はてなキーワード: 回生とは
もう何年も前の話。
それは本来の文学部から派生したもう一つの文学部のようなもので、今にして思えばサークルと呼ぶには少し禍々しさがあった。
その文学部には女性しか入れず、不文律として”処女であること”が条件だった。
私は入部後にそれを知り、そして除籍にはならなかったのはつまりそういうことだ。
私にとっては初カレで、そして彼氏が出来たということは、つまりそういうことだ。
二人で連れ添って学内を歩き、何度か部長とすれ違ったことがある。
私は焦り、挨拶しようか誤魔化そうかもごもごとしていると部長はその切れ長の目で私を一瞥し、何も言わずに通り過ぎて行った。
小説のアンソロジー。各々が一篇を執筆し、それを編み込んだ一冊。
私は時間がなく参加できなかった。しかし当然、一冊を購入した。
そこには一人の女性の顛末を思弁的に描き、女性は最終的に悲劇的な結末に陥っていた。
端的に言えば、地獄に落ちていた。
私は退部した。
それからは部長とすれ違うことがあっても、声をかけることはなかった。
その後、あの文芸部がどうなったのかは知らないし、知ろうとも思わなかった。
でも最近になってたまに思う。
部長は今、どうしているんだろうか。
私は普段掲示板やSNSで発信を一切しない。ただ、誰かに聞いてほしいという思いから初めて増田に書いてしまった。
厳しいことを言われるのは分かっているが、誹謗中傷は控えてほしいと思っている。
私はいわゆる私文の大学4回生である。コロナで学生生活の半分はオンライン授業だったが、そこまで遊ぶこともなく、成績優秀でもなかった。
正直、中途半端に生きてきた人間だと思う。コロナの状況に胡坐をかいて能動的に動かなかったのが悪いといえばまさにそうである。
オンライン授業は良い点もあったはずだが、やはり受動的な生活になりやすいと思う。
1限の授業があっても遅刻しないし、気軽に授業が受けられる。ただし、授業内での質問や友達との意見交換などはない。
ただ、質問するとか、いちいち意見交換するとか、熱意を持って大学の授業を受けている学生はオンライン授業でも対面授業でもかなり少ない。
少なくとも、私の大学生活は半分、通信課程だったと思っている。
(もっとも学外で何かに打ち込むとか、学内の経験だけが大学生活ではないから、そうした学外の活動は良い思い出になっている。)
後輩たちを見ると羨ましさも残る。
コロナで失った時間は皆等しい。私が大学の時間を失っている間、彼らは同様に高校生活を失っている。どちらが良いか悪いかを判断すべきではない。
自分が過去を見つめ、先の未来を見据えられていないだけである。未練がましく駄々をこねているのだ。
周囲の人間から、大学の時間を大切にしなさいとよく言われていたし、学費を払ってもらっているから、オンラインでも対面でも授業は欠かさず出席するようにしていた。
例外的な人間かもしれないが、対面授業が再開された3回生になってから、私は初めて授業やゼミなどの学内の生活が楽しく感じられた。
今まで疑問を持たず、ただZoomの画面を見るだけだった授業内容に関心が芽生えた。文献を見せながら目の前で説明してくれる面白い先輩、先生。ゼミで遅くまで先輩や後輩と資料を作成した思い出。
その日のうちに図書館に行って外が暗くなるまで参考文献を読むなんてこともあった。素通りするだけだった教卓に向かい、休み時間に質問をするようにもなった。
暗記や計算ばかりの高校までの授業と違って、学ぶ中で物事の過程や歴史、背景まで深く焦点を当て、複数の文献や資料を探し、一人で、または集団で考察する時間が何より幸せだった。
だからこそ、大学院という進路に魅力を感じてしまった。失われた2年を取り戻したいという思いより、大学で学ぶ時間が何よりも楽しく感じられたことから、進学したいと思っていた。
幼い頃から13歳のハローワークのような「やりたいことを仕事にしよう」というキャリア教育を受けてきた身だが、現実は難しい、そんな人は一握りということは分かっている。
結局は、自分の現実をよく見ろという話である。院進学は能動的な行動、忍耐力が必要になる。
道を外した頑固な人間として評価されることも少なくない。最低でも、我を貫き、それを自ら許容できる人間でなければいけない。学歴厨ではないが、私文卒でさらに修士として就職することはかなり大変になるだろう。
また、院進学は研究者を志すことに等しい。幸運にも院を修了したとして、先の進路選択で自分の意図とは裏腹の進路になった時、納得できるのだろうか。
素直に社会人になり、社会経験を積んでから大学院を目指してもよいのかもしれない。
このような思いから就活と進学に同時並行で挑戦し、今に至っている。このまま出願など、何もしなければ来年から社会人になる。
なのに、このままでいいのだろうかと感じてしまう。若いうちにやりたいことに挑戦しろとよく言われるが、安全な道を選び続けてしまっている自分が時々間違っているように感じる。
はたから見れば、贅沢な悩みだと言われるだろう。もしかしたらこのような悩みを感じる時点で大学院の適性はないのかしれない。
金銭的な問題がなく、大学に4年間通わせてくれた家族がいるということ。
新卒でこんな未熟な自分を採用してくれる会社がいるということ。
こんなにも恵まれた環境にいるのに、満足できない自分に不甲斐なさを感じる。
私には高卒で社会人となった友人がいるが、その友人曰く、大学に行けるだけ幸せだという。
要は私が学生気分、モラトリアムから抜け切れていないだけなのだろう。
私の悩みは社会人経験がないからこそ感じるものであって、社会人となって現実を知れば、大学院に挑戦したいという学生気分の甘えが消えていくだろうと思うようにしている。
伸びしろのあるうちに何かに挑戦するということ自体に躊躇する時点で若者としては終わっているのかもしれないが。
それとも社会人になっても何も変わらないのだろうか。中身は学生のように甘く、ただ学生時代を懐かしむだけの、外見だけが理性的な社会人になるだけなのか。
昔サザエさん症候群とかあったけど、俺にとってはざわつく金曜日症候群だわ
昨日の一日
6:00顔も洗わず急いで着替えてコンビニに買い物。パンはデイリーのポテサラのパン。コーヒーはローソンのダブルエスプレッソを買って帰宅。
7:00SNSの返信をしながら、テレビを見たり髭を剃る。そして女子高生を拾わない
9:00そろそろ出かける準備ってことで。ジャケットを用意する
11:00待ち合わせまで時間があるので、映画館で時間を潰す(昨日はグルジアの映画を観た。エビスもよかった)
14:00過ぎグランヴィアで待ち合わせ。結婚相談所で紹介してもらった33歳の研究者の女性と落ち合う。
四国の県庁所在地が名前の国立大学出身だと言ってた。顔は瓜実顔で、別に美人でも無かったかな。こういう子でそろそろ妥協せざるを得ないかなあって考えた
16:00本屋に寄って立ち読み。さっき会った女の子の専門分野の学部一回生向けのテキストを座り読み。
ふと観ると、近くにタイプな感じの子がエネ管のテキストを見てた。結婚するならさっきの子よりあんな子の方がいいなあって思ってじっと見てたわ。
レジに行くので着いて行ったら、何か起きるかなあって思ったら見失っただけだったわ
18:00ケーキを食べてお腹が空いてなかったので、クラフトビールのビアバーで軽くカキフライとピクルスとIPAとペールエールを飲んで帰宅
20:00相談所に次も一応会いたいってメッセージ送った後、ゴジラ対ヘドラを観て終わった
