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はてなキーワード: 市民社会とは

2024-04-24

anond:20240421075619

https://archive.md/0U2Xb : https://archive.md/9A7Eo https://archive.md/FzDjJ#selection-478.0-671.7

当選するための選挙妨害なら健全・・・じゃないけど政治的動機ならまだ分かるというものだし、それも民主主義コストだと言えなくもないが、目立って集金したいだけの存在妨害してんのは市民社会から搾取だよな ”

https://archive.md/dTXqA https://archive.md/opwoX#selection-1593.0-2453.8

特定陣営との繋がりのない(少なくとも繋がりの立証されていない)聴衆のやじと、選挙立候補してる他陣営による選挙妨害区別がついてない人にも表現の自由がある。それが日本。”

https://archive.md/RoB3j https://archive.md/z46kC#selection-3052.0-3331.7

北海道警察の事案は応訴の仕方が悪かった感はあるんですよね。選挙妨害罪の実行行為を制止したという構成にしておらず、謎の法的根拠ごにょごにょ主張してたんじゃなかったっけ。”

2024-04-12

   ジュピターが神に問うたとき、神は、移ろいやすものだけを美しくしたのだ、と答えた。逆に、数学問題は、ただ存在しているだけで移ろいやすものではない。従って、数学とそれ以外の文科系

  の事柄、 法学とか文学数学は違うように思う。数学定理は、一般に、発見者は、偉大でありなおかつ天才である評価される。しかしそれならば、数学でないもの、例えば、法学において

  特定規定解釈発見したとき、なぜその人は天才とは言われないかというと、よく分からない。学会では、理学部数学のしていることは極めて特殊で毛色が違っており、同じ理学部でも物理学科や

  数理科学科とは違うし、更には、法学部や文学部、経済学部とは違うのではないかと言われている。しかし、その辺りの事は分からない。

   文学部では、朝から晩まで、16世紀のフランス革命の、中世の人々が何回も戦争をして殺し合った結果として、近代市民社会ができたといったような凄惨な話ばかりしている。

  実務法律学には、~による、とか、適用するという言葉がある。平成16年に全国の大学法科大学院が出来てから、実務法律学はそこでするということになった。実務法律学技術はもしかしたら

  その透明なヴィルディングの中で教えているかも知れないが、東京大学でも、そこに入れる人は限られているので、1つも分からない。

   逆に法学部では、法の歴史を習うだけで、法の結論技術は1つも教わらない。法の結論がどのように美しいのかとか、法にはどのような可能性があるのかとか、法の何がいいのかとかそういう興味の

  あることは何も教えない。

2024-04-02

全裸で外をうろつきそこら中にクソを撒き散らす犬とかい存在

指名手配もの変態のくせに僕も市民社会の一員だよみたいな顔してるの許せない

2024-03-16

anond:20240316201540

脳がしっかりしているのに体が悪いというだけで不利益を被っている人は、同じ市民社会の仲間としてしっかり意見を聞くべきだと思う。

2024-01-31

anond:20240131133035

まあ嬉々として暇アンチやってはしゃいでる人達

市民社会の理を否定したいタイプ人種なのだろう

増田ってそういう悪い意味で捻くれ者が多そうなイメージ

2024-01-26

anond:20240126183251

9.「平和基本法から佐藤優現象〉へ

 〈佐藤優現象〉を支えている護憲派の中心は、雑誌としては『世界』であり、学者では山口二郎和田春樹である。この顔ぶれを見て、既視感を覚える人はいないだろうか。すなわち、「平和基本法である。これは、山口和田らが執筆し、共同提言として、『世界』一九九三年四月号に発表された。その後、二度の補足を経ている(56)。

 私は、〈佐藤優現象〉はこの「平和基本法からの流れの中で位置づけるべきだと考える。

 同提言は、①「創憲論」の立場、②自衛隊合憲化(57)、③日本経済的地位に見合った国際貢献必要性、④国連軍国連警察活動への日本軍の参加(58)、⑤「国際テロリスト武装難民」を「対処すべき脅威」として設定、⑥日米安保の「脱軍事化」、といった特徴を持つが、これが、民主党の「憲法提言」(二〇〇五年一〇月発表)における安全保障論と論理を同じくしていることは明白だろう。実際に、山口二郎は、二〇〇四年五月時点で、新聞記者の「いま改憲必要なのか」との問いに対して、「十年ほど前から護憲立場から改憲案を出すべきだと主張してきた。しかし、いまは小泉首相のもとで論理不在の憲法論議が横行している。具体的な憲法改正をやるべき時期ではないと思う」と答えている(59)。「創憲論」とは、やはり、改憲論だったのである

 同提言の二〇〇五年版では、「憲法九条の維持」が唱えられているが、これは、政権が「小泉首相のもと」にあるからだ、と解釈した方がいいだろう。「平和基本法」は、戦争をできる国、「普通の国」づくりのための改憲である。同提言軍縮を謳っているが、一九九三年版では、軍縮は「周辺諸国軍縮過程と連動させつつ」行われるとされているのだから北朝鮮中国軍事的脅威が強調される状況では、実現する見込みはないだろう(60)。また、「かつて侵略したアジアとの本当の和解」、二〇〇五年版では、周辺諸国への謝罪過去清算への誠実な取組みの必要性が強調されているが、リベラル過去清算は終わったと認識しているのであるから、これも実効性があるとは思えない。要するに、同提言には、論理内在的にみて、軍事大国化への本質的な歯止めがないのである

 佐藤が語る、愛国心必要性(61)、国家による市民監視(62)、諜報機関の設置等は、「普通の国」にとっては不可欠なものである佐藤饒舌から私たちは、「平和基本法」の論理がどこまで行き着くかを学ぶことができる。

 馬場は、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝について、「今後PKOなどの国際的軍事平和維持活動において殉死殉職した日本人の慰霊をどう処理し追悼するか、といった冷戦後平和に対する構想を踏まえた追悼のビジョンもそこからは得られない」と述べている(63)。逆に言えば、馬場は、今後生じる戦死者の「慰霊追悼施設必要だ、と言っているわけである。「普通の国」においては、靖国神社でないならば、そうした施設はもちろん、不可欠だろう。私は、〈佐藤優現象〉を通じて、このままではジャーナリズム内の護憲派は、国民投票を待たずして解体してしまう、と前に述べた。だが、むしろ、すでに解体は終わっているのであって、「〈佐藤優現象〉を通じて、残骸すら消えてしまう」と言うべきだったのかもしれない。

 ここで、テロ特措法延長問題に触れておこう(64)。国連本部政務官川端清隆は、小沢一郎民主党代表の、テロ特措法延長反対の発言について、「対米協調」一辺倒の日本外交批判しつつ、「もし本当に対テロ戦争への参加を拒絶した場合日本には国連活動への支援も含めて、不参加を補うだけの実績がない」、「ドイツ独自イラク政策を採ることができたのは、アフガニスタンをはじめ、世界の各地で展開している国連PKOや多国籍軍に参加して、国際社会を納得させるだけの十分な実績を積んでいたかである。翻って日本場合多国籍軍は言うに及ばず、PKO参加もきわめて貧弱で、とても米国国際社会理解を得られるものとはいえない」と述べている(65)。

 元国連職員吉田康彦は「国連憲章の履行という点ではハンディキャップなしの「普通の国」になるべきだと確信している。(中略)安保理決議による集団安全保障としての武力行使には無条件で参加できるよう憲法の条文を明確化するのが望ましい」と述べている(66)。川端吉田の主張をまとめれば、「対米協調一辺倒を避けるため、国連PKOや多国籍軍軍事活動積極的に参加して「国際貢献」を行わなければならない。そのためには改憲しなければならない」ということになろう。民主党路線と言ってもよい。今の護憲派ジャーナリズムに、この論理反論できる可能性はない。「8」で指摘したように、対北朝鮮武力行使容認してしまえば、改憲した方が整合性があるのと同じである

 なお、佐藤は、『世界』二〇〇七年五月号に掲載された論文山川均の平和憲法擁護戦略」において、「現実国際政治の中で、山川ソ連侵略性を警戒するのであるから、統整的理念としては非武装中立を唱えるが、現実には西側の一員の日本を前提として、外交戦略を組み立てるのである。」「山川には統整的理念という、人間努力によっては到底達成できない夢と、同時にいまこの場所にある社会生活改善していくという面が並存している」と述べている。私は発刊当初この論文を一読して、「また佐藤柄谷行人への点数稼ぎをやっている」として読み捨ててしまっていたが、この「9」で指摘した文脈で読むと意味合いが変わってくる。佐藤は、「平和憲法擁護」という建前と、本音が分裂している護憲派ジャーナリズムに対して、「君はそのままでいいんだよ」と優しく囁いてくれているのだ。護憲派ジャーナリズムにとって、これほど〈癒し〉を与えてくれる恋人もいるまい(67)。

10.おわりに

 これまでの〈佐藤優現象〉の検討から、このままでは護憲派ジャーナリズムは、自民党主導の改憲案には一〇〇%対抗できないこと、民主党主導の改憲案には一二〇%対抗できないことが分かった。また、いずれの改憲案になるにしても、成立した「普通の国」においては、「7」で指摘したように、人種差別規制すらないまま「国益」を中心として「社会問題」が再編されることも分かった。佐藤沖縄でのシンポジウムで、「北朝鮮アルカイダの脅威」と戦いながら、理想を達成しようとする「現実平和主義」を聴衆に勧めている(68)が、いずれの改憲案が実現するとしても、佐藤が想定する形の、侵略植民地支配反省も不十分な、「国益」を軸とした〈侵略ができる国〉が生まれることは間違いあるまい。「自分国家主義者じゃないから、「国益」論なんかにとりこまれるはずがない」などとは言えない。先進国の「国民」として、高い生活水準や「安全」を享受することを当然とする感覚、それこそが「国益」論を支えている。その感覚は、そうした生存の状況を安定的保障する国家先進国主導の戦争積極的に参加し、南北格差固定化を推進する国家―を必要とするからだ。その感覚は、経済的水準が劣る国の人々への人種主義、「先進国」としての自国を美化する歴史修正主義の温床である

