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2024-11-14

もう二度と会うことのないあなたへ山下公園夜景を。

好きだった。

大好きだった。人生三度目の恋。

出会ってから3ヶ月で、会えた回数は5回だけ。

あなたが連絡をくれない間も、私はあなたのことをエゴサしたり、考えたり、相談したり。ずっとずっと考えていた。

でもあなたには彼女がいるし、酔っ払っ時にしか連絡は来ない。私の撮る写真が好きとかほざいておきながら、私が綺麗な写真を撮って送っても、あなたは私に何もくれなかった。

いわゆる、大切にされていない、というよくある状況だった。

私の職業デザイナーで、その能力を使ってあなたはこれから一緒に仕事がしたかったみたいだけど、もうおしまい片思いしている限り、私の能力に頼られると、あなたに好かれたいがためについつい過剰にサービスをしたくなる。それは後に必ず搾取に繋がると、デザイナーの先輩から聞いた。

私は来月26歳になる。

あなたは私より7つも年上だけど、かなり浮世離れしていて、私の恋とか結婚ことなんか微塵も考えていない。男の人には、女が年齢で変化する考えや体のことをどれだけ気にしているかわかっていない場合が多いが、あなたもそうだった。いや、世間の男の人よりわかっていない。

最後に会った時に、いくら言ってもあなたは全くピンときていないみたいだった。

から、やっぱりこの別れは正しい。

仕事ことなら会ってくれるかと思って、夜の山下公園に呼び出した。仕事についてなのに夜の山下公園に呼び出すなんて変なのに、あなたは全く疑っていなかった。鈍いよ。

毎回あなたに会えるのが楽しみで、遅刻したことがなかった私が、初めて30分以上遅刻した。足取りが重くて仕方がなかった。私にイライラしてほしかった。なんでもいいか感情を抱いて欲しかった。

夜の山下公園は、暗い洞窟の中で鉱石きらきらと光っているかのように、夜景が美しい。神奈川まれの私には、定番デートスポットだった。

一番、綺麗な景色だと思ってる。

から、大好きだったあなたとの、別れにはふさわしいと思った。

今後、あなたがどこの誰とどんな夜景を見ようと、必ず私を思い出すだろう。

雨のちらつく、11月の夜の山下公園。これ以上に寂しく、美しい景色など二度と無い。

「この人生あなたと二度と会うことはありません。」

そう告げた時、海に浮かぶ橋の近くを通っていた電飾を施した観光船が、きらきらと光りながら遠くへと消えた。

あなたは私がいなくなるとわかって、極端な選択だとか、寂しいなど言っていたが、それは一時的感情に過ぎないだろう。

からその喪失感永遠にしてやろう思って、この美しい景色を、最後舞台に選んだのだ。

この世は舞台、人は皆役者シェイクスピアだってそう言ってる。

から大好きなあなたに別れを告げる、演技をした。演出をした。私は役者であり、演出なのだ

山下公園で私という存在あなたの中で永遠になった。

これでいい、これがいい。今までの不平等で散々苦しめられた気持ちが、やっと成仏できた。

傷つけられた分、傷つけた。そうでないと、私の身が持たなかった。

そう思えた時に、あなたへの気持ちはスッと消えた。

家に着いてから惜しむようなラインや、インスタへの急なフォローバックなどがあったが、全て無視してブロックした。

今更、遅すぎる。

山下公園の綺麗な夜景を見ながら、あなたは抱きしめてもくれなかった。

行かないで、とも言ってくれなかった。

その程度だった私への気持ちを、もっともっと倍増させるように、苦しむように、美しい別れを演出したのだ。

苦しむがいい、私はあなたのいない未来へ行く。

この失恋を、私はここに残しておく。そのうち創作物として世に出すからあなたは私より上手く創作するなよ。どうせできないだろうけど。

私の舞台で踊らされた役者にすぎないんだから

さようなら、私を傷つけたあなた

もう今生では二度と会うことのない人の幸せなど祈らない。

どうしてもと言うのなら、あの世で語らおう。

さようなら

2024-10-22

名作といわれる昭和映画「はなれ瞽女おりん」(1977年)を観たので感想を書く

最近昭和ドラマ映画を観るようになった。解像度の高い映像で当時の作品をじっくり楽しめる環境が整ったこともあり、作品の細部にある仕掛けや意図が見えるようになり、改めて面白さを感じている。そんな中で観た「はなれ瞽女おりん」(1977年)は、篠田正浩監督の名作といわれる一本だ。

正直、この年齢になるまで篠田監督作品を観たことがなかったが、この映画は素晴らしかった。明治から大正にかけての日本の「原風景」を映し出すという監督意図は、見事に画面に現れていた。しかし、単に美しい風景を描くにとどまらず、登場人物人間性時代矛盾を深く掘り下げた内容に感銘を受けた。おそらく20代若いころにみていたら、おりんカワイソス以外の感想が残らず、忘れさられてしまっていただろう。年齢を重ねて初めてわかる名作というのがある。

映画の中心となるのは、瞽女であるおりん(岩下志麻)と脱走兵鶴川原田芳雄)の物語だ。二人とも社会から周縁化された存在だが、その中でもおりんの「はなれ瞽女」という立場は二重の周縁性を持っている。彼女瞽女共同体である高田の一座から追放された理由は、禁制の「男との関係」があったためだが、それは彼女自身選択ではなく、レイプによるものだった。

そんなおりんに寄り添い、導き手となる鶴川は、物語が進むにつれてその人物像の不整合が明らかになっていく。「天涯孤独」と語りながらも、家族存在がほのめかされ、ついには母親存在告白するシーンは映画クライマックスとなる。この告白が、おりんにさらなる絶望をもたらす。

