はてなキーワード: アインシュタインとは
止められない。
アンヘルシーな食べ物はやめようと思ってるいるのにやめられない。
やめたいけどやめられないなんてブラック企業みたい。
そういえば関係ないけれど、アインシュタインの相対性理論によると重力が強い場所では時の進み方が遅くなるという現象が起こるらしい。
これは地上と人工衛星の時計に僅かながらズレが発生するのが観測されていることなどで証明されている。
その理論から考えると非常に重力が強いブラックホール周辺では、ほぼ時間は止まることになるらしい。
……。
なんでこんなことを思い出したんだろう。
まあそのおかげ(ブラックホールの話を思い出しながら文字入力したこと)で、のり塩を食べる手が止まって中毒から抜け出せた。
「エントロピー」という概念がよくわかりません。 - Mond
https://mond.how/ja/topics/25cvmio3xol00zd/t242v2yde410hdy
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mond.how/ja/topics/25cvmio3xol00zd/t242v2yde410hdy
「エントロピー」は名前自体は比較的よく知られているものの、「何を意味しているのか今一つ分からない」という人の多い概念である。その理由の一つは、きちんと理解するためには一定レベルの数学的概念(特に、微積分と対数)の理解が必要とされるからであろう。これらを避けて説明しようとしても、「結局何を言いたいのかすっきりしない」という印象になってしまいやすい。
「エントロピー」を理解し難いものにしているもう一つの理由は、「エントロピー」という概念が生まれた歴史的経緯だと思われる。
エントロピーが提唱された時代は、物質を構成する「原子」や「分子」の存在がまだ十分に立証されておらず、それらの存在を疑う物理学者も少なくなかった。エントロピーの提唱者クラウジウスは、「原子や分子の存在を前提しなくても支障がないように」熱力学の理論を構築し、現象の可逆性と不可逆性の考察から「エントロピー」という量を発見し、非常に巧妙な手法で定義づけたのである。
その手法は実にエレガントで、筆者はクラウジウスの天才性を感じずにはいられない。だが、その反面、熱力学における「エントロピー」概念は簡単にイメージしづらい、初学者には敷居の高いものとなってしまったのだ。
その後、ボルツマンが分子の存在を前提とした(よりイメージしやすい)形で「エントロピー」を表現し直したのだが、分子の存在を認めない物理学者達との間で論争となった。その論争は、アインシュタインがブラウン運動の理論を確立して、分子の実在が立証されるまで続いたのである。
現代では、原子や分子の存在を疑う人はまず居ないため、ボルツマンによる表現を心置きなく「エントロピーの定義」として採用することができる。それは次のようなものである。
例えば、容積が変わらない箱に入れられた、何らかの物質を考えて欲しい。
箱の中の物質の「体積」や「圧力」「物質量」などは具体的に測定することができる。また、箱の中の物質の「全エネルギー」は測定は難しいが、ある決まった値をとっているものと考えることができる。
ここに、全く同じ箱をもう一つ用意し、全く同じ物質を同じ量入れて、圧力や全エネルギーも等しい状態にするとしよう。このとき、二つの箱の「巨視的状態」は同じである。では、内部の状態は「完全に」同じだろうか?
そうではあるまい。箱の中の物質の構成分子の、それぞれの位置や運動状態は完全に同じにはならない。これらの「分子の状態」は刻一刻と変化し、膨大なパターンをとりうるだろう。
このような分子レベルの位置や運動状態のことを「微視的状態」と呼ぶ。
「微視的状態」のパターンの個数(場合の数)はあまりに多いので、普通に数えたのでは数値として表現するのも難しい。そこで「対数」を用いる。
例えば、巨視的状態Aがとりうる微視的状態の数を1000通り、巨視的状態Bがとりうる微視的状態の数を10000通りとする。このとき、Aの「パターンの多さ」を3、Bの「パターンの多さ」を4、というように、桁数をとったものを考えるのである。
この考え方には、単に「とてつもなく大きな数を表現するための便宜的手法」という以上の意味がある。
先の例では、AとBを合わせた微視的状態の数は1000×10000=10000000通りであるが、「パターンの多さ」は7となり、両者それぞれの「パターンの多さ」の和になるのである。
「微視的状態のパターンの個数」をΩ通りとしたとき、エントロピーSは次のように表現できる。
S = k*logΩ
(ただし、kはボルツマン定数と呼ばれる定数であり、対数logは常用対数ではなく自然対数を用いる。)
この「エントロピー」は、同じ巨視的状態に対して同じ数値をとるものであるから、「体積」や「圧力」などと同じく「状態量」の一つである。
このような「目に見えない状態量」を考えることに、どのような意味があるのだろうか?
その疑問に答えるには、エントロピーとエネルギーの関係について考える必要がある。
再び箱に入った物質を考えよう。この箱に熱を加え、箱内の物質のエネルギーを増加させると、エントロピーはどうなるだろうか?
まず、総エネルギーが増加することにより、各分子に対する「エネルギーの分配パターン」が増える。さらに、個々の分子の平均エネルギーが増えた分、可能な運動パターンも増える。このため、エネルギーが増えるとエントロピーは増加すると考えていいだろう。
では、エントロピーの「上がり方」はどうか?