 大雑把にまとめると、〈佐藤優現象〉とは、九〇年代以降、保守派大国路線に対抗して、日本経済的地位に見合った政治大国化を志向する人々の主導の下、謝罪補償必要とした路線が、東アジア諸国民衆の抗議を契機として一頓挫したことや、新自由主義の進行による社会統合破綻といった状況に規定された、リベラル左派危機意識から生じている。九〇年代東アジア諸国民衆から謝罪補償を求める声に対して、他国の「利益のためではなく、日本私たちが、進んで過ちを正しみずから正義回復する、即ち日本利益のために」(69)(傍点ママ歴史清算を行おうとする姿勢は、リベラル内にも確かにあり、そしてその「日本利益」とは、政治大国を前提とした「国益」ではなく、侵略戦争植民地支配可能にした社会のあり方を克服した上でつくられる、今とは別の「日本」を想定したものであったろう。私たちが目撃している〈佐藤優現象〉は、改憲後の国家体制に適合的な形で生き残ろうと浮き足立リベラル左派が、「人民戦線」の名の下、微かに残っているそうした道を志向する痕跡消失もしくは変質させて清算する過程、いわば蛹の段階である改憲後、蛹は蛾となる。

 ただし、私は〈佐藤優現象〉を、リベラル左派意図的計画したものと捉えているわけではない。むしろ無自覚的、野合的に成立したものだと考えている。藤田省三は、翼賛体制を「集団転向寄り合い」とし、戦略戦術的な全体統合ではなく、諸勢力からあいもつあいがそのまま大政翼賛会に発展したからこそ、デマゴギーそれ自体ではなく、近衛文麿のようなあらゆる政治立場から期待されている人物統合象徴となったとし、「主体が不在であるところでは、時の状況に丁度ふさわしい人物実態のまま象徴として働く」、「翼賛会成立史は、この象徴人物の未分性という日本政治特質をそれこそ象徴的に示している」と述べている(70)が、〈佐藤優現象〉という名の集団転向現象においては、近衛のかわりに佐藤が「象徴」としての機能果たしている。この「象徴」の下で、惰性や商売で「護憲」を唱えているメディア、そのメディア追従して原稿を書かせてもらおうとするジャーナリスト発言力を確保しようとする学者、無様な醜態晒す本質的には落ち目思想家やその取り巻き、「何かいいことはないか」として寄ってくる政治家や精神科医ら無内容な連中、運動に行き詰った市民運動家、マイノリティ集団などが、お互いに頷きあいながら、「たがいにからあいもつれあって」、集団転向は進行している。

 ところで、佐藤は、「仮に日本国家国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家同胞日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている(71)。佐藤は、リベラル左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまたからには、自国国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間異端者扱いするのが目に見えている。

 この佐藤発言は、安倍晋三首相の目指していた「美しい国」づくりのための見解とも一致する。私見によれば、安倍の『美しい国へ』(新潮新書、二〇〇六年七月)全二三二頁の本のキモは、イランでのアメリカ大使館人質事件(一九七九年)をめぐる以下の一節である。「(注・反カーター陣営の)演説会で、意外に思ったことがある。人質事件に触れると、どの候補者もかならず、「私は大統領とともにある」(I am behind the President.)というのだ。ほかのことではカーターをこきおろす候補者が、そこだけは口をそろえる。/もちろん、人質にされている大使館員たちの家族配慮するという意図からだろうが、アメリカ一丸となって事件対処しているのだ、という明確なメッセージを内外に発しようとするのである国益からむと、圧倒的な求心力がはたらくアメリカ。これこそがアメリカの強さなのだ。」(八七~八八頁)

 文中の、「人質事件」を拉致問題に、「大統領」を安倍に、「アメリカ」を日本に置き換えてみよ。含意は明白であろう。安倍は辞任したとはいえ総連弾圧をめぐる日本言論状況や、〈佐藤優現象〉は、安倍の狙いが実現したこと物語っている。安倍政権は倒れる前、日朝国交正常化に向けて動きかけた(正確には米朝協議の進展で動かされたと言うべきだが)が、こうなるのは少なくとも今年春からは明らかだったにもかかわらず、リベラル左派の大多数は、「日朝国交正常化」を公然と言い出せなかった。安倍政権北朝鮮外交に敗北したのは明らかである。だが、日本リベラル左派安倍政権ときに敗北したのである

 〈佐藤優現象〉は、改憲後に成立する「普通の国」としての〈侵略ができる国〉に対して、リベラル左派の大部分が違和感を持っていないことの表れである侵略植民地支配過去清算在日朝鮮人人権擁護も、そこには含まれる)の不十分なままに成立する「普通の国」は、普通の「普通の国」よりはるかに抑圧的・差別的侵略的にならざるを得ない。〈佐藤優現象〉のもとで、対北朝鮮武力行使の言説や、在日朝鮮人弾圧の言説を容認することは、戦争国家体制に対する抵抗感を無くすことに帰結する。改憲に反対する立場の者がたたかうべきポイントは、改憲護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮武力行使容認するか、「対テロ戦争」という枠組み(72)を容認するかどうかである容認してしまえば、護憲(反改憲)派に勝ち目はない。過去清算も不十分なまま、札束ではたいて第三世界諸国の票を米国のためにとりまとめ、国連民主的改革にも一貫して反対してきた日本が、改憲し、常任理事国化・軍事大国化して、(国連主導ではあれ)米軍中心の武力行使を容易にすることは、東アジア世界平和にとって大きな災厄である(73)。

改憲戦争国家体制拒否したい人間は、明確に、対北朝鮮武力行使の是非、対テロ戦争の是非という争点を設定して絶対的に反対し、〈佐藤優現象〉及び同質の現象を煽るメディア知識人等を徹底的に批判すべきである

(1)岩波書店労働組合「壁新聞」二八一九号(二〇〇七年四月)。

(2)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月一六日付。

(3)ただし、編集者佐藤右翼であることを百も承知の上で使っていることを付言しておく。〈騙されている〉わけではない。

(4)「佐藤優という罠」(『AERA』二〇〇七年四月二三日号)中のコメントより。

(5)インターネットサイトフジサンケイ ビジネスアイ」でほぼ週一回連載中の〈 Permalink | 記事への反応(0) | 18:37

2023-12-21

anond:20231221122615

それ強制なの?残業代請求したら?

もう言いなりの全体主義社会を求めてない。市民社会要求したい。

税金で食ってるのに文句言うなとか吠えるジジババはいるだろうけど、若い世代としては働きにくい社会は求めてないよ。

2023-11-16

日本人のキツすぎるところ

論理的思考が一切できない。

正義人権大人の振る舞いなどのことを、ロジカルに考える能力が一切ない。個人の感想区別できないほどに、ロジカルシンキングができない。現代人なら子供でもできるが、日本人大人でもできない。

損得勘定しかできない。

上記のことは、昔の賢い人々が徹底的に細かく理詰めで徹底的に論理的に組み立てている。数学のようなもの普通現代人はそれを理論として学んでいるわけなので、普通ロジカルシンキングができる。

現代人にとって、上の正義道徳(宗教観の一つ)、人権コミュニケーション政治、などなどは「極めてロジカルなこと」である

日本人は、そのような一般的教養が一切ないため、感想思想土人レベル現代人とはまともに話すことすら困難。上に挙げた分野の教養レベル土人なので、「意見を交わす」のは無理。

アニメゲームエロ趣味とか、そういう与太話しかできない。



日本人ダメもの

メンタリティのほぼ全て

道徳無駄信仰してるが道徳がどんな位置付けにあるのかを全く理解してない

正義が何かをわかっていない

人権が何かをわかってない

法律が何かをわかってない

政治が何かをわかってない

民主主義をわかってない

市民社会をわかってない

全体主義権威主義など自らの従う規範イデオロギー客観視できない

大人の振る舞いとは何かをわかってない

コイツらの言ってる「大人の振る舞い」は、たとえば「嘘も方便」「相手に耳心地のいいことを言って気づかせずに状況を転がす」といったような、宗教観とか文化的感情だけで形式的に決まっているだけのもの所作として綺麗と考える宗教観はあるかもしれないが合理性が一切ない


主権者という観点で見ると、

お金は要らない、餓死してもいい、貧しい生活でもいい、それでもいいか貧乏人のお金を集めてお金持ちをもっと大金持ちにしよう!という政策貧乏人が自身権力によって実現している。

貧乏人が自ら財布のお金を全て渡してくれるすごい国。

お金持ちのお願いは、どんなものであっても(もっとお金を稼いで豪邸を建てたい、とかね)快く大金を渡してくれる、気前のいい人。

関わらなくても大金をジャブジャブくれる。

エロだらけで土人で人を人と思っておらず、論理性がなく、感情的で、慈愛のない人々で、会話は成り立たないので、あまり関わりたくはない。

2023-10-19

余命事件とColabo事件は同じなのか?

