はてなキーワード: 美徳とは
身だしなみ至上主義みたいなものは、障害者を排除したり、女性を排除したり、黒人を排除したり、デブやハゲやメガネを排除するのと、本質的に変わりがない。
俺はコンピュータのスペシャリストだが、PCやスマホがどういう原理で動いてるか語れないような危なっかしい低ITリテラシー民はスマホ使用禁止!って言ったらお前らは文句垂れるだろ。
それと同じように、自分がたまたま優れている部分を、他人に押し付けちゃいけない。
社会においては、どんな人にも門戸は開かれてないといけない。
どんな門戸を通ってきたにせよ、社会を上へ登っていく人間なら、自然と身につけるべきものは身につけていく。
だから気にしなくていいんだよ。
下の方にとどまるやつが身につけてないのは当たり前のこと。
かといって、クソ野郎だというわけではない。
大抵の人間はすべての美徳を兼ね備えているわけではなく、父もそうした不完全な人間の一人であり、父の場合は優しさが感じられない、というだけだ。
(くどいかもしれないが、「優しさが無い」とまで言う気は無く、「俺が優しさを感じた記憶は無い」というだけである。)
そんな父と2人で暮らす母の闘病生活が愉快なものではないだろう、というのは容易に想像がつく。
自分は母に優しくしたい、と思う。
母は母で、他人の優しさに応えるような生き方はしてこなかった。
子供である俺が毎年もっとも苦痛を感じる選択が、母へのプレゼントだ。
母の好みや家族のエピソードに沿ったもの、なんてことは考えない。
そんなものを考えて選んで罵倒されれば、俺の心へのダメージがリカバリ不可能な深刻さになるからだ。
流行や、世間一般の好み、利便性、ブランド、そういった客観的な価値を有するものを送る。
誰だって、たった一人の母親に好意で贈ったプレゼントを酷い扱いされるのは悲しいだろう?
それでも、毎年贈り続けてきた。
テスト対象は大小さまざま。OSの保守だったり、アプリだったり。レガシーだったり、モダンだったり。個人だったりチームだったり。GUIだったりCUIだったり。
GでもCでもUIはまた別
結論としては書かないほうがいいと思った。
そういうこともある
全然小さいというか書くためと変更のコストがクソデカなら何か間違ってる
結局、テスト対象も変わってしまうし、プロジェクト設定も変わるし、Jenkinsも変わるし、人間の頭の中も変えないといけない。
まあそれはないだろう
それはデバッグの一環のような
一番よくあるやつ
そこのバランス考えないと
バックエンドのビジネスロジックを担当するがっちり仕様が決まっていて勝手に変更されてはいけないものなんかをやる
悪いね
テストコードを書くと、テストしやすいクラスの実装をするようになる。それは美徳とされているが、実際には直感的でない長くて複雑なプログラムになっている。
例えばテストコードを書くためにDependency Injectionとか言って外から内部を変更できるようにすると
メンバ関数でやるべき処理が実際にはクラスの外にある、となる。最初は面白く感じたり達成感があるかもしれないが、しばらくして見返すと酷い状態だ。
DIはSOLIDに入ってるくらいで基本だし今時のフレームワークなら普通に使うよね
上にも書いたけどパーツがでかいのでは?って「直感的でない長くて複雑なプログラムになっている」とのことなのでやっぱりでかいんだろう
テストコードを書いたほうが早い時もあったけど、トータルで考えれば、テストコードを完全にやめたほうがシンプルなコードで早く完成する。
要件が固まらない、毎週変わるようなのとか、システムが絡むテストでコストが凄く高いもの、UIのマイナーな変更なんかは書かない方がいいけど
ネット上ではテストコードを書かないのは低レベルな開発者という風潮だ。
10年以上、テストコードを書く開発と書かない開発の両方を経験してきた。
■前提
