はてなキーワード: イマジネーションとは
正直、絵描きにAIが受け入れられないのは単に利用の利益がないだけ。
どれもこれも'結果'を出すことに注力し過ぎで、'補正'、'先読み'みたいな機能はまったくない。(imeだってそういう機能があるんだぞ!)
「イマジネーションを形にしよう」みたいなこと言ってバカどもを勘違いさせ、そいつらがゴミを撒き散らす行為を推進しつづけるOpenAI、StabilityAI、Midjourneyその他諸々の画像AI開発組織には反省して欲しい気持ちがある
絵描きどもが受け入れないのは、開発組織が受け入れさせようと思ってもいないからだ
これがクリエイタ界隈に浸透すれば「自分の技術を思いのままに進化させて、もっと早く描く」が出来そうに思えるんだけどなあ
aiの力も使って、感性を活かして、もっといっぱい描いてほしいよおれは
でもそういう方向の進化は全然聞かない 個人が頑張って絵描きワークフローに取り込もうとして話題になっては、廃れる感じ (クリスタは下手なやり方でしたな)
自分も好きなシーンを挙げていこう
異世界に行く前の前半の方が好きなシーンが多かった。
だだっ広い玄関に豪華すぎる襖絵、異常に長い廊下の奥に蠢くおばあちゃんズ
2.炎に飲み込まれ助けを求める母の夢を見て涙する眞人
どんなにベタであってもこういうのをやられると涙腺を直撃されてしまう
予想通りすぎて笑う。いまの目で見ると小さすぎるダットサンや冒頭出征シーンの豆タンクもかわいい
釘の頭を落としたり米粒を舐めながら糊にして鳥の羽をくっつけたり、
細部の描写が素晴らしい
母が若い頃1年だけ行方不明になって帰ってきたんだという過去が語られる。
質より量で勝負。ワラワラのデザインは宮崎駿が2秒で書いたスケッチに違いない。
宮崎駿デザインの小金井市の公式キャラクター「こきんちゃん」と同じクオリティである。
まっくろくろすけやコダマ、ポニョの妹たちと似てるようで次元が違う、小学生が描きそうな安易なデザインである。
7.産屋で急にブチ切れる義母
大学2年の時にニーチェを読んだ。ニーチェかサリンジャーを読まないといわゆる「基本的人権」が認められない世界観の中で、避けられない選択肢だったので、読んだ。そして意味がわからなかったので、本屋に普通に並んでる様な文化人の解説本をいくつか読んだ記憶があり、その後読んだ年齢の倍以上経てその殆どを忘れてしまってる。
さて、先日「君たちはどう生きるか」を鑑賞した。何故かネタバレを極端に避ける風潮があって私の周りでも内容に触れる人は極端に少ない。
ただ「理解するのが難解な作品である」といった趣旨の投稿をしている人は何人もいた。
果たしてそうなのだろうか?という疑問を持ったので本増田を書いている。
特にメモをとってわけでもないので、ディテールに齟齬がある部分は勘弁いただきたい。
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その後、母親の妹が新しい母親となり、母親の実家に疎開(?)をする
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亡くなった母親の思い出もあり、新しい母親に真人は心を開けない
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金持ち仕草に抵抗のない父親が車に乗せて初登校をしたため、ガキ大将的な奴と喧嘩になるがMMAの能力があったため圧倒する
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帰り道に石で自分の頭を殴り✳︎1 かつ犯人を言わないという知的な叱られ対策を行う
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亡くなった母親の残した「君たちはどう生きるか」に出会う ✳︎2
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ご覧の様にストーリーは極めてシンプルである。そして、✳︎2の描写が本作品の大部分を占めている。
