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はてなキーワード: ノスタルジックとは

2023-04-20

選挙カーすき

人が喋るトーンとかって流行りがあって変わっていくように思うけど、

つの時代も同じ甲高いババアっぽい声、ノスタルジックだよね

2023-04-12

村下孝蔵さんの「踊り子」が最高だった話

恥ずかしながら、結構最近まで村下孝蔵さんのことはちゃんと知りませんでした。代表曲である「初恋」テレビ歌番組で聞いたことくらいはあったと思いますが、正直「昔の一発屋」くらいの認識でした。

とあるイラストレーターさんがツイッターで「今日村下孝蔵さんの声が良い・・・」みたいなことを呟いていたのをきっかけに聞き始め、とりあえずitunesベスト盤を買いました。

色々聞いてみて、「初恋」や「少女」、「春雨」等々、良曲はたくさんあるんですが、その中でも最高だと思ったのが「踊り子」でした。メロディは正直ちょっと臭い(失礼)とは思ったのですが、むしろノスタルジック雰囲気が最高です。もろに昭和後期の恋の歌、って感じですね。

それで、聴くほどに、読むほどに染みるのが歌詞なんですよね。別れ歌なのですが、「別れる」とか「離れる」、「振られる」といったいわゆる失恋ワードが一切出て来ないんです。すべてが比喩で語られるんですよ。直接説明されないからこそ頭の中で情景が浮かんで、きれいなメロディだけでは不可能な浸り方ができるんですね。本当に最高です。

冒頭の歌詞

「答えを出さずにいつまでも暮らせない

バス通り 裏の路地 行き止まりの恋だから

ですよ。

このフレーズで、一緒に暮らしてきた恋人たち限界を迎えているというシチュエーション完璧説明してるんです。はー、詩的だ。

サビでは、1番で「つまさきで立ったまま 君を愛してきた」

2番で「つまさきで立ったまま 僕を愛してきた」

最後の繰り返しで「つまさきで立ったまま 二人愛してきた」

と展開されます

お互い無理してきたんでしょうね。それを「つまさき立ち」と表現し、さらにそれをバレエダンサーに喩えて「踊り子」というタイトルを付ける。えらいセンスだなあと思いました。

で、歌詞にこの文章を書こうと思ったきっかけになった部分がありまして、先の冒頭の歌詞の続きが

「何処かに行きたい 林檎の花が咲いてる

暖かい所なら 何処へでも行く」

なんですよ。

ここだけ妙に直接的というか、行き詰まった恋をなんとかしたいというのを「暖かいところに行きたい」と言っただけだと、比喩として(他の部分と比べて)弱いような気がしました。そこでぼーっと歌詞を眺めていたら、ふと林檎の産地って寒いところばかりだと気付いたわけです。調べると、日本国内生産量の90%が青森長野岩手山形秋田で占められていました。つまり日本林檎の花が咲く暖かいところなんてあまりないわけです。

それを踏まえて歌詞を読むと、「林檎の花」と「暖かい所」は相反する要素であって、「何処へでも行く」というのは「(もしそんな所があるなら)何処へでも行く」であり、無い物ねだりだったんだと分かります。「もし破局を避けられるのなら何でもするよ。でもそんな道はないんだ」という切ない話なんですよね。ところが、この気付きを誰かの書いた文章共感したいと思って検索したら、「暖かいところは幸せ象徴で」とか「林檎日本の南の方でも栽培されているので」みたいな解説ばっかり出てくるわけですよ。いや違うだろと思って筆をとりました。

何が悪かったとか、何がきっかけだったとかではないんですよね。好きな相手自分を良く見せようとして背伸びをした結果、お互いに相手に見せる自分と本当の自分がずれていってしまった。お互い好きになったのは相手の着飾った姿で、だんだん見えてくる本当の姿にストレスを覚えるようになり、やがて耐えられなくなる。お互い未練があるから取り繕ってきたけど、もう一緒には暮らしていけない。大人同士ならすり合わせてうまくやっていく道もあったのでしょうが若い二人は良くも悪くもまっすぐで、それができない。

