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はてなキーワード: 市民社会とは

2023-03-03

anond:20230302202605

こういうのとか、話題になってる女子トイレ問題とかが、市民社会では一番困る。

被害者加害者支援すべき社会的弱者属性だった時、どっちを擁護すればいいか困る。

被害者女性児童のような弱者だったら被害者を全面擁護するし、加害者難民有色人種だったとき加害者擁護したけど、どっちもだと解が出ない。

2023-02-26

おっさんめんどくせーでいいですか?

でもって「おごり禁止っていう意思表明をどうしたらいいのか」についてなんですけど、「え、自分で言えばいいのでは?」っていう感想しか出て来ないです。「私、奢られると対等な立場だと見られないような気がして嫌なので出します」って普通に言えばいいじゃん。それでも奢りを強要されるなら単に飲む相手が悪いよ。僕はそう言われたら「それならワリカンにしましょうか」ってすぐにひっこめるよ。

それを言ったら空気が悪くなるとかそんなの言い出せないとかあーだこーだ言うつもりなら、おっさんだって女性からお金徴収すると空気悪くなるかなとかあーだこーだ考えるの面倒臭いから「まあ奢っておけばいいか」って感じで出してるんですよね。

女性からお金徴収すると空気悪くなる」はただの差別

女性空気悪くするというなら女性差別だし

仲間の男性空気悪くするというなら男性差別

あとさ、なんで対等になるだけでわざわざ宣言しなきゃいけないんだろう

奢るのは加点っていうのがヨッピー氏の結論じゃなかったんでしたっけ?

対等と加点への言動がなんでイーブンになるんですかね

加点したいんだったらそれこそご自分意思でどうぞーなんだけど

対等になるのをわざわざ宣言しなきゃいけないのはおかしいでしょう

ヨッピー氏の加点のために「空気悪くなる」のを背負って宣言してくださいってことですかね

preciar 「奢られたくないならそう言え」と言う「大人として当たり前」の意思表示要求ダサいだ何だと返し、ひたすら自分の意を汲んで相手勝手に動いてくれる事を要求する奴、男女平等市民社会には邪魔なだけだな

このブコメも同じくで

対等になるためにいちいち意思表示要求される方が男女平等市民社会には邪魔ですよね

もうおっさんめんどくせーでいいですか?

「残念ながら世の中にはヨッピー氏みたいなおっさん圧倒的多数派なんですよ。賭けても良いけど。」

エクスキューズ出しておけば許されるんでしょう

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/yoppymodel.hatenablog.com/entry/2023/02/25/164124

2023-01-03

困窮者支援専門性、Colaboに期待すること

監査請求が通ってコラボ不正会計疑惑いくらか目鼻がついてきた一方で、功罪あるとしても功の部分についてはこれまでもこれから必要なことだとの声がある。

かれらは公金を掠めて恥じない悪意の団体なのか。誰もやりたがらない崇高な仕事をやってきてくれた正義の人々なのか。みたいなことは実はどうでもよくて、いずれにせよ能力を越えた範囲仕事本来行政がやるべき範囲仕事を抱え込んだ時点で、質の低い仕事と公金垂れ流しの歯車は自ずと回り始める。

ボランティアとか非営利公益団体には向いている仕事とそうでない仕事がある。

例えば災害の後片付けのような集中的なマンパワー需要によく応え得る。しかしその後の復興期に居座って「コミュニティ再生」みたいな尤もらしい目標のために親睦イベントみたいなのを打ちまくって無意味住民疲弊させたりする。素人でも手が出せそうなところをつまみ食いしても本当の意味で「コミュニティ」をどうこうなんてできないから。

家庭に身の置き所がなくて街を彷徨少女キャッチする。そして食事やベッド、安全安心できる一時避難所提供する。それはいかに民間志向きなミッションである

その次は? いわば社会入り口を見失い先の希望を失った子に、どういうリカバリールートがあり得るか具体的な相談に乗れる人が必要になる。教育職業訓練必要ならば医療家族への介入、それぞれのプロに繋がるハブでもある。要はケースワーカーだ。その職能善意や熱情で代替できるものではない。

そして、一時避難よりあとの長いスパンでの生活基盤の保障。これも公の役割であり、そもそも一般社団法人なりを経由させる必然性がない。

要するに民間団体に期待されるのはキャッチ役と純粋なヘイブンの提供までだ。

とにかくそこに行けば飯とベッドがあり、詮索や説教なしで供される。「この先どうするつもりなのとかのウザい話は今晩はナシですよ、私たちはお役人じゃないんで」との役割に徹し、行政に引き継げばいいものを。

「そこに行政が待ち構えてないからウチラがやるしかないんじゃないか!!」と言うだろう。そうなんだ。そこに行政が待ち構えてないと、どっちみち全ては絵に描いた餅なんだ。

からって分を越えたことをやろうとするんじゃなく、また無駄にいがみ合うんじゃなく、みんなで行政のケツをぶっ叩くのが本当だと思うけどね。やるべきことをやれ、やるべきことをやってないのを隠すために非営利団体を利用するなと。

さて「恩知らずの元少女」の増田

https://anond.hatelabo.jp/20230102104157

にあるように、その敵対的姿勢は身を守る鎧でもある。みっともないトゲトゲ鎧を下手に脱がそうとせず、物理的な支援によって心理的安全性の担保に努めつつ、プロの手に引き継ぐべきである。要は善意で親身になって距離を詰めること自体が侵襲的なんだよ。

池内さおりのラインメッセージリークされていたが、あの内容の何が問題かわからないというブコメが多かった。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/himasoraakane/status/1609824412395790336

前後文脈がわからないのでこれだけでは事の是非を判断できない」のはその通り。「これが問題になり得るとは思えない」としたらかなり想像力が足りない。

アダルトチルドレンだとか毒親とか、精神医療臨床心理の周辺の俗流用語概念には常に流行り廃りがある。

「それ毒親だよ!逃げていいんだよ」と流行りのフレーズをぶつけられて、抱えていた不定形の苦悩にシャープ輪郭が与えられ、状況が好転するきっかけになる者もいる。「そうか、あれもこれも毒親のせいだったんだ」と思い込みに凝り固まりちょっとした行き違いが転落のきっかけになる者もいるだろう。誰彼構わず虫下し飲ませて「ちょうどギョウ虫わいてたんだ、助かったよ」ならば結果オーライだが、その余はただ身体に毒なだけである

不安定状態未成年者に「家族と縁切っちゃう手もあるよ、その気なら協力してくれる人もいるよ」みたいな甘言を提示することも同工。時と場合により猛毒だ。どういう時と場合だったのかはわからない。

ちょっと追記

暇空氏が池内さおりのラインリークを爆弾ネタだという所以は「ほーら共産党と強い繫がりがあるだろ」というばかりの薄っぺら意味だったようだ。だから何なんだよ。そういう所がつくづく付き合いきれない。その行動力一定の敬意は払いつつ。

藤氏みたいなガサツな正義マンには本当の所を言うなら若年者支援なんていう繊細な仕事はしないでくれと思っている。でも100点満点の支援者を屏風から出せるわけじゃないからさ。せめて後進が「あの轍は踏むまい」と反面教師にすることを期待する。大きく言えば市民社会文化的成熟していく一助にならんことを。

2022-12-20

韓国ブログから:仁藤夢乃コラボ福祉団体ではなく政治団体であり

韓国フェミは異常であり、韓国の真似をしていたら国は消滅する。実際に韓国人口を維持するのが不可能レベルになりつつある。これにさらに4N運動ダメ押ししている。

韓国は今ウクライナポーランド兵器を輸出しているが、あまり将来の希望はない。そしてプロテスタント弁護士インチキ学者マスコミ宗教団体人権団体税金チューチューをしている。

弁護士を昔の人が嫌ったのは当然だったわけである

このモデル日本に持ち込んでいる。

201710/10記事

http://weekly.khan.co.kr/khnm.html?mode=view&code=115&artid=201710101853431

[特集]合法的ポルノ市場なら大丈夫でしょうか?

パク・ウンハ記者

日本式でポルノ合法化するのが代案だろうか。 去る9月26日政府デジタル性犯罪被害予防対策を発表し、関係省庁は一死不乱に後続措置に入った。 関連規定点検し、業界関係者を呼んで意見を聞く討論会公聴会の席がほぼ毎日続いている。 同時にポルノ合法化を主張する声も出ている。 合法的健全な成人コンテンツの道を開いて「ソラネット」のような賑やかなサイトが出ないようにしなければならないという主張だ。 政府対策が発表される約1カ月前からフェイスブックを通じてファンディング要請するアカウントも生じた。 しかし、デジタル性犯罪問題が十分に解決されていない状況ですぐに「合法ポルノ事業」を言うのは危険だという声が出た。 声の震源地は変わらない日本学者活動家たちだ。

注目すべきは次のパラグラフである

9月23日中央大学310館B502号で開かれた「デジタル性犯罪シンポジウム」で、日本活動家のニト・ユメノが日本JKビジネス女子高生イメージ活用した産業)について発表している。 この日の学術大会デジタル性犯罪アウト、中央大社会学科、希望種子、十代女性人権センター、性売買問題解決のための全国連帯と日本市民社会団体コラボ(Colabo)、慰安婦運動団体である正義記憶財団希望種子が 共同主催した/チョン・サンビンインターン記者

はい、ここですね。矯風会という狂った性概念もつカルト、その傘下の希望の種基金尹美香お金はどうしたんでしょうね?)Colabo、慰安婦を利用して寄付金を集め、ほぼすべて自分のために使った尹美香正義連、揃ってますね。

ここで分かる通りコラボ福祉をやる団体ではないです。最初から寄付金を集めてデタラメをやる連中でしかない。

ここから分かる通り、プロテスタント系の団体は全く信用ができない。統一協会キリストの幕屋はいうに及ばず。ホザナハウスにしてもそうでしょう。結局韓国に言ってしまえば統一教会から矯風会までプロテスタントの枠に入ってしまうので同じです。

