はてなキーワード: 三世とは
パクリ元→ https://anond.hatelabo.jp/20210212080317
だって楽しそうだったから...(自分は文学的な教育は受けてないし、誰かと読んだ本の感想を共有することなんてないので、元増田に文学サークルとか友人とか出てくるのがうらやましい)
ネタバレありだけど、ちゃんと確認せず書いてるので記憶違いがあるかも。あと、後半になると全然読んでなかったわ。
オデュッセウスがトロイ戦争から帰る途中で船が難破して右往左往頑張るのを眺めるお話なのだけど、勇敢で直情的な普通のおっさんなので苦労するところは苦労してて良い。あと、イリアスと比べても昔の神話らしく出てくる人物とか神様の類がガチで理不尽なので良い。話がズレるけど、イリアスにはディオメデスというやつが主人公然として出ずっぱりなのだけど、オデュッセイアの回想には全く出てこないし、アガメムノンとかアイアスとかと違って他の作者の物語にも出てこないのだけど、あいつなんなん?
途中で読むのをやめた記憶がある。
エディプスコンプレックス(父親に対向心を燃やし、母親に恋慕する、的なやつ)の語源だと聞いて読んだら、全然そういうノリの話じゃなくて「へぇ」ってなったやつ。オイディプス自身は預かり知らぬところで運命に弄ばれて、最後にはすべてを理解してしまって絶望する可哀想な話なのだけど、どうでもよいことで人を殺したことがトリガーでもある(それも運命ではあるのだけど)ので、自業自得感もある。気楽に人を殺してはだめ、絶対。シェイクスピアの悲劇とかもだけど、「100%落ち度がない悲劇の被害者」ってあんまり昔の物語には出てこないね。
タイトルすら知らないやつ、その1
いまいち印象に残ってないけど、なんかずっと酒を楽しんでて幸せそうだなって思ったような気がする。
地獄編の半分くらいまで読んだ。作者(ダンテ)が古代の詩人だか哲学者だかに褒められて地獄めぐりを導いてもらうところから始まって、自分の嫌いなやつ(政敵とか批判者)が地獄で苦しんでるのを巡ってはひたすら口汚く罵って回るという、その性格の悪さというか根暗さに嫌気がさして読むのをやめた。原文だと詩的というか言語的な美しさとかあるらしいけど、こちとら娯楽としてしか本は読まないので日本語で読むからそんなん知らん、こいつは陰湿。
確か冒頭に「酒でも飲みつつゲラゲラ笑いながら聞くためのもんだから」みたいな説明が入るのだけど、そんな感じ。すごいでかい巨人の話だけど、家を椅子にしたと思ったら小便で洪水を起こして家を押し流したりするので、巨人としてのサイズも大概統一性がないんだったはず。なんか「人間の絆」だったかで、大真面目なキャラがラブレーを手放さなかった、みたいな描写があった気がするのだけど、ニュアンスがわかるようなわからんような...と思った記憶がある。
シェイクスピア作品は、意図はどうあれよく「様々な作品の元祖とも言えるものなので、読むと後続の作品がより楽しめる」的に紹介されるのだけど、普通に単体で楽しめると思う。そもそも、別作品を読んでて「あ、これシェイクスピアで見たやつだ!」ってなったからって楽しいか?という感覚が個人的にはある。ひとつ上にラブレー云々も別に良い要素だと思わなかったし。で、ハムレットはシェイクスピアの戯曲の中でも登場人物の精神性の完成度が一番高いと思っていて、劇的さでは「オセロー」とか、キャラクターの鮮烈さでは「リチャード三世」とかには劣るかもしれないけど、舞台装置としてのキャラクターではなく、"異なる価値観、教育etc...の元に自分で考えて行動する登場人物たちがつくる物語"としての面白さが本当に高いと思う。歴史的価値とかは忘れろ、楽しめ。
パルケエスパーニャにいた。
巻末の解説すら読まないことが多いので、アイルランド云々の話をパクリ元で見て「そうだったんだー」ってなった。それぞれの国には短編小説くらいの分量しか滞在しないので、それぞれ短編SFとか的なノリで読んで面白かった記憶がある。自分は自然科学系の研究者なので、科学なき探求(無為)をひたすらやってる国の印象が強い。なんかおまじない的なやつで作物の収穫量が増えるのでは?ってそれを試してるんだけど、当たり前に効果はまったくないし、それを評価するというプロセスが存在しないので無限に無為を繰り返してた。
タイトルすら知らないやつ、その2。
「目玉の話」は読んだけど、その結果として「悪徳の栄え」は読まなくて良いかな。ってなったやつ。
最強天才のファウスト博士が悪魔と契約して、「悪魔の力で楽しませてやる代わりに、人生楽しみきって満足したら魂もらうからな」って契約をする話なのだけど、すべての学問を修めた最強天才のはずのファウスト博士は普通に精神的に未熟なおっさんなので、酒飲んで暴れたり恋愛ごとやったり神話的な体験したりと色々していくなかでの言動がいちいち子供じみてるのが面白い。最後の理想国家のために働く的なパートでいきなり聖人的になってたり、全体の流れが説教臭いのが多少鼻につくのだけど、ラストシーンの迫力は自分の読書歴の中でトップクラスだと思う。ちなみにこの作品は「時よ止まれ、お前は美しい」って言葉の元祖なのだけど、これってファウスト博士からの「この世界を楽しみ尽くして満足した。これ以上の瞬間などこれ以降はありえない(だからもう魂を持っていって良いよ)」という悪魔への宣言で、なんかラブロマンス的なシーンで使われてるの見ると、「ん?」てなるんよね。
「面白かったな」という感想を持った記憶はあるのに内容はまったく思い出せない。なんか年上美人と若者が恋愛する話だったと思う。多分登場人物が本気で生きてる感があって各シーンは面白いって読めたけど、全体の流れにはさほどの興味が持てなかったタイプの話だと思う。
うだつの上がらない貧乏役人のおじさんが一念発起して外套を新しく買うのだけど、可哀想な目にあう。っていう胸糞の悪い類の話。どこかユーモラスなので面白がりつつも、「可哀想じゃんヒドイよ!」って思いながら読んだ。みじめな人間をみじめな人間の視点で描ききるって案外すごいことだと思う。でもゴーゴリのナンセンス小説ならもっとポップな「鼻」のほうが好きだし、大真面目な雰囲気でナンセンスをやっている感のある「死せる魂」も良い。死せる魂は未完だけど、なんだかんだ一つのエピソードがちゃんと完結してるので、未完だからって敬遠しないで良いと思うよ。
タイトルとあらすじを知ってて、なので読んでいない。
主人公の女性の半生記的なところがある物語なのだけど、主要登場人物であるキャサリン(主人公)やヒースクリフの主観的感情があまり描写されない(まったくされない?)ので、なんかヒステリックで意味不明な言動のキャサリンと内心が読み取れないヒースクリフが読者を置いてけぼりにしながらすごく力強くて迫力があって得体のしれない物語を作っていく話だったと思う。主観的情報がないからこそ感じられるキャラクターたちの感情の力強さってなんかあるよね。
クジラに関する雑学(どう考えてもガセのものがある)がしょっちゅうはいってくるクジラ漁船の物語(体感で全体の3割)。エイハブ船長とクイークエグのキャラクターの良さを傍観者主人公の視点で楽しむ感じだった気がする。ラストシーンの映像的な迫力は「ファウスト」のラストシーンの迫力にも匹敵するものがあると思う。文章の映像的迫力ってなんよ?って自分も思うけど、なんかそういうのはあるんだ。多分。
間違えなく読んでるし、面白かったと思った記憶もあるけど内容が思い出せないやつその2。多分、貴族の恋愛ものってジャンルはいろんな作品があるので、自分の中でごっちゃになってるところがあるんだと思う。あらすじを読むとなんとなく思い出すのだけど...
