はてなキーワード: 美徳とは
インテリ層の良くない部分が出ているので、あえて名指しで批判する。
シロクマ先生の書き方は良くないです。今すぐに謝罪して記載を改めるべきです。どんな人間も馬鹿にされたことは敏感に感じ取ります。
もしも本当に、心の底から馬鹿にするつもりも嘲るつもりも無かったのであれば、全ての比喩表現を直接的な表現に改めて、その上でどのように受け取られる可能性があるか考えてみてください。
シロクマ先生の以下の記事は、齋藤知事のパワハラと全く同じです。
ビバ! デモクラシー!
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20241119/1732024800
斎藤氏はパワハラ疑惑を巡る認識を問われると、「よい県政をしていきたいという中で業務上の指導や注意を厳しくしたことはあった。これがハラスメントに当たるかは第三者委員会などで審議されることになる」と語った。
小学生を含めて(個人的な感覚では、不満を表明できるのは小学三年生前後)、悪意には非常に敏感です。どのような言葉遣いであっても馬鹿にされたかどうかは瞬時に理解します。
「インターネットで民主主義が加速して良かったですね」という「良かったですね」という物言いは、対象を嘲る言い方です。自覚が無いのであれば今すぐに改めるべきです。
以下、具体的に指摘します。
「今回の選挙は、民主主義を正しく反映したと言えるのではないだろうか」という書き方ではいけなかったでしょうか。
なぜ、「民主主義が三度の飯より好きな人には」と、民主主義を好ましいと思う人を「三度の飯より好きな人"には"」という表現にして限定しましたか?
今回の選挙結果を、揶揄する意図が無いのであれば即刻改めるべき表現です。
他の支持者との一体感を体験しやすい仕組みのおかげで、「いいね」や「シェア」ぐらいでも推し活気分や選挙活動気分を味わえたりする。
「自分は、いいねやシェアボタンを押す行為は、選挙活動とは言えないと思う」と書き方ではいけなかったでしょうか?
なぜ、「推し活気分や選挙活動気分を味わえたり」という、自身で「参入する敷居がものすごく低い」と書いているにもかかわらず、「気分」や「味わえる」という表現にしましたか?
他人の選挙についての関わり方を見下すつもりが無いのであれば即刻改めるべき表現です。
SNSや動画にじかにコメントする、という方法もある。なにもコメントが秀逸である必要はない。凡庸なコメントでも、論理的に破綻したコメントでも、事実関係の怪しいコメントでも、別に構わない。支持する人への応援コメントでも、敵対者への批判や非難のコメントでも、数多く集まりさえすれば強力なコメントたり得る。どんなにしょうもないコメントでも、200も300も連なれば有意味だ。誰が言ったかや何を言ったかだけでなく、何人が言ったかも重要であることを、いまどきのネットユーザーが知らないわけがない。
「どんなコメントであっても、200も300も連なれば有意味になってしまう。論理的に破綻したコメントでも、事実関係の怪しいコメントでも、いまどきのネットユーザーにとっては、何人が言ったかが重要になってしまう。私はそれを好ましいとは思わない」と言う書き方ではいけませんか?
どのようなコメントであっても数が連なれば有意味になることが好ましくない、もしくは危険だと思うのであれば、そう表現すべきではありませんか?
なぜ、「事実関係の怪しいコメントでも、別に構わない」と許容したのにもかかわらず、「どんなにしょうもないコメントでも、200も300も連なれば有意味だ」として、自分と同じコメントをする人が200や300ある人たちを「しょうもない」と馬鹿にしたのですか?
他人のコメントの書き方を馬鹿にする意図が無いのであれば、即刻改めるべき表現です。
それらは従来型のマスメディアが機能した帰結でなく、双方向メディアとしてのインターネットが普及し、猛威をふるった結果として起こった。だからインターネットがテレビになったというのは不十分な表現で、テレビを超えた、いや、テレビ以外の何かとしてはびこるようになった、と表現すべきだったと思う。
「それらは従来型のマスメディアが機能した帰結では無く、双方向メディアとしてのインターネットが機能した結果として起こった。だからインターネットがテレビになったというのは不十分な表現で、テレビを超えた、いや、テレビ以外の何かとなった」という書き方ではいけませんか?
もしくは「双方向メディアとしてのインターネットは、従来型のマスメディアの機能とは異なり、より積極的に他人に干渉するようになった」というような書き方ではいけませんか?
従来型のマスメディアを超えることによるなにがしかに危機感を覚える、好ましく思えないのであれば、それを直接表現すべきではありませんか?
「猛威をふるった」や「はびこるようになった」という書き方に、従来型のマスメディアよりも双方向メディアとしてのインターネットを貶める意図が無いのであれば、即刻改めるべき表現です。
特にこの表現は顕著なので注記しますが、「ならばマスメディアが猛威をふるいはびこっていた従来よりも良くなったでは無いか」と返答されるとは、本当に思いませんでしたか?
その返答に対して「マスメディアの方が優れていた」以外の回答を持っていますか?もしも持っていないのであれば、それは双方向メディアとしてのインターネットを見下した表現です。
「投票率が上がり、選挙活動への参加が増えたことは良いことだ」と言う書き方ではいけませんか?
馬鹿にする意図が無いのであれば「良かったですね」という表現は即刻改めるべきです。
単独の文言では無く、前後の文脈から、この文章を読み取った相手が「投票や選挙活動への参加を馬鹿にされた」と受け取らないと、本当に信じていますか?
「なるほど、コイツはインターネットで情報収集したり、いいねで応援したり、コメントを書いたり、自分で考えて投票した俺を、子ども扱いしているんだな」と受け取られる可能性が無いと思っていますか?
真摯に相手の人格を尊重してなおその表現しか出てこないのであれば、おどけた調子の文章を書くのは止め、少なくとも真面目な話題ではビジネス文書のように書くべきだと思います。
インターネットも含めた諸々をとおして、投票所により多くの人が足を運んだこと、より多くの人が選挙活動に参加したことだ。それって民主主義にとって基本的で必要不可欠なことでしょう?
段落内のおそらく骨子の部分である、この部分はとても良い書き方をしているだけに残念でなりません。
民主主義はタテマエとしてずっと、全員参加を謳っていたし、少なくとも欧米ではだいたいうまくいっていた。 まれに、チョビ髭の伍長のような人物を輩出するとしても、だ。
その前段の、民主主義論に関する部分は私自身の主義主張とは異なるが、それは捉え方の違いだろうと思う。
(「"良い民意"が"悪い民意"に変わってしまうとしたら、民主主義は壊れるのがお似合いではないだろうか」というのは、どのように書き換えてもアリストクラティア(優秀者支配制)を意味すると思うが、そこは民主主義の捉え方の違いだろう)
「民主主義は、時としてヒトラーのような独裁者を生み出すとしても、全員参加が理念であった」という書き方ではいけませんか?