看板が違うだけでやることは親北か反北の違いしかない。

あとで言っている国際人権団体とはヒューマンライツ・ナウ伊藤和子のことです。そして彼女統一教会と強いつながりがある赤沢りょうせいは「同志」と呼んでAV法制定しています

条文もめちゃくちゃ。それにAVとは書いていない違憲法律であり、およそ国会議員としてあるまじきレベルです。

そしてやっぱりこの界隈の関係者なので、これまた利益相反男性セクハラで訴えて弁護士報酬を儲けようというれんちゅうばかりということです。

次のパラグラフを見てみると同じ9月23日、PAPSも来ていることがわかる。BONDと若草はこの頃はなかったか

出演者欺く日多反射のAV撮影

日本市民団体PAPS(ポルノ被害と性暴力を考える会)で活動する金尻和菜は9月23日、中央大で開かれた学術大会デジタル性犯罪シンポジウム」で日本の成人ビデオ(AV)産業の不慣れを伝えた 。 韓国研究者たちと活動家たちが「盗撮犯罪」を持って出てきたならば日本で深刻なデジタル暴力問題になっているのが「合法的製作されるAV」だった。

このようにコラボパップスAVを潰してお金を設けるために一生懸命だったわけです。当然ながらヒューマンライツ・ナウもそうです。人権団体ではなく利権団体だったわけですね。

日本の事例だ。 2016年3月Aさん(日本人)はインターネットアルバイトを探していた。

草津温泉事件を思い出してみましょう。被害者は嘘をついていました。これは匿名であり全く信用ができません。虚偽というレベルしかないわけです。

さらにこのように2017年からAV非合法化することにコラボ、ぱっぷすI(APP研)、矯風会は熱心でした。そもそも矯風会セックスワーカー差別しているカルトです。したがって、コラボが体を売っているような女の子に優しいわけがないのです。とんでもない連中にやらせていると言えるでしょう。

この日、シンポジウムでは「合法的」として知られていた日本AV産業界の敏感さが荒々しく現れた。 AVプロダクション契約書には出演義務に怠ると損害賠償請求訴訟を提起することができ、撮影完了した後の妊娠性病に対しては一切責任を負わないという内容も込められていた。 「合法」としても出演者を欺くことは非日常的だ。 出演者撮影が終わっても正常な人間関係不可能になる。 映像がずっと歩き回っていつか家族や近い人にバレるかもしれないとトラウマに苦しむ。 すべての過程韓国違法撮影被害者と似ている。

このようなことは一切ありえず、でたらめです。この当時からそうですね。そもそも妊娠させないし性病もないですね。盗撮被害者と一緒にするのは頭がおかしい。ぜんぜん違うわ。しかもぱっぷすだけ読んで実際のAV女優に効かない連中は偏見に満ちた連中であるしか言いようがないわけです。

たとえていうなら五輪CMが全部おっさんなら差別と言います。それと同じですね。これも完全に差別ですし、ジェンダー平等でもなんでもない。フェミニストは意識が低すぎる。こんな連中ばかりだからジェンダー平等なんてインチキしかないわけです。およそフェミニストは差別主義者ということ以外言えないわけです。またバッキー事件告発したのもAV業界なんですよね。それすら知らない。こんな一方的に言うのはぱっぷすだから

全部被害者のように書く韓国人のフェミ女性は異常です。どこまで差別意識に染まっているんだろう。

以上のようにゴリゴリ差別意識と歪んだ宗教観、歪んだ性概念に染まった連中によく税金を渡していたなあと思います。そして有識者会議に呼ぶ。あり得ないことです。

さら領収証もまともにありませんし、残高証明書も出ていない。

どうなっているのでしょうか?

少なくともこれらの関係者を有識者会議に呼ぶ、有識者会議立法させる、条例化した法律化したものは即時執行停止する。これくらいのことをしないと、防衛のために増税というわけにはいかないでしょう。

9兆円の男女共同参画予算はこの税金チューチューシステムによっておそらく9割は横領されています。なにしろ最大のコラボですらいらないのですから

すると8兆円くらい浮きます。ここを改めるだけで防衛費は出せます。あまり出しすぎると国連敵国条項抵触して集中砲火を食らうので、全部は無理ですが。

あとマスコミも、女性記者を同数にするとか、こういうコラボのような税金チューチューシステムアシストする連中を増やしてどうするのでしょうか。新聞はいらないし、そうした編集者もいりません。全員嘘をつきでたらめばかり言う。不利なエビデンスを隠すのですからダメなんでdす。

デタラメばかりやる男女共同参画はやめて、能力に応じた社会参加ができるように、そのための機会は平等に与えられるようにする。そういうものです。

2022-12-14

anond:20221214192046

どっちか言うとそういうネオ部族社会をやってるのは日本やと思う

日本は巨大な部族社会を作り上げているが故、部族の外と見なされた落伍者に冷淡なんやと思う

西洋は、市民階級闘争権利を勝ち取った文化(かどうかは怪しいけど少なくともそう自認している社会)だから

内と外という認識にそこまで敏感でなく、「市民」というまだ若くて雑な概念肩書を身に着ければ、権利を持った市民だと認識される(ということになっている)

部族社会西洋市民社会の間には、そう簡単に行き来できない大きな隔たりがある

結局日本西洋じゃ、同じような民主主義という手法を取っているように見えて

実際の背景とかを考えたら根本から違う社会形態なんだろうなぁと思うよ

2022-11-28

anond:20221128222415

気持ちがわからない」ことの概念理解して次のステップに行ける障害者本人がそもそも少ないこと、

あと社会コミュニケーション能力の優劣を「上下軸」として階層化されている状況下においては「特別」もとい「特殊であることを認識していないと社会に最低限度の生活保障してもらえないので障害

そもそも気持ちがわからないのレベル字面よりも重たい(それこそ欠損レベル)なので、市民社会コミュニケーション階層生存している以上社福祉として支えなきゃいけない

なので障害者福祉享受は「特権」なんて良い物ではなく下駄もっと言えば下駄を履くための足袋役割なので、福祉ですらスタートラインの手前

福祉の部分蛇足でしたわ

2022-11-20

なんだっけ。忘れないうちにメモ


最近ゴッホ絵画など芸術作品トマトスープをかけたり、ウォーホルアートカーに小麦粉をかけたりする気候変動対策を訴えながら過激抗議活動が耳目を集めている。

ブクマもよくされているが、ほとんどが環境テロ、という認識で眉をひそめたコメントにあふれている。

もちろん許されない犯罪として国内外報道されているわけだが、しかし、海外メディアでは、テロという表現ラベリング)は少なく、抗議団体自称するCivil resistance市民抵抗)という表現を紹介していることが多い。正直、この種の活動で昔から有名なグリーンピースもそうだが、テロ呼ばわりされてもおかしくない運動ではあることは確かだが、報道ニュートラルに構えているのだろう。

そんなおり、斎藤幸平が、「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解しないのは、日本人想像力の欠如だ、と述べてブコメから総すかんを食らっていたのをみかけた。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/631285

しかそもそもテロという認識日本では強いのはわかるけれど、実は欧米での反応というのはそれほど強くなく、むしろ彼らが自称するCivil resistanceへの一定の理解の上に立った報道も多く見受けられるように思える。

https://time.com/6234840/art-climate-protests-margaret-klein-salamon/

そして、よく考えると、そもそもテロまがいのデモというのは、現代人権歴史を振り返ると、一定程度、社会変革の不可避な副産物として、憲法などのシステムビルトインしてきた経緯がある。典型的かつ最初の事例は、20世紀初頭の資本主義社会における労働環境を前提とした社会権。

この問題は二つの視点から興味深く、注視している。

ひとつは、抗議のコンセプトの抽象性。

もうひとつは、抗議運動市民社会的な価値

抗議運動抽象性について。

https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/508によると、世界的な環境活動グループ「Extinction Rebellion」の共同創設者であり、ジャストストップ・オイル活動に加わっているサイモン・ブラムウェルは、アートニュースインタビューで、若い活動家がこの抗議行動のスタイル選択した理由を次のように説明する。

「これはアートの美しさを否定するのではなく、今の私たち優先順位絶対的おかしいということを言いたいのです。アートに美を見出しギャラリーを訪れる人たちがいる。にもかかわらず、消えつつある太古の森の美しさや、日々絶滅していく何百もの生物たちには目を向けないのです」

アートの美しさを否定しないといいつつ、美の概念の相対化というか、再構築といった意味では、形而上学的な禅問答である

この説明を聞いて、素直に納得できる人の割合が多いか少ないか、という視点でみると、ヨーロッパに比べると恐らく日本人は少ないだろう。

アリストテレス時代から愛だの美だの徳だのといったことをテーマに発展した形而上学から学問が枝分かれしてきた欧米と、近代以降のすでにたこつぼ化した個々のジャンルとして完成形をみた成果を受け取ってそれを解読して発展してきた日本では、こういう抽象的なテーマの抗議の趣旨理解できるのは圧倒的に少ないだろうと想像できる。

これは、作品の美の価値が分かればわかるほど、スープをかける行動の意図もわかる、という構図でもあり、実際、被害を受けた美術館環境問題の意義に言及するなどしている。作品に接したこともなく、それこそ「ウォーホル」だ、「ゴッホ」だと資産的な記号程度にしか理解していない人ほど抗議行動の意図自体を測りかね、なんじゃこの奇行は?という反応になっているようにみえる。

そういう意味では、当然、環境急進派の行動は、そもそも抗議の意図が分からない地域では成功しない(日本ではテロ以外の認識は生まれないだろうし、絶望的に無理だろう)。

しかし、欧米では、意外と功を奏しているのかもしれないと思える。感心はしないが、ああ、なるほどね、くらいの素養のある人は日本よりは多いだろう。

おおざっぱにいうと、日本人経験から教訓を得て社会設計をしていくのが得意。いわば帰納法的な解決が染みついている。一方、欧米、ひろくラテン系言語圏含めて、日本人とは比べ物にならないほど、なにかにつけ演繹的な入り方をする。言葉定義からまり指導原理を引き、タスクを明示する、という物事の進め方へのこだわりが強い(日本人自分からみると)。

