はてなキーワード: 鈴木敏夫とは
大人になると見えてくる
さらにジャンプの新人登用やアンケートシステムを作った初代編集長の長野規など、仕組みを作る人が大事だとわかってくる
アニメでも宮崎駿には鈴木敏夫や氏家齊一郎がいたし、新海誠には川口典孝や川村元気がいた
土台作るやつ、金を出すやつ、チャンスをくれるやつ、仕組みを作るやつ
日本はスーツの仕事を評価しないし、仕組みつくりをせずに天才が勝手に湧き出て何とかしてくれるって思ってる
そしてIT業界が糞なのは、技術者"しか"いないからだってことがよくわかる
技術者が技術でオラつくだけで、ザルで水をくんでるような感じだな
アニメは岡田斗司夫とか鈴木敏夫みたいなのがいたから多少はマシだった
なによりテレビ局というプラットフォーマーがいたから、アニメーターはその土台に技術を乗せればOKだった
どこにもプラットフォーマーがいない
アメリカ人が作った土台の上で技術を偉そうに語るだけのはてなブックマークの連中みてるとそう思う
岡田斗司夫や鈴木敏夫みたいに、大人と交渉できてカネを引っ張ってこれる人材がいかに貴重かわからんのか?
陽キャならいいかもしれんけど、陰キャでデュフデュフいってるオタク業界では貴重だろう
オタク業界にはこういうカネもってるやつと交渉する人材が必要。
加えて岡田斗司夫はワンダーフェスティバルの当日版権システムとかの功績もあるしな。
任天堂だったら組長の功績はだれもが認めるだろ?ソニーだったら久多良木とかな。
米津もミクもニコニコ動画がなければどうにもならんでしょう。
ワンパンマンは新都社がなければいけなかった。そしてそれに目を付けた村田雄介とジャンプが組んで、マネタイズする。
仕組み作ってカネだして売るやつも偉いよやっぱ。
追記2
ニコニコ動画はたしかにプラットフォーマーだけど嫌儲でダメダメ
スーツとしては3流だった、というか自分たちがスーツを否定してオタクに媚びて嫌儲どもに迎合した
金儲けという仕組みづくりをしなかった
米津はニコニコ出身だけど、ソニーに拾われたおかげなので結局スーツのおかげ
金儲けのフェーズになったらおまえらはスーツに搾取されるっていうけど、スーツがいなくて儲からない業界はスルーするもんな
90年代くらいのフリーソフトの時代にはけっこう日本の個人開発でイケてるソフトってあったけど
00年代になってビジネスしようってフェーズになったら急に元気なくなった
個人レベルではすごいけど、チームとかマネタイズとなるとゴミになる
この差はスーツの差であり、マネジメントの差であり、儲けようという意識の差だと思う
ファミコンスーパーファミコンレベルだといいけど、規模がでかっくなると糞ゲーになった和ゲーの歴史をみても、スーツの重要さがわかる
あるいはUnityとかゲームエンジンとか、GOGとかSteamとかEpicストアみたいにオープンにプラットフォーム作って売るという発想もない
搾取って言うけど今のインターネットGAFAMはそれこそ搾取で、しかも漫画の編集みたいにあれこれ手間かけてるわけじゃなく、場所提供だけで30%~60%持ってく
NHKのドキュメンタリーで興味をもって、遅ればせながら映画を見てきた。
例の番組では高畑勲との関係がクローズアップされていたけれど、この作品のテーマは少年の成長じゃないか。(千と千尋の神隠しと違って、一晩で見る夢のような内容なので、成長というより、自分の気持ちに折り合いをつけると言った方が近いかもしれない。)
作品のクライマックスを作るために、高畑勲をモデルにして、結果的に高畑勲を乗り越えたという見方はあるかもしれない。でもそれがメインテーマかというと、ちょっと違うような。
NHKのディレクターの関わり方(書生)からすると、スタジオジブリの確認なく放送されたとは思えないし、むしろジブリ(=鈴木敏夫)の意向が色濃く出ているのではないか。他のインタビューでも、鈴木敏夫はサギ男は自分、大叔父は高畑勲だと言っているし。
