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はてなブックマーク - アライグマ、安易に飼い「流血の日々」 次第に見せた「野生の顔」 それでも手放さなかった8年10カ月(withnews) - Yahoo!ニュース
b:id:BigHopeClasic ラスカルが野生化するところって、頭から抜け落ちているのではなく単に最後まで見てないだけだと思う/あとは雪国でソリを曳く大型犬を考えなしに熱帯で飼う蓄主とかな。
b:id:crode ラスカルは最後まで見れば「アライグマは最初可愛いけど飼えない」という事をちゃんと教えてくれるんだが、最後まで見ないといけないからなあ…2時間ぐらいのスペシャルに再構成して放映したほうがいいのかも。
b:id:wasarasan 凶暴化して次第に飼えなくなる、そして森に捨てる。無闇に野生動物を飼うもんじゃないよ、というむしろ啓蒙のアニメだったんか。それが逆効果になっているところにメディアとマーケティングの怖さを感じるね。
b:id:young_land こういう問題は繰り返し起きるね。みんなお願いだからラスカル最後まで観て!って思うわ。まあ一番悪いのはブームに便乗する悪い商人だな。
b:id:garage-kid 71: そういう意味では「ぼのぼの」はとてもいい漫画。「あらいぐまラスカル」とは違いアライグマがいかに凶暴であるかを正直に描いてる。
『劇場版 はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン~』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨です。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。
なんと100点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。とは言え、これ、評価難しい。良いところと悪いところと混在しつつ、今の自分だからこの点数なんだけど、ちょっと違う自分だったらこの点数は著しく下がっていたんじゃないかと思う。いつにもまして主観的な点数であり他の人におすすめする自信がない。
アニメとしての出来は良かった。演出や音楽なんかも水準以上の仕事をしてたんだけど、キャラデザと脚本と声優の3点がそれ以上の出来だった。しかしそもそもの企画で疑問な点も多々ある。
大体の話原作マンガ『はいからさんが通る』からして相当ボリュームが大きい作品なのだ。TVアニメ42話やっても完結できてないのがその証拠で、その原作を100分ちょいx2の前後編にまとめるということが最初から無理難題。
だから素直に作れば駆け足どころかダイジェスト気味になり、点数なんて30点前後になるのが当たり前だと思うのだ。今回の劇場版は、その問題に対して、脚本とか演出技術とかをぶっこんで善戦してたことは確かなんだけど、それってつまり「ハンデを克服するための戦力投入」に他ならないわけで、100点から先に積み上げていく役に立ったかと言えば難しい。
原作ジャンルは一応ラブコメということになると思うのだけど、原作『はいからさんが通る』には実は様々な要素が詰め込まれている。主人公紅緒と伊集院少尉の間のラブロマンスを中心としつつも、大正期うんちくマンガの側面、スラップスティックなギャグの要素、膨大な登場人物の群像劇、そして女性の自立というテーマももちろん重い。
今回の映画企画では、これを前後編で本当にうまくまとめてある。駆け足感は否めないものの違和感は感じない。このへん優れた原作→映画脚本の特徴でもあって、印象は原作に忠実なものの、実を言えば改変は結構大胆にはいってる。
今回映画で例を上げれば、大震災後の炎上する廃墟をさまようのは映画では紅緒、少尉、編集長という3人なのだが、原作ではさらに鬼島を入れた四人だ。三角関係の描写とその解消をクライマックスの中心に持ってくる構成をシンプルに伝えるため、鬼島は退場させてあり当然セリフも再構成で圧縮されている。
しかし一方でそういう技術的な圧縮だけでは全く追いつかないわけで、群像劇的なキャラクターを絞り、ギャグパートもほとんど捨て去って、映画で残すのは「主人公紅緒を中心とした(はっきり言っちゃえば伊集院少尉と青江編集長との三角関係)ラブロマンス」と「大正ロマン期の女性の自立」というふたつの大きなテーマに絞った。その判断は正解だと思う。
正解だと思うんだけど、じゃあそのふたつが現代的な視点で見て満足な出来に達しているかといえば――この部分が評価に迷った原因だ。
『はいからさんが通る』の原作からそうなので、映画(だけ)の問題点というわけではないのだけれど、個人的な見解で言うと登場人物のメインどころのうち三人がダメんピープルだ。
初っ端から最大戦犯のラリサ=ミハイロフ。ロシア貴族である彼女は、満州出征中に部下を救うために突出して倒れた伊集院少尉を見つけ、その命を救う。しかし戦争の傷跡で記憶を失った伊集院少尉に、自分の旦那(死亡済み)の面影を見出し、都合よく嘘記憶を刷り込みして、自分の夫として病気の自分の世話をさせるのだった。
いやあ、ないでしょ。どんだけよ。しかも病弱な自分を盾にして伊集院が記憶を取り戻したあとも関係を強要するのだ。クズでしょ(言った)。一応言葉を丸めてダメんピープル(女性なのでダメンズではない)と呼んでおく。
じゃあ、そのラリサの嘘の被害者たる伊集院少尉(主人公紅緒の想い人)はどうなのかと言えば、彼もまたダメんピープルなのだった。記憶を失っていた間はまあいいとしても、記憶を取り戻し紅緒と再会したあとも、病弱なラリサの面倒を見るために彼女のもとにとどまり続ける。命の恩人だと言えばそりゃそうなのかもしれないが、周囲の誤解をとくでもなく、未来への展望を示すのでもなく、状況に流されて、紅緒のことが大好きなくせに「他の女性を偽りとはいえ面倒見ている関係」を続ける。続けた上でそれに罪悪感を覚えて、紅緒から身を引こうとする。
それだけなら海底二千マイルゆずってもいいけれど、ラリサが死んだあとは紅緒のもとに駆けつけるあたり、手のひら返しの恥知らずと言われても仕方ない罪人である(言った)。っていうか伊集院少尉とラリサの関係は明らかに共依存でしょ。カウンセリング必要だよ。
とはいえ、主人公紅緒もけして潔白とはいえない。病気のラリサに遠慮をして、二人の間の愛情を誤解して別れを告げられ、告げたあと、心がフラフラしている時期に、少尉の実家を助けてくれた編集長にほだされて交際を宣言。他の男性(伊集院少尉のこと)を心に宿したまま、編集長と結婚式まで行ってしまう。それは伊集院少尉に対してもそうだけど、青江編集長に対してはより罪深い。その嘘はやっぱり問題だと言わざるをえない。
――こういう恋のダメピープルトライアングルが炸裂して、映画の前半は結構ストレスが溜まった(この辺個人差はあると思う)。このダメんピープル共が。問題を解決しろ。
両思いの恋人がいい雰囲気になって決定的にくっつきかけたところで、理不尽なトラブルが起こり二人は引き裂かれる! どうなっちゃうの二人!? 以下次週!! で、次週になってトラブルを乗り越えて、またいい雰囲気になると今度は二人が(独りよがりの)善意から身を引くとか、ずっとお幸せにとかいい出して、誤解のすれ違い。神の見えざる手によってやっぱり二人は結ばれない!
「北川悦吏子だ!」といったけどそれは北川悦吏子女史の発明品というわけではなく、自分の中での代名詞が彼女だと言うだけなのだけど。もっと言うのならば、年代的にみても北川悦吏子が『はいからさんが通る』やら『キャンディ・キャンディ』に影響を受けた可能性は高く、むしろ原点はこちらだ。イライラは軽減されないが。
そんなイライララブロマンス時空において癒やしは青江編集長である。
光のプラスワンこと青江冬星はまっとうで良い人なのだ。登場時は女性アレルギー(と大正時代的な女性蔑視)があったものの、雇用主として新人編集者である主人公紅緒を導き、支え続ける。その人柄に触れて、紅緒に対する愛情を自覚したなら、変にこじれぬように即座に自分の口から誤解の余地のない告白を行う。これ以上イライララブロマの炎症を防ぐその手腕。良いね。
しかも「お前の心に伊集院がいるうちは土足で踏み込まない」「いつかその気になったとき思い出してくれれば良い」といって加護者の立場に戻る。見返りを求めず、高潔で、慈悲深い。癒やしのキャラだ。
読めば分かる通り自分は編集長推し(原作当時からだ)なので、そのへんは差し引いてほしいのだが、ダメんピープルの中にあった彼が一服の清涼剤であったのは確かなのだ。
この映画のおそらく二大テーマである「紅緒を中心としたラブロマンス」はダメ人間どもの間違った自己犠牲でイライラするし(加えて言えば、何の罪科もない編集長の貧乏くじも納得し難いし)、「大正ロマン期の女性の自立」については、無邪気と言えば聞こえはいいが無軌道で体当たり主義の紅緒の迷惑を編集長が尻拭いし続けるという構造なので、本当に自立しているのか怪しく、どっちもそういう意味ではスカッとしない。
でも、そうじゃないのだ。そうじゃなかったのだ。
上映終了後、イライラ&60点だと思っていたら、意外なことに結構穏やかな満足感があったのだ。この気持ちはなんだろう? 不思議な気持ちで、言語化に時間がかかった。
なぜなのか考えた。
やったことや構造を追いかけていく限りイライラキャラではあるはずなのに、可愛い。
現代的に変更したキャラクターデザインと、作画と、なによりその声が印象的なのだ。
作中、紅緒は本当によく「少尉」という言葉を口にする。二言目にはそれだ。