いやいや、おしいれのぼうけんのさとしとあきらのぼうけんは実際に異世界へ行ったのであるよ。そういう人もいるだろうし、多感な子供がおしいれに罰として閉じ込められるという昭和のみ許された罰によって生じた脳への過大なストレスで発生したイマジネーションの中の世界という人もいるだろう。
今回は後者の説をとらせて貰いたい。
真人はあまりに強く石で頭を打ってしまい、かつ慣れない場所でのストレスから母親が残してくれた「君たちはどう生きるのか」に没頭してしまう。
この原著は小学生の時に読んだことがあり、その歳からは3倍以上の歳となってしまったので
あるが、コペルくんという快活な出来杉くんが日々体験した葛藤とかに、「叔父さん」が真摯に答えてくれるという内容で、漫画化されて話題になった時の売り文句を見ても感じたのだが、児童文学の姿を借りた思想書/啓蒙書である。
うっすら覚えている内容も、格差によるキャズムと父親の金持ち仕草でいきなり浮きまくって喧嘩となり、派手な登校拒否スタートとなった真人とは重なる点も多く、「叔父さん」の回答は真人の心に刺さるものが多かったろう。
聞くところによると反戦主義者であった吉野源三郎は、自由な言論活動が抑制された戦前、戦中において、その活路を児童文学に見出したようだ。
吉野源三郎とニーチェの対比については東洋哲学的視点で語る人は少なくない。戦前、戦中においてはニーチェが死んだと評した絶対的価値観と同様のものがこの国に溢れていたのは事実だろう。
そういった意味では吉野源三郎を日本のニーチェと感じる人はいてもおかしくないのだろうけど、昭和の小学生であった自分には全く刺さらなかった一冊であった。
なんにせよ、真人少年はこの本を読み、心の中のぼうけんへとでかける。
庭にある「塔」はよそから飛来した飛翔体で、大叔父は「これは大事なものだから」と新しい建築物で囲った。
「新しいぶどう酒は新しい革袋に盛れ」(ルカ5章38節)当時の慣例を無視したイエスは、新しい思想は、新しい環境にて受け入れかし的な意味で言ったらしい。
と宿るじゃ大きく意味が異なるので、この辺も解釈によって随分と違う。
さておき。この大叔父の言っている「これは大事なものだから」は絶対的な価値観で、この絶対的価値観を装飾したり保護したものが戦前、戦中に世に溢れていた「常識」なのだろう。
この常識に対して、「君たちはどう生きるのか」は児童文学というN国ハックを成功し、無事相対的価値観を真人少年に届けることに成功する。
✳︎母親も塔で行方不明になった時期があり、大叔父は姿を消したままなのは、絶対的価値観に対する「疑問」を持ったことに対して、思想警察等の介入を招いたという事なのでは?といった解釈もなりたつ。一方で、隠れキリシタンのマリア像的な「進歩的思想」を表すものとも受け取れるがその場合にはいくつかの齟齬が生まれる。
本作でトリックスターとして描かれるアオサギは古代エジプトのベヌウを始めとして様々な宗教で描かれている。
混沌に現れたベヌウがアトゥムとなりそしてラーとなったが古代エジプト神話の創世記で、ベヌウはその後もフェニックスになったり、旧約聖書で忌むべきものと描かれたりと様々な存在であり続ける。
全てのアオサギは嘘つきだとアオサギは言った。これは本当か?!
という問答が本作ではあったが、アオサギは「相対的価値観」のメタファとして描かれたのでは?と私は思う。
見る人によって、見る時によって解釈が異なる存在は相対的価値観の象徴としてこの上ない。
ソクラテスの良き友人であり、ソクラテスをソクラテスとならしめ、そして死に追いやった「ダイモン」はその後「デーモン」となり絶対悪となる。
アオサギは創世の核から、忌むべきもの、そして後世では聖職者やキリストとしても解釈をされている。相対的価値観の象徴として登場するに相応しい扱いのブレブレさ。
嘘つきを「悪」や「忌みもの」と置き換えたとしても時代、そして答えるもののスタンスでその答えが変わるだろうアオサギをトリックスターに据えたのは、アオサギが不死鳥=火の鳥としての立ち位置だと考えても中々に面白いのではないだろうか?