ディズニーの映画って、ノートルダムの鐘とかを筆頭にとんでもなく改変されてるもんだけど、不思議の国のアリスについては、その「不思議の国」感は素敵に映像化されてると思う。一方で、原作の「ひねくれイギリス人が伝わるかどうかは無視してそのアイロニーを子供にぶつけてる感」はなくなってるので、そういうひねくれたおっさんのノリのために読んでみても良いと思う。
ドストエフスキーはノイローゼ(死語)患者の独白を描かせると人類史最強だと思っているのだけど、この作品でも割とそういうところがある。ノイローゼ感のヤバさだけなら地下室の手記とか白夜でも良い。でも個人的には「罪と罰」の主人公の単純なノイローゼ患者ではないせめぎあい感が一番好き。
由緒ある一家が没落していくんだけど、正常化バイアスなのかなんなのかどこか他人事で、お母さんなんて特に事が進む毎に悲しんではいるんだけど、一切その精神性が変わらなくて(成長しなくて)、「多分この人死ぬまでこうなんだろうな...」感があってすごい。ラストにお年寄りの使用人に対する家族全員に関するシーンがあるのだけど、それがすごい印象的で、チェーホフの他の作品や戯曲を抑えてこれが良く代表作として出てくるのはこのシーンのせいだな、って個人的には思ってる。自分はチェーホフは戯曲より小説のほうが好き。
5冊だか6冊だかにのうちの一冊目だけ読んで続きを読んでなかった。忘れてたわ。
読んだけどあんまり好きになれなかった記憶がある。カフカは基本的にキャラクターに人間味がないのが面白いところなのだと思っているんだけど、「変身」とかの短編ならともかく、「城」とかこれくらいの分量になると、人間味のないお話は自分には楽しめないのだな、と思った。
読んでないけど、なぜかあらすじは知ってる。
読んでない。「ダブリン市民」があまり楽しめなかったという記憶があって手を出していない。ダブリン市民はどんな話だったか覚えてない。
結核患者の療養施設であるところのサナトリウムで生活するおっさんの話。ワナビー小説家だか学者だか(主人公ではない)のエピソードや、立派な紳士とその子供の印象的な挿話があったかと思うと主人公と別の患者の哲学かなにかの論争がてんやわんやあったり、女性患者との恋愛未満関係の話があったりと色々な要素がある。ただ、どの部分でも人物の精神性についてバリエーション豊かで不思議なリアリティのあるキャラクターが独特な言動をするので楽しめた。でも、突然こっくりさんをはじめたときは「作者どうした?」って思ったよ。なんなら今でも思ってるよ。
タイトルすら知らないやつその4にして作者名も知らないやつその2。
タイトルすら知らないやつその5にして作者名も知らないやつその3。自分は1900年あたりを境に新しい作品に苦手意識があってあんまり読んでないんだなって実感する。
このへんはすごい現代的なんだけど結構好き。現代的というのは勝手な自分の定義なのだけど、この辺の世代になるとやっぱり文章が少なからず技巧的になって、観念的な表現とか比喩とかが増えてくるので、「うるせぇ、自分の感情はもっとわかりやすく説明しろ!」って要求をしたくなるのだった。でもこの話は割とそれでもなんだかんだ心理がわかるので楽しめた。
このお話はすごい好き。南北戦争前の南部(黒人がバリバリ奴隷として使われてる時代・地域)のある町にトマス・サトペンというヤバげなおっさんがやってきて領地を開拓し、南北戦争を挟みつつ色々する話なのだけど、時系列で出来事を追っかけずに何人かの周囲の人達の回想などでだんだんとそのおっさんの人生の全体像を見せてくる構造になっていて、ただのヤバげなチンピラおっさんだったサトペンが、相応の過去と野望をもったクソチンピラになっていく(自分の中で)のがすごい迫力満点で面白かった。この作者の有名どころの読みにくさは、「響きと怒り」>「アブロサム、アブロサム!」>「八月の光」なので、この逆順に読むのがおすすめ、短編集から読むのも良いけど、「ウォッシュ」だけは「アブロサム、アブロサム!」のネタバレだから後に回すのがおすすめ。
タイトルすら知らないやつその6にして作者名も知らないやつその4
そこまで好きにはなれなかった。説教臭さとも違うなんか面倒臭い思想みたいなものが全体に漂ってる感じで、個人的にはそれが鼻に付いたんだろうなぁって思う。
読もうと思ってたけど読んでなかったのを思い出した。読もう。
なんか意味がありそうで(少なくとも自分が考える限りは)何も意味がないという、意味ありげさで成り立っている戯曲。ただ、それぞれのシーンが映像としてかなり印象的なので、その力でのめり込みながら読んた。で、読んだあと思い返すんだけど、結局何がなんだったのかイマイチわからないのだった。偉そうなご主人様とその奴隷のシーンとかあったけど、結局なんだったんだあいつら。
タイトルすら知らないやつその7にして作者名も知らないやつその5
読んだはずだけどちょっと印象が薄い。同じ作者の「愛人」がそうだったと思うのだけど、登場人物の心情描写が変に淡々としていて、でも行動はどこか直情的で不思議だなぁと思いながら読んだ気がする。その不思議さを楽しむのかな。なんか村上春樹の小説の登場人物の行動を感情的にしたような感じ。
タイトルすら知らないやつその8にして作者名も知らないやつその6。自然科学の研究者なのにSFは全然読まないのだった。でも、SFに興味のない研究者って外部の人が思うよりは多いと思うよ。そもそも本を読まない人をおいておいたとしても。
ラテンアメリカの文学って魔術的リアリズムとかなんとかって、「なんかありそうにない魔術的なシーンだけど、不思議とリアリティがある」みたいな評価がされてるらしいのだけど、それってヨーロッパ人の感性で日本人はヨーロッパ文学も大概魔術的なものとして受容してるところあるよなって思う。ただ、それはともかくとして、この作者の作品ではその言葉がしっくりくるとは思う。同じ作者の「族長の秋」とか短編の「エレンディラ」とかは割とお話全体のストーリーが意味と(場合によっては)ある種の寓意を持っているのだけど、この作品だけは全体の流れとかはあまり意味ないんじゃないかと個人的に思う(何度も読めばなにか見えるのかもだけど...)。それぞれのシーンをただただ楽しんでいたら、読む前に覚悟した長さの4分の1くらいの体感長さで読みきっていた。
タイトルすら知らないやつその9にして作者名も知らないやつその7。なんかすごそうなあらすじだね。
詩はたしなまないから知らない。ツエランはなんか親が読んでて好きだと言ってた気がする。ブレイクって多分宗教画を描く人でもあると思うんだけど、この人の絵はどっかで見てすごいなぁって思った気がする。
ちなみに、「哲学・思想」のパートと「日本文学」のパートは両方合わせても5~6作品しか読んでなかった。多分後30年経ってもさほど増えないだろうなと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20210114112851
オーカーン選手のTTDは特段崩れている訳では無いし、天山選手自身も様々な相手にTTDを仕掛けており、大事に至った事は恐らくない。
もし天山選手の負傷が本当であった場合、天山選手は首の古傷があるとはいえ自身が1番詳しいはずの技の受け身を失敗した事になる。
そもそも天山選手は49歳でありバリバリ動くのは難しくなっている。
現在天山選手はマスターワト選手のディーバ兼師匠的ポジションのセコンドに落ち着いている。
おそらく今後オーカーン選手が所属するUNITED EMPIREと第三世代の抗争になるのだろう。
きっと届いてくれるといいなとおもっています。
自分に増田さんは似ているなと思ったので書き込みました。色々なことを思い出したり、深く考えたりするのは、脳がつかれますよね。例えば、三世代同居の同僚は何も考えてないし、それが普通みたいです。また、医療者は経済を回して富を作る人のおかげというのも正しいのですが、多くの医療者はそこまで考えません。また、産業医に相談した際に、医療者が病んでいたらいけないというのは、とても立派ですが、薬を飲んでる医師も多いと思います。
なので、結論として、増田さんは多くのことを考える優しい人なのです。世の中の人より、明らかに他人を考え、心を感じ、何かをしようとしている、そのために、色々ときちんと記憶しているといえます。そのような人は、その分他の人より脳が疲れていると言えます。他の人とよりも脳を癒すことが大切です。
ここからは、対応策であり、完全に私見で、参考になるかはわかりません。
対応策は、極端に脳が疲れている人PTSDの方や悩んでいる方の特徴と同じだといえます。
そのような方は、どうやって脳を癒しているかというと栄養で労っています。具体的には、ナイアシンとかです。水溶性ビタミンは副作用も少ないので、取り組みやすいと思います。
今年の所謂年末年始は半分以上勤務予定で、丸一年田舎に帰れていない者の取り留めのないつぶやきである。
患者さん(以後患者)は感染予防の意識があるのかないのか、しゃべりにくいという理由で高確率でマスクをわざわざ外して話そうとするのを毎回マスクをつけてくださいというのにも疲れてきた。正直あなたのために言っているのではなくこちらを濃厚接触者にしないでほしいという気持ちだけである。個室の患者にマスクなしの状態で泡をとばしながら詰め寄られ二重の意味で怖かった。高齢者とはいえ大柄の男性に詰め寄られることがどれだけ怖いか想像してほしい。高齢になればなるほど理性の箍が外れるのか威嚇や恫喝は当たり前で、何度も詰め寄られたり物を投げられた。コロナ患者はベッドを長期間占有するので経営と人員が圧迫される。医療機関への例の20万円はまだ…?コロナ病棟に関わる時の緊張は言葉に尽くせない。どこの病院も面会謝絶で患者はストレスが溜まっているのかスタッフに対する当たりがきつい。そしてすごく絡まれる。病気というストレス要因にさらに負荷がかかっているからしょうがない。
ただ、前からだけど正直男の人に夢が持てなくなった。女性も獰猛な人がいるので性別に限らないけれども。やっぱり筋肉量の差というか物理的な差は大きい。大柄な人を見ると将来介護大変だな…せん妄の時の抑制とか薬剤の調整難しそう…とか思ってしまう。そういえば記憶から抹消していたが、以前男性患者に言葉のセクハラ受けたことが何回かあったな…。とめどない不快感と予後不良な患者だということ、こういう心理状況だから言っているんだろうなっていう予測と。でもやっぱり気持ち悪さが渦巻いて、一瞬絶句した後受け流したけど、今思い出してもやっぱり気持ち悪い。今まで誰にも言ったことないけど気持ち悪かったよ。どの接客業にも有り得る話。
医療従事者でも危機意識はばらばらだとは思う。なぜ三世代同居の同僚の方が一人暮らしの自分より危機管理が甘いのか(食事等)疑問である。自分が感染していても自分が一人で苦しむだけだが、あなたが感染すれば祖父母を殺す可能性があることに意識が向かないんだろうか。我慢しているから…みたいなことを同僚が前に言っていたが、家族と同居してごはんを食べ、昼は他の職員と一緒にご飯を食べ、年始は家族旅行に行くと言っていたあなたのどこが我慢しているんだろうか。なったらなったときに考えるという他の同僚の言葉にボロボロに傷つけられながら一人でご飯を食べる。一般の人の無理解や行動にはそこまで傷つかないが、同職種の言葉や態度にはこんなに傷つけられている。クラスタ発生の医療従事者を断る医療機関のどちらの気持ちもわかるから辛い。友達からの食事の誘いを断るのにも疲れてきた。
