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はてなキーワード: ニュートンとは

2023-04-30

anond:20230430112846

元増田(このツリーの元エントリは誰かがコピペしたやつなんだが)だけど、俺は個人的には統計的因果推論は意味がないことが多いという立場だな。

誰かがF=maって書いてたけど、ニュートン運動方程式本質的因果か相関かを区別することは出来ないように思う。物理学はそれが因果か相関かはどっちでもいいという構造になっていてそれで問題ないんだよ。場の運動方程式グリーン関数みたいな話は因果っぽい発想が表に出てるけど、運動方程式のもの因果かどうかというのはやっぱり分かんないしね。

あと、「擬似相関」という言い方は「相関関係はあるけど因果関係はない」という意味で俗に使われているけど、相関は相関で因果とか関係ないので、相関そのものが「擬似」ということはない。擬似相関という言い方はやめろと思うね。

2023-03-28

anond:20230328140923

ニュートンピタゴラスもほんとアホだよな

今時中学生でも知ってるようなこと必死になって発見しちゃってさ

2023-03-08

ニュートンの飼い猫が

ニュートンを呼ぶときって、「にゃ~とん」になってたと思う

2023-02-20

anond:20230218165555

これも直接元増田関係あることじゃないのだが、理論理解することの難しさで学者としての評価判断する人がいたらそれは違うと思う。

ぶっちゃけ誰にも理解できない理屈を作ること自体はそれ自体目的とするかぎりではそこまで難しくないんじゃないかな。

誰にも分からない文字暗号を作るのがそこまで難しくなさそうなのと同様に(まあこの場合暗号とかの解読法さえ教えちゃえ解読できてしまうし、解読法を理解すること自体も容易なので、例として拙いかもしれないが)

望月場合問題解決するのに必要だったのが、誰にも理解できないような理論だったというだけで、それはあまり重要事実ではない。

問題解決できたとされるのが望月一人だったということが重要なのだと思う。

そういう考え方でいけば、mRNAワクチンの根幹技術理論を作った人も、その人がその技術を作った段階ではその人しか作り得なかっただろうという意味でやはり凄いのではないか

微分法をライプニッツニュートンがほぼ同時期に独立して考え出した例もあるので、こういう書き方をした)。

望月mRNAワクチンのもとを作った人のどちらが凄いかということについて現段階で社会に与えてるインパクトとしては後者のほうが上だろうが、そういう有用性みたいな視点から凄さなるもの判断するのは前者が数学である以上フェアじゃなくまた複雑な問題を孕むので、判断留保すべきだろうとは思う。(役に立たないと思われた数学証明が後世になって応用法を見出される例はざらにあるわけで、数学では現世利益みたいなものは考えず研究するのは基本だと思う)

ただ、mRNAワクチン技術望月論文に比べて理解やすいという観点からmRNAワクチン技術を作った人が望月に比べてすごくないみたいな考え方をするのは絶対的外れだと思う。

理論発見することの難しさと、理論理解することの難しさはわけて考えないと。多くの人々がその難しさを肩代わりしてほしいと学者に期待しているのも普通前者なのであるから

2023-02-14

[]ノイマン思考トレースする感じで文章を書く

知的作業本質を論じることは困難。数学の最も重要な特徴は、自然科学もっと一般的に言えば、純粋記述的なレベルよりも高いレベル経験解釈するあらゆる科学との、極めて特異な関係にあるとノイマンは考えていた。

ほとんどの人が、数学経験科学ではない、あるいは少なくとも経験科学技法はいくつかの決定的な点で異なる方法実践されていると言う。しかしその発展は自然科学と密接に結びついている。

そして数学のいくつかの重要な例がある。

まず幾何学力学熱力学のような、間違いなく経験的な他の学問は、通常、多かれ少なかれ仮定的な扱いで提示され、ユークリッドの手順とほとんど区別がつかない。ニュートンプリンピアは、その最も重要な部分の本質と同様に、文学的形式においてもユークリッドと非常によく似ている。仮定的な提示の背後には、仮定裏付け物理的な洞察と、定理裏付け実験的な検証存在する。