顔も見えない、名前も分からない登場人物の、愛情と悲哀だけが伝わってくる。こういうストーリーを「別れる」という言葉を一度も使わずに、どこか美しく表現するって、本当にすごいセンスだと思います村下孝蔵さんの歌に出会えて、本当に良かったと思いました。

誰かが共感してくれると嬉しいです。

あと、村下孝蔵さんを知っている人には釈迦に説法かもしれませんが、生前に親交のあった沢田聖子さんが「親愛なる人へ」という追悼歌を作られています

こちらも涙が出ますね。

2023-03-18

エロゲ音楽継承者してる若者って堀江晶太だけになったよね ちょい追記しました

なんか皆して普通ロキノンと混ざり合うことを選んじゃったな。

エロゲ音楽らしさがなんなのかは上手く説明できないんだけど、90~00年代テイストというか、ある種のフェイク感と透明感とゴチャゴチャ感、「わかりやす音楽聞いてるねwwwそんなのアニソンしかいたことがなくて耳が鍛えられてないオタクぐらいしか喜ばないよwwwww」って言われようと知ったコッチャねえと蹴り飛ばすような、その上でそんな決して優れてないオタク達の耳によって選ばれるエロゲソングランキングの上位を真剣に狙っていくような、安っぽいカードしか使えない限られたカードプールの中での必死模索というか、その中である種のノスタルジック記号化されたエモに恥ずかしげもなく頼っていく貪欲さ、技術を学ぶための知の高速道路が引かれた現代社会において基礎技術を0から再構築して地に足がついた正統派になっていこうとする流れではなく、日本国内で数々の音楽的なテクニックが発掘されてジャンルが作られたあとの世紀末時代にそれらをチェリーピックしまくって作られた小手先集合体とそれらを載せるための丁度いいフワフワのスポンジをベースにしたキメラケーキみたいな奴をさ。

今なお受け継いでるのって現役のベテラン連中を除けば堀江晶太ぐらいだよね。

Dying breedなんだねえ……

追記

今更だけど「MUSE DASHから漁っていく手があったかー。あざーす」言いに来ました。

あざーす

パッケージが滅んだ結果としてエロゲ音楽は失われたってのは確かにですねー。

当時で8000円(今の物価だと1万ぐらい?)のゲーム売るためにPV滅茶苦茶気合い入れるってのは戦略として正解でしたけど、DL販売で2000円のゲーム売るためにどこまでやるのかって話ですよね。

いわゆる「電波系」の新曲が今はVtuberに集中しているのも、収益の見込みがあるからということなのでしょう。

それで考えていくとソーシャルゲームってのはかなりの鉱脈に見えるんですが、こちらは伸びていく時期にドリランドパズドラがやった「ゲーマーとして濃くない人達を客層に取り込む」という流れを受け継いでいるのか、全体的に無難さを感じるんですよね。

ここでいう無難というのは「オタクノスタルジックな受けを狙ってない」という感じですかね。

ゲーム風ではあれど今風の音楽文脈にあるというか。

そう考えると韓国中国辺りのスマホゲーなんかはわりかし「ユーラシアに住む世紀末クールジャパンノスタルジーに脳を焼かれたゲーマー共を客層に考慮している感じ」の曲がチョコチョコあって、まさにその辺を効率よく芋づるのに「MUSE DASHから辿ってみ」は大正解ですねドンドンパフパフでした。

あっしはまあ感受性構築の過程エロゲ文化刷り込みをされたというだけで「エロゲ歴史とは」って配信してる人みたいには語れるほどじゃないというか、例のエロゲソング投票かにも参加してないようなレベルROM専消費者層なんでもっと何か喋れと言われても結局これぐらいなんですよねえ。

もっとしかったら作曲家師弟関係(直接ではなく影響を受けた場合も含む)をどんどん辿って行けると思うと、学ぶ能力のものについて鍛えてないというのは人生を貧しくするなと改めて思いますわ。

でもそういう無能人間にもエロゲは優しいっていう所がハマった理由なんじゃよなあ。

テキストゲーはカチカチしてるだけだし、難しかったら考察サイトフムフム言えばいいっていうお手軽さが、自己肯定感を奪われまくった心を生き返らせそこで第二の人生インプリンティングが行われたわけじゃよホッホッホッ老人の話はこれぐらいにするかのう

