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はてなキーワード: ニュートンとは

2021-04-08

youtube垂れ流して寝落ちするのがよくあるんだけど、ニュートンゲーテの異なる色の科学かいう話がどこからともなく流れてきて朝起きてあれ夢だったのかなと思ったけど夢じゃなさそう

でも1時間くらいある動画を見る気はしないので誰か短めに解説して

2021-03-29

1ミリ理解できない

何のミリだよ!単位を言えよ!

ニュートンか?ファラッドか?セカンドか?

2021-03-24

ジェット推進

歩きながらおならしたら1ピコニュートンぐらいは推力が与えられるのだろうか

2021-03-20

anond:20210320035327

ジョブズニュートンをクソだ、と言ってたんだよね。

まあ、あの人は大抵のものをクソだと言ってたんだけど。

anond:20210320034815

ニュートンで一回やらかしたから作れたんだよ

正しく失敗した(そして立ち上がった)者は強くなるのだ

2021-03-01

必読書コピペマジレスしてみる・自分オススメ41冊編(1)

日本文学編(anond:20210222080124)があまり注目されなかったけれども、記憶を頼りに続きを書く。

芥川龍之介河童

どの作品を入れるべきか迷った。古典翻案に見られる知性とユーモア晩年作品にみられる迫害的な不安、どちらの傾向を持つ作品であっても、元文学少年の心をひきつけてやまない。特に歯車」などの持つ、すべてのものが関連付けられて迫ってくる凄味は、学生時代に再読したとき、行き詰まりかけていた学生生活不安と重なり、ただただ恐ろしく、読み終わってからしばらくは寝床で横にならされた。

河童」を選んだのは中高生の頃で、河童の国を旅する要素に心を惹かれたことを思い出したからだ。それは、大学生の頃よりも不安が弱かったからなのか、この作品に潜む女性への憧れと恐れが自分に響いたのか、あるいは架空世界架空言語に魅せられたのか、その理由はわからない。

ハンス・クリスチャン・アンデルセン雪の女王

アンデルセン小説を読んでいると、きっとこの人モテなかったんだろうなあ、ってのがひしひしと伝わってきて、何だったら今晩一杯つきあうよ、的な気分にさせられる。一人寂しいときへの痛みと、女性への復讐心が入り混じっていて、読んでいて心がきりきりとする。

で、この作品の中でひたすら「いいなあ」と思うのは、悪魔の鏡のかけらが心の中に入ると、どんな良いものもその欠点ばかりが大きく見えてしまうという設定だ。

ところで、ディズニー作品価値貶めるつもりはないけれど、原作とは全然違う話に似たタイトルをつけて世界中に広げるのってどうなんだろう。デンマーク人は怒らないんだろうか(「人魚姫だって原作改変をやってるし……。いや、ディズニー普通に好きなんですけど、最近こうした異文化の扱いって難しいですし……)

グレッグ・イーガン祈りの海」

「白熱光」にしようかと思ったのだが、これはエイリアンニュートンアインシュタイン物理学自力発見していく過程が延々述べられるだけの話で、燃えるけれども物理学の基礎をかじっていないとちっとも面白くないのでやめた。ついでに、彼の欠点として「科学者エンジニア最高、政治家宗教家文学者は役立たずのクズ」という態度を隠そうともしないところがある。要するに理系の俺TUEEE小説なのだ。それに、しょっちゅうヒロインから説教されるし、作者はいったいどういう恋愛経験をしてきたか非常に心配になる。

そうしたえぐみ比較的少ないのがこの短篇集で、最初に読んだ本だから愛着がある。それに、上の隠しきれない欠点にも関わらずイーガンが嫌いになれないのは、科学的な真理に向き合う姿勢と果てしのない好奇心がかっこよく、さらに己に課した厳しい倫理に身が引き締まるからだ。

カズオ・イシグロ日の名残り

友人と富士山に登るときに持っていったこともあり、これも自分にとって思い出深い小説だ。これは、大戦後の新しい時代適応できない英国執事物語である

彼の小説の語り手は基本的には何かを隠していることが多いので、いつも歯に物の挟まった言い方をする。そのうえ、誰もが自分の信念にしがみついているものから登場人物同士の会話は勝手な主張のぶつけ合いになり、実のところ会話になっていない。

カズオ・イシグロはそうした気持ちの悪さを楽しむ作家だ。そして、「日の名残り」は自分の本当の気持ちに蓋をして生きている人、やりたいことよりもやるべきことを優先してしまう人に、刺さる作品であるに違いない。

ミシェル・ウエルベック素粒子

彼の作品不快だ。主人公のボヤキは原則として次の通り。俺は非モテから思春期の頃には思いっきセックスできなかった。中年になって女を金で買えるようになったが、ちっとも楽しくない。子供も老人もみんな大っ嫌いだ、バーカ! これはひどい

作中に出てくる西欧文明の衰退だのなんだの宗教への逃避だの一見知的に見える議論も、すべて上記の嘆きを補強するためのダシに過ぎない。それでもなお、なぜオススメに入れたのかというと、人をエゴ抜きで愛することの難しさを逆説的に語っているからだ。そして、自分が愛されておらず、必要ともされていないと感じたとき人間がどれほど孤独とみじめさを感じるかを緻密に描いている。皮肉なことに、これは性と愛について真摯思考した書物である

ただ、どの作品も言っていることが大体同じなので何冊も読んではいない。

ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人

僕がウルフのことが好きなのは、単純に文章が美しいというだけじゃなくて、迷っている人間の頭の中で浮かぶ複雑な段階が細かいところまでよく見えているからだ。例えば親しい人への憎悪が浮かび、言葉ではそれを否定して見せるが、態度にふとこぼれ出てしまう。そうした過程子供が貝殻を見つけたときのように、ひとつひとつ並べている。

そして、意識の流れとでもいうのか、ある人物意識から別の人物意識へと、外界の描写連想を経てシームレスに移行していく感じが、本当に巧みな脚本映画みたいで、やっぱり映画って文学から相当影響を受けてるんじゃないかって勘ぐったりするのだけれど、本当のところどうなのかは知らない。眠る前の自分意識もふと過去に飛び、すぐに現代に戻り、夢想し、眠りに落ちていく。