ユークリッド以来、幾何学の脱皮は徐々に進んだが、現代においても完全なものにはなっていない。ユークリッドのすべての定理のうち、5番目の定理疑問視された最大の理由は、そこに介在する無限平面全体という概念の非経験性格にあった。数学論理的分析にもかかわらず、経験的でなければならないかもしれないという考えが、ガウスの心の中に確かに存在していたのである

ボリャイ、ロバチェフスキーリーマンクラインが、より抽象的に当初の論争の形式解決と考えるものを得た後も、物理学が最終決定権を握っていた。一般相対性理論発見されると、幾何学との関係について、全く新しい設定と純粋数学的な強調事項の全く新しい配分で、見解修正することを余儀なくされた。最後に、ヒルベルトは、公理幾何学一般相対性理論の両方に重要な貢献をしている。

第二に、微積分学からまれたすべての解析学がある。微積分の起源は、明らかに経験的なものであるケプラー最初積分の試みは、曲面を持つ物体の体積測定として定式化された。これは非軸性で経験的な幾何学であった。ニュートンは、微積分を基本的力学のために発明した。微積分の最初の定式化は、数学的に厳密でさえなかった。ニュートンから150年以上もの間、不正確で半物理的な定式化しかできなかった。この時代の主要な数学精神は、オイラーのように明らかに厳密でないものもあったが、ガウスヤコービのように大筋では厳密なものもあった。そして、コーシーによって厳密さの支配基本的に再確立された後でも、リーマンによって半物理的な方法への非常に独特な回帰が起こった。リーマン科学的な性格のものが、数学の二重性を最もよく表している例であるワイエルシュトラス以来、解析学は完全に抽象化、厳密化され、非経験的になったように思われる。しかし、この2世代に起こった数学論理学の「基礎」をめぐる論争が、この点に関する多くの幻想払拭した。

ここで、第三の例。数学自然科学との関係ではなく、哲学認識論との関係である数学の「絶対的」厳密性という概念のものが不変のものではないことを示している。厳密性という概念の可変性は、数学抽象性以外の何かが数学構成に入り込んでいなければならないことを示す。「基礎」をめぐる論争を分析する中で、二つのことは明らかである第一に、非数学的なものが、経験科学あるいは哲学、あるいはその両方と何らかの関係をもって、本質的に入り込んでいること、そしてその非経験的な性格は、認識論経験から独立して存在しうると仮定した場合にのみ維持されうるものであること。(この仮定必要なだけで、十分ではない)。第二に、数学経験起源幾何学微積分のような事例によって強く支持されるということ。

数学的厳密さの概念の変遷を分析するにあたっては、「基礎」論争に主眼を置くが、それ以外の側面は、数学的な "スタイル "の変化についてであり、かなりの変動があったことはよく知られている。多くの場合、その差はあまりにも大きく、異なる方法で「事例を提示」する著者が、スタイル、好み、教育の違いだけで分けられたのか、何が数学的厳密さを構成するかについて、本当に同じ考えを持っていたのか、疑問に思えてくる。

極端な場合には、その違いは本質的なものであり、新しい深い理論の助けによってのみ改善されるのであり、その理論の開発には百年以上かかることもある。厳密さを欠く方法研究を行った数学者の中には(あるいはそれを批判した同時代数学者の中には)、その厳密さの欠落を十分認識していた者もいたのである。あるいは、数学的な手続きはどうあるべきかというその人自身の願望が、彼らの行動よりも後世の見解合致していたのだ。たとえばオイラーなどは、完全に誠実に行動し、自分自身基準にかなり満足していたようである