エントロピーは微視的状態パターンの「桁数」(対数をとった値)であるから、エネルギーを継続的に与え続けた場合、エントロピーの増加の仕方はだんだん緩やかになっていくだろうと考えられる。
ここで、多くのエネルギーを与えた「熱い物質A」の入った箱と、少量のエネルギーしか与えていない「冷たい物質B」の入った箱を用意しよう。箱同士を接触させることで熱のやりとりが可能であるものとする。
物質Aには、熱を与えてもエントロピーがさほど増加しない(同様に、熱を奪ってもエントロピーがさほど減少しない)。言いかえると、エントロピーを一定量増加させるのに多くのエネルギーを要する。
物質Bは、熱を与えるとエントロピーが大きく増加する(同様に、熱を奪うとエントロピーが大きく減少する)。つまり、エントロピーを一定量増加させるのに必要なエネルギーが少ない。
箱を接触させたとき、AからBに熱が流入したとしよう。Aのエントロピーは下がり、Bのエントロピーは上がるが、「Aのエントロピー減少分」より「Bのエントロピー増加分」の方が多くなるので、全体のエントロピーは増加するだろう。
もし、逆にBからAに熱が流入したとするとどうか? Aのエントロピーは上がり、Bのエントロピーは下がるが、「Aのエントロピー増加分」より「Bのエントロピー減少分」の方が多いので、全体のエントロピーは減少することになる。
エントロピーが多いとは、微視的状態パターンが多いということである。従って、「AからBに熱が流入した」状態パターンと、「BからAに熱が流入した」状態パターンとでは、前者のパターンの方が圧倒的に多い(エントロピーは微視的状態パターン数の対数なので、エントロピーの数値のわずかな差でも、微視的状態パターン数の違いは何十桁・何百桁にもなる)。これは、前者の方が「起こる確率が圧倒的に高い」ということを意味している。
これが、「熱は熱い物体から冷たい物体に移動する」という現象の、分子論的な理解である。
冷たい物体から熱い物体へ熱が移動する確率は0ではないが、無視できるほど小さいのである。
物体が「熱い」ほど、先程の「エントロピーを一定量増加させるのに必要なエネルギー」が多いといえる。そこで、この量を「絶対温度」Tとして定義する。
エントロピーの定義のときに出て来た「ボルツマン定数」kは、このTの温度目盛が、我々が普段使っているセルシウス温度(℃)の目盛と一致するように定められている。
さて、ここで用いた「エントロピーが減少するような変化は、そうなる確率が非常に低いので現実的にはほぼ起こらない」という論法は、2物体間の熱のやりとりだけでなく、自然界のあらゆる現象に適用することができる。
すなわち、「自然な(自発的な)変化ではエントロピーは常に増加する」と言うことができる。これが「エントロピー増大の法則」である。
ただし、外部との熱のやりとりがある場合は、そこまで含めて考える必要がある。
例えば、冷蔵庫にプリンを入れておくと、プリンの温度は「自然に」下がってエントロピーは減少する。
しかし、冷蔵庫が内部の熱を外部に排出し、さらに冷蔵庫自身も電気エネルギーを熱に変えながら動いているため、冷蔵庫の外の空気のエントロピーは内部の減少分以上に増加しており、そこまで含めた全体のエントロピーは増加しているのである。
最初に、「エントロピーの理解には微積分と対数の理解が必要」であると述べたが、なるべくそうした数学的概念に馴染みがなくても読み進められるようにエントロピーの初歩的な話をまとめてみた。如何だったであろうか。
筆者は熱力学・統計力学の専門家でもなんでもないので、間違ったことを書いている可能性もある。誤りがあればご指摘いただけると幸いである。
クラウジウスによる「原子・分子の存在を前提としない」エントロピーの定義については、筆者よりはるかに優秀な多くの方が解説記事を書かれているが、中でも「EMANの熱力学」https://eman-physics.net/thermo/contents.html が個人的にはおすすめである。興味ある方はご参照いただきたい。
「哲学者の永井均さん、M・ヴェーバーを精読したこともない人が社会学を叩くのは自分が馬鹿であることを喧伝しているようなものであるとの見解を示す」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2221010
このブコメの話。
自然科学におけるリチャード・ファインマンの権威性と人文科学におけるマックス・ヴェーバーの権威性を並べちゃうのは典型的なダメな議論という気がする。
人文系の教育には原典講読という伝統文化があるが、自然科学の教育において原論文を精読することは比較的めずらしい。大学の社会学科でヴェーバーを読んでいない学生はモグリだろうが、物理学科でファインマンを読んだことない者はいくらでもいる(はず。「ファインマン物理学」シリーズはそれほど人気のある教科書とはいえないし、一般向け作家として人気があったのは一時代前だろう)。
現代の「社会学」についてまともにコメントをしようとするならマックス・ヴェーバーの著作、少なくともその教科書的(=広く合意のある基礎的な)解釈を知っている必要がある、というのはそれほど異論のないことだと思う。なぜなら社会学をはじめとする現代の人文科学の議論は、過去の学者がつくりあげてきた概念(言葉)をその文脈込みで参照し、再解釈しながら展開されているからだ。M・ヴェーバーの理論が現代社会学の基礎の一部、別のいい方をすればある種の共通の言語的基盤となっていることは否定できない。そして人文科学における二次文献は不可避的に当該の文献の著者の解釈や文脈を帯びたものになるので、そもそものM・ヴェーバーの議論を知るためにはM・ヴェーバーを(できるかぎり原語で)読む以外の方法がない。
他方で物理学をはじめとする理学系の自然科学について、たとえば放射性物質の一般的な性質などについてあれこれいうために特定の原論文を読む必要はまったくない。たとえばアインシュタインの原論文を読解することと、相対性理論を理解することはそれほど関係がない。読むのは凡百の大学の教科書でもいいし、なんなら「一般読者向けに」(ただし適切に数式を用いて)書かれた解説本でもいい。
なぜなら現代の物理学の最新の知見、つまり多くの者がもっとも妥当であると認める理論についての解説は、基本的に誰が書いたものでも同じ前提、同じ内容、同じ結論になるからだ(基本的に法則と定理にもとづく数式の展開によって示される)。知見のコアは何らかの前提のもとに何らかの理路を示す数式の展開もしくはその結論であって、誰が書いたか、どう書かれているかといった文脈は関係がない。
物理学はたしかにこれまでの物理学史(歴史に名を残す偉人と無数の無名の研究者たちの論文の蓄積)の産物だが、その到達点を知見として理解するために科学史を理解する必要は基本的にはない。ファインマンは特定の業績によってノーベル賞を取ったが、その業績について知ろうとする場合でも、必ずしも彼の書いたものによって理解する必要はない。
反陰謀論からすると反感を買うかもしれないが、世間の常識を無批判で受け入れる姿勢が陰謀論にハマるきっかけになる。
きっとそういう人はエーテルが常識だった時代に相対論を唱えるアインシュタインをバカ扱いしていただろう。
天動説が常識だった時代に地動説を唱えるガリレオをバカ扱いしていただろう。
世間の常識は多くの場合正しいが、絶対に正しいわけではないし、調べて自分の頭で考えて受け入れるべきだ。
そういう意味で陰謀論を"無批判で"バカにする反陰謀論者も同様にバカである。