少し前は所謂コロナ鬱だったんだろう、食事が食べられなくなって一か月で5㎏痩せた。体重が10%以上減少するのは正直危険だとはわかっていた。ここまで追い詰められたのは国試の時以来だったと思う。心の中をよくわからない不安が渦巻いて食べ物を見ても食べ物と思えず、ずっと動悸が収まらなかった。寝ることもできないし、這う這うの体でいつも通りの仕事をしていた。同期にも友達にも家族にも誰にも言えなかった。恐慌状態に陥って混乱していた。縋る思いで行った産業医に薬(ジプレキサっていう抗精神病薬)を飲んだ方がいいといわれて突っぱねて数か月、なんとか回復してきた。だって心が弱っている医療従事者に誰も世話してもらいたくないでしょう?別に薬を否定するわけじゃないけど、もう少し踏んばりたかったし、負けたくなかった。正直自分はあまり心が強くない方なんだと思う。夜な夜な色んなこと思い出してワーッとなるし、消えたくなる衝動が何回もある。生きたい人がいるとかもっといいことがあるとかそういうことじゃない。自分というものを飲み込んで、思考が覆われて身の置き場がない衝動。今は若さというか理性が衝動をねじ伏せているけど弱った時や理性が働かなくなった時が怖い。家族が死んだときの「もう逝ってしまった」という親の慟哭が耳に残って離れない。自分の患者が休み明けにいなくなっていることは何度もあった。老いも若きも関係なくあっという間に、少しのことで人は死ぬ。わかっているし、患者の死にももちろんダメージを受けている。それなのに家族というだけで死というものがこんなにもつらい…このダメージは何だろうか。ずっと前に祖父母がなくなったときに親がポツリと呟いたもうこれだけになっちゃったねという言葉が心に迫る。
当直明けのぼんやりした頭でこれを書いている。ずっと今年の頭からため込んできたよしなしごとをどこかに吐き出したかった。これくらいは守秘義務を逸脱しないし個人を特定されないと判断する。今年のボーナスは厳しいかもしれない。奨学金も家賃も待ってはくれないから働かないと。ほしいのは感謝でも賛辞でも卑下でもなく切実に金や資材だ。いつまで続くのか、そして出会いもないままこのまま独り身なのかはわからないが、だらだら頑張っていきたい。医療の基盤のお金も経済活動から生まれるので経済を回している皆さんには頭が上がらない。うまく言葉にできないが頑張ってくださいと言いたい。とある団体(グループ)のファンをしているが推しが楽しそうにおいしいものを食べて好きなことをしているのを見て救われている自分もいる。忙しすぎて机の上で突っ伏して寝ていたDrは、途中で何回も電話が鳴って起こされていた。その後食堂でスマホでドラマを見ながらご飯をかきこんでいる光景を見て好きなドラマをめいいっぱい見てくださいという気持ちになった。現場に差し入れというか製品を寄付して下さる企業もある。人が生み出すいろいろなモノに支えられている。ありがとう。
患者さんにはよくなってほしいし、予後が悪い人には少しでもいい時間を長く過ごしてほしい。自分が接する人は元気になって帰るというより完治しない病気とどうつきあっていくか、そしていつか訪れる最期を楽にするかという人が多い。痛みや苦しみをやわらげてあげて、ご飯を食べられるのならお楽しみレベルの好きなものをたべてもらって、お家が好きなら最期はお家で。家族の心の準備も大事なので少しずつ心づもりをして、家族も本人も穏やかに最期が迎えられるように。
この気持ちは嘘じゃないのに。
https://anond.hatelabo.jp/20200813115920
https://anond.hatelabo.jp/20200813164528
久々に日記を書きたくなったので、今回は方向性を変えて年代記風の記事を投下してみます。
私自身は業界の全盛期である80年代~90年代前半を経験しておらず、当時の状況を記述するのに十分な知識がないため、その時代については省いています。
ということで、私がこの業界に入ることになる少し前の90年代半ばから物語を開始します。
※工場の呼び名は企業の再編によって変わる事が多々あるので、原則立地で表記している。
80年代後半に栄華を極めた日本半導体産業であったが、日米貿易摩擦の影響で一時に比べて勢いを失っていた。
また、韓国企業の台頭により得意分野のDRAMの雲行きが怪しくなり始めたのもこの時期である。
(余談だが、日本の半導体衰退の原因としてよく話題に上がる韓国での週末技術者バイトはさらに昔の話である。このころにはすでに強力な競合に育っていた。)
とはいえ世界的にみると日本の電機メーカーは資金力・技術力ともに上位であり、一時的な不況を乗り越えさえすれば再び繁栄が訪れると誰もが信じていた。
そんな時代背景の元、日本企業は貿易摩擦に対抗しつつ、さらなる勢力拡大を図るため、自動車産業の成功例に倣い世界各地で現地生産を進めることで変化に対応しようとしていた。
企業名 | 進出先 | 設立 |
NEC | カリフォルニア州ローズビル | 1981 |
富士通 | オレゴン州グラシャム | 1988 |
三菱 | ノースカロライナ州ダーラム | 1989 |
日立 | テキサス州アービング | 1990 |
松下 | ワシントン州ピュアラップ(National Semiconductorより買収) | 1991 |
東芝 | ヴァージニア州マナサス(IBMとの合弁でドミニオンセミコンダクタ設立) | 1996 |
企業名 | 進出先 | 設立 |
NEC | 英 リビングストン | 1982 |
日立 | 独 ランツフルト | 1990 |
三菱 | 独 アーヘン | 1990 |
富士通 | 英 ダーラム | 1991 |
企業名 | 進出先 | 設立 |
NEC | 中国首鋼集団と合弁工場設立 | 1991 |
三菱 | 台湾力晶半導体(Power Chip)と提携しDRAM技術供与 | 1994 |
東芝 | 台湾華邦電子(Winbond)と提携しDRAM技術供与 | 1995 |
沖電気 | 台湾南亜科技(NANYA)と提携しDRAM技術供与 | 1995 |
日立 | 新日本製鉄及びシンガポール開発庁と共同出資でシンガポールに工場建設 | 1996 |
Windows95ブームの終焉による半導体のだふつき、アジア通貨危機後の韓国メーカーのなりふり構わぬ安値攻勢、ITバブル崩壊による半導体需要の激減と、短期間で何度も悪化する半導体市況。
次第に半導体産業は将来性を危ぶまれるようになり、成長分野から社内の『お荷物』とみなされるようになっていった。
かつて半導体事業の中核だったDRAMは、優位性を失い韓国企業に覇権を譲り渡してしまった。
資金面でも徐々に脱落するメーカーが現れ始める。はじめについていけなくなったのは、バブル期に事業の多角化を進めて半導体に新規参入した鉄鋼メーカーだった。
続いて総合電機各社も規模縮小に向かう。世界中に作った半導体工場は投資の回収ができないまま次々と閉鎖されていった...
工場の現地化の試みは失敗に終わり、10年程度という短い期間での工場立ち上げ・閉鎖はマンパワーと資金の浪費に終わった。
こうして各社は体力を削られ、余力を失っていくのだった。
NEC、日立、DRAM事業の統合を決定。エルピーダメモリ設立。
神戸製鋼、米TIと合弁の西脇の半導体工場を米Micronに売却
日立、台湾UMCと合同で初の300mmェハ(従来の主力の直径200mmのウェハから2.25倍の面積になり、ざっくりいえば同じ工程数で2倍程度のChipが取れてコストを削減可能。現在に至るまで主流のウェハサイズ。)を使用する工場、トレセンティテクノロジを常陸那珂に設立
東芝、DRAM撤退。北米拠点のドミニオンセミコンダクタを米Micronに売却。
NEC、非メモリー半導体事業を分社化、NECエレクトロニクスを設立。
繰り返す半導体市況の激しい変動も落ち着きを取り戻し、待ち望んだ好景気がやってきた。
90年代後半からの不況で体力を消耗した日本企業だが、いまだ技術力は健在。
折からブームとなっていた『選択と集中』を合言葉に、各社の得意分野に集中投資だ!
パソコンではアメリカ企業に後れを取ってシェアを失ったが、液晶・プラズマをはじめとするテレビ、DVDレコーダーにデジカメ等、日本のお家芸である家電のデジタル化が進展する今こそ最大のチャンス!
さらに、世界中で規格が共通化された第三世代携帯電話が普及すれば、圧倒的な先進性を誇る日本の携帯電話が天下を取れるのだ!半導体復活の時はついに来た!!!
製造業の国内回帰の波に乗り、生産性に優れる300mmウェハの工場をどんどん建てて再起をねらうのだ!
日立と三菱がロジック半導体事業を統合、世界三位の半導体メーカールネサステクノロジ誕生。
富士通、米AMDとNOR型Flashメモリ事業を統合、Spansion設立。
エルピーダ、三菱電機からDRAM事業を譲渡。日本の残存DRAM事業が集約。新社長を外部招聘し、反転攻勢開始
東芝、四日市に300mm対応のNAND型Flash工場、四日市第3工場建設開始
Spansion、会津若松に300mm対応のNOR型Flash工場建設を発表
ルネサス、UMCからトレセンティテクノロジの持ち株を買収。完全子会社化
東芝、四日市に300mm対応のNAND型Flash第4工場を建設開始
2000年代の日本企業の反転攻勢は、リーマンショックで終わってしまった。
日本の電機業界が成功を夢見たデジタル家電は韓国勢との競争に敗れ、携帯電話でも海外展開に失敗した。
90年代から繰り返し計上してきた赤字と、2000年代の大規模投資を経た今、半導体工場への投資を継続する資金的余力はもはや残っていなかった。
不採算部門とみなされるようになった半導体事業は設備投資が止まり、建設されてからわずか数年で時代遅れとなってしまった。
これ以降は、東芝のNAND型Flashメモリや、ソニーのイメージセンサーといった競争力を維持している分野、また旧エルピーダのDRAM工場といった外資の資金を得た分野のみが投資を継続されることになる。
ルネサス、日立時代からの欧州拠点、ランツフルト工場をLファウンドリーに売却
日立、シンガポールの工場をシンガポールのチャータードセミコンダクタに売却
ルネサスとNECエレが合併。世界第三位の半導体メーカー、ルネサスエレクトロニクス発足。フィンランドのノキアからモデム部門を買収。
ルネサスエレ、NEC時代からの北米拠点、ローズビル工場を独テレフンケンに売却
米オン・セミコンダクター、三洋電機の半導体事業を買収
ルネサスエレ、ノキアから買収したモデム事業から撤退、さらに2300人リストラ。またNEC時代の中国の合弁を解消し撤退。
富士通、マイコン・アナログ事業を再建したSpansionに売却
東芝、四日市の300mm第5工場2期分稼働。200mmの第2工場を300mmに建て替え
Panasonic、半導体工場をまとめてイスラエルのTower Jazzに売却
富士通とPanasonic、SoC設計部門を統合、ソシオネクスト設立
この時期に至ってようやく主要半導体メーカーの工場再編が一通り完了し、現在につながる枠組みがほぼ出来上がった。
リーマンショック後の大規模再編で日本企業の世界的地位はかつてないまでに低下し、国内の工場においても外資系の傘下に入るところが増えた。
現在半導体の先端工場に継続投資できる日本企業は、イメージセンサーに強いソニーと東芝のメモリ事業を引き継いだキオクシアだけである。
はたして日本の半導体産業は今後どうなるのだろうか?再び世界に飛躍する日はやってくるのだろうか?