・テスト対象は大小さまざま。OSの保守だったり、アプリだったり。レガシーだったり、モダンだったり。個人だったりチームだったり。GUIだったりCUIだったり。
結論としては書かないほうがいいと思った。
・テストを書くためのコストが小さいなんて妄想もいいところだ。クソデカである。
結局、テスト対象も変わってしまうし、プロジェクト設定も変わるし、Jenkinsも変わるし、人間の頭の中も変えないといけない。
・100人以上かかわる巨大プロジェクトでも「テストコードを書かなかったので破綻した」、とかはなかった。
・テストコードを書くと実装の見落としが見つかってありがたいことはあった。
・git pushするたびに毎回走っても全くの無意味だった。
・テスト対象が変わるとテストを書き直さないといけないのがサイアクだった。非効率化の極みだ。人生の無駄。
・その次にサイアクだったのは、テストコードの実行が失敗したときテストコードのバグであることが大半であったことだ。
・GUIソフトとテストコードは相性が悪いが、そもそも世の中のソフトウェア開発の大半はGUI開発である。
・テストコードを書くと、テストしやすいクラスの実装をするようになる。それは美徳とされているが、実際には直感的でない長くて複雑なプログラムになっている。
例えばテストコードを書くためにDependency Injectionとか言って外から内部を変更できるようにすると
メンバ関数でやるべき処理が実際にはクラスの外にある、となる。最初は面白く感じたり達成感があるかもしれないが、しばらくして見返すと酷い状態だ。
テストコードを書いたほうが早い時もあったけど、トータルで考えれば、テストコードを完全にやめたほうがシンプルなコードで早く完成する。
昔、ふかわりょうが当時のおバカ系ギャルタレント相手に「無知は罪です!」って大声で怒鳴っていた。
増田は別にそうとは限らないとは思うものの、彼の言いたいことはわかる。
彼は芸人だからという理由こそあれ、自分とは知識レベルがかけ離れた人間と話すことを強要されていたのだ、そりゃあ辛い。
相手により賢く居ようとする努力を求めたくなるのも無理からんだろう。
幸せであることを罪悪だと断じる者がいるとすれば、その者こそ真の悪ではないだろうか?
好奇心は猫を殺すという。好奇心旺盛な者は死するということで、これは単なる戒めに留まらず、様々な分野の専門家までもが好奇心は生存において不利であると述べている。
わかりやすいもので言えば、災害科学の分野で語られる「(専門家以外は)原因を探ろうとせずとにかく逃げろ」というものなんかがある。こと災害においては知ろうとする姿勢が危険を招くのだ。専門家ですら、きちんと対策が施せない場合には退避を優先するというのに、素人に出来ることなどたかが知れる。その場に立っていられるのは適正に準備を講じた専門家のみなのだ。
また馴染みの浅い分野で言えば、脳科学の見地からも、「情報中毒」なる新語が提唱され始めている。自分がよく知っていることをより深く知りたいという衝動に駆られ、情報化社会である現在はその衝動が容易に達成される。だが、そもそもその事柄の情報は限度がある。
結果、より深く知りたいという欲求が行き着く先は不必要な情報の収集へと向かい、やがて新しいことを学ぶ意欲や機会の喪失に向かう恐れがあるそうな。
つまりシーンを弁えることが肝要なのであり、なんでも知ればいい、知ろうとする姿勢がいいなどというのは、ひどい欺瞞であるのだ。
これはあくまで、好奇心のマイナス面を恣意的に抜き出したものであることには注意が必要だ。
だが私は敢えて問いたい、知ることは本当にプラスであるのか?と!
なぜ二時間前の私は、タイトルすらわからない好きな素人モノが「本当に素人なのか?」などと不要な疑問を抱き、あまつさえシチュエーションを検索し、タイトルを特定し、出演者の詳細までもを確認したのだろうか?