このおてんば娘は作中のセリフの大半が「少尉!」なくらい連呼なのである。伊集院少尉のいるシーンでは脳内その声でいっぱいなのだ。声の表情というか、演技が本当に良かった。
少尉の事で頭がいっぱいで、東京から満州に行き、馬賊の親玉に体当たりで話を聞き、少尉を探して駆け巡る。東京に戻ったあとも諦めきれず、その面影を探して、亡命ロシア貴族にまで突撃を掛ける。紅緒は、たしかに、周囲を顧みない行動主義で、無鉄砲なおてんば娘で、そこにはイライラさせられる要素があるにせよ、少尉を求めてさまよう姿は、涙を一杯にたたえた幼子のように見える。
それでようやくわかったのだけれど、結局紅緒は子供だったのだ。
愛する伊集院少尉とはぐれて、彼を探すために声の限りにその名を呼ぶ子供だった。
それが胸を打ったし魅力的だった。スクリーンのこちらからも彼女を助けたいと思った。
『劇場版 はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン~』は迷子の紅緒をハラハラドキドキしながら見守り、応援する映画なのだ。
「大正ロマン期の女性の自立」というテーマに対してイライラするのも当たり前だ。彼女は行動力だけは溢れていて、家を出てしまうわ、死んだ(と思いこんでいた)婚約者の実家に行って支える手伝いをするわ、女性ながら出版社に就職するわするのだが、どれも力が足りずに周囲に迷惑を掛けてばかりで、そういう意味では「自立」はしきれていない。むしろトラブルメーカーだ。でもそんなのは、子供だから当たり前なのだ。
彼女はその実力不足から失敗してしまうけれど、チャレンジをするのだ。失敗はチャレンジの結果であり、チャレンジをするという一点で彼女の幼さは正しい。
前述したとおり自分の推しは青江編集長なのだけれど、彼は作中、何らミスらしきことをしていない。つまり罪がない。罪がない彼が、恋愛において自分の望んだ愛を手に入れられない(紅緒は最終的に伊集院少尉とくっつく)のが納得がいかなかった。その理不尽さにたいして原作読了時は腹がたったのだけれど、今回映画を見終わってしばらく考えたあと、仕方ないのかもと、やっと思うことができた。
なぜなら紅緒は(この映画の物語の期間では)未熟な子供だからだ。その子供である紅緒が、青江編集長という加護者とくっついてしまうと、その保護力のお陰で自立できない。青江編集長は全く悪意はなく、むしろ大きな愛情で紅緒を守るだろうし、その実力がある人だろうけれど、その愛情は空を羽ばたく紅緒にとっては重すぎる。
『はいからさんが通る』は紅緒が自立していく物語ではなくて、未熟な子供である紅緒が、自立のスタートラインに立つまでの物語なのだ。だから作中で自立してないのは当たり前なのだ。
無鉄砲で子供で、何かあればすぐべそべそと泣き、でも次の瞬間笑顔で立ち上がり再び駆け出す紅緒は、この映画の中でとても可愛らしく魅力的だった。
その紅緒は自分の心に嘘をつくという罪を犯し、同じく自分の心に嘘をつくという罪を犯した伊集院少尉と結ばれる。伊集院少尉も少女漫画の約束として「頼りになる加護者」として登場したが、罪を犯して紅緒と同じ未熟者のレイヤーに降りてきた。降りてきたからこそ「これから自立するいまは不完全な紅緒の同志」としての資格を得た。
青江編集長は同志ではなくてやはり保護者だから、どんなに良い人でも、「これから一緒に成長していく同志」にはなれない。
考えてみれば、紅緒が少尉を好きになった理由は「優しい目で見てくれたから」だった。けっして「助けてくれたから」ではない。彼女にとって助けてくれる(実利)は重要ではなく、ただ単にそのとき自分を見ていてくれれば十分だったのだ。
そういう意味で、青江編集長はスパダリであり、伊集院少尉はスパダリから降りて結婚相手になったといえる。宮野Win。「立川オワタぁ!」とか「ちゃんかちゃんかちゃんかちゃんか♪」とか言い出さないんで、格好いい主要キャラみたいな演技だったからな。
そういうふうに言語化が落ち着くに連れて、紅緒の親友・環がしみじみと良かったな。と思えた。
「殿方に選ぶのではなく自らが殿方を選ぶ女になるのですわ!」と女学生時代気炎を上げていた彼女。大正デモクラシーにおいて「女性の自立」を掲げて紅緒とともに時を過ごした親友である彼女。
でも、彼女と紅緒の間にあるのは思想の共鳴なんかではなかったと思う。
「女性の自立」と言葉にしてしまえばそれはどうしてもイデオロギー的な色彩を帯びざるをえないけれど、本作においてそれは、そこまで頭でっかちな教条的なものでもなかったのだろう。
劇場版サブタイトルの元ネタはおそらく菊池寛の短編小説「花の東京」から来ているのだろうけれど、そこで描かれた女性(の自立と言っていいのかなあ)も、現代のフェミニズム的な意味でのそれではなかった。どちらかと言えば「どんな環境でもめげずに生き抜いてゆく」という、ただそれだけのことだった。
それはもしかしたら、現代の価値観ではむしろ非難される態度かもしれない。なぜなら、男性が支配的な社会で「めげずに生きる」というのは、ときにその男性支配社会に迎合しているようにも見えて、原理主義者には利敵行為とされるかもしれないからだ。
でも人間は結局与えられた環境でベストを尽くすしか無い。まだまだ男権社会的な大正期社会も、作中クライマックスで描かれる関東大震災で崩壊した東京も「与えられた環境」だ。
その与えられた環境の中で酔っ払って肩を組み、愚痴を言い合いながらも諦めずに笑い合う同志として、紅緒と環のコンビは尊い。
ことによると、紅緒と伊集院少尉のそれよりも確かな絆があったのではなかろうか?
いつどんなときでも、どんな環境でも、うつむかず、意気軒昂と拳を突き上げて、笑顔で生きていこう! 女学生時代の無鉄砲な友情のそのままに、二人は大正という時代に自分の人生を描いた。
「女性の自立」と主語をおけば、それは成功したり失敗したりしてしまう。でも彼女たちが持っていたのは、成功したり失敗したりするようなものではない。どんな環境でもくじけうず、へこたれず、転んでも立ち上がって歌を歌いだす。それはイデオロギーではなく心意気の問題なのだ。彼女たち二人のあいだにあったのはモダンガールとして時代を先駆ける思想などではない。ただ単に、お互いがかけがえのない友達で、楽しかったのだ。
「女の子は元気よく未来に向かって生きる!」。紅緒が愛しく思えたのは、多分その一点だったし、伊集院少尉が彼女を愛したのもその一点だった。本作では描写が欠如していた伊集院少尉も、そのテーマに沿うなら、大震災後の東京で意気軒昂と未来をつくるべきだ。紅緒同様「未熟者の仲間」になった彼はそれが出来るし、その義務もある(でないと編集長はほんとうの意味で道化者になってしまう)。
( 2018年秋アニメ2話までほぼ全部観たから感想書く その1 からの続き)
暮らしの知恵を得たDIO様の日常。良い最終回だった。4コマ漫画原作らしいテンポ感を感じる作品。
吸血鬼ちゃんの吸血鬼性は「亜人ちゃんは語りたい」の小鳥遊ひかり < これ ≦「傷物語」の阿良々木暦 ≦ DIO様 (<「傷物語」のキスショット)くらい吸血鬼。吸血鬼ちゃんがインタビュイー、普通の女の子がインタビュワーとなって「吸血鬼ってこんなんやで」を掘り下げていくお話になっている。これを見てDIO様のお気持ちを学ぼう。
制作は「結城友奈は勇者である」のスタジオ五組。かつキャラデザが酒井孝裕なので、平和な日常を観ているとなぜか泣けてくる。そんな日常を彩る劇伴は「スロウスタート」でお馴染み藤澤慶昌。もしかしたら私は同氏のファンなのかもしれない。最近のイチオシは「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」の劇中歌アルバム「ラ レヴュー ド マチネ」より「誇りと驕り」(作詞:中村彼方/作曲・編曲:藤澤慶昌)、「ラ レヴュー ド ソワレ」より「RE:CREATE」(作詞:中村彼方/作曲・編曲:三好啓太/オーケストラアレンジ:藤澤慶昌)、「スタァライト」(作詞:中村彼方/作曲・編曲:加藤達也・藤澤慶昌)。
5期。スタッフは続投。イタリアのマフィアのお話。1話早々おっ始めている。現代の日本を舞台にした世界とは違う力学が働く世界観が面白い。「悪いことをしたら警察に捕まる」→「悪いことをするときは必ず警察に賄賂を渡さなければならない」みたいな。
毎期ごとに絵の雰囲気を変えていくスタイルゆえ、4期と雰囲気が異なっている(4部に登場したキャラクターを見るとわかりやすい)。今期は特に動かしづらそうなキャラデザなので、アクションでゴリゴリ動かすようなシナリオではなく会話劇のような作品なのかな。ただ、JOJOの特徴として「トメ絵」でアクションシーンを決める演出が多いので、1話でもそういった趣向のアクションシーンになってる。そういう意味では非常にアクション映えを意識したバトルアニメ。特に2話のvsブチャラティ戦は情報量が多すぎて頭がパンクしそう。
今期も神風動画は絡みなし。残念!でもEDのチョイスがやっぱり良い。
ガッチャマンになった女の子の成長を描く日常アニメ。キャッチーなOPが印象的な作品。原案:タカヒロ(「結城友奈は勇者である」原案)、キャラデザ:なもり(「ゆるゆり」原作)。めっちゃカレー食べたい。
なもりさんのキャラがめっちゃかわいい。特に制服のデザインが秀逸。ゆるゆりと比べやや等身が高くなっているのはアクション映えを意識したのかな。日常パートかわいく、アクションパートはかっこよく。
日常パートがとにかく平和なはずなのに、なぜか背筋がざわざわする感じがタカヒロっぽい。主人公の動機づけとかもゆゆゆっぽい。そういう視聴者のカンを察してか、2話ではスパイスの作用、副作用についてちゃんと説明がなされている。「安心して、これは満開システムじゃないよ」というメッセージかな?