そう見せたい、そこに注目してほしいという理由があるのかもしれない。そのほうが注目されやすいからなのか、それとも、メインテーマがあまりにもパーソナルなものだからなのか。
敢えて視点をずらしたのか鈴木敏夫の意向ということなら、サギ男らしいと思った。
いずれにしても、素晴らしい作品だった。番組で宮崎駿が「頭のフタを開ける」と言っていたが、本当に誰かの頭の中を見ているような、或いは誰かの夢を一緒に見ているような気持ちだった。
あれを映像に具現化するって、すごいと思った。
要するにジブリで働いていたということだけが自慢の人なんだろう。
ジブリで宮崎や高畑の近くで働いたことがあるんだぞ!というのが自慢の種、飯の種なんだよ。
そういう人が宮崎駿という人をある意味で矮小に描いたドキュメンタリーを見たときに怒りを覚えるのはわかるような気がする。
宮崎駿は神であってくれねばならないんだ、そういう人にとっては。
でなければ、神の側近くで侍っていたということが自分の存在価値である人間にとっては大いなるダメージなのだ。
媚びへつらう。
ということを彼は批判している。
実際に媚びへつらっているのかどうかは知らない。
でも媚びへつらってあの映像が撮影できるなら幾らでも媚びへつらってやる、と思わねばドキュメンタリーなんて制作できないだろ?
なぜそんなことが理解できないのだろうか?
あの映像があるおかけで、大叔父というキャラクターが高畑勲を描いたものであるというのが実感を持って理解することが出来た。
例えば、書籍や雑誌などで鈴木敏夫がインタビューに答える形で、いや実は大叔父っていうのは高畑勲を描いたものなんですよ、と発言していたとしてもピンとは来なかっただろう。
しかし映像の中で宮崎が絵コンテを見せながら、これパクさんに似てるでしょ、と嬉々としているのを見せられれば1万字の文字で説明されるよりも遥かに伝わるものがある。
あの映像は貴重なんだ。
その貴重さがなぜ理解できないんだろうか?
その貴重なものを撮影するための手段として、媚びへつらいが必要ならなんぼでもやってやる、と思えなければ人に何かを伝えることなんて出来ない。
多分そういうところを理解できない人は創作というものは出来ない。
ものを作るということは並大抵のことじゃないんだ。
ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・03 なでしこ
・04 インパルス
・05 [3択]『ロッキー』
・09 [近似値]4万5300
・15 利休揚げ/利久揚げ
・16 鈴木敏夫 すずきとしお
・18 YOSHIKI
・19 [ふるさとクイズ][秋田県大仙市]スマイルソーセージ)ハイチーズ
・21 かわぐちかいじ
・22 1(番目
・26 グスタフ・クリムト
・27 [3択]サル
・29 虎(の巻
・30e サザンオールスターズ
鈴木 音楽について決めなきゃいけない打ち合わせの前夜に、ガールフレンドとユーミンのコンサートに行ったんですよ。それが初めてのユーミン体験。それで翌日、監督の宮崎駿と音楽演出をやっていた高畑勲に「ユーミンがいいんじゃないかな」と提案したんです。
こいつホンマに私情を仕事に持ち込むことに躊躇しない男やな。
で、宮崎駿も毎日ラジオで聞くくらいユーミン好きだったからユーミンにお願いしましょうってなって
ユーミン夫妻が全然乗り気じゃなくて1年以上「まだすか?」「どうすか?」って通い詰めてたら
ユーミンの旦那が「なんかちょっと重いんでなしでw」って言ってきたんだよね。
しょうがないので当時のユーミンの楽曲の原盤権持ってたレコード屋の偉い人に頼み込んで
楽曲を使わせてもらうことになったので、
