はてなキーワード: スーパーヒーローとは
MCUがいよいよもって危機に瀕している。最新作、マーベルの興行収入はズタボロだ。
製作費2億7000万ドルと言われ、リクープ可能なラインを表す2.5倍の法則を適用すると資金を回収するのに6億ドル近くの興行収入を稼がねばならない。
MCUが凋落するにつれ、ついにスーパーヒーロー映画コミュニティが行ってきたプロパガンダが暴かれるかもしれない。
MCUは日本のTwitterなどでも見られるようにリベラルで国外の文化に親和性があるような人が取り上げムーブメントを作り上げてきた。
その中で彼らはMCUは"女性の活躍が見られる"や"ダイバーシティが..."と言った言説でMCUへ観客を誘致してきたわけだが実際にはマーベルはそれらの作品群とは真逆の客層に対して物を売っていた。
マーベルの読者が別に保守主義者にモノを売っていたというつもりはない。
実際にはDCの方が傾向で言えば保守主義的な人々にモノを売っていたし、スタン・リーを筆頭にどちらかというとリベラルで左派的な価値観の作品群を従来から押し出していた。
しかし重要なのはそれらの作品は女性ではなく男性にモノを売っていたと言う事だ。
つまり基本的にスーパーヒーロー物のアメコミはboyが主要客層だったし、女性作家が増えたとはいえマーベルコミックは今でもそうだ。
そういった作品群の中であまりにも男性メインすぎたので女性を主体としたキャラクターを開発してきたという歴史がある。
これはつまり週刊少年ジャンプがあくまで男の子をマーケティングターゲットにしてきたが、現実の読者を精緻に分析することで、それに合わせて徐々に女性キャラクターの造形が変化していったに過ぎない。
しかし、MCUはそのバックグラウンドを奇妙に偽装してきた。一部のMCU作品は女性キャラが主体となった女性主導の女性向け映画だというように喧伝してきた。
しかし実態は男性向けの作品を無理やり女性向けにアジャストしたに過ぎない。
スーパーヒーロー映画は映画館のスクリーンをあまりにも独占しすぎるため、女性向け映画がまるで上映できず、むしろ2000年代後半からアメリカの映画館はどんどん男の向けになっていった。
そういった文脈知らない日本人向けに、こんなに立派な女性向けヒーロー物があるぞと日本の一部スーパーヒーローファンは喧伝してきたがその化けの皮がついに剝がれる時が来た。
実態としては日本の映画館でのヒーロー物は男性によく見られていたのだがアメコミクラスタはなぜか女性にも人気があるかのような言説を押し出していた。
実際には女性キャラが主導する作品でも男性の方が良く見ていたのだ。いくつかの記事ではよく見ると女性スーパーヒーロー映画の男女比が男性の方が多いと書いてあるにもかかわらず、女性の観客が多いと勘違いしている人を見た。
しかし、これはシンゴジラが女性にも人気があるなどとうそぶくようなものだ。もちろんシンゴジラを好む女性はいるが圧倒的少数派だ。
これは、そういった実情に対して苦悩している女性に対して"実際にシンゴジラは女性に人気だ!お前もそう言え!"と強制しているようなものだ。
ゴジラの3DCGがすごいと話題になっているが、製作費は1500万ドル程度だと聞いた。
ハリウッド映画の製作費に比べれば微々たるものだが、日本映画としてはビックバジェットだ。
ただ、重要なのはこの製作費でクオリティに金額ほどの差がないように見えることだ。
最近驚いたのが、陰陽師0の予告編のCGIもかなりクオリティが高いようにみえる。
反対にハリウッド映画はインフレなどの影響もあり大作映画の予算の高騰化に苦労し始めているように見える。
スーパーヒーロー物は顕著だが、リトルマーメイドなども製作費が異常な値段になり利益を出すのにかなり苦労していたからだ。
リトルマーメイドの製作費は2.5億ドルと言われていて、こんなに製作費が高くなければあれほど騒がれなかった(容易に黒字化していたはず
もしこの傾向が続くようであれば、遂に3DCG映画はコモディティ化し始め、今後10~20年で世界の映画界はIPの強さやブランド力などが重要な時代が来る可能性がある。
ゴジラマイナスワン見て思ったんだけど完璧に自分の思った通りのものを期待してる人多すぎない?
