はてなキーワード: 座談会とは
それがどうだかは知らんし実際数量的にどうであろうが関係はないので、とくに問題はないだろう
あとパパ活というのはパトロン活動みたいなものが基礎になっているのではないか
売春目的で最初からパパ活ということで探している両者は勘違いしていると思う
もとより売春行為が目的なら「大人の関係」ないし「大人」または「関係」、旧名「割り切り」だろう
基本的にはデートをしてお金をやり取りするキャバクラ同伴・アフターの個人営業みたいなものがパパ活ではないか
感情やら価値観やらは置いといて「関係」の話でいうとキモイとか問題が多いとかそういう話はぶっちゃけ聞かない
一番多いのは「ひやかし」「ドタキャン」あと交渉に入る以前に「説教」と聞く
20歳の男子が毎月呼んでくれる50歳過ぎのおばちゃんとか、広い戸建てに一人と犬一匹で住んでる医者の家に定期で呼ばれる30歳とか
アパレル店の店長をしているという20歳過ぎの子はどうやらそのアパレル店の店長が野良デリヘルみたいなことをしていて派遣されてきたっぽいとか
合計100例くらいなので母数はあんまりないけれど、そう悲惨な話とかひどい出会いの話は聞かない
一人だけどうやら騙されて野良デリヘルをさせられてるっぽい家出娘みたいな子にはあったが、まあそういう日もあるだろうという事で話を聞いておわることもある
女子大生っぽい子がどうやら処女を捨てたくて形だけしたくて来たっぽい子もいた
こちらも都合のいいタイミングで都合のいいパートナーが調達できればたすかるし、相手もお金以外は求めてないので双方トラブルになったり問題や行き違いがあったことはない
キモいおっさんが汚いリュックを背負って臭いシャツのまま入っていくのを見るのは早朝の風俗店なのだがどうだろうか
すこし早く出勤すると通る繁華街で日の出から営業している風俗店に入っていくのを時折みる
几帳面なサラリーマンっぽいシャツにスラックス、四角いリュックに動きやすい靴のおっさんは一人でホテルに入って行ったりするところを見る
それはおそらくデリヘルだろう
それぞれに求めているサービスがわかれていて、それらがかみ合うことは非常に少ないと思うが性欲旺盛おっさんのあつまりみたいなところで座談会したわけでもないので知らん
関係の待ち合わせはホテルから一定の距離離れたあたりの角で待ち合わせが定番化しているところがあるようで、見ればわかる
何人かの定期とその子らが都合あわないときは野良と会ったりするおっさんから見ればこんな感じだが、なんか一番悪い例だけをとりあげて全体のイメージができてる気がしないでもない
とくに他人の幸せや不幸をどうしようと考えてるわけではないので、自分はとりあえず円満ではあるのでどうでもよいことだけれども
現代日本のフェミニズムは、傷ついた人間が慰め合うセラピーの看板のような機能を持っていると言える。
弱者が慰め合える駆け込み寺、いわばフェミニス堂があること自体は良いことだ。
エンパワメントやシスターフッドという自己肯定を重視した精神的な言葉が最近人気なのもその一環かもしれないし、そこまで前向きな気持ちになれないからとにかく苦しみや怒りを吐き出させてくれという層だって駆け込み寺には居場所がある。
だが、「セラピーとしてのフェミニズム」と「学問や言論としてのフェミニズム」が分離されていないために、言論としてのフェミニズムの信頼度が著しく弱まっている。
セラピー面も学問言論面もひと固まりだから、フェミニストはメンヘラだとか、他人の幸せを許せないだとか、ミサンドリストでセックスヘイターのジェンダークレーマーだとかの批判に繋がってしまっているのだろう。
私自身も精神疾患持ちなので、精神が弱っていることを批判する気はないのだが、セラピー的な語り合いと、学問的討論がごっちゃになっている状況は大いに問題視している。
(追記:↑ここで私の精神疾患に言及したのは、私も議論の場で当事者性を武器として使おうという態度でよくなかった。反省する。)
本稿で主張するのは、「冷静な研究者としての立場」と「傷つき怒れる当事者としての立場」は、兼任すると問題が生まれるのでどちらか片方だけの立場に立つべきだ、ということだ。
たとえ学位や免許を持っていても、冷静になれない話題については傷が治っていない当事者だから、理論と議論を使いこなせる研究者ではなくあくまで苦しむ当事者個人として発言した方が良い。
本論前に、何がOKで何がNGかおおざっぱに切り分けておこう。
フェミニズムという看板のもとに、傷ついた人々が集い、辛さや怒りを語り合い共感しあい心を癒そうとする様子は、当事者会に近い。
当事者会自体は、様々な依存症や障害、事故被害者などについて行われており、有用なセラピーと言っていい。
だが「セラピーとしてのフェミニズム」の問題は、当事者会で癒される患者と、当事者会を監督したり理論を語る研究者がかなり重なってしまってるということだ。
要するに、当事者として治療を受けるべき傷を抱えたままの人間が、セラピスト役もやってしまっているという問題が、「セラピーとしてのフェミニズム」にはある。
だが、SNSのそこら中で行われている「セラピーとしてのフェミニズム」当事者会の多さに比べて、監督できる冷静な研究者は全く足りていない。
普通の当事者会やセラピーは、福祉や医療や心理の専門家によって研究と理論化がされ、社会に対して有用性が主張され、会の時にはその場にいて見守ったりもするはずだ。
傷ついた当事者たちの語りは、しばしば自己中心的だったり理屈が通ってなかったり乱暴だったりするが、それは回復に必要な心の解放だ。
それがそのまま社会への要求として世の中に出されたりはしないので、当事者会で語ったことが間違ってるなんて責任を問われることもない。
客観的な専門家が当事者たちの感情吐露を分析して理論化した上で、必要な部分は社会に訴えるようになっている。
だから、普通の健全な当事者会セラピーは、傷ついている当事者が冷静さを求められたりはしないし、当事者がヤバいことを主張していても研究者の評価が下がることもない。研究者が監督しているから当事者同士の会話が先鋭化するエコーチェンバーも防げる。当事者の要求は研究者が整理したうえで一般社会に伝えるので、外部の一般人が当事者の過激すぎる主張を直に聞かされて悪感情を持つこともない。
全てが完全に徹底されているわけではないが、それでも、当事者会セラピーで語り合う患者とそれを監督する研究者の間に線が引かれていることで、ある程度は弊害の抑制ができている。
しかし、「セラピーとしてのフェミニズム」では、患者、監督者、研究者の区切りが曖昧になりやすいので、普通の当事者会セラピーでは減らせる弊害がモロに発生しているのだろう。
たとえばフェミニストが「トーンポリシングはやめろ」と主張し、議論や説得において言い方ってのは大事だろと反論されるのをよく見るが、あれも、内輪の癒しセラピー的な感覚と対外交渉議論の感覚がごちゃまぜになっているせいだ。
「私はいま苦しすぎて言葉を選んでいられないのでセラピー患者として気持ちをぶちまけてるんだからトーンポリシング(言い方警察)するな」、という話なら真っ当である。
「私は冷静を保ち、言い方や内容にしっかり気を使うから、議論として発言を真面目に聞いてくれ」、というのも真っ当である。
だがそれを同時にやろうとする、「自分はセラピー的に感情をぶちまけるが聴衆は真面目に聞いてくれ」というのは無法な要求だ。
せめて、セラピーを監督する冷静な研究者に向かってぶちまけて、その研究者が理屈の通らないところを補助し冷静な言い方に直して議論の場に持っていくという形にしなければいけない。
なのにフェミニズム議論では、何もかも一緒くたになりがちである。
臨床心理士やカウンセラーや看護師助産師になりたがる人間はしばしば自分が精神不安定を抱えているというのは、統計はともかく実体験としてはよく聞く話である。
博物学系でも、たとえば動物学者はだいたい動物好きで、心情的には動物を保護したがるだろう。
だが、そこは資格団体ががんばってたり教育だったりで、臨床心理士や精神保健福祉士はある程度の信用をしてもいいだろうとなっているし、動物学者も後先考えない動物愛護活動をする人は目立ってないわけだ。
むしろ、愛護派の過激な主張の角を取って一般社会的に可能な動物保護のやり方を訴えたりしていて、それはまさに、感情的になりがちな当事者の語りを、研究者が自分のところで一度止めて丸めて社会に伝える、当事者会に対する医療や福祉関係者の立場と近い。
だから、臨床心理士や動物学者などの学問的信用はまあ保たれている。
ところがフェミニズムや一部社会学は、理論家や研究者が、傷ついた当事者と近かったり同一人物だったりするせいで、冷静な監督者のいないまま野良セラピー的な語りあいを続け、当事者の悲痛な心情吐露ではあるがそのまま社会に要求するには妥当性に欠ける内容が研究者の学問的立場から主張されてしまっている。
フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとか言われてしまうのはこのせいだ。
それにもかかわらずフェミニズムの大義名分は世界中で力があり、フェミニストの要求の内容を精査して妥当性十分の時は応じますという態度は悪だと指弾されるのが、本当に良くない。
ここで断言しておくが、メンヘラも、他人の幸せを許せない人も、ミサンドリストもミソジニストも、セックスヘイターも、楽しく生きてよいし好きに発言してよい。当事者会で同病相憐れむのだって、傷ついた人間には大切だと思う。
過激な思想やトラウマは緩んだ方がいいとは思うが、それもあまりに大きな加害に繋がらないのであれば自由だ。
ただし、その好き勝手な発言暴言はあくまで傷つき冷静さを欠いた人の胡乱な言動として生暖かく聞き流されている方が、周囲にとっても当人にとってもよいはずだ。
弱者の声は社会から無視されるべきではないが、そのままでは妥当性が低いので、客観的な研究者が集積して適度に理論化と穏健化した上で世の中に訴えるべきだろう。
フェミニズムが、弱者に肩入れしようとするあまり病んだ当事者発言をそのまま重用したり、著名な研究者が「冷静さを保つために私の当事者としての感情を一時的に抑えよう」という努力をおろそかにしているのは、誰にとっても不幸である。
辛すぎて悲鳴を上げざるをえない当事者と、冷静で他者と対話可能な研究者の弁別は、完璧でなくとも努力する価値がある。できたぶんだけ弊害が減るはずだ。
一つ、わかりやすい事例を挙げる。
フェミニズムやジェンダー学周辺で、セラピー的機能と学問・言論的機能が混在することの弊害を私がはっきり感じたのは、朝日新聞運営の『かがみよかがみ』である。