「誰々が言っていた」「どこどこに書かれていた」だけを証拠にしない。
なぜそんなことが言えるのか。
「正しく疑う」を言語化するのは難しいけど時間がある時もっと具体化したい。
科学論文や権威ある論文は英語で書かれている。英語で調べ読むことができることは重要になる。
誰がなんの証拠でそんなことを言っているのか。
以下、ネタバレ+不満
ただ、不思議な理論すぎて納得はできない、というのが面白いところなんだけど
大学生工学部レベルの事前知識を前提とした上で講義が展開されるので
大半の人は最初の30分も待たずに脱落したと思われる
相対性理論が生まれた背景を丁寧に説明しているあたりは人によっては分かりやすいのだろうけれど
大半の人は
「アインシュタインはいきなり光速度不変っていうのを思い付きました」
という小学生レベルの知識で光速度不変にすれば特殊相対性理論は導けるのに
わざわざ難解な式やローレンツ変換とかの話を持ち出して難解にしてる
ただ、番組の構成を見た限りだと講師の教授は番組側からそれを指示されてやっているように感じた
1時間目で大学生レベル、2時間目で一般教養レベルという感じで2時間目の方に簡単な内容を持ってきて分かりやすく説明していた
ただ、そもそもの「距離=速さ×時間」だ、というところから導出していないので
結局は良く分からない宇宙語の世界、みたいな感じになってしまっていて
相対性理論に対してサンシャイン池崎だけではなく視聴者にも難解なイメージを持たせてしまっている
E=mc^2の導出過程はさておき、その式のもつ意味をサンシャイン池崎は最後まで理解できていなかったように見える
としつこく言っていたが、その意味を理解できていないし、あの説明だと理解はできない
「質量を減らそうと何かを燃やしたところで灰や煙になって質量はほとんど変わっていない」
みたいな説明を加えておいて、質量をそのままエネルギーにする方法として核分裂とか核融合っていうのが編み出された、みたいな話にした方が良かった
そうすると対消滅みたいな話もできるし、仮にサンシャイン池崎の体を対消滅させたらどうなるか、みたいな話もできて面白かったと思う
最後にアイドルの女性にサンシャイン池崎が3分で説明する、というのが番組の趣旨だったのだが
サンシャイン池崎も言っていたように
「そんなのアインシュタインでも無理」
である(かなり頑張っていたけど)
とはいえサンシャイン池崎も準備を整えていざ説明、となったのだが
肝心のアイドル女性は登場せず、パネルが持ち込まれてそこに向かって3分間喋り続けることになった
さんざん引っ張っておいて最後コレかよ!という怒りというか呆れというか、かなり時間の無駄を感じてしまった
アイドル女性のスケジュールの都合、などと番組側は説明していたが
番組の冒頭ではアイドル女性が登場していたので、だったらそれより2時間前にサンシャイン池崎を呼び出して講義をすれば良かっただけなのだ
つまり番組側はアイドル女性に相対性理論を教えよう、などとは微塵も思っていないし
そもそも相対性理論を教えることなど無理、と考えていたのだろう(なので3分しかない)
「最後にサンシャインに『無理!難しい!』って言わせて終わり」
こういう構成というか演出の前提があったにも関わらず、登壇した教授は非常に分かりやすく献身的に講義をしてくれたと思うのだが
やはり全体の構成を覆せるほどではなかった
「細かいところはさておき、特殊相対性理論なら小学生でも数式レベルで理解できる」
ということを分かっていると思う
そして理解した上で時間が伸び縮みしたり距離が伸び縮みしたり同時の相対性が起きたりなどいろんな現象が起きる不思議なことを伝えて
それを踏まえてSFを楽しもう、という話にも出来るのだ
それを「相対性理論なんて難しすぎてどうせ無理」という前提を置いて番組を構成するとこうなってしまう
NHKはもっと簡単に相対性理論を教えている番組があるのに非常にもったいないと感じた
いや、酷かった マジで
敗戦後の日本人は原爆で大量虐殺したアメリカに感謝して媚びを売る「ストックホルム症候群」の患者
強い者(在日米軍)には逆らえず、弱い者イジメと嘘と妥協が蔓延
愛国ビジネスで儲ける売国奴は宗主国アメリカ様のケツ穴をなめるのに忙しいですね
パンとサーカス(羅: panem et circenses)は、詩人ユウェナリス(西暦60年 - 130年)が古代ローマ社会の世相を批判して詩篇中で使用した表現。
権力者から無償で与えられる「パン(=食糧)」と「サーカス(=娯楽)」によってローマ市民が満足して政治的無関心になっていることを指摘した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/3S%E6%94%BF%E7%AD%96
3S政策(さんエスせいさく)とは、主にGHQが日本占領下で行ったとされる、screen(スクリーン=映像鑑賞)、sport(スポーツ=プロスポーツ観戦)、sex(セックス=性欲)を用いて大衆の関心を政治に向けさせないようにする愚民政策とされている。
ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(英語:War Guilt Information Program)は、
(大東亜戦争)終結後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP、以下GHQと略記)が日本占領政策の一環として短期行ったといわれる日本国民に対する再教育計画。
日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている」と分析。
また、「もしこの架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で錯覚したふりをする日本人が出現すれば、CI&Eの「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は、一応所期の目的を達成したといってよい。
つまり、そのとき、日本における伝統的秩序破壊のための、永久革命の図式が成立する。
以後日本人が大戦のために傾注した夥しいエネルギーは、二度と再び米国に向けられることなく、もっぱら「軍国主義者」と旧秩序の破壊に向けられるにちがいない」とも指摘している。
「軍国主義者」と「国民」の対立という架空の図式を導入することによって、「国民」に対する「罪」を犯したのも、「現在および将来の日本の苦難と窮乏」も、すべて「軍国主義者」の責任であって、米国には何らの責任もないという論理が成立可能になる。
大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、「軍国主義者」が悪かったから起った災厄であって、実際に爆弾を落した米国人には少しも悪いところはない、ということになるのである」としている。
国民にバービーを与えることで、国民は政治や経済、歴史の問題から関心がそらされて、目先の喜びだけを求める愚民になる。
自分より賢い人間を支配するのは難しいけど、自分より愚かな人間を支配するのは簡単。
だから、バービー程度で喜んでいる人間はアホと言わざるを得ない。
骨の髄まで奴隷根性が染みついた負け犬のマゾ「原爆で殺してくれてありがとうございます!」
「奴隷が再び逆らったら、在日米軍の核兵器で日本人を皆殺しにしてくださいね!」
基地外の日本人は、基地内に行って、現実を直視して、目を覚ませよ?
