はてなキーワード: おざなりとは
良くわからんな。
・今アメリカでは急激なインフレが起きたことが問題となっているが、アベノミクスのように金融緩和をしたらインフレがぶり返す。
・アベノミクスの三本の矢のうち、安倍がおろそかにしたのは成長戦略。金融緩和と財政出動で一時的に景気を下支えしている間に、日本経済を成長路線に導くことがそもそもの眼目だったが…結局は成長戦略は単なるお題目と化して、援護射撃のはずだった金融緩和をだらだらと続けた結果、日銀が必要に応じて利上げや利下げを行う余地を潰してしまった。その結果が今の日本円の独歩安。
・なので、アメリカは成長戦略以外はマネしないほうが良いんじゃないかなーと思うし、マネするにしても安倍を真似て成長戦略を絵に描いた餅にしてしまったら、アメリカも沈んじゃうから気を付けてほしいな。
・アベノミクスは、当時、その通りに実行できれば効果を発揮できたかもしれない。しかし、実際のところ、安倍は日銀には一生懸命金融緩和をやらせたが、本来安倍自身が最も仕事しなければならなかったはずの成長戦略の部分をおざなりにしちゃったので結果は残念だった。三本の矢を考案したであろう、官僚かコンサルは優秀だったと思うよ。実行するやつは優秀じゃなかったけど。ありがちな失敗だ。
これからお目にかける雑文は、データにもエビデンスにも専門知にも基づいたものではない。
むしろ一市井の人間の有限(どころか乏しい)観察と未熟な想念、そして「何か書かなければならない」という衝迫のみを支えとしている。昔風に言えば標題のとおり印象批評だし、現代風に言えば単なるお気持ちである。
それでも、虚言や流言、罵詈雑言が猖獗を極めるクソッタレインターネットへ供する一服の清涼剤たらんという意志を持って草した文であり、そのように読まれることを希う次第である。
以下に続く文章は、主語がデカすぎるだの、事実認識がお粗末だの、構成がなってないだの様々な批判に晒されるであろうことは最初から織り込み済みである。いずれも筆者の能力の至らなさに起因するので「ごめん!」としか言いようがない。
もっとよりよい認識や知見の給源は他にあると思うので、それらに接するのが一番いいと思う。そのような批判を恐れずにあえて書く理由は、まさに標題で仄めかした「民主主義を虚無に捧げてはいけない」という信念を擁護するために自分でできることをしようと思った、ただそれだけである。
この文を書こうと思った直接のきっかけは昨日の兵庫県知事選挙である。
つい1週間ほど前に太平洋の向こう側でトランプが当選し、「MAGAくんさぁ……」という軽侮の念を抱きつつも、どこか他人事の如く受け止めていた自分がいた。
しかし、メディアやネットでパワハラ野郎だの私利私欲を極めたゴミだのサイコパスだのさんざん叩かれた斎藤元彦がメイク・ヒョーゴ・グレート・アゲインした途端、愚かな民衆なる集合は爆弾ゲームよろしく我々にヒョイと手渡されたというわけだ。
尤も、自分の最初の認識がそもそも間違っていたというのは認めるにやぶさかでない。要は愚かな民衆も、賢明な民衆もどこまでいっても抽象概念で、そのような概念で語れる事柄には限界があるという単純な原則をしばし忘れて物を考えがちというだけのことだ。
このような間違った考えで一喜一憂しているのは筆者だけはないらしい。
選挙結果が出てから、兵庫県知事選は立花某にハックされたということや、あるいはネットで真偽不明の奇々怪々なフェイクニュースを浴びせられて正常な判断ができなくなった結果だとして、SNSと選挙の結びつきを否定的に見ている向きがある。
もちろん、我々はアメリカの大統領選にロシアやイランが介入しようとしたという事例を知っている。ならず者国家の裏工作を挙げるのが極端だとすれば、ケンブリッジ・アナリティカのような倫理観の欠片もない連中がいることも知っているはずだ。
しかし、現段階の情報でもって、兵庫県民は騙されたのだという前提で話を進めるのは問題だろう。それをもってしても社会の底が抜けたとか、もはや民主主義は終わりだという悲観的で短絡的な発想に至りがちということを見ても、この種の作業仮説は民主主義に有益どころか有害であることは明らかだ。そういう人たちがエピストクラシーを実現するのか、リベラルな思考をもった等質的な市民たちによる思想のゲーテッド・コミュニティを作るのかは知らないが、それはきっと非民主主義的な操作で行われるものではないか。筆者はリベラル嫌いだが、それでも自分たちの理念に後ろ足で砂をかけるような彼ら・彼女らは見たくないというのが嘘偽らざる思いだ。
各種報道を見る限りでは、兵庫県民は普通の民主主義国家における市民と同じくらいの能力や感覚を持ち、それなりに各候補者を比較考量した上で投票に臨んだと考える方が現実に近い、と筆者は考えている。
ここでは斎藤や稲村の政策についてどっちがいいとかいうことは考慮の埒外に置くが、少なくとも「何かいじめられててかわいそうだから!」とか「メディアの一辺倒な報道が気持ち悪いから!」だけで110万票も取れるんだとしたら、残念ながら民主主義以外の選択肢の有効性も検討すべき時期が来ているのかもしれない。もちろん、実際のところそうではないのではないか、というのが筆者の見立てだ。