「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」とか「私は変わらない、社会を変える」とかをコンセプトにして、女性の自己肯定感の爆上げを目指すメディアであることを謳い続けている。
18~29歳の女性からのエッセイを募集して、編集部がチェックして載せている。著名人や契約コラムニストの連載もある。
そして投稿者を「かがみすと」と呼び運営ボランティアを「ミラリスト」と呼んで連帯感を出し、若い女性同士で肯定しあえるコミュニティを作ることも意図しているようである。(かがみすとは今もしっかり使われているが、ミラリストはTwitterで検索してもほぼ出てこないので今も使われてるかは外部からは謎)
二年くらい前に数回燃えたが、扱っている内容の割にはてはで話題になる回数は少ない気がする。はてなとは読者層が違うのだろう。
上野千鶴子さんに質問「ベッドの上では男が求める女を演じてしまう」 | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/12881008
フェミニストでも、守られたい。フェミニストだから、守りたい | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/13432941
これの上の記事に関わっていたコラムニスト(かがみすと)が、謝罪をしつつかがみよかがみを批判したnoteを全三回書いていたのだが、その第三回と、ここから辿れる記事類を読み、フェミニズムがセラピーと言論を区切らずやっている弊害はあるな、と強く感じた。
上野千鶴子氏座談会のセックスワーカー差別炎上とかがみよかがみコミュニティの雰囲気について(下)|滝薫
https://note.com/hannnahkuku0819/n/n6514127ed85a
私はこれを読んだ時、伊藤編集長があらゆる批判に応じないのもわかる、といっそ清々しささえ覚える形で納得してしまった。「セーファープレイス」を構築しようとして、内部を守っているのではないかと思った。
(略)
『かがみよかがみ』を必要としている利用者はいる。それはわかっている。私も、エッセイを投稿した後の”共感”と”褒め合い”によって自信がついた一人であることは変えようがない事実である。その価値を認めていても、『かがみよかがみ』の未来に不穏さを感じてしまう。
『かがみよかがみ』が目指すのは、あくまで女性の自己肯定感の爆上げである。正しさではなく、自己肯定感である。
それも、明言はしていないが18~29歳の女性だけを狙っているだろう。
若い女性たちがエッセイで悩みを語り合い、書き手同士のSlackか何かでも褒め合い、お互いが何を言っても原則として批判しないし自虐もしない。まさに当事者会でありセラピーのやり方である。
フェミニズムやジェンダーなどの内容が多く扱われているが、それはあくまで自己肯定感爆上げの道具なので、理論的な正しさを保とうとして心が苦しくなってしまうようなら、正しさを追求しなくてよい。
エッセイ投稿の年齢制限も無い方が「正しい」のはわかってるだろうが、年上の説教エッセイや愚痴エッセイが載ってるサイトは鬱陶しくて気持ちよくなれないという若者の本音を慮って、微妙な理屈をつけて年齢制限をかけていると思われる。
投稿者をかがみすとと呼んで内輪感を作るのも、その繋がりで孤独が癒える人がいるからである。そういう内輪感にウエッとなる人もいるだろうが、そのタイプの人は他のどこかで癒されればよいというスタンスだろう。
伊藤あかり編集長のモットーらしい「全ての人を満足させようと思ったら、一人も熱狂させられない」とも合致する態度だ。
傷ついた若い女性のために、正しさではなく自己肯定感爆上げを目的とした当事者会セラピーの場があること自体は、良いと思う。
だがそれが、朝日新聞運営メディアとして広くネットで広告され、上野千鶴子や石川優実を企画に呼び、ヒコロヒーなどの連載があり、エッセイ投稿者もジェンダー学やフェミニズムで多少の理論武装をして識者っぽい人もたまに言及するとなれば、そこはもう言論の場となってしまう。苦しい内面を安心して吐き出せる、責任を負わなくていいし怒られもしないセラピーの場としては相応しくない。
なのに、そこが曖昧に混ざった立場で『かがみよかがみ』の文章は発表され続けている。
そして、これは、インターネットにおける様々なフェミニズム活動についても近いことが言える。
最後にもう一度まとめる。
傷ついた当事者同士が慰め合うセラピーの看板としてのフェミニズムと、冷静さと客観性を保つ学問や研究としてのフェミニズムは、分割しておく必要がある。
現在の日本では、セラピーの場としてのフェミニズムと、学問としてのフェミニズムが、ごちゃごちゃ混ざっている。
心が乱れてフェミニズムセラピーを求める患者と、冷静であるべきフェミニズム研究者が、ある程度重なってしまっている。
この状況を解消しないと、世の中の幸せにはつながらないだろう。
TBSが燃えている。4日前の2月24日、駐日エストニア大使館がTBS NEWSのツイートに「TBSさん,またですか..いいかげんエストニア,ラトビア,リトアニアを“旧ソビエトの国“と呼ぶのはやめてもらえます?歴史的にも法律的にも不正確な呼び方です。バルト諸国はソビエトの継承国家ではないです。2月24日エストニア104回目の独立記念日の本日から、もうこの呼び方はやめていただきたいです」とリプライしたからだ。
https://twitter.com/estembassyjp/status/1496798387856834561
エストニアと言えば把瑠都と仮想通貨しか知らない俺も、うっかりエストニアを「旧ソ連」と呼んで国際問題を召喚しかねない。保身のために「エストニアは旧ソ連じゃない問題」について検索してみた。
「まとも検索」で「エストニア 旧ソ連」を検索すると、政府や国立機関のページが見つかる。バルト三国は「旧ソ連」と呼ばれているのか?
・外務省 わかる!国際情勢(2011年) 「現在のエストニアは,バルト三国中もっとも経済状況が良好で, 2011年1月に旧ソ連の国として初めてユーロを導入しました。」
https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol80/index.html
・国立国会図書館 リサーチナビ(2022年2月更新)「旧ソビエト連邦構成国(ロシア、エストニア、ラトビア、リトアニア、以下略)の鉄道地図が掲載されています」
https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/post-371.php
日本政府公認旧ソ連である。専門家が書いた本なら如何と志摩園子氏の「物語バルト三国の歴史」(2004年)を手に取れば、「旧ソ連邦に属していた三国は、新たな国家建設に当たって(以下略)」と開幕即旧ソ連判定である。
では逆に何故、「旧ソ連」と呼ぶのが「不正確」なのか?この本に沿って俺なりにまとめると、今のエストニアにあたる地域は、18世紀くらいからロシア帝国に支配されていたのだが、ロシア革命後の1918年に独立を宣言した(※国際的な承認は1920~21年)。しかし1939年、ナチスとソ連の秘密協定で勝手にソ連の勢力圏と決められてしまい、1940年6月にはソ連軍に占領された。そして逆らう奴らは逮捕、追放され、占領下で選挙を実施して人民議会を開き、この議会がソ連編入を決めた、ということらしい。要はエストニアはソ連軍に占領されながら「ソ連に加盟します」と言わされたわけで、ぐうの音も出ない茶番である。リトアニアとラトビアも同様の茶番でソ連に「編入」している。
エストニアに言わせれば、こんなふざけた経緯の「ソ連編入」が無効で違法なのは明々白々、俺たちバルト三国は半世紀間「占領」されていただけなので旧ソ連呼びは「歴史的にも法律的にも不正確な呼び方です。バルト諸国はソビエトの継承国家ではないです。」ってツイートにつながるんだろう。
けど実際1991年までは政治も行政も経済もソ連の一部として回ってたんで、日本の外務省や専門家が「旧ソ連」と呼ぶのも当然と言えば当然。無茶苦茶なやり口で併合されたとはいえ、実際ソ連だったんだもん。
なぜ駐日エストニア大使館は「行き過ぎ」とまで思えるほどブチギレたのか?「アジア経済研究所」というJETROの付属研究所が出している雑誌「アジア経済」に、ロシア政治研究者・バルト諸国政治研究者・中央アジア政治研究者の座談会(2021年7月30日収録)が載っている。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajiakeizai/62/4/62_79/_html/-char/ja
バルト諸国政治研究者の中井遼氏が「旧ソ連」問題を語っている:
中井「それと,最近やりにくいなと思うことがあって,「旧ソ連」というとすごく怒る方がいるんです。日本だと目立たちませんが,英語圏だと議員や外務省とメディアが一緒にキャンペーンをはって,former Soviet Union とか ex-Soviet states といった呼称を使った記事や表現に対してものすごい勢いで抗議運動をやるんです。まだアカデミックなところではそこまで来ていませんけど,私ですら多少の圧力は感じますし,現地の研究者と話していると大変そうだなと思います。」
岡(※中央アジア政治研究者)「なるほど,これは地域名称の難しさですね。」
中井「バルト 3 国のなかで,とくにエストニアとラトビアは,そもそも国家理念としてソ連だったことはないという建前なんですよ。」
要はエストニア大使館の怒りのツイートは、エストニア外務省の「キャンペーン」の日本編なのである。これはまさに政治的に正しいか否かという問題——いわゆる「ポリコレ」なのでは?と雑に納得すると専門家に叱られるだろうか。「歴史戦」チックな問題なのかもしれない。
どっちにしても、駐日エストニア大使館の言い分はあまりにも強気だ。「エストニアがソ連だったことはない」という歴史認識は別に世界のアカデミックの常識って訳でもなさそうなのに、「旧ソ連」呼びを「不快だからヤメテ」ではなく「歴史的にも法律的にも不正確」とまで断じているんだから。グルジアがジョージアになったのとは根本的に質が違う要求だし、「呼ばれたくない呼び方はやめようね!」程度の問題だと考えてるなら、エストニアの歴史認識を実のところ解っていないままってことになる。