時代背景と家制度矛盾

この物語が描かれる背景には、明治維新に始まる天皇を頂点としたイエ制度による国民統合矛盾がある。家父長制のもと、人々は家や国家という枠組みに縛られていた。

天皇を頂点としたイエ制度は、乱暴にいってしまえばそもそも江戸時代の「家中=藩」にならって編み出された。江戸時代においては「家中」が人を従わせ、結束させる機構だった。幕末の志士たちが思いつくことのできた次の時代国民統合の在り方は、やはりイエだったということだ。この点が王を承認する倫理的な神を持つヨーロッパ統治と異なっている点だ。国の危機を前にしても藩同士がいがみ合うならば、ということで、もっと大きな家中=イエにしてしまえばよい、という発想が明治維新だ。天皇を頂点として、家父長制に結合させ、国、地域共同体世帯すべてのレベルで上から下まで論理的整合する入れ子構造にするために、廃仏毀釈という荒業まで行った。この「家」の概念は、主君への忠誠のもと、等しく苦労するフィクションを生み出し、社会の不平等を覆い隠すことになった。

大正デモクラシーはそうした不条理解決する機運として盛り上がりを見せたが、やがて不況日本を襲い、財閥と大地主の利害を代弁した立憲政友会に幻滅し、人々の失望とともに大正デモクラシーは終焉を迎えるのだ。当時、腐敗した政治毎日新聞をにぎわせた。

脱走兵であることが官憲についにバレて拷問されたとき鶴川叫び「何が、国民皆兵だ。金持ち徴兵逃れで、俺が引き受けただけだ」というセリフは、その矛盾を端的に表している。明治維新で構築された家制度矛盾を背景に、映画鶴川叫びやおりんの境遇を通じてその時代不条理を描いている。

また、瞽女たちが社会の中で次第に居場所を失っていく様子もこの映画は巧に表現している。鉄道の普及が、農村部を含め人々の娯楽へのニーズの変化をもたらし、ひいては彼女たちの文化を衰退させたことや、彼女たちが生き残りをかけて変化を迫られた様子は、急速な近代化による価値観生活の変化を象徴している。

そうした社会状況のなか、おりんは一座から破門され、「はなれ瞽女」となってからは一人で生きてゆく覚悟を決めた女性だった。旅の途中で長岡のはなれ瞽女若いころの樹木希林)と出会うシーンでは、斜陽化する瞽女文化のなかで自立を模索する様子がうかがえた。またおりんも同じ境遇のはなれ瞽女出会いを通じて、自立して生きてゆく勇気と自信を得ていたように見えた。しかしやがて愛する男との別れを契機に、おりんは猛烈な不安に襲われる。それは周縁であるがゆえの存在論的な不安だ。

男女の非対称性

この映画特に印象的だったのは、男女の「帰る場所」の非対称性だ。

鶴川官憲連行される直前、おりんは鶴川から思わぬ告白を受ける。

鶴川の、ごめん実は家族がいるんだ、という告白に、留置所の小窓にかけたおりんの手が崩れ落ちるような衝撃を受ける。このとき岩下志麻の演技すごい。

このシーンに二重写しで思い出した映画がある。それは「駅station降旗康男監督1981年)。大晦日に一人飲み屋のおかみさんと熱燗を飲むシーンでおかみさん役の倍賞千恵子がいうセリフだ。

水商売やってる子には暮れから正月にかけて自殺する子が多いの。なぜだかわかる? 男が家庭に帰るからよ。どんな遊び人もこの時期は家庭に帰っちゃうからね。

好きな男には帰る場所別にある、迎え入れてくれるホームグラウンドがある、という、この同じ寂しさがおりんを襲う。

おりんは、そのさみしさを押し殺して、よかったじゃないかあんたにお母さんがいても不思議はないと思っていた、自分もいるんだ、と幼少期に記憶の残る唄を口ずさむ。エンタメ的には、涙腺崩壊のシーンだ。

鶴川がなぜうそをついていたのか。おりんを深く愛しながらもなぜ夫婦になるのを鶴川は拒んでいたのか。これは推測だが、おそらく母親瞽女を娶ることを認めないことを鶴川はよくわかっていたからだろう。失恋でつきつけられる差別社会現実瞽女文化の衰退、はなれ瞽女であるおりんの存在論的な不安定はここに極まってゆく。

鶴川には母親という寄る辺があり、天皇を頂点としたイエ制度の中で一定の救いが残されている。しかし、おりんにはそのような場所がない。かつての瞽女共同体も失われ、彼女はどこにも属することができない存在だ。この非対称は、映画終盤の「親不知の岬」で息絶えるという結末に象徴されている。

女はひたすらアウエイを強いられ帰る場所はない。これは同時代の歌でいうと、中島みゆきの「生きていてもいいですか」「エレーン」や山崎ハコの「望郷」と同じ世界線だ。一方で同時代男性歌手では、何気に上京してもふるさと愛にあふれている、という世界線の歌が多い。男には、失敗してもいざとなったらふるさとに抱かれる、というまなざしだ。「母に捧げるバラード」の海援隊松山千春の「旅立ち」が典型

この男女の人生の非対称は、先日来観ていたドラマおしん」でも同様にみることができた。

おしん物語では、農民運動に熱を入れていた浩太は官憲拷問され転向余儀なくされる。夢破れ傷ついた浩太は傷をいやしに実家の世話になる。浩太の実家父親貴族院で太かったのだ。事業に失敗したおしんの夫・竜三を救うのも佐賀実家だ。一方、おしんにはセーフティネットとしての故郷はない。振り返るという選択肢は存在せず、ただただ前を向いて歩く以外に救いはなかった。