オッペンハイマー博士はアメリカに量子物理学を持ち込んだ。共産党員とつるんだり組合を作ったり左翼活動に熱心になることもあるお茶目な帽子おじさんだった。ある日、将軍様からお声がかかった。ナチが爆弾作る前にすげーやつ作ってくんね?と頼まれた。考えとくわと言ったオッペンペン。オッペンペンのいう考えとくわはオーケーという意味だ。ナチはヒトラーがアホなので量子物理学はユダヤ人の学問だと言って物理学者を迫害していた。これはアメリカには有利に働いた。ナチが頭悪いことをして遅れを取っている間に原爆を作っちゃえという算段である。
マンハッタン計画は秘密裏に始まった。物流の面で良いがかつ秘密で周りに何もないところ。ロスアラモスが良いということになった。ロスアラモスをインディアンから奪い取り小さな研究村を急ピッチで作り物理学者をかき集めて原爆を作った。
連鎖反応によって空気までを燃やし世界を破壊するかもしれないという仮説が出てきた。怖くなりベロ出し爺さんのもとに行ってみた。まああんたがなんとかしなさいねと言われた。
セックスの最中にサンスクリットの聖典にある我破壊者なりという言葉を読んだりそのセフレが自殺したり色々あったがなんとか原爆は完成した。
もともと対ナチスのために作った原爆だけどもナチスは降伏してヒトラーが自殺してしまったので無意味になったかと思われた。しかし日本がまだ降伏していなかった。日本人は降伏しまへんでとお山の大将さん。日本に原爆落とせば戦争が早く終わり死者数は結果的に減るんだという正当化で落とすことに決めた。大統領が京都にハネムーンにいったから京都はやめとくかということになった。とりあえずハロシーィマとナガサーキィにボムを落とした。日本降伏!戦争終了!アメ公大歓喜!ヒーローだ!
オッペンペンペンは複雑な心境で喜ぶふりをしていた。あの光。あの衝撃。焼けただれる肉体。喜ぶアメ公。
ルイスストラウスちゃんと喧嘩したりもした。激おこぷんぷん丸野郎のせいでロシアのスパイ扱いされたりもした。
ベロ出し爺さんと連鎖反応の話をした。連鎖反応で世界を壊すかもせらないよねと。それがどうしたんや?とアインシュタイン。やっちまったぜとオッペンハイマー。愚かな人類の連鎖反応で世界は破壊された。
例えば、ジュリア・クリステヴァの名声を確立したプロジェクト--詩的言語を構成するものは何かについての彼女の調査--を考えてみよう:
私たちにとって詩的言語とは、他の言語を包含するコードではなく、言語コードの無限性を表す関数phi(x1...xn)と同じ力を持つクラスAであり(存在定理参照、p.189参照)、すべての「他の言語」(「通常の」言語、「メタ言語」など)は、より限定された範囲におけるAの商である(たとえば、形式論理学の基礎である主語-述語構文の規則によって限定される)。例えば、形式論理の基礎である主語-述語構文の規則によって制限される)、この制限のために、関数phi(x1...xn)の形態論を偽装している。(SとB41ページより引用)
そして、これはほんの始まりに過ぎない。彼女のページの多くには、次のような公理(選択の公理)が散りばめられている:
(EA) {Un(A) . (x) [~Em(x) . -> . (Ey) [y e x . < yx > e A]]}
集合論を学んだ数学者には馴染み深いが、(私を含む)彼女の読者の大部分には全く不透明なものである。この公式は、「私たちの宇宙plのEに適用できる」と彼女は主張した(SとB p. 42)。(SとB p. 42)
ロラン・バルトは彼女の作品を「まったく新しく、正確なもの」と称賛した。そして最近の論者(John Lechte, Julia Kristeva, 1990)は次のように主張している。
クリステヴァの仕事で最も印象的なのは......それを提示する能力、それを追求する強烈な一途さ、そして最後に、その複雑な厳密さである。既存の論理学理論が引き合いに出され、量子力学が登場することもある(p.109)。
それ以外の人たちは、若干の懸念を抱いているかもしれない。用語の妥当性をチェックする知識もなく、議論に組み込む知識もなく、謙虚さと傲慢さの間のようなものから、CMTP(タウリン由来の大腸材料)に分類することをためらったのである。私たちの直感が正しかったと言えるのは今だけである。
というのも、SとBは非常に驚くべき2人なのだ。彼らは理論物理学者であり、集合論、行列代数、位相幾何学、そしてそれらの量子力学や非線形系への応用が日常的な労働の基盤となっているだけでなく、より広い文化的・哲学的問題についても深い理解を持っている。今回初めて、クリステヴァの主張を判断するのに必要な資格を持つ学者たち--言語、文学、自己などに関する世界的な主張を裏付けるために、高度な数学など(あるいはその外面)を動員する彼女のような人々--が、彼女の書いたものに注目した。-- 彼女が書いたものを見て、その中で科学や数学がどのように使われているのか、あるいはどのように使われているのかを詳細に検証した。そして彼らが発見したのは、彼女の概念投下(cf 名前投下)はまったく不適切であり、彼らにとっては初歩的な混乱と誤解を裏付けているということである。
SとBは、クリステヴァの`pl'の説明は、彼らが長々と引用し分析した他の多くの箇所と同様に、厳密に無意味であることを示した。例えば、「選択の公理」の使用は言語学とは何の関連性もなく、詩的言語の解明には役立たない。数学の集合論にこの公理が導入されたのは、無限集合、あるいは集合の無限の集まりを研究するためである。
詩のどこにそのような集合があるだろうか?選択の公理が「すべての配列が本のメッセージをどのように含んでいるかを正確にする」と言うのはおかしなことである。(p. 42)
SとBの多くの長所のひとつは、引用の長さと数である。さらに彼らの批判は、誤用されている用語--少なくとも超限集合論や数理論理学のより基本的な概念--について、光り輝くほど明快な説明と結びついている。SとBの解説は知的な饗宴であり、本物の数学者と一緒にいることに飢えを覚える。