わらわらが空に舞うシーンとペリカンの登場をみて、多くの人が空襲によって生まれるはずの命が奪われていったのをイメージしたのではないだろうか。
出雲大社をはじめ、神道の結婚式では玉串をおさめるさいに、新郎と新婦は螺旋の様に左右に交わりながら神前に進む。
この「螺旋」という存在は、永劫回帰にもつながる東洋思想の根幹となるもので、すべてのものは平等に無価値で、それぞれが相対的な価値をそれぞれに対して持ち、または持たない。
下の世界は明示的に「地獄」と表記されてたのであるが、おそらく描かれてるのは冥界だろう。
ニーチェが死んだと評したものはそれ以前のキリスト教における始まりのある絶対的な価値観というのが有力な説であるが、その絶対的価値観を作った人物の1人である聖アウグスティヌスが「聖心、自己犠牲」の象徴とし、その後も様々な紋章で愛されたペリカンが魚の内蔵餌にし、上の世界での誕生を待つわらわらの命を次々と奪っていくのは宮崎駿のフラットな「反戦思想」が読み取れる極めてシニカルなメタファーではないだろうか。
ペリカンは第二次世界大戦でも輸送機や爆撃機のノーズアートとして愛用をされていたのは、ミリタリーに造詣の深い宮崎駿なら知らないわけはないだろうと考える次第である。
インコの軍団の描かれかたは、当時の日本の軍部の急進派やポピュリズムに扇動された国民をイメージとさせる。
ところが、インコはアオサギやペリカンの様に何かのメタファとして使われてた例を少なくとも私は知らない。
あえて言えば、ポピュリズムに扇動される一定数の国民は今も変わらない、その人たちはみな同じ様ち聞いたことを繰り返す。
これらに対しての皮肉を込めて、鸚鵡はアレだからインコにするか、となったくらいしか思いつかない。
1シーン、インコたちが「陰謀論者」を彷彿とさせるセリフを言ってたのが気になるが、それにしても偶然の一致だろう。
本作は極めてシンプルな構成で少年の成長の数年間を描きつつ、そのきっかけとなった一冊の本のバックボーンを深く掘り下げた作品だと思う。
ただ、その一冊が示すところは当たり前の様に社会に実存する不条理や、固定された常識を「畜知」として個々の持つ倫理観や、相対的価値観を持って超越すべきと描くものだった上に宮崎翁の表現だ。わかりやすく理解が困難であるところが極めてわかりやすい。
現象界では常に変化が起こり、全く同じ真理などは存在せず、全てのものに等しく「無」だけがその拠点として存在すると、ナウシカで宮崎駿は伝えたかった気もするのだけど、これすら三連休の最終日にしこたまアルコールを飲んで歩くのすらおぼつかない私の中だけの相対的な宮崎駿評である。
なんにしても本作の序盤の数分で感じるスパイダーバース同様の狂気は、宮崎駿存命の間しか味わうことが出来ない、スタッフロールと引き換えに命を削った各コマを作り上げた人々の命の結晶である。時間は貴重だ。一方、チケット代なんて酒を2、3杯飲むのと引き換えられる程度の数字が書かれた概念でしかないだろう。
よっぽど忙しい人や、ジブリや宮崎駿が嫌いな人も最初の10分で良いから見てほしい。
昨晩、地下室からのふしぎな旅を改めて読んだ。柏葉幸子は素晴らしい。