ゴジラが進化してなんかでかくなって人間は早口で展開も早くて理解させる気なくてゴジラは紫ビーム(苦笑)口から尻尾から出すしエヴァの音楽は流すし終いには口からジュース飲ませて終わらせる
こんなんみんなが思ってたゴジラだったのだろうか…でも意味不明に面白かったよね
ハリウッド版(2014年)もゴジラお出まししたらいきなりテレビに画面切り替わるし暗いし終いにはハリウッド()お約束のキスしだすし画面暗いしもはやガメラだし
こんなんみんなが思ってたゴジラだったのだろうか…でも新しいモンスター出てよかったしCGもすごかったよね
ハリウッド版第2作もへんなおばさんが世界破壊しかけるとか中学生でもこりゃ駄目だろというストーリーだし
こんなんみんなが思ってたゴジラだったのだろうか…でもラドン、モスラ、キングギドラが最新CGで復活してわちゃわちゃしててよかったよね。ゴジラ赤くなるし
ハリウッド版第3作はもやは怪獣プロレスでストーリーなさすぎるし、スーパーヒーロー物をデカくしただけ感あるし、小栗旬が悲惨だし
こんなんみんなが思ってたゴジラだったのだろうか…でもキングコングとゴジラが共闘してメカゴジラと戦うのはアツいよね。バトルもスピーディーで良かった
そもそもゴジラって何でもありだよね。初代からアニメも含めて全部見てるけど1つの主人公でここまで多様性溢れてるシリーズってそうそうなくない?
ゴジラがシェーしたり
意味わからん骸骨みたいなヒーローが特撮、アニメでも意味不明にデカくなったり
ひざまずくたくさんのモンスターがいたり
魚食ってたり
お涙頂戴のストーリーだったり
でもそれでいいんだよな
俺はゴジラの好きなところ嫌いなところすべてを愛してるよ
ほかになんかある?
素晴らしい。こういうのがもっとほしい
超上流工程
このお題のために作ったオリジナル合成語かなと一瞬思ったけど、調べるとちゃんとあった。素晴らしい。
とてもいい感じではあるが、合成語になっていて前後の結びつきが少し弱く、全体で一単語とはみなしづらい気もする。
素晴らしい。
スーパーヒーローショー
あり。
合成して量産できる言葉は選外。成り立ちは合成語だがほぼ一単語として通用している単語はあり(※主観が入ります)。固有名詞だと文句なし。
じゃかましい、東京消防庁も東京モーターショーも固有名詞じゃ文句があるなら「山形消防庁」や「佐賀モーターショー」を連れてきやがれ
・ピッコロさんがボコられてマジ覚醒する悟飯さんヤバ 赤い眼…
これは萌えざるを得ない
・opからキャラクターの性格がスピーディかつ的確に伝わってくる…
さすが創作神
・ガンマ2号の攻撃した後に効果音がでる描写、スパイダーバースっぼくて
すごい良かった ガンマ1号2号の声が良すぎてビビった
「ガッ」とか「ギュッ」とか力の入る感じの掴み?とかを
戦闘無知民でも分かるようさりげなく強調する演出がすごい散りばめていただいてて「動き」ってかっけえ!と
思わさせて頂いた感じする
+シンプルに体術かっこいい+空飛べるから空中を縦横無尽に動くスピード感
+舞台が壊れて瓦礫が空中を散らばったりブラックの固まりが落ちながら砕けたりするとかすごい工夫が
こめられまくってて面白え!って感じた
理想の老後やんこんなん…
でも少年漫画だしな…戦闘が世界の理であるドラゴンボール世界だから
いいんだろうウン
・ドラゴンボールってそんな軽い感じで集まるんだ…
願い、3つ叶えてくれるんだ…
全ての人間との関係が完全に絶たれていて、許せるとしてせいぜい年1回顔を合わせるかどうかでメールも月1あるかどうかの肉親だけが唯一の交友関係みたいのを求めてるんだろ?