灯台へ」とどっちにするかこれも迷った。

ミヒャエル・エンデはてしない物語

さえない少年万引きした小説を読んでいると、いつしかその物語の中に取り込まれしまう。これは主人公異世界に行き、そこでなりたい自分になるが(まさに公式チートだ)、その報いとして自分自身が本当は何者であったかをどんどん忘れてしまう。何よりも面白小説なのに、その小説現実に向きあう力からではなく現実逃避の手段となることの危険性を訴えている。主人公が万能チート野郎になってになってどんどん嫌な奴になっていく様子は必見。また、後半で主人公を優しく包み込む人物が、私の与えたものは愛でなく、単に私が与えたかったものに過ぎない、という趣旨台詞を言うシーンがあり、これが作品の中で一番自分の心に残っている台詞だ。

ちなみに子どものころ映画版を見て、原作とは真逆メッセージストーリーになっているのにショックを受け、初めて原作破壊行為に対する怒りを覚えた。僕が大人商業主義を信用しなくなったのはこれ以来かもしれない。

円城塔文字渦」

基本的自分は何かを知ることが好きで、だから知識の物量で殴ってくるタイプの彼の作品も好きである。それでいてユーモアも忘れないところが憎い。フィクションとは何だろう、言葉文字物語を語るってそもそもどういうことだろう、そうしたことをちらりと考えたことがあるのなら楽しく読めるはず。「Self reference Engine」で抽象的に触れられていたアイディアが、漢字という具体的な文字によって、具体的な形を与えられている。

元々SFの人だけれども、最近日本古典にも守備範囲を広げ始めていて、SFが苦手な人も楽しいと思うし、慣れたらSFにも手を出してほしいとこっそり思っている。

遠藤周作沈黙

どうしてこれほどあなた信仰しているのに、手を差し伸べてくれないのですか。せめてささやか奇跡あなたがいらっしゃるということだけでも示してください。そういう人類が何千年、何万年も悩んできたことについて。神に関しての抽象的な疑問は、具体的な舞台設定を与えないと机上の空論になる。

以前も述べたが、ここに出てくる仲間を裏切ったりすぐに転向したりしてしまう情けないキチジローという人物がとても好きで、彼の「迫害さえなければまっとうなキリシタンとして生きられたのに」という嘆きを、情けないと切り捨てることができない。

ただただ弱くて情けない人物遠藤周作作品にはたくさん出てくる。だから好きだ。僕が文学にすがらねばならなかったのは、それなしには自分の弱さ、愚かさ、卑怯さ、臆病さ、ひがみを許せなかったからで、強く正しい主人公たちからは救われなかった。

イタロ・カルヴィーノ「冬の夜一人の旅人が」。

男性読者」という名の作中人物が本を買うが、その本には落丁があった。続きを探すために彼は同じ本を手に取った別の読者である女性読者」を探し求める。彼はいろいろな本を手に取るが、目当ての本は結局見つからない。枠物語の内部に挿入されるつながらない小説の断片は、それだけでも完成度が高く、まるで本当に落丁のある文学全集を読んでいるような楽しみがある。

世界文学パロディー化した物語のページをつないで作った「鏡の中の鏡」かと思わされたが、それ以上のものだった。語りの文と物語関係とは、新作と偽作とは、そんなテーマ物語レベルメタレベルの二つの層の間で錯綜して語られている。

ダニエルキース「アルジャーノンに花束を

知的障害者チャーリーゴードンが脳手術で天才になるが、その知性は長続きしなかったという悲劇として知られている。けれども、僕はこれをただの悲劇として読まない。障害者セックスについて正面から向き合った最も早い作品の一つだからだ。

チャーリー女性の裸を考えるだけで罪悪感からパニックになってしまう。それは母からの過度な抑圧と体罰が原因だったが、それはチャーリーの妹を彼の性的好奇心から守ろうとするが故の行動だった(チャーリーの母が、周囲からもっと支援を得られていたら、あれほどチャーリーにつらく当たらなくて済んだんではないか、とも思う)。

天才になったチャーリーは恋をし、トラウマを乗り越え、苦労の末に愛する人と結ばれ、やがて元の知的障害者に戻ってしまう。一見すると悲劇だが、彼にはセックスに対する恐怖がもはやなくなっている。彼がただの障害者に戻ってしまったという感想は、その視点が抜けているのではあるまいか

ナタリア・ギンズブルグ「モンテ・フェルモの丘の家」

素晴らしかった。中年の仲良しグループというか、ツイッターでいうクラスタの間を行き交う書簡を通して話が進む。居場所をなくすこと、愛情を失うこと、自分の子供をうまく愛せないこと。そして、友人の死。テーマは深刻だ。なのに、読後感は良い。それは視点距離を取っているからか、登場人物を公平に扱っているからか、それとも愛を失う/奪われる過程だけじゃなくて、そのあともちゃんと書いているからなのか。長い時間の中で、家族や友人が近づいたり離れたりする感じ、これこそ人生だ、みたいな気持ちになる。

アーサー・C・クラーク幼年期の終わり

子供の頃、太陽が五十億年も経てば地球を飲み込んでしまうと知って、非常に恐ろしかったのだけれど、それ以来人類運命について書かれた物語がずっと好きだ(H・G・ウェルズの「タイムマシン」も何度も読んだ)。

人類は滅んでしまうかもしれない。生き延びるかもしれない。しかし、宇宙に出て行った結果、ヒトとは似ても似つかないものになってしまうかもしれない。彼らは人類の何を受け継ぐのだろうか。そして、今しか存在しない自分は、果たしてこの宇宙意味があるのか。

人類運命が気になるのと同じくらい、僕はきっと遠くへ行きたいと思っている。だから、ヒトという形から自由になってどこまでも進化していく話に魅了され続けるのだ。


進む→anond:20210301080139

2021-02-28

anond:20200706082437

科学の探求の始まり

「この世界は何者かが設計たかのように精密に動いている。その設計内容を理解しよう」という機械論自然から始まってる。

ニュートンデカルトあたりね。

神の否定も、ニーチェあたりの神なぞに頼らず自分で考えろという論から始まる。

神を否定しようが世界自分以外の外部からなる何らかの機構のもと動いていく。

たとえば、山の木を切り続けると洪水が起こる。それを「山の神」なる存在仮定して「山の神が怒ったからだ」と考えた。なので「山の神が怒らないように木を切りすぎないようにしよう」と考えた。

その後科学で木による保水機能が解明された。だから森の保全大事だと考えられるようになった。だけど、「山の神が怒ったから起きる機構」はそこに存在し続けている。ある意味山の神は未だ存在する。