組織でも、経験常識が共有できていないと不安なのが日本人

一方、構造化された概念ルール化された行動原理(法)にのっとって行動する、という相互の信頼がないと不安なのが欧米社会。そこに、デモ過激運動の機会に、自分たちが共有していない別の概念オルタナティブとして提示されたときにみせる反応というのは、おのずと異なる。


そのもうひとつ理由が、市民不服従という考え方や人々の認識の違い。

日本人社会迷惑をかけるのがとにかく大嫌いなのだ

欧米では、恐らく日本人想像している以上に、Civil resistanceというアプローチ自体価値社会変革のダイナミズムとして認めている。

それが今回の場合、限度を超えたものであり、法的に違法である、というときに、運動趣旨理解はするが違法である、という具合に飲み込みながら。

この違法性というのは、実は重要視点。それを理解するには、市民社会根本から支える憲法など、法について考えないとわからない。

近代から現代20世紀に法の考え方が近代法が大きくバージョンアップした際に、社会権が組み込まれたのは、中学生で習う話。

日本学校では昔から社会権を生活保護など、上から目線な形で教えてきた傾向があった。

しかし、社会権のうち、争議権を思い出してみればわかるように、実際はボトムアップな契機をはらんでいる。

他者危害禁止近代法の原則をはみ出した形で、ストやピケなど市民的な抵抗暴力性を認める市民権が存在する。

考えてみれば、他者に損害を与え暴力的な行動をとっていい、というのが「労働」に関してのみ例外的憲法に組み込まれている、というのは、よくよくなぜなのか歴史を知っておく必要がある。一歩間違えれば、革命トリガーになりかねないボトムアップ暴力。これをあえて憲法に明記するのは、明記することでコントロールしたいという、上と下のせめぎ合いのようなものも感じる。しかし、なんだったらいつでも政府おかしければ転覆して革命をおこせるんだぜ、と市民に思わせておく、オーナーシップ感覚絶妙バランスで持たせる機能果たしているともいえる。

マルクス時代、そしてワイマール憲法時代社会権を育んできた思想運動社会歴史のなかで、当時「労働」が最重要課題で、社会権の大きな柱として考えられたのは自然な流れだっただろう。抵抗暴力は、労働問題を争うツールであるというのが20世紀だった。しかし、抵抗暴力資本主義社会のなかで、たまたま労働キーワードになっただけであって市民社会としては、労働である必然性はない。20世紀には「環境」といったテーマシステムビルトインされなかったわけだけど、80年代後半にブルントラント委員会が「我ら共有の未来」といって今日SDGの原型となるコンセプトを立ち上げたときに、労使間に代わる、世代間の闘争といったことがテーマになりうることはうすうす予測がついていたように思う。

なので、抵抗暴力労働問題ではなく、環境をめぐる世代問題だとしても、その新たなムーブメント市民社会における意義が注目されるのも自然な流れだ。

ここで、はい違法です、はいテロです、といってしまうのは簡単だが、思考は停止する。


一方日本では。

労働」というキーワード戦後日本ははじめて市民不服従権利を手にした。市民社会における抵抗という考え方に「労働」というコンセプトが、時代要請でむすびついていた、というのは押さえておくべき文脈

GHQの五大改革から。勤労者から労働者への主体認識の転換。

しかし、その権利過激行使は、1950年代から60年代大衆の心を猛烈にイラつかせた。

日本高度経済成長を支えた大手企業は、大規模な争議に悩まされた。

民間では、1960年三井三池炭鉱紛争など半年を超える争議も珍しくなかった。しかし、ほぼ100%ユニオンショップで、従業員全員が労働組合員という会社組織風土のなかでは、会社家族みたいなものであり、労使一体みたいなのが当たり前であり、60年をピークに民間の争議はピークアウトする。そのなかにあって、国鉄だけは年中行事のように、順法闘争ストライキを繰り返して市民生活に甚大な影響を及ぼし、会社のみならず社会的に損害を与えた。さらベトナム戦争反対や成田闘争など、新左翼政治闘争が加わっていくなかで、日本人のいら立ちは頂点に達していく。

国鉄やら共産党やら新左翼にひどい目にあわされた、という日本社会のこの経験というのは、争議だなんだといっても社会迷惑をかけてはいけない、という教訓を強く残し、憲法に組み込まれ暴力的な契機をできるだけ抑制的にするべきだ、という認識支配的になるきっかけだったんだろう。1973年最高裁は、それまでリベラル保守裁判官の間で揺れ動いていた官公労組の争議権の是非について、完全に保守化の方向に舵をきり、封殺する結論に至る。公労協のスト権奪還スト(1975年)を時代の潮目に、公社民営化路線が進められていく。争議権だかなんだが知らないが、憲法に書いてあったとしても、市民としては正直、うんざりしてしまったというところだろう。戦後、長い間、政治闘争旗手として大きな存在だった総評、そしてその大半を国労が占めていた時代は終わる。

ということで「労働」をキーワードにせっかく手に入れた不服従暴力は、迷惑をかけんじゃねーという市民社会常識を繰り返し強化する経験を重ねることにより、空洞化した。

その後の日本社会では、エスタブリッシュメントと化して長い間、社会運動の先頭に走っていた労組が今度は勢いを失うと、どういうことになるか。

例えば、正規雇用非正規雇用ギャップみたいに新たな問題が浮上してきたとしても、ユニオンショップ非正規も入れてあげたほうがいいんじゃない?、という手続き的な、上から目線的な議論の仕方に収れんしてしまう。日本社会があまりにも保守化してしまって、そもそも争議という暴力的な手法は何のために憲法というシステムに組み込まれたのか、根本的な思想がわからなくなってしまっているようにも思える。言い換えると、憲法さらメタ視点からとらえる思想的な背景がさらに弱くなっている。

歴史を振り返ると、20世紀初頭、メタ視点があったからこそ、資本主義社会の現状と課題に即して、社会権という新しい権利が組み込まれたのだが、現行憲法を頂点とし、人権普遍性憲法の最高規範性を強調してしまうと、憲法思想根拠はと問われたときフリーズしてしまう。日本では制憲者の意思議論は起こらず、代わりに基本書読め、といってなぜか憲法学者に振られるのが定番。(制憲者があいまいなのも諸悪の根源かもしれないし、ステートに対するネイションオーナーシップの違いとも思える。)

欧米環境運動というのは、あるいはLGBTも同様だけど、恐らくそうじゃないんだと思う。

既存規範に書いてないものであっても、新たなムーブメント意味真剣に見極めようとする思想文化があるんじゃないと思える。

そのムーブメント暴力性を違法認識しつつも、時代ダイナミズムとしてとらえようとする、というか。

繰り返すと、

・美の概念など、概念の構想力、概念について深く考えたがる文化の違い。

憲法など国の根本的なシステムアップデートするのに必要社会ダイナミズムへの関心の低さ。

この二つをひとまとめにして、斎藤平氏のように想像力の欠如といってしまえるのかもしれないが、因数分解すると、社会設計をするのに基本的重要な2つの能力、この二つには欧米社会と大きく差があるように思える。