こんな感じの意味のない日が続いているんだわ…
むっちゃ人生を消耗している感がひどい
今でも思い出すことがある
所謂地方のFランと呼ばれる大学であったが、無事に希望の学部に入学し、そのまま見学の流れでサークルに入った。
サークルの内容は話に関連しないため割愛するが、なかなか雰囲気の良いサークルだったと思う。
男女比は3:7程で女性が多く、メンバーは全員大人しめで、サークルの時間外でも部室に置いてある誰かが持ち寄ったカードゲームで遊んだり、その流れでご飯を食べに行ったりしているようだった。
ようだった、というのは自分がその会に参加したことなかったからだ。
サークルでは週に2回ほど活動があり、自分はその活動が終わると一番はじめに部室を後にしていた。
それが何回も続けば、あの子はああいう子なんだと分かってくるだろうし、特に帰宅に関して言及されることは無かった。サークルの時間外で遊んだりすることはないが、メンバーとの関係も良好であったし、サークルの活動は楽しかった。
ただ一度、自分が1回生の頃に4回生の先輩からご飯に誘われたことがある。
「このあと皆でご飯行くんだけど、𓏸𓏸さんも行かない?奢るよ」
4回生の先輩はサークルの代表をしている人だった。(あとから知ったが、普通は3回生が代表をするものらしい)
いかにもお人好しという言葉がしっくりくる人物で、同じサークルの一学年下にかわいい彼女がいた。
教職を目指しており、毎日忙しない中でサークルにも顔を出している。凄い人だ。
恐らく、自分のことを気にかけて声をかけてくれたのだろう。
でも、自分の中で「奢る」という言葉が引っかかり、離れなかった。
らしい、というのは他の同期がその先輩にどんなバイトをしようか相談しているのに聞き耳を立てていた時に得た情報だった。
でも、何故か「奢る」という部分に許し難いものを感じ、
「先輩、バイトされてないですよね?前に、仕送りで生活されてるって、仰ってましたよね?自分、先輩のご両親にご飯、ご馳走になりたくないです。すいません。」
と断ってしまった。
その前後のことはもう記憶が無いが、その受け答えの事実だけハッキリと記憶に残っている。
そうして、こうなんというか、少しナーバスになってしまった日に限って思い出すんだ。
あのとき、言葉を押さえ込み素直に奢られていれば良かっただろうか。
もうゆうにさんじゅうねん()は前になるが、なんだか体育会系ノリの文系クラブに属していたとき、なにか上回生の目にかなうことをやりとげたら「ピートムで肉、喰わしたるわ!」という不文律があった京都の大学生時代、幸運にも何度か嵐山の東の手前にあった『ピーピングトム』というステーキハウスに連れていって奢ってもらったことがあった。
卒業して数年してから、京都駅の南側にも系列店があったのを発見したり(ネットなんか影も形も無かった頃)したが、安月給の身には縁のないジャンルだなぁとそのまま通り過ぎただけであった。
…月日は流れ、ふと思い出して検索したところ、北山店というところしかもう残っていないのがわかった。「行ってみるか」地下鉄ふくむ鉄道の最寄駅よりもわりと外れた立地にあるので市バス停留所から降りて赴く(Google検索でいちばん徒歩距離が少ない候補を採用した、暑いから…)。
建物の二階部分にある店舗の扉を開けると、奥まで続く長いカウンターと、そのカウンターに沿ってなおかつそれよりも見えないくらい奥まで続く調理スペースが広がる。
150gから500gまでの範囲で注文できるが、カウンターに立ててある見本写真なども参考にしつつ、300gをオーダーすることにした。あと、サラダ類やライスさえも別注文なので、ミニサラダと中ライス、それから瓶のヱビスビールも頼む。それから感覚的に10分から15分くらい待ったかな?といったところですべての品が揃った。
…美味い。しみじみ美味い。小鉢にポン酢醤油と大根おろしと小口切りネギを張ったものが添えられているので時々それに浸しながら、ライスとビールと交互に噛み締める。ポン酢は例の完全味付けを標榜する旭ポン酢系統の出汁とかの旨味がなくでも香料ではなく柑橘類の酸味で勝負するタイプであったが、そんなものに浸さなくても、肉だけ齧って十二分に美味い。見た目はサイコロ状に切り分けられて表面ガリガリに焦がされ粗挽き胡椒が認められ中央が紅くて肉汁が侵出している状態なのだが、ソースもとくにかかってないようなのに、本当にそれだけで美味い。メシマズアレンジャー入門クラス生ゆえ、ついつい卓上の塩やミルに入った胡椒を振ってみたりもしたが、?という感想しか出なかったくらい、どういう理屈かマジでわからないが味わい深かった…。全部たいらげたあと、好奇心と「これも絶対うまい」との確信をもってステーキ皿に遺ったワインレッドな肉汁も啜ってしまったが、汁だけなのに肉の旨味と甘味が確かに感じられた!
先に居た客が退店して独りだけになった気安さもあり、ほとんど同世代だろうとおもわれる顔立ちのやや疲れ気味な店員(ワンオペだった)に味を褒めたら『来られたのは初めてですか』と訪ねてきたので、嵐山に行ったことはあった、調べたら失くなっていたのでここに来た、と伝えると『マスターが亡くなったので閉店した』『ここ(北山店)が先にできて、2年してから嵐山がオープンした』『サラダのドレッシングはここのが少し酸味が強いかもしれない、肉の焼き方やスタイルは同じ』と話をしてもらった。
ネットでいろいろ調べて自宅でも買ってきた肉を焼くことはあるけど、最初の一回以外、どうも満足したことがない。やはりクラシックなステーキというのは美味いものだなぁ、と知った日であった。
強力なハリケーンが東海岸を襲いましてアパラチア山脈に抜けました。
その後にこれだけ素晴らしい青空をニューヨークに残していったのであります。
わたくしはまたこのクイズの都へ、とても自慢できる若者二人を連れて参って参りました。
やっと秋桜が咲き始めた残暑の日本を後にしましてハイビスカスのグアム島へ。
赤道を越えまして山の頂に雪を被りますニュージーランドでは、美しい桜の花が迎えてくれました。
季節を飛び越え、敗者を捨てて、勝者はひたすらニューヨークへ。
摩天楼は今年も息を殺して今や遅しと私たちを待っていてくれたのであります。
穏やかな西日を受けまして2機のヘリコプターが戦場へと向かって参ります。
先頭のヘリコプター乗っておりますのは神戸市出身、ハンドパワーこと永田喜彰くん26歳。
子供の頃からウルトラクイズに憧れ、いつの日かニューヨークへ行こうと夢を見てまいりました。
しかしグアムのドロンコで敗れ、以来苦節3年やっと今人生最大の山場を迎えようとしています。
Mr.マリックの助けがなかったら、今こうしてヘリコプターに乗る事は出来なかったことでありましょう。
後方のヘリコプターにはマルタの恋人こと長戸勇人くん24歳が乗っております。
この春から休学をいたしまして、南米大陸放浪の旅を続けアルゼンチンとチリの国境で、あのマルタに巡り会ったのであります。
今度は医者の注意も聞かず、もう一つの夢ウルトラクイズに出場。
ゴールドコースト・トマトクイズの体力戦をやっとの思いで勝ち、遂にニューヨークまで辿り着いたのであります。
永田君と長戸君にとってウルトラクイズは、人生の大きな目標になっていたことは間違いありません。
しかし単にクイズマニアという言葉で片づける事が出来ない何かを持っている二人です。
自由の女神が前方に見えてまいりました。
今年の新聞発表の第一問、ニューヨークの自由の女神はかつて灯台であった。〇か×か。