神というのは、山の神の例のように自分の外の世界抽象的に取り扱うツールだと思うよ。

2021-02-05

anond:20210205103601

えがおかしい。

リンゴが木から落ちるのは引力のせいだとわかるのはニュートンのおかげ」こうだろ。

元増田にも森元のクソさは社会学の有無に関係ないと書いてあるぞ

anond:20210205103143

リンゴが木から落ちるのはニュートンのおかげっていう物理学者はいないんだけどなぁ

やっぱり社会学って学問じゃないな

2021-02-01

社会学は滅びるべきなのか

 以下の文章は、社会学客観性が無いか学問の体をなしていないか解体すべき、という暴論を見かけて、趣味社会学を学んでいる人間イラッとして書き散らしたものです。専門家によるまともな読み物としては、盛山和夫社会学方法立場: 客観性とはなにか』(2013)、佐藤俊樹社会学方法――その歴史構造』(2011)(たまたまですがどっちも東大系の人ですね)、あるいは以下で紹介する「客観性論文」やそれ関係論文などがあります。ちなみに「岩波科学科学論文」の人に関しては擁護のしようも無いと思います

 たとえば、この宇宙スパゲッティモンスターによって創作されたという誤ったイデオロギーを抱えた科学者がダイナマイト発明したとして、ダイナマイトは誤った発明であるとか、あまつさえ存在しないということにはなりません。それはそれ、これはこれ、という態度が科学的というものでしょう。しかし、誤ったイデオロギー社会学者が抱えることは望ましくないとされます。なぜでしょうか。

 それは社会社会問題が、原子DNAが「存在する」のと同じ意味では「存在する」と言えないことに根本的な原因があります。たとえばホームレス現在社会においては色々な意味問題とされていますしかし、ホームレス人類の定住以前においては間違いなく問題概念として存在していませんでしたし、中世近世においても今日と全く同じ問題としては存在しなかったことでしょう。原子がこの宇宙の始まりから今と同じように存在していたのとは対照的です。ホームレスを扱う社会学が、物理学生物学と比べて胡乱なものに見えがちな理由はここにあります。誤ったイデオロギーを抱えた社会学者は誤ったもの存在するとみなしてしまいかねないのですね。

 しかしだからといって、今日ホームレス問題としてまったく「存在しない」と言い切ることはできないのもまた確かな実感でしょう。原子の「存在」とは別の意味とはいえ社会社会問題は確かに存在」する、と言いたくなります。「実在」と「非実在」のあいだの独特な在り方。社会学者はそのことを「社会実在」のような言葉で表してきました。これはいかにも怪しい物に思われますしか今日における我々が「ホームレスになりたくない」、「ホームレスが怖い」、あるいは「そうしたホームレスに対する差別的見方こそが問題なのだ」と思っているのもまた確かなことです。およそ100年前、そのことを単に思うだけでなく、その思い自体を当時隆盛しつつあった科学方法分析しようと考えた人々がいました。

 マックス・ウェーバーの「社会科学社会政策にかかわる認識の『客観性』」(以下、客観性論文)という1904年論文がありますウェーバー社会学におけるビートルズであり、この論文イエスタデイくらいの重要さと著名さを誇ります。要するに、まともに社会学をやっていればなんとなくは知っているべきもの、という位置づけでしょう。(ちなみにLet it beは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。読んでいないのは許されない)

 とか言いながら私は手元にその本が無いので、ネット記述に頼りつつ思い出した記憶で以下のことを書くことをお許しください。

 ウェーバー客観性論文のなかで社会学者がよって立つべき「価値自由」という概念提唱します。この主張はしばしば「価値判断をしてはならない」とか「価値判断に影響されないデータだけを虚心に扱うべきである」といった主張として誤解されていますしかしそうではなくウェーバーはここで「社会学者もまた人間である以上、何かの価値判断を持ってしまうことは避けられない。そして価値判断は時として認識を狂わせる。しかしだからこそ、社会科学的に取り扱う社会学者は価値判断認識区別しなければならない。そのためには自分の持っている価値判断に対して敏感でなければならないのだ」といったことを主張していたはずです、たぶん。客観性論文については多様な読解や批判がなされている(上に私の手元にその論文が無い)ので客観性論文の内容についてはこれ以上立ち入らないことにします。以下ではその代わりに、客観性論文に関する微かな記憶を頼りにしながら、社会学客観性について考えてみたいと思います

 たとえば次のような主張がなされることがあります。「数字は嘘をつかないが、数字を使う人(社会学者!)は嘘をつく」。けだし名言でしょう。しかし、社会学であるならばもっと深く考えなければなりません。ここでは「ホームレスの人数」について考えてみましょう。ここで名言に従って単純に考えるのであれば次のようになるでしょう。ホームレスの人数は、数学物理における定数のように誤ることなく(それを測り間違うことはあるかもしれないが)存在しているが、それを多いとか少ないとか、それを減らすべきだとか主張する人は誤ることがある、と。

 後半は確かにそうでしょう。しかし、前半は間違っています。たとえば、日本政府ホームレスについての統計を発表していますしかし「国民税金を使ってホームレスの人数を数えよう」という時点ですでに何かしらの価値判断が働いています。そのことは政府サイトに「ホームレス実態に関する全国調査」が載っていて、「鼻くそをほじって鼻血を出した人の実態に関する全国調査」が載っていないことを考えてみればわかるでしょう。こうした極論を言うと、「どちらも数字としては存在するが、後者はただ(未発見物理性質のように)見つかっていないだけだ」と言われるかもしれません。しかしたとえば日本政府ホームレスに関する調査は「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法第2条に規定する「都市公園河川道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所として日常生活を営んでいる者」」を対象にして行われているようですが、ここからはいわゆる「ネットカフェ難民」がその統計から漏れています。これは単なる「測り間違い」なのでしょうか。そうではありません。「ネットカフェ難民」をホームレスに入れるべきか、あるいはそもそもネットカフェ難民」をそもそも問題」とすべきかこそが、ひとつ価値判断であるのです。「ネットカフェ難民」を入れたホームレスの人数と入れないホームレスの人数、どちらが正しいでしょうか?それは重力加速度として2m/s^2と9.8m/s^2のどちらがより正しいか、という問いのようには答えが出そうにありません。

 社会についての数字は、自然科学における定数のようには存在しないのです。つまり社会における事実は、自然科学における事実のようには存在しません。そのような状況で、いかにして社会科学的に扱うことができるでしょうか?