まず大前提として、自分は某暇の人格は到底褒められるものでは無く支持出来ないという立場

結構からブロックされているので個人的にムカついた私怨もある。(多分山本一郎東野先生フォローしてたからだと思う。後に後者ミューからフォロ解)


よくColabo問題は暇空一派(暇アノン)の暴走であり、第二の余命事件だと指摘されている。ブクマカでも同様のコメントは多い。

そういう事にしたいのだろうし実際「お前がそう思うならそうなんだろうな」という感想特に主張者に対し異論を挟むつもりは無いのだが

結論から言えばColabo問題(暇空問題)≠余命事件であり

よって余命事件安易に結びつける人間基本的党派性エコチェンバー対立煽りカスなので一切無視して良い。

ブクマカならブロック推奨。問題を語るにおいてはただのノイズしか無い。



ざっくり言えば思想的に偏った(と認定された)弁護士に対し余命というネトウヨアルファネトウヨ扇動し大量の懲戒請求をかけた事件である

表自風に言うのであれば「キャンセルカルチャー」「表現弾圧」の類である

末路としては哀れネトウヨ返り討ちに遭い余命一派は訴えられて終了した。哀れっすねマジで

多分自分達だけで無く、当のネトウヨから黒歴史中の黒歴史扱いされてんじゃないかな?

弁護士の主張がおかしいのであれば言論で対抗すべきで、キャンセルカルチャー人海戦術で仕掛けるのは頭のおかし野蛮人がやる事である

文明人とは思えない。猿以下からやり直すべき話だ。


余談だが、当時の肌感で言うのであれば既に「ネトウヨ」が小馬鹿にされつつあった時代であり、余命にしても一部の極まったエコチェンバーが騒いでいた程度の印象だったが

あの事件在特会体たらくが「ネトウヨ暴走民主主義否定する愚かな国粋主義集団であるというイメージを決定づけた様に思う。


Colabo問題とは何が違うのか?


ざっくり言えば公共性公益性の有無である

余命事件場合所詮はごく一部の弁護士思想的に偏っているだけであり、その職務妨害仕事を奪う事に公益性は皆無である

弁護士おかしいと思うのなら、おかしいと思い支持しなければ良いだけだからだ。

それに思想信条自由がある以上、その弁護士とやらが明らかな犯罪倫理的にアウトな言動をしない限り、個人自由である

余命事件日本国憲法理念を踏み躙り凌辱しようとした文化的集団レイプ事件であると言えよう。

そこに正義は無い。ある意味憲法が嫌いなネトウヨらしいけどなw


しかしColabo(等の支援団体社団法人)の場合は、余命事件とは異なる、しかし重大な違いがある。

Colaboらには多額の公金(税金)が支出されている事である


公金が入っている以上、団体活動にはある種の公共性公益性が求められる為

思想信条の極端な偏り、及びそれに伴う公共性に欠けた事業活動が行われる事は問題を超えた問題である

公金の源泉である一般市民公益性に反する可能性が高いからだ。


自分たちが望む政治的活動がしたいのであれば、支持者の寄付金等の自前資金活動するべきであり

その事業活動に公金を注入するべきでは無い。


故アベ首相モリカケサクラ問題が未だに糾弾されているのも、政権が一個人団体に便宜を図ったという事実

国民全体の公益性を損なう大罪であるからだろう。

この事に対し異論を挟む人間はごく少数派だと考えている。


Colabo問題問題点とは?


問題点、の中でも特に大きな致命的問題はざっくり分けて3つ。

①被支援者政治活動(辺野古基地反対運動など)に参加させた事

活動費の一部で政治活動を行った疑惑がある事

③「リーガルハラスメント」「住民訴訟濫用」等の造語により民主主義否定した事


①は最早説明不用だろう。

強い公共性が求められる公金事業で、本来であれば最優先で保護すべき被支援者政治活動に繋げた事は

事業内容、ひいては団体活動理念自体一般市民公共性公益性に反している認定されても仕方ない。

この点は他のブクマカ増田でも指摘されていたと思うが、本来政治色を最も薄めねばならぬ筈の支援事業

事もあろうに被支援者(一般市民に含まれ人達)を政治活動に参加させる事は、最もあってはならぬ事である


あくまでも自主的に参加しただけ」という言い訳もあったが、支援者と被支援者という権力勾配の関係下において

団体人間に「参加しよう!」と言われたら、果たして断れるだろうか?

支援者が断って不利益を被る、と考えてしまうとは思わないだろうか?

ましてや生活困難な若年女性が、その生活支援されている状況で断固として断る事が出来るのだろうか?


これを「全て問題無い」と言い切れる輩は、党派性エコチェンバー公共性意識に極めて欠けた人間だろう。


①の問題に関連して、②も当然問題だ。

政治活動自体個人自由ではあるが、その活動を支持しない人間にとっては公益性があるとは言えないだろう。

極端な話をすれば政治活動とはその理念共感する支持者達だけが享受可能私益であり公益性からは程遠い。

公金の支出元には、その理念を支持しない人間も当然含まれからである

私が与党色の強い政治活動を到底支持出来ない様に、政治的活動思想を支持しない自由は当然尊重されるべきであり

政治色の強い活動に公金の一部が使われている(疑惑がある)事を容認しない姿勢も同様に尊重されるべきだろう。

公共性とはそういう事である


会計問題疑義についても、公金が入っている以上公明正大な明朗会計本来は為されるべきではあるのだが

残念ながらその理念に欠けている、または人的資源問題により達成出来ない諸団体が多いのが現状ではある。

不正というよりは不適切・不適格な会計処理が存在した、というだけの話ではあると思うが

主に政治活動使用された費用についてはそれは公金なので返金するべき、というのが自分スタンス

支援活動政治活動の境目をなあなあにして不可分にしようとしている(様に見える)点については

悪質性を感じるという人間が出るのは当然だろう。

個人的には「良かれと思って」やっている事だとは思うが、良かれと思って公共性に反した行為をやって良い訳では無いので

今一度公金、つまり一般市民税金が使われている自覚を持って、後処理にあたるべきである

私的政治活動団体活動と繋げたいのであれば、自前の資金でやれば良いだけの話なのだから


③はColabo及び支持者の主張だが、裁判住民訴訟を起こす権利は、国民全員に等しく付与されているものであり

何がリーガルハラスメントなのか、住民訴訟濫用であるかは、法の平等の下、法的に認定される必要性がある。

認定されなければあくまでも一方的な主張であり、その一方的な主張をマスコミを使ってさも事実である喧伝した事は

法の下の平等否定基本的人権の否定、ひいては民主主義社会否定であるとすら考えられる。


例えどんなに暇空が悪質な人間であろうとも、活動疑念を感じ裁判を起こす権利住民訴訟を行う権利

法的に否定されない限り否定されるべきものでは無い。

まるで「何がリーガルハラスメント濫用かは我々が決める」と言わんばかりの強気な態度は

公共性公益性が求められる公金事業に関わるべきでは無いし、関わってはいけなかったのでは無いか

という疑念を強くさせられる。


「良い事をしているのだから良い団体なので何も問題は無い」「良き事をする人達に指摘するのは悪である

という意見を語るブクマカ増田散見されるが、まさしく思考停止に陥ったエコチェンバーに他ならない。

「人の善意は悪意より恐ろしい」という言葉意味理解出来ないものだと思われるが

善意から多少のミスは許せ、公共性に反し被保護者含めた一般市民公益性に反しても「良い事」だから許せ

というのは、自民党ナチス盲目的に信用する脳みその無い家畜と何が変わらないのだろうか?


Colabo問題は余命事件と同じ陰謀論では無いのか?


恐らくこういった趣旨意見を書く増田ブクマカは多いだろう。

しか陰謀論か否かは裁判真実か否かを判定すべきであって

陰謀論では?」という意見を語るのは全く問題無いが

陰謀論だ!」と断定するのは、時期尚早と言わざるを得ない。


そもそも公共性のある問題に対しての疑義を「陰謀論」として片付けるのは

ナチスユダヤ人の主張を「ユダヤの陰謀」として弾圧したのと同義に思えてならない。

モリカケサクラ問題が、どれ程陰謀論だと語られただろうか?

統一教会問題が、山上が最終的事件を起こすまで陰謀論として語られていた事を知らないのだろうか?

北朝鮮拉致事件が「差別主義者の陰謀論」として、有識者議員までもが堂々と主張していた事実を知らないのだろうか?


ある事象に対する疑義が余程の荒唐無稽では無い限り、真か否かが証明されるのは裁判判決であったり

あるいは歴史の結果として証明されるまでは分からない。

少なくとも私には現時点ではかの暇らの疑義が全て陰謀論だと否定する根拠を持たない。(と同時に、全てが真実だと信用たる根拠も持たない)

アノンカテゴライズ陰謀論者の烙印を押せば全ての疑念封殺されるのは民主主義否定に繋がる。

人達がその血を持って築き上げた市民社会の理を否定する道理があるとするならば、陰謀論を語るものこそその道理証明すべきだろう。

不可能だと逃げるであれば、それはただの陰謀論を語る陰謀論者でしか無く、余命事件に群がった脳みその無い家畜の群れと同等である


何故余命と暇空は違うのか?


