はてなキーワード: 植民地支配とは
まるて植民地支配は悪くないって言いたそうだな
こういう人は出てくると思いました。しかし考えてみてください。元増田さんの主張には誤りがあります。
"物欲も性欲も抱くこと自体はコントロールできないが、そこから犯罪という手段で解決しようとすることをコントロールしている"という元増田さんの主張には同意します。
現在の社会通念上、物欲そのものが気持ち悪いとは見做されてはいません。
一方で、"気のない相手から恋愛感情を抱かれたり欲情されたりすること自体が気持ち悪い"と考えている人は多数います。
つまり、物欲を持つ内心の自由は他者の人権を侵害していませんが、性欲を持つ内心の自由そのものが相手の幸福追求権を侵害することはあります。
こういうことを言うと"いや、内心の自由は絶対に保護される"と言うかもしれません。しかし、憲法にそのように明記されているわけではありません。あくまでそのように解釈されているだけです。
つまり、"内心の自由は絶対に保護される"というのは"自衛隊は憲法9条に違反していない"や"死刑は憲法36条の定める残虐な刑罰に該当しない"と同様に解釈にすぎないのです。
将来、"性欲を持つ内心の自由そのものが相手の幸福追求権を侵害しているから性欲を持つ内心の自由は公共の福祉に基づき規制される"という解釈になる可能性も十分にあります。
Ⅱ.そもそも全ての人の内心の自由を保護することが人類の幸福や発展に繋がるかを思考停止せずに考えるべき
性欲そのものが理性でコントロールできないならば強制的に薬で抑えろという主張は、「『性的なことを考える』という内心の自由そのものを奪え」と主張しているのと同じであり断じて認められない。
しかし、私がⅠで書いたことが成立しないとしても、元増田さんは"内心の自由だから守らなければならない"というところで思考停止しています。
そもそも、内心の自由を含めた基本的人権は決して自明のことではありません。トマス・ジェファーソンは自明のことであると主張するかもしれませんが、そのように主張したジェファーソン自身が奴隷を所有していたことからも決して自明ではないことが明らかです。
当初は"白人男性は自由・財産・生命などの権利を持つべきである。そのように設定することが人類の幸福につながる"と考えられ、それが”女性を含む白人は”となり、やがて”全ての人は”へと発展していったのが20世紀までの人権の歴史です。
しかし、全ての人に基本的人権を設定することで人類は本当に幸福になり発展してきたのでしょうか。私にはそれは自明のことであるとは考えません。
むろん、"フルスペックの人権を持つ人と持たない人がいる"という考えが差別や奴隷制や植民地支配を生んできたことは確かです。しかしながら、それは人類が"フルスペックの人権を持つ人と持たない人の区別"を自分に都合よく設定してきたからである可能性もあります。
たとえばAIに評価させることなどにより、"フルスペックの人権を持つ人と持たない人"を中立的かつ人類の幸福と発展のために区別できるようになるかもしれません。そのようなことも元増田さんには考えてみて欲しいです。
そう考えると日本は大戦前に欧米の真似して一番最後のほうで植民地支配やろうとして、先にそういうの倫理的にちょっとぉ…っていう風潮になってたアメリカに「これ以上やるなら石油止めるよ?」とか言われて大戦になって負けて、欧米諸国なんかよりもずっと先に植民地支配のこと怒られていまだに責められててウケる。
なのでその反省のお気持ちは大事にしとくことが、これからのポリコレ合戦の勝者になれるいっこの要因になるかもねって思いました。
前記事で、コロンブス問題、サヨクめ!と散々書いて、当事者目線を強調しつつ最後に野沢直子の回答で締めくくっていたら、
まさに現地の当事者目線で、ぐうの音も出ない解釈を目にすることになった。
先住民目線で語る、Mrs. Green AppleのMV「コロンブス」問題 | ユロックの母
ほらみろや、と今頃、新たに手にしたポリコレ棒で気持ちよく机をバンバン叩いているに違いないと思うと、うぐぐ、な思いはあるが、この記事はとても説得力があった。
ファクトチェック全部はできないし、3割程度は陰謀論ばりのこじつけかなぁ?という印象ではあるものの、確かにそう見える、というのは、正直、とても説得力がある。
それにしても、この当事者目線というのはとても大切だと思うし、亜希ダウニングさんの他のアメリカ先住民を取り扱った記事も大変興味深いものだった。
特に、おお、と蒙を開かれたのは、感謝祭に関するアメリカ先住民の視点。
【感謝祭の本当の起源】ネイティブアメリカンの悲しい真実の物語とは | ユロックの母
これは考えるヒントがたくさん詰まっている記事だと思った。
ただ、これもコロンブス記事同様、3割程度はエイヤと断定してしまっている部分が少なからず見受けられ、必ずしもファクトを確認できない感じではあった。
(例えば、1637年のピクォート族虐殺=John Winthropマサチューセッツ湾植民地知事による征服祝いが感謝祭の起源である、と同氏は断定しているが、アメリカ先住民よりのメディアを検索しても「このピクォート族の虐殺と土地を奪ったことを讃える1637年の宴が最初の感謝祭であると、後に公式に決定」とまで断定しているものは見つけることはできなかった。もっとも保守派よりのファクトチェックサイトでは、1637年の征服を祝福、感謝したのが感謝祭の発端とする説に「事実無根だ!」と、それこそむきになって根拠なく反論しているのもみつけたので、右派にとって、痛いところを突かれれているのだろうとは思う)