2022-09-30

昔の不良は偉いよ

遅くとも20歳そこらで頭切りかえてカタギの仕事就いてんだからほんとに偉いと思うよ。

自衛官とか板金屋とか自動車ディーラーとか電気工事士とかダンプ運転手とか型枠大工とか漁師とかさ。

高校卒業して相変わらず不良やってると本気で引かれる文化あったらしいし。

かにキャリアの途中、反則金払い忘れて逮捕されたり、飲み屋で他の客と喧嘩して留置所入れられたり、お定まりの失敗は10年に1回とかやらかすけど

そういうあってもカタギの仕事を爺さんになるまでずっと続けてる。元不良なのに。

オレオレ詐欺やったり、銅線やハイエース盗んだりして、いい歳こいても市民社会に帰ってこない平成令和の不良は恥ずかしいと思う。

ちょっとは見習え。

2022-07-29

トランス女性排除派の不都合現実

最近Twitter では過激トランス女性排除派が跋扈している(ように見える)んだが、

この手のトランス女性排除派が見えて無い現実について、雑多に書きたいと思う。

ちなみに今回の話はフェミであるとかないとか関係が無く、

あくまで「トランス女性女性用スペースから排除する」と言う事を肯定している人間を指します。

トランス女性排除すればするほど女性一般被害者が増える

これは「は?何言ってるんのお前?」と言われそうな話なんだが、単純な算数比率問題で、

例えばある女性用スペース(A)を利用する人間10人いたとして、この内1人がトランス女性で、残りは9人普通女性一般だったとする。

この前提でこの女性用スペース(A)で2名性暴力被害を受ける事案が発生すると、仮に1名のトランス女性被害に合った場合

そのスペースを利用する女性被害に合い得るのは残りの 9名で、この場合だと性暴力に合う人間トランス女性が1名、女性一般が1名となる。

しかしこの女性用スペースからトランス女性を完全に排除し、女性一般しか利用できない様になった場合

前例と同じ様に2名性暴力被害を受ける事案が発生すると、今度は確実に女性一般の2名が性暴力被害に合う。

まり、ある女性用スペース(A)からトランス女性排除すればするほど、その女性用スペース(A)の女性一般比率は上がって行き、

トランス女性の完全排除が成された場合には、その女性用スペースで性暴力の事案が発生すれば女性一般被害に合う比率100% になる。

こう言う理屈からトランス女性排除派は「女性一般安心安全」を守ると言うことを目的(だよな?)としてトランス女性排除を訴えるが、

実際には女性用スペースを利用するトランス女性排除すればするほど、女性一般被害者となる確実性が上がってしまう。

なのでこの辺りがトランス女性排除派が見えてないか、あるいは都合良く無視している事の一点目だと俺は思う。

トランス女性女性用スペースから排除したところで、男性一般の性暴力は減らない

次にトランス排除派に取って都合が悪い、と言うか分かってないだろうと思われる事は、

女性一般安心安全を守る」と言う名目トランス女性排除肯定し続けると、

トランス女性排除」が女性の身を守る解決策だ、と言う思い違いが発生し、

本来解決すべき問題から目をそらす結果に繋る、と俺は思ってる。

まずそもそもの話として、なんで女性用スペースからトランス女性排除するのが肯定的に捉える向きがあるか、

と言えば、トランス女性の出生時の性別、つまり男性から暴力を受ける身の危険などがあるためで、

これは性暴力の多数が男性一般からのケースが多い、と言うのが理由になっていると思う。

そしてその上で、だ。

まずトランス女性(出生時には男性)と男性一般比率を考えると、これはどうがんばっても男性一般の方が比率が多い。

まぁ具体的なデータを持っている訳でも無いんで常識的範囲での考えだが、社会一般トランス女性男性一般より数が多い、

なんて事は、当事者会の現場でも無いかぎり、まず有り得ない、と考えても良いだろう。

となると、社会に多い「出生時男性トランス女性男性一般の合計)」の内、「女性一般安心安全を守る」、

と言う目的を達成するために干渉しないとダメなのは本来であれば男性一般の方で、トランス女性ではなく、

暴力を振ってくる様な男性一般から身を守られなければ、女性一般の性暴力被害は減りようが無い。

そして先にも言った様にトランス女性男性一般の数としてはトランス女性の方が数は少なく、

男性一般の方が明らかに多いと言う事実からしてみれば、

女性に性暴力を振ってくる「出生時男性トランス女性男性一般の合計)」の内、

そう言う行為を取ってくるトランス女性必然的に少数となる。

まりトランス女性排除を「女性一般安心安全」を守ると言う観点から見た時、トランス女性男性一般比率から

トランス女性排除「だけ」を熱心に行なうのは「女性一般安心安全」を守ると言う目的からしてみれば焼け石に水で、

少数のトランス女性犯罪者をなんとかするより、多数派男性一般犯罪者をなんとかする方が効果的だろう。

さらに補足すると、Twitter跋扈する様な過激トランス女性排除派は、トランス女性こそが女性一般を襲ってくる犯罪者だ!

と言わんばかりの勢いで RT なり Like なりを飛ばしまくっているが、先にも言った様に現実女性一般を襲ってくるのは男性一般の方が多い訳で、

トランス女性排除排除を徹底したところで、男性一般をなんとかしなければ、女性一般被害は無くならないし、無くしようがない。

そう言った意味ではトランス女性排除を徹底したところで、女性一般男性一般の性暴力から守ることは出来ないだろうし、

トランス女性排除の完遂をしたところで、女性一般の身の安全を守れる訳もない、と言うのは明白だろう、と俺は思う。

トランス女性女性用スペースから徹底排除したところで、女性安全問題にあまり寄与しない

ここまでで書いて来た様に(真面目に読んでいれば)トランス女性女性用スペースから徹底的に排除することは、

女性用スペースで女性一般が性暴力に合う確実性を上げるし、さら男性一般と比べ少数でしかないトランス女性犯罪者だけに目を向けることは、

暴力を振ってくる男性一般犯罪者から身を守る手段になり得ない、と言うのが理解できると思う。

つまるところ、女性用スペースからトランス女性を躍起になって排除したところで、

トランス女性が云々なんて事が一切関連しない男性一般犯罪者放置すれば、

女性一般を性暴力から守ることは出来ないし、守りようも無い。

無論、トランス女性股間の手術をしないで風呂に突っ込んでくる、と言う様な事例での排除はまぁ当然としても、

それ以外の場面、例えば多機能トイレが無い場合での女性トイレの利用だとか、

あるいはトランス女性性別移行度に合わせた社会サービスの利用の場面なんかで、

不審者として扱われないかビクビクしている人も含めて)男体持ちのトランス女性は叩き出せ!

と言ったところで、実際に得られるのは「安心感」と言うお気持ちだけで、 実際の安全はほぼ確保されない。

そしてこの記事を書いている俺としては、トランス女性排除で「実際に得られるのは「安心感」と言うお気持ち」だけ、

と言う現実放置することは、女性一般安全を守る意味でも、かなり好ましくない状況だと思ってる。

さっきから何度もこの記事で書いてるが、女性一般安全を守るためには、大多数の男性一般犯罪者をなんとかする方が先だ。

しかし少数しか居ないトランス女性排除だけにこだわり、「実際に得られるのは「安心感」と言うお気持ち」を得られるだけの行動が優先されると、

今度は実際の防犯対策おざなりにされ、「実際に女性一般の身を守るために必要な事」が見逃されるんじゃないか、と言う危惧を俺は持っている。

分かり易く言うと、今回見てきた様な「トランス女性排除すれば身の安全が得られる」と言った主張は、

トランス女性と言う分かり易い対象に「だけ」に注意を払って排除して行けば、私たち安全は守れるんだ!

と言った勘違いを発生させ、これが跋扈すれば男性一般犯罪者にとって都合の良い状況が作り上げられかねない。

しか性質の悪いことに、この手の「充実感」だけを得られるに終わる社会運動は、実際の社会の向上にはさして影響を持たらさず、

勘違い自己満足、あるいは倒錯した市民社会が実現される、と言った恐れさえ有る。

これは例えば表現の自由関連の界隈だと有名(?)な韓国の「アチョン法」と言うのがあるが、

この法律は「現実性犯罪」よりも「ネット上での創作エロを見たとか作った」と言う方が刑罰が重い、

と言うトンデモになっている法律で、これがあるせいで現実性犯罪を取り締まるよりネット監視が優先され、

現実性犯罪被害者の方たちが「私たちの方を見ろ!」と言う声明を出さざるを得ない状況になっている。

そしてこれを今回のトランス女性排除、と言う文脈で言えば、「トランス女性排除」の徹底が社会合意とされ、

トランス女性排除」を目的とした法律、あるいは実務運用が成されてしまえば、

男性一般の(犯罪目的の)女性用スペースの侵入」より「トランス女性の(正当な)女性用スペース利用の発覚」の方が重罪とされる、

と言う様な、倒錯現実被害者を軽視する様な馬鹿げた市民社会の実現にも繋りかねない。

無論、こんな馬鹿馬鹿しい話が出来上がるとは思いたくもないが、参議院選の前に立憲民主が「女装男性から女性を守る」と言う様なことを公約に書いていた事案や、

自民党癒着していた旧統一協会が反 LGBT を掲げていたりすることから、こう言った「トランス女性排除過激派」が政策決定意思に関与する接点が増えると、

こう言った様な現実の脅威を無視し、倒錯馬鹿げた法律が出来上がる可能性が無い、と言う保障はない。

なんで俺はそう言った意味で、トランス女性排除「だけ」にこだわり続けるトランス女性排除過激派は、

かえって女性一般安全を損なう行動を取ってるんじゃないか、と思ってるし、女性一般トランス女性共通の敵である

男性一般の性暴力を振ってくる犯罪者から身を守ることへの協調を妨げ、単にトランス女性との分断と、

現状の犯罪行為放置が続くだけなんじゃないか、と思ってます

以上。

2022-07-22

anond:20220721224449

言われたので調べてなるほど、となっていたのですが、面白い記事がでてきました。

オウム真理教は外部社会との葛藤が増大した段階で、政治家を通して宗教法人としての認証を働きかけ、それを妨げる存在と疑った坂本弁護士一家ともども殺害した(1989年)。その前後の時期、オウム真理教は多くの著名文化人学者を味方にしようとして働きかけ、一定の成果は得ている。

たとえばダライ・ラマ14世と並んで写真をとったり、国内の著名な文化人学者の対談をしたり、支持的発言をとりつけたりした。だが、政治家等の大きな支持を得ることはできず、結局は、文化人らの支持を裏切るような方向へと進んだ。

オウム真理教は同時代政治的社会勢力保護や支持を求めはしたが、それが成功しないままに攻撃的関与をますます強め、解体していったのだった。

統一教会はきわめて多くの被害者を生み、膨大な額の賠償金被害者らに支払った。だが、それにもかかわらず、攻撃的な布教献金要求、物品販売などを続けてきている。裁判責任を問われたことにより。2000年代には極めて多額の被害者への返金等をせざるをえなかった。

だが、安倍元首相殺害犯の母親のように1億円以上を献金し、2002年自己破産をし、いったん5千万円とも言われる額の返金を得たにもかかわらず、それをさら寄付してしまったという例もあった。

統一教会攻撃性は、なぜこのように持続したのだろうか。教団として殺人を犯すに至っていないというきわめて大きな違いに加えて、どのような要因が考えられるだろうか。一つの要因として考えられるのは、統一教会政治的庇護を得たということである

オウム真理教統一教会の同時代性、そして共通点と相違点が見やすくなるだろう。まず、共通点ということでは、現世否定的な教えと現世離脱的な活動様式、そして攻撃的な外部社会との関わりということがある。

他方、相違点としては、オウム真理教政治家社会的有力者の支持を得ることに成功しなかったのに対して、統一教会はそれにかなりの程度、成功したということがある。だが、統一教会場合、それによって、市民社会における共存のためのモラルを我がものとする機会を見出すことができずに来たのである

ttps://www.moderntimes.tv/articles/20220721-01rel

やはり、件の事件を経て旧統一教会のことを初めて知った人たちが、旧統一教会批判コメントをすること、あるいは疑問の目を向けることにおかしい点はなさそうですね。

あと今更だけど、ここめっちゃ面白いw 火に油を注ぐのが上手いですね

寄付強要だって過去にたくさん問題になってから、今では巧妙化して法律に引っかからないようにやってる

2022-07-03

anond:20220703081426

自分は、同好の士以外の人の目に入るところにエロ(R18じゃないが、エロ表現文脈で作られたものも含む)があるのは気まずくなるタイプなんだけど、オタクってそうじゃないの?