俺としては、日本外務省や日本のバルト三国専門家もバルト三国を「旧ソ連」と呼んでいるわけで、TBSがここまで炎上したのは可哀想な気がする。エストニア政府の歴史認識を尊重すれば「旧ソ連」と呼ばないのが親切かつポリティカリーにコレクトだけど、無茶苦茶な併合とはいえバルト三国が旧ソ連の一部だったことは確かだし、オウムの件のように明らかにTBSが悪い事件まで持ち出してぶっ叩くほどのことかというと疑問。けど炎上のおかげで俺のような無関心人(むかんしんちゅ)までバルト三国の歴史にちょっぴり詳しくなったんだし、エストニア外務省の「旧ソ連と呼ぶな」キャンペーンは今のところ成功していそうだ。
それにエストニアのキャンペーンを抜きにしても、「旧ソ連」という枕詞はそろそろお役御免かも。TBSは「バルト三国」の知名度が低いと感じて「旧ソ連」を加えたんだろうが、専門家をもってして今や「普通の民主主義の経済的に安定した国」(座談会の中井氏)と言わしめる国々をいつまでも「旧ソ連」と呼び続けるのは、間違いじゃなくとも何か変な感じだ。
...ここまで書いてから気付いたんだが、「エストニアの政治と歴史認識」(著者小森宏美氏)というどうやらそのものズバリの専門書が発売されているらしい。
昭和の日本人は元気がある
http://kangaeru.s59.xrea.com/31.htm
昭和31年(1956).7.24〔16歳が映画館で幼女レイプ〕
東京都葛飾区の映画館のトイレで、船員(16)がドアも閉めずに女の子(5)をレイプし1週間の傷害を負わせ、声を聞きつけた映画館支配人に取り押さえられた。女石原慎太郎と言われた岩橋邦枝・原作の日活太陽族映画「逆光線」に興奮して上演中に廊下に出たところ、女の子がトイレに入るのを見て襲ったもの。
昭和31年(1956).7.24〔高3ら3人がキャンプ場で殴り込み〕
山梨県の山中湖キャンプ場で、中大付属杉並高校3年生(18)3人が深夜1時に酔っぱらって浜松商業高校生(17,18)8人を棒で襲って5日間の傷害を負わせた。前日にナイフで脅された復讐。
この年の夏だけで山中湖近辺のキャンプ場には青少年14万人が繰り出し、太陽族映画の影響を受けて未成年も飲酒喫煙をして男女が桃色遊戯をしているが、取り締まりはほとんど行われていない。
昭和31年(1956).7.28〔中3が映画をマネて睡眠薬混入〕
埼玉県熊谷市で、中学3年生(15)が隣家の米人宅に忍び込み、砂糖壺に睡眠薬を入れ、コーヒーにこの砂糖を入れて飲んだ主婦(23)が昏睡状態となった。
石原慎太郎・原作、市川崑・監督の太陽族映画『処刑の部屋』を観て、主人公が女を薬で眠らせて犯すシーンをマネたもの。
昭和31年(1956).8.10〔19歳ニートら5人が監禁レイプ〕
東京都杉並区のアジトに、7.13にウェイトレス(21)を連れ込み、レイプしようとして翌日まで監禁した、無職(19)、中大3年生(20)、日大2年生(21)、明大4年生(21)、無職(20)の5人がこの日に逮捕された。会社重役、省庁の部課長、大学参事など裕福な家の息子で、小金井一家傘下の愚連隊の一員。
石原慎太郎・原作、市川崑・監督の太陽族映画『処刑の部屋』を観て、主人公が女を薬で眠らせて犯すシーンに刺激を受けたもの。
昭和31年(1956).8.13〔高3ら4人の太陽族映画に影響された愚連隊〕
東京都大田区の路上で深夜1時過ぎ、日大4年生(24)、高校3年生(18)ら4人が、男性2人(21,25)にいんねんをつけて殴って10日間の傷害を負わせて逮捕された。太陽族映画に影響されて、車を盗んで乗り回していた。
昭和31年(1956).9.12〔愚連隊と太陽族 朝日新聞警察担当記者座談会引用〕
司会 太陽族とは一体何か。(中略)
E 太陽族は金があって自家用車をもって、女と遊ぶのを目的とするやつのことだろう。
Q それは鎌倉太陽族だ。普通の太陽族は"処刑の部屋"が一番多い。(中略)
M 太陽族は警視庁の見方によると金持ではなくて、金のあるなしにかかわらず衝動的になんでも「非行行為」を平気でやる少年という意味だ。(中略)
Q 映画館の中で仲良くなってサカサクラゲに行ってよろしくやる。それでいてお互いに名前も知らないのがザラだというよ。
E 深夜喫茶にロマンスグレーと来ている若い女は随分多いし、またみられても平気だね。
I 太陽族という言葉はきらいだが、あの連中は卑きょうだね。昔だったら「悪うござんした」というところを、「実は"処刑の部屋"をみたとか"太陽の季節"をみてやった」とか「男女共学の結果がこうなった」とか余計ないいわけをするから文相がああいうことをいい出すんだ。
O 警察もジャーナリスティックになって来たね調書をみると"太陽の季節"をみてムラムラと悪心を起こしたと書いてあるが、本当にそういっているのかどうか問題だ。
M それはいっている。いわせているのかも知れないがね。いわゆる"太陽映画"が問題になっているので、その影響による非行統計をみると、
九月四日現在で、刑法犯57件、その内訳は殺人未遂1件、強盗傷人1件、強盗予備1件、強カン33件、傷害13件、恐カツ3件、暴行1件、窃盗2件、強制ワイセツ2件。また不良行為、いわゆる女と一緒に外泊するとか、不純異性行為が全部で41件、
特異事例をみると、仙台にいる18と19の工員が非常に映画が好きで1カ月に十回はみるという。たまたま"太陽の季節""をみて非常に逗子海岸にあこがれてどうしても行ってみたいというので、工場のものを盗んで売り飛ばして家出、逗子に行った。現実は映画とは違ってきたない海岸なのでがっかりして上野に舞い戻ったところを保護されたというが、こういう少年たちの言い分は女を誘惑するには映画のように非常に大胆に実行するのがもっとも效果的だと考えて、やたら女に飛びついたりするのが非常に多い。31歳の男が"太陽の季節"をみて興奮して中学3年14歳の少女に抱きついたのがある。"太陽映画"は必ずしも青少年だけではなく、おとなも興奮させるという実例だ。(後略)
昭和31年(1956).10.7〔太陽族に厳しい世論 読売新聞引用〕
太陽族は今夏の大きな社会問題であった。既成道徳に反抗し無軌道な恋愛を楽しむ若者はいつの世にもいるものだが、戦後の道徳的混乱による自由放任の中で育った青年たちの行動には、さすがに目にあまるものがあった。
小説『太陽の季節』の爆発的人気にあおられ、あくどい性愛描写をしたいわゆる太陽族映画が次から次へと作られ、都会の歓楽街や夏の海浜での青年たちの無軌道さがしばしばジャーナリズムに取り上げられたりすると、世の親たちは今さらのようにガク然とした。この問題について読売新聞社が九月中旬三日間にわたり全国世論調査を実施、被調査者は三千名。
「困ったものだ」65%、「気にしなくてもよい(放っておけ)」18%、「仕方がない」6%、「わからない」14%。
▽太陽族を扱った小説や映画が、青少年に悪い影響を与えているか
「与えている」61%、「大したことはない」22%、「悪い影響はない」3%、「わからない」14%。
▽太陽族を生み出す原因の一つは男女共学にあるという人がいるが
現代日本のフェミニズムは、傷ついた人間が慰め合うセラピーの看板のような機能を持っていると言える。
エンパワメントとかシスターフッドという言葉が好まれるのもその一環と考えらえるし、そんな前向きな所まで至らない、まず苦しみや怒りを吐き出させてくれという層もいるだろう。
弱者にとって慰め合う場があるのは良いことなのだが、セラピーとしてのフェミニズムと、学問や言論としてのフェミニズムが分離されていないために、言論としての信頼度は弱まってしまう。
それが、フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとかの批判に繋がってしまっているのだろう。
私自身も精神疾患持ちなので、精神が弱っていること自体を批判する気はないのだが、セラピー的な語り合いと、学問的討論がごっちゃになっている状況は大いに問題視している。
冷静な研究者と、傷ついている当事者は、兼任しようとすると問題が生まれやすいのでどちらか片方だけの立場に立つべきなのだ。
〇 冷静なフェミニズム研究者が、「困った女性のための駆け込み寺やセラピーの場や、肯定しあえる関係は必要だよね」という学問的理論を組み立てるのはOK
〇 セラピーに集まる傷ついた人たちが、フェミニズムの用語で理論武装することも、武装しつつ過激な主張をするのもOK。(セラピー的な場の発言は、過激なことや邪悪なことも原則許されるべきである。その反面、そのまま社会への要求として世の中に伝えるべきではない)
× 自分に傷が深く残っていて冷静な振る舞いができない人間が、研究者としての発言力を得て、セラピーで患者としてするべきな過激主張を研究者の立場でしたり、他のセラピー患者の内面吐露をちゃんと検討せず世の中にぶつけたり、学者同士でも肯定しあう関係じゃないと耐えられなかったり、そういうのはNG
フェミニズムという看板のもとに、傷ついた人々が集い、辛さや怒りを語り合い共感しあい心を癒そうとする様子は、当事者会に近い。
当事者会自体は、様々な依存症や障害、事故被害者などについて行われており、有用なセラピーと言っていい。
だが「セラピーとしてのフェミニズム」の問題は、当事者会で癒される患者と、当事者会を監督したり理論を語る研究者がかなり重なってしまってるということだ。
要するに、患者がセラピストもやってしまっているという問題が、「セラピーとしてのフェミニズム」にはある。
全てのフェミニストが病んでいると言っているわけではない。
だが、SNSのそこら中で行われている「セラピーとしてのフェミニズム」当事者会の多さに比べて、監督できる冷静な研究者は全く足りていない。
普通の当事者会やセラピーは、福祉や医療や臨床心理士といった専門家によって研究と理論化がされ、社会に対して有用性が主張され、会の時にはその場にいて見守ったりもするはずだ。
傷ついた当事者たちの語りは、しばしば自己中心的だったり理屈が通ってなかったり乱暴だったりするが、それは回復に必要な心の解放だ。
それがそのまま社会への要求として世の中に出されたりはしないので、当事者会で語ったことが間違ってるなんて責任を問われることもない。
客観的な専門家が当事者たちの感情吐露を分析して理論化した上で、必要な部分は社会に訴えるようになっている。
だから、傷ついている当事者が冷静さを求められたりはしないし、当事者がヤバいことを主張していても研究者や研究分野の評価が下がることもない。研究者が監督しているから当事者同士の会話が過激化するエコーチェンバーも防げる。外部の一般人が当事者の無茶な話を直に聞かされて、振り回されて悪感情を持つこともない。
これらの全てが完全に徹底されてはいないが、それでも、当事者会セラピーで語り合う患者とそれを監督する研究者の間に線が引かれていることで、様々な弊害の抑制はできている。