そんな奴見たことねえよ。
鬱ごはんですら主人公は承認欲求を満たすためにTwitterで交友しちゃってるんだぜ?
無理だよ。
スイス・アーミー・マンでさえスイス・アーミー・マンがいるし、キャスト・アウェイだって行って帰ってくる場所がある。
ショーシャンクのレッドにだって、書き置きを残していくような相手がいたんだからな。
鬱野のUber Eatsみたいに同業者とさえ交友を経ち、店員相手の経済活動の中にだけ人との関わりがあり、他者を拒絶し承認を求めないが故にネットでも誰とも関わらない、そんな孤独のスーパーヒーローみたいなのを求めているのか?
いないだろ。
地球が滅んで最後の日になった物語でさえ、主人公はやがて生き残りを見つけてソイツラと関わっていくもんだ。
女主人公だからってことじゃなく男主人公であろうと変わらんだろ。
本当に孤独であり続ける人間の物語なんてこの世界のどこにも存在しない。
それはもう物語にならねえんだよ。
連載会議や脚本会議を通らねえから作品として世に出てこねえし、そうじゃない素人のWEB漫画だって、作者がわざわざ無償で漫画を世の中に後悔するような露出趣味じみた感性をもってる時点で、その分身たる主人公たちもまた人と関わろうとしちまうんだよ。
地獄じみてるぜ
ヴェルタースオリジナルのCMで英国好々爺はそう言って市販品のキャンディーを孫に渡していた。
このCMに直接感化されたというわけじゃないが、俺はどこかで「こんな凄い商品を与えられる俺はきっと凄い奴なんだ」と感じて生きていた。
ゼルダ・マリオ・ハーゲンダッツ・ドラゴンボール、一般家庭の特に感受性が豊かでもないガキであっても親に強請れば特別な商品に囲まれて過ごすことが出来た。
俺はその環境の中で「俺もきっとこの商品に見合う凄いやつなんだろうな。センスの無いやつならこの凄さがわからないはずだから」と調子に乗っていた。
違った。
全然違った。
センスがあるとかないとかではなく、そもそも商品として売られているものを消費するのに特別もクソもないのだ。
世界一売れているゲームを遊んだからって、ソイツがこの世界で一握りの天才なんてことはなく、むしろこの世界でも屈指の凡人なのだ。
逆に超マイナーなものに触れていたら凄いかと言えば、それも全く関係ない。
消費行為は単に消費するだけであり、誰でも出来るので、何を消費したかはその人間の能力を何も証明しないのである。
俺はこれを本当に勘違いしてたんだよ。
「俺はガンダム全作品見てるからさ、宇宙のことにめっちゃ詳しいし、戦争や政治も分かっちゃうんだぜ?」みたいに勘違いしていた時期がマジであった。
実際には世界情勢のことも機会の仕組みも大学レベルの物理学も全然分からんただのアホなんだが、それでも「まだ知識が足りてないだけで、本質はすでに捉えてるから」と頭の足りないことを心の奥底で本気で信じてた。
市販品のヴェルタースオリジナルを親から買い与えられただけなのに、自分がヴェルタースオリジナルの創業者一族の一人であると勘違いするようなレベルの勘違いをしてた。
この歪みに薄々気づいていたのはかなり前からだけど、完全に毒を抜ききるのにだいぶ時間がかかったよ。
薄々気づいてからも「まだ消費が足りないのか?じゃあ今度はMSVを勉強しよう!そうすれば今度こそ凄い人間になれるのでは?」みたいな勘違いはどこかで残っていたからな。
アイドルやガチャにハマっちゃう人ってきっとこの勘違いをより深刻にズットズット続けてるんだろうな。
「凄いことをする人達の近くで消費活動をしたり、キラキラしたものを集めまくれば、自分も同じような特別ななにかになれる!」といつまでも思い込んでるんだよ。
スーパーヒーローの変身グッズを親から買ってもらってヒーローに近づけたと思い込んだその気持のままで、今度はもっと高い変身グッズを買えばいつか本物のヒーローになって皆から尊敬されるぞって勘違いしてるようなもんだよ。
買い支えることは出来る。
でもそれは腐葉土の下で腐り果てながら大樹を支えているだけで、木そのものにそこに咲いた花や実になることは出来ないんだよ。
勘違いしてしまうと頭がおかしくなって浦和レッズサポーターみたいになってしまう。
俺もそうなる危険性があったんだな。
分不相応な夢を見ながら、その夢に向かってするべき努力を見誤って消費活動ばかりしていた人生の後遺症がまだ人生に深く残ってる。
いい加減にしろよな、まじで。
アニメ映画で滅茶苦茶に稼いだ金をこの糞実写映画でどんだけ浪費してるんだ。
あまりの馬鹿馬鹿しさに笑ってしまうが、何よりむかつくのはなぜこの資金をアニメ映画に使えないんだ?