水上勉の描く世界と非常にシンクロした世界観だと思う。



映像表現演出の巧みさ

「はなれ瞽女おりん」の映像表現は見事で、セリフに頼らず映像感情や状況を語る部分が多い。例えば、鶴川告白した後のおりんの行動や、瞽女屋敷を訪れるシーンの演出は、彼女の焦燥や絶望を鮮烈に伝えている。

男の告白ですべてを悟ったおりんは、まず瞽女屋敷に向かい自分の育った場所を確かめに行く。しかし、時がたち、すでに瞽女時代は終わりを告げていた。屋敷がもぬけの殻だとわかると、男を待つことも探すこともせず、心身ボロボロになって、一人はなれ瞽女として宿場町を回る日々。おりんの着物がボロキ状態になっていることから、はなれ瞽女としての暮らしが何年も経過していることがうかがえる。この映画終盤のテンポ絶妙だ。

また、ラストシーン親不知隧道での描写は、観る者の解釈に委ねる余韻があり、深い感動を呼び起こした。私の解釈になるが、ズームアップされるトンネルの測量機器と遠くの岬に見えるおりんの着物の切れ端の遠近感は、鉄道の普及と瞽女文化終焉を見事に演出している。さすがだわ、この演出家、そしてカメラワークに感嘆ぜざるを得なかった。映像を学ぶ人にはぜひみてもらいたい作品

おりんの物語は、単なる一人の女性悲劇ではない。社会の中で周縁化される女性たちの象徴であり、家制度という枠組みの中で矛盾を抱える日本近代のものを映し出している。家父長制のもと、妻には銀行口座を持つ権利すらない時代、周縁化された存在であるはなれ瞽女の自立と恋、その挫折を通じて、その背景に潜む不平等や抑圧を丹念に描いた篠田監督の手腕に心から感服した。

篠田正浩監督が描きたかった「日本原風景」とは、単なる美しい日本風景ではなく、矛盾や悲哀に満ちた人々の生き様のものだったのではないか。この映画を観て、初めて彼の作品に触れたが、もっと多くの作品を観てみたいと思った。そして、昭和ドラマ映画が描く時代背景の奥深さに、改めて心を動かされた。

また、ドラマおしん」と時代が重なるところでは、国民統合や周縁性に関して、もう少し思うところがあるので、またそのうち増田で。


2024-10-06

anond:20241006230301

演出家としては優秀だけど、脚本監督は不得意っぽい印象ある。

2024-09-29

グレンダイザーU現場が相当ヤバかったらしい

サウジ富豪パトロンになって、総監督福田己津央キャラクターデザイン貞本義行シリーズ構成脚本大河内一楼音楽田中公平という有名どころを集めた豪華な陣容だったけど、現場から伝わってくる話によると大変だったらしい

最終話は誰かがバックレて監督と偽名演出家が力技で形にした。最終話ちょっと手伝った人が総作監クレジット。というか第2話の時点でもうヤバかったらしい

このほかにシリーズ終盤に参加した演出家アニメーターたちのポストを見ると、ちょっと修羅場を乗り越えたあとの躁っぽいテンションだったりする

視聴者から制作会社の体力がなかったのではないかという指摘も多い。制作会社は(なぜか木下グループ傘下の)スタジオガイナ(旧福島ガイナックス)


香川久 Hisashi Kagawa

@DanngoDaisuki

終わらせて放送する事に尽力された皆様本当にお疲れ様でした

自分は2話の画面だけをどうにかなんとかギリギリ見られるものにするためとただ1輪の花のために命をかけましたがもうそれだけでお腹いっぱいでした

あ😮ちなみに固定ツイートのものは諸々許可を頂いております

https://x.com/DanngoDaisuki/status/1839858441193697788

 

3話以降の話の流れは全く知らないので1視聴者として見てましたが…どのキャラクターの行動原理も分からずどのキャラクターにも感情移入出来ぬまま見終わったというのが正直な感想です

https://x.com/DanngoDaisuki/status/1839860155770650678

香川久さんの「ただ一輪の花のために グレンダイザーU第2話総作画監督修正集」、あとがきに第2話の総作監作業地獄が書かれている。ありがとう香川さん。ボクはあなたのことを忘れない。

https://x.com/Aparatyanomoget/status/1828798541415989719

渡邊哲哉(仕舞屋鉄)

@NTzP68xV1aIUGLW

昨日でグレン終了

後はリテイク関係があるか無いか

幾つか直したいところあるけどやらせてくれるか

https://x.com/NTzP68xV1aIUGLW/status/1838761183450665078

 

グレン本日最終回

前任者の訳わからん状態からの復旧を監督と2人して何とか見れる物に立ち上げたと思う

色々残ってるのもあるけど、その辺はこのスタジオのこれから課題と思っている

まだ完パケ見てないけどさ

V編スタジオ待機組だったか

https://x.com/NTzP68xV1aIUGLW/status/1839476865041662267

 

因みにペンネームに使ってる仕舞屋って言葉意味調べると割とこっちの気持ちがわかってもらえると思う

一回使ったから以降普通に使ってはいるけど

初めて使ったのは08小隊でかな?

あの時はまだまだ若かったか沸点低くてね

https://x.com/NTzP68xV1aIUGLW/status/1839725484336394375

久藤 瞬/Shun Kudo

@kudo_han

【13話】

ご視聴ありがとうございました!