東芝、四日市の第2工場建て替え完了。大分と岩手の200mm工場を分社化、ジャパンセミコンダクターを設立。
東芝、本体の粉飾決算のあおりを受けてメモリ事業を分社化。東芝メモリ設立。四日市に300mmの第6工場建設開始。さらに北上市に300mm新工場を建設
ルネサスエレ、米intersilを買収
東芝メモリ、四日市の第6工場が稼働。多国籍連合のファンド、パンゲアから出資を受ける。
富士通、桑名の300mm工場を台湾UMCに売却。また、会津若松の200mm工場も米オン・セミコンダクターに売却。
Panasonic、残ったマイコン等の事業を台湾Nuvotonに売却して半導体から撤退
「古い保守派」にとっては家事育児介護は女が当たり前にやるべき義務であって、別にそれをするから女が偉い訳でもないし
それは男が行う労働と比べたら遥かに価値がないもの、でも女は男より劣った生き物だから価値がないことしか出来ないのだ、ってのが根本的な考え方
そうなの?良く知らなくてごめん
保守?古い人たちって「母親の愛情」とか「女性の繊細さ」とかに異様に礼賛するじゃん
母親の育児・母乳・手作りご飯などに対して恐ろしく高い価値をつける古い人たちがいるけどあれは建前ってことなのかな
欧米でも家事育児の蔑視はあるよね そういうのはメイドやシッターがやる時間給の単純作業だからどんどん外注しましょ!みたいな
保守?の人の本音では福井モデルとかの「三世代同居で老親に子供預けて夫婦は共働き」が理想なのかもねー
それは実際になりたくてなってる専業主婦が少ない故でしょ
専業主婦という選択ができる世帯は限られるし、確かに今は転勤や子育てで共働きに挫折してしまった人のほうが多いんだろうな
日本の若い独身女性って専業主婦志望の人がもともと多いそうだけど(2013年の厚労省の調査で3割くらい?)
それは学生時代に聞いた在日三世の子の入学式での新入生代表挨拶だった。
動かしつづける。自分を。未来を。 The Future Isn’t Waiting. | Nike
CMの内容は在日の子、ハーフの子、いじめ被害者の3人の少女たちが、サッカーを通して差別やいじめといった日々の苦悩や葛藤と向き合い、自分の生き方を選んでいく、というような内容だ。
このCMについてはSNS上で色々討論されているらしく、YouTubeの評価からも見て取れるように賛否両論である。
自分は特に問題を感じる事なく見ていたので、ここまで大きな話題になると思っておらず驚いている。それよりも、はじめに述べた学生時代に聞いた新入生代表挨拶の事を思い出していた。
産まれたのは田舎に片足を突っ込んだような地方都市の外れ、治安もあまりよろしくない場所で娯楽なんてないような場所だった。
あるのはカルトに区分されている宗教の地方本部とされる教会、あとヤクザの事務所にラブホテルくらいだった。
そんな場所に住むのは訳アリの人間が多く、例にもれず我が家も絵に描いたような機能不全家族だった。
多重債務者でありながら定職につかず、家族に暴力だけは振るう父親。何事においても被害者意識が高く、必要以上に他人に対して攻撃的すぎる母親。
怒鳴り声が響かない日はまずなく、幼少時何度泣き叫んだだろう。物理的に命の危険を感じた事は多すぎて思い出せず、都市部であれば児相か警察に通報されていたのだろう。そんなレベルに酷かった。
だがそんな我が家の日常が許される程に、また我が家と同じよう怒号や女の金切り声が響く家が集まっている場所だった。
隣家に住む老婆がいた。お孫さんが定期的に遊びに来ていて、周囲に同年代の仲がいい子がいなかった自分は一緒によく遊んでもらっていた。
簡単な料理を教えてもらったり、花札や株札の遊び方を教えてもらった。その老婆の所に遊びに行くのが楽しみで、お孫さんは今週くるのかなぁなんて毎週楽しみにしていた。
そして老婆が施設に入る事になり退去した数年後、あの人は在日一世だからね、と両親がこぼしたのを覚えている。その発言の意図は未だにわからないが、確かに彼女が教えてくれた料理は韓国料理に近いものが多かったような気がする。
その老婆は通名を名乗っていた。両親から民族名を聞いたような記憶があるが覚えていない。
通っていた小学校の近くには朝鮮学校があり、三年生になるとそこの生徒と交流会のような物定期行事としてあった。それにあたり韓国という国が日本の近くにある事、そこに国籍を置く人々が通う学校が近くにあるという事、簡単にそれらを数か月にわたって学んだ。
学んだ内容については覚えてないのだが、チマチョゴリを着た彼女たちが(少年もいたのかもしれないが記憶にない。それほどまでにチマチョゴリを着た彼女らの印象が強すぎるのだ)日本で生活している為、自国である韓国を知らない。だから韓国を知るために、そして韓国という国を忘れない為に専用の学校に通い、言語も含めて学んでいるのだと言っていたのを強烈に覚えている。
彼らの胸にはハングルで書かれたネームプレートがつけられていた。
そんな幼少時を送ったからか、韓国という国に嫌悪感を抱く事なく、自然と私は韓国という国、文化に興味を覚え英語とは別に韓国語を選択し、学ぶ事となった。進学先を決める強いファクターにもなった。
学ぶにあたりそこで出会った人達は全員が民族名を名乗っていた。ネームプレートはハングルではなく我々が読めるように漢字だったけれど、漢字一文字のそれをつけていた。
中学からの内進生であった自分は、中学の頃から高校での授業を睨んだ進学コースにいた為、入学式に特別な感情を抱く事なくただの年間行事の一つとして参加していた。
国歌斉唱、校歌斉唱、式辞、祝辞とつつがなく進んで新入生代表挨拶。去年も見た光景をあくび交じりに見ていれば、壇上には知らない子が立っていた。
正直なところ、代表挨拶は内進生の子、もっと言うと中学時代の生徒会長あたりだろうと踏んでいたので外部入学生がするのが意外だったのだ。
そう言って始められたそれは、彼女の生い立ち交じりの自己紹介だった。
在日三世である彼女は民族名と通名を持っている事。日本で生まれた為母国とされる韓国を知らない事。そして中学までは通名で生活をしていた事。
自分の正しい名は通名である、だが中学までは通名でいたためにそれを名乗る事ができず、また名乗らなかったが故に民族名を誰にも呼ばれる事がなかった事。
自分は何なのか、日本人ではないというが韓国語は離せないし韓国にいた記憶もない。日本で生まれ、日本で育ち、日本語を第一言語として話している。だが国籍は韓国籍で、知らない場所を母国として両親からは語られる。
それに実感は伴わず、ただ強い疎外感だけが常につきまとうのだと語る彼女に、どれだけの苦悩があっただろう。言語と韓国内の文化は学んでいたけれど、在日コリアンという問題を、更に在日三世と呼ばれる人たちが抱えている問題について無知だった自分は、彼女の言葉に頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
ただ高校からは民族名で通い、今日からその名と共に胸を張って生きていくのだと語っていたのは覚えている。
「自分は『(通名)』ではない、『(民族名)』です。よかったら。『(民族名)ちゃん』と、呼んでください」
そう結んで壇上を降りた彼女の強い目を、意思と希望に溢れた目を思い出す。
外部生には彼女と同じ選択をした三世の子が多くいた。聞けば民族名を名乗る為にこの学校を選んだ、というような子もいた。
そしてその全員が、壇上で生い立ちを語った彼女と同じ目をしていたのを覚えている。
CMの話に戻そう。
CMの中で女の子が山本(YAMAMOTO)とプリントされているユニフォームの部分を、金(KIM)と黄色いテープかなにかで修正したのを着て歩くシーンがある。
これは誰かによるいじめによってなのか、それとも彼女が己で修正した物なのかは不明だが、自分は「彼女が修正した物なんだ」と受け取った。
チマチョゴリを着て怯えるように通学していた彼女は、きっと自分が何者なのかがわからなかったのだろう。だが、彼女は民族名を名乗る事を選んだのだ、彼女が彼女である為に。
CMの意図としては、それはサッカー(=スポーツ)が切っ掛けなのだろう。そしてマイノリティとされ虐げられる人々が、ありのまま生きる事ができる未来を、進もうとする努力を応援していますというメッセージと共に。
3世の時点で強かった国籍からくる自己への戸惑いは、更に強い物だろう。
その恐怖を想像するしかできないが、その世代の彼らが納得のできる選択ができる事を、自己に胸を張ることができる人生を送れる事を願ってやまない。
世の中には『自動車』とか『バイク』とか便利なものがあるのだが、東京の人は知らないんだよな。
不便な電車を「最高のもの」だと疑いもせず、地下鉄で行ける範囲に閉じこもって生きていく。
スマホがあるのに、「ガラケーは最高に便利!電話もメールもあるしネットでニュースも見れるし買い物もできる、何も困らない!」「スマホは便利かもしれないがテンキーないし折り畳みもできないし電話しにくい」ってかたくなに新しいものを試そうともしない。
親の世代は外からやってきた人が多いから別の世界を知っているが、二世・三世になると東京しか知らないんだよね。中途半端に便利なもんたから外に出ようとしない。結果、井の中の蛙になってしまう、しかもそれに気付かない。
世の中には『自動車』とか『バイク』とか便利なものがあるのだが、東京の人は知らないんだよな。
不便な電車を「最高のもの」だと疑いもせず、地下鉄で行ける範囲に閉じこもって生きていく。
スマホがあるのに、「ガラケーは最高に便利!電話もメールもあるしネットでニュースも見れるし買い物もできる、何も困らない!」「スマホは便利かもしれないがテンキーないし折り畳みもできないし電話しにくい」ってかたくなに新しいものを試そうともしない。
親の世代は外からやってきた人が多いから別の世界を知っているが、二世・三世になると東京しか知らないんだよね。中途半端に便利なもんたから外に出ようとしない。結果、井の中の蛙になってしまう、しかもそれに気付かない。