2022-12-12

anond:20221211132121

「何をするにあたって」原典にあたるという当然の事を重要視するか、って話ではあるよね

これメチャクチャ思いました。過去査読云々の論争を思い出しちゃいましたよ( anond:20181009070341 とか、 anond:20181011090428 とか、このへんの話ね)。「翻訳するとき原典から訳すのが当然だろ!」「いや、別に重訳でも意味が取れてればそれでいいじゃん……」「出版スピード感大事だし……」っていうやり取り、まんま過去の「論文は全部査読するのが当然だろ!」「ええ、別に査読で載せても、後続の論文でしっかり吟味されてればそれでいいじゃん……」「出版スピード感大事だし……」っていうやり取りとソックリというか。増田は「なんで原典にあたるという当然のことを重要視しないんだろう……」って思っちゃうんですけど、理系経済学の人たちも「なんで査読という当然のことを重要視しないんだろう……」って思ってたわけですよね。まあだからあんまり自分野の基準で他分野にケチつけるのはよろしくないなぁと、自戒を込めて。

はてなブログというサービスが無くはてなダイアリーをみんな書いてた時代

はてなダイアリーで「理数系分野でも研究の際には原典読んだ方が良くない?」みたいな事を言った人がいて、それに対し色んな意見が出たのを思い出す。

ただこれは物理学勉強してる人達ニュートンプリンピアを読んでないのはおかしい、みたいな極端な意見であり増田の言ってる事とは大いに違うし

あとそれを主張してた人が死んでしまったので批判はあまりしたくない

じゃあ、まずは数学理論物理の専門書を翻訳する際に原典にあたる必要があるかと言う話をさせて貰うけど

数学理論物理ではフランス語ドイツ語ロシア語辺りの本が英語翻訳されて、英訳だけ読んだ専門家が各国の言語に訳す例なんて珍しくも無い。

そして読む側も著者も訳者も誰も問題視してない事が多い。

皆が数学理論物理論理が完全に再現されているなら問題ないという立場からこのような事態が起きている。

翻訳だって訳す能力より専門分野に関する知識の方がずっと重要視されるし、論理的な構成に変更が無いなら文章の省略・追加・順番変更など平気で起きる。

あと最近数学の専門書の話なんだが、日本語の本を英語翻訳する際に日本語が分からない人が訳してる例なんかもあったりする。

訳者だって数式は別に分かるし日本語で書かれた数学の文は今なら機械翻訳通せば大体分かるからね。

主要な定義定理命題は著者の英語で書かれた論文と同じ分野内英語の本見れば同じものが見つかるので

元の本の論理再現するのは可能な訳だ。

こんなやり方で訳しますよって提案原著者はOKを出してしまう訳だ。

訳者が同じ専門分野で業績ある人だから問題ねえやってね。

こうしてみると一般論として重訳は問題かと言うと全く問題視されない分野もあるという話になるので

一般論で主張するのは無理だよ北村紗衣さん、と言いたい訳です。

ただ山形浩生ピケティ経済学の本を英訳から日本語に訳すのに批判をするのもアリだとは思う。

でもその場合やっぱ日本語訳と原著の両方を読んでから批判した方がいいんじゃないかな。

2022-12-02

anond:20221201224342

良い暮らしをしても、別にそれだけで文化資本が上がるわけではない、というサンプルか。

ジョセフ・G・ニュートンの産みの親がせっせと娼婦生活に励んでいるのと似た感じかな。自分の育ってきた文化を変えないってやつ。

2022-11-29

しかしたら僕は自己肯定感がそれほど高くないかもしれない

自己肯定感低い人あるある」っていうのTwitterでたまにRTされたりするが、それをみて「人の目を気にしたりして大変だな」と思っていた。

まり僕は自分のことをそれほど自己肯定感が低くない、むしろ高いと思っていた。

でも最近しかしたら実は結構いかもしれないと気づき始めてきた。

ぼっちざろっく』流行ってますよね。主人公ぼっちちゃんギターが上手いのに、実力に自信を持ちつつも、他人評価を気にしていて、目の前の観客も怖がっていた。それでぼっちちゃんが「本当の敵は目の前の観客じゃない。観客は自分を求めているんだ」ということに気づき、一歩踏み出せた演奏ができた。

そんな成長エピソードがあるわけだ。

僕もその自分に自信を持ちつつも、人が怖いというのはわかるという気持ちになったが、むしろそれは普通のことだと思った。自己肯定感が低い人は自信もないものかと思っていたので。