魔女の宅急便にあの2曲が使われることに対しては
大ヒットしたのちに「ええで!」ってなってるんだけども。
どっかで見たよ~な要素がぶち込まれまくってひたすら車輪の再発名をしている感じ
あんたそれ以外描けないの?いや描けないであろうことはわかるんだけどさ
風立ちぬはいいよ?初めて(その年にして初めて!)「俺は結局はお坊ちゃんなんだよ」って言ったからね
でも二度も三度もやることじゃないでしょ
良くも悪くも心が動かされたのは序盤の風立ちぬ+トトロ再利用したような絵面に突っ込みいれているあたりと
終盤に入って爺さんから積み木の話聞かされて以降くらいだった
あっそっすよね
ペリカンさんも大変っすよね
たしかNHKドキュメンタリーの「終わらない人 宮崎駿」のなかだったと思うけど
鈴木敏夫がポニョについて「あまり好きじゃない」と語るくだりがあった
全編昔やったことだらけじゃないの
だってほぼ全てのひとが思ってるだろうけど
しかもその石の破壊も主人公じゃなくてインコがぶった切っちゃうし
いや、いろいろ読解の余地はあるよ
外界の住人である主人公ではなくて世界の住民自身の(誤った)行動によって世界が崩壊するとか
崩壊ではあるけどインコたちは外に出れてるわけで自らを束縛するものを自分たち自身の手で否定できてるとか
でもね、些末なのよ
味のないガムも楽しもうと思えば楽しめますみたいなものであってそれ以上じゃない
インコの王様の動きは「おっ!」と思わせるものがあってここで最後に主人公と大立ち回りを繰り広げてくれるのか!?と思ったら
剣でテーブルごと積み木ぶった切るだけ
マジか~
まぁ説明不足なのとか見てると宮崎駿が体力的に持たなかったってことなんかな
それならもう仕方がないや
でも「敢えて」描かなかったとかならエンタメ映画つくるのやめちまえよと思う
通俗エンタメにも作法があるはずで、ここでアクションをいれる!みたいのあるでしょ
昨今のジャンル映画がジャンルの型を否定するがあまりジャンルそのものを否定するのを見てると脱力する
そんなに枠組みを否定したいならそのジャンルでやんなきゃいいじゃんね
通俗エンタメならちゃんと観客をスカッとさわやかな気分にさせてくれ
いや個別にそういう作品もあるってんならまだ納得できるかもだが
ただまぁ時が経てば言及する奴は熱狂的なファンに限定されていくし
否定的なファンの感情も摩滅していくから結果的に味のある作品って社会的評価になるのかもね
宮さんお疲れさまでした
いやーあれはよかった
ジブリで毒にも薬にもならないような映画を何本かつくったんだろ?
な?
でも、それはうまくいかなかったんだ。
なぜか?
世界の継承者となるには必ず私の「血族」でなければならない、と。
だからインコの王が適当に積み木を組み上げてもあっという間に崩れ去って世界は崩壊する。
このへんをちょっと考えてたんだよなあ。
ということは薄々感じているから
でもさ?
って、それを断った主人公というのはいったい誰のことなんだろうな?
というか物語の冒頭は完全にそうだった。
とするならこういう考え方もできる。
俺がもしも宮崎駿の息子だったとしても、
そして正当な「血族』だったとしても
と「血族」でもないのに石を継ごうとした吾郎に言っているようにも聞こえる。
色々追記。下の世界=アニメの世界、塔=ジブリの世界という解釈の前提。
ペリカン=アニメーター?まだ世に出てないアニメや漫画の原作者?
であれば、ワラワラは上の世界で生まれる=現実世界でキャラクター(のアイデア)が生まれるという事?
ペリカンがワラワラ(アイデア)を運ぼう(盗もう)としたところ、ヒミによって焼かれたのは生まれそうになった=作品になりそうになったけど没になったキャラクター達?
魚はキャラに対する属性?魚が少ない=アニメキャラの新しい属性を見つけられない。食いつくしたという事?