気まずいということでいうなら、俺は子どもの頃に友人の誕生日祝いで失敗したことがあるからアニメとかで誕生日を祝うシーンがあると気まずいんだけど、アニメドラマ誕生日回やるなって叩いていいの? 毎回絶妙に恥ずかしいけど、いちいちそれを叩いたとしたら頭おかしいやつでしょ。

表に出ているとなんか気まずい、と、表に出るべきではない、って全然違う話じゃん? なんでそれを混同しようとするの? 馬鹿から? 自由市民社会が嫌いだから

2022-05-06

中絶禁止の流れへの反論の何がおかしいのか 反論への再反論

https://anond.hatelabo.jp/20220503215621

アメリカ宗教右翼言及していない等等』

言及する必要が無い。人権敷衍してこの問題を考えれば、プロライフ派になりやすく、胎児人権人間規定恣意性と言う重要問題を孕むこの問題を、女権拡大の意味合いからそれらの問題をまるっきり無視しているのがプロチョイスである

宗教的頑迷問題になるのは、宗教的教義信条が、近代法根底にある人権思想人権原理毀損する場合であって、そうではない場合からクレームは、単に個々人の思想信条に過ぎない。善意からであろうが悪意からであろうが法理的に矛盾があるのであればそれは矛盾があるのであって、個々人の内面の思いにフォーカスするのは、それこそ宗教的悪魔である。内心のことは証明可能性が皆無であり、相手悪魔視してリンチしてやろうと言う下種な自身の心情をまずは問うべきではないか

プロライフ派とプロチョイス派の争いは人権派と女権派の争いである。近代法に適合している人権派が、自らの内心の潔白を証明するべき理由は何もない。

女性人権無視している』

無視していない。女性身体自由権胎児生存権比較して胎児生存権により重篤公益見出しているだけである

すでに体制ビルトインしているので女性意識しない傾向にあるが、男性に対する法的優遇措置は皆無である女性に対する法的行政優遇措置は多数ある。女性専用車両についても、その経済的負担身体労働からの転換物であるので、より寿命の短い男性たちに「女性権益のために奴隷労働を課している」と言う面が多々あるが、それらは公益のためには正当化され得る受忍限度内の責務とされているのである

中絶の件は、一方に乗せられているのが生存権と言う極めて最重要権利であるため、通常一方的保護される立場女性が、公共の福祉において市民的な負荷を課せられるべきであるというだけのことである

昨今、問題になっているトランスジェンダーの扱いの件、ハーグ条約関連の問題重要人権案件のほぼすべてが女権と人権対立周りにおいて生じている。これは女権が人権に根差しているのかどうか、女性市民社会の構成員としての責務を果たす覚悟があるのかどうかが問われているのである人権に根差さない女権は人権毀損するのでナチズムのものである

かに寿命の短い男性に課せられている負荷は受忍限度内とみなされるのであれば中絶案件受忍限度である。子を産んだからと言ってマクロでは女性寿命は1年も縮まない。そもそも子を産むかどうか、それに至る行為をするかどうかの選択肢を与えらていての話である

私は女子大学存在性差別のものでありとても問題があるとは考えているが、男性である私が支払った税金女子大学に注がない選択肢はない。

徴兵制アナロジーがしっくりこない』

徴兵制アプリオリ人権侵害と見なされていないこと自体問題なのである徴兵制の根幹は、不可避性である逃げられないと言うことだ。

徴兵で生じる給与はその不可避性を正当化しない。また、「ならば妊婦にも給与をくれ」と言う言い草ナンセンスなのはことことから自明であるが、母体保護法やそれ以外の立法措置行政支援において、既に給与相当分は得ているとも見なせる。逃げられないのは無関係第三者だ。

もしこのアナロジーで男女対立を煽るのであれば、それは中絶問題ではなく「産む性」としての保護優遇女性が得ていること自体問題視されるべきであろう。そして「負担をイーヴン」にするのであれば、産まなかった女性たちは、徴兵忌避者や脱走兵がそうされるように収監されたり銃殺されることを甘受すべきであろう。

それらの反論がまったく成り立っていないのは、そもそも不可避性を満たしていないからだ。

食べて働いて眠って、だけであれば絶対妊娠しないのである妊娠することをしない限りは絶対妊娠しないのだ。

それでいうならば徴兵制中絶禁止よりも「ひどい」と言うことになる。そして徴兵制アナロジー自体は今も公式非公式に残っている。「男は女を守れ」と言う強制である

男性にも罰を与えよ』

与えればいいじゃないか、としか思わない。ただそれは妊娠した女性vs妊娠させた男の間で発生するものであって、どうぞ好きに民事裁判でも何でも起こしてください。現行法でも可能だ。

中絶コンフリクト妊婦胎児との間で発生するので男は、胎児にとっては無関係、というだけのことである

※元記事は間違いなく私が書いたものであるが、私は5/3には記事は書いていない。つまり現在ブクマされている元記事赤の他人が私が書いた複数記事をまとめて、再アップロードしたものである

2022-05-04

中絶禁止フェミニズム市民社会に適合できるかどうかの試金石

フェミニズムを巡る疑念糾弾齟齬の根幹は、結局はそれが「女権のみ拡張主義であるのが普遍的人権思想に根差しているのかによる。「○○のみ拡張主義」はナチズムが「アーリア人権利のみ拡張主義」であったように最悪の結果をもたらすし、それによって公共が左右されることはファシズム以外の何物でもない。

「ならば男性男性自分たちで男権を主張してください」

この種のフェミナチたちは、誰かが対抗理屈(と言うか対抗屁理屈)を発明するとそれに群がって考えもせずに多用し始めるが、これが問題であるのは、「○○のみ拡張主義」で公共を左右しようとする試み自体ナチズム/ファシズムとして糾弾されるべきだからであって、常に公共への働きかけは普遍的人権思想に基づく公共の福祉の調整でなければならないかである

まり普遍的人権思想に根差して、公共の福祉の調整と言う観点に基づかない権利主張はすべてファシズムなのであって、他者に対する人権弾圧である

これが「女権のみ拡張主義」「ならば男性男性自分たちで男権を主張してください」の人たちが言葉の正確な意味合いにおいて社会害悪であり、積極的排除されなければならない根本的な理由だ。また、これが世界の主流派フェミニズムが急いで、ユニヴァーサリズムに方向転換しようとしている理由でもある。

ナチズム下においては、人権定義が大きく制約されることになった。通常の殺人範囲に含めないことでユダヤ人大量虐殺可能になったのである

従って、アフターナチス世界で求められるべき「人間」とは定義恣意的意図によって左右されない絶対性によって規定されるべきであろう。死刑廃止運動とはまさしくこの観点から為されている。死刑囚人権擁護のためではなく、「人間」の不可侵性を守ろうとする思想である死刑廃止運動においては、このことを理解しているリベラル中絶問題になれば、まったく態度を翻すのは理解しがたいことである

人間定義には政権イデオロギー恣意性に基づく冗長性があってはならないのであって、アプリオリ絶対的なものでなければならい

現在は、胎児は「全身が母体から出てからが人であってそれ以前は物」と言う考えが主流であるが、これは恣意性のもの定義である。例えば頭部のみが出ている段階で、赤ん坊ナイフで刺せば器物損壊罪で、1秒後に全身が出たところで刺せば殺人罪と言うのは科学的な説明がつかない。物体それ自体は同じだからである栄養従属であるかどうか、つまりは臍の緒でつながっているかどうかであれば、帝王切開をするかしないかでも他者による恣意性が入り込むことになる。

1秒前までは物、1秒後は人間、と言う科学的なアプリオリに基づかない恣意性から脱却するためには、結局のところ受精卵に人間性を求めるか、少なくとも胎盤への着床後にそれを求めるしかないのであって、理屈の方は中絶禁止派の方が科学的には通っている。

「女の体は女の物」

「私の体の決定権は私にある」

レイプされて子を産めなんて自殺する人も出てくる」

と言う人たちは、徴兵制によって徴兵されて死を強制されて来た男性兵士たちのことを考慮してみた方がいいと思う。彼らもまた、同じことを言いたかっただろう。現在徴兵制があるかどうかは問題ではない。それがあり得る政策として現在も許容されているということが問題なのである。そしてこれは、同時に、「女性のみが男性リソース負担をかける形で体育成績で優遇されている」「女性のみが需給法則雇用自由に逆らって男性の機会リソース負担をかける形で男女雇用機会均等法がある」「女性のみが男性権利侵害する形で女性専用列車がある」「女性のみが男性税金雇用機会に負担をかける形で女性センターがある」等など数え上げればきりがないが、最終的には男性身体性を毀損する形で、公共の福祉の観点から調整が図られているのだ。その結果が著しい性差が偏った寿命格差幸福度の差、自殺率の差であっても、許認されているのである

まり、利害が対立する局面において、他方の損失が生存に負荷をかけるような重篤性がある場合は、「女性がこの社会により適合性を持たないのは男性のせいでは無いが」、公共の福祉の観点から調整が正当化されるのである

それが市民社会なのであって、中絶問題はつまり女性が、他者利益のために公共の福祉を成立させる自己犠牲を受け入れられるかどうかが問われているのである

女性身体自由性、女性の心身の健康もかなり人権的には重篤レベル権利ではあるが、それが胎児生存権に優先され得るかどうかが問題になっているのだ。

胎児から人間ではないので胎児人権それ自体存在しない」

という主張は、既に見たようにアプリオリものでも無ければ科学的根拠に基づくものでもない。恣意性に基づいていると言うこと自体批判されるべきであるが、恣意性に基づいているのであれば別の恣意性によって動かし得るものなのである。そしてこれを免れ得ないので、中絶賛成派は、アプリオリ定義科学に基づく議論には決して深入りをせずにただ相手キチガイ呼ばわりしてそれでおしまいにするのだ。