何が斎藤元彦に再び県庁の敷居を跨ぐことを許したのか。それを考えるために補助線を引きたい。もちろん、論理的必然性をもった操作ではない。何故ならこれは印象批評にすぎないので。
少し前に国民民主党の玉木代表の不倫問題が報じられた。不倫の責任の取り方は様々だろうが、代表を続投しこれからも頑張っていくということが比較的多くの人に受け入れられているように思った。
その方策の是非はともあれ、手取りを増やそうというストレートな訴えが若者を中心に多くの支持を広げていて、それに水を差すような報道を苦々しく思っている、あるいはある程度「相対化」可能な事柄だとして脇に追いやってもいいという雰囲気があるように筆者の目には写った。
筆者個人はこの種の思潮には到底賛同できない。不倫するような人間に増やしてもらう手取りなんぞはこちらから願い下げである。議員辞職するまでではないとしても、代表を辞任し一兵卒として政策の実現に邁進するということだって責任の取り方としてありえたのではないかと思っている。
どれだけ政策を懸命に訴えても、政策を進める当事者の「人品」というのは、決しておざなりにしていいものではない、と個人的には思う。実際、自民党の政治資金収支報告書不記載の問題に端を発する「裏金」逆風はそのような考えから生まれたわけだし、与野党伯仲という結果に実を結んだと考えれば、個人的かつ奇異な考えではないとも思う。であれば、妻子ある男性が別の女性に懸想することを問題視しなくていいのだろうか(妻子にとっては経験しなくていい嫌な出来事であるし、相手方の女性が公党の代表者と不倫したことがバレればその社会的地位をも脅かしかねないという帰結を予想できなかったのであれば、政治家どころか責任ある社会人としても御しがたいレベルの不見識なのではないか。)。
とはいえ、上の筆者の考えは少数派に属するものだと思う。不倫は家族や当事者の間で解決されるべきでダメだったら家庭裁判所へどぞ、というような私的な話で、こんなことのために俺たちの手取りが台無しになってたまるか、玉木はきっちり反省してその後頑張れという意見が大勢を占めているのではないか。
そしてこれは、斎藤が公益通報制度を度外視して告発者を袋小路に追い込んだことや、トランプが弄する信じがたい人種差別的・性差別的言動によって当事者が傷つけられることを等閑視するメンタリティと相通ずるものがあるのではないか。
もちろん、そういった非倫理的な行いに諸手を挙げて賛成するダークトライアドガチ勢のような人間ばかりではないだろう。しかし、それはそれとして、というような相対的態度をとらざるを得ないのは、言い換えれば自分たちにとって焦眉の問題が別にあるということにほかならない。
このような相対化を導くに至る根源的な不満の存在それ自体は目新しい指摘でもなんでもない。ラストベルトの労働者も、閉塞感を感じてきた兵庫県民も、手取りが増えない若者のいずれも「古くて新しい問題」であり続けている。目新しいことでもないのに、定期的にこの種の話が出てくるのは、解決が困難なことの証である。そもそも解決可能な話なのか? 全てのステークホルダーに満足を与えられるほどのリソースがあるのか? 自分たちの満足のために誰かにふるわれる不正義もやむなしとする世界で、オメラスから立ち去る勇気を持つ者たちが果たしてどれだけいるのか? 我々はずっとこの問いかけの中に閉じ込められているし、この困難さを抱きしめることが民主主義の要諦なのかもしれない。
この文では、貧しくあってもせめて人並みの倫理ぐらいは持てよバーカ、とか、人民の悲しいまでの想像力の欠如を嘆かん、という倫理的お説教や慨嘆を述べ立てるつもりは毛ほどもない(そういうリベラルへの嫌悪感を筆者は多くの人と共有するものである。)。政治家に自分たちの方を向いてほしい、助けてほしいというのは当然だし、その願いが届くのが民主主義のいいところではないだろうか。
だが、その時、もしかしたら誰かを犠牲にしているのかもしれないという一抹の不安は感じてほしいなとは思っている。それが望蜀に属する話だとしたら、民主主義の皮を被った椅子取りゲームを続けるべく、我々はいつ鳴りやむか分からない音楽に耳をそばだて、減り続ける椅子を横目に生きていくのだろう。これがいいとは、筆者は決して思えないが。
「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。」
大人になってから『のび太の結婚前夜』を改めて見た時に、「なんて当たり前のことを言ってんだ。よっぽど褒める言葉が見つからない時用の言葉って感じだ。」という冷笑的な感想を持った。しかし、今ならのび太が全くもって稀有な人間であったと痛感せざるを得ない。