例えば僕がぼっちちゃんだったとして、ギターが上手いとしたら(別に自身はひけるわけではないが)、まずYoutubeに上げることがなかなか難しい。上手い人が出てきて、この演奏ダメだとかいわれるかもしれないし、ギターのことを全然わかっていない素人でも「プロの〇〇さんより全然下手ですねー」みたいなことを言われたりしたら立ち上がれなくなりそうなので、まず人に見せることはできない。

家族や友人でも無理だ。

きっとギターとかバンドとかやっていて、理解してくれる人ではないと見せられないだろうなと思う。

そして、そんなに悪意ある言葉を言う人って実は少ないとは思うけれども、でも社会は悪意に満ちているとどこかで思っている。

小学校の頃、信号のない横断歩道を渡るのが怖かった。車が減速することなく、むしろわざと加速して突っ込んでくるとおもったから。

免許証取りたてのころ、車線変更が怖かった。後方の車がわざと加速してぶつかってくると思ったから。

中学の頃学校が怖かった。教師私生活を縛り付けようと宿題を多く出そうとすると思ったから。

大学の頃教授が怖かった。重箱の隅を突っついて単位をくれずに留年させるんじゃないかと思ったから。

学生の頃、就職が怖かった。私生活趣味は悪で起きている時間をすべて労働に捧げるようにわざと上司仕事を振ると思っていたから。

新入社員のころ、彼女がいることを会社にバレるのが怖かった。結婚など守るべきものがあると分かったとたんに逃げ場のない重労働部署に飛ばされるかと思ったから。

結婚たころ、町内会が怖かった。家庭への不当な干渉をするんじゃないかとおおもったから。

20代後半ともなれば、だんたんその不安杞憂だったとわかるわけだが、生まれからずっと他者が悪意を持っているとずっと思っていた。(そして今でもほんのりそれは思っている)

悪意は上司、先輩、社会国家など権威あるものから不条理に降り注ぐと思っていた。

からそれから身を守るために、大学にいったり、論理学を学び屁理屈で言いくるめようとしてくる人から自衛をみにつけたり、歴史外国語を学びちょっと頭がいい風を装ったりした。

まあこの文章を見て分かる通り、そんなに学が身についているわけではない。

僕がいわゆる『理解ある彼氏くん』枠で結婚したのも、妻が権威ある悪意から遠い弱い存在だったからかもしれない。

ただ妻は弱い人間ではなかった。苦手なことはあるが、それを打開するためにいろいろ挑戦している人だった。

気づき

この前妻から一言で、年甲斐もなく泣いてしまった。

悲しいとか辛いとか悔しいとかではなく、涙が止まらなかった。

喜怒哀楽の単純な感情由来であればコントロール可能だ。

だが不可能だった。子どもがいるにもかかわらず、涙が止まらなかった。正直混乱した。

切っ掛けは些細な夫婦喧嘩だった。

僕は相手から言質を取られないように遠回りに外堀を埋めてから話す癖があり、それは人によっては不快な思いをさせてしまう悪い癖だと思う。

夫婦喧嘩で〇〇を言った言わなかったから、過去の違う話まで掘り起こされて喧嘩エスカレートすることもあるので、僕は議題を棚卸して何について話しているのかと責任境界を決めたがる。

それは共感とは遠く、冷たい印象を与えることになるというのは僕は理解している。

だがそれは今回のこととはまた別なんだ

ただその冷たい印象を与えている僕に対するカウンターとして妻が言い放った「頭がいいはずなのになんでわからないの?」という言葉を聞いて、いままのでの喧嘩の内容なんか吹き飛んで、ただ泣くことしかできなかった。