ここまでに書いた通り、公共性公益性の有無があるが故に

ネトウヨキャンセルカルチャーと言える余命事件には公共性が全く無い一方

公金が支出された事業に対し「公共性(公益性)に反しているのでは無いか?」

という疑念には公共性公益性が発生するからである


例え発端がひょんなきっか(笑)であったとしても、実際の行動に公共性公益性がある以上

それを否定するという事は即ち民主主義否定に繋がってしまう。


勿論単なる誹謗中傷などは裁判で争って下さい敗訴したら当然の報いを受けろカスしか言い様が無いが

(そして裁判の結果が確定するまでは 推定有罪冤罪を発生させた草津事件の再来になってしまう)

その誹謗中傷の中に、「公共性公益性が求められる団体への疑義」を含めるのは間違っていると考えられる。

公共性公益性否定されたのならば、我々の活動には公共性公益性もあるという事を法的に証明すれば良いだけなのだ

それをせず、前段階で御用マスコミしばき隊という左翼在特会みたいな連中を使って騒ぎレッテルを貼り

あるいは訴訟を匂わせ時には個人情報まで使って威圧異論封殺する行為は、権力権威による一般市民への弾圧のものであり

これこそまさに、集団による威力業務妨害弁護士職務妨害し、圧力によって黙らせようとした余命事件と同じでは無いか


マスコミ党派性エコチェンバー集団を使い大合唱正当性を主張した所で、単なる迷惑ノイズしか無く

今まで同様のやり方で正当性を獲得してきたオール左翼のやり方は極めて公共性が無く公益性に欠ける愚行であるので

悔しいながらも住民訴訟については最後までやり切る事を支持せざるを得ないし

その途上で間違ったレッテルを貼り妨害する愚行も、同様に否定していかなけれなならないのが、リベラリストの苦悩であるとも言える。


追記


党派性エコチェンバーの下らない反応は予想していたが、概ねテンプレート通りで何より。

右のアホも左のクズも同じなのだが、根拠もまともに示さずにジャーゴンレッテル貼りを繰り返すばかりでは

サイレントマジョリティから共感など到底得られそうに無いが、そもそも議論をする気も、議論をしようと試みる理性も無いのだろう。

知性はさておき品性に欠けるのは最近自称左派の主流になって久しく、リベラリストを自認する者としては甚だ残念である

過去ネトウヨと同レベルに陥り、失敗したネトウヨが外面を整える事を身につけた結果、相対的自称左派ネトウヨ以下に成り下がった。

党派性に囚われたエコチェンバーは知性と品性貶める証左と言えよう。


アニメ漫画を叩かれてという動機私怨から公共性公益性は無いというブクマカもいたが、これもまた程度の低い人治主義しか無い。

例えばモリカケサクラ問題を追求した人間の中には安倍首相安倍夫人憎悪・敵意を抱いている人間は少なくなかったが

安倍を憎んでいるか不正を追求する事は即ち私怨である、とはならないだろう。

発端がどうであれ実際の行動が公共性公益性に反する動きを追求する行為から大幅に逸脱していなければ

嫌がらせ妨害では無く(少なくとも法的には)「正しい行為」となる。


正しく無いかどうかは、議論であったり法治主義による判断の結果によって定められるべきである

発端や動機が「正しくない」という客観的事実証明する事もせず、「正しくないから間違っている」と連呼するのは

人治主義の極みというよりナチス染みた選民思想とも言える。

「正しさ」の根拠は、少なくとも党派性エコチェンバーの様な社会ノイズ達が決める事では無いのだから

教師をやっていると人間が歪むのはなぜか

noteザッピングしていると、ある作家志望の人の記事が出てきた。

今までフルタイム高校教師をやっていたが、今年からパートタイム教師になり、作家を目指すというのだ。

まあ作家を目指すことじたいは別にいいのだが、びっくりしたのがその動機

今の高校生小説を読まないから、高校生小説を読ませるために、自分小説を書いて小説家になりたい。

私が今まで見てきた作家ワナビーというのは、好きなことを仕事にしたい、お金持ちになってタワマン住みたい、有名になってちやほやされてオフパコしたい、とかの「自分が何々したい」という人たちばかりだっだ。

でもこの現役教師作家志望は違う。

「人に何々させたい」というのが創作動機なのだ

普通市民社会で生きていて、自分が何々したい、なりたいとの欲望を持つことは普通だし、それが資本主義原動力になっていると思うが、人に何々させたいとの欲望を抱くことはほとんどないんじゃないかと思う。

また作家になるためには出版社主催新人賞を取ったり、小説投稿サイトでランキング上位になったりすることが必要だが、そのためには、選考委員や読者の趣味嗜好を分析しつつ、楽しんでもらえるためにはどうしたらいいか相手欲望自分が合わせることが重要になる。

それは、人に何々させたい、と願うこととは真逆行為だ。

教師をやっているような人たちは、人に何々させたいとの欲望を当然のように持っていて、それは生徒に指示命令することを仕事でやっているからそうなったのか、もともと歪んだ人が教師になるのか、どちらにしろ教師人間が歪んでいるなあと思った。

2023-09-04

日本学術会議はなにをしているのか?

最近の処理水放出に関して色々な意見が出ている。問題なしとする意見も多いが、そうでない意見も多く割れていると言っても過言ではない。

twitterでも、有象無象匿名人間だけでなく高名な学者でも政府見解批判し処理水放出に反対する意見がある。例えば

宮台真司 https://twitter.com/miyadai/status/1697486382837407787

水俣で言ってごらん。湾とは違うってか。だったら地球規模の海流シミュレーションと魚介分布の動的重ね合わせを精査しな。精査する義務放出側。実定法は「推定無罪原則=疑わしきは罰せず」。環境汚染は「予防原則=疑わしきは回避」。何も知らないお前がゴミ

山口二郎 https://twitter.com/260yamaguchi/status/1698544796313497990

そもそも廃炉を前提とした処理水放出というやり方が、世界を欺くということを言いたかったわけです。マイナンバーカードと同じく、何段階か遡って、政策意味を考え直すという態度が日本政府官僚にあればとつくづく思う。

牧野淳一郎 https://twitter.com/jun_makino/status/1697964368850571399

第三は、内部被曝評価生物濃縮や、半減期考慮していないこと。告示濃度に対する比率がかなり大きい I-129 は海藻によって数千から数万倍濃縮される上に、半減期が 1570万年と長い。

いずれも一流大学に属する高名な学者であり、様々な論点を述べている。

学術会議もさ、「日本学術会議とは」(https://www.scj.go.jp/ja/scj/index.html)に

とか挙げてるのなら、こういうとき意見の整理なり、科学事実の把握なりした上で提言や、談話などの発表をするべきじゃないの?

政府から諮問されていないから答えなくていい、とかい意見もあるけど、過去提言とか別に諮問されてなさそうなのも沢山あるじゃん。こういう科学的なことで多くの人が混乱して困っているようなときに助けにならないって存在理由ないんじゃない?10億円って国家予算からしたら大したことないけど、年俸1000万円の人間100人分の人件費からね。Xみてたら若手研究者給料は500万円くらいらしいから、若手なら200人分だよ。

政府に反対意見を言える組織は貴重だから本来学術会議はあった方が良いし、政府は任用問題での干渉もやめるべきだと思う。しかし現状では反対でも賛成でもなんの意見も言えていないのだからタダ飯食らってるだけの無駄存在と言われても仕方ないのではないか

2023-09-03

anond:20230903190143

これが全く守られてないからじゃね?

学者や学徒の知見が専門家に影響を与えて専門家社会に影響与えるので、直接法的な責任はなくても道義的責任はあるよね」とか

知識の差があるので知識のある側は無い側を責めないこと」とか

専門家が事後的に検証批判をすることで市民社会責任を果たしましょう、市民はそうするように専門家要求するのも責任です」みたいな

自然科学工学危険性的な話では当たり前のように出てきた初歩の初歩の話が全然出てこないんですよ。

人文学社会学危険性についてもっと考えたほうがいいんじゃねえの?

自然科学工学危険性というのは失敗例が重大かつ大規模(公害非人兵器医療事故etc)になるので

少なくとも20世紀末以降の日本では

自然科学工学には危険性がある

専門家も非専門家意識して対策をとる必要がある

という程度のコンセンサスはさすがに確立してるんだけど

翻って日本社会って人文学社会学もつ危険性に鈍感すぎるんじゃね?ってのがここ十年近く思う事。

直近だと以下で

https://note.com/000gwen/n/n1f395563e1b7

「こういうことがこれからどんどん起きるんだろうな」と想定していた感じのことがまさにそのまま起きたようなケース。

上のnoteは少し経緯が不足してるので補足しつつ経緯を書くと

・王谷晶っていうレズビアンでLGBTQ+寄りの本書いたり帯文寄せたりしてる作家がいた

過去トランス差別批判されたが謝罪反省SNS上でトランス女性女性と認めないフェミニスト(TERF)を批判したりしていた

・王谷晶が「LGBTQ+にはペドファイル小児性愛者)は含まれない」的な発言

・LGBTQ+界隈でジェンダー学を専門に学んでる連中からペドファイル差別だ、ペドファイルチャイルドレスター児童虐待者)は違う」とSNS上で詰められる

・王谷晶が帯文書いたLGBTQ+本の日本語版翻訳者出版社に公開抗議文謝罪か帯文撤回を求める

出版社全面謝罪、王谷晶も「ペドファイル差別しません」と公開謝罪し鍵垢、小児性犯罪被害者だった過去などを告白するなどかなり混乱した内容

ジェンダー学を専門に学んでいない一般左派が「ペドファイルはLGBTQ+には含まれない、チャイルドレスターと似たようなもん、犯罪者予備軍なのでパージせよ」とSNS上で抗議

・そこだけ読んだ非左派議論オタク連中が「ペドファイルだろうが手を出さなければ内心の自由範囲内、自由を守れよ、つーかいもの反差別はどうした?」とSNS上で絡む

一般左派が「ペドファイルをLGBTQ+に含めようとするのは反左派オタクデマ工作」と騒ぐ

・TERFが「いやペドファイルをLGBTQ+に含めようとしたのはジェンダー学の連中だろ、そもそもLGBTQ+運動自体が狂ってる」と騒ぐ

ジェンダー学連中は凍結されたり、残った連中も旗色が悪いからだんまり議論オタクは飽きてどっか行く、TERFと一般左派喧嘩し続ける

・結果としては、本当に正しいかよくわからない理由出版社作家が公開謝罪させられたが、たぶん検証とかはされない

という、カオスまりない状況。

ここで考えてほしいのは、上の連中のどれに賛同するかって話以前に

ジェンダー学の結果を社会に直接反映しているのに結果責任を取らない、とる能力がない学者専門家サイド(出版社ジェンダー学界隈、作家

ジェンダー学の内容(主張、学問根拠歴史的経緯)を把握せずにジェンダー学の議論だけ使おうとして失敗している非専門家一般左派、TERF、議論オタク

対立状況って、科学コミュニケーションとかで言われてた「学者専門家市民コミュニケーションの失敗」のまさに典型例なんだけど

くそう捉えて扱おうとする社会学者やらが全然出てこないことなんだよね。

これって異常じゃね?