立花が言うように元県民局長がどんなに酷いことをしていても(逆にどんなにいいことをしていても)、斎藤の拙速かつ強引な統治手法(このことは必ずしも立証されていないが、その後の百条委に至るまでの対応を見ればそう思わざるを得ない)に問題意識を感じて声を上げたこと、そして斎藤がそれをこれまた拙速かつ強引に対峙し、県政停滞のハードランディングに至ったのとは別の問題である。その対応に関する法的な問題などはこの際措くとしても、百条委で問われた道義的責任を「わからない」と述べた斎藤が、再選で得た民意を盾にこの問題を「相対化」しようとする危険性がないとは決して言えないだろう(当選後、記者団に対して「知事部局として一緒にやっていくのは公務員としての責務」と述べたのは、県職員に対して「俺は民意を得たんだからお前らがついてくるのは当然だよな?」と釘を刺した形とも言えるし、先行きは不透明だ。)。
斎藤に投票した人は、せめてそういう状況が棚上げになったままであることを認識した上で、自分たちの居心地の悪さに素直に向き合ってほしいと思う。(元県民局長が死んだのは別の理由であるという卑劣な矮小化をするのではなく、)たとえ拙速で強引でも斎藤が自分たちにとっていい兵庫県を作ってくれると信じて投票したのだとすれば、その結果誰かが痛い目を見ることになるかもしれず、それはひょっとすると顔見知りかもしれない。その時、その人の不幸を悲しみ、その人の幸せのために何かできるだろうか。そういった考えを頭の片隅に置き続けることが、民主主義のレジリエンスを形作る重要な要素だと筆者は考える。清廉潔白完全無欠な政治家が存在しない世界で、民主主義を選び取った全ての清廉潔白完全無欠でない我々にとって、「それがいちばん人間にとってだいじなこと」ではないだろうか。
日々の生活に汲々として自分の人生にやりきれなさを感じながら 「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむ」というのはそうそうできることではない。とはいえ、できていないなと思うだけでも、「あの時できなかったから次こそは」という思いにつなげられるかもしれない。
仕事が忙しくなってくると、どうしても家事がおざなりになって部屋が汚くなる
つまり、誰かに見られるわけでもないからが理由となって片付けをしなくなるんだろうと
友達を呼ぶとか試したが、一番良かったのはデリヘルを呼ぶだった。
デリヘルを呼ぶことで
・せっかく女の子が来るんだからちょっとでもいい恰好をしようと思う(小綺麗にしてると思われたい)
という状態にして、片付けしなくちゃという気持ちに自分を持っていく
自分はこれで幾度と部屋がきれいになったが、毎回2万円くらいの出費になるので
家事代行とか使って片付けるほうが安上がりになると思う。
発達障害の可能性もあるかもだけど、人には「耳から入った言葉を理解しやすいタイプ」と「文字情報の方が理解しやすいタイプ」があるので、個性の問題と言っても良いと思う。現代は前者の人が幅を利かせているからたいへんだよね。だけどそんな中で三年もの間仕事を続けて、しかも自分なりの解決法(録音→文字おこし)できているのは本当に立派だと思う。ツールを活用できるところは活用した方が良い。かつては「文書化していないものはダメ」という風潮があったけど、最近は「スピード感」という方便でそれをおざなりにする人が多いよね。
投稿を見た限りだけでは、職場の無理解も投稿者の仕事のしづらさに繋がっているように感じる。業務指示がちゃんとした書面でもらえるような職場(あるいは業種)なら、文字情報を精緻に理解できる才能を発揮できると思う。転職とか考えてなくて現在の職場で続けてやっていきたいのなら、もう三年やっているのだし「それ、書面でいただけますか?」とかけっこう強気で言っても良い気がするよ。
タイトルで大体完結してるが一応詳細も含めて
睡眠不足になるとめちゃくちゃイライラしやすくなってちょっとしたことでもキレやすくなったりした
例えば物音がうるさかったら静かに注意すればいいものの怒鳴ったり自分の思い通りにいかなければすぐにイライラすることが多く、もちろんそんなことが続けば人間関係も上手くいかなくなるので自然に病んでいった
オマケに食生活も偏っていたので多分脳に行く栄養が足りてなかったんだと思う
で、スマホ依存も重度になりとにかくスマホスマホと人間関係もますますおざなりになっていってぼっちになった
特に人の癖(?)が無性に気になってイライラしてた、これは多分俺だけだと思うけど
そんな訳でメンクリに通うことになったのだがこの時は原因が分からなったので今まであったことを躁状態に近い感覚でペラペラと喋っていたことは覚えている
結局原因が分かったのだが、主治医曰く「睡眠不足は知らないうちに身も心も壊していく」ってさ
確かに最初からネット依存気味で睡眠も足りなくなっていたけどモロに心壊れていったとはね
ちなみに初診時は夢と現実の区別がついていないような感じだったらしい、どういう意味か詳しくは分からないけど
あと、早くスマホしたくて無性に家に帰りたかった時があったけど、あれは依存というより家に帰って寝たいという身体からのサインだったのかもしれない
というわけでみんなも寝ようね、おやすみなさい