太古の時代、ときの王であったスガーン三世はGOTOキャンペーンを展開した。
これにより太古の人類は実質無銭飲食の錬金術を発見し、くら寿司アフリカ店に殺到したと当時の壁画にも記述がある。
しかし、
「いや、柱っていったら鬼(禁則事項です)」
といった議論が起こった。
そこでスガーン三世は新たなるGOTOキャンペーン、GOTOイースト、GOTOウェストを新たに展開した。
人類は最初はGOTOトラベルとの違いが分からんと憤怒しながらもマイルを貯めることに勤しんでいたが、
これが人類をアフリカ大陸から遥か西、遥か東への民族大移動へと発展させる契機となった。
また、
「Go to WestではなくGo Westであってtoはいらないのではないか?」
といった意見もあったがスガーン三世は記憶にございませんと言うだけであった。
2020年、今、新たなるGOTOキャンペーンが展開されようとしていた。
その名も「GOTOユニバース」、次なるGOTOキャンペーンは宇宙という噂がある。
GOTOユニバースによって、人類は宇宙開拓移民時代を迎えるであろう。
懐かしいな。実家の周りも昭和50年代初めまでは舗装されていなかった。
家は近所でも一番最後まで五右衛門風呂が残っていて、なんと昭和63年まで現役だった。近所の大工さんやってる家から薪を分けてもらって、祖父が薪割りして釜にくべてお風呂を沸かしてくれた。夕方、家の中は燻されたような匂いでいっぱいになった。途中で湯がぬるくなったら大声で呼んで、父か祖父が追い焚きをしてくれた。
当時はまだ男にも家事の割り当てがあった。
祖父は夕方になったら家中のゴミ箱からごみを集めて焼却炉で燃やす(禁止されていなかった)。生ゴミは堆肥用に。回収日に金属ごみを出しに行くのも天ぷら油の処理も祖父の仕事だった。
小さな畑と田んぼしかなかったので農業での現金収入はないが、家族が食べるぶんの野菜を育てるのも祖父の仕事だった。それから農具の手入れも庭仕事も。
祖母の家事分担は私と妹の子守り、自分と祖父のぶんの洗濯と掃除。父と母が勤めに出た後、全員の茶碗洗ってくれるのも祖母だった。午後みんなの洗濯物を取り込んで畳むのも祖母。料理は苦手だったので主に母が作った。祖母はあと内職の仕事をしていた。その間子供は子供同士勝手に遊ぶかひとり遊び。大人に遊び相手をしてもらった記憶はあまりない。宿題も見てもらってなくて、一人で適当にやってた。
母が1番働いていて、朝起きたら田舎の広い家の掃除と食事の支度、夕方は6時ごろに帰ってきて、また食事の支度と洗濯。洗濯物は納屋の一角に干す。
祖父が元気だった頃は父はあまり家事はしていなかったな。子どもたちにとってはただただ口うるさい父であった。
両親は共働きだった。北陸では珍しいことではなくて、祖父母もその昔は共働きだった。祖母は母が嫁いでくるくらいまでは工場で事務員の仕事をしていた。
というか、私は小さい頃、専業主婦なんてサザエさんやドラえもんみたいな架空の話の中でしか見たことがなかった。
近所はみんな三世帯同居で、両親共働き。地区にはアパートなんて洒落たものもなかったし、親と同居せずに夫婦だけで住む場合はもっと町中の便利なところに居を構えたからかなあと思う。
もし万が一専業主婦がいたら、働かない嫁って言われそうだな。いなかったけど。
そういえば家の電話が親子電話?っていうやつで、たまに受話器を耳に当てると、近所のおばちゃんの話し声が聞こえたんだけど、あれなんだったんだろ。
あと昭和の思い出で覚えてること、、駅の近くの踏切は、横に詰所みたいのがあって、国鉄の人が手動で安全確認して遮断機を上げ下げしていた。
蛍がたくさんいた。
明治生まれの曽祖母は洋服じゃなくて着物を着ていた。志村けんがコントで着ていたみたいなやつ。曽祖母は自宅で療養していて自宅の畳の上で亡くなった。曽祖母が亡くなった時、家に大工さんが来て金ぴかの祭壇を作ってくれて、自宅で葬式をした。
平成の初め頃まで土曜日半ドンだった。私は高校卒業まで土曜日も学校行ってたな。休みがなさすぎる。
週休1日だった代わりに両親ともバブル前は定時で仕事を終えて帰ってきてたな。夏場なんて明るいうちに家に着いてた。それだけは羨ましい。
昨日とある増田に書き込んだところ、他の増田に「セックスのことばっかり考えてるんじゃないの?」とコメントいただいた。
よく、高度経済成長以降に近代の家族制度が変容したことが語られる。
1961年の農業基本法の趣旨の一つは、大家族による人数をかけた従来の農業経営に機械化のメスを入れるものだった。
こうして農村部を中心に最後まで残っていた江戸時代以来の大きな家族というものが解体され、教科書で習うような核家族化が進む。
はてなでよく家族形態や婚姻形態の変化や現状の課題が俎上となるけど、その淵源の一つにこの法律を位置付けられる。
私はよく、こうした大家族から各家族への変化を「サザエさんのような家」から「クレヨンしんちゃんのような家」への変容と紹介する。
何と無くイメージできると思うが、一つ世帯に三世代が住みさらには「オジオバ」「オイメイ」が同居する形態は、近年かなり少なくなったと思う。
サザエさんの時代はまだこれが一般にイメージしやすかったのだろう。
クレヨンしんちゃんの時代になると、みさえは熊本、ヒロシは秋田からやってきて埼玉で家族を作る。
郊外に住宅が広がって平成狸合戦ぽんぽこみたいになる世代。ニュータウンの時代。
オマセなカツオくんや多感な年頃のワカメちゃんに、サザエさんやマスオさんはどう対処するのか。こればっかり考えている。
こうしたとき、波平さんやフネさんがいるってことはとっても重要だ。
きっと波平やフネは、それぞれの立場で子供達に姉のしていることを時に上手く見せないようにしたり、時が来たらしっかり教えたりとかしていたのではないか。
少なくとも、大家族の形態ではそうした機会を持ちやすいのではないかと考えている。
一方、クレヨンしんちゃんの家庭ではなかなかこういうことは難しい。
初期クレヨンしんちゃんで、みさえとひろしが夕食の時に今晩セックスしたいかどうか子供にバレないように特定のサイン・符丁を出して確認し合う場面がある。
しんちゃんがこれに気づいて乱入してきてギャグになるのだが、非常に象徴的なシーンと思う。時代は変容していることがここからはわかる。
核家族では、子供への教育や性生活といったものが、夫婦に集中して責任としてのしかかるのだ。
もちろん家父長主義的な家族形態に戻るべきという主張をしたいわけではない。
大家族のデメリットを克服しようとして現代がある(とナイーブかもしれないが信じたい)。
ただ、平成狸合戦ぽんぽこに一抹の寂しさを見るように、個人的にはここにはかつてへの憧憬がある。だからサザエさんとマスオさんのセックスばかり考えてしまう。
今を生きる現代人として、現代にとってより良い、より楽しい、よりポジティブな、より効率的な、より費用対効果のある家庭像あるいは地域社会像というものを常に思索しながら、自分も家族と日々を過ごしていきたい。
ディズニー長編アニメで何が好き? と問われたら挙げるくらいに『ムーラン』(1998年)が好きだった。
『ムーラン』は中国の伝承をもとにした話だ。老いた父に代わり男装して従軍し武功を立てるも地位は断り故郷に戻る。最も古いのは詩と言われ、民謡、戯曲、小説の題材になっている。
時代によってどこに力を入れて語られるかは変わってくる。女で軍功を立てる力強さを描くのか、家族への孝行を尊ぶものなのか、国への奉仕を宣伝するものか。
ディズニーでのアニメ映画化にあたっては女性の自己実現という方向で物語はまとめられている。
主人公のムーランは、女は家でおしとやかにしているべきという風潮になじめない。老いた父を助けるため男装して代わりに従軍することになるが男ほどの力はない。しかし彼女自身の強みである知恵と機転を武器に自分を信じ、自分らしいあり方、誇りを見つけるのだ。
挿入歌『リフレクション』が名曲だ。映画のわりと最初のほうに歌われる曲で、含む意味が全編に影響してくる。家の名誉のためには仲人に気に入られて良い家に嫁がなければならない。でも失敗してしまった、という状況を受けて「水鏡に映った着飾った自分は知らない人に見える。ありのままの自分の心はごまかせないけれど、本当の私はいつか映るのだろうか?」と吐露する。
その後男装して(=別ベクトルで自分を偽って)活躍するわけだが女であることがバレてしまう。で、色々あって男だとか女だとか求められる役割だとかじゃなく、自分であることがいいよね! って結論に至るのだ。
さて、ディズニーのヒロイン像というのは時代によって移り変わる。おしとやかに待っていれば幸せ(王子様)が訪れる初期ヒロイン、自我がありパワフルながらやはり幸せはヒーローが運んでくる中期ヒロイン、恋愛から解放された最近のヒロイン。
ムーランは時代的には中期ヒロインに位置づけられる。とはいえロマンス要素は淡い。アジアが舞台で自己実現が主題という点が特筆すべきところだろう。
その頃のディズニーの非コーカソイドを取り扱った映画というのはエキゾチシズムあふれると言うかアメリカ解釈エスニック世界と言うか、なかなか文化描写が大味である。ご多分に漏れず『ムーラン』も西洋的なアジアであんまり正確ではない。突然念仏唱え出す登場人物が居るようなステレオタイプなオリエンタリズムである。また、男装のために長い髪をカットするシーンが山場のひとつだが、断髪して覚悟を示すことはとても西洋的な描写だ。古代アジアの人々は男女問わず長髪だからね。
それでも20世紀末にアジアが描かれたことは画期的で、東洋西洋の狭間で自分のあり方を考えていたアジア系アメリカ人二世三世に特に刺さったと聞く。また、脚本にはアジア系アメリカ人の女性が居た。そのあたりを思うにターゲットは西洋社会であったのだろう。