すくなくとも

学者や学徒の知見が専門家に影響を与えて専門家社会に影響与えるので、直接法的な責任はなくても道義的責任はあるよね」とか

知識の差があるので知識のある側は無い側を責めないこと」とか

専門家が事後的に検証批判をすることで市民社会責任を果たしましょう、市民はそうするように専門家要求するのも責任です」みたいな

自然科学工学危険性的な話では当たり前のように出てきた初歩の初歩の話が全然出てこないんですよ。

なんでだろう。

なんでだと思う?

色々仮説はあるんだけど正直よくわからないというのが第一なんだが

そもそも論として「人文学社会学危険性」自体学者専門家にすら認識されてないというのが理由だとしたら

「それって自然科学とか工学の話ですよね?今関係あります?」と本気で思われていたら

中々恐ろしい話ではないだろうか。

2023-04-17

結局山上はどうすれば良かったの?

これに答えられないなら「テロ正当化するな」は全部空論だと思うんだよね。

山上の主張が市民社会的に受け入れられない内容ならともかく、結果としてタブー化されていた統一教会の悪行をなんとかせなあかんってなったわけで。

統一教会日本でやりたい放題やって多くの日本人を傷つけていたのも、集票装置として便利に使っていた大物政治家が便宜を図っていたりマスコミ忖度していたわけで、ここで山上平和的な手段で訴えても黙殺されていたんじゃないの。

2023-04-03

ああ、やっぱりこいつもクズだったか

仁藤夢乃 Yumeno Nitoさんがリツイートしました

スパルタ

@sparta_cc

15時間

良い記事だった。常識的に考えてもデマを信じて妨害行為を行う連中の方がおかしいのがわかる。

歌舞伎町でさまよう少女の居場所を作った社団法人『Colabo』仁藤夢乃さん、妨害誹謗中傷にも“屈しない”生き方「たいがいのことを済ませてきた」

https://twitter.com/sparta_cc/status/1642311002107822080?s=20

いい記事な分けないでしょ。都合が悪いことに全く触れないんだから。これだけ平気で嘘をつくってどこまで面の皮が厚いのか。

普通ならこんなの編集者が辞職するレベルです。安田浩一デマ屋としてノンフィクション作家ではない。嘘つきです。

仁藤夢乃RTするアカウント、まんまデマツィートをするか情弱なんだよね。

市民社会の敵。こんなクズしかフェミとかジェンダーとか言っているわけ。

まあmiabi39mamaみたいに批判側にも実はcolaboのみかたはいるけど。

ここのRTはすごすぎる。誰がだめで日本のガンなのかわかってしまう。

でも護憲とか反戦とか言っている人が多すぎないか

2023-03-03

anond:20230302202605

こういうのとか、話題になってる女子トイレ問題とかが、市民社会では一番困る。

被害者加害者支援すべき社会的弱者属性だった時、どっちを擁護すればいいか困る。

被害者女性児童のような弱者だったら被害者を全面擁護するし、加害者難民有色人種だったとき加害者擁護したけど、どっちもだと解が出ない。

2023-01-03

困窮者支援専門性、Colaboに期待すること

監査請求が通ってコラボ不正会計疑惑いくらか目鼻がついてきた一方で、功罪あるとしても功の部分についてはこれまでもこれから必要なことだとの声がある。

かれらは公金を掠めて恥じない悪意の団体なのか。誰もやりたがらない崇高な仕事をやってきてくれた正義の人々なのか。みたいなことは実はどうでもよくて、いずれにせよ能力を越えた範囲仕事本来行政がやるべき範囲仕事を抱え込んだ時点で、質の低い仕事と公金垂れ流しの歯車は自ずと回り始める。

ボランティアとか非営利公益団体には向いている仕事とそうでない仕事がある。

例えば災害の後片付けのような集中的なマンパワー需要によく応え得る。しかしその後の復興期に居座って「コミュニティ再生」みたいな尤もらしい目標のために親睦イベントみたいなのを打ちまくって無意味住民疲弊させたりする。素人でも手が出せそうなところをつまみ食いしても本当の意味で「コミュニティ」をどうこうなんてできないから。

家庭に身の置き所がなくて街を彷徨少女キャッチする。そして食事やベッド、安全安心できる一時避難所提供する。それはいかに民間志向きなミッションである

その次は? いわば社会入り口を見失い先の希望を失った子に、どういうリカバリールートがあり得るか具体的な相談に乗れる人が必要になる。教育職業訓練必要ならば医療家族への介入、それぞれのプロに繋がるハブでもある。要はケースワーカーだ。その職能善意や熱情で代替できるものではない。

そして、一時避難よりあとの長いスパンでの生活基盤の保障。これも公の役割であり、そもそも一般社団法人なりを経由させる必然性がない。

要するに民間団体に期待されるのはキャッチ役と純粋なヘイブンの提供までだ。

とにかくそこに行けば飯とベッドがあり、詮索や説教なしで供される。「この先どうするつもりなのとかのウザい話は今晩はナシですよ、私たちはお役人じゃないんで」との役割に徹し、行政に引き継げばいいものを。

「そこに行政が待ち構えてないからウチラがやるしかないんじゃないか!!」と言うだろう。そうなんだ。そこに行政が待ち構えてないと、どっちみち全ては絵に描いた餅なんだ。

からって分を越えたことをやろうとするんじゃなく、また無駄にいがみ合うんじゃなく、みんなで行政のケツをぶっ叩くのが本当だと思うけどね。やるべきことをやれ、やるべきことをやってないのを隠すために非営利団体を利用するなと。

さて「恩知らずの元少女」の増田

https://anond.hatelabo.jp/20230102104157

にあるように、その敵対的姿勢は身を守る鎧でもある。みっともないトゲトゲ鎧を下手に脱がそうとせず、物理的な支援によって心理的安全性の担保に努めつつ、プロの手に引き継ぐべきである。要は善意で親身になって距離を詰めること自体が侵襲的なんだよ。

池内さおりのラインメッセージリークされていたが、あの内容の何が問題かわからないというブコメが多かった。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/himasoraakane/status/1609824412395790336

前後文脈がわからないのでこれだけでは事の是非を判断できない」のはその通り。「これが問題になり得るとは思えない」としたらかなり想像力が足りない。

アダルトチルドレンだとか毒親とか、精神医療臨床心理の周辺の俗流用語概念には常に流行り廃りがある。

「それ毒親だよ!逃げていいんだよ」と流行りのフレーズをぶつけられて、抱えていた不定形の苦悩にシャープ輪郭が与えられ、状況が好転するきっかけになる者もいる。「そうか、あれもこれも毒親のせいだったんだ」と思い込みに凝り固まりちょっとした行き違いが転落のきっかけになる者もいるだろう。誰彼構わず虫下し飲ませて「ちょうどギョウ虫わいてたんだ、助かったよ」ならば結果オーライだが、その余はただ身体に毒なだけである

不安定状態未成年者に「家族と縁切っちゃう手もあるよ、その気なら協力してくれる人もいるよ」みたいな甘言を提示することも同工。時と場合により猛毒だ。どういう時と場合だったのかはわからない。

ちょっと追記

暇空氏が池内さおりのラインリークを爆弾ネタだという所以は「ほーら共産党と強い繫がりがあるだろ」というばかりの薄っぺら意味だったようだ。だから何なんだよ。そういう所がつくづく付き合いきれない。その行動力一定の敬意は払いつつ。

藤氏みたいなガサツな正義マンには本当の所を言うなら若年者支援なんていう繊細な仕事はしないでくれと思っている。でも100点満点の支援者を屏風から出せるわけじゃないからさ。せめて後進が「あの轍は踏むまい」と反面教師にすることを期待する。大きく言えば市民社会文化的成熟していく一助にならんことを。

2022-12-20

韓国ブログから:仁藤夢乃コラボ福祉団体ではなく政治団体であり

韓国フェミは異常であり、韓国の真似をしていたら国は消滅する。実際に韓国人口を維持するのが不可能レベルになりつつある。これにさらに4N運動ダメ押ししている。

韓国は今ウクライナポーランド兵器を輸出しているが、あまり将来の希望はない。そしてプロテスタント弁護士インチキ学者マスコミ宗教団体人権団体税金チューチューをしている。

弁護士を昔の人が嫌ったのは当然だったわけである

このモデル日本に持ち込んでいる。

201710/10記事

http://weekly.khan.co.kr/khnm.html?mode=view&code=115&artid=201710101853431

[特集]合法的ポルノ市場なら大丈夫でしょうか?

