はてなキーワード: 自己暗示とは
別にblueboyを批判するわけではないが、やはりよくないいいようであったように思う。
『自分のせいでこうなったと思う』ならば『身が引き締まる』
『身が引き締まっていない』ならば『自分のせいでこうなったと思っていない』
になる。
文脈からblueboyは『身が引き締まっていないからマックで創作活動してる』と感じているのが明らかなので、そのブコメは、
「自分が原因だと思ってないの?」
という意味になる。
子供の発達障害などについて、「自分が原因かもしれない」と思ってる人に「自分が原因だと思ってないの?」という問いかけはよくない。
「自分のせいでこうなったと思えば、夫の趣味に対しても寛容になれるだろ」
と言えてしまう。
また、育児・仕事・趣味の、いわゆるワークライフバランスの問題について『本人の心の持ち方の話』とするのは、いかにも古典的な精神論だ。
「仕事があるだけでもありがたいと思えば、残業できる」→「残業できないのは、仕事があることをありがたく思っていないのか?」
もちろん、心の持ちようによって解決する問題もあるが、それは当人が自己暗示として唱えるものであると思う。
第三者が「こういう自己暗示をしなよ」というのは、マインドコントロールじみていて好きではない。
ある日、さやかはいつものようにSNSをスクロールしていた。ポジティブな投稿には「いいね」をし、ネガティブなものにはすぐにブロックをしていた。しかし、今日は彼女の目に異変があった。彼女がブロックしたはずのアカウントから投稿が流れてきたのだ。
さやかは驚いたが、その投稿を見て驚きは更に深まった。なんと、その投稿が現実に起きていたのだ。例えば、彼女がブロックした元カレがSNSで結婚を報告していた。彼女はその時思った。「私がブロックしても、現実には消えなかったのね」と。
そこで、彼女は試しに、「私は神様」と投稿した。すると、その瞬間、彼女が神様であることを示すような出来事が起こった。突然、彼女が神様であると信じる人々から多くのリプライが来たのだ。
しかし、さやかは心の中で複雑な思いを抱いていた。彼女が神様であることは嘘であり、それを信じる人々は愚かであると思っていた。それでも、彼女はこの状況を利用して、偶像崇拝者たちを騙すことに決めたのだった。
「ねえさやか、何見てるの?」
「ああ、いやなんでもないよ。ちょっとSNSをやってるだけ。」
このとき、さやかに悪魔が囁いた。(そうだ、ちょうどいいから、このあかねを実験台にして、こいつが蛇に騙される偶像崇拝者なのか試してやれ)
「え?なに?」
「あかねはキリスト教徒だよね?様々な神々が人間と戦うアニメがあったら、どっちを応援する?」
この問いの答えは、さやかが思うに、人間である。というのもここで出てくる神々というのは、おそらく神の名を騙る偶像であり、たとえキリストであろうと偶像に代わりはない。神の計画をあかねもさやかも知るはずがないし、それどころか、神が唯一であり善であるという以外はわからないのが普通だからだ。
これでさやかは明確にわかった。蛇に制されたあかねのような偶像崇拝者たちというのは、つまりこういうことなのだ。蛇は時として薬であるが、それは進化によって悪魔的鳴き声を手に入れた野獣のごときことである。
「でも、神々という偶像を応援すると言ったじゃない。神は一つであり、偶像になることはないと思うけど。」
「そうだけど、私はただ楽しむために言っただけだよ。偶像崇拝なんて信じていないし。」
あかねはさやかの疑いを否定したが、さやかはまだ納得していなかった。
「でも、あかね、私たちが見ているものは現実とは違うかもしれないんだよ。私たちは情報をコントロールしているかもしれないし、私自身が神だと思っているんだ。」
「なんてこった。そんなことが本当に起こりうるの?」
あかねは驚いていた。さやかの言葉は現実にはありえないことを示唆していた。
「でも、それは、ただの妄想じゃない?そんなことができたら、世界はどうなるの?」
あかねは疑問を持ちながらも、興味深そうに聞いていた。
「あなただけに言うわ。」とさやかは話し始める。「私は蛇よ。私自身は本当は自分を神だなどと思ってないの。神は唯一であり、善である、という以外のことは誰もわからないからね。でも、私がインフルエンサーだってあなたは知ってるでしょう?推しだのなんだの言ってあいつらは崇拝してるのよ私を。そういう連中は地の論理で進化することしかできない獣なので、偶像崇拝の獣は獣らしく蛇に操られる運命であると考えるようになったわ」
あかねは驚きを隠せなかった。「さやか、それはどういうこと?蛇に操られる運命って?」
「私は、自分がコントロールできるものだけを受け入れ、それ以外をブロックすることで、自分の思考が現実に影響すると信じているの。そして、その思考をコントロールするのが蛇なの。蛇については聖書にも出てくるし、古代から様々な文化で神聖視されてきた生き物よ。」
「でも、それって、ただの自己暗示じゃないの?」
「違うわ。私たちは思考によって現実を創造することができるの。引き寄せの法則って聞いたことあるでしょう?私たちの思考が宇宙にエネルギーとして放たれ、それが現実に反映されるっていう考え方よ。だから、私は自分の思考をコントロールすることで、現実をコントロールすることができるの。」
あかねは、さやかの言葉に深く考え込んだ。自分もさやかと同じように、自分の信じることが現実に影響を与えると信じていた。でも、それって本当に正しいことなのだろうか?