宮崎駿は引退するまでに一回で良いから柏葉幸子作品の監督をやりたいはずと、私は勝手に思っており、君たちはどう生きるかもその色眼鏡で鑑賞するといくつかのシーンから妄想が膨らむ。「鈴木くん。柏葉幸子は素晴らしいぃぞぉ」という宮崎駿の声が脳内で響く。
公開数ヶ月前になってタイ人に関するなんやかやの報道でどうでもいい悪印象を与えてくれた鈴木Pでしたが、「宣伝を全くしない」という前代未聞のプロモーション戦略のおかげで、「宮崎駿の新作を全く前情報のない状態で見る」という稀有な経験を与えてくれたことに感謝します。
これは実に小学生の頃「両親に連れられて『火垂るの墓』を見に行ったら突然なんか知らないアニメ始まった」以来の驚愕の経験であり、その後のジブリアニメが国民的アニメとなっていき毎回公開前に怒涛のプロモーションが行われていった経緯と、その時に見た「となりのトトロ」が私の生涯において不動のベストアニメであることを考えると、奇跡のような経験であるといえます。
ただ、正直あまり期待はしていませんでした。というより期待しないように努めていました。私のジブリへの信頼感のピークは「もののけ姫」とコミック版「ナウシカ」であり、今ではアカデミー賞に相応しい最高のアニメであると評価している「千と千尋」も終わった直後は頭の中「???」でしたし、ハウルでは「??????」、ポニョでは「????????????」となっていきました。
ゲド戦記とアリエッティは私の生涯のワーストアニメベスト1&2です。
「風立ちぬ」「かぐや姫の物語」も、「?」は浮かばなかったものの「ピークを過ぎた老境の作家の遺作としては十分以上の出来だろう」というような妥協した評価に落ち着きました。
この作品が制作発表された時にまず思ったことは「本当に完成するのか?」という心配でしたが、鈴木Pの斬新なプロモーション戦略により完成するまでその心配を思い出すこともありませんでした。ポスターが発表されてからもほぼ忘れていたのですが、「プロモーションをしない」という鈴木Pの方針が話題になってから俄に気になり始め、上記トトロ以来の経験をする決意をしたというわけです。
私と同じ体験をしたい人は絶対にこの連休中に観に行くでしょう。連休中に観に行く予定の人はこの先を読まないでください。
行かなかった人はその後普通にどのような作品だったか、情報を目にすることになるでしょうし、少々のネタバレを食らったところで気にもしないでしょうから、ここから私の感想を書いていきます。ストーリーの核心をネタバレするつもりはありませんが前提となる設定などは普通にバラしていきます。
◆面白い?
「カリオストロ」「ラピュタ」のような痛快冒険活劇ではありません。「ナウシカ」のような設定をしっかり作り込んだ異世界ファンタジーでもありません。しかし、見ている最中「最高傑作」という言葉が何度も浮かんだのは確かです。「トトロ」や「千と千尋」を上回るか?と言われると、難解で観念的すぎる部分はありますが、明らかに上回っている部分もあるので、評価を決めるにはまだ何度も見る必要があります。というかすぐにでももう一度見たいです。
◆この作品を見るべきか否か?
