はてなキーワード: 作画崩壊とは
このまとめ https://togetter.com/li/2223212 の反証みたいな内容です。まとめが気になる方はすっごい長い上見ずらいのでコメント欄をざっくり見てからこれをお読みください。
まず、結論から言ってしまえばシステム的にも内容的にもタテスクウェブトゥーンは日本の漫画サイトに太刀打ちできないし、内容もなろう以上のテンプレートの嵐なので薄いです。もちろん面白いのもあるけどね。
大手であるピッコマですら一日に一回システムにブチギレるくらいにはUIに不便なポイントがあります。漫画の画面すぐに閉じさせろ、頼むからUI出すのに必要なタップがにぶちんなのなんとかしろ、チャージ通知はお気に入り作品だけにしてくれ。
あと、そこそこ大きな問題としてはコミックの刊行スピードがなめくじのように遅いところが多いです。
完結して1~2年たってるのに電子書籍の刊行が凄まじくスロウリィで人気作にも関わらず中盤までしか電子書籍になってないものがあったりするくらいです。早く出せ。
作品の内容的にも本国の内容規制の関係もあると思いますがテンプレの嵐が凄まじく、具体例をあげると魔塔主、回帰、神仙、ソードマスター、オーラ、復讐、離縁、虐待描写、俺だけ最強、読んでいた本あるいはゲームの世界へ転生……このあたりの内容が小説家になろうのテンプレ小説以上に設定にひねりもなくストレートに出てきます。
なので、「これ、前にも読んだな」がわりと頻発します。ここのソードマスターとここのソードマスター、出版社も原作者も違うのに設定コピペ並みに一緒やんけ!がよくあります。
韓国出身のキャラをローカライズ先の国の出身にした結果どうしようもない齟齬が発生したり、舞台をローカライズ先に変更した結果どう考えても違う文化でしょと言った雑なローカライズの結果作品が崩壊しているケースは多々あります。
その他に凄まじく安定しない見ていて不安になるレベルの作画崩壊は日常茶飯事ですし、3D素材がなんかおかしなことになっているものありますし、色塗りがなんか変というのもよくあります。ちなみにこれは国産の特にフルカラーのタテスクウェブトゥーンでもよく見られる現象です。
総じて粗雑乱造が多く、作品の購入や閲覧に問題を抱えた中韓タテスクウェブトゥーンは発展途上にあると思われます。
じゃあ、ピッコマとLINEコミックの売上ってどういうことの?と言いますと電子書籍の巨人であるKindleがアプリでの決済が出来ず実質締め出しを食らっているからです。
それに加え、双方ウェブトゥーン以外にも一般的な漫画雑誌やコミックス、小説なども販売しており、お手軽さも相まってかなりのシェアを誇っていると思われます。
ただ、課金UIがちょっとお粗末なのでKindleがアプリ決済の締め出しから開放され、本格参入したら厳しいかもしれません。
タテスクウェブトゥーンの宿命の一つとして、スマートフォンと運命共同体であることを決して忘れてはいけません。
小さなスマホの縦画面で親指を縦に動かすだけで読める娯楽というのが大半の読者層の考えでしょう。自分もそうです。
しかし、タブレットの軽量化による複数台持ちやAR/MR技術の発展はたやすくそういった娯楽を過去の物にしていくでしょう。
ページを横に捲っていく漫画は人類が滅ぶまでまず変化することのない書式という文化に沿って100年以上に渡って成長してきたもので、同じ書式に縛られたパソコンと合わさり、ウェブ漫画という文化が生まれ、そこからスマートフォンという文化が合流し、タテスクウェブトゥーンは生まれました。
生まれて10年少々のこれから変わりゆくだろうスマートフォン文化に根ざしたタテスクウェブトゥーンは正直に言って文化としての基盤が軟弱で、スマートフォンに非常に寄りかかった存在です。
かつてスマートフォンがフューチャーフォンを追い払った時のようにいつかスマートフォンが追い払われる日も来るでしょう。
そうなった際に上手く移行出来るようにするというのがタテスクウェブトゥーンを出版している会社や、アプリ運営会社の宿命であるかもしれません。
該当の記事内ではジャンププラスやマガジンポケット、マンガワンの売上が取り上げられていましたが彼らの主戦場はピッコマやLINEコミックとは違い、国内一本に熱心な海外ファンが少しと言った所です。特にジャンプは海外向けの別のサービスも展開しているので国内で見える売上と海外での見えない売上の合計は全く違う数字になっているでしょう。私怨にじみ出てるけど職場でなんか喧嘩別れでもしたの?