単純に歳をとっただけだとは思う
友人づきあいもあって(競馬サークル的なの)GIシーズンだけ重賞を買ってるけど、予想もおざなりだ
新聞すら買わず、無課金のnetkeibaで10分くらいで予想する
今春のGIがどんなレースだったかどころか、勝ち馬さえ覚えてない
バイラリーナは東京の1400では買えたよな、とか、そんなマニアックなことまで覚えてる
今は完全に惰性
もちろんトータルで負けるし、やめりゃいいけど、なんとなくで続けてる
特徴的な個人馬主が減って、ビジネス感が増したのもつまらないし
とりあえず母父ストームキャットにはディープつけとけ的なロマンのない安直配合連発にも萎えたし
強い馬は間隔空けて使って、早く引退するし
なんか思い入れするのが難しくなってきた
そして今年の競馬界は酷い
落馬が多すぎる
不祥事も多すぎる
シンエンペラーは嫌いな馬ではないが
いや、そうでないからこそ、「凱旋門賞などただの特殊適性レースなのだと証明でき、皆の呪いを解けるのだ」と陣営は思ってたのかもしれんが
ダービーも勝てない馬が「世界を目指す」と出ていっても、そこまで思い入れはできない
生産育成調教レースを外注して馬券だけを売って、それで成り立つんだな、って
じゃあ競馬なんかリアルで開催しないで、精巧なシミュレーションゲームの馬券売っても同じみたいな気もして
ダラダラ書いてまとまりがないな
まぁ、俺の中では競馬は終わっていて
好きな人は引き続き楽しんでください
そしてあることに気づいた。大型犬の飼い主って小型犬の飼い主を嫌うというか、反発覚えてることが多くね?
理由としては、大型犬ばかり躾しろ危険だと言われたり警戒されたりするけど、小型犬は無駄吠えしても噛んでも飼い主があらあら可愛いで済ませて躾けないことが多いかららしい
自分の犬(大型犬)に吠えてくるのも小型犬が多い、そのくせこっちを警戒してくると
確かに小型犬は大型犬と比べて大事に至にくいから躾がその分おざなりになりやすいし、弱い犬ほどよく吠えるという諺もある
これって、男児ママが女児および女児ママに反発する理由と同じじゃないか?
男児ばかり性犯罪者予備軍だ躾けろと言われるけど、うちの男児だって女児に嫌なことされた!それなのに加害者扱いされるのは納得いかない!みたいな男児ママが多いのに似たものを感じる
The Truth Behind ‘How Are You?’ (Is it even a question?)
オーストラリアの自閉症当事者が当事者向けに"How are you?"の受け答えについて分析・解説している動画を偶然見た。
曰く、英語の"How are you?"(および"How's it going?"などの類似した表現)には複数の機能がある。
単独で挨拶である場合も、"I'm fine, thanks. And you?" "I'm also fine."と定型的やり取りを交わす社交辞令であることも、本当に相手の状態をたずねていることもある。最後の場合でも、ざっくりした無難な答えしか期待されていないときと、そうでもないときがある。
この切り分けは、相手との関係性や、会話の余裕がどれくらいありそうかといった状況から判断するしかない。
ただ会話はダイナミックなものなので、常に100%相手の期待に応えなくてもいい。おざなりな"I'm fine"が期待されているときに、「それがさあ、ちょっと聞いてよ」と本気の会話に持っていくことも、関係と状況によっては可能。
子供の頃から違和感はあった。小学 4 年生くらいから顕著にかわいさを求められていることが分かって、辛さだけがあった。姉妹は美しかった。私はかわいく無かった。早くに母を失って、「かわいい」と言ってくれる唯一の人が居なくなって、自分がかわいくないことがよく分かった。
幸いに頭は良くて、人生に悩むことは無かった。とはいえ中の上くらいだが、好きなことを見つけられてそれで生きていけた。
色々あって離婚して、やっと「もう男女交際に悩まなくていいんだ」と思った。結構長い間夫婦をやったので、この人生でこれ以上はいいや、この分野はこれでいいや、と思った。
しばらくは自堕落に自由を楽しんでいたが、あるときピーリングに目覚めた。皮膚が固くなるのは、刺激によって固くなった皮膚が真皮に負担になり、それによって固い皮膚が増えるらしい。なにそれバグでは、という気持ちが湧いた。
もともと色々あった中で美容についての知識と技術はあった。たくさん勉強はした。保湿と日焼け止めこそが正義という世界だったが、これから衰えていく中で衰えた皮膚がより衰えさせるという事実に不満と疑問が生じて、実験してみたくなった。
ケミカルピーリングから物理的なピーリングまで色々試した。その中では真皮まで削る失敗もあった。そもそもピーリングは医学用語であって、化粧品で「ピーリング」を冠しているものはすべて違法であるという、検索性の低さもあって迷走したりもした。
毎日やってもターンオーバーサイクル的に意味が無いので、その歩みは遅々たるものだった。合ったと思ったものが合っていない時期もあった。