文字通り宮崎駿の集大成なので、ジブリ映画で育った人間なら見に行かないという選択肢はありえないでしょう。ハウル以降は見なくてもいいと思いますがこの作品を見ずに日本のアニメのことを語ることは不可能です。というか、確実に「トトロ」や「魔女宅」などと同じように日本人のDNAに深く刻まれる作品になるでしょう。
◆良かった点
・文字通り集大成なので過去の宮崎アニメの要素が全て入っている
風立ちぬ→トトロ→千と千尋→ハウル→ポニョ→コナン→カリオストロ→ラピュタ
と怒涛のようにどこかで見たような風景、展開が続きます。二番煎じではありません。
本人にしかできないセルフオマージュであり、過去作を踏まえた上で、それが国民的記憶として共有されているからこそできる唯一無二の表現です。
そして、あらゆる影響を生み出してきたオリジネイターにしかできない圧倒的イマジネーションがあります。
主人公のモデルは少年時代の宮崎駿自身であり、半分自伝的な物語になっているが故に、少女を主人公とした「千と千尋」などより真に迫ってくる情感があります。
何より宮崎駿がインタビューで度々口にしていた母親に関する憧憬が、作品として昇華されているところが素晴らしいです。
コンテを描きながら公開日を決め、締切に追われながら作られた過去の作品は、若い頃は力技で最後まで渾身の力で作りきっていましたが、近年の作品においては終盤明らかに息切れが感じられました。今回は明らかに時間をかけてストーリーが練り込まれており、「ハウル」や「ポニョ」で顕著だった「えっこれで終わり????」という感覚は一切ありません。
「既存のストーリー構成の枠にはまらない」という手法は「千と千尋」の方法論を踏襲しているので唐突な展開の連続に難解さを感じる人もいると思いますが、終わってみれば一本筋の通ったストーリーになっており、深く考察する価値がありそうです。
「千と千尋」で確立した「ゆきて帰りし物語」のフォーマットを発展させ、導入はよりゆっくりと自然に、異世界に入ってからはよりぶっ飛んだ展開の連続で飽きさせません。結末も「これしかない」という納得感のあるものになっています。
・泣ける
「火垂るの墓」以外のジブリ映画で泣いたことはあまりないですが、様々な要因からくる深い感動で終盤は涙が止まりませんでした。米津玄師の主題歌がその感動に拍車をかけてきます。ズルいと思うぐらい良いです。
◆悪かった点
・なんか説教くさそう
説教くさそうなのはタイトルだけです。少年時代の宮崎駿が「君たちはどう生きるか」を読んで感銘を受けた、という以上のことは原作との関連は読み取れませんでした。原作を読み返し、何度も見て考察したい点です。
一番奇妙なジブリ作品。過去のジブリ作品のオマージュが散りばめられているばかりか、なぜか他のアニメ監督作品ともどこか繋がっているような…。細田守や今敏作品が頭をよぎる。(細田守の「星を追う子ども」との共通点は無視できないレベルな気が。あとは作画が明らかにジブリを離れている瞬間があるのが大きいかも。)
この映画は物語を追うものではない。誰かに感情移入して楽しむようにできていない。最後までその不思議な感覚が残る。でも、目の前で鑑賞していた小さい子どもが、終わった瞬間に「おもしろかった…!」と呟いた。もしかすると、真に子ども向けの映画なのでは?
そう考えると、今回の「異界」はある種の「生まれ直し」なのだ。正しく「異世界転生」している。転生先で出会いと別れ、困難と戦い、そして選択を行う。これらは子どもにとって、これから人生で起こることを予期させる。映画を通して「君たちはどう生きるか」シミュレータが機能するよう設計されているのではないか?(なお自分は十分に歳を取っているので、このシミュは動作不良を起こす。)
そして勝手な想像だが、あの老人は宮崎駿の分身である。とすると、宮崎駿は誰にも世界を渡せなかった、世界を手渡すことを失敗した。異世界の崩壊は、ジブリのイマジネーション世界の崩壊を意味する。しかし老人はそれを事前に、自ら選んでいる。老人は次世代のために「汚れていない石」を必死で探し当てた。しかしそれは第三者に破壊されるのだ。
きっと今度こそ、これが最後の作品ということなんだろう。ジブリのエッセンスは拡散し、勝手に引き継ぐ人間がその破片を受け取る。映画が始まる前の予告編の、やけにジブリライクな作画や、作中の他作品への無意識的な連結はそれを印象付ける。
「おもしろかった?」と聞かれたら「奇妙だった!」と答えるし、「もうちょっと詳しく」と聞かれたら「自分が子どもだったら最高だったかも!」と答える。そういう映画。
アニメ映画の「犬王」、Amazonプライムで見れたから見た。ある程度前評判通り、良い部分もそうでない部分も。という感想。