 もしかしたらそもそも可能かを問う以前に、そんなことを目指す必要があるのか疑問に思う人がいるかもしれません。あるいはより直裁に「社会科学的に扱う学問社会学って何の役に立つの?」と聞かれることはしばしばあります。それには多様な答えがありうるでしょうが、私は次のように答えることにしています。「何かの役に立つわけでもないのにやらずにはいられないのが科学の出発点なのだ」と。人間が持つ認識能力や、何かを書く/描く、喋るといった能力は、生存する上での必要から発達したはずです。自分の周囲を見渡す能力や、自分が見た物事他者に伝える能力は、それを持っていない種よりも生存上の有利をもたらしたことでしょう。しか人間は、その必要性を越え出たところまでその能力を、あるいはその能力によって生み出すものを発達させました。それは、芸術とか哲学とか、あるいは科学とか呼ばれるものです。存在しない風景を描くことに、どんな必要性があるでしょうか?死後の世界を思い描くことに、どんな必要性があるでしょうか?そして宇宙の星々の表面を調べることに、どんな必要性があるでしょうか?こういうことを言うと、次のように返されるかもしれません。「芸術哲学生存に不必要かもしれないが、いまのわれわれは科学無しには生きられないではないか」と。まあ、確かにそうです。でも、それは科学根本的な不必要性を否定するものではありません。人間ホモサピエンスは、ニュートン万有引力発見する以前からずっと世界覇者であったではないですか?それでもニュートン万有引力発見したのは、「世界のことをもっとよく知りたい」という、ただ生きるためには不必要知的欲求、こういってよければ人間特有本能からであったはずです。「ただ生きる」ことに飽き足りないのが今の人間であり、そうした人間が生み出したのが芸術哲学科学です。そのうちの科学欲求が、これまた不必要に複雑化した社会のありように向かうことも、私は自然なことだと思っています。先のような問いをする人には、正直に言えば「なぜあなた社会について科学的に分析したいと思わないでただ生きていられるのですか?」と私なんかは思うのですが、これはさすがに社会学に頭をやられてしまった奴の意見でしょう。ほかの社会学者はもっとうまく説明することができるはずです。まあ、そんな可哀想な奴もいるんだなと思っておいてください。でも実際、「社会に対する科学認識って必要?」と言われたら、究極のところ「認識したいんだから仕方ないじゃん?」としか私は返せません。なのでこの問題放置して次の段落に向かいます

 さて、いか社会科学的に扱うことができるかという問題でした。その問題は、社会に「存在する」もの数字が、ふつう科学が扱うもの数字と同じようには「存在しない」、というところから発生しているのでした。より明確に言えば、社会実在は、それを観測する人や社会価値判断を抜きにしては存在し得ないという独特の性質を持ちます。たとえば「ネットカフェ難民」は、ここ二十年ほどの日本労働環境ネットカフェの事情抜きには科学的な意味で「存在しませんでしたし、さらに言えば科学的な意味で「存在」していても、支援団体の人々などが発見ニュース等で取り上げられるまでは社会的に「存在」しえませんでしたし、いまだに政府ホームレス統計には「存在」していない、という状況にあります。そのことは万有引力宇宙の始まり以来、ニュートン発見しようとしまいと科学的な意味で「存在」していた、あるいは今現在未知の物理現象生物現象が、まだ発見されていないだけですでに世界のうちに「存在」していることとは対照的です。

 価値判断抜きで存在し得ない対象を、いか科学的に扱うか。それこそがウエーバー客観性論文のなかで考えたことでした。ここでよくある誤解は、そして絶対に避けられるべきなのは、「社会実在は実は価値判断抜きに存在しうる」と考えたり「価値判断抜きで存在するもの社会学は扱うべきだ」と考えたりすることです。前者が存在しないことはすでに説明しました。社会実在は――それが単なる数字統計であっても――価値判断抜きには存在し得ません。であるからして、後者社会学根本的に否定する思想です。そういう価値判断に影響されざるを得ないもの、すなわち社会社会実在をよりよく知りたいと考えるのが社会学なのですから。それを否定する人に対しては何も言えないということはすでに述べました(あくまで私個人からは、の話ですが。ほかの社会学者はもっとうまく説得するかもしれません)。

 そこでウェーバーが述べたのが「価値自由」でした。社会学者は自分価値判断をわかっていなければならない。より分かりにくく論文に忠実な言い方で言えば、「存在する」ことと「存在するべき」ことを区別しなければならず、科学は「存在する」ことしか明らかにできない。このウェーバーの主張に対しては、それもまたひとつ価値判断ではないか、という主張を投げかけることが可能ですし、一見ただのいちゃもんに見えるその問いは、社会学の中で大真面目に議論されてきました。私の見たところ、この問題は答えが出ない種類の問いなので、取り扱わないことにします。いいじゃないですか、どんな学問だってドグマの一つくらいありますよ。それより重要なのは、「自分価値判断をわかる」ことが、本当に社会実在を扱う上での十分条件であるのか、ということです。それが必要条件であるのは確かにそうであると思います。ある社会学者が「ホームレス問題についての社会学分析」という論文を書くとして(テーマが広すぎますがそれは置いておいて)、その人が「自分ホームレスを望ましい人間の在り方ではないと考えている」とか「というかホームレス気持ち悪い」とか「ネットカフェ難民をホームレスに含めていない日本政府問題である」とかい自分価値判断自覚していなければ、それは社会学研究として成り立たないでしょう。しかし、それだけで十分なのか。社会実在というものは、もっと慎重に取り扱わなければならないものではないか。(実際、客観性論文より後の後期ウェーバーも、そう考えて「理解」を社会実在根本に据えたと私は理解しています[詳しくないので間違っているかもしれません])

 と、ここまで書いて疲れたので一旦筆を置きます。続きは最初に挙げた二冊を読んでください。でも、ここまで読んでくださったあなたに問いたいのですが、私の書いたことは多少なりとも興味深くはなかったですか。社会学はこのような根本的な問いを抱えながら成長してきましたし、まだその途中にあるのかもしれません。私の考えるまともな社会学者はこの文章における中心的な問い「社会実在とはどのようなものか?」に対する、この文章以上に説得的な答えをそれぞれ持っています。そこが人によって違っていいのか、と思われるかもしれません。もしかしたらそこが社会学の駄目なところかもしれません。しかし、おおよその社会学者は確かにウェーバーや(この文章では触れませんでしたが)デュルケームなどが作った社会学歴史の上で考えている、という点では一致していると思います。それこそが社会学共通性であり、知的伝統であるとみなしてはもらえないでしょうか。よろしくお願いします。