しかし、「セラピーとしてのフェミニズム」では、患者、監督者、研究者、全てが一体になりやすいので、普通の当事者会セラピーでは減らせる弊害がモロに発生しているのだろう。
たとえばフェミニストが「トーンポリシングはやめろ」と主張し、議論や説得において言い方ってのは大事だろと反論されるのをよく見るが、あれも、セラピー的な場と議論の場がごちゃまぜになっているせいだ。
私はいま苦しすぎて言葉を選んでいられないのでセラピー患者として気持ちをぶちまけてるんだからトーンポリシングするな、というなら真っ当である。
言い方や内容にしっかり気を使うから議論として発言を真面目に聞いてくれ、というのも真っ当である。
だがそれを同時にやらせてくれ、自分はセラピー的にぶちまけるが聴衆は真面目に聞いてくれというのは無法な要求だ。
せめて、セラピーを監督する冷静な研究者に向かってぶちまけて、その研究者が理屈の通らないところを補助し冷静な言い方に直して議論の場に持っていくという形にしなければいけない。
なのにフェミニズム議論では、何もかも一緒くたになりがちである。
臨床心理士やカウンセラーになりたがる若者はしばしば自分が精神不安定を抱えているというのは、統計はないが実体験としてはよく聞く話である。
博物学系でも、たとえば動物学者はだいたい動物好きで、心情的には動物を保護したがるだろう。
だが、そこは資格団体ががんばってたり教育だったりで、臨床心理士や精神保健福祉士はある程度の信用をしてもいいだろうとなっているし、動物学者も後先考えない動物愛護活動をする人は目立ってないわけだ。
むしろ、愛後派の過激な主張の角を取って一般社会的に妥当で持続性のある動物保護のやり方を訴えたりしていて、それはまさに、感情的になりがちな当事者の語りを、研究者が自分のところで一度止めて丸めて社会に伝える、当事者会に対する医療や福祉関係者の立場と近い。
だから、臨床心理士や動物学者などの学問的信用はまあ保たれている。
ところがフェミニズムや一部社会学は、理論家や研究者が、傷ついた患者や当事者と近かったり同一人物だったりして、監督者のいないまま野良セラピー的な語り合いをし続け、当事者の悲痛な心情吐露ではあるが社会的妥当性の薄い発言みたいなものが研究者の学問的立場から主張されてしまっている。
フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとか言われるのはそのせいだ。
ここで断言しておくが、メンヘラも、他人の幸せを許せない人も、ミサンドリストも、セックスヘイターも、楽しく生きてよいし好きに発言してよい。当事者会で同病相憐れむのだって、傷ついた人間には大切だと思う。
過激な思想やトラウマは緩んだ方がいいとは思うが、それもあまりに大きな加害に繋がらないのであれば自由だ。
ただし、その発言はあくまで傷つき冷静さを欠いた人の発言として生暖かく見られている方が、周囲にとっても当人にとってもよいはずだ。弱者の声は社会から無視されるべきではないが、そのままでは妥当性が低いので、客観的な研究者が集積して適度に理論化と穏健化した上で世の中に訴えるべきだろう。
フェミニズムが、弱者に肩入れしようとするあまり病んだ発言をそのまま重用したり、著名な研究者が自分の当事者性を切り離して冷静さを保つ努力をおろそかにしているのは、誰にとっても不幸である。
一つ、わかりやすい事例を挙げる。
私がフェミニズムやジェンダー学のセラピー的機能と、学問・言論的機能の混在の弊害をわかりやすく感じたのは、朝日新聞運営の『かがみよかがみ』である。
「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」とか「私は変わらない、社会を変える」とかをコンセプトにして、女性の自己肯定感の爆上げを目指すメディアであることを謳い続けているサイトだ。
18~29歳の女性からのエッセイを募集して、編集部がチェックして載せている。著名人や契約コラムニストの連載もある。
そして投稿者を「かがみすと」と呼び運営ボランティアを「ミラリスト」と呼んで連帯感を出し、若い女性同士で肯定しあえるコミュニティを作ることも意図しているようである。(かがみすとは今もしっかり使われているが、ミラリストはTwitterで検索してもほぼ出てこないので今も使われてるかは外部からは謎)
二年くらい前に数回燃えたが、扱っている内容の割に回数は少ない気がする。特にはてなとは読者層が違うのだろう。
上野千鶴子さんに質問「ベッドの上では男が求める女を演じてしまう」 | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/12881008
フェミニストでも、守られたい。フェミニストだから、守りたい | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/13432941
これの上の方に関わっていたコラムニスト(かがみすと)が、謝罪をしつつかがみよかがみを批判したnoteを全三回書いていたのだが、その第三回と、ここから辿れる記事類を読み、フェミニズムがセラピーと言論を区切らずやっている弊害はあるな、と強く感じた。
『かがみよかがみ』が目指すのは、あくまで女性の自己肯定感の爆上げである。正しさではなく、自己肯定感である。
それも、明言はしていないが18~29歳の女性だけを狙っているだろう。
若い女性たちがエッセイで悩みを語り合い、書き手同士のスラックか何かでも褒め合い、お互いが何を言っても原則として批判しないし自虐もしない。まさに当事者会でありセラピーのやり方である。
フェミニズムやジェンダーなどの内容が多く扱われているが、それはあくまで自己肯定感爆上げの道具なので、理論的な正しさを保とうとして心が苦しくなってしまうようなら、正しさを追求しなくてよい。
エッセイ投稿の年齢制限も無い方が「正しい」のはわかってるだろうが、年上の説教エッセイや愚痴エッセイが載ってるサイトは鬱陶しくて気持ちよくなれないという若者の本音を慮って、微妙な理屈をつけて年齢制限をかけていると思われる。
投稿者をかがみすとと呼んで内輪感を作るのも、その繋がりで孤独が癒える人がいるからである。そういう内輪感にウエッとなる人もいるだろうが、そう言う人は他のどこかで癒されればよいというスタンスだろう。
編集長の伊藤あかりさんのツイッターbioには"「全ての人を満足させようと思ったら、一人も熱狂させられない」という感じ。"と書かれているのだから。
この世に、傷ついた若い女性のための当事者会セラピーの場があること自体は、良いと思う。
だがそれが、朝日新聞運営メディアとして広くネットで広告され、上野千鶴子や石川優実を企画に呼び、ヒコロヒーなどの連載があり、エッセイ投稿者もジェンダー学やフェミニズムで多少の理論武装をして識者っぽい人もたまに言及するとなれば、そこはもう言論の場となってしまう。苦しい内面を安心して吐き出せる、責任を負わなくていいし怒られもしないセラピーの場としては相応しくない。
なのに、そこが曖昧に混ざった立場で文章が発表され続けている。
そして、これは、インターネットにおける様々なフェミニズム活動についても近いことが言える。
最後にもう一度まとめる。
傷ついた当事者同士が慰め合うセラピーの看板としてのフェミニズムと、冷静さと客観性を保つ学問や研究としてのフェミニズムは、分割しておく必要がある。
現在の日本では、セラピーの場としてのフェミニズムと、学問としてのフェミニズムが、ごちゃごちゃ混ざっている。
心が乱れてフェミニズムセラピーを求める患者と、冷静であるべきフェミニズム研究者も、ある程度重なってしまっている。
この状況を解消しないと、世の中の幸せにはつながらないだろう。
大昔の本だけど、発作的座談会
これはある程度同意します。比較言語学で遡るのが可能なのはせいぜい数千年のスパンに過ぎず、それを過ぎると言語の変化が大きすぎて文献が残っていない限り系統の推定は困難になる。したがって日琉祖語がどこから来たのかという問題に完全な決着をつけるのは難しい。
だから、わからんならわからんでブラックボックスにしときゃいいんじゃねって思うんですよね。無理に「トランスユーラシア語族」とかでっち上げずとも、遺伝的な系統がわかればそれで十分じゃんって思うんですが。繰り返すように、血縁と言語の系統関係が一致するとは限らないわけで。そして後者は今のところ文系的な方法論でしか探索できない。
テュルク語族を見ればわかりますよね。トルコ人は中東っぽい彫りの深い顔立ちで、クルグズ人は日本人そっくりの平たい顔族ですけど、言語としてはトルコ語とアラビア語、クルグズ語と日本語より、トルコ語とクルグズ語の方が近い。それはゲノムではわからんから言語学の手法で解き明かすほかないわけですよ。
https://anond.hatelabo.jp/20211111231157 で紹介した文章ですが、以下のように国内の言語学者たちもゲノム研究を軸に研究を進めているのが現状だと思います。
うーん、「軸に」ではないと思いますよ。あくまで言語学というベースがあって、それでも説明できないところをゲノムでどう説明できるか、みたいなことを喋ってるんじゃないでしょうか。この座談会は全体として伝統的な言語学研究の話をメインに据えた上でちょこっとゲノムにも触れた、みたいな感じに読めました。
たとえばそこで言及されてる伊藤英人氏の研究は、元増田でも「蛇足だけど」の項で引用しましたけど、基本的にオーソドックスな文献学的研究ですし、木部暢子氏の研究も伝統的な方言研究ですよね(彼女が取りまとめた報告書はけっこうウェブに上がってます)。「国内の言語学者たちもゲノム研究を軸に研究を進めている」というのは言い過ぎでしょう。
ゲノムよりも重要なのは、個人的には、きちんと「日琉語族」内部の系統推定をすることですわ。きちんとした比較言語学の手法に基づく従来の方言分類の見直しが急務でしょう。琉球語群内部の系統についてはローレンス氏が沖縄語や与那国語、八重山語、喜界語といった諸言語の系統的位置についていくつも論文を書いていて(どれも日本語です。うち2本は元増田の参考文献に挙げました)、従来言われてきた系統樹を再確認したり修正したりしてますし、もっと大きいやつだと五十嵐氏による日琉語族の分類の見直しとか、そういった成果が出てきています。