やっと合うピーリング剤と物理の加減が見つかった。そうしたら、毎回毎回肌がとてもきれいになっていくのだ。
肌がつやつやしている。毛穴が小さくなってくる。化粧ノリが良い。何もかも良いことばかりだ。だから鏡を見る機会がふえた。見ると、改善したいことが出てくる。そしてどんどん良くなっていく。
鏡をポジティブな気持ちで見ることがあるなんて。そこには醜いものしか映らないから見たくなくなって、それ故にケアもおざなりになっていた。でも今は見るたびに良くなっていくので、しょっちゅう鏡を見ている。
しょっちゅう鏡を見ると、きれいになりたくなる。化粧品を全部変えた。今までは、悪いところを隠すものだったから、モチベーションが低かった。
今までで一番「化粧が楽しい」と思ったのは、親の死に化粧くらいだった。私よりずっと見目麗しい(それ故にパートナーを苦しめ続けた)父に施す化粧は楽しかった。学んだ技術が生かされた唯一の瞬間だった。
今ではそれが自分の肌に生かせる。ベースの肌もきれいだし、化粧すればよりきれいになる。楽しい。
おそらく多くの女児が思う「かわいくなりたい」を、今になってやっと素直に言えるようになった。そしてそれは叶う。今は技術と知識とお金がある。
こんな日が来るとは思っていなかった。別に 40 歳がかわいかろうときれいだろうとほとんどの他者にとってはどうでもいい。でも、 40 歳であるところの私にとっては、 40 歳とは思えないきれいな肌が私を励ましてくれる。鏡を見る度に、良くなった、もっと良くなると思える。他人にとってどうかはどうでもいい。今、私は私をかわいいと思う。毎日きれいになっていく自分を良いと思う自分をかわいく思う。
ああ、かつて小学校高学年から中学校まで不美人であることですべてのコミュニケーションを絶たれていた頃は、こんな日が来るなんてまるで思えなかった。
もう男女交際のためでない、同調圧力でもない、ただ私が私を美しいと思うために行う儀式は意外と楽しい。やっと、やっと女の子になれた気がする。
自分が 40 歳になるなんて、想像もつかなかった。でもなってみると、意外と楽しい。仕事ではやりたいと思ったことは大体できる。スキル的にも他者への影響力的にも、すごく強い。
その上、同年代とは比べ物にならないきれいな肌がついている。誰に言うでもない、誰かに誇るでもない、ただ自分で自分をきれいだと思うこと。それが最後のピースだったようだ。
まとまらないが、歳を取ること、悪くないよ。エンジニア 35 歳定年説なんかに惑わされず、好きなことをやろう。いつの間にか自分を好きになっているかもしれないよ。
命名からして安直なジャパニーズイングリッシュで、当初の目的外の利用方法ばかり並びたてて本質を見失っている施策
表面的な「便利さ」ばかり誇張されて、胡散臭いことこの上ない
だいたい、国が個々人の収入を正しく把握したいのなら、国費で全国民及び外国人居住者に対して個人番号と証明書を発行すればいい
再発行ぐらいは多少費用負担を求めてもいいかもしれないけど、それも一部負担に留めるべき
その代わり、確定申告の簡素化や生活保護などの所得保障の充実などを漏らさずきっちり行う
そのくらいやればいいものを、中途半端に銀行口座との紐づけは義務化しないとか、マイナンバー取得は義務ではないとか
それに、生活保障や年金などには従来のおざなりな対応で済ませておいて
国というか官僚にとって都合のいいところばかりをつまみ食いしようという、ケチ臭くてさもしい根性ばかり見える施策の何がいいのか
それが当たり前だと思っている。
そもそも勤め先の小口経費の精算なんて「俺が会社のために立て替えてやったのに、俺がこんな細かい請求をしなきゃいけないのかよ」と思いはするが、もちろん利子などもらえない。
話が逸れた。
つまり俺のモラル、道徳には、「人に金を貸して利子を取ってはいけない」というものがある。
そりゃあ貸した相手に「ありがとう」と言われなければ腹が立つし、返してもらう時に「お礼に」と言われてお菓子の一つでもくれるのを拒みはしない。
なんの話をしたいかというと、株の話だ。あるいは金融全般の話。
何か事業を起こそうとしてる人がいる、だが金が足りない、金があるやつがそれを用立ててやる、
そこまではわかる。
ならわかる。
いや、それでは申し訳ないので、その事業起こした人が、なんかのお礼をしますよ(株主優待)
までならわかる。
いつまでも金をむしり取り続ける配当という考えや、金貸してるから当然づらして経営に口を出す、
こうなってくると、俺としては貸してる奴のことを醜い人間だとは思うが、
(金持ってるのは別に偉くないし、金貸したら相手に偉そうにしていいわけでもない。人は対等だ。パンが余ってたら足りない人間にくれてやればいいだけの話だ)
そうしないと誰も他人に金を貸さなくなるよ、という意見もあるだろうし、
まぁなんとか飲み込めなくはない。
で、株が売り買いされる、
これはもうわからん。
お前が誰かを信用して、そいつのしたいことのために金を用立てた、その借用書を赤の他人に売る?