質も国産漫画として見ても問題なく、コミックの刊行ペースは掲載ペースに対し平均的ですし、物理書籍で出る単行本も非常に多いです。
先程は触れませんでしたが、ウェブ漫画全般においてサービス終了や出版社の廃業は作品が失われる可能性が非常に高く、そういった面で大手出版社が物理書籍を出してくれているのはコレクション的にも作品の保管的にも非常にありがたいです。
更には海外で翻訳され、物理書籍で刊行されているものもたくさんあります。
何が言いたいかと言うとアプリケーションでのセールスランキングだけでこれらの国産漫画アプリの売上を語ることは一切できないということです。
このままでは取り残されるのは明らかにタテスクウェブトゥーンの方でしょう。
記事のもととなるポストをした人物はピッコマやLINEコミックに漫画の出稿行っている会社の運営で、拡散するようにポストしたのはその会社が出稿している漫画の著者です。
更に、出稿されている漫画も実際に拝読しましたが、散々中韓タテスクウェブトゥーンで見たテンプレをなぞっているものばかりで、元のポストからして公平性を欠くものとなっています。
運営している会社のサイトにコミックの電子売上のランキングが掲載されていますが、何年何月のものであるか掲載されておらず、信頼性の低い情報かつ、ランキングを重く見ていることがわかります。
調べれば書いた方の履歴および言動はいくらでも出てくると思いますが、彼の発言はかなり自身の美化に偏っており、サンデーの大量打ち切り事件や、非常に大きな問題となった金色のガッシュ!!の原稿紛失事件の裁判時に編集長であった人物であると自ら語っています。
このあたりに関してはかつての古巣であるガンガン編集部がわりとアレだったことも影響しているとは思いますが、ほぼ同じことを繰り返しかけているあたり、「売れるためなら漫画家に負担をかけてもいいし、管理はずさんでもいい」と言う思考が見え、「ああ、だからあの作品打ち切ったし、粗雑乱造が良しとされるあの界隈を支持するんだな」と思いました。
なのであのポストに関してきちんとした数字やデータに照らし合わせれば多数の矛盾点と自画自賛が浮かび上がると思われます。筆者は面倒になったし、間違いだらけだよという主張は終わったのでこれ以上深掘りはしません。
ピッコマやLINEコミック、comicoでは漫画家の億万長者はほとんど増えません。
結局メディアミックスが物を言います。なのでちゃんとした出版社で書籍出すのが一番安定します。
近年Netflixでウェブ漫画のアニメ・ドラマ化が続いていますが、ああいったものは作品のファンが企画書を出しており、全て非常にクオリティが高いものとなっています。
タテスクウェブトゥーンの中にも映像化したものがありますが、そういった作品はかなりの上澄みの中でも更に上澄みという作品ばかりで、その殆どが会社のチーム制での制作なので漫画家本人に入る金額はそこまでありません。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
「洗濯機の調子が悪くなり始めたので、試しに洗濯板を使ってみた→イメージしてた使い方と全然違って驚いた」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2188096
要するに洗濯板に擦り付けるのではなくて、波板の上で布同士を擦り合わせ揉み洗いするのが正しいという主張だ。
それに対して「ゴシゴシするものだと勘違いしてました」とのコメントが並ぶ。
いやいや、擦り付けで正しいのではないか?
というのも、昭和の2槽式洗濯機には小さい洗濯板が付いていたものがあったからだ。
脱水槽の蓋が閉まっててチラとしか見えないのが残念だが、これを見て欲しい。
https://www.kajitaku.com/column/dry-cleaning/3331
洗濯槽と脱水槽の間にギザギザが見えるだろう。これは洗濯板で、がんこ汚れをここでゴシゴシするためのものだ。ここで揉み洗いというのはナンセンスという事が判るかと思う。
これは上から下まで全面に凹凸が入っているが、もっと多かったのは洗濯槽右下の隅切り部分に斜めにチョットだけ凸凹が入っている形式だ。靴下とか襟とかを擦り洗いするのに適していた。
厨房などでは未だに2槽式洗濯機の方が人気がある。どのみちそばにずっと人がいるから移し替えも気にならないし洗濯水を使いまわせて融通も利く。更に水場においても壊れにくい。
更に昭和の日本製家電というのは耐久性が今から見ると異常でオーバークオリティなほどで、水場に置いて家庭の使用頻度の10倍くらい酷使してるのに30年以上持つというタフさである。
折れたダイヤルが平成デザインのものに交換されていたりする。これは平成洗濯機が先に壊れて昭和機の部品取りにされたという事を意味する。
だから厨房や事業所などでは洗濯板が付いた洗濯機が平成中期でも残っていた。そしてそれらの洗濯板部分は摩耗して穴も開いていた。これはこすり洗いされまくったという事だ。
因みに昭和40年代までの洗濯機は1槽式+ローラー付きだが、これにも洗濯板が付いているものがあった。
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=61877998
これも、この上で揉み洗いするという動機はなくて、ここでゴシゴシとこすり洗いする為のものというのが判るかと思う。
こういう補助的洗濯板が消えたのは洗剤の進化による。固形石鹸から合成石鹸へ、そして洗濯機のメインストリームが2槽式→縦型全自動→ドラム式と進化してそれに合わせた洗剤が開発されて「いちいち部分的に手洗いする」という必要がなくなったのだ。
今の時代にこういう事をわざわざやるのが金になるのがYoutubeのDIY界隈で、DIYの裾野が広大なのが英語圏なので、こういう時は英語で検索するのがいい。
https://www.youtube.com/shorts/W1KKCwEUVJc
これなども擦り付け洗いしているだろう。ほかにも沢山動画があるので「how to use washboard」で検索してみるといいと思う。だれも揉み洗いとかはしていない。
ただ、後述するが一枚づつこすり洗いしてるのは下手だと思う。
米をとぐときに水はどれぐらい入れるだろうか?米が浸るヒタヒタぐらいでといで、すすぎの時は水を沢山使うだろう?
