はてなキーワード: 「紅」とは
美少女キャラを「卑しい女」と称するスラングについて、その興りが古すぎる上に虹裏という比較的他所と隔絶しがちな文化圏から生まれたスラングなせいで
「オタクが美少女をバカにする事言ってて気持ち悪い」「卑しいって普通悪口じゃない?なんでそんな事言うの?」みたいな誤解(でもないけど)をよく見かけるのでどこかに書き残しておきたいと思ったものとして残す。
https://dic.pixiv.net/a/%E5%8D%91%E3%81%97%E3%81%84
まあぶっちゃけ現状ではここ見るのが一番シンプルにまとまってるのだが…
まず始まりはライトノベル原作のアニメ「紅」であり、なんと2008年放送。15年以上前で書いてるこちらがびっくり。
「崩月夕乃」というヒロインが別ヒロインに「卑しい女」と言われるシーンが存在するのだが、
これが後に(小説・漫画の)夕乃というキャラの主人公への愛の重さを指す褒め言葉として虹裏のファンの間で逆説的に使われるようになり、「夕乃さん卑しい!」「卑しい…」といった定型(語録)のように広まっていく。
そして紅以外の作品にも伝播していき、漫画やアニメなどで重い愛情を主人公に向けるキャラが出るたび感想は「卑しい…」で埋まり、「◯◯って子が卑しくてかわいい」のような使われ方をするようになった。
その後アイドルマスターシンデレラガールズ(今で言う「モバマス」の時代である)に和久井留美というキャラが「美優(三船美優)は卑しい女よ…」という発言をするという二次ネタが流行る。
これがソシャゲなどが流行るたびに定型として別の作品に引き継がれるようになっていき艦これ・シャニマス・ウマ娘・ブルアカ…と広まっていく過程でまとめやツイッターを経て虹裏以外にも流出し、
元の流れを全く知らない層にも広まってしまった結果「卑しい=愛が重いヒロインへの褒め言葉」という前提の認識が一切ない場所でもそのまま流れで使われるようになってしまった…という経緯があるわけだ。
個人的にはこんなことになってしまった今となっては「その用法を知らない人もいるのだから誤解を受けやすいのは避けよう」とも「ネットのスラング文化くらい調べて欲しい」という心が2つあるのだが、
たまに「好きなキャラが卑しいって言われて悲しい」とか「私の作品に卑しいとか言う人がいて意味がわからない」みたいな悲しいすれ違いを見かけるのでこれを書いた。
「変な話だけどこのネットスラングの歴史においては卑しいは悪口じゃないんですよ…」ということだけは知っておくと多少心が安らぐかもしれない。そうか?
「紅」とどっちが酷いのだろうか
ポテトサラダが大好きだ。
という手順を踏むわけだが、自分で作ると
となり、ポテトサラダを作ることが絶望的なのでスーパーの惣菜で買う。
さて、本題の「ポテトサラダにりんご」問題だが、自分はポテトサラダにりんごは断固として拒否する派である。
だが、ポテトサラダ好きということをしった彼女が焼肉の付け合せにポテトサラダを作ってくれることになった。
ポテトサラダに何が入っていると嬉しいかを聞かれたので「カニカマ、きゅうり、レタス」が三種の神器であることを伝えて、買い物に一緒に行く。
そして、彼女が手にとったりんごに一抹の不安を覚えて帰宅するのであった。
「手伝おうか?」というと、「いつもコウちゃんが料理してくれてるから今日ぐらいは私にさせて。ホットプレートとかの準備をお願い。」という彼女。
いや、ちがう。「カニカマ、きゅうり、レタス」が三種の神器という話はしたはず。りんごは焼肉を食べたあとにきっとお口直しに食べるだけだ。
「カニカマ、きゅうり、レタス」が三種の神器と言った。この3種のポテトサラダこそがポテトサラダの王であるとまではいっていないが、伝わっているはずである。
わかる。
入っている。
りんごが入っている。
赤色が見える。
皮付きの薄切りで。(薄切りサイドの人間だったのかとここで知る)
赤色といえばかにかまも赤色だがカニカマの赤色とは明らかに違う「紅」だ。
ここで、毅然とした態度で「ポテトサラダにりんごは邪道であり、断固として拒否する。三種の神器を侵すことは君だとしても許せない。」ということはできる。
俺がとった行動は「食べる」ことだった。
子供だった頃、母親が作ってくれたポテトサラダにりんごがはいってる確率はおおよそ3割だった。
ポテトサラダにテンションがあがり、口に含んだ瞬間、「シャリッ」とりんごが主張してくるのが嫌いだった。
ポテトサラダはホクホクだから美味しいはず。自分でマッシュするタイプのポテトサラダが居酒屋で出てきて嬉しいのはそのホクホク具合を自分ごのみに設定できるからであって、「シャリッ」という食感は完全に邪道であった。
だけど、母親が「コウちゃんが大好きなポテトサラダだよ」といって作ってくれたポテトサラダを嫌いということが出来ず、我慢して「おいしいよ」といって食べた。
今自分が対面しているポテトサラダもまた「コウちゃんが大好きなポテトサラダだよ」といって作ってくれたポテトサラダなのだ。俺には「おいしいよ」と言うしかない。
「おいしいよ。」
「よかった。どう?薄切りのコンポートにするとシャリッとした食感がないから大丈夫でしょ?」
彼女はわかっていた。
だから、克服するチャンスをくれたのだ。俺はなぜか感涙していた。
それは善意を100%素直に受け取ることができない自分が嫌いだったのだ。
心の中で違うと思いつつ「おいしいよ」と心がこもってない言葉を発する自分が嫌いだったのだ。
「うん、思えば、別に味とかじゃなくてそのポテトとおもってりんごを食べた時の食感が苦手だったのかも。ありがとう。」
■トトロってどんな話なの?