貸し借りの根本にあった人間同士の関係性をなきものにしてしてしまう、
そんなことを認めたら、貸し借りはただの数字になっていき、
その数字は当然のように偏り、こういう超絶格差社会になるのも当然だろう。
(だから俺はクラウドファンディングという金の用立て方は理解できる。そこには関係性が存在するから)
年金や預貯金など、金の運用から完全に隔絶されて生きることはできない世の中だが、
俺は少なくとも株は買わない。
現在の社会においてその行為は、誰かから不当に金を奪う行為だからだ。
しかし、他人のものを奪わない、損なわない、なんていうのは、そもそも法律以前のものだろう。
株主のために利益を求めて、経営者が本来真っ先に行うべき「従業員の幸福の追求」がおざなりになる。
それに加担しているのが株を買う人間だ。
座ったままで儲けようとするクズだ。
人に金を貸して利子を求めるゴミだ。
底辺アピールをしながら生きづらい生きづらいと愚痴を繰り返して、
その実株を買ってるやつなんかもいるわけだが、
恥を知れと思うね。
サクッと調べたので間違えてるかもしれんが
会場図面を見ると割と厳しいだろうなぁと
これがかなり食ったんじゃ無かろうか
建ぺい率の食い合いになり、休憩所には屋根はつけられない、みたいな話になったのでは
結局、建築基準法的に屋根のない工作物パーゴラ建築にするしかなく
面白いのは、未着工の海外館、100%建たない、空き地に万博協会がおざなり休憩所を建てるだろうが
建ぺい率に余裕が出たのでこっちは屋根付きになる、エアコン完備、こっちにしか人来ねぇみたいな状況になるだろう。
まぁそんな事はどうでもいい、俺が気に入らないのはデザインに機能美も根拠も無い
石を吊るしてどう命が輝くのか、未来なのか、
本来であれば全体統括のデザインマネージャーが居て、各種のパビリオン、施設、床材の色まで目を光らせ、全体の調和を図る、その指針になるのがイベントのテーマ
ところがそういうものがまったく機能してねぇのよ、それぞれのパビリオンや施設が好き勝手、バラバラのパッチワーク。
さらにそれぞれのデザイナーは万博テーマなんて歯牙にもかけない。無視
ねぇのよ
「めっちゃデカイ石を吊るしたら映えね?凄くね?見たことねぇべ」
助平心が全部透けて見える
万博のテーマに沿ったデザインで来場者の利益を最大に考えたらこんなデザインにならない
なーんも考えてない
んな事は全員わかってる
20ぐらいの第一子が近所で一人暮らししてるので、週5ぐらいで様子を見に行ってる(買い物頼まれたり、雑談相手として)
自由時間は家に引きこもってゲームしたり、漫画読んだりゲームしたりしてる
動画も見る
独身じゃなかったら、と考えると、
4LDKより広い家には住めてない
小さい書斎みたいなのはギリギリ得られるかもしれないが、今みたいに自由に、HMD&エアドールでの活動ができない
子が家を出たら部屋は空くかもしれないが
結婚してた時月3万とかだった
今も第一子に仕送り&第二子に仕送りしてるけど、合わせて20も行ってない
ローン引いて、なんだかんだしても、自分だけで使うわけにもいかないし、毎月使える金額は半減とかすると思うし、数年おきになんとなくでPC買い替えたりするのもできなくなりそう
真面目な話、奥さんと相性良ければ独身のメリットとかいう金とか時間なんて、奥さんと一緒に過ごすことで吹き飛ぶとは思う
実際そんな生活が楽しくてあまり一人で出ない妻帯者も(夫帯者)居るし、嫁(旦那)が帰ってこいとうるさいからと、不満述べてる人も居る
稼ぎがそこまで多くなくて、結婚相手見つからなかったので、すっぱい葡萄って言ってる人と、
現在では高齢出産は35歳以上の出産のことを指すらしいが、個人的には自分の体験から40歳以上の出産だと思っている。
高齢出産で大変なこと
①他の親と世代が違うので話が合わない
同級生の親のほとんどは20代後半〜30代前半での出産が多かったと思う。同級生の親とはひと回りもふた回りも異なるので話が合わない。ちなみに同級生の祖父と自分の父親は高校の元同級生だった…。
自分の親が同級生の親と話している姿をほとんど見たことがない。ママ友という概念があることを、自分が社会人になるまで知らなかった。PTA等の打ち上げや飲み会に参加した様子もなかった。たぶん孤立していたんだと思う。
②他の親と価値観が異なる
親が高齢出産だと、これが1番困ると思う。例外はあるが、高齢であればあるほど新しい価値観の理解が難しく、取り入れにくい。