あかねは言う。「引き寄せの法則...それこそが獣の論理だと思うのよ。」
「えっ、どういうこと?」とさやかは訊く。
「私たちはただの人間で、コントロールできるものとできないものがある。それが現実だと思う。でも、あなたは自分が神であると信じて、ポジティブなものをイイネすることで全てをコントロールできると信じている。それって、自己中心的であり、自分自身を正当化するための言い訳になっているわけじゃない?」
あかねの言葉に、さやかは驚いた。自分が偶像崇拝者であることを認め、改めなければいけないのかもしれないと思い始めた。
「でも、でも私は...」とさやかは口ごもる。
「そんなに自分を責めなくてもいいわよ。人間は完璧じゃない。でも、自分自身を騙してまで、偽りの世界に生きる必要はないと思うの。現実を受け止めて、前に進むことが大切よ」とあかねは優しく言葉を続けた。
さやかはあかねの言葉に、少しずつ心を開いていった。自分が偶像崇拝者であることを認めるのはつらいけれど、あかねが言うように、現実を受け止めることが大切だと思った。
悪い癖があるんだ。
先日も上司から人格否定されるような言葉浴びせられて、上司と何も言い返せなくて謝りすらした惨めな自分を呪いながら駅のホームを歩いていた。
そこにDQNが対向してきた。
このままではぶつかってしまう。
その時自分どうしたと思う?
そのままぶつかってしまったんだよ。
避けようとしなかった。
やっと気がついた。
よく老若男女から烈火の如く怒られるんだけど、自分から憎まれ口を叩いてた。
しかし、気がついたという感覚はとても新鮮で、同時に自己暗示をかけていたのかと心底恐怖した。
というより出てきたら振り払ってる段階だけどな。
でもあの日からほんの些細な良い事も気づけるようになったと思う。
今まであいさつも感謝もされない人間だと思ってたけど、ちゃんとそれしてくれる人が何人もいるってわかった。
おそらくだが本人の世界では「キモいは一般的な言葉」担ってるんだと思う。
なぜなら人生の多くの場面で自分が投げかけられてきた言葉だから。
もしもそれが「極めて高レベルの侮辱」なのだとしたら、そのキモイ人にとっての人生が「あらゆる場面で高レベルの侮辱をかけられヘラヘラ笑っていた人生」であることになってしまうから。
だから彼らは「キモいぐらい大したことがないよね」と自分に言い聞かせるためにも積極的にキモいを使いがちになる。
だけどそれって悪循環でしか無くて、自分がキモいのにしょっちゅうキモいを使ってたら他人も「じゃあもうコイツにキモいっていうの我慢するのやめよ」とキモいのハードルが下がることになる。
ソレに対して周囲の人が「キモいって言われすぎだよ。事実だとしても」と助けてくれることもなく、「他人にキモい連呼してるんだから自分が言われても仕方ないよねあの人は」になってしまう。
本当にメリットがない。
「キモい」を自分が口にしないようにすれば、自分と周囲の関係性の中で「キモいを口にする奴はカス」「キモいと言われてる人が可愛そう」という空気が産まれていく。
その世界では実際にキモい人でもキモいと言われにくくなるし、キモいと言われたときも「流石に言いすぎでしょ」と味方が増えやすくなる。
だけど実際に、キモい人は「キモい」が大したことでないという自己暗示をかけるのに一杯一杯になりつい気軽にキモいを言ってしまう。
過去の罪を認められないセクハラオヤジが必死に「これぐらいセクハラじゃないよね」とセクハラを余計に繰り返して最後には捕まるかのように。
バイアスに踊らされるな。
キモいを言われがちな側が「キモい」を使うのはメリットがないから止めた方がいい。
「キモいとか最低の人間が使う言葉だよね」を周りの人間の口から言わせるようになんとか誘導できないかを工夫しろ。
思いつかないなら自分で言え。
小中学校の教室ではそれをやると自己弁護に必死な自浄作用のないキモい人になるが、社会人になればただ事実を述べているだけで終わる。
キモい人は頼むから「キモい」を使わないでくれ、周囲が守ってやることが出来なくなるから。
キモいのに必死に生きてるってのは凄いことだと思うので、出来れば助けてやりたいのに、そのお前が「キモい」をばら撒く側になってどうする。