https://anond.hatelabo.jp/20180820185203
トトロの下敷きになった話はビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』というスペイン映画で、ストーリーはほとんどこれをなぞっているだけ(妖精が見える少女が迷子になってしまい、みんなが探し回る話)。
「何が目的で話が進められてんのか分からん。」というのはある意味真っ当で、その原因はトトロにおいてはこの映画の思想的な側面がすっぽ抜けているからだ。
これがどういうことかってことを書く。
『ミツバチのささやき』は、スペイン内戦前後のスペイン国民の欺瞞に満ちた状況を、一つの家族の中に落とし込むことによって戦後のスペインのあり方を批判的に論じた作品だ。
たとえば、お父さんは弾圧を怖れて何も表現できないインテリになっているし、お母さんは過去を懐かしむだけの人間となり、お姉ちゃん(スペインのサツキ)は暴力的なフランコ独裁政権に順応的な少女となっている。
この作品は当時の政治体制に批判的な内容でありながら、当時行われていた検閲を潜り抜けるために、非常に難解なつくりになっている。
難解ではあるが、田舎の牧歌的な風景の中で2人の美少女(サツキとメイのモデル)が走り回っている姿は観ていて居心地が良く、宮崎駿のイマジネーションを大いに刺激したらしい。
宮崎駿の作った『となりのトトロ』のテーマは「子どものように偏見のない無垢な視点で物事を見ることが大事」という点にあり、これは『ミツバチのささやき』と共通する。
だが、国民の欺瞞に満ちた状況を一家族に落とし込むというアイデアはここでは慎重に取り除かれている。
その結果、『となりのトトロ』は印象的なシーンは多いものの、テーマ性が弱まり、「何が目的で話が進められてんのか分からん。」ということになった。
このことはタイトルから明らかで、『紅の豚』の「紅」は、アカ、つまり共産主義者のことだ。「豚」は、宮崎駿がよく自画像を豚として描くことから分かる通り宮崎駿自身を指す。これをつなげると『紅の豚』とは「共産主義者の宮崎駿自身」ということになる。(このことは宮崎駿の著書にも書かれている)
内容としても、飛行機好きの主人公がかっこ良く活躍するが、自分を慕う女性を蔑ろにしてしまう(が、女性の方はそれを許容する)、というもので、宮崎駿の生活をそのまま(?)なぞっている。
破滅*ラウンジは終わった。
「再生」という単語にこれだけの機能不全性を感じたのはいつ頃ぶりだろう。骨から離れてしまった血肉は再生のしようがない。真っ暗でなにも見えない。俺は虚ろな意識と視界の中、少しずつ思いだした。
破滅再生ラウンジの最終日、開始17時や18時頃はまだ平和だった、各々が好きにネットを、ゲームを、音を、絵を、工作を、プログラミングを、好きにやった。いつもどおりに。一見したらカオスなこの空間は秩序で保たれていた。ゴミと見まがう紛うばかりの作品達は黒瀬、浅子の手によって厳密に調整、配置され、終始鳴り響いている数箇所からの騒音も定期的にキュレーターの手によって均一に混ざり合うように調整されていた。しかし最終日、破滅メンツの合唱する「紅」によって覚醒状態になった人間達は調整の抑制を受けず、終了の時間とともに黒瀬、嘘、梅沢らを中央のPCでできたジャンクタワーに投げつけた。ジャンクタワーには似非原やパターサンの書き殴ったドローイング、同人誌、血、精液などがへばりついていたが、同時に包丁や割れたガラス片なども装飾されていた。そこに生身のキュレイターやアーティストが投げつけられたらどうなるか、想像に難くない。一触即発の緊張感で保たれていた会場の空気はカオス側の中心人物三人の内臓の吐露によって破滅した。作家も、鑑賞者も、ギークも、関係ない。