2021-01-20

点数シールの台紙に増田貼る肌州真西井田のルー紫卯スン手(回文

おはようございます

今日明日と忙しいみたいよ私。

だって隣のよその私が前にいたところの部署が例の雇用調整なんたらで、

休みさせている従業員に変わって

私が借り出されるという、

これってなんていう名称で言ったらいいのかしら?って思うほど

とんでもなく本末転倒なことばかりしているから、

本当に嫌になってしまうわ。

私の所はところで別会社なので見逃して欲しいんだけど、

その昔のよしみと言うか

あーあまた借り出されちゃうのねーって。

覚悟を決めたいところよ、

もうでもほとんどのお仕事とか伝票出力とかお手伝い終わったから、

テータイムでもエンジョーイしたいところよ。

なんか計画的に出勤させないのかなー?っていつも疑問に思うんだけど、

まあそんな疑問を口にしたら

災いが降りかかってくるので見て見ぬ振りを決め込むしかないわ。

お礼にパンおにぎりをもらったけど、

現物支給じゃん!って

今時なヤングもこれじゃ喜ばないわよ。

さっき食べちゃったけど。

こういうのってさ、

食べたら履行しなくてはいけない感じがして、

あちゃー騙されたって先に食べてしまうのも危険よね。

用心深くパンおにぎりを観察して、

怪しくなかったらパクっと食べるみたいな。

野生の勘というか、

だんだんと鼻が利くようになってきて、

いや!このパンおにぎりは怪しい匂いがする!って

嗅ぎ分けられなくては処世術の世の中を渡り歩くためには必要なことよね。

まり

ぶら下げられたニンジンに飛びつくような馬のようで、

でもあの馬は馬で走り続けてもニンジンにたどり着けないことは気付いてるのかしら?

もうアキレスの亀のパラドックスどころの話しではなく、

延々とお馬ちゃんニンジンにたどり着けないそれなんてニュートン?って

雑誌で一度は特集されてもいいぐらい、

絶対にたどり着けないんだから

でも私は鼻が利かなかったので、

先にパンおにぎりを食べてしまたことが、

まんまと罠に掛かってしまった一番の敗因よ。

でもよでも!

パン屋さんで売ってるおにぎりってやけに美味しそうに感じたりするから

まあ私の気持ちも分かって欲しいわ。

パン祭りなのにおにぎりに点数シールが付いているようなもので、

もうパン祭りでもおにぎり祭りでもなく、

ただたんに人類は点数シールをもくもくと台紙に貼り続けることだけが快感となってしまうんだわって。

25点溜める台紙に残り一マスのシールを貼ればいいんだけど、

2点シールしかなくて、

1点シール商品を買って調節したらいいものの、

2点シールしかなく、

もうこの際26点で応募しちゃえ!って

募ってはいるけど募集はしていないかのように、

1点無駄にしてしまうこの

無駄ポイント人類累計したら何万ポイントあるんだよ!って恐ろしく足し算をしていく恐怖もあるわね。

電卓で一足す一足すをイコール連打していても到達できない天文学的パーセク数字でもあるし、

大きな数字特集の回のニュートン別冊でもこれは図解でも詳しく解説されていない

1点のパラドックスよ。

観測するまで結果が分からない。

まり

台紙に貼るまで25点になるとは限らない。

本当にまさしくそう思うし、

これは桃鉄サイコロ1マス分余って到着しても赤いところに止まってしまう悲しさと一緒よ。

でも1点多く26点で応募しても25点で応募しても

効力は一緒というか、

パン祭りお皿選考委員会

シール台紙に不正の中身貼っている係の人は、

おお!この人は26点で応募してきてるな!なかなかやる気があって見込みがあるわい!って話にはならないと思うの。

そうなると、

自動的葉書に貼ってある切手が料金不足の時にはじかれるテクノロジーとまるで一緒。

全部機械で判定してしまえば良いって、

そのころロシアは思っているはずよ。

恐ろしや!って

テクノロジーばかりに頼っているといつかロシアに負けてしまうことでもある予兆だし、

こればかりは私たちも充分気を付けなければならないことよね。

シールを貼るだけに春のパン祭りってよく言ったものね。

ダブルミーニングで「はる」にかかっているわね。

うふふ。


今日朝ご飯

ハムタマゴにしました。

いい加減もしかしてこのサンドイッチ屋さんは

ハムタマサンド専門店になってしまったのかしら?

SKUが楽だけど、

きっと中の作る人が飽きちゃって、

デラックスハムタマサンドとか結局SKUを増やす結果になるのよ。

同じ過ちを繰り返さないで欲しいところね。

デトックスウォーター

苺冬苺美味しそうだったので、

1パック買ってみました!

珍しいのよ!

赤い苺じゃなくて白いイチゴなの!

もはやこれは苺と言っていいのかしら?っていう驚きの白さ!

でも味は苺!

世の中には不思議なことがまだまだあるのねって

そうおもった

イチゴウォーラーよ。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2021-01-18

書店にいる青木さんを増田訪ねてネズ糺すまをン咲緒ある委任てょし(回文

おはようございます

たまにはさ、

知らない街の知らない大きな書店

プディングが突然食べたくなる現象青木まりこ現象になりがちなほど、

リアル書店に行ってきたわよ。

すっかりオンラインネットチューモン的なアマゾンでお馴染みで、

書店の中の歩き方も忘れてしまいそうだったわ。

なんとか歩けたけど、

やっぱり大きな書店のたくさんある書籍は圧倒されるし

あの物量で攻められたら守れないわ!

ってよく分からないけど、

すっかりネッツに慣れてしまうと、

あんまり面白そうな本に出会わない自分好みの検索結果しか反映されないマイハート

物理的な本の手触りとかものとしてのありがたみを感じるんだけど、

まりに本ばかり積み上がってるマイルームをみるとうんざり

電子書籍のものの重みのなさはNASA研究題材として、

いか宇宙空間でもエンターテインメント性を欠くことな生活できるかってことに重きを置くべきだと思うし、

宇宙空間の低層だと地球からWi-Fiが届くから

エンターテイメント性には困らないのかもね。

でもああい宇宙ステーションには本とか持ってけないわよね?