これすごい重要で、琉球語が本土日本語の姉妹群なのか(五十嵐氏がいうように)九州語の内系統なのかで話が違ってきますからね。たとえば、Aという語が長崎と宮古島でみられ、東日本ではまったくみられず、大陸などからの借用語ではないとした場合、仮に琉球語が日本語の姉妹群なら「Aという語は日琉祖語に遡る祖型である」といえるんですが、琉球語が九州語の内系統なら「Aという語は九州語を特徴づける改新である」ということになるので、祖語の再構にものすごい影響するんですよ。だから本土の言葉と琉球の言葉を比較しようとしたらまず系統をきちんと推定した上ででなければ危ういと思うんですがそのへんの危機感があまり感じられないような……(まあ、これは門外漢による感想に過ぎませんが)
"Origins of the Japanese Language(2013)"
“From Koguryo to Tamna: Slowly riding to the South with speakers of Proto-Korean(2013)”
ヴォヴィン氏はアメリカ人ではなくロシア人ですが(それとももう帰化してるんでしたっけ?)、それはさておき、この2本は元増田でも(「蛇足だけど」の項で)言及してあるはずですが……? 既に言及済みの文献を改めてご提示いただくのは少々困惑します。
でもって、「高句麗から耽羅へ」ってそういう論文でしたっけ? 改めて読み返してみましたけど、日琉語が朝鮮半島の原住民の言語であり、朝鮮語は内陸アジアから南下して朝鮮半島に入り、日琉語を駆逐した、ということを主張している論文であって、日本語の原郷については触れてないように思うんですが……「日本語の諸起源」も遼河流域について触れてなくないです? むしろ、元増田で引用したようにアルタイ説を強烈にdisってるような。
っていうか、元増田への追記で書きましたけど、ヴォヴィン氏は最新の論文でオーストロアジア語族が起源である可能性を論じているわけで(以前からオーストロアジア語族への目配せはありましたよね)、遼河流域仮説を支持するなら一番持ち出しちゃいけない人物だと思うんですが……
他の論文や本はまだ読めてないんでノーコメントということで。色々教えてくださってありがとうございます。
niwaradi 門外から議論を眺めたが対象のスケールが違うのでは。素粒子実験物理の人が、基礎理論物理の人に観測もされてない粒子いっぱい持ち出して胡散臭いと言う話のように思えた。実験第一だが限界もある。
理論上の粒子はヒッグス粒子のようにいずれ実験によって観測できる可能性はありますが、「血統」をどれだけ使っても「言語系統」を観測することはできません。なぜなら「血統」と「言語系統」とは別だからです。……これってそんなに難しい話です?
アメリカに移住して百年過ぎた英語ネイティヴの日系人は血統的には日本人ですが言語系統としてはゲルマン系ですよね? ここで日系人の血統をいくら研究してもゲルマン語の原郷にはたどり着かないことは明らかですよね? つまり、「血統がわかれば言語系統もわかったことになる」というのは端的に論理が間違っているんですよ。
発言者:遠藤光暁、青山学院大学教授、中国語音韻史・方言学、アジア地理言語学
児倉徳和、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所准教授、ツングース満洲語学
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福井:ただ日本語と唯一関係があるかもしれないと思っているのは、河野六郎先生や李基文先生など多くの方が扱ってきたいわゆる高句麗語あるいは濊語、つまり旧高句麗地名から推定される言語で、それが日本語に近いというのはほぼ間違いない。最近は伊藤英人先生も注目すべき発表をなさっています。
遠藤:ええ、だからこのヤポネシアゲノムプロジェクトでも日本以外の言語学的証拠で一番確かな根拠は、いわゆる「高句麗」地名だと狙いを定めて、初年度から重点的にやっています。実際にはたぶんそれが全体として「高句麗語」を反映するというよりも、倭人が半島部で先住民として当時になるとモザイク化して居住していて、倭系の地名を残したとか、そんなイメージではないかと思うんですけど。
福井:そうですね。それを河野六郎先生がはじめて歴史的な資料の中に出てくる濊人の言語ではないかということを言い始めた。その一番きっかけとなった大きな証拠は、もともと朝鮮で日本人のことをなんと呼ぶかというと、jej(예)ですね。これが「濊」の字音(jej)とまったく一致します。その一方で、日本人の呼称は普通は倭人の字音「倭(waj)」となるはずなんですが、中期朝鮮語の資料の中ではそれではなくて、jej(예)と呼ばれている。そこから発想されたのかなと思うんです。
遠藤:それが現在の中国の東北部、古い時代の「夫余」の地域あたりまでJaponicで解ける地名があると以前から言われています。
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風間:2つほどあります。別に私が言い出した事ではなくて、以前Vovinさんらが日文研から刊行した日本語の系統についての本にも書かれていますが、日本語は昔はもっと孤立語的なタイプだったとする説です。先ほど遠藤先生は中国語などと比べると日本語は全然違ったタイプの言語であるとおっしゃっていましたが、日本語は昔はもっと孤立語的なタイプだったとする説を考えていく必要はあると思っています。昨日も木部先生がおっしゃっていましたように、古代日本語の語はほとんど一音節です。一方、母音の数は現在よりおそらくもうちょっと多かった。助詞自体にも個別の声調があって、現代のテ形のテの部分などにも独自の声調があった。つまり膠着的ではなく、文法要素も独立した語の性格を持っていて、孤立語的だったということです。助詞や助動詞には自立語起源で説明されるものがかなりたくさんあり、声調があって単音節、という事になると、まるで孤立語的であるということになります。
風間:はい、今まさしくその歴史時代の日本語の事を考えなくてはいけないんだと思います。それを考えるとやっぱり孤立語だったという可能性についてよく検討していくべきではないかと思います。
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遠藤:文献言語史的な証拠から言うと日本語はせいぜい1500年前ぐらいしか遡れないですね。あるは『魏志倭人伝』とかの頃ですよね。高句麗とかいろんな北方民族の記録については中国側の正史などの東夷伝とかもありますが。考古学の方からするともっと古い情報がわかって、宮本一夫先生の説によると、まず日本語を話す人たちが朝鮮半島に入ってきて、そのあと朝鮮語を話す人たちが現在でいう中国東北部から朝鮮半島に入ってきた、といったことが先史時代に起こっている可能性があるので、そうすると日本語や朝鮮語やツングース語を話す人たちっていうのは中国の東北部で先史時代に非常に密接な接触をしている可能性があることになりますね。われわれは普段そういうことを考えないんですけど、そういうのはどうでしょう。かのアルタイタイプ諸語のTurkic、Mongolic、Tungusic なども地理的な分布範囲が歴史時代・先史時代ともかなり移動しているんじゃないでしょうか。
福井:考古学との関わりという意味ではやはり今後参考にすべきところはいろいろあると思います。昨日の私の話だと主に韓国語から日本語への借用ということを中心にお話ししましたけど、まあその逆の場合もありうるわけで。日本と朝鮮半島の間で考古学的な遺物が共通している場合があります。これは歴史学の人から聞いた話ですけれども、例えば日本式の甲冑が韓国のある一部の地域でかなりたくさん出てくるとか、その時期そのあたりで接触があったということは明らかであるし、前方後円墳が朝鮮半島でも見つかっていて、それは歴史をやっている人たちからするとむしろ日本から渡ったものではないかという説もあります。
遠藤:古墳時代ぐらいになるとそういう方向もあるみたいですね。遺伝学的な根拠からしても半島南部のところで縄文のDNAが見つかったとかいうこともあります。しかし、文献言語史で考えるくらいのタイムスパンだと日本列島には既に日本語が入っていて朝鮮半島は朝鮮語が優勢であってツングース語はシべリアから中国東北部にいた、といった現代の状況を投影して考えがちですが、もっと全然違った居住地域で一緒に雑居していて遥かにドラスティックな言語接触を考えてもいいんじゃないかってこのプロジェクトに入ってから思うようになりました。言語学的にそれを証明することは非常に難しいと思うんですが。語族単位でやっていると非常に細かい違いが目に入ってくるかもしれませんが、もっと大きいアジア全域といったマクロな範囲で見るとやっぱりアルタイタイプ諸語の共通性が際立って見えるんですね。
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風間:もう1つ目についてお話しするには今日はもう残念ながら時間が残っていないと思います。先の話の続きですが、やや推論の上での推論ということになりますが、孤立語だった日本列島の言語を話していた人々を大陸から来た別の集団が征服して、それが上層言語となり、下層言語は孤立語なものだったけれども、最終的に日本語がSOVで膠着的なアルタイ型の言語の文法のタイプに再編成されたという可能性はあり得ると思います。
遠藤:縄文語(諸語?)が孤立語タイプで基礎語彙がそこから継承されて、弥生時代に大陸から入ってきた膠着語タイプの言語によって文法が組み替えられたというわけですか。私などは『三国史記』で半島・大陸部にJaponic地名が存在するということからして、むしろ日本語が半島とか大陸にあった時代に非常に密接に接触するチャンスがあったのでは、という仮説に傾いているのですが。
風間:大陸で接触してから列島に入ってきたということでもいいとは思いますが、その支配者層はそれほど多くの人数でなかったとしてもかまわないと思います。
遠藤:漢語について言うと、遣隋使や遣唐使が行って、ごく少数のエリートが本をもってきて、仏典も含めてずっと勉強していく過程で日本列島を舞台として日本語の中の漢語の中の比率が増えていくわけですよね。そういう事は文化語彙については英語などでもギリシャ語・ラテン語・フランス語が大量に入るといったことは起こりますが、言語の中核的な部分で民衆の言語まで浸透するためには、そういう文化的な学習だけじゃなくて日常的なレベルで普通の庶民がバイリンガリズムとかの状態になっていないと、そういう風な組み換えは起こりにくいんじゃないでしょうか。あるいは完全に支配者の言語に取って代わられる例っていうのは中南米のスペイン語とか枚挙にいとまないですけど。