前段の主張も含めて、文脈からは「民主主義とは、建前としては全員参加だが、本音ではバカは参加しないものとして上手く回っていた。バカが参加して壊れるのは制度の限界だ」としか読み取れません。
それ以外の意図を持つ文章として文脈を構成しているのであれば、全面的に書き直すべきです。おちゃらけた書き方をしようとするあまり、文脈上そう受け取る人がいても非難できないと思います。これよりのちの文章を読む限りではこの読み方をして欲しいと想定するしかないです。
(また、ヒトラーの例えを出しておいて「マスメディアという制御弁が民主主義政体を安定させる効果があったのは、たぶんそうだろう」と書く意図は量りかねます。ナチ党の躍進にラジオが大きな役割を果たしたことには一定の了解があるはずです)
いまどきの民主主義の理念を作り上げた人というと、ロックやルソーやジェファーソンといった近世~近代の思想家を思い出す。ところが彼らが生きていた時、末端の大衆にまで選挙権が行き渡り、末端の大衆の選択までもが民意にフィードバックされる民主主義を想像するのは難しかったのではないか。たとえば、民主主義の始祖たちの眼中に、立花氏がバカと呼んだ人々はどこまで含まれていただろうか?
少なくとも、ジェファーソンの名前を出して合衆国独立宣言で最も有名な一節である "We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal,"を無視するのは看過できません。
このall men (すべての人々)に、大衆(シロクマ先生の言うところの「末端の大衆」)が含まれていないと推測するのは侮辱でしょう。もしもよく知らないのであれば名前をあげるべきではありません。
トーマス・ジェファーソンが、いかにマスメディアに悩まされていたか("nothing can now be believed which is seen in a newspaper. truth itself becomes suspicious by being put into that polluted vehicle")を知らずとも、
ほんの少しでも興味があれば、ジョン・ロックが人はみな生まれながらにして公平であるが、そのままでは不都合なので、人の承認のもと政府を作るであるとか、ジャン=ジャック・ルソーが間接民主制すら否定していたことなど、見聞きしたことがあるはずです。
彼らが、貴族や選良市民のみを対象として考えていただろう、末端の大衆(シロクマ先生が想定するのが、教育を受けていない人、政治に詳しくない人だとすると、当時の農民や奴隷、犯罪者等)は考えていなかっただろうと想定して枕詞に使うのは、不適切です。
(その後の段落は、シロクマ先生の想像や思いが書かれているので、別に問題は無いと思います)
個別の選挙結果が未来の制度設計の材料になっていくのも、民主主義のいいところだ。亀のようにゆっくりと、しかし着実に。ただし、こうした民主主義のドタバタを、ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう。未来が明るいといいですね。
この段落でも、その前段の、民主主義論に関する部分は私自身の主義主張とは異なるが、シロクマ先生の考え方を述べている部分なので良いと思う。
ただし、文脈上「全員参加という民主主義の建前を維持したまま、インターネットが深く介在する場合には"悪い民意"を取り除き、"良い民意"を選び取れる制度設計を、末端の大衆ではない我々が行うべきである」としか読み取れませんが、そういう主張でないとすれば記載を改めるべきです。
(私はそれをアリストクラティア(優秀者支配制)だと思いますし、良くないものだと思いますが、主義主張の違いなのでそれについて表明することは良いことだと思います)
「ただし、制度設計が改善される前の現在の良くない状態を、他国が狙っているかもしれない。改めるべき点は早急に改めるべきだろう」と言う書き方ではいけませんか?
「ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう」というのは、陰謀論と何が違いますか?何を意図して記載したのでしょうか。
「未来が明るいといいですね。」というのは、皮肉では無く本心からそう思っているのだとすれば、記載を即刻改めるべきです。
また皮肉を書いたつもりであれば、誰を皮肉ったのでしょうか?今回の選挙に参加した誰を馬鹿にする意図をもって表現されましたか?
シロクマ先生の「インターネットで民主主義が加速して良かったですね」という記事は、全体としては皮肉めいた、兵庫県知事選挙の結果を受けての現行の民主主義制度への感想でしょう。
これを、面白おかしいものとして読む人がいることは否定しません。(私もホットエントリーにあがってきたので読みました)
パワハラをする側にとって、されたものが右往左往したり泣いたり病んだり職を辞するのを見て愉快だと思うのと同じだという指摘です。
齋藤知事は、「よい県政をしていきたいという中で業務上の指導や注意を厳しくした」と表現しています。
前知事時代のパワハラを問題視した人は、この「業務上の指導や注意」の「やり方」を問題視したはずです。性根や意図、背景では無く、手法に問題があったのだと認識しているはずです。
愛があろうが、心の底から相手のことを思っていようが、パワーハラスメントに該当すれば、それはやはりパワーハラスメントなのだというのが、これからの社会での共通認識で合って欲しいと、自分は思います。
その意味で、シロクマ先生の「インターネットで民主主義が加速して良かったですね」という記事は、インターネットを利用して投票先を決定した人をバカだと呼び、彼らを選挙から排除すべきである、そうしなければ民主主義は壊れる、利するのは他国だ、という記事になっています。
そういう意味で書いたつもりでないのであれば、そう読み取れるようにおちゃらけた書き方をするべきではありません。すぐに改めてください。
(バカだと呼んだのは立花氏であるとか、選挙から排除すべきとは書いていないという、言葉遊びをするべきではありません。本当にその意図が無いのであれば比喩や暗喩の使い方が致命的に間違っています)
もっと言えば、記事全体が記事中に貼られた立花氏と同じことを言っており、そこから一歩も外に出ていません。
制度設計で排除すべきでは無いかと暗に書いている分、また「ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう」と記載している分、なお悪いと考えます。それは選良主義や陰謀論と具体的に何が違いますか?