音楽の使い方が好き。特に音楽のないシーン。日常、非日常と強い緩急のあるシナリオにうまくマッチしてる。1話なら 日常(音楽なし)→不穏(音楽なし)→戦闘(高BPMのバリバリEDM)みたいな。
ゆゆゆはもともと日常半分非日常半分のアニメだけれど、甘さと辛さのバランスがやや辛さ寄りに仕上がっている。対して本作は(今の時点では)日常パートに尺を多くとって甘さ寄りに仕上がっているので、丁度ゆゆゆとゆるゆりの間くらいを目指しているのかな。一握りのスパイス。
スパイx女子高生といえば「プリンセス・プリンシパル」も同じコンセプトを持つ作品だけれど、プリプリは「組織の犬としてがんばったりする話」という諜報員っぽい話なのに対し、本作は「正義の味方として、悪の組織をやっつけるためならエンヤコーラ」という勧善懲悪モノに近い。敵のデザインを見ても、プリプリの敵は憎めないヤツがとても多かったが、本作の敵はなんだか昔見たことのあるようなパリッとした「THE WARUMONO」というデザインになっている。ロボのデザインとか昔なつかし系を意識してるのかな。合体技とかビックリドッキリメカは未登場だけど、科学忍法で戦う姿はまさにガッチャマン。1話でも忍法・ヘカートⅡとか忍法・ミサイルとか使うし。2話以降の科学忍法が楽しみ。
ガッチャマンといえば、あの作品は割と主人公たちに厳しい世界だったので本作もまたあれくらい厳しい世界なのかもしれない。昔のヒーロー作品は「悲しみを乗り越え、悪と戦う主人公」というモチーフの作品が多い印象なので、そういう流れをくむ作品だったりして。おのれタカヒロ。
TRPGリプレイ。「DARK SOULS」並に強烈なハイ・ファンタジー系冒険アニメ。元ネタはやる夫スレに投稿されていたもの。良い最終回だった。きびしいせかい。
物語は中世~近世を舞台に、人々の暮らしとともにあるギルドの冒険者の日常を描く…のだが。シナリオは「灰と幻想のグリムガル」をハードにした感じ。本作の監督、音楽、制作スタジオが作ってるアニメ「少女終末旅行」よりずっとハード。殺戮アニメ「オーバーロード」よりもキツイ。「灰と幻想のグリムガル」が描くのは「見てみて、世界ってこんなに美しいんだよ」という世界だけれど、本作にそういう趣向は無く(キャラは世界を語るためのロール、という部分は似ているが)、人とゴブリンの間にある確執、業、罪深さ、わかり会えない存在、といった深い谷を丁寧に描いている。
基本は毎話ゴブリンスレイヤーとゴブリンの戦いを描くのだが、「主人公たちが油断して敵に追い詰められる(敵の見せ場)」→「逆境パワーで敵を蹴散らす(主人公の見せ場)」という定番ではなく「ナメてかかった冒険者たちがゴブリンに惨殺される(敵の見せ場)」→「ゴブリンスレイヤーがゴブリンを惨殺する(主人公の見せ場)」という構成になっている。単純に見せ場を作るだけのギミックではなく、ゴブリンとゴブリンスレイヤーの対比構造を強調しているのが印象的だった(特に2話)。その残虐性、執念、狡猾さ。結果とんでもなくダークなヒーローになっている。
そんな戦闘演出について、ゴブリンの殺し方、殺され方がグロい。「灰と幻想のグリムガル」で最初にゴブリンをぶっ殺すシーンも大概エグかったけれど、こっちはもっとエグい。丁寧な流血表現の作画、末廣健一郎の音楽、古谷友二の音響効果等も相まってドキドキが止まらない。本作のシリーズ構成・倉田英之が関わった「メイドインアビス」では、例のシーンについて放送の審査を通すのが大変だったみたいな話を聞いていたのだけれど、本作はどうやって審査を通したのだろう(直接表現が無いから問題なかったのかな)。
あと「少女終末旅行」1話冒頭の白昼夢みたいな演出が好きだったので、あれをまた観ることが出来て嬉しい。
ダテコーアベンジャーズ。てさぐれ!みたいな3DCGショートアニメ。続投スタッフとしては監督・脚本のダテコーの他に主題歌、劇伴の井上純一/Hajime。制作はirodoriからリンクトブレインに(ゲーム用グラフィック開発等の会社で、アニメ制作実績はほとんどなし)。キャラクターのアニメーションはirodori版よりも硬め。やっぱりたつき監督は凄い。
毎話シナリオパートとアドリブパートがあり、シナリオパートは本編の配信に先駆けて公式ラジオで(ほぼ全部)放送された。なのに改めて絵がつくと面白く感じるので、散々言われていた「これラジオでいいじゃん」説を真正面から検証していくスタイル好き。ちなみに1、2話はアドリブパートが1分程度。BDにロングバージョンが収録されるとのことや、「もともと本作が放送されるのは去年の年末頃だった」のが延期に延期を重ねた事情を顧みるに、ダテコーはやはり罪深い作品を作る人なのだなぁ、としみじみ。
それぞれのキャラクターは中の人のパーソナリティが反映されていたりする。そのあたりはダテコーとの関係性が為せるやり方。そもそもこのキャスティングは誰もが思いつきこそすれ、実現できるのは日本でダテコー一人だけな気がする。これだけ人気声優を集めた上で同時にアフレコをするのは困難だろうと思っていたけれど、アドリブパートは必ず全員揃っているわけではない模様。
そのアドリブパートについて、カメラのアングルは固定(てさぐれ!ではカメラワークに相当拘っていることがわかる)。引きのほうがテンポ感が出しやすい(発言がかぶってもカメラ切り替えしなくていいし)ので、結果てさぐれ3期最終回のてさぐれグランプリみたいなワチャワチャ感がある。内容は相変わらずシモネタを自重しないスタイル。
略称はだかいち。芸能人の日常アニメ。ガチのBL。抱かれたい男1位と2位の自給自足アニメ。同性愛を描くアニメといえば今年は「citrus」を観たけど、こっちは登場人物が成人ゆえ、もう完全にエロに振り切っている(citrusもエロいけど)。
…と、思ったら監督の龍輪直征はcitrusのチーフ演出だった。同氏が監督を務めるアニメ「ニセコイ」「幸腹グラフィティ」はエロいのかな。
仕事とプライベートで力関係が逆転するってド定番だけど面白い。常に厳し目のツッコミを入れ続けているのに、プライベートではそのまま押し切られるくだりが好き。2話ではプライベートでの力関係が逆転する展開になってたり、心の振れ幅というか人間臭さの強い恋愛モノになっている。背景美術の感じとか、全体的にTVドラマっぽいかも。
そして二人の裸が良い。高人の(リアルに)骨ばった肩や腕、首筋に対し、准太の筋肉質な体躯。特に2話シャワーシーンで見える腹部の、外腹斜筋がキレイ。ちなみに、ちょくちょく准太の背中に生えている羽は犬のしっぽみたいな機能。
あと各話ともガッツリSEXシーンを描いている(流石に秘部は隠してるけど)。これでも原作よりソフトな表現になってるのかしら。
AmazonPrimeVideo独占
「うしおととら」に続く名作のアニメ化。制作は同作と同じスタジオVOLN。原作は既刊43巻で、アニメは3クールの予定。一般的に単行本1冊あたりアニメ2~3話程度のボリュームになることが多いので、本作の圧縮率は3倍くらい?シナリオ再構成には原作者が参加している。
OPEDがめっちゃかっこいい。制作したのは「へー、このアニメのPVも作ってるんだ」でおなじみの10Gauge。
多様な劇伴がすごく好き。何でもできるんじゃねえのこの人(劇伴は林ゆうき。今期「ダグ&キリル」「風が強く吹いている」「HUGっと!プリキュア」もこの人が担当している)。
97年~連載作品だけに、キャラデザのリブートをするかどうか気になったのだけれど、90~00年代のアニメを思わせる吉松孝博のキャラデザはやはり最高。同氏が活躍した本年(よりもい、オバロ、そして本作)に想いを馳せるうち、今が2018年であることを忘れそう。
本作は人間より大きい人形を戦わせるという作品なのだけれど、操作されている人形のアクションシーンが非常に良い。人形ゆえ複雑な四肢を複雑に動かすアクションは3DCGと作画をうまく使い分けている。アルルカンとか「へーそうやって出し入れするんだ」ってなるやつ。
メインキャスト3人が強すぎる。林原めぐみ&小山力也て。1話の「アルルカン!」で鳥肌が立った。そして主役の上田千尋は大規模なオーディションで選ばれた(公式では2500人って言ってた)そうなので、いかに力を入れているかが分る。
「gdgd妖精‘s」でおなじみ菅原そうたによるショートアニメ。本作も風刺ネタが多めのギャグ。ちゃんといつものアレもある。今回の被害者は三森すずこ、井口裕香、花澤香菜。
制作がいつもと違うので、作風も変わっている。全体的にカクカク。かつ目がチカチカする。
本編(10分頃)には回し役としてふかわりょうが参加しているのだが、やっぱりプロの芸人さんはすごい。このシリーズの作品は「散々ネタを出し尽くしたため、いよいよ出がらししか出てこなくなるやつ」がすごい好きなんだけど、ふかわりょうがいるとあらゆるボケを拾って笑いに変える力を感じるし、かつスムーズな流れを作ってくれるので短い時間でも十分面白い。やっぱりプロはすごい。
ヒーローに憧れる男の子が主人公の、SF刑事ドラマ。ノリはかなり柔らかめ。特に主人公がバカ。
キャラデザがかなりゴツい。アメコミのヒーローを意識したのかな。またセットやノリがアメリカのTVドラマっぽい。舞台もニューヨークっぽいし。
「TIGER & BUNNY」シリーズに続くバディもの。いろんな事件と並行して刑事たちの群像劇を描く。タイバニと比べると「踊る大捜査線」みたいな土臭いシナリオになっている。SFチックな展開は「メン・イン・ブラック」に近い。3DCGで描かれるメカアクションは流石サンライズといった感じ。プロデューサー曰く「多くの刑事モノ作品のオマージュを取り入れたシナリオになっている」とのことなので、刑事モノが好きな人は楽しみが多い。
音楽は林ゆうき。どちらかといえば刑事モノのTVドラマでお馴染みの人で、個人的にフジテレビ系のTVドラマ「BOSS」が好き。本作もそういったブラバンの劇伴がマッチしている。
人々の暮らしを象徴するシーンとして街の遠景+行き交う車+タイムラプス風演出を使っているけど、どうやってるんだろ。めっちゃすごい。
制作は鷹の爪でおなじみDLE。本屋さんの日常を描くFLASHアニメ。「本屋さんってみんなが思っている以上に大変な仕事なんだよ」という強いメッセージを感じる。モデルになっているのは都心にある「とらのあな」みたいな書店。作者の実体験が元ネタとのこと。
会話劇というより、半分くらい主人公(CV.斉藤壮馬)の一人漫談。主人公のモノローグを中心に展開されていくのだが、表情筋が全く動かないキャラデザとは裏腹のハイテンションな演技が光る。非常にテンポがよく、感情がほとばしっている。特に1話の「ファッ!?!?!!?」が好き。2話以降は「イカれたメンバーを紹介するぜ!」という副題どおりの展開なので楽しみが多い作品。
ショートアニメ。1期の続き。内容はいつもどおり。知らない人向けにざっくり説明するなら「シリアスな王道ロボットアニメ」。1期もそうだけれど、OPEDの「曲」は非常に真面目な作りになっている。
様々な酷評がネットを覆っているが、致命的だと感じた部分を何点か。
(多くの方が酷評してるキャラデザはアリだと思っている。キャラクターは社会や歴史を描くただの駒なのだ。それでも石黒版ではキャラ描写が秀逸で魅力的だったことは確か)
メカがCGになり、数万隻の艦隊を描く作画上のハードルはかなり下がったはずだと期待していた。実際に描かれたのは普通のSFにありがちな芯の感じられないデザインの戦艦が重厚感、巨大感をまったく見せずに軽快に動き回り、戦術の深淵を感じさせない異常なハイテンポの戦闘であった。雰囲気が軽薄すぎる。
数万隻がダイナミックに関わる作品上の見せ場のはずが艦隊の遠景描写も近景描写も全く石黒版に及ばない。
クラシック音楽による重厚なBGMも、耳に残らないありがちなものに置き換えられてしまった。虚空に伸びる無数のビームの描写も消え失せ、もはや苦痛でしかなかった。
根本的にスケール感、質量感、雰囲気を描くことに失敗している。そのうえでSFとしてよりリアル、あるいは盛り上げるにはどうするべきかという改善を試みた形跡がまったく無い。
②背景美術の軽薄さ
前述の戦闘の雰囲気にも通底した問題だが、社会、文明、文化、生活、どのような世界にキャラクターたちが生きていてどんな雰囲気が漂っているのか、セリフに出さずとも背景1枚で多くを語ることが出来る。石黒版はそのあたりも実に巧みで、数百年続いたゴールデンバウム王朝の頽廃や、戦争に疲弊し制度や社会が麻痺していく同盟を実によく描いていた。
残念ながら、新作では帝国、同盟ともに最近のアニメやSFにありがちなものとなってしまった。同盟側は比較的現代社会に近いので新作の方向性としてこうしますよ、というのであれば受け入れられなくもないが、帝国側の描写は悲惨そのもの。西洋建築や文化に詳しいスタッフがいなかったのか?というくらい軽薄な、なんちゃってヨーロッパとミスマッチなSF、安っぽい貴族趣味的豪華さが同居した地獄となっている。貴族的近世的な文化と高度な星間社会との落差を石黒版では見栄え上は完全に近代的文明を感じさせない方法で乗り切ったが、新作ではどっちつかずの半端な描写となっている。
③単純に尺が足りてない
これは多くの方が言及しているが削りに削って再構成した石黒版でさえアムリッツァまで15話かけている。新作は12話かけて直前まで到達。尺が足りない。全く足りない。足りてないのを何かで補うわけでもなく、必要な描写をばっさりカットしていき、①や②で述べたようにそもそもすべてが軽薄。もちろん①や②が改善されないまま15話かけても駄作扱いだっただろう。(多くのひとが言うように世間的な評価にはキャラデザも当然影響している。私はあまり気にしないだけである)
大事な順に書いたので、①さえまともなら、他がグダグダだったとしても楽しんでみていたと思う。せっかくCGでいくらでも艦隊戦出来るのに活かせてないのは本当にツライ。そういう意味ではガンダムジオリジンはかなりうまくやっていると思う。艦隊戦やメカ描写に並々ならぬこだわりを注いでいることがよく伝わってくるし、アニメ版のガンダムを良い方向でリメイクしている。(オリジンはオリジンのアニメ化であって厳密にはリメイクではないという意見ももちろん承知している)
某日某動画配信サイトでマクロスデルタ映画公開記念としてマクロスシリーズ作品(超時空要塞マクロス、マクロスII、マクロスプラス、マクロス7、マクロスゼロ、マクロスフロンティア)が公開されていた。マクロスをちゃんと見たことがなかったのでマクロスII以外全部見たところ、めちゃくちゃ面白かったのでネタバレ全開で感想を書く。
なお、IIを見なかった理由は特にない(ビジュアルに惹かれなかったからだっけ?)