SとBがクリステヴァのテキストで暴いている数多くの(そして彼らにとっては初歩的な)誤りの中には、(a)ゲーデルがその有名な定理で実際に主張したことと反対のことを主張していると彼女が思い込んでいること、(b)選択の公理が構成可能性の概念を含意しているという彼女の誤解、(c)関数C0(R3)の集合の定義の誤訳がある。私やPNRの読者のように、高度な数学の訓練を受けていない聴衆のほとんどは、彼女の言ったことを一言も理解できなかっただろうし、彼女の議論と詩的言語との関連性(たとえば、「私の車に触れたら、頭をぶち割ってやる」と対照的な「夏の日になぞらえようか」の特徴的な性格)を信用するしかなかっただろう。とはいえ、このようなクズのような彼女がパリ第7大学で言語学の椅子を得たのは、「新しく正確な」仕事でパリ(全権を握っていたロラン・バルトを含む)を驚かせた8年後のことだった。信頼を裏切るというのは、椅子に座るにはひどい仕打ちのように思えるが、あちらでは順序が違うのだ。彼女の任命委員会に誰がいて、彼らが集合論や数学的論理学をどれだけ理解していたかを知るのは興味深いことだ。これはすべて昔のことで、クリステヴァ教授は他のことに移ってしまった、という弁明はもちろん通用しない。もし私が、自分の臨床医学の分野では不正行為とみなされるようなことを根拠にして現在の椅子にたどり着いたと示されたら、その仕事が何年前に行われたものであれ、辞任せざるを得ないと思うだろう。その上、クリステヴァは、自分のブランドの準数学的詩学から、あからさまな詐欺師であるジャック・ラカンの仕事を受け入れるようになった。
象徴、イマジナリー、リアルに関する根拠のない教義を、クリステヴァがこの20年間、無批判な情熱をもって提唱してきたラカンは、クリステヴァと同様に、自分には本当の知識も理解もない学問領域から概念や用語を借りてきた。ラカンは亡くなるまでの10年以上、ある位相幾何学的な図形が精神疾患や人間の心に光を投げかけるかもしれないという考えに取り憑かれていた。例えば、彼はトーラスが「まさに神経症の構造」であると信じていた。(「まさに」というおかしな表現は、巨大な範囲とほとんどゼロに近い理解可能性を持つ直感に反する概念が、論証も事実も説明もなしに主張されるときに、強化語が使われることを見事に例証している)。したがって、彼の弟子たちもトーラスを信じていた--信じることが理解をもたらすかもしれないという、おそらくは常に先延ばしにされる希望の中で。(Credo ut intelligam)。いずれにせよ、彼らはボロメの結び目などに関する彼の一日がかりのセミナーに畏敬の念を抱いて耳を傾け、何度も脳卒中を起こした結果、失語症で言葉が不自由になり、認知機能がやや断続的になった哀れな晩年でさえ、そうし続けた。それまでは、失語症が失行症に移行し、彼の心が空っぽになるにつれて、彼の沈黙でさえも注目され、惜しみなく敬意のこもった解釈がなされた。
ラカンの数学の使い方のどこが問題だったのか。それは空虚な輝きであるだけでなく、内面的な欠陥でもある。ラカンの著作は、悪い精神医学、あるいは狂気の精神医学であるだけでなく、悪い数学でもある。SとBが示すように、ラカンは高度な誤りを犯している--トポロジーに由来する特定の用語(「コンパクトさ」など)の非常に特殊な技術的意味を混同している、など。しかし、彼は初歩的な間違いも犯す。例えば、無理数と虚数、普遍量化子と実存量化子を混同するような場合だ。
擬似数学の助けを借りて、ラカンは何時間もしゃべり続け、弟子たちは黙ってそれを聞いていた:
私はここで「コンパクトさ」という言葉を提唱する。断層ほどコンパクトなものはない。そこに閉じているすべてのものの交点が、無限の数の集合にわたって存在すると仮定すれば、交点はこの無限の数を意味することになる。それこそがコンパクトさの定義なのだ。
SとBが指摘したように、コンパクト性という位相幾何学的な概念と、位相幾何学の内外にある他の概念との混同は、数学の勉強をしていない聴衆にはまったく気づかれなかっただろう。このような話を何時間も聞きながら、彼らは何を思ったのだろうか。おそらく、ゴールドスミスの詩に出てくる村人たちのように、ただ畏敬の念を抱いたのだろう: それでも彼らは見つめ、それでもなお驚きを募らせた。彼のセミナーに参加した精神分析医や準医療関係者の中に、その頭が晩年は進行性の痴呆に悩まされていたという、あまりにも明白で悲劇的な事実を指摘する者がいれば、その驚きはさらに大きくなっていただろう。
SとBは、ミックスマスターの散文(あらゆる種類の華やかな用語が鍋に注がれ、500 r.p.m.で回転している)に気を取られることなく、個々の用語がどのような特定の用途に使われているのかに気を配っている。だから、ラカンが次のように主張するとき:
構造とは、言語のアーティキュレーションに隠された非球面である。
意味に関する限り、この副文--擬似様態語--の「それを持っている」ことは、動詞としてその文法的主語に包まれている対象そのものから反響しているのであり、主語の効果が非球面(中略)の渦巻きを作るか、この効果の主体がそこからそれ自身を「反射」させるかによって、意味の偽の効果、トポロジーによって誘発される想像の共鳴があることは明らかである(引用p.20)。
SとBは、ラカンが構造とは何を意味するのかを明確にしていないことを指摘するだけである。この用語が厳密な数学的用法に限定されると仮定しても、位相幾何学は構造の解釈の一つにすぎない。秩序構造、ベクトル空間構造、多様体構造などである。ラカンはどのような意味での「構造」を指しているのか明らかにしていないため、彼の議論は空虚である。
クリステヴァについての議論の中で、SとBは「彼女は、言語学、文学批評、政治哲学、精神分析といった、彼女が研究しようとしている分野と数学的概念の関連性を正当化する努力をまったくしていない」と指摘している。そして、誇示された博識の関連性の欠如は、『知的詐欺』において常に見られることである。メタファーを文字通りの真理であるかのように扱うことで、関連性があるかのように見せることもある。これは特にルーチェ・イリガライの著作に顕著である。
イリガライは、クリステヴァやラカンと同様、彼女が著作で利用する科学について徹底的な誤解を抱いている。彼女は流体力学に特別な関心を示し、「積層面」、「ソレノイド運動」、「スプリングポイント」といった専門用語を好んで使う。しかし、SとBの主な関心事は、彼女が流体力学を利用して、性的政治や女性の抑圧され疎外された状況について、かなり大げさな主張をしていることである。彼女の結論は、控えめに言っても、彼女が引き合いに出した科学によって決定されたものではない。
イリガライは有名なように、科学は性差別的であると主張している。例えば、E=Mc2は「性差別された方程式」である。彼女がそう考える理由は並大抵のものではない。方程式は:
我々にとって極めて必要な他の速度よりも光速を優遇している。この方程式の性癖を示すと思われるのは、核兵器による直接的な使用ではなく、むしろ最も速く進むものを特権化していることである......(p.100より引用)。