ドラゴンボール超 スーパーヒーローの世界興行収入は約140億円だ。
広告費込みの製作費50億円で作ったとしても利益が出るレベルの興行収入だぞ。
ハリウッドのスパイダーマンのアニメ映画は1億ドルの製作費で6.5億ドル稼いでる。つまりアニメ映画だってもっと稼げる可能性がある。
糞実写映画に80億円もかけるなら、50億円くらいドラゴンボールとかスラムダンクのアニメに投資しろよまじで。
映画「オッペンハイマー」と福島と 核の被害語ることは「悪」なのか
笠井哲也
7月下旬から米国で公開されたある映画が話題を呼んでいる。「オッペンハイマー」――。「原爆の父」とも呼ばれる物理学者ロバート・オッペンハイマーの伝記映画だ。米国では好評を博すが、米デュポール大学(シカゴ)の宮本ゆき教授(倫理学)は強い憤りと違和感を抱いているという。米国でも、そして福島でも、核(原子力)を語るときに「置き去りにされているもの」を考える。
また違和感か。知性の欠片もない。
「女性の皮膚がめくれるシーンがありますが、きれいなんです。皮膚がめくれて赤みが出るとかではなくて、うっすらはがれるんです。これが、米国の多数が不愉快にならない、ギリギリの線なのかなという感じを受けました」
クラスター爆弾がそうだ。化学兵器もそう。アメリカは全て肯定している。
映画は米国内では好評価を得ており、原作もベストセラーになっている。同日公開の映画「バービー」と2本立てで見ようという動きが起き、「バーベンハイマー」なる造語もできた。「本当に核がエンタメなんです。スパイダーマンやハルクなどスーパーヒーローも、放射能を取り込むことで強くなりますよね」
そこには1940年代後半から続く、「核(原子力)は偉大だが、手なずけられる力」という考え方がにじんでいると、宮本さんはみる。核は人の手でコントロールができるが、扱う人間によって善にも悪にもなる、ということだ。
「核を取り合うというシーンはハリウッド映画でもよく登場します。自分たちが持つのはいいけど、悪いやつの手に渡るのはいけないから取り返そうっていう、それなんです」
こうした核への見方が広がる社会の中、見過ごされてきたのが被曝被害だと、宮本さんは強調する。
そこには政治的な意図も絡む。米国をはじめとする核保有国にとって、核兵器や原発の技術を掌握することは、国の覇権を強固にするための手段でもあった。このため、保有国が被曝影響を隠すのは必然であったと、宮本さんは考える。
「例えば、アフリカなどで産出されるウラン鉱石を精製してできる物質は、英語で『イエローケーキ』と呼ばれます。原子力の原材料であるにもかかわらず、放射性物質とは認識されていません。放射性物質だと呼んでしまえば、(原産国が)力を持ってしまうことになりかねない。言葉によっても、支配下に置くわけです」
それで処理水とか言っているのはなんのぎゃぐなの?