2023-02-11

ととのう温泉美術館にいってきた

朝、NHKローカルニュースを見ていたら、近くの温泉ホテル現代アートフェスをやってるというのが流れてきた。

個人的美術には造詣が深くない。持っている美術知識といえば大学一般教養で受けた西洋美術史概論(途中でいかなくなったため単位未取得)とダヴィンチコード(序盤で読むのやめた)くらい。

特に現代アート」なんてものはわけがからない。ルネサンス絵画印象派の絵なら実物を見て、「あ、これ知ってる!」「すごい!」、「うまい!」、「きれい!」などの感情を抱けるが、現代アートと呼ばれるものは、見ても「?」、「これがアートなのか・・・アートってなんなのかよくわからん・・・」みたいな感情しか持てない。

なので普段なら見流すところだった。

だがしかし、前日にスーパー銭湯ブルーピリオド読破していた私は俄然興味を持っていた。

今なら、わかる気がする。

しわかんなくてつまんなくても温泉に入れるみたいだし、温泉ホテル美術館ってなんか珍しいから話のネタになりそうだし。

 

というわけで行ってみたんだが、結論から言うと、行って良かったとは思うがそれが現代アートのおかげなのかどうなのかは正直よくわからん、というところ。

会場は半径500mくらいの温泉街の5、6個のホテルに点在していてる。高低差が50mくらいある。結構歩く。つらい。

鑑賞エリアがわかりやすく区切られているわけではなくて、ロビー一角だったり、エレベーターホールだったり、客室、ゲームコーナー、ラウンジなんかに自然な形で展示されていて、それが意図して作られたアートなのか、元からあったホテル什器なのかよくわからなかったりする。

どのホテルも年季が入っていて、80年代90年代バブル平成レトロ空気が漂ってるように感じたんだが、これがアートのおかげなのか元からそうだったのかよくわからない。

作品展示以外にもロビーで劇をやっていたり、夕日が沈む海の前でバイオリンを弾いていたり、日常空間が非日常空間になっていてよくわからない気持ちになった。

穏やかな海と冬の午後の暖かい太陽がとにかく美しくて、ノスタルジックホテルで展開されるよくわからない現代アートと相まって、不思議空間を作り出していた、気がする。

いやほんと、気がする。確信が持てない。なんとなくでしかない。ずっとほわほわしていた。 

ブルーピリオドを読んでいたおかげで、作品が絵や彫刻でなくても「これがインスタレーションってやつね!」と自分を納得させることはできたが、それ以上の助けにはならなかった。

なんだろう、映えスポットだらけだった。現代アートと映えスポットの違いがわからない。若者はあまりいなかったけど、いたらきっと至る所でパシャパシャしてるんだろうな、と思った。

結局私には現代アートはわからないままだった。でもこの日の体験は行ってよかったと思えるものだった。

 