落ち着け。
お前にだって「自分と他者の対人関係におけるルール」をある程度調整できる権利があるんだ。
何か文化らしいことをする日なので増田を書くだけでも文化的な暮らしができるから、
今日も書いた方がいいわね。
あーでもこう言う暇なって
今じゃないけど比較的なんか自分のことができる時間は事務所の経理ぱぱぱっと確認して片付けちゃいたいなぁと思うんだけど、
横井庄一さんばりに重い腰が上がったらすぐになんか気分回るんだけど、
なかなかそこまで辿り着くまでが大変なのよね。
あー
何ヶ月も開いてない帳簿を見る開けるのは嫌だわ。
締め切りにならないと動き出せないのよねってお尻にむち打って自分自身を鼓舞して鼓舞して鼓舞して鼓舞しまくりまくりまくりすてぃーよ。
締め切りって本当の締め切りってあるじゃない。
まだもうちょっとある!!!っ!って自分で見破って理解して本当の締め切りまでまだ間があるって思っちゃうじゃない。
ハロウィーンのコスプレで傷だらけのローラを見かけないのと同じ理屈よね。
あの記事締め切りを本当の締めきりだと思わせる自己暗示力が私には一番足りない能力なのかも知れないわ。
テクノロジーは進化してネッツワークでいつでもどこでも作業が出来る!って謳っていても
人間のやる気が無ければ元も子もないわよね。
まあ
うふふ。
魚焼くのは面倒だけど、
これも文化かしら?
なににしたって文化なのよ。
早く量消化しないと食べきれないので、
買ったら意外と高いのねってトマトばりにそう思うわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
↑の増田。
追記↓
文章中で結構疑問文あるけど、それらはお互い面倒くさいだろうから全く答える必要なし。なんなら返信自体くれなくていい。それよりゆっくり考えて。善人を騙るのであれば全部読んで端的に反論して俺を納得させろ。
個人的に、善人って名乗る奴は荒らしとか誹謗中傷する奴より苛つくんで、つい噛みついた。悪かった。
俺以外の誰かが漫画とかで正義感養うこと自体は否定しない。ただ「完全に理解した」で思考停止するのはバカのやることなんで、気をつけて。
追記↑
ちゃんと律儀に返すのは誰にでもできることじゃない。
さんざん小馬鹿にしてくる俺のことを本心でどう思ってるかはともかく、そこは元増田の美徳だと思うわ。
あえて断言するけど、元増田は善人ではない。
これから結構キツいこと言うけど、善人でありたいと願うなら、俺がこれから偉そうに言うことを肝に銘じとけ。
ちなみにかなり長いから、あんま傷つきたくないなら最後のまとめだけ読んで。
1つ目に関してはまあ善行でいい。
3つ目は正直、俺からすると「いただきます」「ごちそうさま」並に当たり前で日常の行為だ。自ら善行と宣言するにはいちいち覚えてられないほど小さい。
追記↓
感謝って何か分かるか?
感謝ってのは、相手が先に何かしてくれた結果、それを得難いものだと思ったから出てくる気持ちなんだよ。
つまり、「相手が先に何かしてくれた」の時点で相手にとってはマイナスで、感謝の言葉を伝えたところでマイナスが精々プラマイゼロにはなっても、善行と呼べるほどプラスになることはない。
この場合善行と呼べるのは元増田の行為じゃない。先に施してくれた相手の行為だ。
そこに気づいてない時点で考えが浅い。
追記↑
重要な情報が2つ抜けてる。「誰に譲ったか」と「席を譲るまで元増田がどのように席を確保していたか」だ。
情報を補足して、たとえば「電車で席に座っていた元増田は、目の前にいた高齢者を見て席を譲った」だとする。
このような場合だと、やっぱり自ら善行と宣言するには弱過ぎる。
別に高齢者じゃなくて妊婦でも子連れでも障がいのある人でもそうだけど、大抵の人は一、二回遠慮するもんだ。そういうやり取りによるストレスが、座れたことによる安心感を上回る場合もある。
さらに、目の前に席を譲る対象がいなかった場合、元増田は「誰に席を譲ろうか」と考えて車内を見回すだろう。その選択はどのようにしている?自分の中で優先順位があるんじゃねえの?見た目じゃ分からない辛さを抱えてる人だっているだろう。ホントにそれは善行なのか?