「科学」も動員されてきた。文化人類学者のガブリエル・ヘクトは、国際原子力機関(IAEA)はこうした核による支配の構造を定着させるためにできたと批判する。つまり、IAEAは、核兵器をつくらない確約と引き換えに、原子力技術を提供し、核保有国の資源に頼らざるを得ない構造を作るのに重要な役割も買ってきた――、と。
マスコミが抜け落ちている。
米国には、核実験の影響で被曝し、がんなどを患った住民らを対象とした「放射線被曝補償法」がある。
でも、と宮本さん。「補償は、核で国の防衛に貢献したことと引き換えの『感謝』の意味もあり、結局は核抑止論の上に成り立っている。だから、『核兵器をなくそう』にはつながりにくいんです」
核施設に対して「恩義」を感じる住民も多いという。「核兵器で私たちは国を守ってきた。これが善なんだから、となれば、それにもの申す人はとんでもない『非国民』となってしまいます。被曝の話は、被曝地でこそ、できなくなっています」
東京電力福島第一原発事故後、福島の「復興」はハンフォードをモデルに形作られてきた。2021年4月に発足した一般社団法人「福島浜通りトライデック」は、ハンフォードの周辺地域を基盤とする商工会議所的な存在である「トライデック」から名を取った。22年9月には連携協力協定も締結している。
だが、そこで米国と似た現象は起きていないだろうか。「政府や県が掲げる『復興』が『善』とされる一方で、それを妨げるような、被害にまつわる言説は『悪』となり、風評被害をまき散らす、というふうになっていないでしょうか」
第一原発から出る処理水の海洋放出をめぐる議論でも同様だ。放出は復興のための「善」として、政府の言う「科学的」な説明をそのまま受け入れてしまってはいないか――。
思いっきりそれやっている。
https://www.asahi.com/articles/ASR896726R84UGTB004.html
【Q&A】ALPS処理汚染水、押さえておきたい14のポイント
話してたぞ。
おまえの主張は「主人公が人間じゃないと感情移入できないから売れない」。
俺の主張は「人間でないと感情移入できないとは限らない」「そもそも感情移入が必要とは限らない」。
「主人公が人間でなくても普遍的なテーマであれば受け入れやすい」というのはおまえではなくむしろ俺の主張の範囲なんだよ。
そもそも人間には「親近感」以外にも「憧れ」や「同情」などさまざまな感情がある。
映画の中には、視聴者には真似できないことをするスーパーヒーローも、現実では絶対にやりたくない悪事を働くダークヒーローもいる。
主人公が本当に嫌な奴でムカつくからこそ面白い作品だってある。
主人公を全能のように描いて脇役に感情移入させるタイプの作品もある。
それらすべてを一面的に「視聴者と主人公が近くて感情移入するから人気がある」と説明することはできない。
それを「子供っぽくて親近感が湧くから人気なんだ」と無理やり説明しているのがおまえ。
もちろんそれも一因ではあるが本質的ではない。
日本の社会人の平均学習時間は1日6分、そのうちの95%の人の学習時間は0分。
これが日本社会の現実である。つまり何もスキルを身に着けようともせず、自分が学校を卒業したころ、自分が最初に就職したころと似通ったスキルで世の中を渡りきろうとしている人々がいる。あなたはどれほど学習しているか。
ほとんどの人は『努力』と『苦行』とを同一視している。これは教育の失敗によるのであろう。努力は苦しみを伴うことも多いが、苦しめばすなわち努力となるのではない。耐え忍べばいつかは救済が来るわけではない。苦行は意味がない。苦行ばかりしている人が多い。『わたしたちはいっぱい苦行をしている』と言い張っている。それは正しい。しかし努力をしなければならない。自分の意を通すために必要なことをすべてやる能力を努力という。