これはヒタヒタぐらいでとぐのが一番効率がいいからだ。水が多いと米が動いてしまってとぎにくい。水が少ないと米表面がこすり合って良くとげるのである。
容器の中を洗浄するのに小石などを使う場合も然りで水は少ない方が洗浄力が上がる。
洗濯板の上で揉むというのも同じで、水の中で動くよりも布同士がこすり合い、同時に潤滑材として機能して滑りやすい、水ヒタヒタの状態が一番洗浄力が強い。このヒタヒタを維持しやすいように凹凸はカーブしている。真ん中に水が集まり易いからだ。
この状態で一番下に布の一部を敷き、その上を滑らせる形で他の部分を動かすとこすり合わせれて汚れが落ちる。これが一般的な使い方と思われる。
なお、洗濯板を使う場合は最近主流の液体洗剤は適さないと思われる。というのも最近の洗剤はドラム式に最適化されていて泡を殆ど出さない。
だが洗濯板では泡が潤沢に出ないと滑りが悪くなってダメなのだ。下に敷いた布がめくれてしまう。布も痛みやすい。
もとスレのtogetterではマンガの描写からこすり洗いでなく両手で揉み洗いが正解と導き出されているが、マンガの描写が正確、精密になったのは劇画の流行を経てその手法が吸収された1970年代以降なのだ。
劇画の嚆矢は昭和30年らしいが、これが一般化したのは団塊世代が青年であった昭和40年代/1965年~70年代である。
団塊は「大人になってもマンガを読んでる世代」の走りだったが、それは「大人の鑑賞にも耐える」を志向するマンガが流行したためでもあった。
初期の劇画は『カムイ伝』のようにコマ割や表現が映画的/ハードボイルドで人物画は「劇画チック」というだけだったが、やがて描写が緻密になっていく。例えば最初期のゴルゴ13は背も低くマンガテイストが残っていて今見ると滑稽だ。だが巻を下るとその描写は緻密で正確になっていく。
70年代末には劇画はやがて下火になっていくが、今度は青年漫画などに劇画の手法が輸入されるようになっていった。
有名なのは手塚治虫の『ブラック・ジャック』で、「マンガの神様」手塚は、しかし昭和40年頃になると丸っこい子供向けマンガしか描けない前世代の遺物のような扱いになっていった。
そこで手塚は医学書や解剖図を読み漁って人物は丸っこい細部が緻密な描写のフィクションを作り上げ、復活を果たした。これはさいとうたかおが後に極めることになった劇画の手法である。
三種の神器と呼ばれた洗濯機が低価格化して多くの家庭に導入されたのは昭和40年前後である。
つまりマンガで緻密に作画がなされるようになった頃には洗濯板が一掃されていたのだ。
「作画崩壊」は昔は無かった。劇画の手法が輸入される1970年代末まで人物が走る時は弓線と足二本で表現された。
洗濯板も然りで板と石鹸と手と泡描いたら洗濯が表現された。劇画ではこれの表現はNGだ。そして現在のマンガは劇画ルールが導入されているのである。
こういう訳で「洗濯板の上でゴシゴシ」が正解と思われる。但し、一枚だけを凹凸に擦り付けるのではなく十分に泡立てて凹凸の上の布の上で布を滑らせて布同士を擦り合わせる。
一番まずいのは、ノンフィクションマンガなどの描写に難癖をつけて「擦り洗いはしない、揉み洗いが正解」とネットで聞いた事との相違のクレームを入れてしまう事だ。
ノンフィクションでは資料を揃えて居る事が多い。その執筆態度は劇画に始まるものであり、洗濯板が現役だった頃にはその影響がまだなかったというのが今回の誤解の原因である。
オタクは世を忍び、腐女子は隠れるべきという時代にそれらと触れ合った世代です。
幕張メッセの件やらポケモン同人誌事件、2ch(現5ch)の電車男にニコニコ動画のボカロや歌ってみた・踊ってみた。
思春期をオタク文化の過渡期と共に過ごした私は、原作は絶対であり正義であると考えています。
ただ、原作は原作として、自分の好みの話の展開、好きなキャラを贔屓したいという想いがあるのは当然だとも考えています。
乱暴に言えば、カレーのレシピにジャガイモ入れろって書いてあるけど、私は入れない方が好きって言うだけの話。
それぞれ好みがあって当然だけど、この人のレシピはこれを入れる。でも、私はそれが好きじゃないから入れない。あるいはこれの方が好きだから、こっちを入れる、みたいな。
その辺のことを理解できていない人たちが、このレシピならジャガイモを入れるはず!とか、なんでこんなもの入れてるんだ、レシピにないだろう!って切れたりしている。
二次創作が二次創作だと理解できない層は、ジャンルの人口増加とともに増えていき、統率が取れなくなるとジャンルの衰退を生む。
このことに身に覚えのあるオタクたちもいると思う。
件の赤安も、同様の過程の末に衰退期に入ってしまったように思う。
大きな分岐点だったのは、今年(2023)の映画だったと思う。
コ哀の民は狂喜乱舞、新蘭の民は怒髪衝天。
ここでよくなかったのは、コ哀の民が一般的な映画レビューサイトで、コ哀が公式かのように発言してしまった事だ。
コナンでは新蘭、コ←哀が公式で、決して二人はくっつくことはない。だからこそ、コ哀の民は今回の映画が嬉しかったのは分かる。だけど、所謂オタク構文がまかり通らない公共の場所でコ哀の発言はよくなかった。twitterやmastdonなどで発言するべきだったね。
じゃあ、コ哀だけが悪いのかというと、そうでもないというのが私の見解だ。
公共の場でバカ騒ぎをする層は、どんなジャンル、どんな分野、どこにだって一定数いる。
バカ騒ぎをしている人を諫めることはあっても、ただ好きなだけの人を探し出して攻撃するのはバカ騒ぎしている人と同じだ。
正直、拳の時の新蘭の狂い方だってハタから見たらあたおかです。
蘭はそんなことしないとか、こんなの蘭じゃないとか。
自分の口に合わなかった、好みじゃなかった。ただそれだけでしょ。
新蘭とコ哀が民族争いをしているだけだったら、私は筆を折らなかったと思う。でも、新蘭の民は赤安の民も兼任している人が多かったのが決め手だった。
そういう人の多くは、新蘭と赤安の類似性を語っていた。イニシャルが同じだとか、属性が同じだとか。
それだけなら私も「確かに~!」と同調できたけど、赤安を公式扱いし、コ哀を非公式、ありえないと否定していたことが気持ち悪かった。
だって、赤安も公式じゃないじゃん。赤井が降谷に、あるいは降谷が赤井に恋愛感情を持っていると明確に分かる表現ってありましたか? 匂わせすらないですよね?