そして、バカや犬や猫と同じと言われた側とすれば、率直にそう表明する立花氏に好感を持ち、シロクマ先生に嫌悪感を持つと思います。率直さは美徳であり、当てこすりは悪癖です。
なぜならば、立花氏は返す刀で「バカじゃ無くなればいい、キミはいまバカじゃ無くなった、立派な選挙民になったんだよ!」と導くからです。
シロクマ先生が、「自分はマスメディアが一定正しいものだと思っている。それを大きく超える力をインターネットが持つと証明されてしまったようで怖い。こんな選挙結果になると思わなかった」と思うのであれば、そう表現してください。
投票に行った国民を「お前らにはどうせこうやって書けばわからないだろう」という書き方で馬鹿にするのは即刻止めてください。
その積み重ねが、インテリ層への嫌悪に繋がり、わかりやすく自分を肯定してくれる者への同調に繋がります。
よい県政になりさえすればパワハラが許されるわけでは無いのと同じで、民主主義の問題だと思う点や選挙への在り方を指摘するのに他者を馬鹿にして良いわけではありません。
別に何を面白がろうが自由だけど、二言目には自浄作用が無いだの、パワハラは現代にはそぐわないだの言っておいて、中身が正しけりゃ表現は些末な問題と言う立場をとるなよ。
読み取り方の問題じゃないし、皮肉だから何しても許されるとか無いの。そういう表現は、お前らがバカにしているネットde真実と1ミリも変わらねえよ。
反反AIで特に絵に対して文句をいっている人って、絵描きに対してコンプレックスがあるか、AIで絵を描いて儲けたいとか何かのポジショントークとしか思えないところがある。
例えば DeepL とかの AI ベースの製品も入力内容を学習に使わないオプトアウトができるようになっている。
X とか SNS に載せたらそれは学習に使いますと言われたらそのSNSを使わないという選択があってもよい。
そこを学習は合法だからと連呼するのは、会社のデータをなんでもかんでも外部のサイトに提供してお漏らしすることが許されている会社なのかな?AI の発展のためにおまえのデータをすべて開示すべきとかいってる奴は働いたことがないか、やっかみか何かか?と思ってしまう。
クロール防止を避けられてしまうならウォーターマークなどで自衛するしかないだろう。これは生成AI以前でも行われていたこと。難易度を少しでもあげLORAされにくくする、学習に時間がかかったり手間がかかるので悪用する利益に見合わないと思わせるようにするというのは問題ない。
現代の暗号化も素数とか計算に時間がかかることに依拠しているものもあるように、現実的な時間というのは重要なファクターなのだ。
これは絵だけでない。声やテキスト全ての学習されたくない情報をどうやって学習させないかをちゃんと考えて一般の人に広めるのは個人情報保護のように今後リテラシーになっていくのかもしれない。なので学習されないようにしていると冷笑するのではなく、安全な公開方法を用意したりする仕組みを考えるべきなのだろう。
あの法律、生成AIをあまり想定してなかった、かつ一度決めたら引っ込められないお役所仕草が相まってると思うのだよね。
AI にも色々あって画像認識、背景削除など色々使える。GenAIと違いこれらのAIは基本的に学習した結果がそのまま出力されない。このように使われるなら納得されるだろう。
一方GenAIは学習結果から同じフォーマットの成果物を出してしまうのが問題。画像生成は学習したデータを元にした画像しか生成しない。LLMもニュースや過去のデータを元に回答している。それらには本来権利があるのに無視してしまっている。
声優の話や、海外の getty やニュースサイトの訴訟とか、今後法律も変わってくると思う。
EU なんかは学習元データ開示させようとしてるし、アメリカのエンタメ界隈のロビー活動によってはディズニー法みたいに変わることもあるだろう。
特許や著作権同様、国際協調して進めるべき案件だろう。盗まれるならやはり保護技術や法律が必要ということ。
学習速度と生成速度が全然違う。前述のとおり暗に現実的な時間というものが守ってくれていた部分がとっぱわれてしまった。
活版印刷の時に著作権ができたように何らかの制限ができてしかるべきだと思う。
横道にそれるが量子コンピューティングなりで暗号鍵やHashが推測できるようになったら暗号化はどうなるのだろうね。パスワードの解析も人間が考えたものだから解析するのは問題ないとか言うのだろうか。すでに不正アクセス防止法があるが。
そこは同意だがライセンス、特許はあるよね。ライセンス違反をしてコピーをしたら訴えられる。プロプライエタリな製品のEULAだと大体リバースエンジニアリングも禁止だ。
プロプライエタリの製品のソースコードをすべてオープンソースにせよとかおもってるのかな?
音楽は消費するのに少なくとも一曲3分以上かかるし、小説、動画だってもっとかかる。
一方、絵というのは一目で個人的な見解のレベルでは良し悪しがわかる。そのため消費するのに時間がかからない。それなのに人間が作成するには時間がかかるという非対称性がある。
そういうものをAIで数秒に一枚生成されてしまうのだから反発が大きい。
声もそう、その人の声でなにかするというのは一瞬で消費される。一度学習されてしまえば再利用に歯止めが利かない。
消費するために公開せざるを得ないものについても保護できるようにすると言うのは必要。それが著作権以外でもいい。
何でも学習合法にするとDeepFakeや類似作品が溢れかえる。しかも生成は数秒。
それをすべて被害者が訴えて回るのはフェアではない。学習、生成段階で歯止めをかける仕組み、法制度が必要になってくるだろう。
それを合法だから!反AIは異常とか言ってるのはそれはそれで思慮が足りない。
一方、合意して学習した内容を使ったAI、例えば自分の作品を自分で改善するといった分野に使うなら否やはないだろう。
戦争に加担している企業の商品を買わない、金を回さないということ自体はわかるのだが
日本人の美徳とかいわれている列に並ぶ、静かに待つ、みたいなことだって色んな人を殺した先の戦争の副産物で、そういう戦時に作られた国民性が他国の人から評価されたり、評価された結果観光客を得ていたりするわけなので
なんか都合良いよね
2016年にムサ・アル・ガルビがニューヨークに初めて来たとき、彼が最も気づいたのは「人種化されたカースト制度」の存在でした。その制度のもとでは、「使い捨ての召使い」が「あなたの家を掃除し、あなたの子供の世話をし、あなたの犬を散歩させ、調理済みの食事を配達する」のです。
この「使い捨ての召使い」は、その仕事に対して「わずかな報酬しか得られず」、ほとんどが黒人やヒスパニックで構成されており、サービスを受ける側はほぼ白人ばかりでした。しかし、誰もこのことに言及せず、「これが普通の社会のあり方だ」と考えられていました。
アル・ガルビが描写しているのは、超富裕層の集まるアッパー・イーストサイドや、億万長者たちのたまり場であるスカーズデールではありません。彼が在籍していたのはコロンビア大学であり、「人種カースト制度」で利益を得ていたのは同級生たちでした。その多くは社会正義について声高に語っていましたが、自分たちの生活を支えている社会階層の底辺の人々のニーズにはほとんど無関心でした。
4年後、同じ学生たちの多くがBlack Lives Matterの抗議に参加しました。アル・ガルビは、彼らがニューヨークのアッパー・ウェスト・サイドのブロードウェイで、同じ場所を共有している「靴も持っていないホームレスの黒人男性たち」に気づかないままデモをしているのを見ました。抗議者たちは「Black Lives Matter」と主張しながら、ホームレスの人々が使っていたベンチを占拠していて、どうやら目の前の「黒人男性たち」には関心がないようでした。
このように、社会正義を求めて活動するリベラルな学生たちの信念と、周囲にある現実の不正義への無関心を示す行動との間にある絶え間ない不一致により、アル・ガルビはその矛盾を理解するために本を書くことを決意しました。『We Have Never Been Woke』はアメリカで出版されたばかりで、間もなくイギリスでも出版される予定です。アメリカの選挙の背景を理解するための有用な出発点の一つとして、この本が挙げられます。なぜなら、選挙の物語は、アル・ガルビが感じた不一致に気づく人々と、それに気づかないか、気づこうとしない人々の分裂という観点からも見ることができるからです。