俺からしたら、席を譲るというのは独善的な行為だ。譲らないよりはよっぽどマシだけど、「不良が子猫を拾う」みたいなもんで自ら宣言するほどのものじゃない。
それに比べたら、「電車ん中?譲ったりすんの面倒だからずっと立ってる」って奴の方がよっぽどまともだ。
元増田自身が普段は座ってないと辛いタイプの人間だったらすまんけど。
てか、それくらいのことしか挙げられないの?本当に小さすぎる。それくらいならいくらなんでも俺だってするぞ。
駅構内で明らかに困ってる男性外国人に声かけて乗るべき電車教えたらめっちゃ感謝されて無理矢理駅構内の回らない寿司奢られたとか普通にある。いやこれは俺的にすげえ対価貰ってるし、善行じゃねえけど。
追記↓
ちなみに上記以外にも道案内したことが何度かあるけど、俺は八方美人しがちで「人助けしてる俺カコイイ」って欲がある。だから俺の道案内は善意じゃないし善行でもない。自慰行為にたまたま近くにいた他人を巻き込んだだけ。
追記↑
「良い結果」ってのはその他人にとっての良い結果なの?それとも元増田にとっての良い結果なの?
元増田の善意による「良い結果」が人を殺したら、元増田は事後的にその善意についてどう考えるの?反省するの、しないの?
「良い結果」と、「良い結果が人を殺した」って事実とをどう(追記:「どう」っていうのは、「人を殺したり、他人に迷惑をかけた」以外にもどこかに影響が出てる可能性があるだろ、その影響範囲の内外を線引きする覚悟は出来てんの?みたいな意味)天秤にかけて、誰が(追記:どちらがより悪いかを)判断するの?
考えが浅すぎる。善人を名乗る決意が安っぽすぎる。むしろ一周回って悪人に見える。鱗滝左近次だって色々言ってるだろうが。漫画からなんも学んでないじゃん。鬼滅読んでないなら知らんけど。
学の無さや配慮の無さ、怠惰性がたたって良い結果にならない事があるのは自分でも認めるところですが、基本的に他人には善意を持って接したいと思っていますし、自分に関わった人間には良い気持ちでいてほしいと心から思っています。
と言ったな。
これを俺は、元増田が「俺は基本的に善人である」と個人的に思っているのだなと捉えていた。
で、俺の質問「元増田の思う『善人』の定義は?」に対する回答はこうだ。
上記のような想い(善意)を持っている人間は「善人」かなと思います。
おいおい。
それ最初(追記:元記事の時点)に言わないといけないやつだろ。
元増田は以下のどっちなんだよ。
どちらにしろそれ以外にしろ、善人でありたいなら「善人」って言葉に対するそのクソ甘い認識は改めろ。
「自分は善人である」、そう思うのは自由だ。自己暗示かもしれないし。
だけどそれを人前で言った瞬間に、その言葉は元増田自身の定義「二分されるものでなくその時の状態を表す」をもって矛盾か、嘘か、傲慢になる。
その矛盾や嘘や傲慢は、自覚のありなしに関わらず、少なくとも俺にとっては悪意以外の何物でもない。
かろうじて元増田にとって悪意ではなくても、その矛盾や嘘や傲慢は、善人であろうとすればするだけ元増田自身を苦しめるだろうが。
その定義に沿うなら、せめて「俺は常日頃からできるだけ善人の状態を維持したいと思ってます」と言え。
明文化するのは難しいですが「社会で生きていく中で他人とのトラブルを避けることができるような考え方、マインドセット」という感じですね。
でもそれ(追記:元増田の定義)、元記事の「善意を良しとする考え方(正しい正義感)」と何か関係あるんか?
