新しい発見が出来る。
美人のAV女優だって行為のときの顔はみんな似たような顔をしているようなものだ。
潔癖な親友は人が恋人にだけ見せるあのゆがんだ顔が許せないくらい嫌いなのだという。
人形のように美しい顔は人形のようにあるべきだという。彼はマグロが大好きだった。
相手になったつもりで考えれば考えるほど、自分がわからなくなってきた。それでも体は熱く、心臓は激しく脈打っている。
快楽が強く顔がゆがむくらい痛い。寒い日に肌が突っ張って古傷が痛むのに似ている。
彼女は何を考えているのだろうか。