最終話は急遽仕舞屋さん(?)と2人で演出をすることとなりました。

3Dへのディレクションと、正直なところかなり絵を直してたと思います

ラストカット2カットベガ大王と謎エフェクト自分が描きました。

デューク×ルビーナ×テロンナ」の物語はここで一区切り。です。

全13話のうちになかなかわかりにくかったですが、見逃されている裏設定的なものも多く眠っているので、良ければ探してみていただけたら嬉しいです。 

スタッフの方々含め、皆様本当にありがとうございました

#grendizer

#グレンダイザーアニメ

https://x.com/kudo_han/status/1839730281701617826

やまだももこ🐰🩰アニメVtuber

@momoko_yamaada

今夜放送のグレンダイザーUの13話、お手伝いしたんですが、なぜか総作画監督クレジットされます。なぜ。

最終回、お楽しみくださいませ💃🕺

https://x.com/momoko_yamaada/status/1839641925110149208

2024-09-08

anond:20240908151109

このシナリオ……。演出家の腕の見せ所ばかりじゃん。

荒ぶる季節の乙女どもよ。でロリコン演出家が撲殺されてて絶望した

その上、レビューで、ロリコン相手人格を求めてない、とか書かれて憤慨した

ちげーよ!

人格は求めてるよ!

というか、クジラックスさんが言ってたという噂を聞いたのだけど、彼は大人の女性が苦手らしいのだけど、

そういうことだよ、俺は、大人の女性が嫌いなんだよ!

大人の女性人格が嫌いなの!

から女子小学生とかようじょかに逃避するしかなくなったんだよ!

というか、大人が嫌いなの!

大人が嫌いなまま育って、大人なっちゃったの!このまま老人にもなっちゃうだろうなの!

というか、人格求めないのはレイプ犯とかだろ…

ロリコンとか、まあペドフィリア病気というカテゴリーなのかもしれないけど、

精神的な病気になった原因なんて、あまり求めるべきではない、どう治すかが重要、というのが医学セオリーとして正しいんだけどさ、

あくま自分にとってだけど、ロリコンとかペドフィリアってのはエクソダスなんだよ!

キングゲイナースラッシュメタルも大好きだよ!

誰もが感じる閉塞的なこの社会から脱出の、その単なる一種類なんだよ!

この社会が、世界が嫌いだし、それを作ってる大人が嫌いだし、大人の女性がほんとに目に入れたくないぐらい嫌いなの!

大人の女性が嫌いだから、そこから逃げてるの!

わかった?

名作といわれるドラマおしんをみたので感想を書く その2

https://anond.hatelabo.jp/20240906234755から続く

おしん物語でもうひとつ誤解していたことがある。おしんは田倉を救ったという誤解(ここは超重要ネタばらしなので注意)

この出来事は、1983年から1984年にかけての現代編に関連している。。おしん83歳の頃、たのくらスーパーの拡大事業は、大手スーパー進出によって経営難に陥り、倒産寸前まで追い込まれていた。過去おしん初恋した相手並木浩太の息子が経営する並木商店が、大手スーパー土地買収における重要場所にあり、その売却次第でたのくらは助かる状況であった。私は以前、おしんが浩太を説得し、並木がその情に応じて救済が成功したと思い込んでいたが、実際にはそうではなかった。

なぜそのように思い込んでいたのか。もしかすると、失踪から戻ったおしんに、並木を説得してくれと仁が土下座して頼み込んだシーンがあったからかもしれない。

おしん」は全297話もあるドラマだが、その第1話は、たのくらスーパーの新店舗開店祝いにおしんが出席せず、家出する場面から始まる。おしん失踪理由が明らかになるのは、終盤の第290話。ドラマ伏線回収が時代を経て行われることが多く、おしん家出理由も最終週で回収される最大級伏線ひとつであった。この巧みな構成は、橋田壽賀子演出家のすごさを感じさせるもので、まさに名作と呼ぶにふさわしいものである

特に佐賀編では、あまり過酷さに倍速で視聴したこともあったが、終盤に近づくにつれ、ポーズしてでもじっくりと次の展開を予想しながら見入っていた。

1話から第3話にかけては、おしん並木商店の大旦那に恩義を感じていたため、新規スーパーの出店に反対していたことが示唆されていた。そのため、多くの視聴者おしんが息子の恩知らずな商売拡大に恥じて家出したと理解していたはずである。ぢかし終盤になってその真の理由が明かされるという展開が待っていたのは正直、超絶長い伏線回収である

実際には、おしん失踪直前に浩太を訪れ、仁の事業拡大による不義理を詫びていた。その際、聞かされたのが大手スーパー進出についての話である並木商店大手への売却は、並木商店の生き残り策であり、たのくらへの防衛策でもあった。おしんはすべてを理解したうえで、浩太に対して大手スーパーへの土地売却を進めるように頼んでいたのである

その後、おしんが戻ってきた際も、並木はまだ売却を逡巡していた。仁はおしん土下座して、まだ間に合う、並木を説得してくれと頼んだが、おしんは改めて浩太に売却を進めるよう頼むのであるおしん厳しすぎるだろ。

おしん大手進出によってたのくらの事業が立ち行かなくなることはわかっていたが、ひととしての恩義を忘れ、家族を顧みず金儲けに走ってきた田倉家の再生のために、そして恩人の浩太の一家のためにも並木土地大手売却への契約を進めてくれと願い出る。相変わらずおしんさんは厳しいお人だと微笑む浩太は、ついに売却を決意する。

仁は、母のおしん交渉に失敗したと思い込み失望して母を責める。妻の道子も、夫に失望し、ついには離婚宣言する始末。家族崩壊が進む中で、おしんはその様子を静かに見守ってゆく。

これが朝ドラ最終週の出来事というのがスゴイ。

おしんは仁に、離婚再考するよう促し、仁はようやく家族の大切さを思い出す。この姿は、かつて佐賀で竜三を立ち直らせるために試みたおしんの姿と重なる。仁と竜三は、いずれも実家の甘えを捨てきれずにいた共通点があった。おしんは仁の田倉商店倒産させてでもその甘さを排除しようとしていたのである