(2018/9/3 修正。感謝 b:id:dynamicsoar)
さすがに80年代のSF作品なので、今から見ると古臭いだろうなと覚悟していたのだが、正直なところストーリーは一番面白かったかもしれない。
外宇宙より流れ着いた高度テクノロジーを回収し、マクロスとして改修したところ、機関が暴走して地球から冥王星までワープしてしまう。 しかも開発拠点となっていた土地も、街ごとすべてマクロスと共に移動してしまう。 そして孤立無援のなか民間人を抱えたマクロスは、絶望的な戦力差のゼントラーディー軍と対峙することになる。
民間人の街を含む生活圏ごと宇宙空間に放り出される、という SF 設定がまず素晴らしい。地球を遠く離れ、マクロスに依存して生きることになる市民と、市民を抱え込みながら作戦を実行しなければならない統合軍という、対立を設定したことで生まれたドラマの重みが他の作品に無い魅力だった。マクロス艦内に街を作る流れとか、マクロスが主砲発射のため変形すると道が割れ家が崩壊し市民に甚大な被害が出るというジレンマが、作品がただのヒーロー物となるのを防いでおり実に良い。最初の数話はずっと、マクロス艦内の(一条とミンメイの)サバイバル生活や、統合軍の武力を軽蔑する一条の話であり、マクロスという作品は戦闘が全てではないということを描いているし、ロボットアニメなのに一条が統合軍に参加するまでにも紆余曲折あって一筋縄ではいかないという序盤の展開の遅さも、今から見れば一条の若者らしさが強調されているように感じる。
またゼントラーディー軍とプロトカルチャーという一つの設定から、圧倒的戦力差があるのにゼントラーディー軍がマクロスを殲滅しない理由、逆にマクロスが基幹艦隊に対抗できる理由が自然に説明されている。プロトカルチャーとは何か、なぜ敵は様子見をしているのか、その謎が作品全体の軸となっていて最後(27話)まで楽しく見れた。
個人的には早瀬少佐を陰ながら応援していたのだが、ミンメイが強すぎて三角形がほぼ直線に見えてしまうのが問題だと思う。早瀬少佐ほとんど最後まで片思いじゃないか。
まあ一条は三角関係にピリオドを打ったのでよしとしたい。しかし主人公の一条光は本当に等身大の若者として描かれている。いい雰囲気だったミンメイには袖にされるし、それまでの経験からエースパイロットとなるけど、あっさりマックスに絶対エースの座を奪われるし、超人的なところがない。この等身大の恋愛が、作品にいい意味で青くささを与えているのだろう。
世界一カッコいい兵器である戦闘機が、さらにスタイリッシュなロボットにも変形するのだ!!!最高以外のなにものでもないではないか!!!!!!
...... ふう。
某小説家によると、自動車などと違って、飛行機というのはデザインがそのまま性能に直結するため、極限まで無駄が排除された存在であるらしい。飛行機の美しさ・カッコよさというのは機能美であると。つまり戦闘機であるバルキリーは必然レベルでカッコよく、その戦闘機が変形するバトロイドはカッコよくないはずがないのだ。
バルキリーの外見以外の話をすると、基本モードがファイターであることが徹底されているのがよかった。人型ロボットが高機動戦闘に不向きなことなんて自明なので、ヒットアンドウェイはファイター、飛翔体迎撃や地上行動はバトロイド、水平移動やランディングはガウォークという役割分担がはっきりしていたのもグッドポイント。
【懺悔】はじめはガウォーク形態を、ノーズに手足が付いていてなんか不恰好だと思っていました。全話見終わってようやくガウォークのカッコよさに気がつきました。いまではファイター >> ガウォーク > バトロイド の順で好きです。不当にガウォークを貶めてしまい申し訳ありませんでした。
正直、歌にこんなにバリエーションがあるとは思っていなかった。
しかしこのストック数があったおかげであの伝説の最終決戦(ミンメイアタック)が実現したのだと思うと、マクロスと歌は不可分なのだと実感する。
「私の彼はパイロット」と映画版だけど「愛・おぼえていますか」がマクロスを象徴する曲だと思う。
最高。ミュンを中心とした三角関係とむせかえるような戦闘機野郎臭にクラクラした。また電子歌姫、AIの暴走、有人戦闘機は無人戦闘機に勝てないなどの描写は未来予測として見事だった。
冒頭の強烈なドッグファイト、ステルス機 YF-21 のお目見え、YF-19 の超マニューバと1話から戦闘機づくし(後退翼前進翼!!)!さらに地面効果やチャフグレネードといったマニア向けの細かい描写まできっちり!トドメとばかりにミサイル増しまし、サーカス全開!ファンタスティック!!!最高の戦闘機アニメだった!!!
初代の青々しい恋愛とは異なり、皆が古傷を抱えたちょっとスパイシーな恋愛だった。はじめからガルドの負けは決まっていたけどな。
シャロンのトランスするような曲(BGM)は、未来の音楽という感じで演出も含めて作品を唯一無二のものとしている。それに対してミュンの素朴な歌声が要所で差し込まれることで、全体としてメリハリがついて音楽性の幅を獲得している。つまりは菅野よう子さんすごい。
歌(というかバンド)に振ったストーリーなので戦闘描写が薄い(マクロスプラスの後に見たせい?)。バンドマンサクセスストーリー -- 熱気バサラ伝記 -- といった感じ。
サウンドパワーが出てからかなりファンタジー方面になっていくところは SF を期待していた身としては少しがっかり。面倒くさい SF 勢としては、違う次元から来たのにプロトデビルンが人間くさすぎるところがもにょる。とあるプロトデビルが「破壊美〜」とか美学を叫ぶけど、美学なんてもっとも文化に隷属しているものだろう。
ただ、移民船やマクロス艦(バトル7)の設定は、フロンティアへ繋がるマクロス世界を広げた良い設定だった。
バサラ --- ミレーヌ --- ガムリン のトライアングルだけど、バサラは何考えているのかわからないし、ミレーヌはお子ちゃまだし、ガムリンは奥手で死ぬ死ぬ詐欺だしあまり恋愛要素は無かった。というかあのよく叫ぶシビルはなんだったん? バサラのエゴ?
主人公が非戦闘員だから仕方がないのだけど、戦闘描写が薄い。バサラは戦わない設定なので、敵弾は避ける防ぐだけだし地味。基本的に、敵襲来→守備隊が壊滅→バサラ達が出てきて歌う→ガムリンが頑張る→もっと歌う→敵が逃げるのパターンでバンク処理が多いし、ファイター形態で戦うパイロットがほとんどいないのも残念。熱いドッグファイトが見たいのだ。
初代も当時のTVシリーズとしては驚きの楽曲数だったが、今作はバンドマンストーリーなのでフルアルバムが作れるくらい楽曲が生み出されている。バサラとミレーヌのツインボーカルなので、バサラの熱唱からミレーヌの透明感のあるバラードまでバラエティも豊か。特にミレーヌボーカルの曲が好き。
しかし楽曲は良いのだけど、演出が今ひとつのところがある。最終決戦など、バサラとミレーヌがそれぞれの持ち歌を歌う場合だ。それぞれ曲調が異なるのに交互で歌うので音の統一感が無くなっている。もっと DJ などのように統一感のあるミキシングをして欲しかった。
良かった。3DCG で作ったマクロスプラス。カーゴカルト的なストーリーは自然回帰にみせかけたマクロスだった。基本的にバルキリーに興奮するアニメだと思う。
果たしてサラは帰ってこれたのだろうか。後にシンの手記が出版されているのでシンは帰って来たのだろうが。特に三角無し。
3DCG になってダイナミックな絵作りができるようになったせいか、マクロスプラス並みのドッグファイトを見せてくれる。まだバルキリーが普及していない時代という理由からか、戦闘は基本的にファイター + ガウォーク形態でここぞ!というところでバトロイドに変形するのだが、そのメリハリが素晴らしい。
一番良かったのはフォッカーが初めてバトロイドに変形するシーン。ガキンガキンガキンとリアルタイムに変形するシーンは魂がふるえた。
マクロス7と歌ラッシュ比べると、サラの歌と鳥の人の歌程度なのであまり印象にない。むしろフロンティアでのランカのアイモの方が印象に残っている。
最高(2回目)。超時空要塞マクロスからマクロスゼロまでのまさに集大成。初代から久しく無かった、ゼントラーディー部隊の再登場、ミンメイアタック、マクロスアタック(旧名ダイダロスアタック)、娘娘、ミスマクロスなどなどものすごい初代リスペクト。加えて オズマが Firebomber のファンとか、マクロスゼロを劇中ドラマとして登場させるなど、過去のマクロスの引用や展開がさりげなく大量にありまさにマクロス集大成。
また SF 面も、ヴァジュラの生態やフォールド波など骨太設定がしっかりとしていて良かった。
SF 好きで、戦闘機好きで、ロマンス好きで、歌好きオタクは皆撃ち抜かれるのではないだろうか。
少しこれまでの三角関係を総括する。初代の三角関係のよくないところは、早瀬少佐よりもミンメイが強すぎるところにある。歌う姿がインパクトありすぎるのだ。逆にマクロス7はバサラは何もしないしガムリンはパッとしないので、盛り上がりに欠ける。
上記の悪かったところを念頭に置いた上に本作を見ると、ヒロインのシェリルとランカは両方ともトップアイドル(ベテランと新人)なのでその問題はない。どちらが好みかだけである(増田はシェリルに幸せになってほしい)。よってシリーズ中一番三角関係がくっきりしているし、どちらもタイプの異なるヒロインで初代のように片方が強すぎるというのはない(と思う)。
逆によくなかったところは三角関係に決着がつかないところ。アルトくんはっきりせいや!少女漫画風に見れば王子様のアルトをスターダムを駆け上がるランカ(主人公ポジ)が射止める流れだが、シェリルもそれはかわいそうな背景を背負っているので簡単には決着をつけられなかったのではないかと思う。なお個人的には、兄が二人もいて、友達(一部友人以上の愛を向けられる)もたくさんいるランカと、天涯孤独で唯一信頼していたマネージャーに裏切られ命に関わる病気を負いアルバムが投げ売りされるくらい人気がガタ落ちしたうえ、アルトと恋人になったと思いきや無意識に恋人としてのロールを演じられていただけという仕打ちを受けたシェリルでは差がありすぎるので、ランカはシェリルにアルトくんを譲ってあげてよと思う。
正直なところ少し不満がある。特に戦闘機の花である地上でのドッグファイトがほぼ無かったところが残念。
ただ、マクロスプラス以後の作品では、YF-19 以降のバルキリーの何をアップグレードするのか難しかったのだと思う。思うに現代で知られている戦闘技術はほぼプラスで描かれているので、プラス以上の何かを新たに作り出すのはそれこそ革新が必要だろう。実際マクロスゼロは時代設定を初代より前に置くことでこの問題を避けている。
それにプラスで、ゴースト X9 というシリーズ最強の敵を作ってしまい有人戦闘の可能性にリミットを設けてしまったこともある意味よく無かったのかもしれない。どれだけ高性能なバルキリーを出そうにも、それにゴーストの AI を組み込めばお手軽に最強になる。人の反射神経や視界などのセンシング能力が機械に勝つことはないのだ。
あとバルキリーでは無いけど、ケーニッヒ・モンスターがめちゃくちゃ渋い。重爆撃機のようなフォルムから恐竜みたいなデストロイド全て重量感があって良い。動きも武骨なデザイン通りの重い動きをして、背中の砲台から反応弾をドッカと撃ち出す。かっこうよすぎる。
女性ボーカル好きとして最高だった。12話の星間飛行ライブと15話のデュエット、そして最終話は4回は見直したぞ!