さいころを思い出す。

僕は大卒だが正直それほどレベルが高い大学ではない。

僕のクソ小さな自尊心は「中堅よりは上だけれどもハイレベルというわけではない」と言いたいが、世間ではそれほどでもないとは思われているだろう。

だが、妻は大学には行っていないので、大学に行く人というのは基礎能力が高いという素朴な期待を持っているようだ。

で、なんであの言葉で僕は泣いたのか。

あの言葉を受けた時、僕の脳内では幼いころの情景がフラッシュバックしてきた。

祖母が「あなたのお父さんはとても頭がいいから。あなたも頭が良いんだよ。おじいちゃんは〇〇賞もとったかあなたもすごいんだよ」とずっと言ってきて僕はそれが誇りだった。

クラスでは物知りで通っていたし、小学生ながら月刊ニュートンを読んでいたのはちょっとしたドヤれるポイントでもあった。

実際父はすごかったらしい。らしいというのは小学生に上がる前に亡くなったからよく知らない。

ただ僕が逆立ちしても入れないような大学にそれほど勉強せずに入ったそうだ。

高校時代にその研究をしたいがために当時の有名な教授がいる東京ではないがトップレベル国立大に入るように勉強していたが下宿代が当時のうちの家計では出せなかったようで、都内のそれでもハイレベルな有名大学にはいった。(今にして思えば子離れできていない祖母が渋ったのではないかとも思うが、)

都内ハイレベル私大にはその国立大先生と同じくらいにその分野で有名な人らしく、それで進学先を決めたようだ。3年の夏まで必死勉強していたが、私大に進路を変えたのでそれからは遊んで暮らしたそうだが、ちゃん合格したそうだ。結構浪人生があこがれる私大だっつーのにね。

そして父は研究者になった。んだが、今の僕の年齢よりもずっと若い時分に死んだ。平成をたった数日しか生きられなかった。おそらく今も生きていたら教授かになってたんだろうなとは思う。実際同僚の人はその大学教授をやっているらしく、何回かテレビに出た時に母が父の友人だと教えてくれた。

祖父自分生業の分野でナントカ賞をとって有名な人とかと写真うつったりしていた。

そんなこんなでその嫡流の僕は変な期待と受けていた。父が若くして死んだこともあるのかもしれない。

人の偉業で褒められる。小さい頃は良かったが、ちょっと分別がつく頃には結構キツイものがある。僕がやったわけではないし、僕が今やっていることは何も評価されていないのだから

母はそんな環境が嫌だったからかもしれない。だから引っ越したんだろう。

女手一つで僕と妹を育てた。とはいっても母も実家が太い系なので相当恵まれて育った。

母は大学を言っていない。研究者と事務の人という出会い結婚したそうだ。

から正直学がないというか、僕の勉強に対して口を出すことに自信がなかったんだと思う。だから僕の好きな分野、科学のことの話し相手になってくれなかったし、成果を評価してくれることもなかった。ただ「難しくてわからない」というだけだった。

僕は生まれてことこのかた賞状をもらったことがない。妹は絵画コンクールで、英語スピーチコンクールで、そして学校選抜された海外派遣なんたらで数多くの栄誉を持っている。

僕は何ももらっていない。歯が綺麗で賞はもらった。絵もうまくない。楽器も弾けない。英語もできない。文章も書けない。ゲームもうまくないし、話もうまくない。モテない。バイト先ではいじられキャラだった。いじってほしくはなかったがただ「要領がわるい」ということでいじられキャラになった。

そう要領がわるいんだ。

ただ、必死になって大学受験をしただけの人だ。

妻は大学には行っていないが、絵が上手い。工作が上手い。それを作って売れるほどうまい創作ができる。

「頭がいいはずなのになんでわからないの?」という妻が放った言葉で、これらの過去のこと家族のこと妻のこと今のことすべてが分かってしまった。

頭がいいわけないということを分かるのが怖かった。

僕は何者でもないといわれるのが非常に怖かった。僕のアイデンティティは「すごい祖父、すごい父からまれた、すごい子」であり、それが解体されるというのが辛かった。でも僕が縋れるのはその祖父祖母が言っていたそれしかなかった。