大西洋から入って来る船にとって、彼女は水先案内人そのものです。
いよいよ世紀の一瞬が近づいてまいりました。
ポケモンスリープを使い始めて1ヶ月くらい経った。今まで使ってた睡眠計測アプリと違って、まだ洗練されてないと感じる部分が多くて、そこそこストレスを感じているので、ここで改善要望を適当に並べていく。
ポケモンスリープはとにかくリッチなアプリで、アニメーション豊富で画面を見ていて飽きないんだが、そのアニメーションによって生じる待ちが多くて個人的にはストレスが溜まる(私がせっかちなだけかもしれない)。
特に、アニメーションが終わるまで次に進むボタンが現れないのが一番気になる。「次へ」ボタンを押せばキャンセルされるわけでもない。ほんの3秒未満程度でしかないが、ただアニメーションを見てるだけの待ちが生じているので、すぐに寝たい・すぐに起きたい時には苛立ちが生じる。
カビゴン評価のアップが強制的に差し込まれるのも不満。具体的には、カビゴンが大きくなるアニメーション→カビゴン評価がアップしましたのアニメーション→見つかるポケモンが増えましたのアニメーションで、それぞれ数秒の待ちが生じる。
少しプレイすれば、カビゴン評価アップの意味はわかっているので、わざわざ強制的に時間をかけて見せる必要は感じない。アプリを初回起動したときの強制チュートリアルが毎回生じているようなイライラ(伝わるだろうか?)がある。
私が過去に使っていたアプリ「Sleep Cycle」では、平日を設定しておくことで、月〜金は自動的にアラームオン、土日は自動的にアラームオフになる機能があった。(もちろん、アラームをかけたい・かけたくない時はスワイプで自由に調整できる)ポケモンスリープにも同様の機能がほしい。
あと、計測終了がタッチ式なのもいただけない。せめて不意な誤作動が生じにくい、スワイプなどの方式にしてほしい。夜中目覚めて時間を確認し、伏せる時に知らずに触れてしまったせいで計測できてないことが一回あった。もちろんアラームも鳴らないので、その時は最悪だった。
上記は睡眠計測アプリとしてのUIのいけてない点で、その他ゲーム部分にもいくらかある。
ポケモンからきのみを集める時、ポケモンをタッチ→ポケモンの周囲にきのみが現れる→きのみをタッチして回収、という流れがあるが、わざわざきのみをタッチさせるのは手間が多くなってるだけだと感じる。システム的なUIと被ってタッチしづらい場面も多くて、単純にストレスが溜まる。
料理を作ってカビゴンに食べさせることができるが、ここでも料理中は1分程度待ちの時間になる。タップで早めることができるが、わざわざ待たせる意味を特に感じないので、なんのための時間なのかわからない。下にTipsが表示されるからそれを読むための時間なのだろうか?ローディング画面に表示してほしい。
画面の表示範囲がちょっと狭い。朝起きてポケモンの寝顔を集める場面、ポケサブレをあげる場面で、毎回縮小をしている。そうしないとすぐには見つけられない。スワイプして探す楽しさを味わってくれ、ということなのかもしれないが、朝起きてすぐにそれは(個人的には)つらい。
そのため全てOKです。
今の母体のままでそんなスピードで成長したら間違いなく子宮も腹も成長スピードに耐えかねて爆発四散すると思うし、その成長分のカロリーを摂取する必要があり今度は胃が爆発四散すると思うが、そこはそういう生き物としてアジャストしたとする。
約10カ月かかる胎児期間を1か月で終わらせるのだから、成長速度は10倍ということになる。
そうなると産まれて1年で小学校3年生くらいのサイズになり、2年で成人級のサイズになる。
衣類の買い替えがヤバい。
すごい速度でいらなくなっていくのできっと今よりもっと近所で子供服の使いまわしが進んでいくことだろう。
脳の処理能力も身体の成長に合わせて上がっていくとしても、1年間で幼稚園から小学校3年生までで覚えることを全部詰め込むのは物理的に相当難しいし。次の1年間では小学校4年生から大学2回生までの知識を詰め込むのははっきり言って無理だ。
そうなると、身体は20歳の成人のサイズだが知識は小学校みたいな連中が量産されることになる。
非常に困る。肉体労働以外では使い物にならない。
で4年目くらいで体のあちこちにガタがきだして、8年くらいで介護が必要になるが9年目には大概死ぬ。
割と経済的かもしれん。
トヨタが2026年にリン酸鉄バイポーラ実用化してEV売るという話があるので真面目に検討してみたんだが
なかなか厳しくねぇか?
一軒家で太陽光で充電できる人じゃないと無理だと思う
俺はマンション住みで駐車場で充電できないから外で時間かけて充電する必要がある
それもスーパーの駐車場の普通充電だと、1時間で3kWhとかでしょ
電費7km/kWhで考えて21km分
それで下手したら200円くらいコストがかかるわけですが、今乗ってるHVで燃費街乗りでも21km/Lくらいは出るんですよね
EVの静粛性と加速の良さ、雑に運転できそうな点はかなり期待してるんだが
特に今乗ってるのTHSだから、アクセル開度見ながらエンジンのご機嫌を取らないと燃費が出ない
これがなかなか面倒くさい
開けすぎず緩すぎずギリギリのラインを調整して巡航速度までなるはやで上げ、減速は一瞬でも早くアクセル離して回生協調を意識してブレーキングする必要がある
めんどくさい…
EVだったら雑に加速して、巡航速度は一定を保つとして、回生セレクタで減速しながら止まればええんでしょ
魅力的なんだけどな~
ところでATTO3いいよな
補助金入れたらマジでその辺のSUVと変わらん値段になるし、装備も充実してるし、色々グレード作らない売り方も良い
シートがいまいちという感想があったのと、経済安全保障でいきなりファーウェイみたいな扱いになりそうで心配
リセールもクソだろうし悩ましい
なんか酷いことになっているので、学校の調査発表と元顧問の公開したYouTube動画を見て、簡単にまとめてみました。
本件の本質的な問題として、「技術工作部」の顧問(退職済)が所属する学生に借金を背負わせて卒業させていたという点があります。
返済は「部への寄付」という形を取るため、元顧問に言わせれば借金ではないそうですが、将来の寄付を約束させている時点で借金と変わらんのです。
ではなぜそんな事になったのか。
学校から支給される予算だけでは足りず、それ以外の活動資金は、元々は高校2年生の部員が負担する制度だったそうです。
中高一貫校なので中高生が入り混じって活動しているわけですが、最大6年間の活動の中で、高2の時だけ負担するということです。
赤字になれば高2の部員で頭割りして追加徴収し、余った場合は残金を頭割りで返却したそうです。
この時点でまあまあ意味不明な制度ですが、これに保護者から負担が大きいとクレームが入りました。
そこで、元顧問がポケットマネーから100万円を部に貸し付ける形に変更したそうです(学校には報告していません)。
そして学校から下りる予算やイベントの物販の売上等でそれを相殺し、年度末に元顧問に返済するというお金の動きになりました。
足りなかった分は後述するようにその代の2年生が借金として背負うので、現役生の時に払う形から、卒業後に払う形にスライドさせたということです。
学校側のチェックがガバガバだったのもあるのですが、せっかく複式簿記にしたのに、結果として会計がブラックボックスのやりたい放題になりました。
それが退職、引き継ぎの準備の最中に発覚し、部の活動停止処分にまで至ったわけです。