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風間:ゲノムをはじめとする他の学問分野での推定とどのような関係にあるのかはわかりませんが、言語学的シナリオとして唯一あり得ると考えられるのは、日本語が孤立語のタイプから現在の膠着語的なタイプへと、何らかの理由で変化してきたという可能性ではないかと思います。それを示唆するような痕跡的特徴は日本語にある程度存在するのではないかと思います。その中でも一番問題になるのはアクセントもしくは声調と呼ばれる現象、さらにはその両方が日本語にあるということだと思います。ただ、アルタイ諸言語がどの言語も弁別的なアクセントを持たない、ということもあり、私は日本祖語は無アクセントの言語だったのではないかという仮説に深く関心をもっています。山口幸洋さんをはじめとする何人かの研究者が提案されている仮説です。
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木部:これから先は想像の世界ですけども、古くは日本列島各地に今の大和ことばではない言語、何語であるか分からないような言語が日本列島にいっぱいあって。
木部:縄文時代、縄文語かもしれない。それが無アクセントであったという事はあり得るとは思います。そのあと、大和と琉球の共通祖語、日琉祖語が上にかぶさって、元の言語は日琉祖語に取り替えられたけれども、アクセントにはサブストレータム(基層語)としてもとの無アクセントの特徴が残った地域があって、現在、各地に点々と残っているということはあるかもしれません。元々、声調の区別をもっていなかった言語が新しい言語を受け入れたときに、アクセントの区別をしなかったという事はあると思います。無アクセントの言語がアクセントのある言語から借用語を取り入れるときに無アクセントで取り入れるという事はよく起きています。
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遠藤:それで、九州の無アクセント地域と二型アクセントの境界線のあたりにABOの血液型の境界線がひかれるんですね。A型は瀬戸内海から関西にかけて特に多くなって、その周りに別のタイプがあって、その境界線がちょうど無型アクセントになるあたりなんですね。それから他にも斎藤先生のおっしゃる三段階説または内なる二重構造、イエナのマックス・プランク研究所の人は新幹線モデルといっていましたが、関西から山陽新幹線がはしっている辺りから九州にかけて、身長が高くて、首と胴体の比率が7頭身に割合近いといった形態的な違いもあるそうですね。それで、服部四郎が『アクセントと方言』の中で、北九州の辺りから関西にかけて移住が起こったかもしれないと書いていますね。もしかしたら朝鮮半島からも繋がっているかもしれず、弥生人が北九州にもたらした日本語はアクセントをもっていたが、周辺部ではアクセントがなかったとかいったことがもし想定できるとしたら風間先生とか狩俣先生とか、もっと早くは山口幸洋が言っているようなこともあるかもしれませんね。つまり、一言語内部の比較言語学的な考察からすると対立が少ないところは分化条件が与えられない限り必ずや合流を経たとせざるを得ないので、ウルトラCのような離れ技として民族的ないし言語的なsubstratumを想定に入れないとダメになりますね。ヤポネシアゲノムが始まる2年前までは我ながらこんなことを言い出すなどとは思いもよりませんでしたね。もう40年ほど前から日本語の系統論っていうのは、本当に危ない分野なので手出しせずに実証的な研究に没頭すべきだと考えてきた世代なので。
https://www.news-postseven.com/archives/20211005_1696272.html/2
三浦:小室さんは、お母さんから「あなたは大した人物になるのよ」と言われ続けて、素直に信じて育った。それって、ゆとり世代が受けた教育そのままです。
実際にいまの30歳前後の人たちは私たちと全然感覚が違って、のほほんと余裕がたっぷりだし、いきなり仕事を辞めたりしますから。
山口:確かにあの自己肯定感は母親の影響でしょうね。「あなたは特別、あなたは特別」とシャワーのように浴びせられ続けてきたんだと思う。私はコンプレックスの塊なので羨ましくて仕方ない。
倉田:『だめんず・うぉ~か~』を描いた時に学んだけど、「俺はすごい」と本気で思っている男は、結構周りを巻き込むんです。自分を疑わない男の傍にいると、「実はこの人、ほんとにすごいのかも」って思えてくるの。そんなに多くには伝播しないけど、近くにいる人にはそう伝わってしまう。
三浦:40代になるとその人の本当の力が見えてくるけど、小室さんの年齢だったら、まだまだへこんでいなくて当然なのですから。
倉田:だから私は二人の結婚には大賛成だけど、小室さんには「ああこの人、いいじゃん」というところをまだ見せていただいていない(苦笑)。そこは「頼むよ、小室さん!」という気持ち。
え、米国の司法試験を受けて、現地の法律事務所に職を得た小室さんに対して
小室さんには「ああこの人、いいじゃん」というところをまだ見せていただいていない
ってなにこれ。
倉田真由子さんって人は、30代の時にどんだけすごいことを成し遂げた人なの!!??
「実際にいまの30歳前後の人たちは私たちと全然感覚が違って、のほほんと余裕がたっぷりだし、いきなり仕事を辞めたりしますから」
ってなんやねん。
三浦さん、あなた42歳だよね。就職氷河期まっしぐらの時期を体験してるのに、会社側には一切問題なくて、やめる若者が軟弱って考え方か。
1.創価学会系とは
創価学会は日蓮正宗という仏教の宗派の教えを受けた団体だった。
しかし後に関係性にひびが入り最終的に袂を分かつことになった。
なお創価学会・顕正会共に日蓮正宗から破門されたという事になっている。
それは日蓮正宗の教えを正しく守らなかったからと言われている。
創価学会名誉会長の池田大作氏と日蓮正宗総本山大石寺の日顕氏が対立したことが原因とも
言われている。
日蓮正宗自体は、日蓮の弟子の日興という人が日蓮の教えを受け継いで開祖した。
この日蓮の弟子たちは日蓮六老僧と言われたが、日興以外の5人は日蓮の教えを
正しく守らなかった、日蓮の教えを捻じ曲げたとして
これが数百年前の事件。
創価学会及び日蓮正宗では、日興以外の老僧たちは教えを守らなかったとして謗法である
としている。
そのため日蓮六老僧ではなく日興を除外した上で日蓮の文字を頭から外し五老僧と読んでいる。
3.日蓮宗
どんな教えを守らなかったと言うと例えば日蓮は神仏習合は間違いだとして
「鳥居をくぐらない」というようなことをしていた。
しかし日蓮宗はそれでは柔軟に対応が出来ないとか時代の流れと反目するとしてそのような
教えは撤廃した。
また、日蓮の思想自体を危惧した一部の権力者から弾圧されたときに自分たちは日蓮の弟子
ではなく天台宗などと嘘をついたことなどで日興から批判を浴びたとされている。
なおこれを五老僧たちは、弟子たちを守るために行ったとされるが真偽は定かではない。
元は天台宗で勉強をしていたが、後に釈迦の最高の教えは法華経、すなわち妙法蓮華経という経典
が最も素晴らしくこれこそが全ての仏教の原典(原点)のだとして天台宗から離れて行った。
創価学会系の人が言う「南無妙法蓮華経」とは「妙法蓮華経」の教えに「帰依」しますという意味になる。
そして妙法蓮華経という釈迦の最高の教えがあるのだから今こそ仏教は原点に戻るべきという
これが元になって佐渡に流罪されるなどのいわゆる法難というものにあっている。
が、法難にはあったものの生き長らえたことで法華経の教えこそが正しいものであると一層主張するようになった。
5.妙法蓮華経って何なの
仏教の開祖である釈迦の教えをその弟子たちが編纂した経典。つまり最も古い歴史を持った仏教経典。
釈迦の教えとは釈迦が悟りを開いたことで幸福の境涯に達したことを他者にも分け与えることを目的としている。
これらの釈迦の教えは時代とともに変化していったことで、今日の仏教は様々な宗派が分かれている。
なお創価学会では法華経二十八本のうち、方便品第二(ほうべんぼんだいに)と如来寿量品第十六(にょらいじゅりょうぼんだいじゅうろく)
を特に素晴らしい物であるとして、朝と夕に題目と合わせて唱えている。
6.釈迦って何なの
インドにあったとされる釈迦族の王子。本名はゴータマ・シッダールタ。
出家して数々の過酷な修行をした後に最終的に菩提樹の下で瞑想をして悟りを開いた。
この悟りとはあらゆる苦しみを克服し、あらゆる煩悩を消し去った最高の境地とされている。
しかしこの悟りについて他人に教えることはかなり難解であることから当初は躊躇したが
最終的には自分の教えで悟りを開く手助けになるのならと教えを広めた。
創価学会側の主張は日顕氏が池田大作氏に嫉妬して破門したから。
なお、一番対立があったのは、かつて大石寺という寺にあった、総本堂という物を
この建物は創価学会の信者からのお布施数百億円かけて作った物だったが
それを数十億円かけて解体したという日顕氏は謎の行動を起こした。
維持費がとんでもないものだったので解体したとも言われているが真偽は定かではない。
創価学会は広宣流布という日蓮の教えを広めるためには政治への参加が不可欠として立ち上げた政党。
しかし政教分離という観点から創価学会そのものがあってはならないという事を指摘されたために
現在は創価学会が支持母体となって公明党があると言った状態になっている。
日蓮の教えを守り、世界中に広宣流布して世界平和を目指している。
創価学会のSGIというのは創価学会インターナショナルであり、国際的組織となっている。
数々の国に支援を行っており、それはグラフSGIという書籍から知る事ができる。
関連した物に大白蓮華という書籍やら人間革命といった書籍も販売している。
また、聖教新聞社は創価学会の教えを広める会社であるし。公明新聞というのは公明党の新聞である。
一部の過激な信者がやらかしているというのは真実であり創価学会側も認識している。
しかし、創価学会は3代目までの会長、つまり初代牧口常三郎、二代目戸田城聖、三代目池田大作
までを特に崇めているような部分があるためこれはやはりよくない傾向である。
かつて池田大作氏は折伏大行進なることを行い、行列となって沢山の家に大して創価学会に入るように
説得をしまくったということがあった。これが大きな反響というか問題を大きく引き起こしたのも事実である。
だがこのような行為をしたことで信者が増大したというのもある。
11.お前はなんでそんなこと知ってるの?