コロンビア大学の活動家たちが周囲の目に見える不正義を無視している中で、なぜ彼らは社会正義の言葉を採用したのでしょうか?言い換えれば、現実の不正義や不平等が無視される世界で、その言葉はどのような役割を果たしているのでしょうか?これらは、学生時代のアル・ガルビが悩んだ疑問であり、その本の核心をなしています。
彼の答えは、社会正義の言葉、すなわち「ウォークネス」は、実際には社会正義を目的としたものではなく、むしろ特権の階段を上り続けたいが、自分たちがエリートであるとは見られたくないエリート層を結びつけるイデオロギー的な接着剤の役割を果たしているというものです。
「ウォーク」という言葉自体は、あまり有用な言葉ではなく、分析よりも軽蔑の意味で使われることが多いものです。アル・ガルビはこの点を認識しており、侮辱として使われることを避け、定義することさえ拒んでいます。彼にとって重要なのは、この概念が実際に支持者や批判者によってどのように利用されるかです。
アル・ガルビは、「象徴的資本家」の闘争こそがウォークネスを理解する鍵だと主張しています。「象徴的資本家」とは、シンボルやレトリック、イメージやナラティブ、データや分析、アイデアや抽象概念を扱う専門家、つまり作家や学者、芸術家や弁護士、美術館のキュレーターや技術専門家を指します。この社会階層は、エリートの中で自身の地位を固め、すでにそこにいる他者を押しのけるために、社会正義の言葉を利用して地位と「文化資本」を蓄積しようとしています。彼らの闘争は、貧しい人々や弱者のためにエリートと戦っているように見せかけながら、実際にはエリートの内部での闘争なのです。
これは単なる皮肉や偽善ではないとアル・ガルビは主張しています。象徴的資本家たちは、自分たちの社会的役割についての神話を構築し、それによって不平等や不正義を助長しながらも、公正や平等を信じていると本気で思い込んでいます。この神話は多くの社会機関や権力者によって受け入れられています。その結果、社会正義の言葉は「不平等を正当化し、覆い隠す」ことに役立ち、エリート層がそのエリートとしての地位を強化し続けるのを可能にし、それはしばしば本当に脆弱で、疎外され、貧困に苦しむ人々の犠牲の上に成り立っているのです。
この議論の多くの側面は、例えば文化理論家のキャサリン・リウや哲学者のオルフェミ・タイウォによって以前から表現されてきました。リウは、プロフェッショナル・マネジャー階級が自らの自尊心を高めるため、そして「普通の労働者階級の人々に対する揺るぎない優越感」を正当化するために、「美徳を貯め込んでいる」と主張しています。また、タイウォは『Elite Capture』の中で、異なる視点からではありますが、エリートが急進的な政治を自分たちの目的のために取り込んでいると述べています。
これらの作品は現代政治の不条理を理解するのに重要です。例えば、アメリカの民主党(および多くのヨーロッパの社会民主主義政党)が次第に富裕層と高学歴者のクラブと化している理由、そして多くの労働者階級の有権者がそれらを見限るようになった理由を説明しています。また、象徴的な表現や言葉の取り締まりには熱中しつつ、現実の物質的な不平等には関心を持たない私たちの文化の執着も浮き彫りにしています。
しかし、これらの議論には、注意しなければならない落とし穴も存在します。社会正義の活動家が物質的改善のための闘争を放棄し、文化的エンパワーメントを目指すようになったのと同様に、多くの批評家もまた、新たな「文化的エリート」を主要な問題とみなし、私たちの社会における真の物質的な権力の根源を無視するようになっているのです。
今日の社会活動の質が低下した背景には、歴史的な変化があることを見失う危険もあります。アル・ガルビは、現代の「ウォーク」政治の盛り上がりは、一連の「覚醒」の最新の段階に過ぎないと主張しています。これらの「覚醒」は、1930年代に学生たちが共産党や他の急進的組織を支持したことから始まりました。
しかし、それでは変化の現実を見逃してしまいます。例えばアメリカの共産党は、1930年代のアメリカにおいて、彼らは反人種差別運動や労働者の権利擁護に重要な役割を果たし、他の急進派、社会主義者、労働組合員、黒人活動家と共に、戦後の公民権運動の基盤を築く助けとなりました。
特に、ジム・クロウ法が支配する南部のアメリカでは、彼らはシェアクロッパーや製粉工場労働者、ホームレスや失業者の組織化を支援しました。これらの活動家たちは、ブロードウェイで抗議していた人々のようにコスプレをしていたわけではありませんでした。彼らは自警団によるテロや警察の暴力に直面し、命を落とした者もいれば、多くが投獄されました。しかし、彼らは人種を超えた階級連帯の可能性を示したのです。
こうした連帯運動が崩壊したことが、社会正義運動の質の低下と労働者階級の利益の放棄を招いたのです。そのことを理解することは、「象徴的資本家」の役割を理解するのと同じくらい重要であり、変革のための運動を再構築するためには不可欠です。
あとはどう書き出すかだよなぁ🤔
いつも通り、思いつくまま適当に書いとくか、出来る範囲で読みやすくしとくか、うーーーん
とりあえず、忘れないうちにメモ書きしとく
ワイは以前、『差別』というものは、生死に関わる問題や経済的な困窮、戦争といった深刻な問題に直結するケースのみに限定されると考えていた
なので、無礼な態度や高圧的な態度は、単にその人の問題であり、べつにどうでもいいと考えていた
そもそも、一般的に高所得と言われる立場にある人間にとって、気持ちを鈍感に保ち、何か言われても気にせずスルーするのは、持っていて当たり前のスキルだ
もちろん、ハラスメントや名誉毀損・侮辱罪として取り上げられるレベルの罵倒や侮辱は除くが、それに至らない範囲の言動にいちいち反応しているのを見ると、
『稼ぐ気がないんだな』『働く必要がない裕福なご家庭の人なんだな』『生まれつき過敏なんだな。生きづらそう』と感じずにはいられなかった
だが、他者を『バカだな』とか『ボンクラだな』と感じるとき、よくよく考えるまでもなく、"自分の方が上だ" という考え、頭にあるよね?
人の価値はお金で測れるものではないにもかかわらず、経済力という一点で優位に立っているという理由だけでーーー・・・とか、いろいろグダグダとやるまでもなく、
『自分の方が価値が上だ』ってやった時点で、<ハイ、差別そのもの>で話は終わりだと、ふと気付いた
『差別』とは、特定の属性(例えば経済力やさまざまな社会的地位)に基づいて、自分を他者より上位に置き、他者を不当に扱う態度のことだからね
自分と同等以上の能力がない人や、自分と異なる興味や能力を持つ人に対して、『やる気が足りないのでは?』と傲慢な態度を取っていたかもしれない
※ 年収に影響する要素で1番大きいのは『運』、ついで『社会制度』、それらに比べたら『能力』の影響は小さいことも、他人の能力を見誤る要因になっている
※ それ以前の問題として、『自分と他人は違うを理解する機能』がそもそも未搭載なので、何度学習しても、つい他人の能力を見誤ってしまう
例えば、女性を『おばさん』と綴り、男性を『男』と呼称しインタビューに応える某皇族は、自分のことを『ガチ貴族』と思ってるし、実際に貴族なんだけど、
(あれがなんでウケてるのかマジでわからん。中世か? 本当、膝を折って各地を訪問した平成天皇だけが皇族の例外でしたわ)、
政財界の人間は、皇族と違って、いちおう一般人の"ハズ"なのに、日本以外の国でかましたら、
失脚、株価暴落、活動家に永久粘着される or 永久に身の危険を覚えることになるような暴言を マスコミにすっぱ抜かれたとかではなく、
公の場で自ら積極的に発信してるのマジでなんなんだろ?って思ったわけです(ナチス発言ほかキリがない)
『オメー、平等絶対の日本のどこでそんな教育を受けてそうなったの?』、『オメー、ガチ貴族ではなくね?』みたいな
だけど、べつにガチ貴族や上級国民でなくても、無限に無礼な人/上からな人いますよね?