腐女子は無から有を生み出してカップリングを作るので、あったと言ってもそれをもっと客観視してもらいたい。公式でも何でもない、ありもしないカップリングを公式扱いしている姿は、赤安もコ哀も変わらない。目くそ鼻くそも大概にしてほしい。
ジャンルの衰退を招いていることを、はっきりと認識してもらいたい。
アニメの作画崩壊は制作側の落ち度が大きいので何も言わないが、原作の展開への文句や映画への批判をしながら赤安への愛を語っている人を見ると、本当に辟易する。
作者はあなたのために話を書いているわけじゃないし、小学館は企業なので利益を出さなければならない。
プロモーションなどに関してもそうだ。自分が読者層から、あるいはマーケティングターゲット層から外れたことを自覚してもらいたい。
それでも赤安が好き、新蘭が好きなら、自分だけの、あるいは感覚が近しい人たちとの世界で楽しめばいい。なぜ態々、攻撃する相手を探して回るのか。そんなの、ただのDQNじゃないか。
私はそんな人たちと一緒にいたくない。そんな人たちと同じだなんて、思われたくない。だって、いつ自分に攻撃が飛んでくるかわかったもんじゃない。
私はそこそこ古い腐女子なので、Kコが流行った時も腐女子をしていた。
当時にもそういった過激な思想を持った人がいたけど、情報発信するツールが圧倒的に少なく、被害があまり大きくはなかった。
時代が変わり、オタクが社会のメイン層になり、情報発信が多角的で、安易なこの世界で、私の考えは古いのだろう。それでも自分が愛した物の正当性を広めるために他者を傷つけ陥れるのは、反社と何が違うのだろうか。
私は今でも原作のコナンが好きだし、赤安が好きだ。新蘭も好きだけどコ哀も好きだし、京園や平和はもちろん、Kコや平コ(新)も嗜むし、何だったらコ(新)平が好きまである。ジンバボだってバボベルだってジンベルだって、降志保どころか哀歩哀も大好きだ。
こんな民度の低い、ヤクザにも劣るような人たちの同族だと思われたくない。だから私は赤安を書かなくなった。
ただそれだけの話。
オタクは世を忍び、腐女子は隠れるべきという時代にそれらと触れ合った世代です。
幕張メッセの件やらポケモン同人誌事件、2ch(現5ch)の電車男にニコニコ動画のボカロや歌ってみた・踊ってみた。
思春期をオタク文化の過渡期と共に過ごした私は、原作は絶対であり正義であると考えています。
ただ、原作は原作として、自分の好みの話の展開、好きなキャラを贔屓したいという想いがあるのは当然だとも考えています。
乱暴に言えば、カレーのレシピにジャガイモ入れろって書いてあるけど、私は入れない方が好きって言うだけの話。
それぞれ好みがあって当然だけど、この人のレシピはこれを入れる。でも、私はそれが好きじゃないから入れない。あるいはこれの方が好きだから、こっちを入れる、みたいな。
その辺のことを理解できていない人たちが、このレシピならジャガイモを入れるはず!とか、なんでこんなもの入れてるんだ、レシピにないだろう!って切れたりしている。
二次創作が二次創作だと理解できない層は、ジャンルの人口増加とともに増えていき、統率が取れなくなるとジャンルの衰退を生む。
このことに身に覚えのあるオタクたちもいると思う。
件の赤安も、同様の過程の末に衰退期に入ってしまったように思う。
大きな分岐点だったのは、今年(2023)の映画だったと思う。
コ哀の民は狂喜乱舞、新蘭の民は怒髪衝天。
ここでよくなかったのは、コ哀の民が一般的な映画レビューサイトで、コ哀が公式かのように発言してしまった事だ。
コナンでは新蘭、コ←哀が公式で、決して二人はくっつくことはない。だからこそ、コ哀の民は今回の映画が嬉しかったのは分かる。だけど、所謂オタク構文がまかり通らない公共の場所でコ哀の発言はよくなかった。twitterやmastdonなどで発言するべきだったね。
じゃあ、コ哀だけが悪いのかというと、そうでもないというのが私の見解だ。
公共の場でバカ騒ぎをする層は、どんなジャンル、どんな分野、どこにだって一定数いる。
バカ騒ぎをしている人を諫めることはあっても、ただ好きなだけの人を探し出して攻撃するのはバカ騒ぎしている人と同じだ。
正直、拳の時の新蘭の狂い方だってハタから見たらあたおかです。
蘭はそんなことしないとか、こんなの蘭じゃないとか。
自分の口に合わなかった、好みじゃなかった。ただそれだけでしょ。
新蘭とコ哀が民族争いをしているだけだったら、私は筆を折らなかったと思う。でも、新蘭の民は赤安の民も兼任している人が多かったのが決め手だった。
そういう人の多くは、新蘭と赤安の類似性を語っていた。イニシャルが同じだとか、属性が同じだとか。
それだけなら私も「確かに~!」と同調できたけど、赤安を公式扱いし、コ哀を非公式、ありえないと否定していたことが気持ち悪かった。
だって、赤安も非公式じゃないじゃん。赤井が降谷に、あるいは降谷が赤井に恋愛感情を持っていると明確に分かる表現ってありましたか? 匂わせすらないですよね?