凡人であることを誤魔化すべく、頭でっかち知識と、頭がいい風を装っていた。バイト先でいじられても「でもあいつらより偏差値高いし」って思って意識を保っていた。

そして脆い自分を明らかにさせてしま他人が怖かった。

自分がただ怖がっているだけなのに、相手が悪いことをしようとしていると思って、目上の人や教師社会不条理に僕に何かを強いると思っていた。

悪意が逆転していた。自分が向けていた敵意を僕は被害者意識を持っていただけだった。

根拠のない自信をもつことはある意味必要だと思うが、僕の場合はその程度が強すぎたのかもしれない。

自信があることで身を守れると無意識で感じていて、自分に自信があると思い込ませていた。

からつい最近まで僕は自己肯定感が高い人だと思っていた。

全然高くなかった。たった一言で崩れるような人間だった。

恋が多い人生だった

妻に出会うまでは恋が多かった。

だが、モテなかった。

自分から行くタイプではない。ただ悶々彼女が欲しいとずっと思っているような人だった。

小学生からずっと。

今思えばただ自分を認めてくれる人が欲しかっただけかもしれない。

人の話を聞いてみるとそんなに好きな人が何人もずっといるというのは珍しいというのが分かった。

ティーンの頃の僕は恋に恋をしているに近かったが、自信があれば自律できていて、自分肯定(好いて)してくれる人を必要以上に求めることもなかったのかもしれない。

親として

僕はうちの子供には子供自身のことで褒めるように、そしてちゃんと成果をみて、子供興味あることをちゃんと調べて対等に接するようにしようと思う。

幸い子供マウントを取るようなことはしなかった(とは思う。自分の中ではないと思う。わからない。不安だけど)

うちの子昆虫とか生物かいろんなことを僕に教えてくれるし、僕も飼育について聞いたりしている。

僕がしてほしかたことをしている。きっとこれでいいはず

いまだに敵意は怖い

それでも人は怖い。

能無しとも思われたくないし、趣味に口も出されたくない。

変なアドバイスを受けたり、干渉されたくもない。

でも実は友人が欲しい。

そんなこんなで引っ込み思案なまま大きくなってしまった。

ぼっちちゃんみたいに何か自己表現でもしたらまた何か変われるかもしれないな。

この話を誰かに話して気持ちを楽にしたい

理解ある彼氏くん枠』で結婚したということを話したが、つまり妻はある精神的なハンディキャップを背負っているので僕がいろいろサポートしているところがある。

ただ僕はいろいろ限界が来て喧嘩してしまうことも多々あるけれど、それでも日々は平和だ。

つきあっていたころのままの関係性が続いているし、手をつないだり、二人で出かけたり、一緒に遊んだりすることもあの頃のままだ。

だが、妻は僕に守ってほしいという気持ちが強く、僕が弱いところを見せてほしくないと思っているところがある。

僕があの日泣いたとき、なぜか怒られた。「泣いたら私が悪者じゃない!!」って

僕はさすがに謝罪した。「さっきの喧嘩の流れとは別の件でないている。あの話とは別なんだ。個人的理由で泣いているだけなんだ。(まだ自分でもなんで泣いているのかもわからないので)なんかわからないけれど心の柔らかい場所が反応したような感じがして」とまあそんな感じで伝えたんだけれども

ただ「あなたが泣くと困るからやめて」という。

妻は毒親サバイバーでもある。だから過去の辛い話などを聴くこともあるし、その段階で妻が泣き出すこともあるので、そういう時は抱きしめたりして、そうすると落ち着いて、妻はそういう関係が好きらしい。

実は僕もそうしてもらいたいと思っているが、逆の立場にはしてくれないようだ。

僕も誰かに依存したいが、僕は生涯の伴侶は妻だけだし、妻以外に心を開くのはどこか浮気のように感じてしまい、正直無理だ。

そんな行き場のないこの気持ちを吐き出せるところはどこにもなく、

トイレ便器にはなしても/dev/nullに投げ出しても、どうしようもないので、ネットに放流して誰かにまれることで慰めることにしよう。

深夜のテンションで書いたものが上位にあがっていた。

皆、読んでくれてありがとうございます

深夜のテンションで書いたものホッテントリに上がっててびっくりしていたのと、

そしてまた悪い癖でこの世に悪意しかないとおもっていて、「絶対炎上している」「きっと、『お前は恵まれている癖に何いっちょ前に気取った悩み装ってるんだよ』みたいなコメントがたくさんあるんだ」と思って開くことができませんでした。