湯浅監督のファンなので、相変わらずアニメでしか表現できないだろうイマジネーションの視覚化や、流動的な作画が多く見られるところは好き。動きのダイナミズムという点では文句がない。
一方で、室町時代の前衛的な音楽表現としてロックはどうなの?というミスマッチ感。べつにエレキギターの音が入っても全然いいんだけど、ロック自体がいま既に古いというか、やり尽くされたフォーマットになっていて、和楽器とのコラボも特に珍しくなくて、しかも過去のロックのオマージュ的な見せ方が多いとなると、なんだか気恥ずかしい感じがあるのは確か。
そういうロック歌劇シーンが大部分を占めているから、物語の情動部分、特に終盤、犬王がどういう思いや考えで足利義満にこうべを垂れるのか、踊り続けたのかは端折られた感が強かった。歴史的にわからないんだろうけど。
もうすぐ子供が5歳になる。
健やかに育ってくれてた。ありがたや。
一つだけ問題がある。
見ながら食うのが習慣化してしまった。
イカンのはわかってるが即効性があるのでついつい使ってしまう。
最悪だ、すまん。父は弱いのだ。
せめて食事中は取り上げたい。
取り上げるとギャーギャーうるさい。
壊れたとウソをついても
「どうせウソでしょ」
「じゃぁパパのケータイでいい」
カンダタは最後どうなったのかとしつこく聞いてくる、知らんがな。龍之介の聞いてくれ。
「地獄のあばれもの」もお気に入りでここひと月毎日観ている、針の山をなぎ倒していくシーンが好きらしい。
ちょっと前はGTAだった。殺戮破壊をケラケラ笑いながら観ていた。
ともかく、せめて食事中は取り上げたい。
お話しよう、大好きな鉄道クイズをしてあげる、などなど誘導策を試みたがダメ
あるいはたこ焼き巻きずしチーズフォンデュなど子供も製作に参加できるようなメニューを増やすか。
なにかアイデアがあったら教えてくれ。
と、ここまで書いてふと、
なんで?
一般的にはダメに決まってる議論の余地なし、だろうがそこにサイエンスは無い、エビデンスはない。
もしかしたら食事中に好きなだけスマホ動画を見たほうが利口で良い子になるかもしれない。
あるいはなんら影響が無いとか。
データを探してみたが無い。そりゃ無いだろう、デジタルネイティブ世代はまだ就労世代に達していない。
テレビを対象にした類似研究はあるが、幼児期テレビ視聴時間、食事中のテレビが長期的にどのような結果となるか追跡コホートは見つからなかった。
で、いくつか論文は読んだが、ようするに見方にもよるんじゃね?と思い始めた。
子供を大人しく座らせて食事させるためにスマホを使う、親も黙ってスマホながら食い
と、
一緒に映像を観ながらそれをテーマに話をしながら食べる、とでは違うのではないか。
落っこちたカンダタどうしたんだろね、もう一回チャンスあげてもいいのにね、どう思う?みたいな
動画をただ消費するのではなくイマジネーションを広げる訓練になれば良いのではないか
「忍者ハットリくんの顔は実はお面で、そのお面を取るとその下にまたお面がある」
という話を聞いたことがある。
しかしネットで調べてみると、それはデマらしい。原作にもアニメにもそんな描写はないと。
https://sekasuu.com/blog-entry-22829.html
> 原作の中の1話に、ケンイチ君が帰ってきたら、ハットリくんが正座してお面をどうやらとっているっていう。それで、ケンイチ君が来た時に、ササッてかぶすっていうシーンがあって。まったく、1回たりとも表情がないわけ。…気持ち悪くない?ずーっと部屋に居候してて、お友達みたいにしてずーっといるんだよ、ハットリくん。
伊集院光はA先生との対談の中でこの話をしたっぽい語りぶりだから、これは作り話のつもりで語ってるのではなく、伊集院光の中ではこれが事実になっているのだろう。
イマジネーション豊かな伊集院光のことだから、「ハットリくんはお面を被っている」との勘違いから、無意識に架空の話を作り出してしまったのかもしれない。
そこでふと疑問に思った。
伊集院光は「ハットリくんはお面」とは言っているが、「お面をとっても、その下にまたお面がある」とまでは言ってない。
これはいったい誰が言い出したのか。
どう考えても、性器の大きさの関係で、気持ちいい・気持ち良くない(痛い・刺激薄すぎ)は、物理的にあると思うぞ
でもそれを物ともせず楽しめるって言ってるんだからクソどうでもいい話だと思うよ
あとは女の方がセックスを楽しむ意思を持っているかどうかだけだぞ
2020-09-05 ファンタジーなのは現実のセックスやSMと何も変わらない
https://anond.hatelabo.jp/20200905102638#脱毛したり臭いに気をつけたりシチュエーションに気をつけたり涙ぐましい努力してますやん
そこまでして子作り以外のセックスする必要あるか?だが (体外受精出来るのでなんならセックス自体する必要あるか?)