腐女子は無から有を生み出してカップリングを作るので、あったと言ってもそれをもっと客観視してもらいたい。公式でも何でもない、ありもしないカップリングを公式扱いしている姿は、赤安もコ哀も変わらない。目くそ鼻くそも大概にしてほしい。
ジャンルの衰退を招いていることを、はっきりと認識してもらいたい。
アニメの作画崩壊は制作側の落ち度が大きいので何も言わないが、原作の展開への文句や映画への批判をしながら赤安への愛を語っている人を見ると、本当に辟易する。
作者はあなたのために話を書いているわけじゃないし、小学館は企業なので利益を出さなければならない。
プロモーションなどに関してもそうだ。自分が読者層から、あるいはマーケティングターゲット層から外れたことを自覚してもらいたい。
それでも赤安が好き、新蘭が好きなら、自分だけの、あるいは感覚が近しい人たちとの世界で楽しめばいい。なぜ態々、攻撃する相手を探して回るのか。そんなの、ただのDQNじゃないか。
私はそんな人たちと一緒にいたくない。そんな人たちと同じだなんて、思われたくない。だって、いつ自分に攻撃が飛んでくるかわかったもんじゃない。
私はそこそこ古い腐女子なので、Kコが流行った時も腐女子をしていた。
当時にもそういった過激な思想を持った人がいたけど、情報発信するツールが圧倒的に少なく、被害があまり大きくはなかった。
時代が変わり、オタクが社会のメイン層になり、情報発信が多角的で、安易なこの世界で、私の考えは古いのだろう。それでも自分が愛した物の正当性を広めるために他者を傷つけ陥れるのは、反社と何が違うのだろうか。
私は今でも原作のコナンが好きだし、赤安が好きだ。新蘭も好きだけどコ哀も好きだし、京園や平和はもちろん、Kコや平コ(新)も嗜むし、何だったらコ(新)平が好きまである。ジンバボだってバボベルだってジンベルだって、降志保どころか哀歩哀も大好きだ。
こんな民度の低い、ヤクザにも劣るような人たちの同族だと思われたくない。だから私は赤安を書かなくなった。
ただそれだけの話。
年に1回ぐらい思い出してはまた1年忘れっぱなしになる。
最近のアニメって、朝や夕方のアニメが深夜みたいなこと平気でするし、逆に深夜のアニメがやたらと普通なことが増えてきた気がする。
モラトリアムの間で大人の真似をしてブラックコーヒーを飲み始めた中二病と、それを直せないまま大人になった連中向けの作品、すっかり減ったように感じるんだよな。
成長することを投げ捨てて夢の中で暮らすことを選んだ人間向けの作品ばかりで息が詰まりそうだ。
俺の宇宙が必要としてるエーテルは平和な日常系だじゃ完成しねえんだ。
確かに日常系はさ、疲れたオッサンっぽくてさ、多少は摂取しておきてえんだ。
全部欲しいんだけどさ、主成分はやっぱもっと薄暗い現実世界に対してどう切り込んでいくか、どんな世界観でぶった切ればこのグチャグチャな世界に別の視点を通してなにか見つけられそうなのかを教えて欲しいんだ。
成長し終わってねえんだ。
そのための材料を自分の人生から見つける苦しさに耐えられねえから、アニメに教えてもらいてえんだよ。
なにかを得た気にさせてくれよ。
深夜アニメってそういうもんだろ?