よく知らないけど、

きっとそう言った物は二の次ネッツエンターテイメント性は調達してねってお達しかもしれないわ。

宇宙ステーションに居る人の休日って気になるわね。

でね、

私は壮大な宇宙SFを書くべく、

宇宙コーナーへ足を運んだ書店だったんだけど、

これから宇宙食とか考える未来の本は1冊もなかったわ。

既存宇宙食のレシィピの本ぐらいしかなくて、

何かの研究家の人が将来の宇宙食、

まり炭素が循環する世界的なことを語ってる研究はなかったのよね。

これから研究されるのかなと思うけど、

野菜は育てられるとしても、

野菜ばかりじゃタンパク質不足に陥る問題はやっぱり昆虫食これしかりだと思うんだけど、

あ!じゃ

未来宇宙食は昆虫食流行ってる前提で、

郷土料理昆虫食を見ても、

あのバッタ佃煮の本しか出てこなくて、

ああ大きな書店にまできてもまさか青木まりこなのねって少しがっかりだったわ。

炭素循環社会的SFといえば!

私もう一つあるの。

これは絶対出てくると思うけど、

現在二酸化炭素であふれる世の中は地中に埋められた二酸化炭素を探すSF

カーボンハンター!って職業が現れると思うの。

未来はもう化石燃料も使わなくなって、

すっかり空気は綺麗になったけど、

今度は逆に二酸化炭素不足問題が勃発!

過去地中深く埋められた二酸化炭素を求めて世界を駆け巡るカーボンハンター!って

ありそうじゃない。

近い将来そう言った未来もマジありえるかも知れないし。

軌道エレベーターだって

前書いたっけ?

端っこに浸ける重りのカウンターどうやって持ち上げんだよ!って問題もあるし、

軌道エレベーターって運用したとしても

地球はぐるぐる回るから

巻き尺みたいに巻き取られないかしら?とか

仮に上手く軌道エレベーターが成立するとしても、

慣性地球の自転がおそくなっちゃったりして、

それなんてニュートン!?って私が逆に聞きたいところよ。

まあちょっと宇宙コーナーの書店の棚には私の探していた本はハヤカワだったけど、

昨日美容院に行ったとき美容師さんとの会話で、

今年の目標何か建てましたか?って

あーこの時期までギリギリ聞いていい質問キタコレ!って

私喰らったんだけど、

わず手帳買っても私手帳を超つけないのよねーって話をしていて、

ついには今年は手帳を買わなかったわ!ってところまで話したの。

本当のことを言うと、

手帳のことを忘れていて思い出した途端ほら!

また欲しうなっちゃう現象青木まりこってあるじゃない。

からその書店に行った際、

手帳コーナーをすかさずヘッドスライディングすらする勢いで、

もう1月も半ばだし半額割引手帳を私は1冊ゲットした訳なの。

あー、

美容師さんと話した私の今年の目標手帳を付けるって

有有言言実行してしまいそうな自分が怖いわ!って

手帳を買ってその晩から書こうと思ったけど、

いきなりもう書かなかった日1日目を迎えて、

本当に私の今年の目標は達成できるのであろうか?って

ちょっと不安になる今日この頃よ。

今年こそは今年こそは、

手帳をなんとか充実させたいところね。

あー思い出した途端にそうよ。

うふふ。


今日朝ご飯

タマサンドにしたわ。

これっきゃないでしょ!ってことで今朝はこれで玉子キメました。

ホッツヒーコーと一緒に頂くと美味しいわよ。

デトックスウォーター

林檎買ってきたので少しスライスして、

リングウォーラーしました。

リンゴミントも相性いいから、

ミントの葉っぱも少々適宜入れてみたわよ。

ドライミントでもいいわよ。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2021-01-01

anond:20210101194159

そうだよ。完全な正論

例えばカミオカンデだって日本という国の予算で得られた成果を全世界で共有しちゃってるから一円支出してない国でもカミオカンデの成果を利用して研究ができちゃう

電気飛行機もそう。

日本政府は他国がやった電気コンピュータの基礎研究お金を払ってないけど、その成果を利用してる。

特に自然科学系の研究なんて、国が研究資金を投じる必要はない。

学会で発表して他国で追試されて検証されて初めて研究が認められるのに、

投資した国に限定した便益があるわけじゃないんだからね。


本当は自然科学系の基礎研究は、ダーウィンとかみたいに貴族資産家にスポンサーになってもらって莫大なサポートのもとじっくり取り組むのが正しい。

スポンサーに大量に資金拠出してもらうだけの能力と才能が自分にはある、ってことを示さないといけないけど、現代日本ではアホみたいに博士課程に進学させるから

味噌も糞も一緒になっちゃってスポンサーが本当に価値のある研究ファンドしづらいんだよね。

おすすめ

https://www.amazon.co.jp/dp/4121015487

ガリレオ求職活動 ニュートン家計簿科学者たちの生活仕事

2020-12-16

anond:20201215164115

実際のところ、クリエイティブ職業って若いうちに芽を出せないようだとダメなんだろうね。

これ、エンタメかに限った話とかじゃなくて、アインシュタインとかニュートンだって主たる業績は20代のころのものらしいし、やっぱり脳が最高潮の実力を発揮するのはその頃なんだろうな。

2020-11-14

anond:20201114205856

希少性から金と銀、どちらがお金として適しているか、という計算ニュートン?だったかやらせて、

ニュートン計算ミスをして金になったとかいう話をどっかで読んだ気がする

計算ミスをしなければ銀貨金貨だったということらしい

2020-09-17

anond:20200917030212

ニュートンの力

というのが なんだかわからない人でも 質問に回答できるように

というアドバイス

僕にはなんだか、よくわからないけど

ぼくバカから

何回も読み直して なんでそういうアドバイスをうけたのか

よく考えなきゃ

寝起きで夢にまでみちゃったので

もう1回寝る前にとりあえずメモ

 

なんか、寝ぼけているな、水素原子2個と 酸素原子1つが 電子共有結合で 結合すると どうなりますか?

水素原子ってなんですか?共有結合ってなんですか?