でも100件以上ついたら、気になって仕方ないので思い切って開いてみたら、なんとまあ善意ある方が多いこと。

ありがとうございます

また厳しめの人もきっと善意による発言だと理解するように努めます

2022-10-21

「到着時間前後左右します」

渋滞などの交通状況に左右されるという意味を含めての、前後左右かなと思ったが

検索したら、中国では時間が左右するらしい

アナログ時計の針が由来なのだろうか

空間をどう認識するか

ミンコフスキー空間を生きてると時間前後左右上下するものだが

ニュートン時空の旧人類には誤用扱いされるのですよ

"時間前後左右する"

約 1,140 件 (0.36 秒)

わりと人口膾炙してきてるような

四字熟語

 我が家クリスマスなどにピザ屋さんのデリバリーを頼む。夕方5時の配達を頼んだある日、アルバイトらしき女性が「5時のお届け時間前後左右します」。左右はせーへんやろ、とは突っ込めず。少し国語勉強してネ!

 (滋賀県東近江市・思っていることの半分も言えない私・70歳)

https://www.asahi.com/articles/DA3S15443797.html

物理勉強してネ!

anond:20221021193514

イギリスラテン語と言えば、ニュートンの主著 Philosophiæ Naturalis Principia Mathematicaタイトルだけじゃなくて中身も全てラテン語で書かれていますね。まあ、ニュートンだけじゃなくて昔は学術書などは全てラテン語でしたから当然ですけど。

ちなみに今でもイギリスの古い大学では論文卒業論文博士論文)は英語またはラテン語で書くことという規則が今でも残ってたりします。もちろん今は誰もラテン語科学論文を書いたりしませんけれど。

また、ラテン語大学名やモットーもあって、ケンブリッジ大学は Universitas Cantabrigiensis で、そのモットーは Hinc lucem et pocula sacra (訳:From here, light and sacred draughts)

まあ、昔の名残りですね。

なお、今でも名門私立中学のことを Grammar Schools と言うのもラテン語教育を重視していた時代の名残りだとか。(普通公立中学は Comprehensive Schools)

2022-09-29

イギリスって一番偉くね?

物理学ニュートン革命したし

生物学ダーウィンの掌の上だし

経済学アダムスミス注釈じゃん

結局俺たち現代人はイギリス人に踊らされてるに過ぎないよな

2022-09-26

anond:20220926132336

おまえはそれだから底辺のままなんや。おまえみたいなのは例えば引力について語ったニュートンにも同じこと言うんや。物理普遍的法則神話に見られる人間普遍的精神構造みたいなメタ問題を考えることができないからや。

2022-09-16

生の魚の増田臭さよ差作出す間の中佐真魚回文

おはようございます

鮭のいいアラが手に入ったので早速お粥よ!

ちょうど昨日生鮭ぶっこみたい!って言っていた矢先、

みかん花咲く丘公園前の商店街のお魚屋さんで

本当に偶然ちょうど良くおあつらえ向きに鮭のアラがあったのよ!

しかも100円!

安っす!

いいでしょー!

まあアラなので魚をさばいた後

魚の身を切り出したあとに残る部分なのね。

あんまり食べるところがほとんど無いけど、

アラの当たり具合によっては

良いアラに当たることがあるのよね。

今回の鮭のアラはいいともうわ!

そんで早速鮭粥に挑戦!

生の鮭なので、

霜降りにして明星になったこ粗品でもらったキッチンペーパーでちゃんと水拭いて、

わかるかなー?

わかんないだろうなー?

生臭さを処理したつもりだけど、

いざ鎌倉!ばりに

お粥にしたら鮭のというかー魚の生臭さが際立ってたわ。

まあ食べられないってワケではないけど、

ちゃんともうひと手間

霜降りにして明星する前に、

塩振っておけばよかったわ。

そして粗品でもらったキッチンペーパーで出てきた水分をおさえてって手間。

わかるかなー?