死者は生きてるものを殺せない=アニメーターや原作者としての生を失った人?もう新しいアイデアを出せない人を表している?
キリコは設定=ワラワラ=アイデアを温めるような人?デザイナー?
主人公料理してを食べたい=降りてきたアイデア、設定資料から物語を作りたい?キャラ設定の咀嚼という事?
塔の世界で産屋で子を産むこと=アニメそのものが生まれる?アイデア?物理的な物?=全てを総括したアニメフィルム?ワラワラが上の世界で生まれるのとはどう違う?
タブーはというのは宮崎駿の仕事部屋に入るなという事?物理的な部屋じゃなくて脳内みたいな空間?通路の石が怒っているもの宮崎駿が良く怒るから?元ネタ(アイデア)を知られたくなくて怒ってる?
継母はアイデアの元ネタ?元ネタの設定資料?ネタ帳やスケッチブック的な物?ペン?なので産屋では紙が襲ってくる?
鍛冶屋に継母いたというくだりも昔宮崎駿が元アニメーターで、その身分だった頃からアイデアを練っていたことを示唆?
子がいる人間を食べられないのは、子=上の世界で生まれたもの=既存のアイデア=食べると盗作?
インコの育て親(繁殖させた人物)=大おじ=駿だとしたら食べられないというより、食べるなと命令した?駿のアイデアをパクるなという事?
裏切りではないか!=ファンたちへのメッセージ?ジブリスタッフとしての別観点からの意見?
綺麗な積み木だけではファンから見放されて身を亡ぼすという事?
お守りのババアは何?
キリコ人形が現実世界で本物になる=寝てるときに周りに会ったババア達のお守りも本物?
映画そのものの感想というよりも、映画を通して広がった考察ゲームに対しての感想みたいになってしまうが、私が言いたいことを一言で終わらせるならコレになる。つまり以下はその補足説明であり蛇足だ。
映像の奥から「表現したかった感情」を引き上げるために、元ネタとなった事象そのものを言い当てようとするのは正しい過程ではない。
それはまた別のゲームであり、通常の考察と同じ枠組みでやるようなことじゃないはずだ。
眞人が自分を傷つけることによって周囲をコントロールしたことについて、宮崎駿の引退詐欺が元ネタであるかどうかを推理することに深い意味はない。
そもそも「人間には誰しもそういった悪意がある」というのは、別にアニメ映画の監督だけに限らない普遍的な出来事であるというのは落ち着いて考えれば分かることだ。
巨大な塔が存在し、その支配者は老いて後継者を探しているという話について、ジブリの内情をモチーフにしていると言い切れる要素はどこにもない。
アニメ業界全体の話かもしれないし、昭和から平成まで続いてきた価値観が変わりつつあるという話なのかも知れない。
作品が何を語ろうとしているのかを考えるときの補助線として造り手の実情を考えるのはいいのだが、「答え合わせが出来ない以上は試し書きの補助線でしかない」ことはちゃんと意識するべきだ。
元ネタ探しをしても仕方がないとは言ったが、物語からメッセージを受け取ることを完全に拒否するのも間違っていると思う。
多くの物語はそこに寓話性があり、造り手なりの思うところがあって語られている。
たとえその始まりが「戦闘機をカッコよく飛ばしたい」「戦車を戦わせたい」のような画作りを主目的としたものであっても、その中で人間を動かしていくうちに「戦争の悲惨さを描こう」「戦いを通じて育まれる友情を描こう」といった方向性が生まれてくるものだ。
実際の所、それらは多くの場合祈りのようなもので「勇気を持てば道が拓けると信じたい」「本質を見抜けないものは失敗して欲しい」「誠実であるものが救われて欲しい」といった願いの共有に近い。
時にはそこから反転して「でも現実はそうじゃないよ」「悪い奴ほどよく眠るんだよ」といった嘆きが語られることもある。
物語が一貫性を持つためにはそういった精神的支柱が必要なのだ。
