観終わった最初の感想は、漫画『聲の形』が映像化されないことを確信したショックだ。
まず先に断わっておくが私が言いたいことは原作を崇めて原作未読者や映画を馬鹿にするといった内容ではない。
映画製作に携わる人間が『聲の形』をどういったつもりで再構成したのか、
そのせいで映画『聲の形』(以下、映画)しか漫画『聲の形』(以下、漫画)に触れていない多くの人に誤解させてしまったということ、
そしてこの世で漫画『聲の形』が漫画『聲の形』という作品でしか伝えられなかった、他のラブストーリーや青春物語ではできなかったこと…映画からは外されてしまったことについて触れる。
この日記を読んで少しでも漫画に興味を抱いたのなら、漫画にて『聲の形』というコンテンツを全て消化すべきであり、
本当の答えを噛みしめ、確認しなければ作品『聲の形』には全く触れないで人生を終えるといっても過言ではないと言っておこう。
これはステマではない。
なお漫画のネタバレになりかねないよう、これから漫画を読む人間にとって害にならない程度に極力抑えるつもりだ。
これはステマではない(繰り返し)。
そしてあくまでも日記なので読みづらさや誤字脱字などは勘弁してもらいたい。
単純に2時間半に収めるには物理的な無理があったため、大幅にカット、再構成されている。
その点だけでも漫画と映画は全くの別物と言っても差し支えない。
しかしこれは映画1本に収めるという制約上仕方のないことで、これに関しては特に言及するつもりはない。
要は、漫画が伝えたかった要素をコンパクトにして映画で伝えられたらいいだけだからだ。
つまり、私が問題にしているということはその再構成で漫画が伝えなければいけなかったことを大部分が外されているからだ。
制作スタッフは映画を見に来た観客にできるだけ「負の感情」を強く抱かせないように気を使って再構成している。
分かりやすく言うと「なんだよこのクソ鬱映画!!」みたいな感想にならないよう、できるだけイライラ不愉快になるような要素や、
生々しい要素をオミットしている…その商業的にも負になりかねない要素たちだけ、
この映画への梯子が外されて下に蹴落とされている…といったイメージだ。
漫画では読者の心をえぐってくるような要素が宝石箱のように詰め込まれている。
主人公・石田にともすれば殺意を抱かせるだけの強いクズの描写がされており、
小学生時代の石田を無条件に悪だと読者は強く確信でき、そこに同情の余地もなければクラスの手のひら返しにも憤慨するだろう。
映画ではかなりあっさりと流されていて、このせいで不快な思いをだいぶ軽減されているが、
石田の「俺は清算して死ぬべきだ」という気持ちが映画視聴者に軽く受け取られやすくなってしまった、薄っぺらく見られやすくなってしまっている。
漫画の特色として、読者の暗い感情をこういった不快ないじめや生々しい描写で刺激しつつ、
当事者である石田がどうやってそれを乗り越え、まともに生きることはできない、けれど死ぬこともできなくなったところを出発点に歩き出した、
というのが最初の石田と西宮の出会いで、だからこそいじめた本人である自分が友達になろうとするという不条理を進まなければならなくなったという経緯がある。
つまり、最初の死への渇望とその道を閉ざされた石田の心理描写を読者に刷り込ませるためには、
石田の所業が到底擁護できないくらい行き過ぎた描写であることが『聲の形』という作品には不可欠なのだ。
それを見た読者の底にドロドロと横たわりだした感情を燃料にして、出会いが種火となり燃えながら、時には火が消えかけながら、それでも何とか大きくなろうとする炎の様子が、本当の『聲の形』の姿だ。
作品として、「読者(視聴者)の負の感情」が必要なのだが、これは前述したとおり耐性のある人間を選んでしまうため商業的に足かせともなりかねない、
と判断され軽減・外した、というのが制作スタッフが再構成で行ったことだ。
ピンと来ないなら激辛だと食べれないから中辛にした、ということだと思って欲しい。
そのおかげで結果として極力不快要素を外し京アニの作画力とキャラの可愛さで万人が食べれる作品へと変化し、
映画『聲の形』は売れることに邪魔になる重りを捨て去り新品のランニングシューズを履いて走り抜けた。
でもそれは漫画が這いつくばってたどり着いたところとは違うゴールであり、
その漫画がたどったコースとゴールは今後二度と映像化され現実化されないということを確信し、制作の手腕の勝利も同時に確信し、私はショックを受けた。
帰ってレビューに目を通すと、やはり石田の心理描写が把握しきれていなかったり、
障碍者としての西宮の葛藤や苦悩もかなりあっさりされているので重いテーマだったという感想はありつつも、
そこから広がりを感じるような形としての感想が出てこず、実は何も考えさせられてないというのが観察できた。
西宮がなぜ笑い続けなければいけなかったのか、西宮がなぜ思い詰めてしまったのか、