詳しい事情は分からないのであれなんですが、高校の部活なんてサッカー部や野球部でも諸々あって年間十万~数十万はかかるものじゃないですか。
芝中・高校は中高一貫、かつ高校からの募集がない特殊な私学です。
そこに通わせる程度には余裕のある家庭の子息しかいないはずですが、保護者からのクレームで部員から活動費の徴収ができなくなるってのは、年間どのくらいかかってたんですかね…。
高校3年の1年間を大学受験対策に使うという事情から、おそらく部内の最高学年が高2なのだと思いますが、2年生に全部負担させるというのはよく分からないですね。
素直に全部員から徴収すれば1回あたり、一人あたりの負担が減ってクレームも出なかったのでは、と思います。
貸借対照表にある「貸付金」。
これは、その年度の会計が赤字だった場合に、部員に課される「寄付の予定額」の合計だそうです。
何を言ってるのか分からないと思うのですが、つまりこういうことです。
その年度の会計が赤字になった場合、足りなかったお金の出処も当然元顧問です。
元顧問は、この赤字分をその年度の2年生の責任とし、負担するよう要請していました。
しかしそこは教育者としての良心なのか分かりませんが、出世払いとしました。
それが「部への寄付の約束」で、予定された金額が「貸付金」に加算されることになります。
この「貸付金」の金額はそのまま「短期借入金」の100万円に加算されます。
報道で公開された貸借対照表では「短期借入金」が175万円あったので、その内訳は元顧問の「元入金」が100万円、寄付の予定が75万円分あったということです。
「貸付金」とは「誰かにお金を貸しました」という項目であって、要するに債権です。
そもそも貸していないのであればそのお金はどこから来たんだという話になりますし、元顧問のポケットマネーなのであればこれも「短期借入金」の方に入れ、「元入金」の金額を変更すべきでしょう。
借金だと認めるのであれば「貸付金」でOKかもしれないですが、すると今度は部活の顧問が部員に借金を背負わせて卒業させていたという倫理上の問題があります。
いずれの場合でも問題なのですが、帳簿に「貸付金」と記載したことからも分かるように、実態として借金であることは疑いようがないと思います。
また、現役部員に特定の代のOBを狙い撃ちして寄付を求めるという借金取り紛いなことまでさせていた点は悪質と言って良いと思います。
さて、元顧問はしきりに複式簿記であることを強調し、「簿記が分からない人には理解しにくいかもしれないが」と話していましたが、失礼ですが馬鹿なのかなと思いました。
記載内容が独自ルールの塊なので、簿記が分かっても理解できるはずがないんです。
ご自身でも話していましたが、不適切会計の解消にむけて、公認会計士が見ても分からないから会計担当をしていた元部員と協力して確認作業をしているそうです。
公認会計士が読んで理解できないような帳簿は、帳簿とは呼べません。
ところが帳簿上の実態は元顧問が補填した赤字額のことであり、元顧問本人は「金を貸したわけではない」と説明しています。
元顧問の動画では「基本金(資本金)」についても説明していました。
企業ではないのに「資本金」とは?という疑問への答えらしいのですが、これは「寄付金収入」のことなのだそうです。
「寄付金収入」はその年度の収入として計上するのが普通の会計処理なのですが、「OBが部へ寄付しているのだから、収入として扱うのはそぐわない」という意味不明な理屈で「基本金」に繰り入れていたそうです。
要するに、「基本金」という名前を付けた「謎のプール金」だったということですね。
そもそも会計上の「基本金」とは学校法人が学校の運営のために確保してあるお金の事なので、部活の会計勘定に「基本金」なんてものは存在しないのです。
存在してはいけないものがある以上、見た瞬間におかしいと気付きそうなものですが、学校側は本当に何も確認していなかったのでしょうね。
動画では「お祭りの寄付金みたいなもの」なんて言い方もしていましたが、それこそ「寄付金収入」として扱うに決まってんだろバーカと思いました。
(きちんとした話をするなら「基本金」と「資本金」は別物ですが、それは別のお話。)
複式の帳簿は単式帳簿よりお金の出納を詳しく追えるのがメリットなのですが、
「これはな、学生に借金背負わせてるなんて言えないから貸してないことになってるけど、実質的に貸してるから貸付金なんやで」
とかやってたら台無しなんですよ。
「この貸付金は誰に貸したんですか?」
「いえ、誰にも貸してないですよ」
「えっ?」
「えっ?」
みたいな会話があったんでしょうか。
・借用書を交わした一般的な形式ではなく、返済期限も特に定められていたわけではないものの、将来の寄付を約束させている時点で実質的な借金である
・帳簿には「誰(何回生)にいくら貸し付けたか」が記録されており、卒業生の借金は部によって管理されていた
・卒業生への寄付の要求は現役部員が行っていた(高校生に借金の取り立てをやらせていた)
・借金の返済を「寄付」という形にしたことは、借金であることを隠蔽する目的があったとしか考えられない
・そもそも、元顧問が自身のお金で部の活動資金をまるごと建て替えた事自体が、活動費の管理・運用の観点から間違っている
簿記やってる人からすると吐き気がするレベルの内容だと思うんですが、企業がこんなことしたら、ほぼほぼ間違いなく粉飾決算です。
会計担当をしていた部員は会計系の企業に就職した人もいるそうなんですが、恩師のクソ会計を今どんな気持ちで見ているんでしょう。
気の毒です。
元顧問については、技術系に関しては能力があり、熱意もある優れた指導者だったのかもしれませんが、その代わりお金の管理に関する倫理観がバグっていたのでしょう。
あるいは、お金が原因で学生の活動の幅が狭められてしまう事に歯がゆさを感じていたのかもしれません。
お金の管理方法を使いやすい形に捻じ曲げてでも、その思いを果たしたかったのかもしれません。
指導者が自ら率先してルールを逸脱し、その姿を教え子に見せることに何の葛藤も抱かなかったのでしょうか。
大卒就職内定率の母数は、就職希望者のみなので、進路票の未提出、自主的な留年、家事手伝い、大学院進学、アジア放浪、アメリカで自分探し、フリーター掛け持ち、大学時代のアルバイト継続などの人は、母数から外れるのだ。この数え方をしてさえ、就職率58%をたたき出し、日経新聞の一面を飾ったぜ。比較対象は東大だった(98%)。戦略的な数字を出したい大学は、卒論とか卒研の単位を教員の裁量にして、就職できなかった学生を留年にするんよ。翌年5回生が50人くらいいたから定員が100人の半分くらいは、就職内定の母数に含まれず、残りの人の42%が、仕事が決まらずに卒業。実質30%くらいしか仕事につけなかったのであった。リクルートの電話帳のような冊子を見ても若干名の募集しかなく、コネ枠で決まっているが、儀式的に採用活動をしていたのであろう。若干名に5桁に近い4桁の応募がくる。当時採用担当の人に後日談を聞くと、面接できる人数まで絞り込むのが大変だったらしい。試験会場で列の整理をしていたおっちゃんが「しょうちゃん、しょうちゃん」と若手に呼び掛けていて、その若手の名札を見ると「正力」と書かれていた。庶民にはないコネだ。