他責ばかりする者が多く見られる。『他責にするな』というのではない。どうして自分の人生のすべての責任を、完全に他人のせいにしてそれを受け入れていられるのか。人生の主導権を手放して、それで満足か。痛めつけられてきて、自らの未熟さを世間から突きつけられ続けたからかもしれない。蔑まれ、馬鹿にされ、からかわれ、侮辱される。どうせやっても無駄だと感じているか。無論、社会というものがクズに見えるのは仕方がない。クズな人間は目につきやすい。ノイジーマイノリティである。悪事千里を走るとも言う。ふざけたどうしようもない人物も実際に多くいる。そういうふうに社会を見れば、社会は「クズ」の総体でできたもののように見えるのも無理はない。「ああ、社会というものはどうしようもないんだね」と思うのだろう。違う。
いつまでも自分がモラトリアム期間の中にいて、いつまでも人生が猶予されているように振る舞っている輩が目につく。年齢を重ねれば自然と大人になるわけではない。大人になろうとしなければ大人になることはできない。知識を重ねさえすれば大人になるわけではない。それはアダルトチルドレンという。どれだけの人々が、愚痴も言わず、他人の人生を助け、人々を愛しているかをしっかり見ようとしない。気付いてしまえば、己こそが真のクズだとわかってしまうからだろう。社会とは、自分の身の回りだけではない。自分の身の回りは世界ではない。世界のごく一部である。
どれほど自分が未熟で、愚かで、他罰的で、人に迷惑をかけ続け、どうしようもない、本気を出せない、信頼を容易く裏切る、クソガキ的存在なのか、そういうことに思い至りたくないのだ。このように言うと、実際反発する人が多いものだ。自分がいかに素晴らしく、いかに努力をしており、それに比べて他人はどうしようもなくダメで、他人は楽々生きているように見えて、恵まれているくせに、厚かましい無神経なやつばかりなのだと思っている。
「ああ、これは自分のことを言っているのだ」と振り返ることができない。どこかずっと他人事である。そういうことは、自分ではない他人がやるべきなのだと思っている。しかし他人も人生は1つしかない。どうしてあなたのために、他人は他人の人生を犠牲にしなければならないのか。他人にどうにかしてくれという発言は、ドラえもんを求めるのび太の声である。誰かスーパーヒーローがやってきて、自分を救ってくれはしないかと思っている。自分がドラえもんになろうとはしない。
ヒーローはいる。ヒーローは、人知れず人を助けている。感謝など誰からもされない。それこそが大人である。少し探せばいくらでも見つかるものだ。探そうともせず、目が曇っているから見つけられないのだ。自分はやっている、十分やっていると思っている。いいや、全然、やっていないのだ。耐えるだけなのは、怠けているのだ。耐えるだけなら楽だろう。耐えている自分は善で、耐えさせる他人が悪なのだ。そして、素晴らしい人々は、自分とは違う世界の住人だと思っているか。そうではない。身の回りの調度品を注意深く見よ。それはどう作られているか。あなたに作れるか。何故それがそこに存在できるのか、安全に暮らしていけるのか、思いを馳せない。それが当然のことだと思っているからだ。当然ではない。先人たちの血と努力の奇跡的結晶を「それが自然の摂理だ」と、誤って学習してしまったのだ。
努力や忍耐など他国の人々もやっている。とてつもなく多くやっている。他国の人は決して無知の民ではない。同じ人間であり、ホモ=サピエンス(知恵のある人)である。野蛮人だと思っていたか。自分だけだと思っていたか。それだから追い抜かれたのだ。時代のせいにするな。甘えるな。依存するな。もうとっくに、昭和ではないのだ。今の社会人は全員が不景気しか経験していない。得など誰もしていない。「他国のもっと苦しんでいる人だって頑張っているのに」という言葉を軽く見ている。心が鎖国しているのだ。目を向けなければいけない。自分が、自分が虐げられていることだけが重要だと感じているのだろう。あくまで自己が優先。他人など蹴落としてしまえ、他人を虐げてしまってもよいという精神が、他人を容易く批判させる。
大人とは、「あなたは悪くない、あなたは少しも悪くない、悪いのはあなたではないよ、あなたは頑張っているよ、あなたは虐げられているよ、あなたは大変だったね」という悪魔を求めるべきときではない。そんなことは、ほとんどの場合、言われないものだ。当然の如くやるものだとみなされている。褒められもしない。愛されもしない。やるのが常識だと思われる。報われることもない。それでも頑張れるのは、わかってくれる人がいるからだ。自分のことだ。自分が、どれほど懸命にやっているかわかっていれば、それで良いのだ。