あ、でも会場が思いのほか広くて、時間が足りなくなって温泉に入り損ねた。それだけが心残り。

2023-01-01

おススメのWeb記事を紹介するのでみんなのオススメを教えてほしい ②

anond:20230101122107の続き


本を読んだことがない32歳が初めて「走れメロス」を読む日

https://omocoro.jp/bros/kiji/366606/

直近だけどこれは外せないだろうともう一つオモコロから

走れメロスなんてストーリー全部知ってるのにメロスは間に合うのかと一緒に手に汗握ってしまった。

最後読書感想文がまた良いんだよな。



格ゲー業界騒然!パキスタン人が異様に強い理由、現地で確かめてみた

https://withnews.jp/article/f0190417002qq000000000000000W08510101qq000019048A

韓国勢一強状態になんとか日本勢が食らいつく構図だと思われていた鉄拳界で突然現れたパキスタン勢が無双して優勝する幽遊白書魔界トーナメント編が実際に起きた話。

格ゲーはもう上位がやり込み過ぎてて煮詰まってると思われてただけに新星が現れたのは興奮した。

ちゃんと現地行って取材してるのがいい。



先生オメガを倒したら宿題やってきてやるよ」と生徒が言ったので、わたしゲームライターになった

https://note.com/rurune/n/n9d92e63b81c9

ノスタルジックで素敵なゲーム記事

今はインターネットですぐ答え出ちゃうけど、昔は学校友達ゲーム攻略情報を話しあったりしたな~と懐かしい気持ちになる。



おっさん、それは神宮寺レンや」〜うた☆プリファンやってたら麻薬の売人に間違えられた話〜

https://note.com/custardsomechan/n/nc5bfe1c759fb

オタク特有?の勢いのある文章が好きで良く読んでいるんだけどこれが好き。

情熱のあるブログ書いてる人って男オタクより女オタクの方が多い気がするのは気のせいなのかそんなもんなのか。


’89 牧瀬里穂JR東海クリスマスエクスプレスCMが良すぎて書き殴ってしまった

https://sakumaga.sakura.ad.jp/entry/2020/10/07/120000

とんでもなく長い記事を書くことでお馴染みのpatoさん。

数十秒のCMプレゼントの中身から駅構内図まで深く考察熱量を保ったままこれだけの文章にするのは狂気といっても差し支えないのでは。

何より牧瀬里穂可愛い

零細企業を買収した後に行ったDXとは呼べないDX

https://note.com/reisaikigyou_ma/n/n052860974e26

企業買収して改革した人の話



ざっと考えたけどこんな感じ、他におススメあったら教えてほしい。

2022-11-24

あの2012年から10年ですよ

2012年といえば

スカイツリーができたり、WiiUが発売されたりガルパンTV放映されたりしました

ノスタルジックな話をしたかったんだけど、スカイツリーWiiUガルパンももっと前だと思ってた

2022-11-22

日本原風景っていったらみんなどういう景色を思い浮かべるの?

俺は山から海までがつながってて坂道ばっかりで、

有名どころで言えば尾道らへんの風景が思い浮かぶんだけど、

これが自分の親の実家瀬戸内夏休みごとに里帰りしてたからなのか、

それともノスタルジック風景として割とみんな思い浮かべるかがわからない

2022-11-11

電子書籍って読みやす

けどなんか味気ない感じがする。

味わって食べてるんじゃなくて栄養をただ入れてるだけみたいな。

こんなノスタルジックは好きじゃないけどそう感じてしまう。

2022-08-15

共感にあらがえ - 内田樹の研究室を読んで

これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。

ただ、内田が、

感情の器」って、あくまでも個人的身体条件のようなものから

というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。

たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミス道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会規範構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。

そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。

家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。

アレックス・カー20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。

おりしも建設省代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代

アメリカの7倍のコンクリートを使って日本山河コンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。

その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。

「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。


A・カーは、フェアプレイ精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者トップ黒海に豪奢な別荘を保有し、人民実質的農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。

「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司説教ブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖

最近、想起するのはやはり旧統一教会家族価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族崩壊している、といった、「おまゆう問題崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするとき動機付けメカニズムなのだ

内田永井議論テーマひとつである人権平等。あたか普遍的原理についても、

それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。

アメリカ建国者の一人、トーマスジェファーソン人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。

これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。

どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質人民に備わっていると信じて建国者デモクラシー設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権矛盾が、南北戦争北軍正当性を決定的にする。

内田議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要キーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。

自分でうまく整理がつかなかった。内田はいう。

「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。

これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係いかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。

内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。

まず外付けの倫理から。どのように受容されてきたか

舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後憲法のものアメリカ経験に基づいたものだ。

しかし、日本人権教育は、残念なことに、人権普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。

戦後人権を外付け実装してきた日本は、そのルール規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。

現在、旧統一教会問題話題の、国家宗教というテーマにしてもそうだ。

政教分離キーワードとなるのは、恐怖から解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西課題だ。宗教いかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴ勝利した古代ローマ

そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要再確認された。それが言論の自由関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場比喩が生まれる背景ともなった。

他方、旧世界フランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会権威苛烈弾圧が恐怖であった。だから公共空間合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランス言論の自由は、その意味カトリック否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したこと歴史的な背景は深い。

このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。

それは、実は国によって微妙コンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的価値なら、なぜ何千年も克服できなかったか意味を問うというか。

しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後日本裁判所も含めて。

でも、それこそが日本人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。


その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。

内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは自分の国や自分家族自分自身の歴史だと俺は思う。

自分自分先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理けが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本アジア欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。

歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。

自分理想とするもの現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。

自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。

ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要キーになるし、国家宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米経験教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決行政戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料支出したこと違憲とした歴史的判決で、戦争経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。

しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通体験共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代

50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。

「あの頃は」という共通過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。

まり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。

それが、失われ、外付けの価値観だけがカラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。

永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代

「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。

と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。

また、日本憲法に組み込まれ歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。

高度成長期に「あの頃」といえば戦争時代だった。

それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、

視聴者からは、おしん私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。

しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ

しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争記憶との関連が薄まった。当然、日本憲法リアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。

しかし、いずれにしても過去記憶憲法規範が直接に結び付かない、その世代経験、そこに、永井紛争国の辺境の地を自分テーマに選んだヒントがあるように思えてならない。

紛争リアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生ときに知った人権、そして憲法価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。

しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。

永井氏が、内田氏との対話のなかで

私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこから自分母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親単身赴任でしたし。

といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。

全然人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。

動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的ロールモデルとは限らないのだ。

この体験辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。


ともあれアレックス・カー面白い

読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。

A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.

Dogs and Demons, 2002, A

2022-06-28

世の中は少しずつ良い方向に進んでいる。

コンビニ弁当といえばまずいご飯代名詞だったが、最近コンビニ弁当はそこそこ食える。

冷凍食品も以前は手抜き料理代表選手だったが、最近の冷食は主役級だ。特に冷凍餃子

タバコゴミポイ捨ての量も昔に比べて圧倒的に減っているし、痰を道端に吐く奴もかなり少なくなっている。立ちションしてるやつなんてもうここ10年くらいは見てない。

サブスクUberなど、昔はなかったさまざまなサービスがたくさん登場していて、生活は本当に便利になった。

スマホパソコンも安い価格でかなり高性能のものが手に入る。

パワハラセクハラも少なくなった。サービス残業もまだあるだろうが、それへの人々の眼差しは明らかに変化した。産休・育休も男性を含め取る人が増えた。

有休退職する際に一気に消化するもの相場が決まっていたが、今は上から有休を取れと命令がくる時代だ。

無法地帯だったネットも、誹謗中傷する奴はどんどん訴えられて損害賠償請求を受けるようになっている。

LGBTと呼ばれる人たちも、以前はテレビバラエティで「オカマ」とか「ホモ」とかといっていじられるだけの存在だったが、今そんな扱いをしたら大炎上で即座に番組打ち切りだろう。

昔は良かった的なノスタルジックな言説を撒いているヤツもいるが、自分昭和世界生活できる気がしない。

今の生活の方が圧倒的にいい。

もっと便利で、きれいで、美味しくて、働きやすくて、一人一人が尊重される世界になって欲しい。

2022-06-13

https://t.co/fekc2DUeQK

日本ブランド「BAOBAO」が中国で人気のため、中国の模造品が出回っている。 より多くの日本人に知ってもらうため、中国人が日本で模造品を販売する仕組みを説明します。

図1は正規品 49500円

図2は模造品 99元(約2千円)

しかし、安いだけでは売れない。中国人は日本ブランドが好きなので、MISHILという偽の日本ブランドが登場。

動画のように、日本にいる中国インフルエンサーが「本当に日本で買ったよ、セール中だから安い」などと宣伝し、注文を受けた後、中国メーカーは、発送先の住所を偽造し商品を発送する、という流れ。

ちなみに、映像の中で中国人が高級車の前に立っているのは印象操作のため、要は「我々は金持ちから、偽物を売る必要がない」という暗示。

実際にアマゾン検索結果にゴミが出るのはうざいが、

こういうのは女性向けってこともあってなんかほほえましい詐欺だな

日本でもバナナのたたき売りとかあったもんな

ノスタルジック手法というか

なんというか、ほほえましい

2022-06-12

ノスタルジックな「美しい景観・街並」の維持費を所有者個人におっかぶせる「再開発反対」する人たちの意味がよくわからんのよな。「この風景を残すために募金をお願いします」ならわかるけど。