「大いなる力には大いなる責任が伴う」という支柱がなければスパイダーマンはスパイダーマン足り得ないのである。
それを受け取ることを拒否すれば、鑑賞者の頭の中で物語を崩れないように積み上げていくのはとたんに難しくなる。
このタイトルに過剰反応して「うわーお説教だ―」となっている人をちょこちょこ見かける。
名前の元ネタとなった本もそうだったし、この作品もまたそうなのだと感じる。
そしてその答はなんでもいいんだと思う。
主人公は「汚れ無きものを時間をかけて積み上げることは理想かも知れないけど、そうはならないから清濁併せ呑んで生きていく」と決断した。
無数の有象無象が生きる世界を見て回った後に、詐欺師のような友人を引き連れてそう宣言したたことで物語の方向性が確定した。
より理想的な世界を求めた大叔父の夢は壊れてしまったが、その夢を実現する手段に辿り着けなかっただけで夢を持ったことそのものが間違いだった訳ではないのだろう。
インコの王は本質を見つめることを理解しないまま大雑把なことをして塔を壊してしまったが、それでも塔の外でデカイインコとしてそれなりに暮らしていくのだろう。
自分の理想通りに生きられるかは分からないけど、決断が迫られるときは来るから自分なりの準備はちゃんとしておいた方がいい、でも出来なかったからと言って何もかもがお終いではないよというぐらいの感じか。
何が元ネタだったかを考慮するのではなく、描かれようとしてた哲学が何だったのかを考えていくのならば。
自分の気持ちをがむしゃらに伝えれば、まだ生きている母親を取り戻すことは出来た。
必死に頑張ったけど、もう死んでしまった母は取り戻せなかった。
アオサギとは敵同士のようでもあったけど、最後には友人になれた。
最初の印象に引きずられてずっとアオサギといがみ合っていたらこうはならなかっただろう。
でもアオサギがその気持ちに応えてくれたのは嘴の穴を埋める木を直した後からだ。
本当にアレは偶然の出来事で、もしも最初からピッタリ嵌っていたらアオサギは本当に飛び立っていたんじゃないだろうか。
たまたまもう一度作り直して貰おうとしたことが、あの二人が友人になるまでの最後の一押し分の時間を与えたように見えた。
あの友情は偶然の産物でもあるし、同時に二人の意志によるものでもある。
自分の意志で変えられるものと変えられないものがこの世界にはあるが、もしも手に入れたいものがあるなら諦めずに進まないいといけない。
「それは宮崎駿が結果を出した人間だから言えることなんだよ」と言いたい気持ちはあるにはあるんだが、結果を出している人間の口から聞かないと受け入れにくい言葉でもあるなと。
作品をどう解釈していいか迷ったとき、元ネタを探せばいいんだという風潮がいつからか生まれていた。
それはエヴァンゲリオンの解体新書が日本中で書かれ出してからいよいよ熱病のように広まったように思う。
特に最近は庵野監督が何かと話題になったので、作品の考察とは元ネタ探しであるという考えはオタク業界において根強い。
それは一つのゲームとして面白くはあるんだけど、考察とはそういうものであるとは思わないでほしいんだよな。
まして単に感想を述べたいだけなのに元ネタ探しをする必要があるなんて勘違いは絶対にしないでほしい。
世の中にある物語の95%は元ネタなんて探さなくてもストーリーの背骨さえ見いだせれば話の内容はなんとなく分かるように出来ている。
確かに途中で話が変な方向に向かうことはあるけど、展開の矛盾だとかご都合主義だとかの野次を飛ばしたい気持ちを抑えて、大筋自体を素直に受け入れれば自ずとそれは見えてくるように思う。
考証ぶったクイズごっこや、食通ぶった矛盾探しばかりしてないで、まずは物語を素直に楽しんで欲しい。
『君たちはどう生きるか』の感想を見ているとついついそう感じてしまう。