社会には大人が少ない。いないわけではないが、割合少ない。見えにくいというのもある。だから大人を求めている。全く割に合わず、非合理であっても、それをやろうとする人間を求めている。自分の任務をわきまえて、それを果たせる大人を求めている。年齢的な意味での大人は、見限られていることも少なくない。どうせ言っても無駄なのだ。固定観念に縛られて、他者に損害を与え自己利益だけを徹底的に追求する邪悪だと思われている。そのわりに、自分は正義だと思っている。だから子どもに教えているのだ。大人は、子どもに救いを求めている。「未来の大人たちよ、私達を助けたまえ」と言っている。
俺たちは、もはや助けられる方ではない。助ける方なのだ。誰か助けてくれると思っても仕方がない。なぜなら助けてくれる人が全くいないのだ。日本は王国でも帝国でもない。早々に自分の人生は解決して、他人を助ける側に回らなければならないのだ。進まなければならないし、進もうとしているのだ。耐える必要はない。ただ努力せよ。
もしもそれができないなら、指をくわえてみていれば良い。救ってやろう。守ってやろう。俺たちは大人だから、そうしたいのだ。
俺は、この文章の意味が、ただ1人にだけ伝わればそれでいい。俺はただ、社会がクズなものだと思いたくないのだ。世界は素晴らしいのだ。
大人の嗜みとして真っ先に思いつく、アルコールとタバコ。両方弱かったけど、タバコだけはヤニクラに耐えセブンスターを吸えるようになった。
社会性としては、どう考えても付き合い程度に飲めるよう慣れた方が良かったんだろうけど。でもタバコの方が魅力的だった。かっこいいから。
それか缶かしゅっ。ぐびっ。それでハイ終わり。
こう雑に言ったら愛好家に怒られるだろうけど、私にはそう見えた。
タバコは取り出してから火を点け、一息置いて煙を吐き出す。紫煙に目を細めつつ、頃合いを見て火をもみ消す。その一連の所作に、どうしようもなく惹きつけられた。
灰皿とライダーという喫煙具を常備しているのも、なんとなくかっこよく感じた。酒飲みは常に一升瓶握っている訳ではないし。
フィクションにおける小道具として登場するそれへの憧れも強くあった。映画スターがおもむろにタバコを取り出し火を点ける姿。昔はかっこつける気なんかなくて、スマホをいじるくらいにタバコを吸うのが当たり前だったのかもしれない。それがどうしようもなくかっこよく見える。戦争映画なんか観ると、無性にタバコを吸いたくなる。有害なマッチョイズムなのかもしれないけれど、子供がスーパーヒーローに憧れるが如く心惹かれてならない。
嫌煙が「正しい」側の時代だし、たばこ税の歳入が云々と正当化しようとするのも悪手だと思う。毒ガスを撒き散らす害悪な存在と罵られたら、不快に思えど返せる言葉はない。
自分はマックイーンでなければショーン・コネリーでもない。一服というシチュエーションに酔いしれる様をキモい、ダサいと思う人こそいれど、かっこいいと思う人などいないだろう。
後者のは女の医療漫画と括るにはちょっと的が外れてて(追記:女性がメインキャラに入ると言う点では確かに「女の」括りは合ってました。失礼。ただこの後の話はそれでも成立すると思うのでそのままにします)モーニング系の青年誌掲載が殆どなので、あの系列特有のハードさがある。同じ講談社でも女性向けレーベルから沖田×華先生も医療系漫画を出してるけどもおおむね同じ傾向。
Kも講談社だけどあれはスタートがマガジンだったのでスーパーヒーロー的なのは少年誌向けとして書かれてる
今表出してる医療漫画は3つに大別して
・青年誌
・婦人誌(エレガンスイブとかフォアミセスとかあたりに載ってそうなの)
で見たほうがわかりやすいと思う
友達が居て仕事があってお金に困ってなくて健康で恋人が居てその恋人とそのうち結婚して浮気をされず幸せな家庭を持ち趣味も充実して。。。
そんな人並みの幸せがほしい。
一体どこが人並みだ。
こうして書き出してみるといかに現実離れしているかが今なら分かる。
叶わぬ望みなど抱かぬほうが良いだろう。
ならば、俺は何を望み何を願うのだろう?