中谷彰宏の就職本が流行っていた。この本のノウハウには助けられた。リクルートのはがきを使わずに官製はがきで応募とか、履歴書のフォーマットを自分に有利に変えるとか、証明写真をデパートの写真館で撮るとかいろいろやった。最終面接までいく確率は著しく高まったが、コネが足りなかったと思う。この本は就職できなかった仲間に貸して回って、内定をもらえるようになったので、再現性があることに感動を覚えた。中谷さんありがとう。
新卒の募集をしていた会社は社員が逃げ出していた会社が多かったので、せっかく入った銀行がテーマパーク事業への融資に失敗して破綻とかCM流しまくっていた繊維業が突如倒産とかで、翌年の就職戦線に再び参加していた仲間もいた。第二新卒なんて言葉はなく、中途扱いだった。
そんな苦労して入った会社も残業代を誤魔化すならず者会社が多く、上場企業でさえコンプラが甘く深夜まで続くサービス残業とかが常態化していた。氷河期世代は人が余っていたせいで24時間営業の業態が増えた。悪い条件のバイトでも人がきたんだ。新聞配っているときに退勤とよくやってた。
第二次ベビーブーム世代の人数感を伝えると中学の野球部では、学年ごとにリーグ戦ができる人数がいた。が、グラウンドは一つなので、1、2年生はランニングと基礎トレと球拾いとグラウンド整備に明け暮れる日々。兎に角人数が多かった。運動部に入らないと内申点が下がるとか意味不明なルールがあったなぁ。
EVが向いているのは
・自宅充電できる(普通充電3kW)
・近距離を頻繁に使う(1日50km以内が目安。通勤、通院、お買い物)
だよ。
仮に一日30kmとしよう。大体のEVの電費は7km/kWぐらいだ。つまり4kWぐらい。
急速充電じゃない普通充電でも1~2時間で完了する。家に帰って充電器に繋げば次の日には余裕で満充電だ。
ガソリン車に対するアドバンテージとして「摩擦機構が極端に少ない」だ。
ブレーキパッドもほとんど回生だから減らないし、エアコンや油圧ポンプを駆動するベルトもない。エンジンの温度を上げる必要もない。オイルポンプもほぼない(ブレーキ油圧も電動だし)
ちょい乗りには理想的な条件といえる。これはプリウスのようなストロングハイブリッド(3世代目で補機ベルトがなくなった)でもかなり近いがEVならもとからないのだからさらに良い。
逆にレジャーで使うにはあまりに不便なことが多い。それならPHEVぐらいのほうがいい。自宅充電もできるし、長距離もこなし、超高性能なガソリン発電機にもなる。
ほとんど遠出しないので通勤と買い物で自宅充電だけでプリウスPHEVを1年給油したことがないってツワモノもいる。いちおう2年ぐらいは(タンク内のガソリンは)大丈夫だそうだ。
中学1年で初潮だったが、そのあとずーっと一年に4、5回生理が来るかどうかってリズムだった。
基本的に2か月に一回しか来なくて、それもしょっちゅうスキップして、まるまる3か月来ないと婦人科行こうかなーって思うんだけど悩んでるうちに来る。結局13歳から30歳までで2、3回婦人科行ったけど、様子見ましょうって何も治療はなかった。
それより、高3からメンタルがおかしくなって、眠れないのに起きられなくなって、高校や大学に行けなくなったことの方が問題だった。唯一これを飲んだら眠れるってなったのが今はもう処方してもらえなくなったサイレース。この薬、催奇形性があるので妊娠を希望する場合やめなきゃいけないのだが、そんなことよりこれ飲まないと眠れないし、人としての生活送れないし、出産どころの話じゃないし。生理は年に4回しか来ないし(この頃半年止まったりもしてた)、アトピーで脱いだらカサブタだらけで自分の子もそうなるのかと思うと産んであげないほうがいいのではって思うし、彼氏いたことないしこの人と結婚したいとか思ったこともないし。
というわけで、20歳から35歳くらいまで、出産適齢期の間ずっと、出産する予定なんてありません、ていうか妊娠する機能が多分ありません。とサイレースを飲んでいた。
サイレースを辞めたきっかけは転院で、引き続きの処方を希望してたんだけど流石にもう処方してもらえなかった。処方したダメな薬になってたしね。この頃にはちゃんと1人で寝て起きて、働けるようになっていたので(障害者雇用だけど)サイレースはなくても平気だった。けど、月収10万とかだったのでやっぱり生理は年に3回とかだった。
その間、彼氏っぽい人もできたりできなかったりしたけど、私産めないんだよなーと思うと、じゃあ結婚する必要もないし、2人で飲みに行って帰りにハグまではいいけど、同じ家に帰ってなんだかんだしたいとまでは思わなかった。思えなかった、とか、思うことを禁じていた、かもしれないがもうよくわからん。
コロナの始まる直前に月収10万の職場から30万の今の職場に転職して(今でもなんでこんなにもらえるのかわからん)、さらにリモートワークで週一回の出社になった。
毎月生理が来るようになった。
もう3年ずっと生理がきている。2019年は4回しか来なかったのに、20年から22年までで27回もきている。そんなに出血してどうするんだ。あと、生理用品ってこんなに激しく消費するものだったんだな。一回買ったら一年買わないものだと思ってたよ。
ていうかだな。
36歳の時には年に4回しか生理来なかったのに、37歳からやっと生理が来るようになるって、何????????? もう私今年で40になるんですけど!!!!!!!!!なんで!こんな!ちゃんと来るの!!!
器質的に生殖器官に問題があって、排卵が来ないとかそもそも卵子がないとかそういうので産めない人間なんだろう。と自分のことを思っていたけれど、中学生の時に高校生の時に産婦人科のお医者さん達が言った通り、まじで器質的には問題なくて、ただただストレスで生理がきていなかったらしい。
学校に行かなけりゃちゃんと生理きてたのか。ちなみにアトピーも転職後ストレスが解消したせいかほとんど治っちゃってるぜ。なんならメンタルなんてこの3年自分史上最高にいいぜ。
自分が出産可能だと知ってたら、ちゃんと恋人作るか婚活するかして、結婚して子供を産もうと思ってたのかなあ。
でもなあ、20代の時点で自分が出産可能だと気付くには、社会生活諦めて家に引き篭もる必要があって、旦那さんに生活費全部稼いでもらう代わりに子供を産むっていうのは、どうだろうなあ。そんな選択肢は選びたくないけど、そういう選択もあると知ったらきっと悩んだしどっち選んでも後悔したから、20代当時は自分が子供産めるかもなんて知らなくて良かったのかなあ。
だったらよかったをいうなら、20代の早いうちに在宅勤務が一般的になっていたら良かったけど、それはもう徳川将軍が女だった並にSF的なIFの世界だし、自分の身にあり得たかもしれない選択肢だとは思えないな。
総理大臣が少子化対策がどうとか言ってるので、自分はどうして産まなかったのかなんとなくつらつら思い出して書いてみたんだけど、まあそんなわけで、わたしは自立した社会生活を送るか、子供を産むかを天秤にかけてどっちかしか選べないキャパシティの人間で、自分で自分の生活費を稼ぐことを選んじゃったんだな。
ってかくと、子供を産まなかった理由としては、わりに一般的な理由と選択な気もするな。
というわけで、これから何か少子化対策をしてくれるのなら、働きながら子供を育てるのは無理なキャパの乏しいわたしみたいな人に、こうしたら両立できますよってお助けプランをいくつも提供してくれるような対策だったらいいなって思います。
あと20年遅く生まれて、いま20歳だったら良かったのかなー。器質的に子供なんて産めないと思って生きてきたし、これからも年齢的にいまさら産めないと思って生きていくから、子供が産める人生って、想像もつかないな!