事業整理のため自宅売却を進め、引っ越しの準備のさなか、家族は徐々に絆を取り戻してゆく姿は橋田壽賀子の夢の世界なのかもしれない(正直、ここはちょっとうーんと思うところはあるが)。しかしこれが橋田ドラマ流の大団円なのだろう。

前述したように、田倉商店は浩太によって救済される。というより人の縁によって救われる。それはまさにおしん商売において大切にしてきた価値観なのであるしかしそれは、全297話、一年近く放送してきたおしんドラマの終盤最終話、終了わず10分前の出来事である。すごい。

橋田壽賀子がこの物語を書き始めた理由は、バブル経済前夜にあった80年代の人々が、お金儲けに走り、大切なものを見失っているのではないか、という思いからであった。物語ラストにはそのメッセージが強く反映されている。

田倉竜三についてのメモ

竜三と息子の仁は、おしんから見て「甘い」性格であり、竜三は何かと佐賀実家に頼るところがあった。しかし、竜三が「俺についてこい、命を懸けて大きな仕事をするんだ」と前に進もうとする時の屈託のない笑顔を、おしんはたまらなく愛していたのだろう。

竜三が敗戦時に自決した際、おしんはその死を「立派だ」と称した。今回全篇通してみる前は、残された家族を顧みない自殺自分勝手で情けないものだと思っていたものの、物語全体を通じて竜三の死に対するおしんの思いが腑に落ちる瞬間があった。

自殺直前の竜三のつぶやきがその鍵となる。

私は後悔しているんじゃないよ。私は私なりに信じて戦争にも協力してきた。軍のおかげで初めて仕事らしい仕事もさせてもらった。男として存分のことしてきたんだ。むしろ精一杯生きられたことをありがたいと感謝しているよ。ただ、ひとは私の生き方を間違っていたというだろう。私は軍と手を結んで仕事をしてきた。隣組の組長として戦争への協力も押し付けてきた。私の勧めで志願兵として少年航空隊に入った少年もいる。その中にはもう帰ってこない少年もいた。国債だって随分買わせてしまった。それも今となっては反故だ。私が無視する事だってできたんだ。だが私はそれをしなかった。もちろん私には私の信念があってやった事だ。それを悔いる気持ちは全くない。しか戦争に協力して罪もない人たちを不幸に陥れてしまった責任は消えやしないんだ!

これが自殺直前の竜三のつぶやきである。竜三の言葉なかに隣組という言葉が出てくる。

明治から終戦にかけての日本は、天皇を頂点とした「家制度」を仮構し、その枠組みの中で国民国家が成り立っていた。この「家」の概念は、戦時中には配給制隣組といった組織を通じて等しく苦労するフィクションを生み出し、社会の不平等を覆い隠していた。田倉家もその影響を受け、軍部から委託工場経営していたが、周囲からは「軍と結びついて甘い汁を吸っている」と陰口を叩かれていた。仁がある日突然、少年航空隊に志願した背景には、そうした噂への嫌悪感があったのかもしれない。

その後、仁は終戦の日も戻っては来なかった。田倉家では仁は戦死したもの想像していたのである

日本が「ひとつの家」として観念された時代において、家族を守ることと国を守ることは同義であった。竜三にとって、隣組の子供たちの死や戦争責任を負うことは、家制度の枠組みの中で重要役割であっただろう。彼が自決した理由も、家制度に基づく責任から来ていたのであるおしんが竜三の死を「立派だ」と称したのは、竜三が自らの信念に従い、天皇を頂点とした「家」への責任を全うしたと理解たからかもしれない。

語弊を承知でいえば、竜三の自決は、個人としての責任を取る行為であり、家制度における「切腹」にも通じる感覚だったと言える。

おしんが育った山形貧困農家では、口減らし普通だったし、姉のはるが死んでも母が死んでもまともに葬式もできない窮状だった。女性犠牲にして平気な顔してきた作造も長男庄司があまりにもひどかったことを思い出すと、隣組責任を感じて自殺するなんて、むしろ立派なことに思えてくる。

しかし、どうだろうか。

竜三のこれまでの数々の挫折経験のように、ふるさとの太い実家に戻るというような、逃げ道はなかったのだろうか。しかし思えば伊勢にきて魚屋になった頃から20年間、竜三は佐賀実家依存する思いがほとんど消え去っていたように思う。竜三の佐賀依存が消えていったことはおしんにとってはうれしいことでもあった。

禎の疎開ときですら、佐賀疎開という選択肢排除された。疎開先で虐待され逃げ帰ってきた禎をみたときには、さすがに佐賀という選択肢はあってもよかったと思うが。竜三はそれもしかなった。

太い実家をあてにしない、それはおしんが望んでいた竜三の自立の証でもあったはず。竜三は魚屋からの次のステップとして伊勢で軍の納入業者になることに挑戦した。そしてようやく家族を養う自信が付き始めた頃のこと、おしんは竜三が佐賀実家を頼らず、雄、仁、禎、希望、初子の5人の子供のために大きな仕事に夢を託していると思うとたまらなくいとおしくなった、とナレーション述懐している。

しかし、竜三が太い実家という表象代替として知らず知らずのうちに依存していたのは、天皇を頂点とする日本国という「巨大な家」だったのである

おしん自身は、国家という家のフィクションを完全には信じてはいなかったが、なんとなく空気には流されていた。しかし竜三は深く信じていた。信じていた以上、潔くその家の責任を取ったということだ、おしんはそう理解したのだろう。そうであれば、軽々しく天皇制などというフィクションを捨て戦前の考え方などなかったかのように、これから自由社会だ、などとふるまうことはズルいことだと思ったかもしれない。しかし、国が家族であるという考え方を捨てさえできれば、なんだったら太い実家に戻ってもいいのだ。しかし竜三はそれを逃げ場にはしなかった。だから立派だといったのではないだろうか。