ナンヅカに存在する人間はすべてジャンクタワーに叩きつけられ、同時に刻まれ、死亡した。逃げ惑う人間はすべて糸柳に捕まり、叩きつけられ、刻まれ、死亡した。地下に作られたこの空間は窓がなく、入り口も二つだけだった。一つは山本悠の巨大な作品と脚立によって鉄で溶接され、完全に塞がれていた。山本悠自身がよかれと思ってやったこの創作も、彼自身の死を呼ぶだけだった、愛する者の名を言いながら彼は死んだ。もう一つの出口は「受付」の奥側に搬入口として位置していたが、赤い奇妙な形をした立体的な椅子に大量に積まれた作品と書類と死体に阻まれて、ろくに通れる状態ではなかった。血と精液にまみれたそれらをかきわけても(同人誌で自慰する者と数少ない女子をライト・レイプする者で溢れ、会場内は白濁液でまみれていた。)、かきわけている間に正気を失ったギーク達に捕まり、ジャンクタワーに叩きつけられ、刻まれ、死亡した。「バトルロワイヤル」「バイオレンス・ジャック」「ベルセルク」「GANTZ」、なんでもいい、そういった虚構の物語で起きていた残虐な出来事が、延々と目の前で繰り広げられていた。唯一ギークの中で正気を失わなかったyuisekiは人を殺すことをせずに、左手と右手を失いながらも満面の笑みを浮かべながらインターネットに興じていた。最初から狂っていたのかもしれない。
大量のアニソンやらブレイクコアに混じって人の叫び声が聞こえ続けた。笑い声も聞こえ続けた。junkMAが音が発生する元となるジャックを次々と死体の内臓に突き刺すので、やがて音楽は消滅した。生きる者が次々と破滅する中で、生き残った者も自害し始めた。そして俺の意識は途絶えた。
目が覚めた時、俺は叩きつけられたまま意識を失ってたことに気づいた。先に叩きつけられた肉の上に叩きつけられたおかげで、致命傷に至らなかったらしい。しかしこの空間で血を流しながら数時間に続けることは自殺に等しい。十数年前のPCに付着した菌が培養され、確実に腐食しているのだ。少しずつ、死が近づいていることを知った。
暗闇に目が慣れ始めてきた。大量に積み重なる死体が、まだかすかに生きているPCの光に照らされて、見える。時たま、誰かの携帯電話が軽快なアニメやゲームのメロディを鳴らし、今は亡き主人を呼ぶが、答えることはなかった。見知った作家が幾人か死んでいるのを確認する。なぜこんなことになったのか、わからない。どうしてこんなことになってしまったのだろう。「どうしてこうなった」というネットのジャーゴンがふと頭をよぎり、ふふっと笑ってしまった。模造紙オフや搬入、搬出の時などに、どうしてこうなったって言って笑いあっていたなと思い出した。そういう言葉はアートもギークも関係なく通じたし、一緒に笑い合えた。twitterをやり始めたのはいつだったっけな。なんだか最初のほうから始めている糸柳やyusekiって奴がいて、こいつらといつか面白いことができたらいいなって考えていたんだな、そういえば。理想的な形で一緒にできたとは思っていたんだが、まさか殺されるとはな。笑えねえよ。擁護した東浩紀と村上隆はなんて言うんだろうな…それが聞けなかったのが本当に残念だ。
死ぬ間際に幻影が見えた。再生ラウンジを取り壊し、破滅ラウンジを再構成して記録を撮ろうとしているカオスと破滅のやつらが見える。観客は誰もいない。それなのに、いつもどおり楽しそうに音楽をかけ、ゲームをし、ネットをしているあいつらがいた。それは、俺が体験したどの瞬間の破滅ラウンジよりも居心地がよく、満ち足りた空間だった。再構成の記録が終わり、電気が付いて明るくなった空間で彼らは誰かを祝っていた。一人女がいて、涙を流しながら喜んでいた。糸柳は用意されたケーキを包丁で丁寧に切り分けていた。包丁自体の重みでケーキ自体が歪まぬよう、慎重に分けていた。その包丁で女を殺すことも、犯すこともしなかった。それは幻影だった。