ここでの泥沼は非常に濃密であり、おそらくそれを解き明かす価値はないだろう。SとBが言うように、アインシュタインの方程式は高い精度で検証されている。イリガライが「我々にとって極めて必要な他の速度」よりも光速を優遇することについてどう感じようと、光速(c)が他の速度--例えば、スーパーマーケットで逃げ惑う幼児を追いかけて走る女性の速度--に置き換えられたら、この方程式は成り立たないだろう。別の言い方をすれば、もしこの方程式が性差別的であれば、自然も同じである。もし科学者がこの方程式に関して性差別的であるとすれば、それは物質が性差別的だからである。そして、物質が性差別的であるならば、物質でできている女性もまた性差別的なのである(このことについては、後述するようにもっと言うべきことがある)。
科学の性差別は、流体力学が固体力学ほど発達していない理由を説明するとイリガライは主張する。男性優位の)科学が乱流を扱えないのは、流動性を女性性と結びつけているからである。男性には突出して硬くなる性器があるのに対し、女性には月経血や膣液が漏れる開口部がある。したがって、男性の科学は流体力学に対応できない。これは、男性も女性と同じように90%が水分であること、女性と同じように5.5リットルの血液が体内を循環していること、女性と同じように出血し、唾液を分泌し、そう、小便をすることを見落としているように思える。こうした初歩的な観察にもかかわらず、これはイリガライの説明であり、なぜ女性が男性論から排除され、体液が科学から排除されるのかについての説明である。
もちろん、流体力学や乱流に関する膨大な文献がある。ここ数十年、カオス理論から派生した新しい解析ツールを使って研究されてきた重要な分野のひとつである。流れが乱流になる条件についての完全な定義は、科学者たちにはまだ見つかっていないが、固体力学や物理学全体においても、未解決の問題がある。
事実誤認、専門用語の誤用(イリガライは流体力学よりも数理論理学が苦手だ)、狂気じみた比喩の使用は、知識人が払うべき高い代償だと思うだろう。どのような目的がこのような絶望的な手段を正当化するのか知りたくなる。驚くべきことに、イリガライの目的は、男性優位主義者の豚が寝言で叫ぶような結論を支持することなのだ:
しかし、(女性の性経済の)発展のどの段階にも、それなりの時間性があり、それはおそらく周期的で、宇宙のリズムと結びついている。ケモビルの事故によって女性たちがこれほどひどい脅威を感じたとすれば、それは女性たちの肉体が宇宙と不可分の関係にあるからである。(113-4ページより引用)
これは田舎者特有のエピソードではない。イリガライは、合理性と客観性を男性性と結びつけ、感情と主観性を女性性と結びつけている。女性をセクシュアリティや月経周期やリズム(宇宙的なものであろうとなかろうと)に還元する」ことは、SとBが指摘するように、「フェミニズム運動がこの30年間闘ってきたことすべてを攻撃すること」である。シモーヌ・ド・ボーヴォワールは墓の中で眠っているに違いない」。美学的な目的のために、多くの神秘化と知的不誠実さを展開し、ただ田舎者との思いがけない共通点を発見するというのは、苦い皮肉である。ルーチェ・イリガライが普通の抑圧された女性たちの怒りを惹かなかった理由は、彼女に国際的な名声をもたらした著作が、アカデミズムの間では曖昧に包まれているからである。
興味深いことに、ポストモダン思想における科学の俗物的な誤用は、科学そのものへの敵意と隣り合わせにある。SとBは、科学は徹頭徹尾社会的なものだと主張するブルーノ・ラトゥールのような認識論的相対化論者を特に効果的に扱っている。科学が正確な予測をすること、科学が機能する技術を生み出すこと、そして科学がブラックバーンでもソウェトでも同じように効果的であること、つまりブラックバーンに住む重病の老人に対する抗生物質が、ソウェトに住む重病の若い女性に対する抗生物質と同じように効くということである。
子供の頃、私は数軒隣に住む若者と仲良くしていた。一緒に自転車に乗ったり、荒れ地で銃撃戦をしたり、火をつけたり、スクラッチクリケットをしたりしたものだ。しかし、互いの興味が異なる方向に発展したため、別れることになった。恨みはなかったし、実際、多くの善意が残っていた。ロジャー(彼の家族のために伏せておくが、これは彼の本名ではない)は、私自身の発展途上の知的興味をまったく共有しなかったし、私は彼のヨットに対する愛情をまったく感じなかった。ある晩、母が『リバプール・エコー』紙に掲載されたロジャーのインタビュー記事で、彼が本当に情熱を注いでいるのは「サイバネティクス」だと語っているのを目にしたとき、私は驚いた。私は彼を誤解していたのだと思い、結局のところ、私たちは思っていた以上に共通点があるのだろうかと思った。次にロジャーに会ったとき、私は彼にサイバネティックスへの関心について尋ねた。私の無知は思い込みではなく、本物だった。恥ずかしながら、ロジャーもサイバネティクスの本質について無知であることがわかった。彼にとっては、サイバネティクスは単なる言葉だった。サイバネティクスは科学技術や未来に関係するもので、当時は華やかで話題になっていた。明らかに地方紙の読者を感心させるためのものだった。私はそのことを追及せず、その後、ほとんど会うことはなかった。最後に聞いたのは、彼が不動産業者としてうまくやっているということだった。かわいそうなロジャーは、自分の「サイバーネティックス」についてのコメントが、『リバプール・エコー』紙の読者に取り上げられる(「尋問される」、「問題視される」)とは思ってもみなかっただろう。これは不運だった。さらに不運なことに、彼はサイバネティクスへの言及を理由に人文科学のテニュアトラック・ポストを与えられることもなく、パリ大学の思想システムの講座も与えられなかった。
アラン・ソーカルとジャン・ブリクモン(以後SとB)の『知的詐欺』を読んで、私はロジャーを思い出した。ロジェと同じように、ジュリア・クリステヴァ、ジャック・ラカン、ジャン・ボードリヤール、ジル・ドゥルーズは、感受性豊かな人々に感銘を与えるために、微塵も理解していない用語を使う癖がある。ロジャーとは違って、彼らはそこから抜け出せず、またロジャーとは違って、無名ではなく、国際的な名声と世界中の一見知的な学者たちからの憧れで報われた。
長い間、ラカン、デリダ、クリステヴァらは、自分たちの思想と学問の名声、実に全知全能の名声を支え るために彼らが収奪した知識領域について、読者がほんのわずかしか知らないと確信して、殺人を犯して 逃れてきたのである。ミシェル・フーコーの風変わりな時代考証に注目する真の歴史家は、いたとしてもほとん どいなかった。分析哲学者たちは、たった一人の例外を除いて、デリダをJ.L.オースティンと言 語行為論の現代的意義について議論を交わすべき人物だとは考えなかった。