自分は原作を読んでて好きなもんでアニメ版を見ていたがまあ酷い。
キャラデザはガルパンの人なのに作画海外に丸投げ。声優陣も人気キャスト使ってるのになんかやる気なし。
背景もクソ、妹の声優もクソ。なぜ松井玲奈にやらせた?ハヤテ好きらしいからハヤテのアニメにモブとして出してやればよかったのに。
上からの移行かもしれないが。ドラマCD版はアスミスがやってた。
CM劇場の天上院騎咲の声やってた一般人の方が上手いってどういうこっちゃ。
同じ秋元康アイドル系列でも仲谷明香は普通に上手かった。もしドラだったかな。
ちなみに電波教師はかつて一度アニメ化の案があったが流れた。その時はマギがアニメ化し電波教師はサンデーCM劇場でアニメ化。
その時の作画もかなりヤバかったが......まああれは20秒位のアニメだしそこまで予算かけるわけでもないだろう。
ちなみにこの作品で一番アホなことは同じサンデー系列のリンネと潰しあったこと。
この枠はまじっく快斗も逆裁も酷かったからやる気ない枠かもしれんが。
ちなみに何故か最初のコロナの時期に千葉テレビで再放送していた。誰が見るんだよ...俺は見たけど。
こんなクソアニメのイベントくるのガチのファンか声優ファンしかいないよな。
円盤も爆死。
自分は原作を読んでて好きなもんでアニメ版を見ていたがまあ酷い。
キャラデザはガルパンの人なのに作画海外に丸投げ。声優陣も人気キャスト使ってるのになんかやる気なし。
背景もクソ、妹の声優もクソ。なぜ松井玲奈にやらせた?ハヤテ好きらしいからハヤテのアニメにモブとして出してやればよかったのに。
上からの移行かもしれないが。ドラマCD版はアスミスがやってた。
CM劇場の天上院騎咲の声やってた一般人の方が上手いってどういうこっちゃ。
同じ秋元康アイドル系列でも仲谷明香は普通に上手かった。もしドラだったかな。
ちなみに電波教師はかつて一度アニメ化の案があったが流れた。その時はマギがアニメ化し電波教師はサンデーCM劇場でアニメ化。
その時の作画もかなりヤバかったが......まああれは20秒位のアニメだしそこまで予算かけるわけでもないだろう。
ちなみにこの作品で一番アホなことは同じサンデー系列のリンネと潰しあったこと。
この枠はまじっく快斗も逆裁も酷かったからやる気ない枠かもしれんが。
ちなみに何故か最初のコロナの時期に千葉テレビで再放送していた。誰が見るんだよ...俺は見たけど。
こんなクソアニメのイベントくるのガチのファンか声優ファンしかいないよな。
円盤も爆死。
そういえばサブスク終了もあったわ、予兆。予兆多すぎで解除不可能やろがい。
モバマスの思い出続き。
初回の新年ビンゴ以外は何とか1枚取りしてた。うっかり無料ガチャで出た他アイドルとトレードして必死でチェンジさせてた。3年目からは無料貯金が増えて課金をしなくても行けた(アクティブが少なくなったからかもだけど)。
チームにも恵まれた。グラブルのやり方とか予め教えてくれたし、チーム戦でもギスらず楽しく出来て本当に有り難かった。その後グラブルの騎空団にも恵まれ、3年くらいはどちらのゲームも特に楽しかった。まあ今は無言団にいて、それはそれで楽。
声帯がついた時は驚いたが、既定路線だとは思った。(やっぱ最初のCDシリーズのジャケが一番好き。一部シリーズって作画崩壊酷くない?)
けどぶっちゃけ声優にはミリ興味ないのでライブや超常みたいな劇中キャラCDはむしろ苦手。この辺が今回の件で一番大ダメージを受けた原因。
翼上位とチーム戦以外は完全にパネミログインだけだった。移籍後のチーム戦とライプロの時はパネミすらやらなかった。翼の為に惰性でやってた。正直あのゲーム性で結構課金してる人がいるのはひとえにキャラパワーがあったからだと思う。
そんな中Mステ爆誕。ガチャが無料貯金で引けるよ!?というかモバマスがエグくないか?必死でリセマラした記憶。ライブで動く、動くよ!決して綺麗なモデリングでは無かったけどそれだけ。立ち位置や衣装の変更、表情や振り付けの差分。今思えば相当頑張ってくれてた。惜しむべくは別にライブ見ないでもイベントが進めた事。推し以外のライブ見てなかったので、サ終後にYouTubeで見てその進化に驚いた。10人ぐらい登場してたんか!
不評の木魚システムは音ゲー苦手民には有り難かった。エクストリーム普通にクリア出来たし。
今必死で思い出してるけど、意外と覚えてない。兎に角イベントが実質一種類なのがキツかった。一瞬出た強制ライブ参加型イベントは何だったのだろう。フレンドの意味もあって悪くは無かった筈なんだけど。wayはUIがめんどくさ過ぎて翼もゴールしなかった気がする。スタミナ全回復にならない程度にはやってたような?