セックスに必要なのは相手に対する思いやり尊重以上にファンタジーである
セックスにガッカリとはファンタジーの体現力が足りないという意味である
たびたび増田で他人の趣味趣向をあげつらって「○○とか好きそうw」とか「きっしょ!寄ってこないで」という投稿をしてきました
しかしそれもこれもTwitterJPによるおすすめユーザーの操作が原因で陥っていたイマジネーションでした
この人が自分と同じものを好きだったらどうしよう、キモい人間をおすすめされてしまう!
しかしそれもTwitterJPの人間がクビになったことで、解決とは言わないまでも一旦その思想をリセットすることが出来ました
これからは自分が好きと思ったら大事にするし、直接関わりのない他人の趣味趣向を貶さないこととします
永久凍結、しかも他アカウントも巻き添えというTwitterJPの所業は許しませんが、その他の人間のことは許すことにします
シンデレラ城前等映えるスポットに居座ってTikTokやインスタの撮影をしている子達と、一番ベストなポジションでショーパレを楽しむために何時間も前からショー、パレードルートで地蔵している人達に違いはありますか?
どちらも景観を損ね、通行の邪魔になっているという意味では大して変わらない気がします。
正直前者はオタクが単に自分達の中で決めた暗黙のルールを破っているから排除対象として非難されているようにしか見えません。
トゥーンタウンの木箱やアラビアンコーストの窓枠、シンデレラ城の階段の手すり、アクアスフィアの石枠等確かに高い場所に登って写真撮影を行うことは危険だと思うし、注意が必要だったかもしれないです。けど、それはネットで総叩きして個人情報を晒されるという制裁を加えられなければいけないほどのことでしたか?キャストに一言「あの子たち危険な行為をしていませんか?」と伝えれば、それがもしトラブルにつながるのであればキャストがゲストに直接注意して終わる話ではなかったのでしょうか。
あの一件10割インスタ映えの子達が悪かったが世論でしたが、正直トゥーンタウンの木箱の周りに植栽が置かれたり、アラビアンコーストの窓枠が埋められたり、アクアスフィアの柵が増設されたりしたのも、ゲストを危険から遠ざけることだけを目的に設置されたんじゃないと思います。これ以上OLCが介入できないようなゲスト間トラブルを避けるための対策という意味合いもあったのではないでしょうか。
一部のDヲタはよくよく自分の行動を振り返ってみてほしいです。やりすぎていませんか?
一部のDヲタの「気に食わない。」という憎悪の私情一心での度の過ぎた注意喚起、本当によくないと思います。皆んなTDRでの楽しみ方の価値観が違うだけなんだということを知ってほしいです。
私はTDRがDヲタだけが居心地の良いDヲタのためのパークになって欲しくありません。TDRは魔法とイマジネーションの世界に包まれて、時には誰かの夢が叶う素敵な場所であってほしいです。