さて、そんな『ムーラン』が20年の時を超えて実写化されると言う。わくわくした。あの、魔法使いでもなんでもない同じ人間なのに圧倒的な力を持つかたき役、シャン・ユーの大軍勢が雪原に現れる絶望的なシーンが実写の迫力で見られるのか。ハリウッドに中国の方も増えただろうからオリエンタリズムの産物じゃなくてきちんと考証がなされた中国描写になるんだろうな。最近のディズニー映画のように現代の価値観を反映させるだろうから「異民族は悪、侵略者、だから防衛しなければならない」なんて単純な物語化じゃなく厚みを持って描かれるんだろうな。(アニメだと時代も場所もぼかされて相手はフン族という言及のみ。原典だとムーランは漢民族じゃなくて鮮卑の人っぽいし、北魏 vs 突厥 の戦争って遊牧民同士の戦いでつまり互いに侵略し合っていたってことだと思っている)アナ雪1でサーミの文化盗用と言われ、アナ雪2でサーミの監修を入れて文化盗用にならぬよう注意を払い、作中で植民地支配を彷彿とさせる歴史を描き、過去の過ちを直視し「今できる正しいことをしよう」と歌わせるディズニーだ。期待も高まるというもの。
そんな価値観も変わる時代の中にあっても輝く、自分らしく誇りを見つけるという変わらないメッセージ。名曲の数々、コミカルな相棒キャラクターであるドラゴンのムーシューと幸運のコオロギのクリキーのコンビ――彼らも「自分を偽っている」キャラだ。ムーランの物語は彼女だけではなく、ほかのキャラも自分を信じて自己実現する物語なのだ!――厳しくもきちんと実力は認めて義に厚く格好いいシャン隊長とムーランのほのかなロマンス。男装しているムーランに人間的に惹かれているっていうのがいいんだよねー。ああ、楽しみだなあ!
※ アニメ版と実写版の差異、未見のためニュース等で分かる部分のみ
うおおおい。やりたいこととやっていることとターゲットがちぐはぐで全方位損だよ。東西どちらにもいい顔をしようとして大失敗では。誰が嬉しいんだこれ。
いやね、きっと通常の劇場公開をしていたらふらっと見てしまっていたと思う。事前情報仕入れず見るタイプなので。公開延期で配信も加入しないと見られないと言うので時間ができてしまって調べたらさあ、ねえ。心情的にこれはもう見られない。
アニメ版が中国本土であまり評判が良くなかったというのは聞いたことがある。自分探しをするヒロイン、自立したヒロインというのが儒教感覚としてはそぐわないらしい。だからってアニメ版の主題であった自己実現を切り捨てて家のため国のため「孝」「忠」の話にするか? [追記] トラバで教えて貰ったが、アニメ版は中国本土でも人気だったそうだ。確かにレビューサイトの点も高かった。自分は欧米メディアの記事から人気がなかったのだと思いこんでいたが誤りだったようだ。失礼しました。えっ、じゃあディズニーはどこを向いて脚本変更を決定したんだ?
アニメ版のファンなんぞ知らん、商業的には大きなパイである14億人+全世界の中国ルーツの方々がターゲットなんだ! と言い切ってくれるならまだ理解できた。でも中華圏の評判も悪くてさ。聞こえてくるのは「孝」「忠」はこんなんじゃねーよとか伝統的な任侠精神を西洋騎士道のテンプレートに雑にはめ込みやがってとかムーランをフォースっぽい謎の不自然なパワーを持つ西洋的スーパーヒーローにしたなとかドラゴンのキャラの代わりに鳳凰がシンボルになったが鳳凰が象徴するのは古式ゆかしい女性性だぞフェニックスと混ぜてねーかとか『カンフー・パンダ』のほうが中国の伝承や比喩を尊重しているぞとか、そんな感想ばかりである。
中国をターゲットに完全シリアスな『花木蘭』実写化がしたかったらアニメの看板は控えめに、スタッフ陣にもアジア勢を揃えて時代考証風俗考証手厚く入れて中華圏を唸らせてくれよ……。
新疆ウイグル自治区でのロケってのもさ……。「異民族、それもモンゴルあたりで活動した今のトルコにも繋がると言われる実在の民族を排除するために戦う」ストーリー自体センシティブで取扱注意なのに、文化が異なるが故に現在進行形で人権侵害が行われている新疆ウイグル自治区をわざわざロケ地に選ぶとは。映画撮影のためにディズニーは人権侵害に目をつぶり「新疆ウイグル自治区は海外のクルーが来られるような安全で風光明媚なところで海外で言われているようなことなど行われていませんよ」という中国の宣伝に乗ったのだと言われても否定できないだろう。
ディズニーとしては MeToo を受けてストーリーは変更するが民族浄化は容認するみたいな基準なのか?
自分は今まで作品と作者・出演者は別と考えてきていた。役者が不倫していたり薬物をやっていたりしても作品の価値が貶められることはないし配信停止にすべきではない。また、過去の作品で今の基準だとアウトなものがあることも認識している。奴隷制を肯定的に描いている『風と共に去りぬ』、子役を薬漬けにして演技させていた『オズの魔法使い』などなど。それらも配信停止にすべきではないと考える。描写については注意書きを添え、新たに作る時は現代の倫理観をもとにし、新規であえて描写する時は「あえて」である説明を加えれば良いと。
とすると、俳優の発言は個人の思想と割り切れても現在進行形の人権侵害は了承できないな。俳優はアメリカ国籍とは言え中国本土の方だから一族も本土に居るだろうし当局の意に反する発言をしたら命が危ないのだろうけれど、ディズニーはウイグルの件を全く知らなかったとは言えないだろう。
ディズニーがどのような声明を出すのか、出さないのか。注目している。
[追記]
誤字を修正。
また、中国国内の反応を知りたくてデータを確認してみた。ご参考までに。
9/15昼時点の豆瓣(中国の代表的なレビューサイト)のスコア
作品名 | 公開年 | スコア (10点満点) | 最頻値 (最大星5つ) | スコアの母数 |
---|---|---|---|---|
実写版ムーラン | 2020 | 4.9 | 星2つ | 約16万人 |
アニメ版ムーラン | 1998 | 7.8 | 星4つ | 約20万人 |
実写版美女と野獣 | 2017 | 7.2 | 星3つ | 約32万人 |
アニメ版美女と野獣 | 1991 | 8.5 | 星4つ | 約14万人 |
実写版アラジン | 2019 | 7.5 | 星4つ | 約26万人 |
アニメ版アラジン | 1992 | 8.2 | 星4つ | 約6万人 |
ヴィッキー・チャオ主演版ムーラン | 2009 | 6.2 | 星3つ | 約9万人 |
アニメ版ムーランは意外と[追記] トラバで教えて貰ったが「意外と」ではなかった中国でも健闘していたようだ。レビューも楽しく読んだ。翻訳ソフトありがとう。
実写版ムーランは当初スコア4.7だったが、星3をつける人が増えて4.9まであがってきた。とは言え他のディズニー作品と比べると極めて低く、ここから他作品ほどスコアを上げるのは難しそう。
一番下のヴィッキー・チャオ主演版はディズニー関係ない中国発の歴史映画。そう、既にシリアスな実写映画は存在するのだ。
ランキング | 作品名 | 公開日 | 初週興行収入 | 累計興行収入 | 猫眼口コミ (10点満点) |
---|---|---|---|---|---|
1 | 八佰 | 2020/8/21 | 約6.4億元 | 約26.9億元 | 9.2 |
2 | 実写版ムーラン | 2020/9/11 | 約1.6億元 | 約1.8億元 | 7.5 |
3 | TENET テネット | 2020/9/4 | 約2.1億元 | 約3.6億元 | 8.3 |
6 | かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~ | 2020/9/11 | 約0.03億元 | 約0.03億元 | 8.0 |
日中戦争を描いた超大作『八佰』と比較するのは酷として、興行収入面は大コケしなかったといったところだろうか? 有識者の見解を聞きたい。 [追記] トラバより 少なくとも口コミ的には大コケの大コケだと思う
とのこと。『アベンジャーズ:エンドゲーム』が初週約22.3億元、『アナと雪の女王2』が初週約3.8億元ということを考えると厳しい結果になりそうだ。
[再追記]
同じ作品を見ていいな、好きだなと思っていたことが分かって嬉しい。コメントでアニメ版が好きと表明して下さった方々もありがとう。
【一応スペック】
・20代、女
・色白、黒髪ロング、細身、おっとり、おとなしい
【実態】
・実家から一度も出たことないパラサイトシングル(たぶん一生)
・創価三世なので、父親は仕事と創価、母親は一日中創価の活動をしている
・創価中学を受験し合格してしまったので、流れで大学まで通ってしまう
・家庭環境と学歴とは裏腹に信仰心がまったく育成されず、うわべだけ創価サラブレッドになってしまい後戻りができない状況
・生まれてからずっと陰キャで腐女子に囲まれていたが、腐女子の趣味がまったく理解できず完全に孤立
・創価の選挙活動をしたくなさすぎて公務員になったものの、周囲が高学歴陽キャしかおらず完全に孤立
・過労死レベルの残業まみれで倒れ、うつ休職を試みるも上司の圧でおじゃん
・お菓子も料理も作れない、裁縫もボタンつけもできない、家事力生活力ゼロ
創価の人間には「恵まれてる環境」で育ってる生まれながらの幸福人間扱いされてまじできもい。それ以外の人には苦労知らず世間知らずで人生なぁなぁでのしあがってきたゆとり女扱いされる。どっちも的外れすぎてうぜえ。
親死んだとか虐待されてたとか、いじめ、不登校時代があったとか、わかりやすい不幸話がないだけで人生エアプ認定してくるやつ全員死ね。やっすい不幸あるあるでマウントとってくるやつも死ね。
例の勧誘とかアルファベット三文字表記が有名なアレのヒデェ集金の話のような勢いでドアチャイム連打しては、出てこいという旨の内容を叫び、またピンポンという作業を数分間にわたって繰り返し玄関前に留まる子供たちが居る。ピンポンしてもダッシュしていかないんだよ。最近の子供、心が強すぎる。
最大限良い方向性に解釈して何かの遊びなのかもしれないと思いつつ怖いしカルチャーが違いすぎて気持ち悪いんだが。宇宙人とかなの?