やがてポストモダンの理論家たちは、彼らが迷い込んだ分野の専門家たちの注目を集めるようになった。言語学者たちは彼らの言語学を見て、初歩的な誤りが散見されることに気づいた。例えば、デリダは記号全体とシニフィエを繰り返し混同し、何十万人もの従順な弟子たちもそうであった。この誤りは、デリダの研究の根幹のひとつである。他の言語学者たちは、デリディアンたちがソシュール以外の言語学について無知であることを面白がっていた。歴史学者たちは、フーコーの思想史に関するひどいバージョンを検証し、彼の広範な理論の土台となっている極小かつ風変わりな経験的基盤でさえ、文献的証拠と大きく食い違っていることを発見した。彼の時代区分--西洋史と「最近の発明」としての人間についての彼のビジョンにとって極めて重要--は、ほんの一例を挙げれば、正しいエピステーメーに適合させるためには、デカルトが死んだ後のある時期に生きていたことを要求することになる。実際、フーコーのエピステーメーとそれを隔てるいわゆるエピステーモロギーの断絶--彼に国際的な名声をもたらした本(『言葉と物』)の中心的な概念--が、いかなる歴史的現実にも対応していないことを示すのに、大した学者である必要はない。彼の時代の一つに当てはまるはずの名前が、他の時代ではぎこちなく活躍し、彼の時代を超越した学問領域は、彼が考えていた以上に数多く存在することが判明した。(彼が生きている間に、このことを指摘しようとした人は一人か二人いたが、コレージュ・ド・フランスの思想史教授に何を言っても無駄だろう)。おそらくフーコーは、言説を「われわれが物事に加える暴力」と表現したとき、自伝的に語っていたのだろう。いずれにせよ、ポストモダニズムの理論家たちが、その理論が偶発的に事実に汚染されたとき、いかに頻繁に事実を取り違えているかが印象的である(このことは、「経験的なもの」に対する党派的な侮蔑では説明しきれないほど頻繁に起こっているのだが、事実を理論に合わせて曲げようとする断固とした努力の結果であるに違いない)。(事実蔑視が証拠捏造の傾向と密接に関係しているのは興味深い。おそらく、真実--そして真実という概念そのもの--を憎むことと、誤りを愛することを結びつけることには、ある種の一貫性があるのだろう)。ポストモダンの理論家たちによる哲学思想や哲学思想史の誤った表現については、最も詳細な批判的検証が行われている。プラトン、デカルト、フッサール、パイスといった主要な人物について、ポストモダニストたちが自説を支持するために述べていることを検証してみると、主要な人物の孤立したコメントが「西洋思想」の巨大な塊を意味するように仕立て上げられていることが少なくない。
それなら、このゲームはとっくに終わっているはずだ。これは、テリー・イーグルトンによって示唆されている。最近、ポストモダニズム理論に敵対心を抱いたことから判断するに、彼は、巧妙な資金が動いていること、そして今こそ、仲間との旅行や協力から抵抗に切り替える時かもしれないことを察知したのだろう。(とはいえ、無批判だが儲かる『文学論』から手を引いたわけではない)。ポストモダニズムの「思想」を支える哲学的前提のいくつかに対するM.J.デヴァニーの壊滅的な批評(Since at least Plato ... and other Postmodernist Myths)に対する好意的な批評の中で、彼は批評家たちが何も知らない分野に「飛び込む」ことの危険性について皮肉交じりにコメントしている。批評家が「哲学に立ち入る」場合、次のようなことがある、と彼は指摘した。
パーティーで死海写本についてのちょっとした知識を披露して相手を感心させようとしても、後でその人が新約聖書の学者であることが判明するようなものである。(タイムズ・リテラリー・サプリメント1998年1月2日号2頁)
そして、M.J.デヴィーニーについて、「彼女はポストモダン思想の側面に、ポストモダニズムに対する哲学史の知識という著しく不公平な利点をもたらしている」と付け加えている。ポストモダン理論で(経済的にもそうでなくても)大成功を収めた人物に、労を惜しまない皮肉は似合わない。いずれにせよ、『リバプール・エコー』紙の読者から「サイバネティクスとは何か」と尋ねられたり、「サイバネティクスについて語る資格があるのか」と訝しがられたりするリスクが常にあるのは事実である。
では、勝負はついたのだろうか?ポストモダンの理論家たちの無能ぶりが暴露されても、主要人物や業界そのものにはほとんどダメージがない、というのが恐ろしい現実だ。イーグルトン自身が言っているように、ポストモダニズム産業には精神的・物質的資本が投下されているため、その重役たちは耳を傾ける余裕がないのである。リベラルアーツの学生で理論に出会わない者はほとんどいないだろうし、文学を学ぶ学生などその多くは、理論がカリキュラム全体を覆い隠している。どうしてこんなことが可能なのだろうか?
セオリーとその系列校の網の目のように張り巡らされた、セオリーを批判から守るためのプロテクトは実に厚い。何十万人もの英語科の1年生が、教師から「ロゴセントリック」な西洋哲学の概説を聞かされても、ほとんどの場合、プラトンもデカルトもハイデガーも1ページも読んだことはないだろう。また、彼らの教師や彼らを教えた教師が、プラトンやデカルトやハイデガーを読んだことがないことも少なくない。ポストモダニズムの哲学史を支持するために出される書誌は、プラトンやデカルト、ハイデガーの著作を除外していることが多い。デリダ、ラカン、フーコーなど、あるいは、デリダ、ラカン、フーコーなどの大衆化、そして彼らの知的子孫の著作がリストアップされるのである。言い換えれば、教師もテキストも、ポストモダニストの世界的な理解体系に取り込まれた思想家たちの思考を、生徒たちが信頼して受け入れなければならないような、その思想家たちとの関わりや知識、考察から、数段離れたところにいることになる。プラトンを読んだ学生一人につき一万人が、デリダが「西洋哲学のすべてを支配するパターン」としての論理中心主義についての有名な理論を打ち立てた『パイドロス』についての、間違いにまみれた説明を受けていることになる。