女性身体不都合胎児生存権、どちらを優先するかは人権思想に基づくのであれば、後者とせざるを得ないのである。なぜならば私たちは二度とユダヤ人人間定義から外した恣意性に戻ってはならないかである

フェミニズム流派が言うように、フェミニズムヒューマニズムの一形態であるのであれば、ここが女性人権思想を本当に尊重し得るのか、市民社会プレイヤーとして相応しいのかどうかが問われる試金石になるだろう。他者生存権を尊重できないようであれば、フェミニズムイコール関係においてナチズムに他ならないのである

2022-04-26

丸山真男を読むと日本ネットバトル様式を分かった気になれるのでお薦め

丸山真男日本思想』を読んでいるのだが、海外比較としての日本人の思考様式精神性の解釈が非常にしっくりと腑に落ちる。

この本の書かれた年代は古いが、現在SNS政治トピックスにおける論戦の様相などにも適用できる程度には、日本人というもの精神性の核をとらえているように思える。

例えばこれ

ともあれ、こうした国学儒教批判は、

(1)イデオロギー一般嫌悪あるいは侮蔑

(2)推論的解釈拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈多義性に我慢ならず自己直観解釈絶対化する結果となる)、

(3)手応えの確な感覚日常経験にだけ明晰な世界をみとめる考え方、

(4)論敵のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手理論信憑性を引下げる批判様式

(5)歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」゠牽強付会として反撥する思考

等々の様式によって、その後もきわめて強靭思想批判の「伝統」をなしている。

丸山 真男. 日本思想 (Japanese Edition) (p.28). Kindle 版.

1-5まで、スタンスの左右を問わず現代twitterはてなブックマークでもよくみるような批判様式だと思いません?

これらの思考様式の背景にある要因もいくつか挙げられているが、私が面白いと思ったのはキリスト教圏との対比。

キリスト教圏では唯神論に対する反発(対立軸)として市民社会思想が発展した背景から思想それ自体神格化して同じ轍を踏まないために、思想形式的不備を市民監視する構造が浸透している。

一方で日本においてはそういった背景がないため、「思想」それ自体を道具の一つのようにプラグマティックに取り扱う傾向がある。矛盾する思想でも状況に応じて使い分ければよい。思想の中身はさておき、その思想適用すると何が便利なの?という発想である思想それ自体形式(建前の正当性)を重視するキリスト教圏との大きな違いがここにある。

なお中国儒教の影響が支配的なのでまた別ということになっている。日本のこの柔軟性は神道がそういった特性であったことも背景として挙げられている。

日本人は「物分かりがよい」という表現もなかなか味わい深いと思った。

引用にあるような「感覚的な便益を重視し、抽象化・体系化や論理的整合性価値を見ない」という評価と、「物分かりが良い」という評価一見矛盾するようで、そうでもない。

道具として使える程度に理解することにおいては日本人は早い。なぜなら既存価値観との整合性を気にしないから、(便利である限りにおいては)新しい考え方に対しても衝突したり反発したりせず、すぐにとり入れることができる。その際には、既存価値観を拡大解釈する(へえ、外国人はこういう考え方をするのか、でも日本のこの考え方と一緒のもの解釈できるな)という様式が使われやすい。既存価値観と同一視するという輸入様式はまさに抽象化だと思うのだが、抽象化自然に行うため逆説的にそれに価値を置かないという精神性が成立しているということだろうか。

一方で抽象化一般化された思想体系を戴くことを嫌う。それは思想体系を一度決めてしまうと前述の拡大解釈による柔軟性が損なわれるからだろう。

日本人の精神性は「そういう考え方もあるよね〜」を地で行っており、その意味で非常に包摂力が高い。包摂力の高さを維持するために、統一基準を作ることを嫌う。イデオロギー嫌いがイデオロギーである、とも言えるか。とはいえ新たなイデオロギーから影響を受けないわけではなく、拡大解釈意図的誤訳によって、既存価値観と同居させる形でイデオロギー解体して取り込むのである

個人主義リベラリズムフェミニズムなどが、日本になじまなさそうで、でもやっぱりなじみそうな(それらにまつわる論戦において、各論ごとに各人のスタンス右派なのか左派なのかも判然としない)のは、それらの思想各論での実利については認めており、慣習としては取り込んでよいと思いながらも、原理原則として戴くつもりはない、というイデオロギーが影響しているようにも思える。

2022-04-12

「見たくない表現に触れない権利」の方の半年前の発言

例のハフポスト記事で「見たくない表現に触れない権利」を主張した専門家の方.実は,昨年の東京都男女平等参画推進総合計画では,委員として逆に批判的な発言をしていた.

(背景)東京都は「公共空間において不快表現に接しない自由」を東京都男女平等参画推進総合計画に盛り込もうとしていたが,パブコメ表現自由観点からの反対意見が多く寄せされた.そのため,事務局はお詫びし文言を削除することになった.以下はその報告がなされた部会議事録である

東京都男女平等参画審議会 第5回男女平等参画部会 議事録より,以下抜粋(強調は筆者).

https://www.seikatubunka.metro.tokyo.lg.jp/danjo/shingikai/files/0000001567/5danjyobukai.pdf

○治部委員 ありがとうございます

私も是枝委員と同じ趣旨だったんですけれども、ちょっと一番分からなかったのは、なぜこういう文言が入ってきたのかという、その背景ですね。それは、今、事務局からのご説明いただいたので何となく理解はできました。

それで、基本的に、行政なり国だったりの機関表現に対して介入をするというのは憲法21条でやってはいけないということを言われていることなので、これが残っていたということ自体について、これまでの過程憲法違反ではないかという議論がなかったのかなというのが、ちょっとすごく不思議に思います。それで、パブコメを拝見していても、その表現に対しての規制の仕方がすごく曖昧な形でなされているというところも問題で、憲法、これ学部で1年生で習えば、そういうことをしてはいけないということは習っているはずなので、別に法律家でなくても私も法学部出身なので常識として知っているようなことです。

行政が様々な公共の福祉に資するために私権制限ということをするのですが、その中でも経済的権利に関しては比較制限する、徴税とかがその最たるものだと思いますけれども、一方で、表現に関しての介入というのは、できるだけ基本はやらない、やってはいけないということは割と叩き込まれことなので、そこは、多分、行政側としても結構強く認識を持っておいたほうが今後いいのではないかなと思います

もう一つ、私のほうでちょっと懸念というのかな、議論の流れで気になったことは、もちろん性暴力的表現ないしは過度に性的表現というものが、目的に対して適切ではなさそうな形で使われている例というものは見受けられることがあります。それはケース・バイ・ケースで、広告主等々が判断することだと思うんですけれども、表現現実に起きる被害・加害というもの因果関係というものが、エビデンスがあるのか。私が少なくとも様々な報道とかを見ている限り、あまり立証されていないかなというふうに思うんですけれども、その辺のところが、このような表現がなされているから、例えばDVであったり性暴力が増えるというようなエビデンスがあって、こういう表現規制のような文言があったのか、なかったのかということは、ちょっとちゃんと振り返って議論すべきことかなというふうに思います

例えば、世の中にはサスペンスドラマとか殺人を描いたような小説とか、映画とかドラマがいっぱいあるわけですけども、それを見たから人が殺人を犯すということでは基本的にはないと思うので、そのフィクション現実との関連等々は、これはきちんと研究もされているはずなので、そういったことを踏まえて議論をしていく必要があるのではないかなということを思いました。

私も、こういった表現があることはきちんと気づくべきであったなということを改めて反省するとともに、この文言を、たくさん反論が来たから単に修正しました、終わりですというよりも、なぜこれが入ってきてしまったのかということはきちんと検証すべきでありますし、そういうことを怠ると、男女平等政策ということそのもの市民社会からの信頼を得られなくなってしまうということを、むしろ危惧するものであります

以上です。

同一人物発言とは思えなかったので驚いた.

行政として「見たくない表現に触れない権利」を市民強制するのはダメだが,新聞広告など民間領域では当然に認められるべきという立場なのだろうか?

また,性犯罪表現規制の間にエビデンスがないことも指摘しているようだが,これも行政立法する際にはエビデンス必要だが,民間ではエビデンスなしに規制してOKということなのだろうか?

しか新聞って言論の自由的にかなり重要主体だと思うのだが,それでも行政じゃないかガンガン規制すべきということなのか?