でもきっとアレ嫌がらせなんだろうなと考えざるを得ない出来事もあったし、ともかく一度のピンポンの回数と子供の大声が多いし続くんで嫌すぎた。
身近に子供いないので、あの叫び声に特有の高音が苦手だ、現実だと。男の子でも声変わり前は耳にキーンてくる。というか、なんで他人の部屋の前で叫ぶの?
あんまり続くので、思い余って緊急時以外に通報したかったらコッチね!っていう番号に電話してみた。応答してくれたお嬢さんの声がとても優しくて、ありがとう!って気持ちになったけど、その最中もチャイム鳴ってたので案外と同情された感じ。
しかし相手が大人ならともかく子供じゃしゃーねーなーとはお互いに分かっていた。でも出没が多い時間帯にパトロールしてくれるらしい。とりあえず有り難い。でも子供だからなって、しょぼんしてたら、次は緊急時のあっちの番号に通報してもらっていいですから!って言ってくれた。重ねてありがとう。お前のように話しの長いヤツの対応がめんどいんで!って副音声はたぶん無かったと思いたい。
でもウチ田舎だから駆けつけるまでに時間かかって現場を抑えるのはムリだろうな。どうやって解決するんだろうな、こういうの。
以下は詳細をっていうか愚痴りたい。
ウチ、集合住宅っていうかアパートなんだが、古くて安いので当然ながらセキュリティはガバガバだ。でもウチ、一階含めて玄関は二階にあるタイプで、そこに行く外階段は二戸でしか共有しない。ウチかもう一戸に用事がなければ上がってこないハズのつくり。
ドアチャイムは玄関の前まで来ないと押せない。わざわざ階段上がって来ないといけないので、何かのついでにピンポンしちゃったぜっていう言い逃れが通用しない位置取り。
遊びにしても、上記の感じなのでリスク高いですよねとか対応してくれたお嬢さんも言う。でも本当に来るの、チャム聞こえてたからそれは疑ってませんと言ってはもらえたけども。
というか、だから逆に怖い。子供とはいえ幼児じゃないんだよ、子供の年齢よくわからないけど、たぶん10歳くらいな感じの男の子がそのへんのリスクを分からないものだろうか。一人じゃなくて三人から五人以上の集団で来ていて、同調圧力があるにしろ一人も危機感を覚えないものだろうか。
小さい子が冒険で人気のない建物に入りたがるのは知っているし、自分にも子供時代はあったから気持ち分からないとは言えない。でもそれって見つからないようにするのがスリルなんじゃないのか?いけない事してる感をお手軽に味わいたいアレじゃないのか?特に廃墟ではないアパートでピンポン連打して出てこいと喚くとか、何なのだろう。
アパートでも空き地でも他人の敷地に入っちゃいけませんとか、そういう教育が出来てないというか、持っていないカルチャーの親御さんなんじゃなかろうかと、思ってしまう。
出てこいという旨の声がけ時、親呼んで来ようみたいな声も聞こえた。ピンポン連打遊びを止めて欲しいのか、ウチに何かしたいのか判断できねーよ、この手の遊びする子供の親じゃ後者かもしれねーよ、刺されたら怖いよ、ヤバいよって泣き言しか出ない。子供が怖いんじゃないんだよ、その後ろにいる親が怖いんだよ、ウッカリで殺されるかもしれないじゃん、いや子供も意味わかんなくてキモいしコエーけども!刃物持ち出されたら子供でも殺せるし、素手でも突っかかられて自衛したら過剰って言われるじゃん子供相手だと!抵抗できなければ子供相手だって大人が怪我させられるんだよ、当たりどころが悪ければ骨折くらいするよ!骨折すればさすがに親が慰謝料払うのかな?でも骨折したくねーんだよ、怪我痛いじゃん!ピンポン時は立て籠もったとして外出狙って突撃されたら防ぎようがないよ、だって近所のお子様だもん多分、いや近所付き合い無いから知らねー子だけどピンポンの頻度的に近所だよ!しかも複数の子供が近所だよ!どれが突撃してくるの?全部が来るの
?その親も来るの?コエーよ!怪我まで行かなくても生ゴミばらまくとか良く聞く嫌がらせじゃん!キツイよ!って丁寧なお言葉を心がけて吐き出した。対応してくれたお嬢さん、ほんとごめん。
そもそも子供たち、よくアパートの敷地内で遊んでる。というか雨とか降ってないといつも来る。遭遇するのは自分が休日の時だけど、それ以外の日も居るんじゃないかなー、この勢いだと。でも同じアパートの子ではない、単身者用。住人が招き入れてもいないと思う、大人が同伴していた事は無い。というか行動パターンからして近所の子だと思う。
自分が越してくる前から遊び場の一つだったんだろうな、まったく躊躇なく入ってくる。
近くに広い公園あるじゃん?広いだけで遊具もロクに無いけど立派な公園じゃん?そっちに行きなよ。
つーか小学校は放課後も児童を収容してくれないものだろうか、日が落ちるまで。ムリか、せめて保護者の監督があれば校庭開放するとか、そういう感じにしてくれれば正論で押し通して学校行くか保育所に預けろ、監督者をつけろ、虐待か?って言えるんだけど。言うだけは。
ほどほどに中途半端な田舎なので一軒家しか無いって事も無くウチ以外にもアパートの需要はあるみたいでポツポツは集合住宅もある。とはいえやっぱり田舎で一軒家は庭は狭くても箱は大きめで三世帯のお家多い。そして最寄り駅が遠いので車は一家に一台じゃなくて一人一台的な文化は濃い、つまり一家に二台以上は車がある。ガチ田舎とかガチ金持ちの住んでる地域なら三台でも四台でもガレージに余裕で入るんだぜ!ってなるだろうけども、はんぱな田舎なので、だいたい一台分の駐車場しかない建売住宅味も深い。不動産関係者はもっと考えて上げて!ムリだろうけど!っていう。半分くらいは必要な台数が収まる駐車場持ってるお宅も有るんだけどね。格差社会つらい。
ウチの隣も月極駐車場。コインパーキングだったら間違いなく煩いし不特定多数が出入りするのアレなので一階が店舗はムリって人種は避ける物件だし、自分も絶対に住まない。駅前とかじゃない住宅多いほどほど田舎の月極は自分の家に家族分の車入らないからって近所の人が借りてるパターンが多くて、そんなに頻繁には出入りしない。マンションの屋外駐車場くらいのノリ。駐車場はいずれ箱建てる予定地とは良く聞くので迷いはしたけど、入居前に聞いた所、実はアパートの大家の土地らしく、もう金ねーから箱は建てないって事だったので。気は変わる事もあると覚悟した上で決めた。
というのが長い前ふりで。何かっていうと地域柄アパートにも駐車場ついてる物件がわりとある。ウチもそうだ、という話。
車の止まっていない駐車場は子供の遊び場になりやすい。とはいえ、本当は遊ばせちゃ危ないしダメだし、そもそも自分が住んでる集合住宅の駐車場であるとか、契約してる月極であるとか、最初のハードルは有るハズだと今回の事があるまでは思っていた。
しかし子供ら気にしない。アパートの駐車場でめっちゃ遊ぶ。隣の月極駐車場でも遊ぶ。ブロック塀乗り越えるのすら遊び。アパート裏の側溝の蓋が格子タイプなので、持ち上げて落として繰り返してがっしゃんがっしゃん音立てて遊ぶ。遊ぶっていうか、側溝の蓋、どうして持ち上げるの?何か落とした訳でもないのに
?というか、よく持ち上がったな、自分はムリだぞ、腰をやってしまう。子供って頑丈だな、羨ましい。
近所の住人しか通らない感じとはいえ公道がコートだぜとばかりに蹴鞠ごっこに興じる。道で遊んじゃダメだよ!っていう教育ができてない子供とその親。怖い。でもって、ボールは相棒とばかりにアパートの外周を駆け、アスレチックのノリでアパートの外階段を上り下りして踊り場で隠れんぼする。やっぱりボールもある。無い時もある。やめろ、ウチのアパートの壁は薄い、紙のようにペラペラだ、貴様らの声も足音もボールも、振動という振動がよく響くんだ、前の道を車が通るよりも大きくな!