自己完結した真の願い。
駄目な自分をそれでも愛することだろうか。
いや、それだけ足りないじゃない。
客観的に見てつらい状況でも辛くないと思えるようになることだろうか。
小さな幸せ。それは例えば銭湯に週1回行くとかそんなもので良くて。
そういう幸せをちゃんと握りしめて、絶望と仲良くなって独りでもちゃんと生きていく。
二週目見たので。
特撮の白倉プロデューサーはメタネタを作品に取り入れることが多いんだけど、ライダー・戦隊映画の「スーパーヒーロー戦記」なんか、敵が「お前らネタ切れでモチーフ被りまくりのオワコンじゃねえか!」なんて台詞を吐くんだよね。
シンエヴァでも、(しばらく観てないのでうろ覚えだけど)シンジと綾波の会話中、「使徒、襲来」から「シン・エヴァンゲリオン」までのタイトルが「作中のスクリーンに」流れる。
どちらも、作中のキャラではなく観客に向けた表現であり、またシリーズのファンでないと伝わらないネタでもある。
「すずめの戸締まり」も3.11をメタ的に、観客を意識して作られた映画なんじゃないかな?みたいな。
文系は作者の気持ちを考えてろ、なんて言葉があるけど、昔は作品にゃ「作者の意図」ってのがあって、それを読み取るのが正しい読み方なのだ、って学校でも教えられてた。
でも後から、「文章を読んで書いた奴の気持ちなんか分かるわけねーだろ」「それをどう読み取ったか、読んで何を考えたかが大事だろ」的な考えが出てきて、作者ではなく読者を主体として考えるべきじゃね?みたいになって、そんで、多様な考え方を尊重しようみたいな話に繋がったり繋がらなかったり。
まぁそんな感じで、被災した人もしなかった人も、311を経験した人なら色々考えるし語りたくなるよね、的な?
☆タイムリープと予定論
タイムリープものとしてみた時、あのシーンは実はこういう場面だったんだ!って気持ちよさは薄い。(自分が観た中だと、平成ジェネレーションズフォーエバーのネタばらしが一番気持ち良かった)
で、先のことは全部決まってる、ってやつね。最初ちょっと引っ掛かったんだよ。仮に扉が閉じるの失敗して震災起きちゃったとしても、結果は決まってるからしょうがなかった、ってことにならね?みたいな。
ただ、幼すずめにとってというより、現すずめが言うことに意味があったのかな、とも考えたり。現すずめにとっての先の未来は不確定なんだし。
雑多な感想
全体的に、「間」を大事にしてるっつーか、日常描写に尺割いて丁寧に撮ってるなーという印象。世界観説明はセリフで軽くすませて、子守りシーンはしっかり描写する、みたいな。それが不満な人もいるだろうけど、個人的にはそこが良かった。娯楽としての面白さって、つまりはセックス&バイオレンスなわけで。盛れば盛るほど下品で楽しい作品にできる。ヒロインとのキスシーンなんて大抵の映画にノルマのように入ってるけど、すずめのそれは上品で、個人的にはちょうどいい。
ダイジンの草太に対する認識というか、すずめから草太への好意に気付いてたのか無頓着だったのか、気にしながら見たがいまいち分からず。ただ自分の方が愛されてると勘違いしてるのはビンビンに伝わってくる。哀しい。
親子喧嘩のウチの子じゃない、自転車の仲直りもダイジンは見てたんだよな。で、色々考えて、結局自分はすずめの子にはなれない、と悟ったんやな…
二週目だとダイジンのヘイトチャージクソ猫っぷりが違う意味で面白い
初見の時、ダイジンは要石に戻る覚悟決めて車に乗ったんだなと思ってたがそうでもなかった
サダイジンは抑え切れずに抜けてしまったのか、ダイジンが抜いたって感じでもないよな~?
草太さんの記憶、バンクじゃん!ダイナミック回想じゃん!とかいらんことを考えた。
初見時、エンドロールで稔君が迎えに来てるの気付いてなかった。フェードアウトしたのかと…
書いてから読み直したら、メタフィクションと震災なんも関係あらへんやん!俺は何が言いたかったんだ?
視聴者の存在を認識してるみたいなメタ発言と、フィクションの自己言及としてのメタフィクションを混同してたんだろうか…?
実際はハイコンテクストってのが近いのかしらん?
う~ん。しかし、作中で3月11日に発生した震災と、現実の3.11は別の話だよね?要石も閉じ師も現実には存在しないし、みたいなことは考えてた気もする