2022-04-03

生き残るための手段としての「ロシアに対するキャンセルカルチャー

原文

https://lb.ua/culture/2022/03/18/509953_cancel_russia_yak_instrument.html

ヴォロディミール・シェイコはウクライナ研究所日本国際交流基金にあたる)の長で、ウクライナ文化外交責任者訳者感想最後に。

ロシア侵略開始からわずか数日後、ウクライナ文化関係者および団体は、国際社会に対してロシアに対する「文化制裁」を実行し、プーチン政権ロシア資本から直接的・間接的に支援されている人物団体に対する協力の停止を呼びかけるアピールを出した。

ウクライナ研究所は、国内海外パートナー団体専門家ネットワーク代表500人以上に対してアピールを送って拡散することを依頼し、それとは別に欧米学術団体大学に対しても書簡を送ってみた。この「文化制裁」に対する公開書簡には3800人以上のジャーナリスト人権活動家教育関係者文化人たちが署名していて、在外ウクライナ人たちも同様のアピール拡散している。

ウクライナの主張に反論することはできないだろう―――ロシアによって仕掛けられた戦争は、明らかに国際法違反しており、罪のない人々を数千人も理由なく殺害し、歴史的建造物意図的破壊しているのだから。この状況で侵略者と文化的に協力することは戦争犯罪正当化することであり、ロシアによる印象操作のために新たな場所提供することに他ならない。ウクライナ研究所声明の中で、ロシアが数十年もの期間にわたって文化政治的プロパガンダ手段として利用して国際的評価を高めることで、世界の注目を他国への戦争犯罪から逸らしたり、人文学において帝国植民地ヒエラルキー体制確立してきたことを指弾した。このロシア行為に高名な学者キュレーター美術史家、財団理事美術館フェスティバルフィルハーモニーたちは加担してきた。彼らは2014年以降もロシア政府機関に進んで協力してカネの出所無視して見なかったことにしてきたし、そんなロシア芸術的プロジェクトを通じて広められた有害非科学的な主張に対して反論することもなかった。その象徴的な事例が、ニューヨークMoMAロンドンの王立芸術院パリグランパレ十月革命百周年の2017年に開かれた「ロシア芸術」の豪奢な展覧会だろう。ロシアから最恵国待遇」を受けてコレクションを借り出したキュレーターたちは、ロシアウクライナその他の国の芸術を盗み出してきたことを見なかったことにしたし、その全体主義的な芸術を無批判に美化することを止めようとしなかった。

ウクライナ爆弾が落ちた2022年2月24日、「素晴らしいヒューマニズムロシア芸術」というメタファーはようやく消し飛んだ。それでも、文化プーチン政治戦争責任と切り離して考えることができるという信じている数百万の海外の人々にとって、トルストイドストエフスキーショスタコーヴィチあるいは「ロシア・アヴァンギャルド」は心の中で生き続けているようだ。

世界ウクライナとの連帯過去に類を見ないほど広がっており、世界文化界は言葉と行動によってウクライナに大きな支援を送っている。しかし「ロシアに対するキャンセルカルチャー」に対して西側が示した反応は、ウクライナ文化外交課題を投げかけた。

メトロポリタン歌劇場カーネギーホールバイエルン歌劇場などの多くの団体は、指揮者であるゲルギエフ歌手ネトレプコとの契約を打ち切って、ロシアアーティストと協力しないことを公表した。カンヌ映画祭ロシア代表団と政府関係者の参加を拒否した。それとは裏腹に、ロンドンロイヤルオペラハウスウクライナ戦争を「人道危機」とした上、ロシアについては何も言及しないという恥さらしの声明を発表した。私たちコンタクトを取った人々の多くは、ウクライナ難民支援することを口約束する程度で、ロシアとの協力を停止する呼びかけには大した反応を見せなかった。思っていた通り、ポーランドリトアニア団体が最も毅然とした態度をとって、ドイツペンクラブは「真の敵はプーシキンではなくプーチンだ」という声明を出し、フランス人たちは沈黙した。

そして、西側文化学術団体ウクライナロシアの「和解」や「異文化交流」を推進する事業を始めたようだ。注目すべきは、彼らがどうやら戦争が始まって4週間でのウクライナにとっての「和解」の必要性への無関心だろう。ロシア人を「プーチン政権犠牲者」と位置付けることで、戦争犠牲者となっているウクライナ人と同じ「犠牲者」として等しくとして扱うような形で、ウクライナ人、ロシア人、ベラルーシ人を一緒くたにした沢山の事業が始まった。

こうして、23もの長期にわたってプーチン政権継続してきたことや、ウクライナでの起きている戦争や、ロシア社会政治的受動性、あるいは市民抵抗が失敗し敗北してきたことにに対して全てのロシア人の責任をなかったことにしたいのだろう。他にも図々しい連中はいる。フリードマンカーンというロシアオリガルヒによって資金提供を受けたことにより度し難い妥協施設となったバビ・ヤールのホロコーストメモリアルセンター芸術監督イリヤ・フルジャノフスキープーチン犯罪と戦うことを要求する書簡署名した。これがウクライナ世論の怒りに火をつけたことは言うまでもないが、逆にブリュッセルワシントンベルリンでは歓迎されたようだ。

これは偶然そうなったわけではない。西側ウクライナロシア関係を完全に誤解してるし、ウクライナには独自文化アイデンティティもない軽視すべき存在だという考え方を持っているのだから。よって、国際社会にはロシアによる戦争が新たな植民地主義であることや、ウクライナが脱植民地を目指して何世紀にもわたって独立運動を繰り広げてきたということを理解してもらう必要がある。ロシア帝国主義とウクライナ独立絶対に両立しない。ウクライナ武器で遊んでいるのではなく自らの独立をかけて戦っているのである。だからこそ、軍事だけではなく文化も同様に重要最前線なのだ

ウクライナロシアへのボイコットを呼びかけていることへの見下した反応や、侵略者とその犠牲者を「和解」させようとする一際魅力的な欲望は、西側が持つ植民地主義的な考え方を強く反映している。この考え方の根底にあるのはロシアが中心でウクライナ辺境であるという先入観で作られた世界観だ。これは権威あるロシア文化は周辺の人々の生死よりも重要なことで、ロシアの言うことは聞くべきだが、周辺の人々の言うことに価値はないという考え方だろう。そのようなパラダイム解体なくして「和解」や「対話」もあるべきではない。

ロシアとの和解は遠い遠い未来に始まる―――まずはロシアドンバスクリミアを含むウクライナ領土から完全に撤退し、国際法廷で戦争犯罪が裁かれ、ウクライナ賠償金を支払わなければならない。プーチン政権は打倒しなければならないし、その後に生まれ民主的政府市民社会メディアウクライナへの犯罪を認めて謝罪しなければならない。そのようなロシア社会自己批判深い反省があって、ようやくその時になって始まるのである

もちろん、こんなバラ色のシナリオが待ち受けていることは分かっているが、だからといってウクライナ今日にでも妥協しなければならないということでもない。ロシアとの「和解」を急ぐことは危険なことだ。それは旧来の考え方に基づいたロシアによるウクライナの再植民地化が開始されることを意味している。要するに、ウクライナを再び文化辺境へと押し戻し、ロシアが「スラブ」「ポストソビエト」「ユーラシア」の中心であり続けるということだ。世界ロシア帝国主義や植民地主義の知識人さらに深く和解することを望むだろう。そうすれば、ウクライナ自分たち意見を反映した和解のあり方を作るチャンスを失ってしまう。

戦後ロシアをどうするか」は、ポストコロニアル研究には重い宿題となる。ロシアは脱植民地化の苦痛という歴史経験しなかった不幸なほど時代遅れの国だが、なぜかは分からないが西側はそのことをよく理解していないらしい。この戦争はそんな西側の目を覚ます機会となるだろう。新しい視点コミュニケーション共存の新しい在り方を作っていく機会なのだ。それは理論だけではなく、より重要なのは法的、経済的、人道的な政策として具体化されるべきで、ウクライナはその創造者の一人とならなければいけない。

これが現在ウクライナ文化外交が目指すべき到達点だ。これは長期的な目標になるだろう。ロシアとの戦争という状況下においての文化外交は、対話和解を促進するべきではなく、ロシア文化的・言語的な支配という脅威に対して抑止力として機能することで、私たちアイデンティティを守らなければならない。

それが私たちが生き残るための手段だ。

解説感想

訳は下訳を作って機械翻訳とも照らし合わせて作りましたが、あいにく初学者なので文責は持ちません。

ウクライナ研究所はそのブリティッシュカウンシルに範をとった機関として2017年設立されました。ヴォロディミール・シェイコはブリティッシュカウンシルで働いた経歴のある人物ですが、日本wikipediaで所長として示されている指揮者の人とは同姓同名の別人です。

lb.uaはそこそこウクライナでは有名なニュースサイトで、元々は週刊誌web版です。

で、このコラムは前半はアリキタリで面白くないんですが、後半から西側批判面白い部分かなと思います特に文化界にありがちな既存ヒエラルキーを温存した形の「和解」を強要しようという流れを戒めているわけですな。

最近流行りのネオナチ問題に絡んでウクライナ右翼問題言及しておきますと。

途中のバビ・ヤールについてですが、このメモリアルセンター地元ウクライナユダヤ人たちによって反対運動が起きたほど国内では評判の悪い施設です。要するにロシアによる情報操作の一環として「ウクライナ反ユダヤ主義的な国であるかのような展示」をするのではないかと考えられていたようで、ウクライナ情報機関SBUが「その証拠は今のところ存在しない」という文書を出すに至り、センターがその御墨付をWebページに掲載しているほどです。フルジャノフスキーセルフプロモーション目的クズ扱いされてました。まあドンバス内戦やらせてる奴の身内連中が集まってきて虐殺を記念するセンターを作ろうなんてグロテスクな話ですわな。

それと、元からウクライナユダヤ人というのはロシアはもちろんのことイスラエルを中心とした西側ユダヤ人社会とも折り合いが悪く、この反対運動の先頭に立っていたYosyf Ziselsなんかは西側ネオナチ扱いされているほど評判が悪いようです。なぜかといえば、このYosyf Ziselsを始めとしたウクライナユダヤ人というのはソ連時代反体制派の経歴を持つことも多く、独立以降はウクライナ意識が強烈だったりするんで、平気でWW2時代の「ナチス協力者」を擁護しちゃったりするんですな。まあ自分たちユダヤ人建国した国という意味ではイスラエルに負けてへんぞ!みたいな意識があるんでしょうな。

なのでウクライナ右翼の金主の一人であるコロモスキーユダヤ系だったりするのは、それほどおかしなことではありません。

よってウクライナ極右というのは、西側ネオナチよりも、日本の「任侠右翼」と類似しています靖国神社とか橿原神宮に集まってる右翼のお兄ちゃんが数年後に民団役員やってるのとかと同じで、思想的背景にはほとんど意味ありません。欧米学者ジャーナリストは「犯罪組織公然部門としての右翼団体」みたいなもの理解できないので頓珍漢な「サッカーフーリガン起源説」を唱えるのですが、そんなものコロモスキーが金主になるわけもないし、戦闘力が高い説明がつかないでしょう。要するに軍事経験のある右翼アニキ愚連隊を抱えて作ったお国のための組織という説明日本人ならすぐ分かると思うのですが、これが西側の人には理解できないようです。

鈴木智彦さんがちょっと笑い話みたいな形で織田絆誠のPMC構想をウクライナと絡めて話していましたが、ウクライナ極右グループは実際にチェチェングルジアで得た戦闘経験を元に国家機関までのし上がったわけで、割と笑い話にもできません。まあ日本暴力団と同じで、なんだかんだお上には絶対に逆らえない性質があるので、ナチス紋章がどうだとかは暴走族旭日旗振り回してるのと同じだし、奇妙な儀式とかやってるのはヤクザ盃事みたいなものだと思って受け流せばよいと思います

というわけで反乱の懸念もないどころか、国家親衛隊普通大隊の方がヤバい奴多いと思ってるんですよ。なんせ2014年には自腹でも戦争したいって連中が集まってたわけで、金目当てだの兄貴分に言われて参加しただのの方が理由としてはいくらかマシでしょう。ただまあ、いつか武装解除した時には犯罪者を野に放つようなものなので、単純に治安悪化することを懸念してなくもないです。

2022-03-03

日系人から権利を奪う事は正しいのか?