通り過ぎていくだけなら我慢しても、留まって遊ぶってどういう事なんだろう、しかも叫ぶ。なんで?
半年くらい前に一度、止めてねって言った事はある。
玄関前で何かずっと遊んでる声がするし転んだかなんかしたらしく、しきりに怪我を心配する声もした。
エ、ウチの玄関前で流血とか面倒じゃない、巻き込むな!現場検証とか聞き込みとかになったら面倒だよ、自分もいつか世話になる想定でご協力するのが社会人だけど、でも面倒だよ、今回その面倒かけたの自分だけど、他人事なら面倒だよ。じゃなくて子供が怪我したとか騒いでたら救急車居る?って普通の大人は心配する素振りを示すものなので疾く去ね!招いてもねーけど!じゃなくてお引き取りください。
ってことでドアチェーンしたまま開けたら小さい玩具を床にばらまいて円陣くんでた。何の儀式?って言いそうになった。
いちおう怪我の有無を確認の上で、ご用事無いなら知らない人のお家の敷地に入っちゃダメなんだよ?敷地ってお庭とかお車とか置いてある場所の事だよ、全部を塀で囲ってなくてもダメなんだよ、この建物にお友達が住んでるのかな?住んでないよね?じゃあ止めてめてね?って言っただけ。恫喝したとか親が出てくるとアレだから、できるだけ優しく穏やかにと自分に言い聞かせつつ。
同じアパートの住人は側溝の蓋がっしゃんがっしゃんの時に窓開けて怒鳴ってた記憶があるので、たぶん何の効果も無いだろうな、と分かっていたけど。目が合って無言で玄関閉めるのも感じ悪くてイチャモンつけられるかもしれないし、もう目が合った時点で終わってたからダメモトで言うだけ言ってみた。
原因これだろうな、きっと。
ずっと家に居るわけじゃないから気づくまで期間あったけど。気づいてからはアパートの駐車場と外階段アスレチック遊びにピンポンがセットになったからな。
あと遊びに来てるの気づかなかったり、やむを得ず洗濯物干しに出ると遊びの手を止めて全員でコッチ見るの。一人じゃない、三人から五人以上の10歳くらいの子供が一斉にコッチ見るの。コエーよ、気持ち悪いよ。自分、悪いことしてないのに、お前らが立ってるのアパートの駐車場なのに。もうヤダー。
子供もしくはその親が突進してきて怪我させられるか殺されるか、自分がノイローゼになるのか。もうなっているのか。
どれが先なんだろうとモヤモヤしている。
子供じゃなければ、勝手に敷地に入った時点でやりようもあるんだろうけど。子供じゃなければヘンな人なので自分はもう死んでいたかもしれず。
モヤモヤする。そして怖い。親が出てきたらどうしよう。やべぇ子の親はやべぇ親だよと思いがち。
吐き出してみたけど、ループるばかりだった。
河井夫妻の事件について、元国会議員の豊田真由子さんや、金子恵美さんが地元でのカネ配り(先輩議員に地方議員にカネ配れとアドバイスされた)について発言しているので、地方議員側からの話をします。
もともと、業界には与野党問わず「目配り、気配り、カネ配り」という言葉があって、この3つができる政治家が優秀な政治家だとされていました。
でもそんな話は中選挙区時代(~1993年)であって、今はこの言葉すら死後になっています。
今の話をする前に、すこし中選挙区時代の話をします。カネ配りはこの時代に盛んに行われたので。
中選挙区制は選挙区の人口によって定数が決まっていて、選挙の上位2人~6人くらいが当選します。なので、ひとつの選挙区から同じ政党の候補者が何人も出馬します。たとえば群馬3区では当選議席数が4で、自民党からは3人(福田、中曽根、小渕)が出馬します。
有権者や、地方議員からすると、同じ自民党の候補者なので、3人に基本的に政策に違いがありません。3人の候補者は政策的な差別化が図れないので、「あの道路は俺が作った」みたいな、どれだけ予算を地元に持ってきたか(利益誘導政治)がアピールポイントになります。さらにその先が、直接的なカネ配りだったり、選挙事務所での食事だったりするわけです。とにかく政策では差がないので、政策以外の差が得票になるのです。
旧群馬3区では選挙メシも有名でした。福田料亭、中曽根レストランとwikipediaの「上州戦争」でも書いてありますね。私の選挙区でもオヤジの話を聞くと、昔は選挙事務所で鰻重が出た、なんて聞きます。うなぎ食べたい。
参議院の選挙は都道府県によっていまでも中選挙区制なので、制度的にはこうなりやすいです。現に河井さんの広島も改選2議席で、自民から2人でたからね。しかもアンリさんは新人で実績(利益誘導)をPRできないから。
戦後、そんな選挙がずーっと続いていたのですが、1988年のリクルート事件が発覚して、カネと政治をめぐる事件が立て続けにおこりました。それで、なんでこんな金権政治になるんだろうと考えたところ、中選挙区制が原因じゃろう、となったのです。
派閥の親分が無理してカネを集める→系列の国会議員に配る→地元でカネが飛び交う のが中選挙区制の行きつく先だったのです。
それでついに1993年の選挙で自民党は大敗し、細川護熙内閣が誕生します。細川内閣は、政策も理念も異なる8会派が集まってできた内閣で「8頭立ての馬車」、7政党に大臣ポストを振り分けたので「レインボー内閣」なんて言われました。この内閣の唯一の政策の共通点は「政治改革」で、結果としてこの内閣のもとで中選挙区制をやめて、小選挙区制にします。
このときに行われた政治改革のポイントは2つです。1つは小選挙区制(1つの選挙区に各政党は1人しか公認しない)にすることで、カネではなく、政策で勝負する選挙構造にすること。もう一つは政治献金に大きな規制を設けることで金権政治の元凶であるカネ集めをできなくする、その代わりに税金から政党交付金(約300億円)をつくってこれを各政党に分配するということでした。
この政治改革から約30年、選挙は確実に変わりました。カネ配りも、選挙事務所での豪華メシもなくなりました。石破茂さんも雑誌とかメディアのインタビューで「小選挙区になって、お金は確実にかからなくなった。誰でも議員に挑戦できるようになった」、「中選挙区制だったら私は議員を続けていられなかっただろう」って何度も言っています。そりゃそうだよね、自民党から1人しかでないなら、カネ配んなくても地方議員はその人応援しないといけないもん。
だから、我々自民党の地方議員も、河井夫妻の事件をみてビックリしています。なんて昭和なんだろうって。うちのじいさんのときの話みたい。
んで、本題に入りますが、もちろん、地元の代議士からお金をもらうことはあります。年間10万円くらい。
正確には、党勢拡大のための組織活動費として、自民党選挙区支部(代議士が支部長)→自民党地方総支部(代議士か県会議員が支部長)→自民党市町村第XX支部(増田が支部長)という形でお金がきます。このお金は政治資金規正法に則り、年にいくらもらって、年にいくらつかったかを報告義務があり、その収支報告書はウェブでも公開されています。もちろんお金を受け取ったら領収書を発行します。
地方議員は国会議員と違って、給料以外の集金の手段(政治資金パーティーや政党交付金)を持たないので、基本的に活動はすべて自腹です((野々村竜太郎県議が城崎温泉に行って有名になった、政務活動費という税金が原資の経費があるが、一連のスキャンダルで使途についてチェックがえらく厳しく、文房具か交通費か広報紙くらいにしか使えない。せめて議員として招かれる団体の会合の参加費には使わせてほしい。))。一方で国会議員は給料以外に、文書通信費で1200万、立法事務費で800万、派閥から数百万、党本部から2000万(政党交付金)、パーティーで2000万と、だいたい年間6000万くらい集金できるので、それを原資に活動しています。どこの選挙区でも、与野党問わず、国会議員の支部から地方支部(=地方議員)に組織活動費を出します。代議士は国会が開かれる1~7月、10~12月は永田町に行っていて、週末しか地元にいませんので、その間、地元で党を守り、地域の声を直接聞くのは地方議員ですから。会社組織でいうなれば、本社から支店に補助をだしてるみたいなイメージ。
冒頭の豊田真由子さん、金子恵美さんの発言(先輩議員から地方議員にカネ配れとアドバイスされた)はこの収支に報告義務のある組織活動費の話と、領収書なしの裏金であるアンリさんのお金を混同していて、センスのなさを感じます。きっと、彼女たちはパーティーで集めたお金や、政党交付金を自分1人でガメていて、こうした党勢拡大の組織活動費を地方支部に出さなかったんでしょう。そりゃ落選するわ。
とまあ、河井夫妻の事件は自民党の地方議員もびっくりしているので、当たり前とは思わないでほしいです。
でも、仮にうちの代議士が、去年の統一選挙直後に「当選祝いです。領収書はいりません」といって、30万持ってきてたら受け取っちゃうよなーとはちょっと思う。
選挙ってそれほどつらくて厳しいもの(ほんとに毎回憂鬱になる。新人候補が思ってたよりつらくて途中でやめるのはよくあること)で、カネもかかるから金銭感覚もマヒしているし(普段なら絶対30万なんて怪しいとおもうけど、選挙で多額の金を突っ込んでるから感覚がマジでマヒしている)、当選の直後なんて超絶な解放感で有頂天だし(4年に1回の選挙、オリンピックでメダルをとった感覚をイメージしてほしい)、単純に「あっ、どうも、気遣いありがとうございます」って感じでご祝儀として受け取っちゃう。受け取ったときに「奥さんの集票のため」なんて思わない。広島の地方議員や首長が軒並み「集票のためとは思わなかった」って見苦しい言い訳してるけど(私ですらそう思うから、一般の人からするとマジで見苦しい言い訳にしか見えないだろう)、当事者だったらマジでそう思ってると思う。