せいぜいあっても年収2000万程度で、なんならワイ以下の年収でも無限にいます
つまり、これは生まれや社会的な立場の問題じゃ無さそうだな・・・ってなったわけです
単純にその人の態度(attitude)、人間性の問題なのでは?ってね
なお、アリストテレスは『ニコマコス徳倫理学』で、徳(美徳)は習慣(ēthos)化によって形成されるとって言ってるし、
人間の行動が繰り返されることで習慣となり、それが最終的に性格や人格を形成するって言っているので、
※下記は、マザーテレサでもウィリアム・ジェームズでも無いらしいです
自己責任論って突き詰めたら、森羅万象あらゆる事象は自己責任を主張している本人のせいに全部転嫁できるはずなんだけど、いまだかつてこの主張が自己責任論者に聞き入れられたことがないので、自己責任論者は自己中心論者だと思っている
これは 1000000000%、それはそう
森羅万象ではなく、もっと単純な日常的な視点で言っても、それはそう
例えば、通貨が弱く教育や医療システムが整っていない国からやってきた人々や、スラム街から成り上がった人々にとって、先進国での一般的な悩みは『甘え』のように映るだろう
同じ先進国に住んでいても、呼吸や歩行、食事など、日常生活の基本的なことすら困難な人々からすれば、健康に恵まれた人々の日常的な悩みなんぞ『甘え』に感じられるだろう
でも、先進国で自己責任を説いたり、ぼくあたちは頑張った!努力した!をやる人は、上記の人々と同じ立場に身を置いたことがないどころか、
居所不明児童 の悲劇、 川口高齢夫婦殺害事件(2013年) の当事者に近い環境に身を置く人は今日もいるだろうし、
殴る蹴る性加害など緊急性の高い虐待ではなくても、電気ガス水道が止まるのが日常な環境で暮らす児童は今日もいるだろうし(貧困ではなくて親が生活能力がない)、
ネグレクト・機能不全家庭でなくても、教育DVや暴言が日常とか過干渉とか条件付き愛情とか、基盤を壊すものは無数にあってひとつひとつ挙げたらキリがない
そして、自己責任を説いたり、ぼくあたちは頑張った!努力した!をやる人は、上記の人々と同じ環境に身を置いたことがないどころか、
人類は自然に完全に打ち勝ったわけでも、自然から独立した存在でもない
だが、他の動物と異なり、『優れた貯金力(資源を蓄積する能力)』と『高度な想像力』を持っている。そのため、先進国では、福祉制度や社会保障が充実しており、動物のように弱者を切り捨てたりしない。
また、見て見ぬふりをしてしまうこともあっても、自ら手を下して積極的に弱者を切り捨てたいという輩は異常者とされるし、自分自身が社会から切り捨てられたいとも思うのも異常者だ
したがって、裕福な立場や恵まれた環境にあるすべての人は、たとえエリートでなくても社会的責任(ノブレス・オブリージュ)を意識する必要がある
持てる者が傲慢な態度であることは、エクイティ(公平性)や共通善の観点から見ても、批判されるべきだ
批判的ではありつつも、バーカ、バーカ、と言うのは控えたいと思います
マッチョな男が取りがちな態度や考え方について批判的に捉えた言葉とのことだ
「男たるものこうあるべき」的な思考が蔓延することによって社会に害をなすどころか男性自身の生きづらさにも繋がっていると指摘されている(らしい)
この言葉を知ったとき、個人的には有害な男らしさの害というものについて「まぁそういうこともあるよね」と肯定的に捉えたんだが、それと同時に女も女で社会的に害悪かつ女性自身の生きづらさに繋がるような振る舞いをやりまくってるよなと反論したい気持ちにもなった
男ばかりこういうこと言われるのも癪なので腹いせにこの世からなくなって欲しい有害な女らしい振る舞いを列挙していこうと思う
・男と女がひとりずつ部屋の中で休んでいる
・部屋の温度が低く肌寒く感じられた
・見たところ近くの窓が開いていて外から冷たい風が入ってきている
このようなシチュエーションにおいて相手方に何と声をかけるのが正解か。
このとき男性の大半は「部屋寒いから窓閉めていい?」と相手に聞くだろう
ところが一部の女は「部屋寒くない?」と聞きがちだ
「部屋寒くない?」→「そうだね、寒いね。窓閉めようか」→「うん、お願い閉めて」という一連のプロセスを踏むことを前提に自身の要求を通そうとしてくる
女は「察し」と「共感」を前提として自身の主張を婉曲に伝えることを美徳だと思っている節がある
しかもこの手の女性は「部屋寒くない?」という問いかけに対して「そう?別に普通じゃない?」と返そうものなら相手のその察しの悪さに激怒する
自身の願望が相手に察せられることを前提にそれが叶えられないと癇癪を起こす
学生時代ならいざ知らず大人になってまで相手の「察し」に甘えた態度を取るのは本当にやめたほうがいい
例えば結婚後の家庭生活においてこんな態度を取っていたら相手から愛想を尽かされるし会社では面倒くさい御局として嫌われること必至だろう
要求があるなら自身の責任においてきちんとそれを表明すべきだし、仮にその要求が憚られるのなら黙っていれば良い
そういう大人としてのコミュニケーションをきちんと身につけていない女性はかなり多いので、意識のアップデートをお願いしたい
昔は男が相手の女性をヨシヨシ慰めて察してあげるのが美徳だったが、現代はもうそんな時代ではないのだから
自分の気に食わない相手の欠点を挙げて仲間内で共感しあい連帯を強めるという醜悪としか言いようのない仕草をみんな当然のように行っている
それでいて当の本人に文句を言うことはせず、環境を改善しようという努力は一切しない
愚痴を吐く暇があるならそれが改善されるように努力を重ねるのがまともな大人のあり方であるはずだ
上司の振る舞いが嫌ならそのことを上司自身に伝えて改善を促せばいいし、それがだめなら人事に部署の配転を打診すればいいし、それもだめなら転職をすればいい
仲間内で「あの上司うざいよねー」と話したってなにも解決はしない
それどころかまともな人間は人から愚痴を聞かされることに嫌悪感を持っているので普通に友人を失って孤独に陥る可能性すらある
愚痴の多い女性はそのあたりの常識的な振る舞いをいい加減わきまえるべきだろう
「社会的には悪だが自分は好き」「自分は嫌いだが社会的には許容されている」
こういった好悪と善悪の区別がついている女性というのはかなり少ない
このあたりはXで活躍するフェミニストの皆様を見ると非常にわかりやすいと思う
多くの人間から嫌われはするが社会的に悪ではない存在に対して、女性はその存在そのものを認めず社会的に排斥しようとする
それ以外にも「自分は好きだが社会的には許されない」という事物に対する見識の甘さも酷いものがある
例えばジャニーズの性加害問題においてジャニオタたちがどんな振る舞いをしたかを見ればそれは明らかだろう
自分の好悪と善悪の区別がつかず、自分の好きなものは社会的に広く認められるべきで自分の嫌いなものは社会的に存在すべきではないという浅薄な価値観はさっさと矯正されるべきだ
ざーっと思いついたものを列挙してみたが、正直有害な女らしさは社会のあらゆる場所にもっと広範に存在しているような気がする
女性の価値観のアップデートにこういう赤裸々な被害報告は必要だろうからよければブコメでも何でも『有害な女らしさ』をたくさん列挙してほしい
俺は高卒だけど、ハリーポッターの「レイブンクロー」って、悪い意味でアジア人の象徴だと思ってる。レイブンクローの性質を見てみろよ。
これって、日中韓のツリメの特徴そのものだろ。教育ママゴンのことだよ。あいつらは、学歴が人生を決めるって思ってるから、子供にその競争を強いる。周りの親たちと張り合うために、子供の意思なんて無視して習い事を強制するなんて、信じられない。
奴らは、知識をひけらかして他人を見下す傾向がある。自分の知識を誇示して、周りを支配しようとするなんて、特別な存在だとでも思ってるのか。他人の努力や才能を軽視するなんて、ほんとに腹が立つ。これって、アジア社会における「優秀さ」の押し付けそのものだろ。
常に競争を意識して、他人と比較することを怠らない。自分が一番じゃなきゃ気が済まないし、他人の成功を妬むことも多い。こういう姿勢が、教育ママゴンたちの子供に対する期待と重なって、子供たちに過剰なプレッシャーを与えてる。成績が良いことがすべてだと信じ込んで、他の価値観や個性を無視してる。