この増田は下記ロシアサッカー選手への提言増田を、太平洋戦争開戦当時のアメリカ社会日本人に対する感情考慮しつつ、元増田に沿って日系人排斥歴史的事実に基づき改変しました

「■ロシアから権利を奪う事は正しいのか? 」

https://anond.hatelabo.jp/20220302171738

 

ーーーーーー

 

アメリカ議会が日系人正式市民社会から排除する法案を決定し、大統領日系人アメリカ社会から排除収容所に入れる大統領令を発した。

日系人は、これまでの生活仕事や家を奪われることになる。

 

このことは正しいのだろうか?それを問いたい。

 

 

  収容もやむを得ない場合

 

イギリスでは、従前よりヒトラーと親交があったイギリスファシスト党指導者オズワルド・モーズリーが、ドイツが始めた侵略戦争に対してどう考えるのか?を表明するように期日を設けて要求され、モーズリーはこれに対して恭順しイギリス軍と王室への忠誠と協力を呼びかけたが、

「敵国政府指導者関係を持っている組織メンバーを誰であろうとも裁判なしで無期限に投獄できるものとする」という防衛規則18Bにより裁判無しで刑務所に無期限収監となった。

 

このケースなどは、同指導者ヒトラー総統と同じ考えを持っていると考えられても仕方ないと言えるし、英国にとってのイメージ悪化を損害と考えるのであれば収監するのは正しい判断と言える。

 

 

であれば、日系人日系人団体に対して日本が始めた侵略戦争に対しての批判抵抗を求めてはどうだろう?

 

日本侵略に強い反対を示させ、星条旗に敬意を払わせ、アメリカ軍に志願して日本同盟であるドイツと戦う意思を示した者のみアメリカ市民と認めて収容所から出したらどうだ?

 

 

  パールハーバー米軍人達は家に帰れない。もう永久に。

 

とは言え、心情的には飲み込めない問題もある。既に報じられているように、パールハーバー米軍人数百名が日本から卑劣騙し討ちによって命を失っている。

まだ生きている米国人若者徴兵令によって故国を守る防衛戦争に従事する為に、家にいることも家族と語らう事も出来ない。

 

このような状況で、侵略をしている最中当事者である日系人アメリカ市民として自由謳歌出来る事に、心情的には許せない怒りを覚えるのは普通人間だろう。

 

だが一方で、この日系人は直接戦闘を行っている兵士でもなければ、意思決定にかかわった政治家でもないということは言える。

 

侵略に賛成しているのであれば権利を奪われて当然だが、反対している日系人までが自由を奪われてしまっていいのか?とは考える余地があるだろう。

 

 

例えばだが、今後労働で得られる賃金やこれまで稼いできた財産などの全てを、合衆国政府寄付させるのはどうだろうか?

 

日系人団体を含めて、彼らが働くのは本国ジャップへの仕送り自分利益の為ではなく、米国のためであればどうだろう?

仮に必死に働いても財産を得ず、稼ぎ全てを合衆国に譲るという労働のみの市民権にしてはどうだろう?

 

 

  全ての日系人を罰していいのか?

 

日系人の中には侵略正当化し賛成する者から、反対を表明し本国の親類が非国民認定された者までいる。

侵略に関与した者も、賛成する者も許されなくていいし、それは罪だ。日本人は、その存在すら許さなくていい。

 

だが反対するものからアメリカ市民として米軍に志願する権利までを奪う事は、はたして適切なのか?とは考えてしまう。

 

 

とは言え、パールハーバーで殺された米軍人が今後合衆国奉仕することすらできない時に、日系人米軍に志願し合衆国へ貢献する栄誉を得る、それは酷い冒涜であるようにも思えるのは事実だ。

合衆国が尊ぶ民主主義的には、天皇制に反対して日本民主化を訴えてきた日系人けが志願出来るべきなんだろう。

 

天皇制に賛成し天皇を敬っている日系人アメリカ軍人であることはパールハーバー犠牲者への酷い冒涜だと思うし、個人的にも人間として許せない思いも強い。

から収容所にいる日系人にブーイングと石を投げつけたい気分ではあるのだが、それでも彼らは米軍に志願してもいいのではないかとも思うのだ。

 

皆さんはどう考えているだろうか?

 

2022-02-16

推定無罪原則を掲げてきたリベラル

なぜ性犯罪話題になると、推定無罪原則をかなぐり捨ててしまうんだろう。

市民社会が育んできた宝物、どんなときでも捨ててしまってよいとは思えない。

2021-12-20

anond:20211220115523

小野マトペがなんかつぶやいてるが、私はコロナだとかいう笑えもしなければ店舗営業妨害になるだけの「ジョーク」で市民社会を混乱の底に陥れた人間が人の笑いの善悪なんか批評できる資格そもそもねえだろおい

2021-12-04

素人「土方、トラック運転手タクシー運転手はめちゃくちゃ怖い人達

俺(暴走族高校中退→某右翼団体前科三犯)「そいつらは18歳そこらでとっくに悪さから足洗って今や生きるために盗まず、騙さず、普通にあくせく働いてるだけのオッサンばかり。

カタギとして一応は表の市民社会で生きてるんだけど、『いつ人を殺して懲役食らっても全然いい』くらいの頭ぶっ飛んだ外道悪党が多いのは解体工、鉄筋工、軽バン配送の奴ら」

2021-09-24

anond:20210924100318

親と子どもは別の人格なんだよね。

近代以降の市民社会ではその前提からスタートする。

世襲政治家場合も、地盤支持団体こそ継承することはあってもやはり別の人間

親の主張や思想を子は無視してもいいし、何なら逆の主張をしても構わない。

2021-08-10

anond:20210810002109

江ノ電における炎上沙汰には、鉄オタやバスオタのように公共インフラの"消費"を許容するような社会象徴撮り鉄ロードバイク乗りの当事者である若者世代貧困からくる異議申し立てパフォーマンスの側面がうかがわれる。小田急線での刃物沙汰事件について加害者を称賛したり被害者誹謗したり他人事扱いする人間が多いという現実にも、わたしたち社会にあるインフラ若者を取り巻く社会問題根深さが示されている。多くの人が関心を持ったであろうこの事件は、普段は不可視なこの問題可視化し改めて考える契機になりうるはずであり、そこにはインターネット市民社会が果たせる役割があるはず。

2021-06-10

なぜ日本スポーツ見方が未熟か

なぜ日本スポーツ見方が未熟か

じゃあ原因はなんですか?

それは「自分でそのスポーツをやったことがない」てことにつきる。

結局、市民スポーツが不在なんだよ。日本は。

そういう基盤がそのスポーツにないと、スポーツ文化は廃れるし、「一方的な消費」て形になって すぐに「飽き」になる。

ドイツサッカー文化とかは、日本真逆だよ。

ドイツはなんとプロスポーツリーグ存在しない時代からW杯で優勝してる。

なぜか、みんな街で市民サッカーチームを持ってたんだよ。市民みんながサッカーを「やる」ことに熱狂してた。

こういう土台のある「サッカー人気」「サッカー文化」は凄いよ。

日本がどうして日本代表にしか興味が持てないかが、なんとなくわかるでしょ?

野球子供時代にやりまくった中高年層」しか野球に興味もってないのもわかるだろ?

じゃあ市民スポーツをどうして育てないのか?

大人にそんな余暇もない、しか市民社会も日本存在しない、しかも、

市民スポーツ育成の予算もいっっっさい日本は組まない。人間が「一方的な消費」の対象になってる国では文化は育たない

生存に精一杯の奴隷文化を持たない

2021-05-16

anond:20210516110354

国は法治主義でなくてはならないから。だから法律で決められた手順、法律で決められた裁きしかできない。

とすると、法律を作り、逆に不要なら削りで、不合理な暴力脅し騙しで金を稼ぐのを一つ一つ法整備で国が介入してさばけるようにしないとならない。

何よりも法律がたいして入ってこない市民社会クラスだと脅して金を得る時点で、弾けるようにしないとならない。

2021-04-03

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こんにちは。いつも楽しく拝読していますfffは、ベートーヴェンと第九大好きでだいきほも大好きな自分にとってはたまらない作品でした。難解だとか、何が言いたかったのかとか世間で言われているのを目にするたびにうーん、なんでだろ、なっていますが、今のところの結論は上に書いた自分特性です笑。

市民社会萌芽の混乱の時代音楽家失業危機の中、"耳の聞こえない"作曲家が、後に東西ドイツ統一式典で演奏され、欧州の歌として採択される曲を作った。虚実巧みに織り交ぜながら見事に描いてくれたな、と思いました。ベートーヴェン難聴になる理由なんかも、あーそうなんや! って、面白かったです。

ではでは、今後もブログ楽しみにしています

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