わかんないだろうなー?

その手間を怠ったがゆえの結果として

ちょっと臭い鮭粥ができたとさ!

うまんが日本昔話ばりに話を終わらせたいところだけど、

生の魚を使うとき特に粥にするとき

ちゃんと下処理しないと生臭くて笑うわ。

まあ当たり前の魚なので魚臭いのはご愛嬌だけど、

下処理怠らないようにしなくっちゃって思ったわ。

アラなので結構いい出汁出ててそれこそ匂いはともかく

味はまずまず美味しかったし、

面倒くさいけど骨もある程度取り除いて鍋に突っ込むべきべきだったわ。

あんまり骨気にならないんだけど、

お粥の柔らかさに対比して骨の硬さが余計に目立つのよ口の中で。

一回試してみて鮭感を感じたかったので、

次回はちゃんと下処理するか、

だいぶ高いけど切り身の鮭で本格鮭粥を試してみるかだわね。

鮭粥もなかなかパンチあって私は好きよ。

パンチの中にも優しさがある感じがして、

もちろん冷凍餃子お粥の中にも優しさがあることを私は忘れていないから!

手軽さと簡単さと食べ応え強さと

の私のお粥テーマで言えば

圧倒的に手軽さと簡単さで分がある冷凍餃子圧勝よね。

人類はまだ生の魚を取り扱いには早すぎるのよ。

うそう!

今度はって思い付いたんだけど、

鯖缶粥試してみようかしら!

これなら冷凍餃子匹敵する手軽さと簡単さでは負けないと思うし、

ニュートンさんが木からリンゴが落ちてきてアイデアが閃いてリンゴ粥を作ったように

私もそれと同じ要領で

鯖缶が頭の上に落ちてきたような閃きをアイデア

ちょうど鯖缶の縁の角の部分がクリンヒットして私の頭に当たったような衝撃よ。

実際棚から鯖缶落ちてきてってリアルな話しよ。

私の頭の上で

ツーバウンドならぬスリバウンドぐらいしたかもしれないわ。

でも顔面を含む頭もセーフよね。

幸い血は出なかったので良かったけど、

鯖缶が空から振ってくることもたまにはあるのよ。

大谷翔平選手鯖缶ツーシームで投げて

4回転のフォーシームより遅い2回転なので、

その分なんとか遅い回転中に鯖缶賞味期限を見極められるような芸当を身に付けるぐらい、

その大谷翔平選手が投げた鯖缶も頭に当たったら危ないから気を付けた方がいいわ。

あなたも気を付けてね。

うふふ。


今日朝ご飯

例のその鮭粥よ。

うそう思い出したけど、

お米切らしていたのでサトウのごはん的なサトウのごはん

ちなみに小盛りのやつで

こしらえたんだけど、

あれも常備しておけば急に思い立ったときに便利極まりないわ。

世の中便利なものがあるのね。

覚えておくわ。

デトックスウォーター

桃缶買ってきたわよ。

たまに食べたくなる甘んまい桃缶よ。

それを1つ桃缶ウォーラーにしてみました。

プレーン炭酸での桃缶の桃で桃も炭酸ウォーラーでもいいわね。

炭酸桃も桃よ。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2022-08-30

anond:20220830225149

ニーチェは神を否定したんじゃなく、西洋神学世界観否定した

19世紀なんてニュートンとかより200年後

自然科学世界観知識人の間では当然で、強固な信仰なんてとっくに崩れてる

しろ人間の理性が第一という雰囲気になっていった

でもそのはずなのに、実は倫理学哲学レベルでは実はキリスト教倫理観が無批判に埋め込まれますよね?

お前らいい加減死んだ神を捨てて成長しろよ?

っていう批判をやったんや

2022-08-09

ニュートン=ジョンとか書いてある真ん中の=は何でしょう?

等式成り立ってる?よくわからない。

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