好きな曲がありすぎて書ききれないのだけど、12話は伝説だった。12話はそれ自体が星間飛行の PV と言っていよいだろう。あと What 'bout my star は印象に残るシーンが多かった。ランカの路上ライブバージョンではアカペラから入って、ギター、ドラムと段々と音色が増して行く構成が見事だし、15話の What 'bout my star のヒロインズによるデュエットはとにかく破壊力が高すぎる。途中で終わってしまうのが残念でならない。それから外せないのは最終話のメドレーだろう。最終話はシェリルとランカのリレーとデュエットなのだが、二人が歌い始めた時点で勝ち確定で、実質的にも最終話は冒頭からエンディングだった。特にこの最終話で印象に残ったのは、オープニング曲であるライオンを二人で歌うシーンと、シェリルが短いフレーズだけ歌う私の彼はパイロット。前者は演出の定番だが歌詞の内容もありやっぱり盛り上がるし、後者は歌の繋ぎとしての採用だがまさかシェリルが歌うとは思っていなかったのですごく上がった。
マクロス7のところで苦言を呈した音楽のミックスについてだが、この最終決戦は完璧だった。全体のテンポを崩すことなくシェリルとランカのそれぞれの持ち歌とそのほかの歌たちが見事にメドレーとして再構成されていた(まあその完成度のせいで冒頭からエンディング状態だったのだけど)。
個人的に声優に興味が無いため個人名をほとんど覚えていない中で、中島愛さんはランカの歌声の人として覚えた(ちなみにもう一人は皆口裕子さん。この人の声は耳に優しいのに耳を捉えて話さない魔性がある)。声優としてはすごくうまいとは思わないが、歌声が満点すぎる。とにかく歌が上手い。声質も綺麗なんだが、伸びのある声と聞き取りやすい音域でうっとりする。
某日某動画配信サイトでマクロスデルタ映画公開記念としてマクロスシリーズ作品(超時空要塞マクロス、マクロスII、マクロスプラス、マクロス7、マクロスゼロ、マクロスフロンティア)が公開されていた。
マクロスをちゃんと見たことがなかったのでマクロスII以外全部見たところ、めちゃくちゃ面白かったのでネタバレ全開で感想を書く。
なお、IIを見なかった理由は特にない(ビジュアルに惹かれなかったからだっけな?)
さすがに80年代のSF作品なので、今から見ると古臭いだろうなと覚悟していたのだが、正直なところストーリーは一番面白かったかもしれない。
外宇宙より流れ着いた高度テクノロジーを回収し、マクロスとして改修したところ、機関が暴走して地球から冥王星までワープしてしまう。 しかも開発拠点となっていた土地も、街ごとすべてマクロスと共に移動してしまう。 そして、孤立無援のなか民間人を抱えたマクロスは、絶望的な戦力差のゼントラーディー軍と対峙することになる。
民間人の街を含む生活圏ごと宇宙空間に放り出される、という SF 設定がまず素晴らしい。地球を遠く離れ、マクロスに依存して生きることになる市民と、市民を抱え込みながら作戦を実行しなければならない統合軍という、対立を設定したことで生まれたドラマの重みが他の作品に無い魅力だった。マクロス艦内に街を作る流れとか、マクロスが主砲発射のため変形すると道が割れ家が崩壊し市民に甚大な被害が出るというジレンマが、作品がただのヒーロー物となるのを防いでおり実に良い。最初の数話はずっと、マクロス艦内の(一条とミンメイの)サバイバル生活や、統合軍の武力を軽蔑する一条の話であり、マクロスという作品は戦闘が全てではないということを描いているし、ロボットアニメなのに一条が統合軍に参加するまでにも紆余曲折あって一筋縄ではいかないという序盤の展開の遅さも、今から見れば一条の若者らしさが強調されているように感じる。
また、ゼントラーディー軍とプロトカルチャーという一つの設定から、圧倒的戦力差があるのにゼントラーディー軍がマクロスを殲滅しない理由、逆にマクロスが基幹艦隊に対抗できる理由が自然に説明されている。プロトカルチャーとは何か、なぜ敵は様子見をしているのか、その謎が作品全体の軸となっていて、最後(27話)まで楽しく見れた。
個人的には早瀬少佐を陰ながら応援していたのだが、ミンメイが強すぎて三角形がほぼ直線に見えてしまうのが問題だと思う。早瀬少佐ほとんど最後まで片思いじゃないか。
まあ一条は三角関係にピリオドを打ったのでよしとしたい。しかし、主人公の一条光は本当に等身大の若者として描かれている。いい雰囲気だったミンメイには袖にされるし、それまでの経験からエースパイロットとなるけど、あっさりマックスに絶対エースの座を奪われるし、超人的なところがない。この等身大の恋愛が、作品にいい意味で青くささを与えているのだろう。
世界一カッコいい兵器である戦闘機が、さらにスタイリッシュなロボットにも変形するのだ!!!最高以外のなにものでもないではないか!!!!!!
...... ふう。
某小説家によると、自動車などと違って、飛行機というのはデザインがそのまま性能に直結するため、極限まで無駄が排除された存在であるらしい。飛行機の美しさ・カッコよさというのは機能美であると。つまり戦闘機であるバルキリーは必然レベルでカッコよく、その戦闘機が変形するバトロイドはカッコよくないはずがないのだ。
バルキリーの外見以外の話をすると、基本モードがファイターであることが徹底されているのがよかった。人型ロボットが高機動戦闘に不向きなことなんて自明なので、ヒットアンドウェアはファイター、飛翔体迎撃や地上行動はバトロイド、水平移動やランディングはガウォークという役割分担がはっきりしていたのもグッドポイント。
【懺悔】はじめはガウォーク形態を、ノーズに手足が付いていてなんか不恰好だと思っていました。全話見終わってようやくガウォークのカッコよさに気がつきました。いまではファイター >> ガウォーク > バトロイド の順で好きです。不当にガウォークを貶めてしまい申し訳ありませんでした。
正直、歌にこんなにバリエーションがあるとは思っていなかった。
しかしこのストック数があったおかげであの伝説の最終決戦(ミンメイアタック)が実現したのだと思うと、マクロスと歌は不可分なのだと実感する。
「私の彼はパイロット」と映画版だけど「愛・おぼえていますか」がマクロスを象徴する曲だと思う。
最高。ミュンを中心とした三角関係とむせかえるような戦闘機野郎臭にクラクラした。また電子歌姫、AIの暴走、有人戦闘機は無人戦闘機に勝てない、などの描写は未来予測として見事だった。
冒頭の強烈なドッグファイト、ステルス機 YF-21 のお目見え、YF-19 の超マニューバと1話から戦闘機づくし(後退翼!!)!さらに地面効果やチャフグレネードといったマニア向けの細かい描写まできっちり!トドメとばかりにミサイル増しまし、サーカス全開!ファンタスティック!!!最高の戦闘機アニメだった!!!
初代の青々しい恋愛とは異なり、皆が古傷を抱えたちょっとスパイシーな恋愛だった。はじめからガルドの負けは決まっていたけどな。
シャロンのトランスするような曲(BGM)は、未来の音楽という感じで演出も含めて作品を唯一無二のものとしている。それに対してミュンの素朴な歌声が要所で差し込まれることで、全体としてメリハリがついて音楽性の幅を獲得している。つまりは菅野よう子さんすごい。
歌(というかバンド)に振ったストーリーなので戦闘描写が薄い(マクロスプラスの後に見たせい?)。バンドマンサクセスストーリー -- 熱気バサラ伝記 -- といった感じ。
サウンドパワーが出てからかなりファンタジー方面になっていくところは SF を期待していた身としては少しがっかり。面倒くさい SF 勢としては、違う次元から来たのにプロトデビルンが人間くさすぎるところがもにょる。とあるプロトデビルが「破壊美〜」とか美学を叫ぶけど、美学なんてもっとも文化に隷属しているものだろう。
ただ、移民船やマクロス艦(バトル7)の設定は、フロンティアへ繋がるマクロス世界を広げた良い設定だった。
バサラ --- ミレーヌ --- ガムリン のトライアングルだけど、バサラは何考えているのかわからないし、ミレーヌはお子ちゃまだし、ガムリンは奥手で死ぬ死ぬ詐欺だしあまり恋愛要素は無かった。というかあのよく叫ぶシビルはなんだったん? バサラのエゴ?