要は事なかれ主義ってことだろ?そうとしか読めねえよ。(追記:元増田の言う)善意だとか正義感とかと全く関係ない。
長い追記↓
いやも〜、この言葉がまじで意味分かんなすぎて、俺、あんま考えずに強い言葉で断じちゃったよ。
お互いの認識に齟齬があるかもしれないから、修正するために補足する。修正できるか分からんけど。ややこしいし。
まず、「善意はその主観的な〜」の「その」ってのがどれを指してるのかすっげえ分かりにくい。
指示語(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/指示語)の多用は読者に要らぬ誤解を招きやすいから気をつけた方がいいよ。俺も気をつけるわ。
で、今んなってよ〜く読むと、なんとな〜く「その」は「誰か」のことで、「その主観的なハッピーエンド」は「誰かの視点で納得のいく、モヤモヤとしたものが残らない結末」のことなんかな〜ということがかろうじて分かる。
すなわち「善意はその主観的なハッピーエンドの押し付け」を読み替えると、「善意とは、『対象自身が納得でき、かつモヤモヤとしたものが残らない結末』を、同対象に対して押し付けることである」ってことになる。
いやいやいや、分かりづれえって。
俺はさあ、この記事を書いた当時、「え、意味分かんね」ってなった後ちょっと考えて、「その」は直前の「善意」のことなんかなと思ったんだよ。
そうすると、「善意はその主観的なハッピーエンドの押し付け」って言葉は、「善意とは『元増田が主観的に考えたハッピーエンド』を『誰か』に対して押し付けることである」って読める。
違うんだな。やっと分かった。あ〜疲れた。
以上の追記と、元増田が思うハッピーエンドの定義を総合し読み直して、ついでにちょっと言葉遣いもアップデートして俺の主張をあらためると、以下のようになる。
ハッピーエンドを押し付けるとき、対象が善人の状態か悪人の状態かは気にしねえの?「善人悪人は二分されるものでなくその時の状態」なんだろ?
押し付けるときに善人か悪人かで結末が違ってくるかもしれないし、同じ結末でも善人か悪人かで納得したりしなかったりするんじゃねえの?
元増田は対象に、ハッピーエンドを押し付けることの合意を事前に取るの?取らないの?
合意を取るのであれば、ハッピーエンドを押し付けるのは元増田であるって情報は対象に知らせるの?知られないようにするの?
合意を取らないのであれば、どうやって対象が求めるハッピーエンドを導き出すの?
ていうかそもそも「結末」ってなに?どの時期・どの場所・どの目標にゴールポストを置くの?置くところは誰がどういう基準で決めるの?
たとえば、一旦元増田の善意でなんらかの形で結末の位置が決まってハッピーエンドを迎えた善人が、後の人生でバッドエンドを迎えたらどうすんの?心を痛めるの?反省するの?あるいはバッドエンドを迎えないようにその善人の一生をずっと見守るの?それともハッピーエンドの後については関知しないの?
もうね、いくらでも出てくる。正直ツッコミどころが多すぎてキリがない。
「あっ、元増田はハッピーエンドが好きなんだね〜良かったね〜」ってことしか分からない。
なんで俺がわざわざネチネチこんなにツッコんでるか。
ツッコミの回答がどうあれ、元増田の善人を標榜した上での態度は無責任なんだよ。
対象が考えるハッピーエンドが「人類滅亡」とか「不老不死」とか「異世界転生」とか「世界平和」とかだったらどうすんの?
一応元の主張も残しておく。
追記↑
誰かって誰?特定の第三者?ランダムに選んだ第三者?元増田?その人自身?それとも不特定多数の人?
モヤモヤとしたものが残らなければ良いんだったら、バッドエンドだってそうなり得るだろうが。その「誰か」が具体的に誰を指すかは知らんけど、いずれにせよ元増田の定義により、「善人の状態」とは限らないんだから。
主観的なハッピーエンドの押し付けは、それはもう全くもって善意じゃねえ。
全体的に考えが浅い。徹頭徹尾、自己中心的で曖昧模糊で矛盾が多すぎる。
ただただ黙々と善人で「あろうとして」、何かに尽くした元増田の言動を、元増田の意志とは関係なしに「たまたま」見た「誰か」が判断するんだよ。
だから「誰かにとっての善人が、他の誰かにとっての悪人」ってことが起こる。
善人ってのは、自分で名乗るもんじゃねえんだよ。んなもん、言った瞬間に、元増田の想定しない「誰か」にとっての嘘になる。想定してる「誰か」だって幻滅するかもしれない。「森羅万象にとっての善人」なんてあり得ねえんだから。どっかにいるんなら具体例を挙げてみろ。
誰かにとって嘘と判断されることを受容できてなお善人を自ら名乗るってんなら、元増田はもはや善人じゃない。いつでもどこにでもいくらでもゴキブリみてえに湧いてきやがる、クソったれな偽善者だ。
んでもって善意とは何かと考え続けろ。
これは漫画百万冊読んだくらいじゃ到底解決できない。ひたすら長くて、複雑で困難で苦しくて、だけど唯一真っ当で、一生つきまとう課題だ。