その場に立っていられるのは、適正な準備を講じたプロのみなのだ、わかっていた。わかっていたはずなのに、なぜ裏切られたと感じるのか。
果たしてその拾い物の動画が素人モノという情報以上に有益な情報は得られたか? 否、断じて否!! 素人ではなくプロであるなどと、素人モノにおいては不必要な情報以外の何物でもないのだ。
犯罪統計の暗数というのだけど、現実に起きた事件の数と警察に受理された被害届けの件数には乖離がある。
例えば性犯罪被害者は4%程度しか被害届を出さない、96%は泣き寝入りしていると推測されている。
統計上の被害数がカウントされ、その数字で社会政策や刑事政策が左右する
しかしなにより貴方が真に精神的に自立するには決着をつける必要がある
(「刑事告訴「と「被害届」は意図的に書き分けています、違いとその意味は勉強してください)
警察の謎の説得に負けないようにあらかじめ法的な論理武装、弁護士の補助も準備しなさい
刑事裁判、民事裁判、両方やりなさい、法廷で貴方の正当を法的に確定させなさい
頑張ってください
マルシル達がドラゴンステーキを食べている様子を見て俺は理解してしまった。
俺達の知っている近代的RPGの世界では、異世界のご馳走といえばドラゴンステーキだ。
A5ランク黒毛和牛みたいなものとしてドラゴンステーキが扱われているイメージを現代人は共有しているはずだろう。
だがダンジョン飯の世界、古典的WIZ世界においてはドラゴンは素材に放っても食べ物にはなっていない。
不思議だ。
古来より狩人という物は外敵を倒すために殺したとしても、その肉は食料として溜め込んでいたはずではないのか。
そうはいっても狼は食べられはいなかったが、これは誰かが狼を食べて不味かったという感想を述べた過去がまず存在している。
ドラゴンを食べたことがない理由が「不味いと聞いたことがある」からではなく「そもそも食べるという発想がなかった」というのはなかなかおもしろい。
つまり、あの世界においてダンジョンというものは独立した自然の生態系というよりも、一つの異界としての側面が強く、そこに住むものは口にするようなものではそもそもないと考えられていることがこの一件からも分かる。
たとえば宇宙飛行士が未知の惑星に不時着して、いきなりその星の食べ物を口に含まないのと同じように、安全性が確保されていない物にそもそも手を出さないという意識なのだろう。
宇宙飛行士が異星のものを口に含むのは、救援が来るまでの日数と積み込んだ食料のバランスを加味して、どうしてもそれを接種しなければいけないという前提条件が揃ったことに確信を持ってからであるということだ。
WIZというゲームの世界観自体が「油断大敵。基本的にチキれ。無茶するなら2軍にやらせろ。少なくとも救援部隊と脱出経路が固まってから動け」で作られていることから、ダンジョン飯の世界観もそのように「臆病こそが冒険者の美徳。蛮勇もまた美徳ではあるが命は保証されない」となっているのは想像に固くない。
ドラゴンを倒せるほどの冒険者であればこそ、未知の物を口に含むなんてリスクは侵さないし、素材として持って換えるにしてもまずは換金レートが固まっている鱗からというわけだ。
そうして鱗を運んでいるうちに肉は腐るわけだが、ドラゴンが住むような下層で腹を壊したら危なっかしくて仕方がないので、誰もその場で調理なんてしないと。
なるほど。
夢がないな。
1995年に起きた阪神大震災と、2011年に起きた東日本大震災の二つの地震がある。
神戸の街がしっかり再建されたのに対して、東北沿岸の再建が道半ばになっているのはなぜだろうか。
阪神大震災の場合は、神戸や大阪の人達が中央政府に対して「神戸を早く復興せえよ!動きが遅い!」と声を上げ続けた。
近畿地方の財界が、東京政府に対して大きな政治力を持っていたことも大きいだろう。
震災1年後の神戸・阪神地方を行ってみても、ガレキは全部なくなって綺麗になっていた。
しかし東北地方の人達は、なんというか関西人と比べて自己主張しないというか、それが美徳だと思っているフシがある。
自分たちの主張を積極的に言わないと、簡単に無視されてしまうといういい教訓である。
「関西人は東京へ移住しても関西弁をしゃべっている」と批判されるが、それくらいやらないと自分たちの存在感を示せないということではないか。