石田も同様になぜ最初に思い詰めて、それでも西宮と違い諦めなかったのかということに説得感を出すためには、
やはり前述した「読者の中に生まれたドロドロとした暗いもの」を燃料にするための不快要素がオミットされたことが原因である。
聾唖の人たちからの意見も、この不快要素オミットのために発生した説明不足、その他ところどころに出てきてしまった脈絡のないように見える行動もこのオミット行為の副作用となっている。
ただ、それは商業的な成功には必要なかったし、事実それで勝利を収めてしまった。
これは作品の特色であってもビジネス上で不利益とみなされたものは無かったことにしていいという資本主義思想に対する芸術・創作の完全敗北と言い換えてもいい。
とにかく大多数に対して理解されやすければ、消化しやすいコンテンツであるならばいくらでも特色を消してしまっていいという姿勢だ。
それに深く静かな絶望を覚えたのは、漫画既読組には少なからずいただろう。
家に帰ったあとそれは視聴した沢山の人のレビューを読んで感じているかもしれない、私みたいに。
一体、映画を見た人の何割が石田と自分を重ねることができたのだろうか。
嫌な汗はかくことができただろうか。
漫画の『聲の形』は、一度死を望んだ石田が自分が行ったことを思い知らされ、なおかつ死ぬという逃げ道すら断たれたことで、
前を向いて、半ば仕方なく、半ばやけくそで行動する・西宮の友達になるというスタートで物語が始まる。
石田のやったことがどれだけ許されないことなのか、また当時の登場人物たちが流され、無力で、愚かで、間違えてきたことが心をえぐられる程度に描かれている。
この最初の導入でしつこいまでに鬱要素をぶっこむことで読者は自分が過去やってしまった罪の意識を思い出し、無意識に石田に重ねる、石田は読者の暗い過去だ。
今風にいうと黒歴史を人物化したキャラクターとしてこれで形作られる。
過去が黒ければ黒いと形をはっきりしてくるキャラクターだ、それは視聴者の闇の色と同じ色をしているからだ。
それをやらなかった映画が石田に対する感情移入がバラバラなのは、つまりは、その黒歴史へのアクセスが不十分になってしまったからだ。
普通、そこまで思い返すほどのトラウマや黒歴史を持つ人間は少ないので、
その場合は石田に代行させて罪の意識を増幅させるためにも石田のやったことは大きく描写されていた方が感情移入のためのパイプを築ける。
そして、死ぬことを閉ざされた石田が、つまりは黒歴史から目を背けずに、常に意識して生きなければいけなくなった「あなた」は、
どうやって生きていけばいいのか、どう周りと接していけばいいのか、取り返しがつかない過去と石田・あなたはどう向き合っていけばいいのか。
石田が黒歴史を貼りつけながら歩き続けるプレイヤーとなり、読者は過去が脅かすことに石田と共にドキドキしながら、辛さを共有しながら、
最初は不快感を感じていたはずの石田・自分に、いつしか何とかしようと奔走する石田を応援しだす。
けれどこれからの西宮・未来は泣かせないように行動することができる。
過去の追跡がどれだけ辛く暗いものなのかが、このテーマを重く受け止めるために必要な手順だ。
ところが、何度もいうがこれをオブラートに包むか削除してしまったため、このテーマが盛大にぼやけてしまった。
漫画では西宮の家庭環境や小学校の教師との再会や映画作り、いてもいなくても一緒だった真柴のちゃんとした存在意義など、
この暗さと前向きにもがく様を描くための要素が何度も繰り返されている。
その最後の結末が、読者のこれからの背中を押す形で終わっている。
生き続ける石田と現実に生きる私たちへの、エールへと繋げられている。
そしてそれが他のラブストーリーにできなかったことで、『聲の形』だけができたことだった。
他のラブストーリーに、何とかしようとして上手くいかずに古傷をえぐらせるような真似をして、
それでも読まざるを得ないという状況にもっていけるだけの能力がない。
「これはどうなってしまうのか?(他人事とは思えない感想)」と思わせるのがこの作品の面白さでもある。
◆
『聲の形』にとって障碍者という要素はいじめの歴史を作るためのただの道具の1つに過ぎず、それが本質ではない。
本質は、変えられない過去と変えられる未来、そして過去を受け入れるというこの3つの要素だ。
消極的に変わらざるを得なかった石田が変えられない西宮を救い、
一緒に変わっていこう、と2人とも前向きになるという完全に内面の話なのだ。
そして変わりたいけど変われなかったという気持ちの重さ、辛さ、ドロドロした暗い時間の積み重ねを描き切ったのが漫画だ。
読んでいる人間が石田の状況に嫌な汗をかき、そして小さくホッとする作品なのだ。
大ヒットをしている。
そう、思った。
映画館で聲の形から心をえぐられることに2時間半耐えられるか悩んだからだった。
ところが実際は、別のことでえぐられるとはそのとき私は思いもしなかった…