質問したのは僕だけど まぁ、物理化学ならいますグーグルなどでも説明しているページが出ると思います物理学の用語です。

 

でもこの時点で回答ができないことはわかりました。質問したの僕なんだけどな・・・糖質なのかな僕

よく君は頭がおかしいといわれるから、気をつけないと。

この数式で表される物体に1ニュートンの力をかけた時に

どうなりますか?

 ↓

ニュートンってなんですか?

 ↓

まぁ、ケチじゃないか増田では書くけど 1kg重といって、力の単位 だったはず 違うかな

 

まぁそんな感じだとして 夜中であたままわってないな

まぁ、そんな感じだとして

ニュートンが力の単位とわからない時に、問題に応えられるわけがない。

物理学単位

ただ、ネタ解答で 新しいブタさんは好きです

というのも まぁ 1いいね

 

でも どう考えても 真面目解答は できないよね?

あれ、おかし

ぼくまた、頭がおかしいって言われたのかなぁ

ニュートンなんていう 単位はありません。って、言われたのかな

あれ、映画勘違いたかもね

あたままわってない、おやすみなさい

2020-09-16

ニュートンの力!というと

ニュートン?新しい豚か?AKBかと言われます

ニュートン力というにゅーとんりょく

立派な物理学単位です。化学専攻の人へ

https://mathwords.net/itinewton

 

正直物理専攻の人は1ニュートンは知らない人がいないくらい有名で、かなり初歩

さすがに、益田村のおやぶんのはてな

できいたら

お前何処中?というレベルニュートン

 

大人きをつかえ ガキなんだよ俺。

2020-08-29

コロナでの大学研究のやりかた

コロナ人生が変わってしまった人は多いと思う。私も仕事雰囲気が変わり始めている。

私は運がいいことに、やりたいこと興味のあることを比較的できる研究者を某旧帝大でやれる機会に恵まれている。専門は化学。だが、それも音をたてて変わり始めている。

もともと将来の仕事を何にしようと明確に描いたことはなかった。幼少期に育った地域比較英才教育とは程遠い地域であり、貧困家庭も多かった。友人の家に行くと昼間からおじさんがゲームをしていたり、パチンコや酒に明け暮れている、そんな地域である小学校でありながらも学級崩壊に近いことが起きており、義務教育の内容をきっちりと終えることができなかったと記憶している。そんな状況を深く考えることはなく、私は周りの事象に対して疑問を持ち、調べるのが好きだった。なぜ水は雨として降ってきて、山を流れて、コンクリートの隙間から流れていくか。そんなことが気づいたときには不思議だったと思う。幸いにして先生にも恵まれた。疑問をもち、それを自分のペースで解決するのが好きであり、校庭のはじっこで疑問点などを書き出していたとき理科若い先生理科室に誘ってくれた。そこには違う世界があり、好きなだけ実験していいと言われてのめり込んだ。ガスバーナーをつけてよくわからない化合物を熱して色が変わる、気体がでる。一つ一つが楽しくてしょうがなかった。だが先生がある日突然学校に来なくなってしまい、程なくして全校集会が開かれた。持病の喘息でなくなったらしい。どうしたらいいのかよくわからいくらい、悲しかった。狭い実験室の僅かな道具から世界の広さをあれ程教えてくれた先生がこの世からいなくなってしまったのが悲しかった。学問世界を広げてくれるというのを肌で教えてもらえたと実感している。

当時はショックだったが、中学校から親の転職関係引っ越し比較普通地域引っ越ししまった。小学校ときにはサワガニを追ったり、カエルを捕まえて、ビーダマンからでてくるビー玉の平均距離などをひたすら数える子供であったが、引っ越し地域では勉強熱心な地域であり、誰も放課後には遊んでいる子供はいなかった。塾に行くとのはなしだったが、恥ずかしながら塾という単語を知らなかった。動物を捕まえた数よりも試験の点数を重視する地域であり、ひどく狼狽したのを覚えている。小学校での経験があってか理科数学が楽しくて仕方がなかったが、何故か閉塞感があった。あくま中学高校でのお勉強というのは与えられた範囲でやる学びであり、そこに自由度は少なかった。結果的勉強はできたのでとにかく自由を求めていた。高校には入ったが、倫理先生哲学議論ばかりしていた。こう考えると私は先生に恵まれているのだが、先生に学びの自由を求められる場所はと聞いたとき日本には殆どないと言われてしまった。あ、そういえばといって、それがきっかけとなり京都にある大学に行くことになった。

大学自由であった。毎年謎に作られる像やコスプレ卒業式で有名な大学であるが、学生多様性がまったくもって違っていた。そこでも縛られるのが苦手な私は大学で授業に行けなかった。ただ、大学図書館にはホコリを被っていながらもたまらなく刺激的な書籍が非常に多くあり、図書館毎日通った。楽しくて楽しくて仕方がなかった。たぶんそれは小学生の時に一人で課題を設定して、問題解決をする。そういうプロセスであっただろう。数式、活字が踊っているようにすら感じた。一般教養の授業でもムラ社会議論する授業や、紙飛行機を飛ばす授業など色々あり、不思議な授業であったと思う。ただ相変わらず大学の専門の授業は指定教科書から逸脱していなく、面白くなかった。ある意味授業に関しては圧倒的に劣等生であったが、たまたま行った授業のときに言われた印象的な言葉がある。「結婚は何回でもできるが、研究室選びは一度しかできない。」人生パートナー何度でも選べるが、人生の専門となる研究室は一度しか選べないとのことだった。へそ曲がりな私は研究室で変わったことがやりたいと思い、研究室を巡ったが、どれもこれも古臭いホコリを被った図書館で聞いたことがあるような内容だった。日本最高学府学問として理解できてしまうということが非常に悲しかった。ただ、たまたま非常に尖った研究室があり、そこで私を拾ってもらえた。やはり私は先生に恵まれていた。研究室は今思えば世界的に有名で先駆的な研究室であり、そこで自由研究を行う機会に恵まれた。朝から晩まで先輩後輩教員ディスカッションしながら、自由自在に研究をすることができる。研究費も潤沢であり、装置も多くあるために闇実験自分の考えるすべての実験ができてしまった。卒論テーマ自分でかってにテーマ設定をして卒論発表までさせてもらえた。今思えばあんなことに、というテーマであったが、当時は楽しくて仕方がなかった。卒論が終わった当日、テーマの変更を推奨された。初めて方向性提示されたが、一言であった。ここには恩師の力があったと思う。結果的に与えられたテーマとは関係なく、M1勝手実験をして修士論文を3本書いた。楽しくて仕方がなく、博士課程に進学した。博士では論文12本書いた。ちょっとした自慢である