2022-05-28

離婚したりした

空になった家をみてノスタルジックな気分になった。

幸せ・憎しみ・悲しみ・怒りいろんなものが一緒になった空の家だった。

都心の中くらいの広さの家には数ヶ月前まで平凡な夫婦暮らしていた。

2022-02-07

おすすめ日本の世界遺産

世界遺産というと軍艦島日光東照宮金閣寺屋久島知床といった煌びやかだったり雄大自然イメージしがちだが、三重津海軍所跡みたいながっかり世界遺産もある。

マイナーだけど遠賀川水源地ポンプ室や小菅修船場跡といったノスタルジックかつわくわくする世界遺産や、軍艦島の影に隠れているが高島炭鉱や、野崎島集落跡(おすすめ)の様な素敵な所が沢山あったりするので、今一度見たい世界遺産をチェックしておくべきだろう。

https://bunka.nii.ac.jp/special_content/world

2022-01-30

ヴィジュアル系バンドとしての演奏力がすごいのはLUNASEA

Gravityって曲があるんだけど、主旋律は正直退屈なんだけど、楽曲として聴くオーケストレーションが美しくて完成度が高い。ノスタルジックさえ感じる。

GLAYラルクファンには申し訳ないけど、あの時代ヴィジュアル系ではルナシーが頭一つ飛びぬけてるよね。

XジャパンBOOWYはまた別の意味ですごいし彼らの原典だと思うけど。

2022-01-20

好きなコンテンツへの熱がほぼなくなった

好きなコンテンツへの熱がほぼなくなった。今まで好きだったコンテンツに対して、急に魅力を感じなくなった。

シャニマス好きだったんだけどな、声優のゴタゴタで一気に熱が冷めてしまった。まるで魔法が解けたかのように。

考えてみれば最近コロナライブが消えた、ライブ演出構成も昔のほうが好きだった、ゲームおもしろくない等々魔法が解ける寸前だった。

今まで堪えてきたところにゴタゴタがやってきて一気に解けたのかもしれない。

ゴタゴタがあってから何ていうかいろいろな事がしょうもなく感じるようになってしまった。声優が話すことも、コンテンツ関連の生配信も。

そんな中でも唯一キャラクターだけはまだ好きでいるから根は変わらないのかも。

といっても昔のような熱量がなくなった自分に驚いてる。熱中してる頃って一生ハマってるんだろうなって思うけど決してそんなことはないんだなって思った。

熱量がなくなって少し寂しさはあるけど、まぁこれはこれで少し自分が変わったのかもしれない。

もうあの頃には戻れないなとノスタルジック気持ちになるし、やっぱり少し寂しい。

なんだかんだ熱中できてたころは楽しかった、いい時間ありがとう

これからは少し離れたところで見守らせてもらうよ。

さてとグッズの整理でもしますか。

2022-01-16

好きな漫画etc

周回遅れだけど、自分が好きだった&好きな漫画ドラマ映画を羅列してみる。

順不同思いつくまま大した目的もなくノスタルジックな思い出に浸りたい、そんな感じで。

ちなみにプロフィールは37歳女。

アリー

パタリロ!

・ラシャーヌ

妖怪缶詰

天は赤い河のほとり

・海の闇月の影

三国志

ジョジョの奇妙な冒険

はたらく細胞

頭文字D

湾岸midnight

幽遊白書

SLAM DUNK

・乱馬1/2

うる星やつら

ドラゴンボール

トーマの心臓

ポーの一族

デビルマン

BANANA FISH

動物のお医者さん

なんて素敵にジャパネスク

ざ・ちぇんじ!