主人公が非戦闘員だから仕方がないのだけど、戦闘描写が薄い。バサラは戦わない設定なので、敵弾は避ける防ぐだけだし地味。基本的に、敵襲来→守備隊が壊滅→バサラ達が出てきて歌う→ガムリンが頑張る→もっと歌う→敵が逃げるのパターンでバンク処理が多いし、ファイター形態で戦うパイロットがほとんどいないのも残念。熱いドッグファイトが見たいのだ。
初代も当時のTVシリーズとしては驚きの楽曲数だったが、今作はバンドマンストーリーなのでフルアルバムが作れるくらい楽曲が生み出されている。バサラとミレーヌのツインボーカルなので、バサラの熱唱からミレーヌの透明感のあるバラードまでバラエティも豊か。特にミレーヌボーカルの曲が好き。
しかし楽曲は良いのだけど、演出が今ひとつのところがある。最終決戦など、バサラとミレーヌがそれぞれの持ち歌を歌う場合だ。それぞれ曲調が異なるのに交互で歌うので音の統一感が無くなっている。もっと DJ などのように統一感のあるミキシングをして欲しかった。
良かった。3DCG で作ったマクロスプラス。カーゴカルト的なストーリーは自然回帰にみせかけたマクロスだった。基本的にバルキリーに興奮するアニメだと思う。
果たしてサラは帰ってこれたのだろうか。後にシンの手記が出版されているのでシンは帰って来たのだろうが。特に三角無し。
3DCG になってダイナミックな絵作りができるようになったせいか、マクロスプラス並みのドッグファイトを見せてくれる。まだバルキリーが普及していない時代という理由からか、戦闘は基本的にファイター + ガウォーク形態でここぞ!というところでバトロイドに変形するのだが、そのメリハリが素晴らしい。
一番良かったのはフォッカーが初めてバトロイドに変形するシーン。ガキンガキンガキンとリアルタイムに変形するシーンは魂がふるえた。
マクロス7と歌ラッシュ比べると、サラの歌と鳥の人の歌程度なのであまり印象にない。むしろフロンティアでのランカのアイモの方が印象に残っている。
最高(2回目)。超時空要塞マクロスからマクロスゼロまでのまさに集大成。初代から久しく無かった、ゼントラーディー部隊の再登場、ミンメイアタック、マクロスアタック(旧名ダイダロスアタック)、娘娘、ミスマクロスなどなどものすごい初代リスペクト。加えて オズマが Firebomber のファンとか、マクロスゼロを劇中ドラマとして登場させるなど、過去のマクロスの引用や展開がさりげなく大量にありまさにマクロス集大成。
また SF 面も、ヴァジュラの生態やフォールド波など骨太設定がしっかりとしていて良かった。
SF 好きで、戦闘機好きで、ロマンス好きで、歌好きオタクは皆撃ち抜かれるのではないだろうか。
少しこれまでの三角関係を総括する。初代の三角関係のよくないところは、早瀬少佐よりもミンメイが強すぎるところにある。歌う姿がインパクトありすぎるのだ。逆にマクロス7はバサラは何もしないしガムリンはパッとしないので、盛り上がりに欠ける。
上記の悪かったところを念頭に置いた上に本作を見ると、ヒロインのシェリルとランカは両方ともトップアイドル(ベテランと新人)なのでその問題はない。どちらが好みかだけである(増田はシェリルに幸せになってほしい)。よってシリーズ中一番三角関係がくっきりしているし、どちらもタイプの異なるヒロインで初代のように片方が強すぎるというのはない(と思う)。
逆によくなかったところは三角関係に決着がつかないところ。アルトくんはっきりせいや!少女漫画風に見れば王子様のアルトをスターダムを駆け上がるランカ(主人公ポジ)が射止める流れだが、シェリルもそれはかわいそうな背景を背負っているので簡単には決着をつけられなかったのではないかと思う。なお個人的には、兄が二人もいて、友達(一部友人以上の愛を向けられる)もたくさんいるランカと、天涯孤独で唯一信頼していたマネージャーに裏切られ命に関わる病気を負いアルバムが投げ売りされるくらい人気がガタ落ちしたうえ、アルトと恋人になったと思いきや無意識に恋人としてのロールを演じられていただけという仕打ちを受けたシェリルでは差がありすぎるので、ランカはシェリルにアルトくんを譲ってあげてよと思う。
正直なところ少し不満がある。特に戦闘機の花である地上でのドッグファイトがほぼ無かったところが残念。
ただ、マクロスプラス以後の作品では、YF-19 以降のバルキリーの何をアップグレードするのか難しかったのだと思う。思うに現代で知られている戦闘技術はほぼプラスで描かれているので、プラス以上の何かを新たに作り出すのはそれこそ革新が必要だろう。実際マクロスゼロは時代設定を初代より前に置くことでこの問題を避けている。
それにプラスで、ゴースト X9 というシリーズ最強の敵を作ってしまい有人戦闘の可能性にリミットを設けてしまったこともある意味よく無かったのかもしれない。どれだけ高性能なバルキリーを出そうにも、それにゴーストの AI を組み込めばお手軽に最強になる。人の反射神経や視界などのセンシング能力が機械に勝つことはないのだ。
あとバルキリーでは無いけど、ケーニッヒ・モンスターがめちゃくちゃ渋い。重爆撃機のようなフォルムから恐竜みたいなデストロイド全て重量感があって良い。動きも武骨なデザイン通りの重い動きをして、背中の砲台から反応弾をドッカと撃ち出す。かっこうよすぎる。
女性ボーカル好きとして最高だった。12話の星間飛行ライブと15話のデュエット、そして最終話は4回は見直したぞ!
好きな曲がありすぎて書ききれないのだけど、12話は伝説だった。12話はそれ自体が星間飛行の PV と言っていよいだろう。あと What 'bout my star は印象に残るシーンが多かった。ランカの路上ライブバージョンではアカペラから入って、ギター、ドラムと段々と音色が増して行く構成が見事だし、15話の What 'bout my star のヒロインズによるデュエットはとにかく破壊力が高すぎる。途中で終わってしまうのが残念でならない。それから外せないのは最終話のメドレーだろう。最終話はシェリルとランカのリレーとデュエットなのだが、二人が歌い始めた時点で勝ち確定で、実質的にも最終話は冒頭からエンディングだった。特にこの最終話で印象に残ったのは、オープニング曲であるライオンを二人で歌うシーンと、シェリルが短いフレーズだけ歌う私の彼はパイロット。前者は演出の定番だが歌詞の内容もありやっぱり盛り上がるし、後者は歌の繋ぎとしての採用だがまさかシェリルが歌うとは思っていなかったのですごく上がった。
マクロス7のところで苦言を呈した音楽のミックスについてだが、この最終決戦は完璧だった。全体のテンポを崩すことなくシェリルとランカのそれぞれの持ち歌とそのほかの歌たちが見事にメドレーとして再構成されていた(まあその完成度のせいで冒頭からエンディング状態だったのだけど)。
個人的に声優に興味が無いため個人名をほとんど覚えていない中で、中島愛さんはランカの歌声の人として覚えた(ちなみにもう一人は皆口裕子さん。この人の声は耳に優しいのに耳を捉えて話さない魔性がある)。声優としてはすごくうまいとは思わないが、歌声が満点すぎる。とにかく歌が上手い。声質も綺麗なんだが、伸びのある声と聞き取りやすい音域でうっとりする。
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というわけで、マクロスシリーズめちゃくちゃ面白かったのでおすすめ。初めて見るなら、超時空要塞マクロスの Permalink | 記事への反応(0) | 00:32
某日某動画配信サイトでマクロスデルタ映画公開記念としてマクロスシリーズ作品(超時空要塞マクロス、マクロスII、マクロスプラス、マクロス7、マクロスゼロ、マクロスフロンティア)が公開されていた。
マクロスをちゃんと見たことがなかったのでマクロスII以外全部見たところ、めちゃくちゃ面白かったのでネタバレ全開で感想を書く。
なお、IIを見なかった理由は特にない(ビジュアルに惹かれなかったからだっけな?)
さすがに80年代のSF作品なので、今から見ると古臭いだろうなと覚悟していたのだが、正直なところストーリーは一番面白かったかもしれない。
外宇宙より流れ着いた高度テクノロジーを回収し、マクロスとして改修したところ、機関が暴走して地球から冥王星までワープしてしまう。 しかも開発拠点となっていた土地も、街ごとすべてマクロスと共に移動してしまう。 そして、孤立無援のなか民間人を抱えたマクロスは、絶望的な戦力差のゼントラーディー軍と対峙することになる。
民間人の街を含む生活圏ごと宇宙空間に放り出される、という SF 設定がまず素晴らしい。地球を遠く離れ、マクロスに依存して生きることになる市民と、市民を抱え込みながら作戦を実行しなければならない統合軍という、対立を設定したことで生まれたドラマの重みが他の作品に無い魅力だった。マクロス艦内に街を作る流れとか、マクロスが主砲発射のため変形すると道が割れ家が崩壊し市民に甚大な被害が出るというジレンマが、作品がただのヒーロー物となるのを防いでおり実に良い。最初の数話はずっと、マクロス艦内の(一条とミンメイの)サバイバル生活や、統合軍の武力を軽蔑する一条の話であり、マクロスという作品は戦闘が全てではないということを描いているし、ロボットアニメなのに一条が統合軍に参加するまでにも紆余曲折あって一筋縄ではいかないという序盤の展開の遅さも、今から見れば一条の若者らしさが強調されているように感じる。
また、ゼントラーディー軍とプロトカルチャーという一つの設定から、圧倒的戦力差があるのにゼントラーディー軍がマクロスを殲滅しない理由、逆にマクロスが基幹艦隊に対抗できる理由が自然に説明されている。プロトカルチャーとは何か、なぜ敵は様子見をしているのか、その謎が作品全体の軸となっていて、最後(27話)まで楽しく見れた。
個人的には早瀬少佐を陰ながら応援していたのだが、ミンメイが強すぎて三角形がほぼ直線に見えてしまうのが問題だと思う。早瀬少佐ほとんど最後まで片思いじゃないか。
まあ一条は三角関係にピリオドを打ったのでよしとしたい。しかし、主人公の一条光は本当に等身大の若者として描かれている。いい雰囲気だったミンメイには袖にされるし、それまでの経験からエースパイロットとなるけど、あっさりマックスに絶対エースの座を奪われるし、超人的なところがない。この等身大の恋愛が、作品にいい意味で青くささを与えているのだろう。
世界一カッコいい兵器である戦闘機が、さらにスタイリッシュなロボットにも変形するのだ!!!最高以外のなにものでもないではないか!!!!!!
...... ふう。
某物書きによると、自動車などと違って、飛行機というのはデザインがそのまま性能に直結するため、極限まで無駄が排除された存在であるらしい。飛行機の美しさ・カッコよさというのは機能美であると。つまり戦闘機であるバルキリーは必然レベルでカッコよく、その戦闘機が変形するバトロイドはカッコよくないはずがないのだ。
バルキリーの外見以外の話をすると、基本モードがファイターであることが徹底されているのがよかった。人型ロボットが高機動戦闘に不向きなことなんて自明なので、ヒットアンドウェアはファイター、飛翔体迎撃や地上行動はバトロイド、水平移動やランディングはガウォークという役割分担がはっきりしていたのもグッドポイント。
【懺悔】はじめはガウォーク形態を、ノーズに手足が付いていてなんか不恰好だと思っていました。全話見終わってようやくガウォークのカッコよさに気がつきました。いまではファイター >> ガウォーク > バトロイド の順で好きです。不当にガウォークを貶めてしまい申し訳ありませんでした。
正直、歌にこんなにバリエーションがあるとは思っていなかった。
しかしこのストック数があったおかげであの伝説の最終決戦(ミンメイアタック)が実現したのだと思うと、マクロスと歌は不可分なのだと実感する。
「私の彼はパイロット」と映画版だけど「愛・おぼえていますか」がマクロスを象徴する曲だと思う。
最高。ミュンを中心とした三角関係とむせかえるような戦闘機野郎臭にクラクラした。また電子歌姫、AIの暴走、有人戦闘機は無人戦闘機に勝てない、などの描写は未来予測として見事だった。
冒頭の強烈なドッグファイト、ステルス機 YF-21 のお目見え、YF-19 の超マニューバと1話から戦闘機づくし(後退翼!!)!さらに地面効果やチャフグレネードといったマニア向けの細かい描写まできっちり!トドメとばかりにミサイル増しまし、サーカス全開!ファンタスティック!!!最高の戦闘機アニメだった!!!