不採用だった。全力は尽くしたが、致し方ないと思った。約一週間後、mixi日記でキャプテン君が住友商事の内定を取ったことがわかった。第一志望だったので、そこに行くらしい。その日記には、いろいろと別世界のことが書いてあった。
・去年の秋、大学に五大商社の人が来て、体育会の部活に挨拶に来た。その時に一緒に食事をして、「ぜひ弊社に!!」とスカウトを受けた(五社中の三社)。
・ほかに受けた化学メーカー(東レ)の最終面接では、「御社は第二志望です。住友商事が第一志望です。そこに落ちたら弊社にお世話になります」とはっきり宣言したうえで内定を獲得。
・三菱商事も、三井物産も、伊藤忠商事も、選考を途中で辞退。自分とは合っていないと感じたため。
この時ほど、人間力というものの差を実感したことはない。アイツはすごかった。俺とはレベルが違う。俺はサッカーしか頑張ってこなかったけど、あいつはサッカーだけじゃなくって、受験勉強だって、人間関係の構築だって頑張れる人だった。
いやアイツは、どんなことにも本気で取り組むことができる。それでいて人間が好きだ。そういうエリートなのだ。当時も今も、俺はキャプテン君が羨ましい。俺もそんな人間になりたかった。なれなかった。
もし、今どこかでキャプテン君が俺の増田日記を観ていたとしたら、匿名でいいからコメントがほしい。誰だとわからないように隠してくれて構わない。
今では俺は、こんなに落ちぶれてしまった。正社員じゃないし、年間収入だって今のキャプテン君の五分の一に満たないだろう。クビになる可能性だってある。毎年、戦々恐々だ。
今でもサッカーが好きだ。自室の中にはサッカーゴールが置いてあるし、試しに蹴ってみることもある。部屋の壁にぶつけないよう、慎重に、慎重に蹴っている。たまに飛び出してしまうこともあるけど。
キャプテン君はどうだろうか。今でもサッカーをやっているのだろうか。とにかく今は、二十年前の思い出が懐かしくて、愛おしい。涙が止まらない。
第一志望の企業を不採用になった後は、坂道を転がるみたいだった。入りたい会社を受けども受けども、内定は得られない。二次面接までは行くのだが、そこではなんというか、明らかにやる気みたいなのが足りてなかった。
春を過ぎた頃だったか。同じ京都にあるITベンチャーを受けに行った。詳しい時期はもう覚えてない。はっきり言ってしまうが、㈱はてなだった。実は大学生の頃からはてなユーザーだったりする。
俺と同じ大学出身の人が面接をしてくれて、縁を感じた。エントリーシートも筆記試験も一次面接も、特に問題なく進んだけど、二次面接で一気に苦しくなった。
志望動機とか、会社を将来どうしたいとか、自分が将来どうなりたいとか、そういうことを喋れなかった。しどろもどろだった。どう考えてもこれは落ちた――そう思った。
相手の面接官は、「自分が入りたい会社というのはね、自分が将来どんなキャリアを描きたいのか、どんな人間になりたいのか、そういうところから逆算して決めていくんですよ」「今のままだと、増田くん、僕らの仲間になれないよ。ほかの会社だって難しいんじゃないかな」「もっと、ゆっくり立ち止まって考え直そう。増田君がどの会社に行くとか関係ない。真剣に考えて」と、人生のアドバイスまでしてくれた。
後日、大学のパソコンにログインすると、二次面接の結果通知がきていた。『合格』だった。次の選考に進めるらしい。これが最後通牒だと思った。「次でなんとかしろ」。そういうメッセージだった。
結局、俺はダメだった。はてなは辞退したし、ほかの選考が続いていた会社も悉く落ちて、ようやく内定を得られたのは夏の終わりだった。烏丸御池の辺りにある小さい広告会社だった。※今は別の場所に引っ越している。
この頃には、千亜子ともあまり会わなくなっていた。就活期間中は、お互いに忙しいから会えなくて当然なんだけど、まさか俺のせいでここまで会えなくなるとは。
千亜子は、その年の初めから一気呵成に就活に励んでいた。それで、俺より四か月も早く内定を決めていた。千亜子がスチュワーデス(CAのこと。当時は呼び方の過渡期だった)に内定したと聞いて、やはり只者じゃないなと感じた。劣等感だった。
この頃の自分というのは、なんかもう、劣等感がすごかった。就職活動でサッカーはできないわ、千亜子には会えないわ、勉強だって最後の単位を取り終えるあたりで躓いていた。
フツーの人生だったけど、それなりに成果を得てきたつもりだった。持ってる側のつもりだった。でも、俺はダメだった。今でいう抑うつみたいな状態になっていた。
秋になると千亜子と会うようになっていたのだが、よそよそしくなっていた。俺が内定した会社を告げると、「あー、よかったね。一緒に東京行けないのは残念」と言っていた。
もうすぐ最後のインカレという時期だった。ある日のアルバイト帰り、千亜子とキャプテン君が働いている河原町通りの飲食店の近くを通ると、千亜子がいた。ほかの大学生数人と一緒だった。私服だったし、おそらく飲み会帰りだろう。
店の近くまで行ったところで、自動ドアが開いた。すると千亜子が中に入って行って、上の階へと小階段を昇ろうとする男子学生(※キャプテン君ではない)の背中を掴んで、ぐいっと引きずり降ろしていた。
ちょっと驚いたけど、別に険悪な雰囲気でもなかった。それで、何やら彼と顔を近づけて話を始めた。この後の段取りとかを話してたんだろうか。俺のすぐ傍にいたほかのアルバイト友達と思しき学生が、こんなやり取りをしていた。
「そういえばキャプテンさん、最近千亜子さんにアタックしてる」
「二人とも一流企業だし。似合ってると思う」
こんな話をしていた。※当時の日記に書いてあった。
惨めな気分だった。俺が千亜子と釣り合ってないのは確かだ。内定した会社のランクが違うから。俺は就職活動に失敗した。インカレだってスタメンに選ばれなかったし、アルバイト先でも俺よりすごいやつは何人もいる。
人生で、ここまで負けまくるのは初めてだった。「畜生」と思ったけど、当時の俺にはどうにもできない。
千亜子にフラれたのは、新年が明けてすぐだった。大学のカフェテリアで、夕方に一緒にコーヒー飲んでる時に、「卒業するし、そろそろ終わりにしない? いい人、いるんでしょ。知ってる」と言われた。
今日、そんな予感はしていた。サッカーの試合勘みたいなもので、雰囲気でなんとなくわかる。今年の初詣は千亜子の予定が合わずにダメだった。おそらくキャプテン君と一緒に行っていたのだろう。
当時、『いい人』はいなかったけど、「そうしよう。お幸せに」って言ったら、「お互い、これからの人生でいい思い出にしていこうね」と千亜子が言った。
当時の日記には、そんなことが書いてあった。記憶や言葉をごまかしてはいないはずだ。当時の俺は、そこまで弱い人間ではない。40を過ぎて今それを読んでいる。やはり涙が止まらない。
これで結びになる。
就職してからの俺は、うまくいかなかった。仕事の才能は平凡のようだった。しかし、大学時代の失敗を引きずっていたせいで使えない人間だった。「あんた、サッカーすごかったんやないん?」みたいなことは何度も言われた。また、同じ会社で「学生サッカー選手権で活躍するところを観た」という同年代の社員もいた。
確かにそうだったかもしれないが、最後に出たインカレだって、負けかけの試合で後半でお情けで出してもらったくらいで、別に凄いわけでもない。アルバイトだって、ずっと居酒屋で頑張っていて、そこで最後に新しい彼女作れるかなって頑張ったけど、五人以上にアタックして全く相手にされなかった。素の自分というのは、モテる方ではなかった。ちょっとサッカーができるくらいで女にモテようなんて傲慢だった。
そんなこんなで、気持ちが沈んだまま新年度の四月を迎えたのだ。でもって、実社会で通用するはずもなく、新卒で入った広告会社は二年で辞めて、後はずっと契約社員とか派遣社員だ。