長くなったのでここで一旦切ります。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
チー付与を読みました。
ファンタジー世界でウージー出てくるとか、ギルドとパチンコ行ったり来たりするとか、ここは異世界じゃなくて北九州のどっかかなって漫画でした。
凄いキチガイですね。
これが10話ぐらい続いてて、それでずっと面白いのって、やっぱり作者が正常だからなんだろうなと。
作者が異常者だったら、このギリギリのラインは攻められないと思うんですよね。
ファンタジーの世界に片足を残したままで足をルフィみたいに伸ばして現代社会にズボズボ踏み込んでいけるのは、片足をファンタジーに残せるバランス感覚があってこそというか。
本当にキチガイな人や感性が歪んでいる人って、一瞬だけキチガイ作品として面白く出来てもすぐにつまらなくなるんですよ。
面白いとつまらないを生み出す「ズラし」とか「ナンセンス」って、目は正常な感性を維持したまま手に異常なことをやらせて初めてコンテンツとして強くなるんですね。
ネットで一瞬話題になるけどすぐに死んでしまうキチガイコンテンツが何故死ぬのか分かりました。
たとえば作画崩壊アニメとかも、一部が作画崩壊してるけど全体としては正常にしようと努力しているから異常さを際立たせることが出来ているんですよね。
そこを分かってない人は、キチガイするのが受けたら調子に乗って全部キチガイにしてしまおうとする。
ツッコミがあるから成立してたボケは、ボケ倒しでは成立しなくなる。
ボケ倒しするならボケ倒しで成立するギャグをやらないといけないけど、そもそもの感性が壊れていたりボンヤリしている人はそこのバランス感覚を見極められない。
勉強になりました。
特別仲が良かったわけではないし中学卒業以降は連絡もしていないが、当時は映画の話などをして一緒に帰ったりしていた。
「弱虫ペダル」など、たまたま自分の見た作品にも名前がクレジットされていて感動した。
小中以降の彼の生活は詳しくは知らないが、インタビューなどを読んでいると「ああやっぱり純人だなあ」と懐かしく感じる部分と、過酷な現場を続けるようなガッツが彼に秘められていたのかという驚きを、同時に味わっている。
俺も彼も持久走とか大の苦手だったはずだけど、大人になったんだなあ。
今現在、他のアニメーター?演出家?と揉めているようだが、彼は争いが好きなタイプではなかったはずなので、あまり反論もしないだろう。
揉めている内容の実際の詳細こそわからないが、大前提として、彼は自分を大きく見せるようなホラを吹く人間ではないと思っている。
そういうことが嫌いというか、どちらかというと「そういうのが苦手」な印象だった。
そもそも見栄で嘘をつきたければ、あの過酷な仕事を続ける前に、もっと楽する方法があると思う。
あの揉め事は悲しいすれ違いではないかと、部外者ながら考えている。
他人を味方につけるのが苦手で不器用だった印象もあるので、火に油を注ぐようなことを言ったりして、ひどい事にならないといいなと余計なお世話だが少し心配している。
彼について、インタビューやtwitterを読んだ人の一部からは「露悪的」などと表現されているが、
それはなんていうか、少しだけ違うと思っている。
小中学の頃しか知らないが、彼は趣味が変わっていてホラーやグロが好きで、普通のクラスメイトからは、ちょっと避けられるようなタイプだった。
「わかる人にだけわかってもらえればいい」と考えてそうだったし、趣味は変だけど温和な彼を面白いと思う人間もたくさんいて、
あと、キザな小学生にしてめちゃくちゃに「腹踊り」がうまくて、プールの時間によく見せびらかしていた。
中学の頃、一番面白い映画は「ギニー・ピッグ」だと言っていた。
「ちゃちな作り物だけどすごくいい」というようなことを語っていて、「目玉がさ、目玉がね」と一人で盛り上がっていたが、そういうグロが苦手な自分は話を遮って逃げた。
他にも「デス・ファイル」が好きだともよく言っていた。こちらは「本物なのがいい」とのことだった。
まあ、そういう事を言いたがるのも露悪的と言えばそうかもしれないが、彼はそれらの作品が本当に普通に好きだった。
「マトリックス」の話をするのと同じテンションだったのだろう。
小学生のとき彼の家に遊びに行ったら、「エイリアン2」の装甲車のおもちゃと、その裏にへばり付いたエイリアンウォーリアの轢死体のディテールを嬉しそうに見せてきた。
5、6年生の時、エアウォーターガンを担いで自転車に乗った彼と友人とすれ違い、どこに行くのか聞いたら、「近所の心霊マンションにゴーストバスターズごっこをしにいく」と答えた。
ものすごく楽しそうだなと思ったのだが、なぜか俺は一緒にいかなかった。
結果、どうなったのか今でも気になっている。
(ちなみに後年、そのマンションは改装工事の作業現場でも注意が出たほどのガチのスポットらしいと知った)
彼が休み時間に「『遊星からの物体X』はいいよお」と熱く語っているのを聞いたが、今考えるとストーリーのオチがなぜか「バタリアン」のものだったのが謎である。
(もしかしたら「深海からの物体X」の話だったのだろうか、こちらは見ていないから知らないが)
TV放映された「ザ・グリード」の話で盛り上がったり、似た趣味をもつ友達はいたはずだが、果たしてギニー・ピッグやデスファイルのレベルまで分かち合えていたのかはわからない。
中学の時に、今度ギニー・ピッグを一緒に見ようと誘われたが、それは断った。
「ウォンさん、ウォンさん」と、人肉饅頭の主人公アンソニー・ウォンを親しげに呼んで、放課後の帰り道などで包丁を振るう真似をして遊んでいた。
映画の後半で捕まって警察から拷問されるウォンさんが可哀想、でも親身になってくれる囚人がいい奴で泣ける、というようなことを話した気がする。