ポストモダン理論の事実誤認、経験的不備、論理的矛盾、説明の失敗を実証すれば、カード城を瓦解させるのに十分だろうと想像していた人々(私もその中に含まれる)は、理論家たちがこのように何重にも絶縁していることを考慮していなかった。われわれは、ソンムの戦いの前にハイグ将軍が、1週間にわたる砲撃と100万発の砲弾を浴びせ続けた後、ドイツ軍がイギリス兵に戦線の上を歩くことだけを許すだろうと予想したときと同じ過ちを犯した。そして、ヘイグの歩兵と同じように、私たちも無人の地で、60ポンドの荷物に事実や議論など役に立たないものを満載し、10フィートの高さの有刺鉄線の絡まり合いの向こうで、無傷の機関銃に向かってライフルを振っていた。ドイツ軍はソンムの戦いの前に2年間しか塹壕を掘っていなかったが、ポストモダンの理論家たちは30年も前から塹壕やトンネルや地下壕を造っていたのだ。また、沈黙というもうひとつの戦術も想定していなかった。反論に必要な宣伝を拒否することで、有効な反対意見の影響を最小限に抑えることができる。あるいは、第三の戦術として、他の者が欄干の上から頭を出すのを躊躇させるような獰猛な反論もある。セオリーを批判する者は、診断され、分類され、ステレオタイプ化され、嘲笑され、傷のなめあいに追いやられた。デリダがジョン・サールを侮蔑的に扱ったのは、デリダの軽率な火術の核心がいかにオースティンの単純な誤読にあったかを示すものであった。彼はサールの名前に注目し、「サール」と嘲笑することで、人格攻撃論法をさらに一歩進めた。この闘争的なアプローチの利点は、議論がスキャンダルの煙幕に覆われて見えなくなってしまうことだった。続く暗闇の中では、良い議論も悪い議論もすべて同じように見え、革命派と保守派、あるいは老いぼれたトルコ人と若いトルコ人の殴り合いとして全体を見せることができた。デリダがソシュールを使うことに疑問を呈する本1冊につき、何百冊もの本がそれを当然視し、学年末のテストで生き残るためには流暢なテオローア語を話せるようにならなければならない学生にとって重要であることを説いている。デリダは1000ものカリキュラムに載っているが、彼の作品に対する批判的な試問はほんの一握りにも及ばない。セオリーを教える者は、セオリーに対する批評に注意を向けるほど愚かではない。真に批判的な思考と真理の無関心な追求に熱心な学者(このカテゴリは超高齢のカテゴリである)だけが、反対意見に注意を向けることで自らの足を撃つような愚かなことをするのである。
これらの理由から、『Intellectual Impostures』の出版は、人文科学の未来にとって第一に重要な出来事である。その本質的な利点が非常に大きいことは別として、『ソーカル・ハックス』という素晴らしい著作が出版されたことで、学術界内外で大きな反響を呼んでいる。さらに、SとBはポストモダン理論の批評に新たな基準を打ち立て、「不真実の城」がついに攻め落とされるかもしれないという新たな希望をもたらしている。知的失政の領主(と淑女)たちに対する批判が、これほど徹底的に、これほど堂々と行われたことはかつてなかった。SとBは冒頭で、ポストモダン理論全体を貶めるふりをしているわけではないこと、あるいはその創始者たちの全作品を否定しているわけではないことを注意深く述べている。しかし、彼らの忍耐強く、静かな考察は、その具体的な使命をはるかに超えた意味を持ち、またその影響をもたらすだろう。学生たちが、理論に屈服した教師たちのドグマから外れた言説の世界をようやく認識し、反対意見にも公平な耳を傾けるようになり、本当の意味で勝負がつくようになるかもしれないのだ。
SとBは、ポストモダニズムを「啓蒙主義の合理主義的伝統の多かれ少なかれ明白な拒絶、いかなる経験的検証からも切り離された理論的言説、そして科学を「物語」「神話」「社会的構築物」以外の何ものでもないとみなす認知的・文化的相対主義によって特徴づけられる知的潮流」と定義している。SとBは、ラカン、イリガライ、クリステヴァ、ラトゥール、ボードリヤール、ドゥルーズ、ガタリ、ヴィリリオなどが数学、物理科学、テクノロジーについて語ったこと、とりわけ彼らが言語、文学、人間の精神、フェミニズム、現代文化などについての著作の中で数学や物理科学から借用した概念を用いたことについて、細心の注意を払って調査している。SとBは、これらの著名人が男女を問わずロジャーズであることを発見した。彼らの著作には、彼らが微塵も理解していない用語や概念が散見され、彼らの主張の見かけ上の力強さは、それに大きく依存している。彼らの読者は『リバプール・エコー』紙の読者よりも若干洗練されている(騙されやすさは変わらないが)ので、彼らが借りる用語は「サイバーネティックス」よりももっとリッチなものでなければならない。クリステヴァは数理論理学や集合論から、ラカンは数理論理学や位相幾何学から、イリガライは固体力学や流体力学から、ドゥルーズとガタリは微分積分学や量子力学から、ボードリヤールはユークリッド幾何学や非ユークリッド幾何学から、といった具合だ。しかし、博識に見えるのはまったくの欺瞞である。
例えば、ジュリア・クリステヴァの名声を確立したプロジェクト--詩的言語を構成するものは何かについての彼女の調査--を考えてみよう:
私たちにとって詩的言語とは、他の言語を包含するコードではなく、言語コードの無限性を表す関数phi(x1...xn)と同じ力を持つクラスAであり(存在定理参照、p.189参照)、すべての「他の言語」(「通常の」言語、「メタ言語」など)は、より限定された範囲におけるAの商である(たとえば、形式論理学の基礎である主語-述語構文の規則によって限定される)。例えば、形式論理の基礎 Permalink | 記事への反応(2) | 20:18
パンティズムは、神と宇宙が同一であるとする哲学的な立場または信念です。この考え方は、神が別個の存在として存在するのではなく、自然と宇宙そのものを通して存在し、全ての事物が神の一部と見なされるというものです。パンティズムの名前は、ギリシャ語の "pan"(全て)と "theos"(神)から派生しています。
パンティズムは、スピノザやアインシュタインなどの多くの著名な思想家によって支持されてきました。スピノザは「神または自然」の概念を提唱し、アインシュタインは自然の法則と宇宙の美に深い尊敬の念を表現しました。
パンティズムはしばしば宗教と哲学の間の境界に位置すると考えられており、自然主義、物理主義、神秘主義の要素を組み合わせることが多いです。神の個人性や意志を認めないことから、伝統的な神学的な視点とは異なるものと見なされています。
バラーッス
本日はハーフタイムデー、トランジスタの日、アインシュタイン記念日、日本においては集団疎開の日となっております。
さて、一年も残り半分が近くなってまいりました。
やり残したことなどは沢山あるでしょう、ですが少しでも達成したことを覚えておけば、まあ何かしら気休めぐらいにはなるのではないでしょうか。
あえてネガティブに書くとこんな感じになりますが、やっぱり残り半分も近いので最後まで頑張りましょうね!が一番ポジティブかもしれません。
とはいえ頑張れない人もいるのが世の中ですから、適当にやって、適当に出来たものを褒めて、頑張って出来たものを一生の成果かのように褒め称えましょう。
そんな感じです。
ということで本日は【適度な賞賛よいか】でいきたいと思います。