キャプテン君と千亜子は、俺が広告会社を辞める頃に結婚した。mixiの日記を読んだけど、それはもう凄い結婚式だったらしい。総合商社勤めだけあって、マイミクだったら無条件に結婚式招待OK!! という宣伝をしていた。会場までは知らないが、きっと東京都内のオシャレな会場だったに違いない。
俺は行かなかった。お金がないのもあるが、なんかもう、人生が面倒くさかった。
不惑になった今でも、当時の俺の何が悪かったんだろうと振り返ってる。昨年末も、実家にあった段ボール箱を引っ張り出して、当時の日記を読んだ。大学二回生から付けている日記を、半日かけて読んでいったのだ。この増田日記のベースになってる。
俺の何が悪かったのか? 三点にまとめると、次のようなところか。よくない行動のハットトリックみたいだ。
・就活で失敗した程度で凹んだのはおかしい。どんな会社に入ろうと未来はあった。
・どんな自分でも自分自身なんだって気が付いてなかった。失敗したって、自分という人間の価値が下がるわけじゃない。むしろ、失敗前の自分<失敗後の自分だ。それがわかっていれば卑屈になることもなかった。俺は挑戦したのだ!! そんなメンタルだから、就活もサッカーも恋愛もうまくいかなかった。
・サッカーができるくらいで調子に乗っていたこと。どれだけサッカーができようが、それは実社会で必要とされる力の一部分にすぎない。大事なことはもっとある。
・もっと自分を認めること。生きているだけでもすごいんだと、自分を褒めてやりたかった。人間にはみんな価値があるのだ。
いや、四つあるんかーーーーい!! と、大学時代の俺だったら、陣内智則みたいにツッコミを入れていただろう。今はそんな気力もない。
あの頃に戻れたら、とは思わない。いや、本当は戻ってみたいけど、それは間違いだ。これまで負け犬なりに努力してきた自分を否定したことになる。過去の自分を裏切ってる。だからダメだ。
今の俺は、あの時よりも成長してる。だったら、もっと成長できる!! もっと頑張ったら、幸せになる未来があるのかもしれない。結婚はできそうにないけどな。
ここまで読んでくれた人、ありがとう。何人読んでるかはわかんないけど。
気持ちの整理をつけることができた。また来週からは、しみじみと社会人生活をやっていきたい。
どうすれば幸せになれるんだろうかと考えて、ひとまず、今年の春から地元の草サッカークラブに入ってみた。自分自身が練習してるのもあるけど、子ども達に教えることもある。
ひとまずは、こんなところでいいのだろうか。まあ、ゆっくりやってみよう。幸せでありたい。増田やブックマーカーのみんなも幸せにな。
先日、不惑(forty years old)を迎えた。今では草臥れたおじさんだけれども、昔はサッカーが大好きで、自他ともに認めるサッカー馬鹿だった。
小学校から始めた。当時は、とにかくドリブルが大好きで、どんな形でもゴールを決めたら嬉しくて、勝っても負けても楽しかった。何も考えずにサッカーやってた。そんないい思い出もあるが、人生トータルでは辛い思い出の方が多い。
この日記は当時の個人情報でいっぱいだけど、俺はもういいよ。十分に生きたと思ってる。どうなってもいい。特定されても大したキズじゃない。クビになるのを恐れるような会社勤めでもない。
小学校も中学も高校も、部活一筋だった。中学時代にユースに誘われたことが一度だけあるが、自分は超一流にはなれないと何となくわかっていた。本当に才能がある奴は輝きが違う。自分はサッカーを楽しめればそれでよかった。全国優勝とかには興味なかった。
高校は、京都府内にある名門校だった。懐かしい。思い出すにつれ、いい思い出と悪い思い出とが交錯するみたいになって、感傷的な気分になってくる。今はトニックウォーターを飲みながら書いてるけど、気分がいい。
それでさ、高校で補欠or正レギュラーに選ばれるようになったのは高二の秋以降だったんだが、最後の年になると1回戦から最後の試合までフルで出場できた。国立競技場で戦えなかったのは残念だが、あの時の自分は輝いていたと思う。輝いていたのだ……。
大学は、とその前に、当日記は、いわゆる人生の落後者の振り返り日記になる。たまに、増田とかはてなブログでもそういうの投稿してる人いるだろ。自分もやってみようと思ったのだ。
俺という人間が落っこちたきっかけは、大学だった。これから書く文章を要約すると、高校卒業後はスポーツ推薦(セレクション)で同志社大学に入った。そこでも、運や努力の甲斐があって人並以上に活躍ができて、チアリーダーの彼女ができて、学業も順調で、アルバイトも楽しくて、四回生になって、さあ就職活動だ、、、というところで人生の敗北を味わった。そこから転落していった。
俺より凄い奴なんて、世の中にはいくらでもいた。その一人が、当時の大阪大学のサッカー部でキャプテンをやってる奴だった。以下アイツとしよう。
これがまた凄かった。価値観が大人びていて、熱血漢で、スポーツは当然できて、面白い小話ができて、総合商社に内定して、それで最後に、俺の彼女はそいつに取られてしまった。あの時は、そりゃあキツかったよ。
俺がいい会社に内定できていればもしや、という思いは当時あったがその線は薄いだろう。俺がアイツより優れていたのはサッカーだけだった。俺とアイツは、サッカーで対戦したことが一度だけある。高校時代に府大会でやり合った時、圧倒的な差で点をもぎ取って勝利を収めた。
ピッチ上で1on1にもなったが、俺の勝利は歴然だった。見え見えの目線トラップに引っかかって、アイツは筋違いの方向に足を蹴り出した。それで、スルッと抜いてやった。高二の春季大会だったと思う。
大学以降は、リーグが違ったので対戦することはなかった(うちは一部で、阪大は二部)。しかし会場で見ることは稀にあった。
まあ、これから昔の日記を読みながら、ちょっとずつ書いていく。辛い思い出にはなるけど、他者から見たら参考になることがあるかもしれない。そう願っている。
今回、この日記を書こうと思った最初の切欠は、先日まで放送されていたアニメ『ブルーロック』の影響だったりする。あれだけ見事なサッカーアニメを見せられて、つい昔を思い出してしまった。
今の自分は、アニメの後半で出てきた、サッカーを諦めた馬狼照英が自宅テレビでサッカーの試合を見ながら発泡酒を開けるシーンがあっただろ。まさに、あれだ。あれが今の自分なのだ。契約社員で、ワンルームマンション暮らしで、あんまりお金がなくて、実家も太くないから帰るわけにもいかない。
それでも、人生一度くらいは筆を取ってみたい。思い立ったが吉日ということで、ちょっと書かせてもらう(4/27時点)。どれくらいかかるかな。三週間くらいか。みんな五千字は書いてるイメージがあるから、それ以上の文量でいくことにする。ほとんど大学生になってからの体験記になる。
運のいい人間だった。サッカーというのは、誰でも想像はつくだろうが足を酷使する。高校時代は全国大会で活躍するような選手でも、ある時から怪我に悩まされてしまい、まともに練習ができなくなり、実力が落ちて試合に出してもらえなくなり、ハードな練習をしてまた怪我を……といった悪循環に陥る選手が少なからずいる。実際、俺の同期の一人はそれでサッカーを辞めた。
高校と違って、大学の場合はセレクションで入って部活を辞めても大学生をしていいのだが、律儀だったそいつは、出身高校に詫びを入れたうえで潔く退学していった。
幸いにも、そういう怪我とは無縁だった。かといって、そこまで実力があるわけでもない。府のトレセンに選ばれた経験もない。選ばれかけたことは何度もあるらしいのだが。ポジションは……すまないが内緒でお願いしたい。フォワードみたいに目立つポジションじゃない。
大学二回生までは順調だったかな。部活は毎日キツイけど成長している感覚があったし、トレーニングメニューとか選びやすかったし、アルバイトも始めた(木屋町の居酒屋だった。どんがまと、さざんか亭と、あとはジャンカラでも働いたっけ)。