パク・ウンハ記者

日本式でポルノ合法化するのが代案だろうか。 去る9月26日政府デジタル性犯罪被害予防対策を発表し、関係省庁は一死不乱に後続措置に入った。 関連規定点検し、業界関係者を呼んで意見を聞く討論会公聴会の席がほぼ毎日続いている。 同時にポルノ合法化を主張する声も出ている。 合法的健全な成人コンテンツの道を開いて「ソラネット」のような賑やかなサイトが出ないようにしなければならないという主張だ。 政府対策が発表される約1カ月前からフェイスブックを通じてファンディング要請するアカウントも生じた。 しかし、デジタル性犯罪問題が十分に解決されていない状況ですぐに「合法ポルノ事業」を言うのは危険だという声が出た。 声の震源地は変わらない日本学者活動家たちだ。

注目すべきは次のパラグラフである

9月23日中央大学310館B502号で開かれた「デジタル性犯罪シンポジウム」で、日本活動家のニト・ユメノが日本JKビジネス女子高生イメージ活用した産業)について発表している。 この日の学術大会デジタル性犯罪アウト、中央大社会学科、希望種子、十代女性人権センター、性売買問題解決のための全国連帯と日本市民社会団体コラボ(Colabo)、慰安婦運動団体である正義記憶財団希望種子が 共同主催した/チョン・サンビンインターン記者

はい、ここですね。矯風会という狂った性概念もつカルト、その傘下の希望の種基金尹美香お金はどうしたんでしょうね?)Colabo、慰安婦を利用して寄付金を集め、ほぼすべて自分のために使った尹美香正義連、揃ってますね。

ここで分かる通りコラボ福祉をやる団体ではないです。最初から寄付金を集めてデタラメをやる連中でしかない。

ここから分かる通り、プロテスタント系の団体は全く信用ができない。統一協会キリストの幕屋はいうに及ばず。ホザナハウスにしてもそうでしょう。結局韓国に言ってしまえば統一教会から矯風会までプロテスタントの枠に入ってしまうので同じです。

看板が違うだけでやることは親北か反北の違いしかない。

あとで言っている国際人権団体とはヒューマンライツ・ナウ伊藤和子のことです。そして彼女統一教会と強いつながりがある赤沢りょうせいは「同志」と呼んでAV法制定しています

条文もめちゃくちゃ。それにAVとは書いていない違憲法律であり、およそ国会議員としてあるまじきレベルです。

そしてやっぱりこの界隈の関係者なので、これまた利益相反男性セクハラで訴えて弁護士報酬を儲けようというれんちゅうばかりということです。

次のパラグラフを見てみると同じ9月23日、PAPSも来ていることがわかる。BONDと若草はこの頃はなかったか

出演者欺く日多反射のAV撮影

日本市民団体PAPS(ポルノ被害と性暴力を考える会)で活動する金尻和菜は9月23日、中央大で開かれた学術大会デジタル性犯罪シンポジウム」で日本の成人ビデオ(AV)産業の不慣れを伝えた 。 韓国研究者たちと活動家たちが「盗撮犯罪」を持って出てきたならば日本で深刻なデジタル暴力問題になっているのが「合法的製作されるAV」だった。

このようにコラボパップスAVを潰してお金を設けるために一生懸命だったわけです。当然ながらヒューマンライツ・ナウもそうです。人権団体ではなく利権団体だったわけですね。

日本の事例だ。 2016年3月Aさん(日本人)はインターネットアルバイトを探していた。

草津温泉事件を思い出してみましょう。被害者は嘘をついていました。これは匿名であり全く信用ができません。虚偽というレベルしかないわけです。

さらにこのように2017年からAV非合法化することにコラボ、ぱっぷすI(APP研)、矯風会は熱心でした。そもそも矯風会セックスワーカー差別しているカルトです。したがって、コラボが体を売っているような女の子に優しいわけがないのです。とんでもない連中にやらせていると言えるでしょう。

この日、シンポジウムでは「合法的」として知られていた日本AV産業界の敏感さが荒々しく現れた。 AVプロダクション契約書には出演義務に怠ると損害賠償請求訴訟を提起することができ、撮影完了した後の妊娠性病に対しては一切責任を負わないという内容も込められていた。 「合法」としても出演者を欺くことは非日常的だ。 出演者撮影が終わっても正常な人間関係不可能になる。 映像がずっと歩き回っていつか家族や近い人にバレるかもしれないとトラウマに苦しむ。 すべての過程韓国違法撮影被害者と似ている。

このようなことは一切ありえず、でたらめです。この当時からそうですね。そもそも妊娠させないし性病もないですね。盗撮被害者と一緒にするのは頭がおかしい。ぜんぜん違うわ。しかもぱっぷすだけ読んで実際のAV女優に効かない連中は偏見に満ちた連中であるしか言いようがないわけです。

たとえていうなら五輪CMが全部おっさんなら差別と言います。それと同じですね。これも完全に差別ですし、ジェンダー平等でもなんでもない。フェミニストは意識が低すぎる。こんな連中ばかりだからジェンダー平等なんてインチキしかないわけです。およそフェミニストは差別主義者ということ以外言えないわけです。またバッキー事件告発したのもAV業界なんですよね。それすら知らない。こんな一方的に言うのはぱっぷすだから

全部被害者のように書く韓国人のフェミ女性は異常です。どこまで差別意識に染まっているんだろう。

以上のようにゴリゴリ差別意識と歪んだ宗教観、歪んだ性概念に染まった連中によく税金を渡していたなあと思います。そして有識者会議に呼ぶ。あり得ないことです。

さら領収証もまともにありませんし、残高証明書も出ていない。

どうなっているのでしょうか?

少なくともこれらの関係者を有識者会議に呼ぶ、有識者会議立法させる、条例化した法律化したものは即時執行停止する。これくらいのことをしないと、防衛のために増税というわけにはいかないでしょう。

9兆円の男女共同参画予算はこの税金チューチューシステムによっておそらく9割は横領されています。なにしろ最大のコラボですらいらないのですから

すると8兆円くらい浮きます。ここを改めるだけで防衛費は出せます。あまり出しすぎると国連敵国条項抵触して集中砲火を食らうので、全部は無理ですが。

あとマスコミも、女性記者を同数にするとか、こういうコラボのような税金チューチューシステムアシストする連中を増やしてどうするのでしょうか。新聞はいらないし、そうした編集者もいりません。全員嘘をつきでたらめばかり言う。不利なエビデンスを隠すのですからダメなんでdす。

デタラメばかりやる男女共同参画はやめて、能力に応じた社会参加ができるように、そのための機会は平等に与えられるようにする。そういうものです。

2022-12-14

anond:20221214192046

どっちか言うとそういうネオ部族社会をやってるのは日本やと思う

日本は巨大な部族社会を作り上げているが故、部族の外と見なされた落伍者に冷淡なんやと思う

西洋は、市民階級闘争権利を勝ち取った文化(かどうかは怪しいけど少なくともそう自認している社会)だから

内と外という認識にそこまで敏感でなく、「市民」というまだ若くて雑な概念肩書を身に着ければ、権利を持った市民だと認識される(ということになっている)

部族社会西洋市民社会の間には、そう簡単に行き来できない大きな隔たりがある

結局日本西洋じゃ、同じような民主主義という手法を取っているように見えて

実際の背景とかを考えたら根本から違う社会形態なんだろうなぁと思うよ

2022-11-28

anond:20221128222415

気持ちがわからない」ことの概念理解して次のステップに行ける障害者本人がそもそも少ないこと、

あと社会コミュニケーション能力の優劣を「上下軸」として階層化されている状況下においては「特別」もとい「特殊であることを認識していないと社会に最低限度の生活保障してもらえないので障害

そもそも気持ちがわからないのレベル字面よりも重たい(それこそ欠損レベル)なので、市民社会コミュニケーション階層生存している以上社福祉として支えなきゃいけない

なので障害者福祉享受は「特権」なんて良い物ではなく下駄もっと言えば下駄を履くための足袋役割なので、福祉ですらスタートラインの手前

福祉の部分蛇足でしたわ

2022-11-20

なんだっけ。忘れないうちにメモ


最近ゴッホ絵画など芸術作品トマトスープをかけたり、ウォーホルアートカーに小麦粉をかけたりする気候変動対策を訴えながら過激抗議活動が耳目を集めている。

ブクマもよくされているが、ほとんどが環境テロ、という認識で眉をひそめたコメントにあふれている。

もちろん許されない犯罪として国内外報道されているわけだが、しかし、海外メディアでは、テロという表現ラベリング)は少なく、抗議団体自称するCivil resistance市民抵抗)という表現を紹介していることが多い。正直、この種の活動で昔から有名なグリーンピースもそうだが、テロ呼ばわりされてもおかしくない運動ではあることは確かだが、報道ニュートラルに構えているのだろう。

そんなおり、斎藤幸平が、「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解しないのは、日本人想像力の欠如だ、と述べてブコメから総すかんを食らっていたのをみかけた。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/631285

しかそもそもテロという認識日本では強いのはわかるけれど、実は欧米での反応というのはそれほど強くなく、むしろ彼らが自称するCivil resistanceへの一定の理解の上に立った報道も多く見受けられるように思える。

https://time.com/6234840/art-climate-protests-margaret-klein-salamon/

そして、よく考えると、そもそもテロまがいのデモというのは、現代人権歴史を振り返ると、一定程度、社会変革の不可避な副産物として、憲法などのシステムビルトインしてきた経緯がある。典型的かつ最初の事例は、20世紀初頭の資本主義社会における労働環境を前提とした社会権。

この問題は二つの視点から興味深く、注視している。

ひとつは、抗議のコンセプトの抽象性。

もうひとつは、抗議運動市民社会的な価値

抗議運動抽象性について。

https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/508によると、世界的な環境活動グループ「Extinction Rebellion」の共同創設者であり、ジャストストップ・オイル活動に加わっているサイモン・ブラムウェルは、アートニュースインタビューで、若い活動家がこの抗議行動のスタイル選択した理由を次のように説明する。