連中は知識を追求することが美徳だと思ってるけど、実際の人間関係や感情の大切さを軽視してる。学問や知識ばかり重視して、友人や家族との絆を疎かにして、孤独を感じることも多い。教育ママゴンたちが「勉強が全て」って教え込むことで、子供たちが人間関係を築く能力を失わせてる。
レイブンクローは学歴至上主義の象徴で、アジア社会の教育のあり方を反映してる。知識や学歴を武器にして他人を攻撃し、自分たちの地位を守ろうとする。これが教育ママゴンたちの子供たちに与える影響で、彼らの未来を狭める要因にもなってる。学歴が全てだなんて考え方は、子供たちの自由や創造性を奪って、結果的に社会全体の多様性を損なうことにも繋がる。
レイブンクローは、単なる学問の追求に留まらず、社会全体に悪影響を及ぼす要因になってる。教育ママゴンたちの「学歴信仰」は、子供たちにとっての重荷で、彼らの成長を妨げる要因になってる。最終的には、学歴だけじゃ測れない人間の価値や可能性を見失わせてしまう。こんな状況、ほんとにうんざりだ。
https://anond.hatelabo.jp/20241027171256
好きな相手と付き合って最終的にセックスしたいのであれば、どこかで性的なアプローチが必要になるが、そこには嫌われるリスクが有る
・性欲を出したら嫌われるかもしれないから避けたい
というパラドックスね
特に大人しい人畜無害タイプの男性が仲良くなってから性欲を出すことをぬいペニと呼ばれている
で、大体の解決策というか、軸としてあるのが「いつペニスを出すか」「早めに出そう」なんだけど
で答えの一つが「限界まで出さない」か「適度に出しつつ複数人にアプローチする」のどっちかなんだけど
前者はどちみち破綻するリスクあるからね、結局残るのは後者なのよ
「男は男らしく」っていうのは、確かにキリスト教文化圏ではよく見られる価値観だけど、それが直接聖書に書かれているかというと、実はそうでもないんだよね。
聖書の中で、男らしさとか女性の役割について触れられている部分はいくつかあるけど、たとえば「男らしくマッチョであれ」というのはあまり明確には書かれてない。
一方で、聖書には男と女の役割分担が強調される場面があるのは事実。
たとえば、創世記では「イブはアダムの肋骨から作られた」という話があって、これが「女性は男性に従う存在である」っていう考え方の根拠のひとつになったりする。新約聖書の中でも、特に使徒パウロの手紙には、妻は夫に従うべきとか、家庭内の役割についての教えが見られるんだ。
でも「マッチョであれ」という男らしさの呪縛がどこから来たのかっていうと、宗教だけじゃなくて、もっと文化的・歴史的な背景が大きいと思う。
西洋では、古代ギリシャやローマの時代から、男性の理想像として「強さ」や「勇敢さ」が尊ばれてきた。戦士であり、守護者であることが男の美徳とされ、それが近代に至るまで根強く残っている感じだね。
そこにキリスト教の教えも混ざり合って、「男は家族を守る存在、だから強くあれ」というイメージが強化されたんじゃないかな。
アジア圏でも、儒教的な価値観とかがあって、男が一家の大黒柱として尊重される傾向があるけど、必ずしも「マッチョであれ」という形での男らしさが求められているわけではないよね。
しかしそれと同時に「自衛隊員に最高の誉れを。お国の為に最前線で戦ってくださるのだから。」ともよく言っている。
また、彼は石原慎太郎と対談した時も、夜通し子供に勉強を教えた昔の教師を例に挙げ、自己犠牲の上に成り立つ社会を美徳とする趣旨の発言をした。
高市の悪質さが際立ち過ぎて相対的にまともに見えるが、石破も石破で立派な全体主義者だ。
彼ら全体主義者の推し進めたい、自己犠牲で成り立つ社会にもっとも邪魔なものは「クソみたいな権力者の道具として死ぬかよバーカ🖕」という考えだ。
例えば、はだしのゲンは直球でそういう考えを扱った作品なので「作者の個人的な思想やイデオロギー」を理由に、学校教育の副教材から削除された。
もちろん日本には表現の自由という建前があるので、中国のような強制的なことは出来ない。
だから全体主義者は、はだしのゲンのように適当な理由をでっち上げ検閲するか、「お国の為じゃなく家族の為だよー(やる事は同じだけどなw)」とソフトランディングさせる作品を推す戦法を取る。
人間が働く理由と、働かなくて良い社会の実現可能性について考えると、多くの側面があります。
なぜ人間は働くのか
1. 生活の維持:
• 最も基本的な理由は、生活費を稼ぐためです。食べ物、住居、衣服、医療、教育など、生きていくために必要な資源を得るために、人は働かざるを得ません。資本主義社会においては、働いて収入を得ることがこれらの基本的なニーズを満たす手段となっています。
• 働くことは、自己実現や社会貢献の手段でもあります。人は自身の能力や知識を生かし、社会に役立つことで自己の存在意義を見出すことが多いです。仕事を通じて他者と関わり、成長し、新たなスキルを身につけることも、働く理由の一つです。
• 社会は経済活動に基づいて組織されており、すべての人が役割を果たすことで成り立っています。生産、流通、サービスの提供など、働くことで社会全体の機能が維持されます。
• テクノロジーの進化、とりわけAIやロボティクスの発展により、多くの仕事が自動化されつつあります。これにより、人間が従来行っていた労働が減少し、働かなくてもよい社会への道が開かれつつあるという見方もあります。実際、一部の分野では自動化が進み、生産効率が飛躍的に向上しています。
2. ベーシックインカムの導入:
• ベーシックインカム(基本所得)は、すべての市民に無条件で一定の収入を提供する制度で、働かなくても生活を維持できる可能性をもたらします。この制度が導入されれば、働くことが必須ではなくなり、より多くの人々が自己の興味や社会貢献に基づいて行動できるようになると期待されています。ただし、財源や経済的持続可能性についての議論は続いています。
• 「働くことが美徳である」という文化的・社会的価値観が変わる必要があります。多くの社会では、働くことは道徳的責任や社会貢献とみなされており、それが変わらなければ、働かないことへの社会的な偏見や圧力が続くでしょう。
• 働かない社会を実現するには、経済的な不平等を是正する必要があります。自動化やAIの発展が進むと、一部の人々に富が集中し、多くの人々が失業するリスクが高まる可能性があります。そのため、適切な再分配の仕組みが求められます。
• 働かない社会が現実化するためには、資源が十分に存在し、それが公平に分配される必要があります。現在の消費主義社会では、資源が有限であるため、持続可能な経済モデルへの移行が必要です。
現代のテクノロジーの進化や経済的な変化を踏まえると、完全に働かなくて良い社会の実現は理論上可能かもしれません。しかし、それを実現するためには、技術的・経済的な問題だけでなく、社会的・文化的な変革も必要です。経済的な平等の確保、技術の進歩、そして社会の価値観の変化が鍵となります。
的な言葉を、みんなの「好き」を尊重しようね、という美徳程度にしか思ってない人って割といるのかもしれない。
個人の好みは大切にしたっていいんじゃない?イイものに対して屁理屈こねてケチさえつけなきゃな。みたいな、寛容に見せかけた傲慢さすらをも漂わせながら言う人間もインターネットで見た。
物事が理詰めで相対化されていった果ての虚無感に対して、タブー意識的なものでもあるんですかね。
これだけしか言わないのなら、鰹節からとった出汁をありがたがってウマイウマイ言ってる奴はバカ舌。と真逆にしたって全く問題なく成立するし。
何を基準にするにせよ、どれも自明ではないですよね。それはコンテクストによって形成されるものでも変わりはないですよね。結局感覚的な要素に頼らざるを得ないよね。っていう。
この程度の話題ならもう既にだいぶ相対化されつつある気はするけど。
あのさ、政党ってプロ野球球団じゃないんだから、贔屓チームみたいに一度決めたらずっと応援しなきゃいけないなんてルールないんだよ?