当時、アクション映画が好きでホラーが苦手だった自分は、彼をどこかヤベー奴だと思っていたが、実際に話す彼はひたすら温厚だった。
不思議な魅力があった。
手を後ろで組んで歩くような、クラスに一人はいる「お爺さんっぽい中学生」だった。
少年時代、彼が怒っている姿は恐らく見ていない。
俺や他の友人はよく他人の噂話や陰口で笑っていたが、彼が他人の悪口を言っているのも見たことがないと思う。
そんな感じで、どちらかというと彼は友達からもいじられる変人だったが、いつもニコニコしていた。
「髪が油っぽい」と友達の間で話題になって、学校の水道で洗って実験してみたことがあった。
「水だけで洗うと逆に汚れが表面に出てくる」「石鹸も使うべきだ」等、無駄な議論をしながら石鹸シャンプーをした結果、洗ってもすぐギトギトになって、みんなで笑った。
※もしかするとイジメと勘違いされかねない話だが、自分か他の誰かも比較のために水道で髪を洗ったはず。
中学生男子がふざけて全身びしょぬれの水遊びをしたり、お互いに額を強くつねって「インド人っぽい痣」を作ったり、失神遊び(絶対やめろよ!俺は本当に危なかった)をすることは日常だったので、そういう類のエピソードと思っていただきたい。
彼はニコニコしながら率先して水道で自分の頭を洗って「見て見て」と笑っていた。
ただギニー・ピッグやデスファイルの件があるのでうっすら迫力があって、こいつ何考えてるんだろうとは少し思っていた。
twitterなどで露悪的っぽく見えるのも結局、彼なりの特殊な冗談なのだと思う。
分かる人にだけわかって、嫌う人からは嫌われて、伝わる相手とだけニコニコ通じ合えれば、それでいいと思っているのだろう。
その実、今でも他人の悪口などはほとんど言っていないのではないかと思う。
(すべてのツイートを追っていないのでわからないが、あんな辛い仕事をして、個人を責めるのではなく業界を批判しているのが彼らしいなと思う)
他にも小中時代の特殊なエピソードは色々あったし、他人から理解されない経験を、ずっと味わってきたんだと思う。
「誤解されようが気にしない」というスタンスが変わっていないのは(誰かが書いてたけど、アニメーターA氏があの場にいて本当よかった)、勝手ながら、なんだか少しうれしかった。
本人がtwitterで「みんなも俺を決して良い人だと思わないで。俺はどこまで行っても悪には違いないし間違ってるから。」と言ってるのは、彼なりの誠実さなんだと思う。
中学の時からデスファイルが好きなんだから、そりゃ悪だろう。(ひどい)
今思うと、過激なホラーを好みながらなぜか漂うお爺さんっぽさも、どこか諦観というか、達観しているところがあったからなのかもしれない。
お爺さんっぽいと言ったら、キザな本人は嫌がるかもしれないが。
それにしても、彼が職業にするほどアニメを好きだったことは、知らなかった。
「パトレイバー2」の引用をしているのは、映画の話ばかりしていた時代しか知らない自分は少し意外に感じる。(そのころから好きだったのかもしれないが)
パト2のような理屈っぽい作品よりも、「今度は戦争だ!」とエイリアン2からの引用の方が理解できる。
俺が知ってるのは小中学の頃だけなんだなあと改めて実感する。
しかし、極端なホラーやキワモノが好きだった同級生が、大人になって「作画崩壊」「敗戦処理」で話題になるのは、他人事ながら少し悲しい。
クリエイターがみな望むものだけを作れるとは思っていないし、もちろん、彼がやりたくない仕事を無理やりやっているなどとも思わないが、それでも少し悲しい。
作画崩壊は、子供のころの彼が好きだった「キワモノ」といえばそうなのかも知れないけれども。
結局俺は「ギニー・ピッグ」も「デスファイル」も見ていないが、「人肉饅頭」はこの前また見返した。
改めて凄まじい作品だと思った。
別にホラーではなくとも、人肉饅頭みたいなああいうすごい作品を彼が作ったら、嬉しいなと思う。
多分、みんなからは評価されないかも知れないし、俺だって見るかは知らないけど。
でもまあ結局はわかる人だけわかってればそれでいいんだろう。
「茶髪の青年たちが歩道橋の天井によじ登って騒ぎ不安を煽り立てた」
と証言して責任逃れを図ろうとし、マスメディアの報道ではこの証言を元とした評論も見受けられた。
ところが後日の調査によれば、実際はその茶髪の青年たちは歩道橋中央での惨事を通報するため、
歩道橋のプラスチック壁を破壊して屋根に登り、歩道橋への群衆流入を阻止しようと惨事を皆に伝え、119番で救急車を要請していたことが判明した。
茶髪の青年が歩道橋のプラスチック壁を破壊して屋根に登り騒いだせいで、死者がでた
⇒被害を減らすために頑張っていた
火災現場にいくと、いつも赤い車が居る。あの赤い車が放火しているに違いない!
⇒赤い車は消火のために集まっていた
最近、とある漫画の公式アカが上げたホックが外れたままのブラをつけて冷蔵庫を漁っている女性のイラストがこんなのありえないと女性から批判されているが、それに対して表現の自由戦士が「これは絵なんですが?」「現実と違って何が悪い」と開き直っているのをよく目にする。それを見ると「オタクがそれを言う!?」と思ってしまう。
散々少女漫画の銃の持ち方がおかしいやらBLのちんこがおかしいやら馬鹿にしてきて、作画崩壊がひどいアニメをおもちゃにして、細身で中性的なイケメンキャラをホストやらホモや毛嫌いして叩いてるお前がそれを言うの!?
それなら表現の自由戦士がよくポリコレ叩きで言っている「LGBTや黒人がこんなに交じってるのは不自然!」も「これはフィクションですか?」で終わってしまう。自分が叩きたいものは絵だろうと現実を持ち出して叩きまくるくせに、叩かれたくないものが叩かれたときは「これは絵ですが?」で論破した気になってるオタクがキモくて仕方ない。