初代の青々しい恋愛とは異なり、皆が古傷を抱えたちょっとスパイシーな恋愛だった。はじめからガルドの負けは決まっていたけどな。
シャロンのトランスするような曲(BGM)は、未来の音楽という感じで演出も含めて作品を唯一無二のものとしている。それに対してミュンの素朴な歌声が要所で差し込まれることで、全体としてメリハリがついて音楽性の幅を獲得している。つまりは菅野よう子さんすごい。
歌(というかバンド)に振ったストーリーなので戦闘描写が薄い(マクロスプラスの後に見たせい?)。バンドマンサクセスストーリー -- 熱気バサラ伝記 -- といった感じ。
サウンドパワーが出てからかなりファンタジー方面になっていくところは SF を期待していた身としては少しがっかり。面倒くさい SF 勢としては、違う次元から来たのにプロトデビルンが人間くさすぎるところがもにょる。とあるプロトデビルが「破壊美〜」とか美学を叫ぶけど、美学なんてもっとも文化に隷属しているものだろう。
ただ、移民船やマクロス艦(バトル7)の設定は、フロンティアへ繋がるマクロス世界を広げた良い設定だった。
バサラ --- ミレーヌ --- ガムリン のトライアングルだけど、バサラは何考えているのかわからないし、ミレーヌはお子ちゃまだし、ガムリンは奥手で死ぬ死ぬ詐欺だしあまり恋愛要素は無かった。というかあのよく叫ぶシビルはなんだったん? バサラのエゴ?
主人公が非戦闘員だから仕方がないのだけど、戦闘描写が薄い。バサラは戦わない設定なので、敵弾は避ける防ぐだけだし地味。基本的に、敵襲来→守備隊が壊滅→バサラ達が出てきて歌う→ガムリンが頑張る→もっと歌う→敵が逃げるのパターンでバンク処理が多いし、ファイター形態で戦うパイロットがほとんどいないのも残念。熱いドッグファイトが見たいのだ。
初代も当時のTVシリーズとしては驚きの楽曲数だったが、今作はバンドマンストーリーなのでフルアルバムが作れるくらい楽曲が生み出されている。バサラとミレーヌのツインボーカルなので、バサラの熱唱からミレーヌの透明感のあるバラードまでバラエティも豊か。特にミレーヌボーカルの曲が好き。
しかし楽曲は良いのだけど、演出が今ひとつのところがある。最終決戦など、バサラとミレーヌがそれぞれの持ち歌を歌う場合だ。それぞれ曲調が異なるのに交互で歌うので音の統一感が無くなっている。もっと DJ などのように統一感のあるミキシングをして欲しかった。
良かった。3DCG で作ったマクロスプラス。カーゴカルト的なストーリーは自然回帰にみせかけたマクロスだった。基本的にバルキリーに興奮するアニメだと思う。
果たしてサラは帰ってこれたのだろうか。後にシンの手記が出版されているのでシンは帰って来たのだろうが。特に三角無し。
3DCG になってダイナミックな絵作りができるようになったせいか、マクロスプラス並みのドッグファイトを見せてくれる。まだバルキリーが普及していない時代という理由からか、戦闘は基本的にファイター + ガウォーク形態でここぞ!というところでバトロイドに変形するのだが、そのメリハリが素晴らしい。
一番良かったのはフォッカーが初めてバトロイドに変形するシーン。ガキンガキンガキンとリアルタイムに変形するシーンは魂がふるえた。
マクロス7と歌ラッシュ比べると、サラの歌と鳥の人の歌程度なのであまり印象にない。むしろフロンティアでのランカのアイモの方が印象に残っている。
最高(2回目)。超時空要塞マクロスからマクロスゼロまでのまさに集大成。初代から久しく無かった、ゼントラーディー部隊の再登場、ミンメイアタック、マクロスアタック(旧名ダイダロスアタック)、娘娘、ミスマクロスなどなどものすごい初代リスペクト。加えて オズマが Firebomber のファンとか、マクロスゼロを劇中ドラマとして登場させるなど、過去のマクロスの引用や展開がさりげなく大量にありまさにマクロス集大成。
また SF 面も、ヴァジュラの生態やフォールド波など骨太設定がしっかりとしていて良かった。
SF 好きで、戦闘機好きで、ロマンス好きで、歌好きオタクは皆撃ち抜かれるのではないだろうか。
少しこれまでの三角関係を総括する。初代の三角関係のよくないところは、早瀬少佐よりもミンメイが強すぎるところにある。これは早瀬少佐が堅い軍人でミンメイがアイドル歌手だということにあると思う。歌う姿がインパクトありすぎるのだ。逆にマクロス7はバサラは何もしないしガムリンはパッとしないので、盛り上がりに欠ける。
上記の悪かったところを念頭に置いた上に本作を見ると、ヒロインのシェリルとランカは両方ともトップアイドル(ベテランと新人)なのでその問題はない。どちらが好みかだけである(増田はシェリルに幸せになってほしい)。よってシリーズ中一番三角関係がくっきりしているし、どちらもタイプの異なるヒロインで初代のように片方が強すぎるというのはない(と思う)。
逆によくなかったところは三角関係に決着がつかないところ。アルトくんはっきりせいや!少女漫画風に見れば王子様のアルトをスターダムを駆け上がるランカ(主人公ポジ)が射止める流れだが、シェリルもそれはかわいそうな背景を背負っているので簡単には決着をつけられなかったのではないかと思う。なお個人的には、兄が二人もいて、友達(一部友人以上の愛を向けられる)もたくさんいるランカと、天涯孤独で唯一信頼していたマネージャーに裏切られ命に関わる病気を負いアルバムが投げ売りされるくらい人気がガタ落ちしたうえ、アルトと恋人になったと思いきや無意識に恋人としてのロールを演じられていただけという仕打ちを受けたシェリルでは差がありすぎるので、ランカはシェリルにアルトくんを譲ってあげてよと思う。
正直なところ少し不満がある。特に戦闘機の花である地上でのドッグファイトがほぼ無かったところが残念。
ただ、マクロスプラス以後の作品では、YF-19 以降のバルキリーの何をアップグレードするのか難しかったのだと思う。思うに現代で知られている戦闘技術はほぼプラスで描かれているので、プラス以上の何かを新たに作り出すのはそれこそ革新が必要だろう。実際マクロスゼロは時代設定を初代より前に置くことでこの問題を避けている。
それにプラスで、ゴースト X9 というシリーズ最強の敵を作ってしまい有人戦闘の可能性にリミットを設けてしまったこともある意味よく無かったのかもしれない。どれだけ高性能なバルキリーを出そうにも、それにゴーストの AI を組み込めばお手軽に最強になる。人の反射神経や視界などのセンシング能力が機械に勝つことはないのだ。
フロンティアでは、ゴーストを軍事的に封印し、バルキリーのバリエーションをブースターパックにより広げた。これは良い選択だと思う(スナイプについては思うところもあるが)。
あとバルキリーでは無いけど、ケーニッヒ・モンスターがめちゃくちゃ渋い。重爆撃機のようなフォルムから恐竜みたいなデストロイド全て重量感があって良い。動きも武骨なデザイン通りの重い動きをして、背中の砲台から反応弾をドッカと撃ち出す。かっこうよすぎる。
女性ボーカル好きとして最高だった。12話の星間飛行ライブと15話のデュエット、そして最終話は4回は見直したぞ!
好きな曲がありすぎて書ききれないのだけど、12話は伝説だった。12話はそれ自体が星間飛行の PV と言っていよいだろう。あと What 'bout my star は印象に残るシーンが多かった。ランカの路上ライブバージョンではアカペラから入って、ギター、ドラムと段々と音色が増して行く構成が見事だし、15話の What 'bout my star のヒロインズによるデュエットはとにかく破壊力が高すぎる。途中で終わってしまうのが残念でならない。それから外せないのは最終話のメドレーだろう。最終話はシェリルとランカのリレーとデュエットなのだが、二人が歌い始めた時点で勝ち確定で、実質的にも最終話は冒頭からエンディングだった。特にこの最終話で印象に残ったのは、オープニング曲であるライオンを二人で歌うシーンと、シェリルが短いフレーズだけ歌う私の彼はパイロット。前者は演出の定番だが歌詞の内容もありやっぱり盛り上がるし、後者は歌の繋ぎとしての採用だがまさかシェリルが歌うとは思っていなかったのですごく上がった。
マクロス7のところで苦言を呈した音楽のミックスについてだが、この最終決戦は完璧だった。全体のテンポを崩すことなくシェリルとランカのそれぞれの持ち歌とそのほかの歌たちが見事にメドレーとして再構成されていた(まあその完成度のせいで冒頭からエンディング状態だったのだけど)。
個人的に声優に興味が無いため個人名をほとんど覚えていない中で、中島愛さんはランカの歌声の人として覚えた(ちなみにもう一人は皆口裕子さん。この人の声は耳に優しいのに耳を捉えて話さない魔性がある)
https://addons.mozilla.org/ja/firefox/addon/youtube%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%BF/
Youtube普段使いであるFirefoxへやっと移植できました。
フィルタ処理に難しいところはひとつもないのですが、自動再生の無効化が今ひとつうまくいかなかったのとこまごまとした不具合がなかなか落ち着かなかったのと暑かったのと。いろいろ。
なお、表示はFirefox57以上となっていますがVer55でも動いてます。明確に動かないのは52より前です(browser.storage.local.getに不具合があるため)
個人的には相当便利に使ってます。サムネでの自己主張が激しい方々や文字流すだけの虚無動画をどんどんNGしていくとストレスを感じることが少なくなりますから。ただ需要はあまりなかったようで、Chrome版ユーザー数わずか6です。リリースしてしばらくは1(わたし自身)だったのでこれでもだいぶ増えました。もうPCでYoutube観てる人ってかなりの少数派になってるのかもしれません。
はてなフィルタがChrome版ユーザー数300弱に対してFirefox版30くらいなので、こちらは1人居るか居ないかでしょうか。
実写化?知りませんねって感じだったんだけど、まあ気が向いたのでレンタルしてきた
なんだあれ?
個人的な感想です、ていうかあまりにも混乱してるのでちょっと待ってって感じ、もちろんネタバレする、めっちゃ長い
なるべく好意的に考えたいとは思う
キャストはそこまで悪くない
まあ、みんなあんなにひょろくねえよとは思うけど、頑張ってたと思うし、あんなめちゃくちゃな映画でよくもあそこまで真剣にやったものだ
演技がシリアスであればあるほどにじみ出るお遊戯感は多分キャストのせいだけじゃない
それにしても承太郎は英語がひどかった、あれはさすがにもうちょっと頑張れよ
キャスト発表の時にも思ったことだけど、なんであんなちょいキャラにキャスティングしたんだ?だったら吉良やってほしかったよ、平穏に暮らそうとする手フェチサイコキラーなんて役ができるのあとだれだよ? 藤原竜也?
コスプレ感すごいな!