教学試験とかいう創価学会の試験があってその試験を受けさせられて合格した。
更に牙城会だとかいう創価学会の警備員的な組織に親父に強制的に入れと言われた。
御書(日蓮が残した書物)を拝読させられ、題目を毎日あげさせられて、
神社には成人するまでは言った事が無く、お祭りの行事なども行けず散々苦しんだ。
当然クリスマスは無し。少年部とか男子部とかのイベントにも強制参加だった。
別に何もしてくれない。
金は貰えない。でも本部組織と言う人たちは本部勤めってことで給料を貰っている。
本部に入ればお金が貰えるなら俺も本部勤めになりたいと思うくらいには本部の仕事って
あまり大変そうには思えなかった。
もし俺が本部勤めとかいうので毎月50万円くらい貰えてたら今も信者をやっていただろう。
13.最後に
・お前がきちんと御書や人間革命を読まないから成長しないんだ!
こういう過激な信者がいるというのは本当の事であって、俺はだから創価学会は嫌いだ。
「ほしのゆうえんち」とかいう池田大作氏の絵本が原作のアニメを見せられたり
そもそも池田大作氏の絵本だとかなんだとかそんなものを読ませられたりしてきた。
ふしぎなパコちゃんとかハッスルパンチとかいう漫画も読ませられた。
さらに竜女の成仏・貧女の一灯という仏教系の漫画も読ませられた。
相当人生でストレスを溜め込んだが、親から開放されて面倒な勤行だとかしきたりとか
ちなみに、第二志望は国公立の大学職員×2、第三志望は私立の大学職員だった。
私は地元の名門といわれる公立高校出身だが、高校の教員の大多数に嫌われたことが運の尽きで、学内の成績上位にも関わらず指定校推薦をもらえず、Fラン大学へと転がり込んだ。そのため、学歴コンプレックスは人一倍強いし、学歴フィルターが根強く残っていることも強く意識していたため、公務員試験に専念することにした。ちなみに、独学であった。
私は部屋の一番後ろの席に座っていて、前の人から適性検査の用紙が回ってきた。そして、私の分を含めて、3枚渡されたことに気がついた。すなわち、2枚多いのである。私は、「2枚余っています」と言って手を挙げ、試験官(自治体職員)に知らせた。すると、試験官は走ってきて、「どうして2枚持っているの!!!」と、私を怒鳴りつけ、二枚余った試験用紙を乱暴に抜き取った。私の席の周辺の人は、「?」という顔で私を見るし、私も「すみません・・・」と言うしかなかった。いかにも私が何か悪いことをしたかのような口調で言われてしまって、ただただ萎縮した。
ちなみに、他の学生のところでも紙が余ったことがあったが、怒鳴りつけられている様子はなかった。なぜ、私だけ・・・と思った。
「集団で行動した経験はありますか。エピソードを教えてください。」と言われた。
「はい。小中高、大学と色々と経験があるのですが、とりわけ印象的だったのは、中学での・・・・・・という経験です。」
「大学では無いのですか。」
「・・・無いです。でも、ゼミで数人で活動した経験ならお話しできます。」
「結構です。」
そう言って、試験官は私の面接評価シートに、私から見ても分かるくらいめちゃくちゃ大きく横線を引いた(評価「/」ということなのだろう)。
バッサリ切られてしまった。実は、私は、高校時代になかなか酷いレベルの嫌がらせを受けていたために人と関わるのが怖くなってしまい、大学時代にはサークルにも入らず、友達も作れずに、ずっと孤独でいた。そのため、「大学時代の集団行動経験」という質問への対策を入念に練った(就職支援課の方にもアドバイスを受けていた)。その結果としての、「たくさんあるけど~とりわけ~論法」であった。しかし、そんな論法は通用しなかった。とにかく焦った。焦りながらも、嘘をついたらその後を取り繕うのは無理だと思い、結局「無いです」と言ってしまった。「結構です」と言われたときには、体の芯から体温が奪われていくような感じがした。
話すら聴いてくれないし、なにより、大学での集団行動経験が無いがゆえに「評価マイナス」とは、なかなかの人格否定だなあと思った。
その女性の試験官に、「○○さんは、“大学では1人を好んで、というか、少人数で固まって”、コツコツ勉強するタイプなんですね」と言われたときには、私が言ってもない言葉を付け加えて、私の発言を悪いように変換してまとめたようだった。
私はただ、なんだかなぁと思うだけだったが、このことを親(公務員のきょうだいをもつため、公務員の実情を比較的よく知っている)に話したら、それは圧迫面接だし、公務員試験の面接なのに、民間の面接並に面接官が、面接官の主観で、学生が言ってもない言葉を付け加えてまで勝手に学生を悪く評価しているのか、と言った。
2回目の面接で、男性の面接官との冒頭のやりとりで怖くなった。
「このような面接は初めてですか。」
「はい。」
「先ほど1回目の面接がありましたので、これは2回目の面接になると思いますが、まだ緊張していますか。」
「あのね、緊張してるって言われるとこっちもやりにくいんだよね。」
「申し訳ございません、精一杯頑張りますので、どうかよろしくお願いします。」
就職試験の面接で、「緊張している」と言うと、相手から嫌みを言われるなんて想像もしていなかった。「緊張している」はNGワードなんだ、と不思議に思った。
そして、ガクチカ(学業)に関して、周りに指導者がいなかったこと、モチベーションを上げてくれる存在が居なかったから、自分で自分を鼓舞しながら頑張ったことを話した。
「つまり、もう一人の自分が自分を応援していたというか(失笑)、自分で自分をコーチングしていたということなんですね。」
と言われた。それはそうなんだけど、なんか二重人格者みたいな言われようだなぁ・・・とか、ここ笑うところなのか?とか色々思いながら、「仰るとおりです」と言った。
誘導尋問もなかなか多かった。
他者と接するときに気をつけていることを聞かれ、「相手の価値観を否定しない」とか、そんな感じで答えたら、
「では、○○さんがそう思うようになったきっかけというのは、あなたがそのようなことをされたことがあるからなんですか。」
と聞かれた。よく経験談とかエピソードとかを交えて答えるべきであると言われる。確かに、この場面でもエピソードを語る必要があるのだろう・・・たとえそれが"人に嫌なことをされた経験"であろうとも。
実際、先述の通り、高校では教員からも生徒からも完全なる人格否定を受けていて、普段から「キチガイ」「馬鹿」「アホ」呼ばわりされていたものだから、そのような意識(相手を否定しない)を持つようになった。結局、オブラートに包みながら、それとなく、そういうことがあったと述べた。
すると、その後の、"他者との関わり系質問"においては、「あなたがそういうことをされたから、逆にそうしないようにしようとしたということなんですよね?」と、まるで私がかつていじめに遭っていたことを見透かしていて、それを引き出そうとするかのような質問が続いた。さすがに面接官もやばいと思ったみたいで、
さらに別の男性の面接官から、「過去の辛い経験を深掘りして聞いてしまい、ごめんなさい。」と"謝られた"。"いじめられ経験を聞いている"という意識を持ったうえで、このような質問をしていたのだと悟った。確信犯だったのか。
細かく書くと長くなるので、トラウマになったポイントを簡単に挙げていく。
・ガクチカが学業で、特待生をとったという話を面接カードに書いたところ、「どれくらいの額をもらったんですか。学費の半分とか、全額とかありますよね。」と、野暮な質問をしてきた。
・マスクを外した上で本人確認をするのだが、顔写真と私の顔を"人差し指一本で指しながら"、目やら鼻やらを確認していたこと。
・面接で大学名を言ってはいけないと言われているところ、面接官は弊学に関して調べて知っているようだった(試験申込時には、大学名を入力している)。
・学業をガクチカにしたせいで、"優秀な学生であること"を鼻に掛けていると面接官に思われたようだった(女性の面接官「勉強がお得意なんですね~~」男性の面接官「特待生になることを狙ってたんでしょう?」と言われて、嫌みったらしいなと思ってしまった・・・)。
どこもESで落ちてしまい、第一志望の自治体での面接が人生初・本番面接だったからこそ、私は面接というものを甘く見ていたのだろう。自分が嫌だと思うことを聞かれたり、いわゆる「圧迫面接」が"常に"行われていたりするなんて、想像もしていなかった自分が馬鹿だった。それとも、自分が敏感すぎるのだろうか。これが「公務員試験の面接」なのかと、酷く落ち込んだ。
最初から話を聞いてくれなかったのは、論文で足きりされていたからなのだろうか。それとも、精神疾患か否かを検査する心理検査(試験官は、"あくまで参考にするだけです"と言いつつ、"嘘をつくと、皆さんに不利になります!"と脅してきた)で悪い結果が出て、不利に働いたからなのか。クレペリン検査で、少しがたつくくらいの、ほぼ直線を描いたからなのか。
身なりやマナーは、きちんと事前に学習したし、きちんと守った。これだけは、胸をはって言いたい。
このほかに、面接会場で、高校のときに私のことをいじめた首謀者グループの2人や、「キチガイ」呼ばわりしてくれた嫌なやつ1人(いずれも指定校推薦で名門大学入学)を見かけたことで、過去のトラウマがよみがえって、ますます嫌な気持ちになり、受験した「公務員試験」自体がトラウマとなった、ということも付け加えておきたい。ちなみに、いじめ首謀者グループのやつの目の前で、面接官にフルネームで名前を呼ばれたときには、四年間身を隠して生きてきた努力が水の泡になったと思い、辛くなった。どうか私の事なんて忘れていて欲しい。まぁ私のことをなめ回すように見てきたから、間違いなく覚えていたと覚えていたと思われる(他の受験生はジロジロ見てこないから)。
これから民間企業を探して就活しようかな、と思うけれど、日本で最も公平・公正に行われる、学歴フィルターもない公務員試験にすら落ちてしまうのだから、見込みなんてないだろうと思う。ESを出せば非通知のイタ電が増えて、それも嫌だから、躊躇する(実際に、選考期間だけ極端に非通知が多い)。内部進学での院進も躊躇する。どの先生も私のことを否定ばかりしてくる。
どこにいっても、私のことを少しでも肯定しようとしてくれる人は居ない。私に関して何も知らない人にも叩かれる。