支持先を変えるのに罪悪感なんて感じる必要ないってこと。だってさ、政治家や政党なんて政策や理念が変わるたびに風見鶏みたいにコロコロ言うこと変えるんだよ?そんな連中に忠誠心を持つ方がバカバカしいってもんだろ。
「でも、ブレるのは良くない」とか言う奴もいるけど、そもそも政党自体がブレまくりじゃん?
選挙のときだけ都合の良い公約並べて、当選したら平気で裏切る。そんな奴らに片思いしてどうするよ?政治はファンダムじゃなくて、冷静な取引でしょ。「あ、この政党は今回いい感じだな」と思ったら支持して、「あ、こいつらもうダメだな」と思ったらさっさと見限る。それが普通の対応だっての。
それに、応援するチームが優勝できなくてもファンでいるのが美徳とか言うけど、政党が失政を繰り返しても盲目的に支持し続けるのはただの馬鹿だよ。「長年応援してるから」なんて理由で、自分の生活や社会の未来を犠牲にする価値がどこにあるのか教えてほしいね。
結局さ、政党支持ってのは契約と同じで、信頼できるかどうかが全て。それがダメなら即、契約解除。浮気?いやいや、むしろ賢い戦略的判断ってやつでしょ?
無いものは、無い。
私はいま大学三年生という立場なのだが、「自分は人並みの能力が無い」という自覚を持っているため、早めに就活を始め(ようとし)た。ほら、今就活って早期化してるって言うじゃないですか。
6月頃からエージェントに登録し、夏のインターンに申込み、選考が発生しない企業には何社かお世話になった。
が、私は鬱であった。
元気よく挨拶!にこやかな笑顔!頭の回転の遅さは傾聴力でカバー!!!!そうやって1day、2dayのインターンを乗り切り、時々好感触をgetしつつ、直結していた秋インターンへの参加を、直前に辞退した。
私は布団の上で断りの連絡を入れた。
「前日までに履歴書を提出してください。」
これが悩みのタネであった。
1社ではない。何社も辞退した。
私は昔から何をやらせても鈍臭く、高校生まではどうにかギリッギリのギリッギリで社会に適応しているフリをしていたが、大学受験で崩壊、n浪を経歴に加え、not有名私立大学の文系学部に周回遅れで入学した。
まあ入ったからにはこっちのモンよ。
教職に資格課程に部活にアルバイト(単発)!どうにか「まとも」な大学生になれるように振る舞った。
成績も前期後期でgpaにして1.5の下落を見せた。
まあまあ、私は何だかんだ図太いのでギリギリ不登校になることはなく、無事に3年生まで進級してきた。
が!しかしだよ、しかしね、どう見ても「企業が欲しい人材」では無いんですわ。継続力ないし。
卒論担当の教授に「君このままだと卒論書けないよ」と言われた。度々ポンコツ具合を見せつけており、もう呆れられているのだ。
嘘もつけない。美徳的な意味での正直ではなく、嘘を誤魔化し続けるだけの認知的リソースの余りがない。
自己PRない。
あ〜〜〜〜
親が「見た目の自虐が女の美徳」とガチガチに洗脳してるタイプやろうから、いっぱい褒めるとか意味ないで
彼女、ホンマに醜いって自己認識な訳やないで、もしそうやったら彼氏の横を歩くの申し訳なくて付き合わんもん
自己肯定感を持たせたい?他人に対して自虐できる時点でバリバリにあるから安心しろ
そもそも自己肯定感は自己評価のことじゃないし、他人が持たせるものじゃない
自虐は「ふーん"俺は"そうは思わんけどなー(お前が思うんならそうなんだろうな)」で流せ、まともに取り合うな
自虐がウザイなら「"そんなことないよ"待ちウザいねん、ムダに感情労働させんなや、そもそも不細工やったら付き合うてへんわ」くらいハッキリ言うてみ
相手はブラック企業で働き続けてうつ病になった友人。現在は休職している。
彼は自分のコンディションや限界値を把握するのが壊滅的に苦手で、昔からとにかく無理をし続けてしまう。
身体の方が限界を迎えて、救急車で運ばれたりしてようやく行動をやめるくらいの、悪い意味で粘り強いやつなのだ。
本人はそれを誇りに思っているらしく、
「昔から痛みに強いんだよね笑」
「骨折れて肉見えてても気にしなきゃいいから病院行かなかったし」
「身体が尽きるまで動かなきゃ駄目じゃん笑」
などと何度も自慢げに語ってくる。
うつ病になってからも考えは変わっていないようで、明らかにキャパシティを超えた言動をしては数日間動けなくなったり、気分が激しく落ち込んで泣きながら俺に電話してきたりという日々が続いていた。
先日、いつもと同じように痛みに鈍い努力家自慢が始まったときに、俺はついに我慢できなくなってしまったのだ。
エゴなのは分かっているけれど、もう今後の人生で無理はしてほしくないし、大切に思っている友人のうつ病が悪化していくのは辛い。
今までもやんわりとは伝えていたものの全く聞き入れてもらえなかったため、強い言葉で言えば少しは変わるのではと思って下記のような発言をしてしまった。
『自分の状態を適切に把握できていないことを美徳のように語るな』
『本当に認識を改めないと無様に早死にするか、生き延びても人にずっと迷惑をかけるぞ』
だが、口に出してしまってから今までずっと後悔している。その日は「この話題に関して俺は嫌なことを言ってしまうから、もう触れないでおこう」と伝えて表面上は穏当に会話を終わったが、いつもは大量に届くLINEが送られてこない。
うつ病の人にキツい言葉遣いをするのが良くないのはもちろん知っている。また、痛みに強い発言は彼が自分を慰めるための自己暗示だったのかもしれず、他人が安易に否定して良いものではないはずだ。
とりあえず、今後また会話の機会があるのなら「心配なあまりに言いすぎてしまった」と謝罪したい。こちらから連絡すると相手の負担になってしまうと思うので、ひとまずは向こうからLINEが来るか、ばったり遭遇するのを待っている。
この詩は、人生の不安定さや葛藤、個人のアイデンティティを模索する苦しみをテーマにしています。また、現実と理想、社会的な期待と個人的な願望の間で揺れ動く様子が描かれています。以下、いくつかの重要なテーマについて解説します。
1. 空と涙
• 「空の青さが 涙の滲んだ跡なら」と始まる部分は、空の青さを涙の象徴として捉え、個人の苦しみや感情が広がっているように表現しています。空が涙のように広がることは、内なる悲しみや孤独を示唆しています。
• 「方々世界のプライドは 微かな日常すらも重いだろう」とあるように、世界の誇りやプライドが、日常のささやかな瞬間を重く感じさせているという認識です。これは、社会的な期待やプレッシャーが、個人の日常生活を圧迫していることを示しています。