「これはアートの美しさを否定するのではなく、今の私たち優先順位絶対的おかしいということを言いたいのです。アートに美を見出しギャラリーを訪れる人たちがいる。にもかかわらず、消えつつある太古の森の美しさや、日々絶滅していく何百もの生物たちには目を向けないのです」

アートの美しさを否定しないといいつつ、美の概念の相対化というか、再構築といった意味では、形而上学的な禅問答である

この説明を聞いて、素直に納得できる人の割合が多いか少ないか、という視点でみると、ヨーロッパに比べると恐らく日本人は少ないだろう。

アリストテレス時代から愛だの美だの徳だのといったことをテーマに発展した形而上学から学問が枝分かれしてきた欧米と、近代以降のすでにたこつぼ化した個々のジャンルとして完成形をみた成果を受け取ってそれを解読して発展してきた日本では、こういう抽象的なテーマの抗議の趣旨理解できるのは圧倒的に少ないだろうと想像できる。

これは、作品の美の価値が分かればわかるほど、スープをかける行動の意図もわかる、という構図でもあり、実際、被害を受けた美術館環境問題の意義に言及するなどしている。作品に接したこともなく、それこそ「ウォーホル」だ、「ゴッホ」だと資産的な記号程度にしか理解していない人ほど抗議行動の意図自体を測りかね、なんじゃこの奇行は?という反応になっているようにみえる。

そういう意味では、当然、環境急進派の行動は、そもそも抗議の意図が分からない地域では成功しない(日本ではテロ以外の認識は生まれないだろうし、絶望的に無理だろう)。

しかし、欧米では、意外と功を奏しているのかもしれないと思える。感心はしないが、ああ、なるほどね、くらいの素養のある人は日本よりは多いだろう。

おおざっぱにいうと、日本人経験から教訓を得て社会設計をしていくのが得意。いわば帰納法的な解決が染みついている。一方、欧米、ひろくラテン系言語圏含めて、日本人とは比べ物にならないほど、なにかにつけ演繹的な入り方をする。言葉定義からまり指導原理を引き、タスクを明示する、という物事の進め方へのこだわりが強い(日本人自分からみると)。

組織でも、経験常識が共有できていないと不安なのが日本人

一方、構造化された概念ルール化された行動原理(法)にのっとって行動する、という相互の信頼がないと不安なのが欧米社会。そこに、デモ過激運動の機会に、自分たちが共有していない別の概念オルタナティブとして提示されたときにみせる反応というのは、おのずと異なる。


そのもうひとつ理由が、市民不服従という考え方や人々の認識の違い。

日本人社会迷惑をかけるのがとにかく大嫌いなのだ

欧米では、恐らく日本人想像している以上に、Civil resistanceというアプローチ自体価値社会変革のダイナミズムとして認めている。

それが今回の場合、限度を超えたものであり、法的に違法である、というときに、運動趣旨理解はするが違法である、という具合に飲み込みながら。

この違法性というのは、実は重要視点。それを理解するには、市民社会根本から支える憲法など、法について考えないとわからない。

近代から現代20世紀に法の考え方が近代法が大きくバージョンアップした際に、社会権が組み込まれたのは、中学生で習う話。

日本学校では昔から社会権を生活保護など、上から目線な形で教えてきた傾向があった。

しかし、社会権のうち、争議権を思い出してみればわかるように、実際はボトムアップな契機をはらんでいる。

他者危害禁止近代法の原則をはみ出した形で、ストやピケなど市民的な抵抗暴力性を認める市民権が存在する。

考えてみれば、他者に損害を与え暴力的な行動をとっていい、というのが「労働」に関してのみ例外的憲法に組み込まれている、というのは、よくよくなぜなのか歴史を知っておく必要がある。一歩間違えれば、革命トリガーになりかねないボトムアップ暴力。これをあえて憲法に明記するのは、明記することでコントロールしたいという、上と下のせめぎ合いのようなものも感じる。しかし、なんだったらいつでも政府おかしければ転覆して革命をおこせるんだぜ、と市民に思わせておく、オーナーシップ感覚絶妙バランスで持たせる機能果たしているともいえる。

マルクス時代、そしてワイマール憲法時代社会権を育んできた思想運動社会歴史のなかで、当時「労働」が最重要課題で、社会権の大きな柱として考えられたのは自然な流れだっただろう。抵抗暴力は、労働問題を争うツールであるというのが20世紀だった。しかし、抵抗暴力資本主義社会のなかで、たまたま労働キーワードになっただけであって市民社会としては、労働である必然性はない。20世紀には「環境」といったテーマシステムビルトインされなかったわけだけど、80年代後半にブルントラント委員会が「我ら共有の未来」といって今日SDGの原型となるコンセプトを立ち上げたときに、労使間に代わる、世代間の闘争といったことがテーマになりうることはうすうす予測がついていたように思う。

なので、抵抗暴力労働問題ではなく、環境をめぐる世代問題だとしても、その新たなムーブメント市民社会における意義が注目されるのも自然な流れだ。

ここで、はい違法です、はいテロです、といってしまうのは簡単だが、思考は停止する。


一方日本では。

労働」というキーワード戦後日本ははじめて市民不服従権利を手にした。市民社会における抵抗という考え方に「労働」というコンセプトが、時代要請でむすびついていた、というのは押さえておくべき文脈

GHQの五大改革から。勤労者から労働者への主体認識の転換。

しかし、その権利過激行使は、1950年代から60年代大衆の心を猛烈にイラつかせた。

日本高度経済成長を支えた大手企業は、大規模な争議に悩まされた。

民間では、1960年三井三池炭鉱紛争など半年を超える争議も珍しくなかった。しかし、ほぼ100%ユニオンショップで、従業員全員が労働組合員という会社組織風土のなかでは、会社家族みたいなものであり、労使一体みたいなのが当たり前であり、60年をピークに民間の争議はピークアウトする。そのなかにあって、国鉄だけは年中行事のように、順法闘争ストライキを繰り返して市民生活に甚大な影響を及ぼし、会社のみならず社会的に損害を与えた。さらベトナム戦争反対や成田闘争など、新左翼政治闘争が加わっていくなかで、日本人のいら立ちは頂点に達していく。

国鉄やら共産党やら新左翼にひどい目にあわされた、という日本社会のこの経験というのは、争議だなんだといっても社会迷惑をかけてはいけない、という教訓を強く残し、憲法に組み込まれ暴力的な契機をできるだけ抑制的にするべきだ、という認識支配的になるきっかけだったんだろう。1973年最高裁は、それまでリベラル保守裁判官の間で揺れ動いていた官公労組の争議権の是非について、完全に保守化の方向に舵をきり、封殺する結論に至る。公労協のスト権奪還スト(1975年)を時代の潮目に、公社民営化路線が進められていく。争議権だかなんだが知らないが、憲法に書いてあったとしても、市民としては正直、うんざりしてしまったというところだろう。戦後、長い間、政治闘争旗手として大きな存在だった総評、そしてその大半を国労が占めていた時代は終わる。

ということで「労働」をキーワードにせっかく手に入れた不服従暴力は、迷惑をかけんじゃねーという市民社会常識を繰り返し強化する経験を重ねることにより、空洞化した。

その後の日本社会では、エスタブリッシュメントと化して長い間、社会運動の先頭に走っていた労組が今度は勢いを失うと、どういうことになるか。

例えば、正規雇用非正規雇用ギャップみたいに新たな問題が浮上してきたとしても、ユニオンショップ非正規も入れてあげたほうがいいんじゃない?、という手続き的な、上から目線的な議論の仕方に収れんしてしまう。日本社会があまりにも保守化してしまって、そもそも争議という暴力的な手法は何のために憲法というシステムに組み込まれたのか、根本的な思想がわからなくなってしまっているようにも思える。言い換えると、憲法さらメタ視点からとらえる思想的な背景がさらに弱くなっている。

歴史を振り返ると、20世紀初頭、メタ視点があったからこそ、資本主義社会の現状と課題に即して、社会権という新しい権利が組み込まれたのだが、現行憲法を頂点とし、人権普遍性憲法の最高規範性を強調してしまうと、憲法思想根拠はと問われたときフリーズしてしまう。日本では制憲者の意思議論は起こらず、代わりに基本書読め、といってなぜか憲法学者に振られるのが定番。(制憲者があいまいなのも諸悪の根源かもしれないし、ステートに対するネイションオーナーシップの違いとも思える。)

欧米環境運動というのは、あるいはLGBTも同様だけど、恐らくそうじゃないんだと思う。

既存規範に書いてないものであっても、新たなムーブメント意味真剣に見極めようとする思想文化があるんじゃないと思える。

そのムーブメント暴力性を違法認識しつつも、時代ダイナミズムとしてとらえようとする、というか。

繰り返すと、

・美の概念など、概念の構想力、概念について深く考えたがる文化の違い。

憲法など国の根本的なシステムアップデートするのに必要社会ダイナミズムへの関心の低さ。

この二つをひとまとめにして、斎藤平氏のように想像力の欠如といってしまえるのかもしれないが、因数分解すると、社会設計をするのに基本的重要な2つの能力、この二つには欧米社会と大きく差があるように思える。