あさきゆめみし

闇のパープルアイ

美少女戦士セーラームーン

進撃の巨人

キャンディキャンディ

聖伝

カードキャプターさくら

・X

フルハウス

スタートレック

アルフ


スターウォーズ

マイ・フェア・レディ

コマンドー

とりあえず15分くらいで思いつくものをぱーっと羅列してみた。

感想コメントすら書いていないけれど。



で、本題のようなもの

ずいぶん長い間少女漫画日本恋愛ドラマを下に見ていたような気がする。

女の子若い女性が恋をして云々、って共感し難くって。

無理に、「そんな低次元感情のやりとりしか描いていない漫画ドラマこちからお断りだ」

みたいな中二病全開で。

本当はただ感情移入できないだけなのに。上とか下とかで見る必要がないことを分から

輪に入れない自分を守るために理屈こねていたなーなんて。

家族愛を描いていたり異種族間でのやりとりだったりを描いている洋ドラマのほうがレベル高いって思っていた。

コマンドーあさきゆめみしきんぎょ注意報!も好きな筈なのに。

見たいときに見たいものを楽しめばいいんだよね

2021-12-24

今日読んだ本。

ゴールデン街コーリング』(馳星周

 クラムノベル作家 馳星周自伝小説馳星周先生若い頃にゴールデン街の「深夜プラス1」でアルバイトをしていた頃のことをモチーフとして書かれた。

あらすじ

 バブル時代。本好きの大学生坂本は、ゴールデン街バーマーロウ」でバーテンのバイトをしていた。コメディアン書評家の斎藤顕の勧めで上京し、ハードボイルドミステリ冒険小説好きの本読みが集まるというマーロウで働くことになったものの、斎藤顕の酒癖の悪さとゴールデン街酔っぱらい達に辟易し、心が鬱屈した中年のように老けてしまっていた。

 そんな坂本を、ナベさんやリリーバイト仲間の田丸や常連客など、ゴールデン街の仲間達が慰め支えてくれていた。

 ところが、そんなゴールデン街に暗雲が立ち込める。地上げ屋達がゴールデン街土地に目を着けたのだ。なかなか土地や店を手放そうとしない、ゴールデン街の人々に業を煮やした地上げ屋が、店に放火しているとの噂が立つ。そこで、坂本敬愛するナベさんがゴールデン街を守ろうと立ち上がったのだが……。


増田感想

 これが馳星周先生の書いた小説なのか!? 最近の馳先生作品をさっぱり読んでいなかったので、文体の変わりように驚いた。地の文が柔らかい。トゲトゲしていない。ものを投擲しないし、あんまり呪詛言葉を吐かない。ひぇぇ、まるで別人! でも根のピュアなところは昔のまま残っている。

 ノスタルジックストーリーだ。昔のこと書いてあるんだから当たり前か。あー、青春だなぁって感じ。同じような経験はないけど気持ちだけは共通するような若い懐かしい時代自分にもあるから、同時に思い出してしんみりしてしまう。

 直近に『鎮魂歌』を読んだので、坂本が犬を飼いたいって思ってるシーンで『鎮魂歌』の主人公の一人郭秋生を思い出してふふってなった。

 どうしても斎藤顕をゆるせない坂本、許してやれと諭すナベさんや佳子母さん、どっちの気持ちもわかる気がするのは自分も年を取ったからかな。

 最近の馳先生作品も読んでみようかなー。

2021-09-20

anond:20210920184054

 確かにタバコ特有のオエッとする感じのきな臭さとは違いました。なんというか、ツヤツヤしてノスタルジックな感じな臭い日向に干したバスタオル臭いから洗剤の臭いを消して百倍濃縮したような。赤ん坊おしっこ臭いにも似てるかも。

 当店がお薬の取引所にされたらやばいですね。オーナー相談します。

2021-08-21

老人は懐古趣味ばかりだと思われているのだろうか

以前、出身校が校舎を建て直すための寄付を集めていたんだけど、

色がばらばらになっているレンガ造りの建物を見た目そのまんまな感じに再現する、って言うんだよね。

似たようなノスタルジックな建て直し計画はよくあるのだけど、俺はそういうのは大嫌いで、作るならパフォーマンス向上にすべての予算を注ぎ込んで作って欲しい。

「今はまだコスパが悪くて市場性は無いけど、最先端技術をつぎ込めばこんな便利な建物が建てられる。

 『俺たちの先輩が寄付を集めて建てた世界初尽くしの建物がこの校舎だ』と今後100年言わせる校舎を建てるから寄付をしてくれ。」

と言われたら、たぶん俺も寄附しちゃうんだけど、

「お前らが通った校舎を同じように建て直すから寄付してくれ」

と言われても、どうでもよくなっちゃうんだよなあ。

 

途上国学校から「毎年すまんが今年も奨学金寄付をしてくれ」という手紙を受け取って、そんなことを考えた。

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