博士資格名刺の角に書くことができる運転免許のようなものであるというのはよく言ったもので、単なる認定試験である。友人が大学ポジション公募に出す中、私は自分学問を切り開くのだと思い、博士研究員をすることに決めた。なんとなく海外日本より風通しが良いだろうと思い、日本研究から支援をうけて、海外に2年間いけることになり、それまでに一切したことがない分野に飛び込んだ。将来学問を切り開くためには甘んじて先達のいる学問をすすめるよりも、開拓者であるべきという精神である。ただ現実は厳しかった。言った先の研究室では私は初めての外国人であり、装置の使い方、実験の仕方、単語すらわかっていなかった。学部生に単語意味から教えてもらいながら、教科書を端から端まで読んで、理解した。論文は2年間で3000報くらい読んだ。めちゃくちゃ勉強し、1日の睡眠時間は3時間程度だった。結果的に分野での最高峰論文誌に数報報告することができて、ライフワークが見つかったと思った。ただこの辺りから研究に対する見え方が変わってきたと思う。日本人会でいつも飲んだくれている友人がいた。大学では見たことがないが日本人の友人を探しているようだった。何が楽しくて研究をしに海外に来ているのかというふうに聞くと彼は出身研究室に戻るので1年間遊びに来ていると話していた。悪い冗談かと思っていたが、実際に彼は日本出身研究室で職を得て戻っていった。不思議ものである

当時の海外での受け入れ研究室教員にぜひともこの国で残って研究をすすめるべきだと言われた。日本講座制の影響もあり若い研究者活躍しにくいということを聞きつけていてくれていたらしい。ただそのときに今まで私を支えてくれた恩師たちの姿が頭をよぎり、日本に恩返しをするべきではないかと思った。施されたら施し返すという精神である日本に戻るためには公募書類を出さないと行けないのだが、不思議と通らない。面接にすら呼ばれない。それまでに分析していなかった私が悪かったのだが、どうやら日本ではコネというのが幅を効かせているらしく、面接にすら呼ばれない。それとずっと付き合っていた婚約者との結婚もあり、フットワークの軽い私はならば日本に帰ろうと、日本に帰り、講演ツアーを行った。幸いにしてその一つが目に止まり研究プロジェクトの一環で雇ってもらえた。そこでも好きに研究をしていいと言われ、論文を好きに書いた。楽しかった。研究だけしてたまに論文を書けばいいというのは至極楽しかった。ただ、学生研究ができないのがとてつもなく寂しく、コネはなかったが、海外の訳のわからない研究室研究をしているよりも経験つん日本研究している私は魅力的に見えたのか、公募に通った。めぐり合わせというのは不思議ものである

こうしてやっとただの研究者から大学教員になることができた。恒久的に研究ができるというのは非常に幸せであり、研究以外も楽しんだ。毎週の授業というのはライブである。そのへんのストリートミュージシャンよりも自分の一つ一つの発言学生に聞いてもらえることができ、研究に対するスタンスなど伝えることもできる。学問というのは積み重ねの学問である。積み重ねがあるから新しさがわかる。ひとつひとつ丁寧に教えていき、学問の楽しさを伝えたが、やたらと聞かれるのは単位がとれるかかどうかであった。研究室でも熱意をもって新しい実験の仕方や、研究分野の掘り下げのための論文読み込みを学生と一緒に行った。ただ、学生から文句が出てそんなに頑張りたくないとも言われてしまった。悲しい。私はそんなに魅力がないのだろうか。大学教員というのは研究以外の思った以上の雑用があり、それに追われていた。ただ、そのたびに今まで知的教育享受してき立場からそれを授与できる立場にならねばと思い、一所懸命に振る舞った。その結果ここでの学問結果をなんとかして論文にすることができた。これからすべてが軌道に乗る、そう思っていた。

そんな先のコロナである実験を専門としている私は当然大学に来なければ研究をすすめることができない。だが、緊急事態宣言あおりをくらい、研究室での研究活動オンライン中心になり、さらに愛妻は妊娠中であったために下手な行動はできない。研究が中心であった私の生活は転換を余儀なくされた。学生と最新の実験成果を共有できない、授業はオンラインとなりzoomの先では、全く授業を聞いていない学生いるかも知れないという状況で苦しかった。価値観も変わらざるを得ない矢先に子供が生まれた。福音であった。

学問というのは先んじてその場で役に立つものではないが積み重ねだと思っている。子供も同じで、毎日毎日状況が日進月歩である。首を動かすことがしんどそうだった子供が、今では自分の力で首を動かし、光の導く先を必死に見ようとしている。大学で学びをしている学生一時的にやる気を失っている子もかつては私の子供と同様日々ひとつひとつできていくということが楽しかったのだろう。相変わらず大学での研究活動制限されている。以前ほどの自由担保されておらず、どうしても何かしらを管理する必要がある。その一つ一つの行為が私には苦しい。ニュートンスペイン風邪タイミングで新たな学問をみつけた。私にはそれほど頑張ることはできるかわからないが、研究を行い、学生希望や考え方を論理的に教えるというのが現在の職での義務であろう。間違いなく私の研究生産性は下がったが、価値を下げず上げることが義務であると思い、日々努力している。

2020-08-16

爪がなくなった

爪がなくなった。

なくなった爪が、なくなった。

仏陀の知恵、ニュートン科学

2020-08-12

反社会性と暴力

ニュートン記事にあったんだけど、心理学者ケヴィンダットンによれば、サイコパスは、能力が高い、能力が低い、の2通りと、反社会性が高く暴力的反社会性が低く非暴力的、の2通りで、合計4つに分類出来るんだそうです。

でも、反社会性が高い・低い、と、暴力的非暴力的、ってのは本当に従属するものなんだろうか?

反社会性が高く暴力的

反社会性が高く非暴力

反社会性が低く暴力的

反社会性が低く非暴力

という4通りにならないのは何故なんだろう?

暴力を振るう動機目的が、一般的な人と比べて粗野というか、社会性? 対人関係? と連接しないかサイコパスなんじゃないのかな、というのと、暴力の種類や発露の仕方が、今は単一物理暴力だけに留まらなくなっているから、そこをもう少し細かく分ける必要があるんじゃないかな、という疑問がある。

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