2022-09-30

昔の不良は偉いよ

遅くとも20歳そこらで頭切りかえてカタギの仕事就いてんだからほんとに偉いと思うよ。

自衛官とか板金屋とか自動車ディーラーとか電気工事士とかダンプ運転手とか型枠大工とか漁師とかさ。

高校卒業して相変わらず不良やってると本気で引かれる文化あったらしいし。

かにキャリアの途中、反則金払い忘れて逮捕されたり、飲み屋で他の客と喧嘩して留置所入れられたり、お定まりの失敗は10年に1回とかやらかすけど

そういうあってもカタギの仕事を爺さんになるまでずっと続けてる。元不良なのに。

オレオレ詐欺やったり、銅線やハイエース盗んだりして、いい歳こいても市民社会に帰ってこない平成令和の不良は恥ずかしいと思う。

ちょっとは見習え。

2022-07-29

トランス女性排除派の不都合現実

最近Twitter では過激トランス女性排除派が跋扈している(ように見える)んだが、

この手のトランス女性排除派が見えて無い現実について、雑多に書きたいと思う。

ちなみに今回の話はフェミであるとかないとか関係が無く、

あくまで「トランス女性女性用スペースから排除する」と言う事を肯定している人間を指します。

トランス女性排除すればするほど女性一般被害者が増える

これは「は?何言ってるんのお前?」と言われそうな話なんだが、単純な算数比率問題で、

例えばある女性用スペース(A)を利用する人間10人いたとして、この内1人がトランス女性で、残りは9人普通女性一般だったとする。

この前提でこの女性用スペース(A)で2名性暴力被害を受ける事案が発生すると、仮に1名のトランス女性被害に合った場合

そのスペースを利用する女性被害に合い得るのは残りの 9名で、この場合だと性暴力に合う人間トランス女性が1名、女性一般が1名となる。

しかしこの女性用スペースからトランス女性を完全に排除し、女性一般しか利用できない様になった場合

前例と同じ様に2名性暴力被害を受ける事案が発生すると、今度は確実に女性一般の2名が性暴力被害に合う。

まり、ある女性用スペース(A)からトランス女性排除すればするほど、その女性用スペース(A)の女性一般比率は上がって行き、

トランス女性の完全排除が成された場合には、その女性用スペースで性暴力の事案が発生すれば女性一般被害に合う比率100% になる。

こう言う理屈からトランス女性排除派は「女性一般安心安全」を守ると言うことを目的(だよな?)としてトランス女性排除を訴えるが、

実際には女性用スペースを利用するトランス女性排除すればするほど、女性一般被害者となる確実性が上がってしまう。

なのでこの辺りがトランス女性排除派が見えてないか、あるいは都合良く無視している事の一点目だと俺は思う。

トランス女性女性用スペースから排除したところで、男性一般の性暴力は減らない

次にトランス排除派に取って都合が悪い、と言うか分かってないだろうと思われる事は、

女性一般安心安全を守る」と言う名目トランス女性排除肯定し続けると、

トランス女性排除」が女性の身を守る解決策だ、と言う思い違いが発生し、

本来解決すべき問題から目をそらす結果に繋る、と俺は思ってる。

まずそもそもの話として、なんで女性用スペースからトランス女性排除するのが肯定的に捉える向きがあるか、

と言えば、トランス女性の出生時の性別、つまり男性から暴力を受ける身の危険などがあるためで、

これは性暴力の多数が男性一般からのケースが多い、と言うのが理由になっていると思う。

そしてその上で、だ。

まずトランス女性(出生時には男性)と男性一般比率を考えると、これはどうがんばっても男性一般の方が比率が多い。

まぁ具体的なデータを持っている訳でも無いんで常識的範囲での考えだが、社会一般トランス女性男性一般より数が多い、

なんて事は、当事者会の現場でも無いかぎり、まず有り得ない、と考えても良いだろう。

となると、社会に多い「出生時男性トランス女性男性一般の合計)」の内、「女性一般安心安全を守る」、

と言う目的を達成するために干渉しないとダメなのは本来であれば男性一般の方で、トランス女性ではなく、

暴力を振ってくる様な男性一般から身を守られなければ、女性一般の性暴力被害は減りようが無い。

そして先にも言った様にトランス女性男性一般の数としてはトランス女性の方が数は少なく、

男性一般の方が明らかに多いと言う事実からしてみれば、

女性に性暴力を振ってくる「出生時男性トランス女性男性一般の合計)」の内、

そう言う行為を取ってくるトランス女性必然的に少数となる。

まりトランス女性排除を「女性一般安心安全」を守ると言う観点から見た時、トランス女性男性一般比率から

トランス女性排除「だけ」を熱心に行なうのは「女性一般安心安全」を守ると言う目的からしてみれば焼け石に水で、

少数のトランス女性犯罪者をなんとかするより、多数派男性一般犯罪者をなんとかする方が効果的だろう。

さらに補足すると、Twitter跋扈する様な過激トランス女性排除派は、トランス女性こそが女性一般を襲ってくる犯罪者だ!

と言わんばかりの勢いで RT なり Like なりを飛ばしまくっているが、先にも言った様に現実女性一般を襲ってくるのは男性一般の方が多い訳で、

トランス女性排除排除を徹底したところで、男性一般をなんとかしなければ、女性一般被害は無くならないし、無くしようがない。

そう言った意味ではトランス女性排除を徹底したところで、女性一般男性一般の性暴力から守ることは出来ないだろうし、

トランス女性排除の完遂をしたところで、女性一般の身の安全を守れる訳もない、と言うのは明白だろう、と俺は思う。

トランス女性女性用スペースから徹底排除したところで、女性安全問題にあまり寄与しない

ここまでで書いて来た様に(真面目に読んでいれば)トランス女性女性用スペースから徹底的に排除することは、

女性用スペースで女性一般が性暴力に合う確実性を上げるし、さら男性一般と比べ少数でしかないトランス女性犯罪者だけに目を向けることは、

暴力を振ってくる男性一般犯罪者から身を守る手段になり得ない、と言うのが理解できると思う。

つまるところ、女性用スペースからトランス女性を躍起になって排除したところで、

トランス女性が云々なんて事が一切関連しない男性一般犯罪者放置すれば、

女性一般を性暴力から守ることは出来ないし、守りようも無い。

無論、トランス女性股間の手術をしないで風呂に突っ込んでくる、と言う様な事例での排除はまぁ当然としても、

それ以外の場面、例えば多機能トイレが無い場合での女性トイレの利用だとか、

あるいはトランス女性性別移行度に合わせた社会サービスの利用の場面なんかで、

不審者として扱われないかビクビクしている人も含めて)男体持ちのトランス女性は叩き出せ!

と言ったところで、実際に得られるのは「安心感」と言うお気持ちだけで、 実際の安全はほぼ確保されない。

そしてこの記事を書いている俺としては、トランス女性排除で「実際に得られるのは「安心感」と言うお気持ち」だけ、

と言う現実放置することは、女性一般安全を守る意味でも、かなり好ましくない状況だと思ってる。

さっきから何度もこの記事で書いてるが、女性一般安全を守るためには、大多数の男性一般犯罪者をなんとかする方が先だ。

しかし少数しか居ないトランス女性排除だけにこだわり、「実際に得られるのは「安心感」と言うお気持ち」を得られるだけの行動が優先されると、

今度は実際の防犯対策おざなりにされ、「実際に女性一般の身を守るために必要な事」が見逃されるんじゃないか、と言う危惧を俺は持っている。

分かり易く言うと、今回見てきた様な「トランス女性排除すれば身の安全が得られる」と言った主張は、

トランス女性と言う分かり易い対象に「だけ」に注意を払って排除して行けば、私たち安全は守れるんだ!

と言った勘違いを発生させ、これが跋扈すれば男性一般犯罪者にとって都合の良い状況が作り上げられかねない。

しか性質の悪いことに、この手の「充実感」だけを得られるに終わる社会運動は、実際の社会の向上にはさして影響を持たらさず、

勘違い自己満足、あるいは倒錯した市民社会が実現される、と言った恐れさえ有る。

これは例えば表現の自由関連の界隈だと有名(?)な韓国の「アチョン法」と言うのがあるが、

この法律は「現実性犯罪」よりも「ネット上での創作エロを見たとか作った」と言う方が刑罰が重い、

と言うトンデモになっている法律で、これがあるせいで現実性犯罪を取り締まるよりネット監視が優先され、

現実性犯罪被害者の方たちが「私たちの方を見ろ!」と言う声明を出さざるを得ない状況になっている。

そしてこれを今回のトランス女性排除、と言う文脈で言えば、「トランス女性排除」の徹底が社会合意とされ、

トランス女性排除」を目的とした法律、あるいは実務運用が成されてしまえば、

男性一般の(犯罪目的の)女性用スペースの侵入」より「トランス女性の(正当な)女性用スペース利用の発覚」の方が重罪とされる、

と言う様な、倒錯現実被害者を軽視する様な馬鹿げた市民社会の実現にも繋りかねない。

無論、こんな馬鹿馬鹿しい話が出来上がるとは思いたくもないが、参議院選の前に立憲民主が「女装男性から女性を守る」と言う様なことを公約に書いていた事案や、

自民党癒着していた旧統一協会が反 LGBT を掲げていたりすることから、こう言った「トランス女性排除過激派」が政策決定意思に関与する接点が増えると、

こう言った様な現実の脅威を無視し、倒錯馬鹿げた法律が出来上がる可能性が無い、と言う保障はない。

なんで俺はそう言った意味で、トランス女性排除「だけ」にこだわり続けるトランス女性排除過激派は、

かえって女性一般安全を損なう行動を取ってるんじゃないか、と思ってるし、女性一般トランス女性共通の敵である

男性一般の性暴力を振ってくる犯罪者から身を守ることへの協調を妨げ、単にトランス女性との分断と、

現状の犯罪行為放置が続くだけなんじゃないか、と思ってます

以上。

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