敗戦直後の225話では、父と兄を失った仁の感慨として、潔く死を選ぶか女々しく図太くたくましく生き残るかの二者択一として人生観が総括されてゆく。その後の長い戦後物語では、昭和58年物語の終盤に至るまで、たびたび竜三と雄の仏壇に手を合わせるシーンが出てくる。これも地味だけど見逃せない。おしんが田倉竜三への思いを忘れずにいるという、竜三への愛と敬意がここに見て取れる。かつて伊勢海岸で、逃げようとする竜三をタックルをしてでも捕まえたおしんの心情がオーバーラップしてくる。

ちなみに、この竜三の自決は、80年代90年代翻訳放送された海外ではどう受け止められたのだろうか。それはとても気になっている。

おしんドラマ橋田寿賀子の反戦思想が色濃く反映しているといえるが、そのなかに侵略植民地支配反省という視点希薄である。それは竜三の自決動機のなかでも軍部に寄り添い、同胞を死に追いやった責任は感じても、侵略に手を貸した自画像みえてこない。しかし、植民地支配への反省についてはそれ自体動機にはなっていないものの、それにつながりうるイエ観念を読み取れるように感じた。隣組他人ごととしてとらえていたのであれば、竜三の自決はなかったはずである。そうであれば拡大されたイエ観念により実効支配された地域に考えが及んでもおかしくはない。実際にはそこまで思いは至らずに死んでしまうのだが。

同じ昭和時代作品である五木寛之の「青春の門」では、筑豊炭田差別的な扱いを受ける朝鮮人労働者が大きなテーマとして描かれている。石炭鉱業会社経営者が、朝鮮人労働者たちから待遇改善を求められた際、「他の山は知らんが、生きるも死ぬも一緒に炭を掘ってきた家族同然だ。私が親でお前たちは子供だ」と言い返すシーンがある。

この台詞は、日本を親、植民地を子と見立てる当時の日本人の感覚象徴している。家族になることで遠慮がなくなり、苦労を強いても平気になるという現象は、まさに家族観の持つ影の部分を示している。(ちなみに映画青春の門筑豊1980年経営者と交渉した朝鮮人労働者リーダー役を演じた渡瀬恒彦は、おしんでは浩太役を演じている。)


この真理を見事に表現しているのが、初子の存在である八紘一宇における植民地と田倉家における養子初子は入れ子構造なのである。初子の境遇は、創氏改名を強いられ皇民化の果てに敗戦を迎えた朝鮮民族運命二重写しに見える。植民地いかにわが子供のように見立てようともいざ状況が変わればあっさりと切り捨てられてしまう。

初子の抱えていた不安というのはまさにそういうものだった。おしん長男・雄の戦死を契機に山形帰郷するよう初子に伝えたおしんの行動は田倉家以外に居場所のなかった初子にとって残酷ものであったといえよう。自殺を思いとどまり米軍相手娼婦となった初子は誰にも消息を知らせないまま、3年もの間、田倉家に送金を続けていた。おしん言動は初子を養女とみていたとはいえない一方、初子は養女としての行動をとっていたのがいじらしく泣ける場面である

https://anond.hatelabo.jp/20241010224911へ続く

2024-08-25

anond:20240825015549

そんな訳分からんスキームのせいで制作費が上がってる割に忖度し放題で無駄が発生するんだよ。

だいたいキャバクラ飲み屋でまともな人間に響く何が刺激されんだよ。あんなもん肯定してる連中が提供会社から大枚はたいて出させた金をどうしようもない頭の悪いビジネスに突っ込んだるだけじゃん。そんで実力もない奴を使い勝手よく使うために広告代理店芸能エージェントが裏で手を引いて作品作りに口出し手出しして作る側が意図してなかった質の悪いドラマ見させられるんだろ。もういいからそういうクソみたいな流れ。日テレセクシー田中さんとか思い出せよ。あれだって脚本家作品評価が極悪なのになぜか広告代理店に気に入られててバンバン仕事入れられててつまんねー作品ばっかり出してたのがデカい顔してた結果だろ。しかクリエイティブな人を潰して。こういう仕組みのせいでデカい金が動いてるのにクソみたいなドラマばっかり流れる事が起きてるの。

そうこうしてる内に真っ当な倫理観も失せて社会的通念への問いかけも弱くて、ただ芸人上がりの役者出せば面白くできなるだろう(視聴者的に全然面白くない)みたいな制作費の無駄みたいな作品だけできてるの。他の国は役者演出家が芝居の専門家心理学文学史学を学んで議論するレベルの知性をつけてる間にな。日本ギョーカイ人(笑)飲み屋で遊んで挨拶回りが仕事勘違いしてる間に国際的作品として俎上にも載せられない位に品質が開けられちゃってるの。その国でビジネスするお情けで載せてる程度しか配信できない。

何が昭和だよ。バブル期みたいなあぶく金もない時代に引き合いにしてくんなよ。連れてってもらったってお前はどんだけ若い衆渡れ回せる位の立派な人生歩んだんだよ。大した事してないならすっこんでろ。

あんなもんが肥やしになるようなのは芸でもなんでもないんだよ。一般より金を使ったという記憶と自負による勘違い。ばっかじゃねーの。

2024-08-04

バチカンが出した声明おかしいのではないか

ローマ法王庁パリ五輪開会式のアレ「最後の晩餐」に対して「宗教的信念をあざ笑うような表現はあってはならない」という声明を出したという。

最初これは日本語ネット圏のデマじゃないかと思ったのだが、NHKも報じていてマジらしい。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240804/k10014536461000.html

 