・ゲームやアニメ、漫画、おしゃれには全く理解が無く「オタク=犯罪者予備軍」の認識が強かった(某死刑囚の影響)のでその辺りのものは買って貰えなかった。アラサーの親だと、ゲームや漫画等に触れた経験があるだろうが、戦時中に生まれた自分の親は全く無い。学校で友人が親とポケモン対戦していると聞いた時はびっくりした。
おしゃれに関しては、幼少期は戦後すぐの時代だったからおしゃれしている場合ではなかった影響だと推測している。
・電車を「汽車」って言ったり、国立大学は「一期校、二期校」で区別している。
・職業や大学に関する知識のアップデートはされていない。(例えば看護師養成が専門学校だけではなく看護大学や大学院も登場し、専門看護師や認定看護師の制度を作り地位や専門性向上を図っているのだが、自分の親は看護師=医者の言いなりの下働きと本気で思っている)
カタカナ学部に対し理解がない。情報工学やIT系も疎い(パソコンでチャラチャラ遊んでいると思っている)。
出産が35歳以上になるとこの問題が出てくると思う。この組み合わせは最悪。喧嘩ばかりになる。
体調を崩して学校を早退する時は事務員さんに「おばあちゃんが迎えに来たよ」と言われるが、その度に母が激怒していたのを憶えている。
⑤親の年齢を聞かれた時に答えにくい
親の年齢を正直に言うと全員からドン引きされていたので、現在は「秘密」にしている。
他にはネットで言われている通り、体力がないとか子供の高校大学進学時に定年を迎えて金銭的にきついとかあるが、1番辛いのは他の親と価値観が異なることだと思う。個人的な体感だが、同い年でも祖父母の子育ての価値観と高齢出産の親の子育ての価値観はまるで違う。年若い人でも価値観が古かったり、年配の方でも新しいものに対し抵抗がないタイプもいるが。
女性の社会進出や医療の発達もあり、芸能人の影響もあってか40代以上の出産が持て囃されているが、高齢出産で育った側の人間としては、できれば高齢出産はやめてほしいと思っている。高齢出産した親はキラキラしているように見せているが、子供はおざなりになっていないだろうか?
現在は両親と飛行機の距離だが、母親は認知症を発症しており父親の介護を受けている。そして今月、父親にがんが見つかり、定期的な通院や入院が必要であることを病院から説明された。働き盛りの年齢に両親の介護ダブルパンチを受けていてどうするか大変頭を悩ませている…。
IT がつまらなねーって、プログラマがいうのはプロ意識的にどうなんだろと思う
今話題の職業倫理ってどうしたよ、AIだけの問題なのか? そうじゃないだろ
というわけで、個人的に思うところをまとめてみる
生成AI で置き換えられるなら置き換えられればいいだろ
そうじゃない現在進行形の価値は、過去から類推する生成AIでは作れない、だって元となるデータがないんだからな
顧客にとって最適な、オーダーメイドな価値を提供できなければ、そりゃ簡便な手段で代替されるだろう
それは AI に限ったことじゃないし、バーティカル SaaS とかで言われてきたことだろうに
そうじゃなきゃ生成AIで代替されるというのは、至極当然のことだろう、今までの歴史からわかってるはずだろ
顧客に最適な価値を提供できないことを、AIのせいにするなよ、つまらんこといってんじゃねーよ
ゲームエンジンの話にしたって、オレオレエンジンを作るレベルが上がっただけで、ゲームエンジンを作る仕事は消滅してないだろ
適当な事をいうんじゃねーよ、大多数のゲームが必要としないからって、開発自体が自体がつまらんと言い訳してるんじゃないよ
ゲームエンジンを内製するだけのゲームを作る気がないというのを、業界全体がつまらんという問題に勝手に置き換えやがって
つまんねー論点のすり替えをするんじゃねーよ、プログラマとしてちゃんとエンジン作らないと提供出来ない価値を考えろよ
必要としないんだったら、そこにゲームプログラマはいらないということで、そりゃお役御免なんじゃねーの? ツールいじるだけの仕事なんだし
自分たちが価値を提供するということをおざなりにして、クラウドサービスの限界を自分たちの限界にするのも腹が立つ
お前たちは GAFAM の奴隷で御用聞きなんですか?
Amazon が提供してないから、Google が提供してないから、Microsoft が提供してないからって言い訳するの、恥ずかしくないの?
結局、リスクを負うことを避けてるから、クラウドのマネージドサービスを利用してるだけだろ、いい加減にしろよ
SLA で返金されるからってノーダメだからって、顧客に対して GAFAM の威光を利用してスネカジリしてるの恥ずかしいと思わないわけ?