そういえば、受験した自治体が、試験前に○庁イベントとして「座談会」を開いたので、それに参加した。
私は何もしていないのに、人事課のある方は、私のお礼の言葉を無視したり、私の質問を否定的に受け答えしたりした。ちなみに、私の質問はおかしなものではなかったと、大学の就職支援課の方は言っていた。後から同じ趣旨の質問をした、別の人には、丁寧にニコニコと受け答えをしていた。
この「座談会」のときから、第一志望の自治体の人から、嫌な思いをさせられていたくらいなのだから、よっぽどその自治体に縁が無いのだろう。
というか、その自治体の人になにか恨まれてるのかというくらい、トコトンヤられたな。
どうせ落ちるくらいなら、そしてトラウマになるくらいだったら、受けなきゃ良かった。
論文か適性検査(1日目)で足きりになっているのだったら、2日目の面接をする前から「落とす」と決まっているわけだから、2日目には呼ばないで欲しかった。
換気のない、カーテンの閉まった待合室に20人近く詰め込まれて、色んな人が少し長めにマスクを外したり(お茶を飲んですぐマスクをつけるのではない。マスクを外して、お茶を飲んで、お茶を鞄にしまって、一息ついて、しばらく外して休んで、ようやくマスクを着けて、という感じである。)鼻をすすったりする人がたくさんいるなかで、30分以上待たされて、コロナ感染が怖かった。
緊急事態宣言がでている中で、就活だから、と言って外出する罪悪感があった。
交通費、スーツのクリーニング代、その他もろもろの費用が、もったいなかった。
どうせなら、論文と適性検査を、筆記試験のときにまとめてやってくれた方が経済的だ。
被害者面をしたいわけじゃないが、さすがに今回の第一志望の自治体の公務員試験は、トラウマになった。この経験を通じて得たものといえば、絶望感、疲労感、過去の負の記憶の再燃による心的外傷くらいか。
ネットで拡散している「ぐるぐる巻きにしてうんこ食わせた」という部分は
クイックジャパン記事で書かれている村田くん(仮名)との修学旅行についてのことなんだろうな(増田では7と8のページ)
『Quick Japan』95年3号 「いじめ紀行 第1回ゲスト 小山田圭吾の巻」 8
https://anond.hatelabo.jp/20210721001207
クイックジャパンでどう書かれているかというと、修学旅行でなぜか小山田、村田くん(障害児)、留年した怖い先輩の3人で班を組まされ、宿舎で村田くん相手にプロレスごっこをして(小山田の立場で)じゃれていると、先輩が入ってきて村田くんをぐるぐる巻きにして好きな女子の名前を言わせながらオナニーさせたからドン引きしてしまった(笑)とある。小山田本人の行為ではない。ウンコ食わせたという事実があるのなら、それをやったのも先輩なんだろう。
障害児童との修学旅行といえば↓の話が思い出されるが、はてな民はこれと自分の感想比較してくれ。教室から障害児童を排除すべきか、排除するなら子供はどこで障害者と接して多様性を持つことができるようになるのか。生活の場で接しなければ障害者はテレビの画面越しで見る架空の生き物と同じだしね。
[B! 教育] 泡盛とらこ(心ない介護職員) on Twitter: "中学生の子ども(女子)が、 修学旅行をキャンセルしました。 実行委員長兼班長でしたので、 田舎の中学では前代未聞の事態。 私も何度も担任と話し合いました。 キャンセルの理由は、 「まったく交流のない障害学級の男子(保護者意向で診断… https://t.co/QegfQmAhbh"
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/torakoawamori/status/1411113159046270980
(村田くんをロッカーに閉じ込めてガンガン蹴ったり、日常のイジメ行為もクイックジャパンで告白されている)
小山田はもう1人の障害児の沢田くん(仮名)については良い思い出のように語っており会いたいとも答えているが、村田くんとはそうではないと言っている。
もう1人、朝鮮人の生徒をからかっていたとネットで拡散あるが、クイックジャパン記事では「家出したならうちに泊まりに来い」と小山田が誘って実際に泊めてあげており、いい思い出としか書かれていない。
小山田圭吾のいじめ座談会の件、1995年のサブカル誌の座談会の内容を令和3年のインターネット越しに読んだ感想。
バブル期に、不良文化とかヤンキー文化とかのアンチテーゼ的に急成長したサブカル文化の極端に歪んだ悪意の塊が、急にフラッシュバックしてきて、最悪で懐かしい気持ちになった。
この時期のサブカルってアングラとの境界線が曖昧で、みうらじゅんとか、いとうせいこうとか、唐沢なをきとかが、蒸留して上澄みだけをライトでポップな文化に昇華させた一方で、そのヘドロのような残渣はサブカル雑誌の形で強烈な異臭を放ってた。
今でも、裏モノJAPANとか実話ナックルズみたいにコンビニ本棚の片隅で確かな存在感を放ってるサブカル誌はあるんだけど、このころのサブカルって今みたいに「明解にワル」的な感じじゃなくて、もっともっとライトな部分がアングラと地続きの感じというか、普通に生活している人でも半歩踏み外したら即闇みたいな、そういう危険なワクワク感があった。
何も悪びれる事もなく当たり前のようにライト犯罪告発してる小山田の雑誌座談会なんて、ほんと最悪だ。が、
令和の極端に浄化された空気の中で、自分の息子と公園で遊ぶような事をしている今でも、たまーにブックオフの雑誌コーナーの片隅で色褪せている20世紀末のサブカル誌を手に取って、吐き気をもよおすほどの邪悪を嗅ぎたくなる瞬間があって。
そんなことを久々に思い出した。
某アーティストのインタビューだか座談会記事が25,6年経って騒動になっているが、結局はネット時代、文春砲以前の時代のノリとテンション感なんだろうと。
2010年代以前に全国発売の自動車雑誌だか黎明期のブログでトヨタスターレットの2代目か3代目でパトカー相手に煽り運転でパトカーを畑に転落させたとか、三菱ランタボでパトカーに追跡されてメーター振り切って逃げてもお咎め無しで終わったとか「昔話」として平気で書いてる人間を見てきましたから。
車バイク系以外でもどう考えても性犯罪レベルの話や器物損壊罪を自慢する人間が「若気の至り」とか「気の迷い」とか「よくあること」で終わらせていた時代だったとしか。要するに「仲間内」のノリとテンション感をメディアや黎明期のネットに流しても笑い話になってしまっていた時代。
オモコロやデイリーポータルZのような面白系Webメディアが好きだ。
その中でも顔出しライターがわちゃわちゃしている記事が好きだ。エロ本隠し選手権とか、そういうやつ。
ただ、出演ライターが童貞大学生オーラを纏っていたり、無職こどおじ感に溢れていると見ていて辛くなってくる。
決してルッキズム的な主張ではない。
記事に載せる写真なのにボサボサの髪に表情筋が死んだ真顔で自撮りをしているのが問題だ。せめて笑ってくれよ。おふざけ真剣記事なら真剣っぽい顔しろよ。なんで真顔なんだよ〜。
あと、ビミョ〜〜なZoomの写真をそのまま使うやつ。記事内で使うならまだ分かるがサムネにしないで欲しい。サムネ用を1枚撮るとかさぁ。できるじゃん?
これはデイリーポータルZに多い。座談会系の記事。大体ユーザーには伝わらない内輪ネタだし止めて欲しい。
(関係ないけどオモコロのセリフの横に顔出すやつ読みやすいよね。デイリーポータルZにもやって欲しいわ)
映りに自信ないライターはイラストで補完すればいい。天野〇マゾネスの引きこもりニートの弟を観察した記事とか最高に良かった。あれ実写だったら読めないと思う。
だけど、映りが悪いライターは何故かイラストもふにゃふにゃしてて見づらいんだよな〜。ふにゃふにゃしたのがアイデンティティだと思ってるのかな?
おまいらが「これはすごい」のタグをつけてブクマした記事を教えてちょーだい。
ちなみにわしがここ最近「これはすごい」つけた記事。どれもめっちゃ濃くて面白い記事です
〇小林まこと×増田俊也【対談】我が柔道部物語!! : 増田俊也公式ブログ|
http://blog.livedoor.jp/masuda_toshinari/archives/52112360.html
『柔道部物語』の作者小林まこと先生と、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』『七帝柔道記』の著者・増田俊也が柔道の魅力について、存分に語り合った2万字対談。「ゴング格闘技」掲載記事。
〇佐藤康光九段、藤井猛九段、菅井竜也王位座談会「創造の原動力」
https://book.mynavi.jp/shogi/detail/id=77983
将棋プロ棋士、升田幸三賞受賞者であり序盤のパイオニアとして知られる3人が「新手」について存分に語る。「将棋世界」掲載記事。将棋のことが少しはわからないと、内容はわからないかも。
〇小人プロレスと都市伝説 - 男の魂に火をつけろ! ~はてブロ地獄変~
https://washburn1975.hatenablog.com/entry/2021/03/25/150654
小人プロレスの歴史のまとめ。けっこうブクマついてるので、読んだ人は多いかも
〇いま囲碁界で起きている“人間とAI”の関係──「中国企業2強時代」「AIに2000連敗して人類最強へと成長」将棋界とは異なるAIとの向き合いかた
https://bunshun.jp/articles/-/43711
『りゅうおうのおしごと』の白鳥士郎が囲碁棋士と、囲碁のAIソフトについて対談。囲碁は詳しくないのだけど、面白かった。
〇“真空飛び膝蹴り”沢村忠はリアルに弱かったのか? 全241戦「フェイク試合だった」疑惑を検証する - 空手 - Number Web - ナンバー
https://number.bunshun.jp/articles/-/846495
『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』の著者が、キックボクサー沢村忠(ポケモン・サワムラーの名前の元ネタ)の裏側を探る。
〇『御意見無用』復刊記念・ありま猛氏インタビュー あだち兄弟にギャンブル漬けにされたお陰で『連ちゃんパパ』は生まれた? | - マンバ