しかし有名な『最後の晩餐』の横長のテーブルに一列に座るデザインダヴィンチ15世紀末に描いたものだ。

それ以前にも『最後の晩餐』の宗教画は多く制作され、それらは円卓や車座が多い。

例えばこれはジョット・ディ・ボンドーネによる14世紀初めの『最後の晩餐』だ。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d0/Giotto_di_Bondone_-_No._29_Scenes_from_the_Life_of_Christ_-_13._Last_Supper_-_WGA09214.jpg

 

そもそもそれまで宗教画というのはデザインの収まりの良さなどを目的には描かれていない。図像学に基づいて描かれていた。図像学というのは、絵画中の「モノ」が一つ一つ宗教的イコンを示していて、それが集合したのが宗教画となる。例えばシュロ(ヤシ)の葉を持っている人物殉教者だ。これはシュロの葉が勝利を示しており、殉教信仰勝利という意味なのだ

 

ダヴィンチはこれを真ん中の消失点に収斂する構図で描いた訳だ。ルネサンス近世絵画の始まりだ。

そしてこのすっきりとしたデザイン故に古典となった。古典とは単に古いというだけじゃなくて、基準となるもの、繰り返し参照されるもの評価が定まったものの事である

 

からダヴィンチの『最後の晩餐モチーフは後に多くの類似品を生み出した。そしてそれらのパロディーが多く存在するのだ。これは美術に対して通じてもいない増田でも知っている美術史の常識だ。

今回の演出家もあれはヤンファン・ベイレルトの『 Le Festin des dieux』(神々の饗宴)だと言っている。

絵画フランス美術館に収蔵されている。

因みに「饗宴」と来たらギリシャギリシャ神で愛がテーマと決まっている。

 

例えば、コメディ映画裸の銃を持つ男 PART33 1/3』で階段での銃撃戦シーンがあるが、

https://youtu.be/L3QkIruVNEI?si=448XZjT7oY0DSY5R

あの元ネタはデパルマの『アンタッチャブル』だ。しかしその『アンタッチャブル』の階段銃撃シーンはソ連映画戦艦ポチョムキン』のオデーサ大階段のシーンだ。

そうすると『裸の銃』は『戦艦ポチョムキン』を参照していると言えるか、ポチョムキンを笑いに転じようとしているのか?言えないだろう。

 

なのでバチカンネットの反応に過反応したという事になって、3年ROMった方がいいし、スマホばっか見てないで宗教画を見に行きなさいという感じなのである

2024-07-30

なんでLGBTQの人ら、っていうかゲイの人って人前、しかも大舞台出演者全裸にしたがるの?変態から

それとも、ゲイ演出家がそういう事をすると異性愛者の男がキモイと感じるから印象に残るだけ?

例えばジャニー田川自分の愛妾を全裸にして人前に出すの好きだったし、そういう傾向ってある気がするんだけど、違うのかな?

詳しい人教えて

2024-07-23

ドーンダンスという漫画を読んだ感想

この作品主人公ヒロイン関係性を楽しみながら、舞台の上だけに限らない、個性豊かなキャラクターたちのやり取りを楽しむものなのでしょう。現実歌舞伎とは全然違って、例えば歌舞伎に興味がないのに歌舞伎役者養子になるとか、古典歌舞伎の公演に演出家がいるとか、分かりやす現実と違います。だから実際の歌舞伎とは違うものとして読むべきものだと思っています

「どこかで見たことのある、誰かが演じたものパッチワーク」という言葉、なかなか歌舞伎本質を突いた言葉だと思います。2世猿翁の言葉にあるように、歌舞伎本質は「学ぶはまねる」にあると思います。先人に教わって、その人のやり方をまねるところから始まる。それがあるからか、歌舞伎は故人を含め、誰かに似ていること自体が悪いことではない、珍しい分野だと思います。ほかの演劇分野だと誰かに似ていることってあまりよくないこととされていますが、例えば「吉右衛門に似ている」という言葉は、悪い意味にならない。そういうところが歌舞伎面白いところだと思うので、「誰かが演じたものパッチワーク」という言葉はなかなかうまいことを言っていると思いした。

歌舞伎はなんでもあり」これは本当にその通りだと思います。先日も秀吉物語を見ていたはずなのに、突然舞台天界に移って孫悟空の踊りが始まり、本当になんでもありだと改めて思わされました(これがとても良かった)。18世勘三郎言葉にある通り、「型があるから型破りが出来る」「型が無ければ単なる形無し」という側面もあるので、このあたりも描いてくれたらいいのになあと思っています

ネット上での連載では三人吉三の上演準備が始まっています。演技へたくそと言われている人がお嬢で、華も人気もある役者がおとせになったら、ファンが公演を盛り上げるどころかなぜお嬢ではないのかと暴動を起こしそうですが、そのあたりがどうまとまるか気になりますお嬢の演技も真冬作品なのに弁天小僧のように片肌を脱いだ演技になっているので、どんな理由がつくのか楽しみです。個人的な好みを言うとお嬢の特徴的な衣装が絵的に確認できればいいのですが、こういうところは単行本での加筆になるんでしょうか?