クラウドベンダーが悪いんですっていって、最悪でも顧客に対して障害報告書を書けば済む業界は、そりゃ舐められるわけで
そういうのを、クラウドは可用性が...ってごまかすもの、顧客にとってみれば関係ない話なのに、GAFAM の名前だせば許されると思うのは、流石に舐めてるだろ
メインフレームを扱ってる人のほうが、たぶんサービスを落とさないという観点において、プロ意識を持ってると思うよね、そりゃ
落ちちゃいけないんだから、落ちてもいいだろという人たちよりは、流石に神経使うだろうね
土日休みの私と、シフト制で共働きの妻は、休みが被らない。だから休みの日はワンオペで子の面倒を見ることはよくある。
いつも遊んであげているからか、子は私によく懐いていると思う。
だから休みの日になると、「だっこ」「読んで」と絵本を差し出してくる。
普段、なるべく子どもに構ってやりたい、と思って色々と連れまわしてあげていたりするものの、やはり試験直前期ともなるとそういう訳にはいかない。
渋々子の希望に応じて抱っこをして、絵本を読み始める私の気がそぞろであることを1歳ながら子は鋭敏に察する。そして、スッと別の部屋に行って、一人で絵本を読んでいたりする。その背中が切ない。私が不甲斐ないばかりに、早く大人になることを強いてしまっているような気がして、「ごめんね。」と背中越しに声なく語りかけるが、そんなことを子は知る由も無い。
結果は判り切っているのに、勉強なんてさも正当な理由があるが如く振る舞い子をおざなりにしてしまうことに罪悪感がある。そもそも勉強自体、好きじゃない。
だけど、しかし……。
冒頭で書いたように私は薄給なのであって、どうにかして現状を脱するには資格に依るしか途が無い。長い目で見たときに、この苦しみが結実することを祈る。そしてこれはイズムの問題だと自分に言い聞かせている。
短期的に子を慈しみ、今の生活を良くしようとすることは妻がすればよく、今を苦しんで長期的に何とか生活を良くしようとする行いは、苦しみを飲み込む器のある側がやるしかない。
子は父の心を知らず、私のことは嫌いになっても構わないし、妻が私のことを「役に立たない」と思い恨んでも構わない。しかし勉強した世界線と勉強していない世界線では、前者の方が(私自身は嫌われているものの)妻子の幸福に寄与するはずだ。少なくともそういう姿勢で暮らしていくことが、生活の全てにおいて溶け込んで良い方向に作用するはずだ。
そして私は、家父長としてそれを受け容れなければならないのだ!
とポエミーに語ってみたものの、どう自分の中で折り合いをつけたところで妻子の側からは、1年後、2年後の結果で私の行いを裁くのだろうなと思う。
もう何千時間も勉強してきた。全部がムダだったなんて思いたくない。何とか受からないと。
私たちは三人で出かけたりご飯を食べたりすることも多く、仲が良かった。
しかし、Bは若くして亡くなった。
でもAは全く泣いていなかった。
悲しくないはずはないのに。私はAとBが仲良しであるのを知っているし、仲睦まじい姿を何度も、何度も何度も本当に見てきたのだから。
そんなBがお葬式では最後まで、涙ひとつ見せることはなかった。
だから彼女はきっと、悲しみに強い人間なんだと、そう思っていた。
少し前に、Aの家に遊びに行ったことがあった。
大ヒット作品なだけあり、私もAも一度は見たことがある作品だ。
Aがまた見たくなったからと私を誘い、こうして二人での上映会が始まった。
見たのは多少前とはいえ結構覚えていて、それでも迫力のある戦闘シーンなんかは今に見ても抜群に面白い!
あーやっぱりすごい映画だなぁーって思って見ていたら横から鼻をすするような音が目立ち始めて、え?なに?とAのことを見ると彼女は泣いていた。
鼻水も出ていて、それをティッシュで包み込もうとしていたところだった。それからティッシュを追加して目元に持って行くと開いた口から声を上げてわぁーんわぁーんと泣き声を上げ始めた。
いい大人がアニメ見て慟哭みたいに泣くとか…とそれを見て思わず、正直ちょっと引いてた。
煉獄さんが死にそうになりながらもぐっと堪えて戦うところとか、乗客の安否をずっと気にしているところとか、あと炭治郎たちのことずっと気にかけてくれていて、そういったところがもう全部すべてエモくて感動するから
とAは八矢継ぎ早に語り、最後の煉獄さんが尽きるシーンに対してはボロボロと涙を流しながらそのシーンをじっと見つめていた。
その時、Aは何を考えていたのだろうかと私は思う。私は今でも覚えている。
なのにAはBのお葬式では涙を一滴も垂らさず、鬼滅の無限列車編の映画では何度も何度も涙を流した。
というか、これだけじゃないかった。
別の日でも、今日発売の週刊〇〇読んだら推しのキャラが死んだ…といって横に座るとすぐに泣き出してしまうこともあった。
そうして私はAの涙を何度も見かけることはあった。でも涙の理由は漫画やアニメのキャラクターが死んだり、別れたりとか、そういうことでだった。
片や彼女は現実の友達の死には涙を見せない。取り乱したりもしないのだ。
はっきりいって、私は怖くなった。現実の友達には涙を流さないのに、アニメや漫画の存在しない、虚構に過ぎないキャラクターたちの生死には一喜一憂し、死ねば涙まで流して本気で悲しむ。
おかしいと思った。現実をおざなりにさせて、アニメや漫画の中のことでリアルに悲しんだり喜んだりするのって、どう考えたっておかしい。健全じゃないのは確かだ。
気持ち悪いって、本心ではそう思ってしまった。Aのあのような態度を見ていると、私は漫画を読みたいとは思えず、アニメも見たいと思えない。
でもたぶん、今の現実社会ではAのような子がたくさいん居てしまうんじゃないかと思ってしまう。
別にアニメやゲームで感動するなっていう話じゃない。でもそうした感情や慈しみは、少しでも現実の社会に向けてくれると嬉しい。