• 「納得のできる生き方など 死に方さえも人それぞれならば」といった表現では、各自が異なる人生観を持っていることを認めつつ、それでも何が正しいのかを問いかけています。自分の選んだ道に対して確信が持てない感情や不安を表しています。
• 「プレッシャー抱えた年下は 愚直に幼さを包み隠してる」との記述は、若者が社会的なプレッシャーにさらされ、まだ未熟でありながらそれを隠そうとする姿を描いています。年齢に関わらず、誰もが不安を抱えながら、社会に適応しようともがいているという認識です。
5. 行き先の不確かさと解放
• 「納得に代わる行き先など 後押しさえも矛盾の塊で」といった部分は、どこに向かうべきか、どの道が正しいかさえもわからない中での混乱を示しています。矛盾した社会の現実に直面しながらも、「いっそ全て抜け空だと 伝えようぜ僕ら」と、すべてを解放し、空っぽになることで何かを見出そうとする姿勢が描かれています。
• 全体を通して、個人が自分の感情や理想と現実のギャップにどう向き合い、何を大切にすべきかを模索している様子が感じられます。特に「夜闇の安らぎを消して 朝を背に泣きながら」といった表現は、暗闇から逃れ、朝という新たな始まりに向かってもなお、涙を拭えない人々の苦悩を表しています。
総括
この詩は、現代の社会で生きることの複雑さ、プレッシャー、そして自己の存在意義を問いかける作品です。感情や悩みを隠すことなく、むしろそれを正面から受け入れながら、未来に向かって歩んでいく決意を描いています。詩全体にわたる「空」と「涙」という象徴は、広がりと同時に内面的な深さを示しており、人間のもろさと強さを同時に感じさせます。
「抜け空(ヌケガラ)」というタイトルと「抜け殻」をかけていることを踏まえると、詩の意味がより深く理解できます。以下、その観点から解釈を深めます。
1. 「抜け殻」の象徴
• 「抜け殻」は、何かがそこから抜け出し、もぬけの殻になった状態を意味します。この場合、自分自身の精神的・感情的な中身が抜けた状態、つまり、かつての自分や社会の期待に囚われていた状態から解放されたことを象徴していると考えられます。
• 「ヌケガラ」になることは一見すると虚無的であり、空っぽになることはネガティブに感じられるかもしれませんが、この歌詞ではむしろ、その空っぽさや虚無を新たな始まりや解放の象徴として肯定的に捉えているように思えます。
2. 「抜け空」=「空っぽの空」
• 「抜け空」という表現は、ただの「空っぽ」ではなく、空という無限の広がりや可能性を持つものを指しているようです。空というのは無限に広がっており、可能性や未来を象徴する一方で、何もない「空虚」をも意味します。
• この「空っぽの空」は、今までの自分や他人の期待から解放された状態を象徴していると考えられます。つまり、何もない「空」は、逆に言えば新しいものを受け入れる準備ができている状態であり、これまでの自分を脱ぎ捨てた「抜け殻」としての自分が、新たな可能性や未来を受け入れようとしているのです。
3. 殻を破る=自分の殻を脱ぐこと
• 歌詞の中で、「羽化不全の翅で藻搔く」や「蛹の衝動で溺れたい」といった表現があります。これは、殻を破る準備ができていない、あるいはその過程で苦しむ姿を描いていると解釈できます。蛹は蝶に成長するために殻を破りますが、もし「羽化不全」であればその過程がうまくいかず、もがき苦しむことになります。
• しかし、この「抜け殻」になった後は、もがきから解放され、羽ばたく準備が整った状態として捉えられます。つまり、自己の変化や成長、さらにはその過程での痛みや葛藤を経て、「抜け殻」として新しい自分を迎える準備が整っているのです。
• 「納得のできる生き方など 死に方さえも人それぞれならば」という歌詞は、人生や生き方に明確な答えがないことを示唆しています。つまり、自分が納得するかどうかは個人の問題であり、社会が押し付ける価値観や期待に応じる必要はないというメッセージです。
• 空っぽになることで、つまり「ヌケガラ」となることで、逆に自由を得て、自分だけの答えを探すことができるのです。「いっそ全て抜け空だと 伝えようぜ僕ら」というフレーズは、その空っぽさを受け入れ、自分を縛るものから解放されようという呼びかけと捉えることができます。
• 歌全体を通して「空っぽでいること」や「ヌケガラでいること」が単に無力感を示すものではなく、むしろ自己の解放や再生の象徴であることが感じられます。空っぽの状態だからこそ、新しい可能性が無限に広がっている。そこから、次のステップや新しい自分に向かうための余白が生まれます。
• また、「朝を背に泣きながら」という表現は、苦しみや痛みを抱えながらも新たな一歩を踏み出そうとする姿を描いており、ヌケガラとしての自分が新しい一歩を踏み出す瞬間を表現していると言えるでしょう。
総括
「抜け空(ヌケガラ)」という歌詞は、単に「空っぽ」や「虚無」を表現しているのではなく、抜け殻になることで新たな可能性や自由を手に入れるプロセスを描いています。殻を脱ぎ捨て、空っぽの状態になることは、自分自身や周囲の期待、社会的なプレッシャーから解放され、新たな道を模索するための準備段階です。
この「ヌケガラ」とは、以下のような象徴として捉えることができます。
• 「抜け殻」になることで、過去の自分や制約から解放され、次のステージへ進む準備が整う。これは、殻を破ることで成長し、新たな自分に生まれ変わる過程を示唆しています。
• 空っぽな状態は一見すると弱さや虚無に感じられるかもしれませんが、この詩ではむしろ、それが自由であり、無限の可能性を秘めた状態として描かれています。すべてを手放し、何も持たないことで、逆に新しいものを受け入れる余白ができるのです。
• 詩全体を通して、社会的な期待やプレッシャーから解放されることの重要性が強調されています。自分の「納得できる生き方」は他人に決められるものではなく、空っぽになって初めて自分自身で見つけ出すことができるというメッセージです。
• 「同じ空が広がってんのさ 胸に広がってんだ」というフレーズからも、空っぽであることが新しい視点を得るための出発点であり、同じ世界でも別の見方や解釈が可能になることを暗示しています。過去の枠組みを超えて、新しい未来を模索する自由がそこにあるのです。
結論:
「抜け空(ヌケガラ)」は、空っぽになることの価値や、それによって得られる自己の解放と新しい可能性の象徴です。殻を破り捨て、空っぽになることで、個人は新たな未来に向かう準備が整い、自由を手にすることができるというポジティブなメッセージが込められています。