現実高校生くらいの歌舞伎役者さんってまだまだ子供の範疇で、そんなに厳しく演技が下手だとか非難されていない気がします。例外的小学生の頃から人気が高い人もいますが、ほとんどは名前すらろくに覚えてもらえないまま20代前半を過ごしているのではないでしょうか。高校生なのに演技が下手だの人気がないの、あれこれ言われて、物語から仕方ないとはいえ、この作品世界はなかなか厳しいですね。

2024-07-11

anond:20240711112330

ちょっと別の話だけど、演出家脚本家稽古現場まで引きずってきて脚本を書き直させた話ならしってる。  

法的な権利と実際のチカラ関係は別よ。

2024-06-13

anond:20240613172329

名前が出てる本人役の人はともかく、演出家とかはオーダーに頭を抱えて、流石にNGになるだろうって出したら通っちゃったとかはありそうな気がするんだよな

2024-06-05

セクシー田中さん問題に対するテレビマン記事がひどい

https://www.bengo4.com/c_18/n_17626/

日本テレビを腐らせてきた有象無象の一人による必死の弁明、にしか見えない。

自分仕事責任感もプライドもない、向上心他者への敬意もないからこういう記事が書ける。

① コンテンツ制作の舵取り役が現場によって違うことを言い訳のように既成事実化している

 映画なら監督現場を仕切らないでどうする、で終わりの話。しか映画の方が関わる人数はずっと多い。演出家が力を持っているから何だ。それを抑えるのがお前の仕事だろ。

 誰も責任を取りたくないという腐った体制が透けて見える。これではいコンテンツが作れるわけが無い。

② クオリティに対する意識が低すぎる

>「限られた時間予算の中で、放送事故にならないようになんとか番組を完成させた」と必死だったこしか頭に浮かんでこない。

と書いてあるぐらいだから出来上がったものに対する反省改善も振り返ることなく、ましてや視聴者の受け取り方と向き合うことなんか無かったのだろう。

③ 個人能力の欠如を業界全体の問題すり替えている

テレビは「誰の思い通りにもならない世界」なんて書いているが、自分の職責と向き合わないための言い訳のように感じる。コンテンツ品質担保する、現場で出た問題解決するという当然の役割遂行できず、テレビは「丸めこむ世界」だなんて嘯いてくっだらない作品自分の手で作り出されたという現実から目を背ける。

世界を見れば尖ったテーマテレビドラマなんていくらでもある。自分作品が尖っていないことをテレビ業界全体のせいにするな。と言いたい。

テレビ局ってこんな他責思考バカばっかりなの?呆れるわ。

2024-05-28

はるかぜちゃん、親関係は本人にはどうしようもないので仕方ないが、交友関係を持った人たちがハズレばかりなのが不幸。

絵本出版したらイラストレーターの「みきぐち」が実はトレパク常連で、発売後に今までのパクリの数々の検証が一挙に公開され、絵本の絵にもパクリ発覚、販売停止へ。

ドール会社Youtubeでの相方多屋来夢は、チャンネル初めて間もなくRADWIMPSギターとの不倫発覚、後に復帰するも一時期休業、出鼻をくじかれる。

舞台演劇をするようになったのは演出家の谷賢一に引き抜かれたのがきっかけで、彼のことを第二の父とまで呼んで慕っていたが、谷は強姦女優に訴えられ活動停止

日常的にセクハラしているのを見ていたが止められなかった」「彼女稽古のたびに胸をさわられていた」と共演者たちが懺悔をする中で、同じ稽古に出ていたはるかぜちゃん沈黙を続ける。

16歳ぐらいだった時には村本大輔らと親しかったが、深夜から朝の5時まで続く飲み会に出席させられた。

炎上したら、オウム真理教の娘松本麗華が同席していたことにこじつけて「オウム関係者には死ねというのか」とすりかえてたが、未成年を家に帰さないで一晩中酒盛りの場に留めた件が一番批判された部分。

やたらに不運。前世神龍でも殺したのか?

2024-05-20

なんでこんなにジブリ世代交代に失敗してないことにしたいんだろう

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.cinematoday.jp/news/N0143052

  

そもそも宮崎高畑のためのスタジオだ~黒澤明スタンリー・キューブリック後継者なんていないとかいものコメントが上がってるけど

あのな確かにラピュタからジブリ立ち上げてトトロまでは宮崎高畑のためのスタジオだったんだよ。

宮崎がまだ売れてない頃に用意してた企画トトロまでで、トトロ終わったら宮崎ジブリ解散するつもりだった。

でもそれはもったいないって鈴木が止めて、その時の宮崎の条件で【スタッフ正社員化する】ことになってそれ以降話が変わってくるんだよ。

これは社員生活責任を持つってことなんだからアーティストぶって作りたいときに作って飽きたら引退するなんてありえないんだよ。

会社を作って人を雇用するってそういうことなんだよ。

ここらへんのいきさつも人を雇う覚悟宮崎インタビューで語ってたことだろ。

からジブリ演出家育成の試験やったり外部から望月細田森田って優秀な演出家を呼び寄せて撮らせてたのになんでそれを無かったことにしてんだよ。

今回身内の吾郎世代交代失敗したって言ってんのに知ったかぶった奴らがいつものコメント残すだろ?

こいつらなにがしたいんだ?

2024-05-16

映画監督劇団演出家による俳優へのタッチ禁止すればいいだけ

いま、園子温Wikipediaの攻防が話題だけど、

そもそも映画とか演劇とか、権力の偏りが激しい分野において、接触に関する規制必要だよ

2人での打ち合わせ禁止とか、さ

  

画家は、ヌードデッサンモデルへのタッチ禁止らしい

  

いい制度映画界でも演劇界でも完全導入すればいい

  

異論はないよな

2024-04-30

anond:20240430201303

演出家にとっては男性にご遠慮いただく雰囲気づくりなんて教養レベルなんだよな

特に距離感の分からない人を客にするリスクはかなり高い

2024-04-29

anond:20240429103912

来て欲しいと思っているターゲット層とは外れるからだろう

仲間外れの空気感を感知させ最初から来場をご遠慮してもらうような雰囲気作りは演出家なら簡単だろう

2024-03-28

anond:20240328112955

だとしたらそれは監督演出家意図からやっぱり現場作業員を叩く意味嫌がらせ以外になくね?

アニメに限らずドラマでも監督によってわざとらしい演技と顔芸のオンパレードみたいなのあるけど、それはその監督がそういう作風なわけで役者問題ではない

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