本当に順調だった。学生生活は楽しかった。サッカーの腕前も上がって、二回生の秋季にはベンチ入りして、三回生になる頃にはスタメンが基本だった。関西サッカーの一部リーグで活躍してる大学生、といえば聞こえはいいけど、実際、精神的にはそんじょそこらの学生と一緒のレベルだった。
練習中に調子に乗ることはあったし、アルバイト先で後輩にマウント取ることもあったし、体育会の悪い連中に至っては、女遊びに夢中になって、今だと警察沙汰で逮捕されてニュースになるようなこともやっていた(俺は無縁とは言わないが、断じて犯罪は冒していない。むしろ、やりかけた先輩も後輩も止めていた)。
勉強も部活もマジメにやったつもりだ。普通の大学生だった。でも、三回生の夏前だったかな、幸せな大学生になったのだ。
関西地区での試合だと、応援団のチアリーダー部がやって来ることが稀にあった。本当に稀だったけど。それで、ある交流試合だったんだが、その日は調子がよくて活躍できた。敵味方の動きを読んだポジショニングは完璧だったし、要所要所で相手のドリブルをカットして、俺が蹴り上げたボールはセンターラインを飛び越えて味方のところにドンピシャで飛んで行った。ただ、ゴールを決めることは叶わなかった。ゴールを決めるポジションじゃないので、どうしようもないのだが。
試合が終わった後で、帰りのバスを待つ最中にチアの子達とちょっとした話になったんだが、その時にメアド(※TwitterやLINEは当時ない。GREEやmixiの黎明期だった)を交換した女の子がいた。
その子(千亜子とする)の見た目は、そりゃあ可愛かったけど、英語が話せるところとか、知的なところとか、お酒に酔ったら暴れがちなところとか、某飲食チェーン店で花形店員だったのとか、品のあるところがよかった。性格は明るかったりドライだったり、区別が難しかったな。演技するタイプだった。
体型は普通だった。ふくよかとか、細いとかは何ともいえない。胸はそれなり。好みのタイプではあった。オムライスとか作るのうまいし、たまに唐突に泣き出したりする。
千亜子は、恋愛に積極的な方だった。デートではよく手を繋いだ。セックスの相性はよかったと思う。最中はよく緊張してたけど、段々と気分が乗ってきて、いろんなことを言ったり、やったりしてくれた。
交際期間は、三回生の秋から一年と少しだった。まあ、平凡なカップルだったと思う。喧嘩とかもなくて。終わりはあっけなかった(最後のあたりに後述)。単位をほぼ取り終えて、学生生活の最後を満喫してる一月頃に遠回しな言葉でフラれてしまった。
三回生の秋頃だった。ある男子学生と知り合った。阪大のサッカー部でキャプテンをしていた。上で説明した『アイツ』のことだが、さすがに失礼なので以後はキャプテン君とする。彼とはリーグこそ違えど、顔を合わせる機会はたまにあった。といっても、こちらから話しかけることはなく、せいぜいすれ違ったり、試合を遠目で見たりする程度だった。
それで、ある時に知ったのだが、そのキャプテン君は、千亜子と同じアルバイト先だった。二回生の時に同時にその飲食店に入って、それから一緒に働いていたらしい。
俺がそのキャプテン君と千亜子が一緒にしゃべっているのを見たのは、ある試合場での一度きりだった。まあ、普通のアルバイト友達みたいな感じだったな。千亜子のマイミク繋がりで、俺のアカウントにもキャプテン君の情報が表示されていた。
ところで、キャプテン君の試合風景だが、圧倒的闘志でもってプレーするスタイルだった。反則スレスレのチャージは当たり前であり、プッシング(相手を押す)やトリッピング(相手を蹴る)も恐れなかった。本人がどんなつもりなのかはわからないが、とにかく闘志が凄かった。
ただ、残念ながら……実力が足りなかった。キャプテン君は反則っぽいプレーをするにしても、審判からするとモロバレの位置取りで、かつ見えるようにやっていた。相手の身体に触れることで反則を取られていた。あれではダメだ。
(注)
サッカーでどこまで相手と接触してよいかだが、概ね次の三点に要約できる。サッカーの試合を見ることがあれば意識するのも面白い。
・自分から接触するのは、肩だけで押す行為に限って可。腕や手や足はダメ。
・自分から触れない不可抗力とみなされた場合は、相手と接触しても反則にならない。。
・ボールを狙った行為でも、真後ろからのスライディングなどは危険行為とされる。
そのうえキャプテン君は、まともなプレーについても大学レベルに達してなかった。いや、そこらの高校生に比べると遥かにうまいが、大学サッカーで活躍できるレベルにはないという意味だ。
当時の阪大は、関西二部リーグと三部リーグを行ったりきたりだったと思う。大学の練習設備もおそらく不十分であり、練習時間だって他の部活と融通を効かせてやっているようだった。そんな環境だし、受験勉強もサッカーも一流の選手なんて、そうそういるはずもない。
キャプテン君の試合を最後に見たのは大学四年の時だった(リーグが違うと試合を観る機会がほぼない)。相手選手と1対1になってる時に、ボールを取るために肩をぶつけに行っていた。右足でボールを手繰り寄せようとしたらしいが、相手のふくらはぎを蹴ったうえ、身体をぶつけて吹き飛ばしていた。わざとか……? と思ったが、それにしては迷いがなかった。
レッドカードと思いきや、イエローで済んでいた。が、その十分後にはまた相手の足を狙ったスライディングをかましてしまい、さらにイエローを食らって……しょっぱい試合になった。
当時、俺はある意味でキャプテン君を尊敬していた。これまで俺がいたサッカー部で、あそこまで勝利にこだわる人間を見たことがないからだ。下手ではあったが、精一杯にボールを取りに行って、仲間に檄を飛ばして、試合を終始いいムードにしようとする。
ある時などは、試合が終わった直後の屋外ミーティングだったと思うのだが、別の選手を試合場の壁に押し付けて怒号を発していた。「俺らは本気になる力が足りとらん。もっと自分を主張せんと!!」みたいな要旨だった。
人に対して、ここまで熱くなれるヤツを見たことがなかった。中学でも高校でも大学でも、ここまで自分の言葉で自己主張できるヤツはいなかった。キャプテン君は、俺の心に爪痕を残していた。
続き
僕はマッチングを控えた地方医学部6回生である。最近の動向からおすすめの医学部を受験生の皆さんに紹介したいと思う。簡単に言えば、私立でも良いから都市部の医学部を目指すべきだということである。特に首都圏の医学部(医科歯科、千葉、横市、慶応、慈恵、順天など)を強く勧める。
近年のマッチング(初期研修先を決める就活のこと)では、首都圏の人気が非常に高くなっており、東京の市中病院では6、7箇所受けても全落ちすることが珍しくないのである。また初期研修後は大半の人が後期研修へ進むのだが、マイナー科(皮膚科、眼科、精神科、放射線科など)の人気が非常に高く、これもまた首都圏では年々競争が激しくなっている。シーリングと言って毎年都道府県ごとにマイナー科に進める医師の数が限られているのだ。僕の聞いた話では、地方大卒で地元の県で初期研修をしていた女性研修医が、東京の皮膚科への入局を希望したところ、全ての医局から断られたそうである。彼女は優秀で真面目な雰囲気だったのだが。
受験生には恐らく東北大といった地方旧帝大が魅力的に映るのかもしれない。しかし、マッチングや入局で明らかに人気のあるのは首都圏である。医学生として地方で過ごしていくうちに考えが変わる人が多いのである。特に、関連病院が首都圏に集中している医局が人気である。
以上のことより、受験生にはどうか首都圏の医学部に入り、将来を見据えて行動してほしい。マッチングや入局は情報戦であり、関東の大学が圧倒的に有利である。