あれでシリアスな場面がすべて台無しになってると言っても過言ではない、何回か本当に吹き出した
学ランとかはそこそこリアルな方向にアレンジしてたとは思うんだけど、髪型やばい
仗助のハンバーグ頭を変更されるのはなしとしても、もうちょっと服装と同じくらい現実的なアレンジ加えてもよかったんじゃないだろうか
承太郎は後ろ頭の帽子と髪の毛の一体化具合に腹筋やられたし、虹村兄弟も髪の毛が気になって気になってシリアスな場面が全然シリアスでいられない
あれは原作からしてDB意識してただろうとは思うけど、実写であんな表現してくるとは思わなかった、見せ場を作ろうとしたのはわかるんだけど、あれでよかったんだろうか(ごく個人的には「やめろ」って繰り返してたあたりで「友奈ちゃんをいじめるなー!」が連想された、ヒロインかよ)
服装のほうも学ランのペラペラ具合とか気になったので、いろいろ衣装さんの予算の都合があるのかなという気もしないではない
あと、あれスペインロケの意味あんの?いいじゃないですか仙台で
虹村兄弟の家豪華すぎて笑っちゃったよ、原作もなかなかいい屋敷に住んでるけど、立入禁止があまりにもそぐわなすぎ
スタンドバトルはもうちょっとオラオラとかドラララとか見たかったなあ、act1は見れてうれしかったけど
全体として家族愛を軸に仗助がじいちゃんの遺志を継ぐまでをやりたかったのはわかった
アレンジするのはいいよ、原作あのままを二時間の映画でやってもしかたない、そういうのはアニメでやったし
ただ改変がことごとく悪い方向にしか向かってないというか、あまりにも再構成が下手すぎて混乱するだけになってるように思う
まずなんで高二にしたの?映倫の都合?まあそういうことで康一を転校生にする必要があったとして、キャスティングの都合上由花子をある程度の時間出さなきゃいけなかったとして、あそこまで由花子を露出する必要あるか?
由花子はどう考えても第二章以降でのメイン要素なんだから、黙ってれば美人なんだし普通にヒロイン枠で姿をチラ見せさせといて、康一と普通の青春しそうに思わせといて、億泰との交錯で見る側になんとなく疑惑は持たせつつ最後にお弁当でも宿題でも使って「あれこの子おかしいな?」って今後の引きに使ったほうが話がすっきりすると思う
第一章序盤から由花子のアレっぷりをアピールしても話が散漫になるだけだろ、伏線ならきちんと伏せてろ
ていうか億泰だって要は転校生だろうし、康一と同じ転校生として由花子と同じように姿をチラ見せさせつつ後半につなげればよかったと思うんだよ、前半にある程度虹村の兄弟愛を掘り下げておけば最後の兄貴の死にも説得力が増す
アンジェロは逆にあんなに掘り下げる必要はない、東方家と虹村家でそれぞれの家族愛を比較させてるんだからさらにアンジェロの父親の話まで入れる必要ないだろ、入れ方も中途半端だったし
そして余計なエピソード入れたくせに、時間稼ぎにべらべらしゃべって人質取ろうとするエピソード省くもんだから、アンジェロ岩がやりすぎに見えてえぐくなってる、ただでさえ実写でえぐいのに
あれでやさしい能力とか言われても正直いやいやいやと思ってしまうわ
それに東方家も正直描写に尺を取りすぎてる、じいちゃんを多少掘り下げるのはいいとしてもやりすぎ、あれの三分の一でいい
そもそも今後の展開として、ジョースター家とDIOの因縁をどうするつもりだったんだろう
第一章の時点で矢の説明がなんにもされてないし、兄貴やアンジェロがDIOに言及しないし、あくまで杜王町の話として3部以前にまったく触れないつもりだったんだろうか
余計な伏線は細々いらんとこまで張っといて、弓矢の出所についてはきっぱり第二章で!とかないと思うんだよな
そうするとジョースター家がなんでスタンド使えるのかとかがまったく説明できないと思うんだけど、そのまま押し通すつもりだったんだろうか
それにしたって虹村父がああなったのを「バチが当たった」で流しちゃうとかないだろ、強欲と人でなしがすぎてあんなふうになるとか普通に意味わからんわ
矢を奪うのが吉良ってことは、のちに矢でスタンド使い増やすのは吉良父じゃなくて吉良本人ってことにする予定だったのか
すごい好戦的な吉良だな、静かに暮らしたいとか絶対思ってないだろ
だいたいシアーハートアタックでどうやって矢を持ってったんだろうか
アンジェロが聞いてるだろう状況で承太郎が「オレのスタンドは時を止める能力だ」とか言い出してわざわざ自分の能力ネタばらししたりとか
クレDの能力的に康一はそもそも時間稼ぎする意味あったの?とか
シアーハートアタックが口に入った状態で兄貴どうやって喋ってたの?とか(というかもしかしてあれはシアーハートアタックが腹から体内突っ込んで口に到達したということなのか?口からは物理的に入らんだろ、画面から全然読み取れなかったんだけど)
最後の仗助と承太郎の会話がわざわざ海辺でやってるせいで二時間ドラマみたいにだせえとか
台詞の言い回しを細かく変えたりするより前にそういうところをちゃんと考えたほうがよくないだろうか
頭の悪い改変はこの際置いておくとしてもテンポ悪いわ話はだるいわ説明がいろいろ足りてないわでひどいありさまだけどな
要約すると視覚的にはコメディで演出がサスペンスで脚本は杜撰で頭悪いという絶望的な組み合わせだった
もっと要約するとくっそつまんなかった
以前角度おじさんが神殿更新について説明してたと思うから重複して説明するのはちょっと嫌なんだよね。
引っ越しだから建物もとっかえになるし、それに従って組織なんかも「再構成」が行われる。
これによって、今までため込んできた余剰の予算を福利厚生(もしくは、公共事業)という形で吐き出すことができるし、組織を再編成することができるんだから人間関係のリセットや「不要な人間の排除」も行えるわけだ。
ともかく、凝り固まった関係性やモノなどの「ゴミ」を一掃できるから、神殿更新は定期的に行われるんだよ。Pixivにしてもそれはそう。旧UIで慣れている人でも、その中に不要とする機能やゴミがそれなりにたくさん含まれていることには気づいているだろう。
ポッド達は再起動する事を期待して、3人のパーツ群を再構成していますが、そもそも、再起動するとは限りません。
A2の最後の姿は、長髪で再構成されたのかも知れませんが、長い年月が経っても起動しなかった、もしくは、起動したくなかった結果かも知れません。
無事に再起動出来たとしても、バンカーやデボル・ポポルを失った中、ヨルハ機体の高いメンテナンスコストをどうするのか。過去のA2のように、メンテナンスコストを跳ね返すような、強烈な生存意識が生まれるのか。
人類が既にいないという事実に対して、存在意義やアイデンティティを維持できるのか。ゲーム本編の9Sのように自暴自棄にならないか。
パスカルの選択肢や真珠湾降下作戦以降のA2やアネモネのように、生きているが故に、苦しまなければならないかも知れません。
と、
将来に対して、ネガティブな想像は、かのように色々と出来てしまいます。
それでも、
先々の事は今は分からないけれども、
生きてさえいれば、明るい未来を獲得出来るかも知れない。
あれだけ荒んでいたA2が、他者との触れ合いの結果として、Cエンドの最後で世界の美しさを再認識したように、
そういう希望(厳しい面はあるが…)を提示しているので、ハッピーとまでは言えないまでも、良い余韻を残すエンディングだったと思います。
相変わらず投稿するような場を持ってないのでここに。
PyQt5のアプリ上で外部から取得したPNG/JPEGをクリップボードに送りたかったが、
期待する動作は、Officeに元の形式として貼り付け可能であること。
QClipboardなのかclipboardなのかで相当手間取った。
というかQApplicationがいまいちわからん。これでいいのだろうか。
ともあれ、クリップボードにはいろいろ格納されたようだが、Office上ではビットマップとしてしか貼り付けられなかった。
import sys from PyQt5.Qt import QApplication, QImage img = QImage('test.png') app = QApplication(sys.argv) app.clipboard().setImage(img)
失敗1から一回QMimeDataを経由してみた。結果何も変わらず。
# -*- coding: utf-8 -*- import sys from PyQt5.Qt import QApplication, QImage, QMimeData img = QImage('test.png') data = QMimeData() data.setImageData(img) app = QApplication(sys.argv) app.clipboard().setMimeData(data)
以前C#にて、画像生成してクリップボードに送るアプリを作ろうとしていたときの残骸を参考にトライ。
無事期待する動作が得られた。
JPEGの場合はsetData('JFIF', img)になる。
# -*- coding: utf-8 -*- import sys from PyQt5.Qt import QApplication, QMimeData with open('test.png', 'rb') as fo: img = fo.read() data = QMimeData() data.setData('PNG', img) app = QApplication(sys.argv) app.clipboard().setMimeData(data)
今回はPyQt5ベースだったので試さなかったが、pywin32のwin32clipboardとかいうのも使えたのだろうか。
まずは、外の世界から隔離した場所を造り、そこへ人間達を住まわせます。
飲むだけで空腹が満たされ、若さを保ち、健康でいられる”湖”をつくりました。
その水は、人間だけでなく、植物を潤し、空気もきれいにします。
身体にかけるだけで、汚れが取れ、傷が治り、とても良い香りに包まれます。
しかし、何ヶ月か過ぎると、人間達は不満を持つようになりました。
神様は、人間から男女の種別を無くし、その原因を取り除きます。
そして子孫を残せない代わりに、永遠の命を与えました。
調べてみると、綺麗な者が醜い者を虐げていました。
https://anond.hatelabo.jp/20171022210553
少し追記する
人間の英知とは、自身で出来ることの増加ではなく、環境を変えることへの志向から生まれた
例はいくらでもある
利便性と効率の追求によって、職人は消え、仕事は消え、人は人と仕事をしなくなる
人は欲求阻止体験を抱え込むことから解放されつつある。しかし苦悩場面を体験しないで済むということは当然その時発動される自我の防衛・工夫などの鍛錬をしないことに通じる。
人は言葉を使って考えることで世界を内的に再構成すると言われるが、欲求満足や快感が保証される社会では、個人はそうした作業負担を免れる。人格はその構成を拡散させたままでも生存できる方向に向かっており、人は欲求とその満足というパターンを得ているうちは良いが、そうでない時には著しく脆弱な反応を見せる、「考えない」存在になっていくことが懸念されるのである。
事実、対人関係だけはこうした欲求一満足という即物性を欠いている(人をモノ化した際には成立するが)。
現代人に残された難物がコフートの言うように周囲の人間との関係性に悩むことであるかもしれず、またそれも情報機器の助けによって容易に自己完結的な引きこもりへの道が用意されていると言えよう。
この「人をモノ化した際には成立する」というのが、今の日本で行われつつあるのではないだろうか
「現代のオタクは少女をどこまで「破壊」すれば安心するのだろうか」で書いたように
キャラクターとはそもそも、人間性を破壊しモノ化した対象を指す
また、現代における現実の人間関係がそもそも、葛藤回避的である印象もある
お互いに不快な思いをさせないよう、生ぬるい表面的な関係とやり取りに終始する傾向にあるのではないだろうか
その反動としての「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」や「とらドラ!」の存在が持て囃される一方で
彼らの世界には葛藤はなく、それを表現した作品への希求はなく、ただただ苦痛な体験をアニメ媒体を通して追体験させられているように感じられるのではないだろうか
そこにきて「Re:ゼロから始める異世界生活」において主人公が陥るような自己肥大と自己嫌悪といった葛藤に直面化させられると
「主人公が気持ち悪い」「かっこ悪い、見てて苦痛」という感想しか持ちにくく、自分と相対化してみることができなくなる
ネットにおいて「自分がその段階を通過していないから、スバルに対して"ああ、自分もこういう時期あったな"とみることができない」という指摘がしばしばみられるが