というのは、感謝祭という、入植したアメリカ人の原点ともいえる巡礼始祖の心温まるエピソードで、かつ「アメリカ人」というネイションとしてのアイデンティティ形成にも寄与してきた感謝祭、そして現代では商業的にもブラックフライデーなど非常に重要な感謝祭が、実はアメリカ先住民の視点からみると、自分たちが虐殺されてきた血塗られた歴史の一コマだったというのは、ポリコレ的にどう扱うんだろうと。アメリカ先住民の立場としては、感謝祭の日は喪に服す日だとして、負の歴史を直視するよう求める主張も行われている、という。
これは、ポッと出てきたアニメやMVなどのコンテンツと違って、ポリコレ的にあかんから、といって引っ込めるわけにはいかない。
感謝祭はそれほどまでにアメリカの文化・経済社会に深く浸透している。巡礼始祖の思いというのはある意味、合衆国憲法起草にも関わってくるものなので、巡礼始祖の神話をその一部であれ、修正する、というのは容易なことではない。いかにキャンセルカルチャー全盛の昨今といえども、感謝祭、裏側からみれば虐殺の歴史、というところに目をつぶり続ける時代はしばらくは続くだろうと思う。
だから、アメリカ先住民としては、感謝祭やめろ、とまではいえないが、少なくとも私たちは喪に服すよ、ということをアピールする、というところなのだろう。
問題は、自分たちのアイデンティティ形成に欠かせないものをキャンセルできるのかというテーマだ。
そもそも、植民地主義の反省というのがアメリカのみならず、ヨーロッパ社会でもなかなか直視されないのは、それが自分たちのアイデンティティに組み込まれているからだというのは、例えばフランスの植民地主義を振り返るとわかる。
例のコロンブスMVでは、類人猿に音楽を教えたり文字を教えたりする場面があるが、ダウニングさん的にはネイティブアメリカンの歴史が最初に思い浮かぶのだろうけれども、俺はどちらかというと、未開な社会を文明化する、というテーマはむしろ、フランスの植民地政策がどんぴしゃりなイメージだったりする。前記事でそんなことを書くと、そういうお前も知識ひけらかし野郎だろが、といわれるので書かなかったが。
ひとつ前の記事で永井陽右氏の言葉を引いて、「外付けされた人権」という安易さを戒めるようなことを書いたんだが、外付けの元祖は実はフランス革命だ。
人権の出発点のひとつともいえるフランス革命では、当時、海を隔てたイギリスからこの革命の様子をみていたエドモンド・バークは、革命で掲げられたフランス人の新しい概念について、外付けはおろか、「発明されたもの」とまでいっている。褒めているのではない。「発明された概念」のもと、フランス革命では、反革命派が次々と断罪されている様をみたエンモンドバークは、なんでも進歩的なものが素晴らしいわけではないし、なんでも理性的に判断できる、偏見を解消できると考えちゃう傾向はヤべえと考えた。
偏見なんてなくならないんだから偏見をなくそうという発想をやめて、伝統や文化と結びついた自分たちの偏見を生かした社会を目指すべきだ、という考えを進めた。
つまり、「伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとがいる」一方で、伝統的な文化や価値観で自己実現をしたいひとだっているってことだよ。
進歩的な価値観に基づいて偏見を解消しようすると、社会のどこかで肩身の狭い思いをする人が出てくる。それをかつて中島みゆきは「世情」という歌のなかで、
学生運動のシュプレヒコールの情景をみながら、「世の中はいつも変わっていくから頑固者だけが悲しい思いをする」とうたった(哀しい思いをするのは学生たちに打倒される守旧派側でもあり、衰退する運動にしがみつく左翼くずれの末路でもある。あ、俺の解釈ね)。20代の頃の中島みゆき、すごいぜ。
エドモンド・バークに戻ると、彼はいわゆる、保守主義の元祖みたいに言われることが多いが、フランス革命による激しいポリコレにビビったというのがそもそもの出発点なのだ。
*教養なんて外付けだろうってブコメに★がたくさんついているが、エドモンド・バークの見方は、そういうことを少し考えるヒントになったりしないかね。
もうひとつ興味深いのは、フランスの人権の歴史は、実は植民地主義と深く関わっている、ということだ。
フランス革命後、自ら編み出した自由博愛平等という「人権」という概念をより普遍的な価値に高めるために、文明化の推進という旗印のもと、未開社会の啓もうにいそしんだのがフランス植民地主義の大きな側面だからだ。特に、フランス語の普及は博愛の精神の名のもとに、当時フランスが支配下においていたアフリカ地域で推進された。確か、昔読んだ本で手元になく記憶があいまいだが、当時の知識人ヴィクトル・ユゴーは奴隷制に反対しつつも、フランス語の普及にはむしろ賛同していた、と聞いたことがある。ユゴーではなくジャン・ピエールだったかもしれないが。いずれにしても当時の一級の知識人が植民地におけるフランス語推進の旗手だった。
こうしてユニバーサリズムの名のもとに、フランス人の精神の普遍化を推し進めた、というダイナミズムがあったこと、そして、隣国の保守知識人からはフランス革命のその後の経過は「発明された概念」による野蛮なポリコレとして映じていたりしていたことは、「人権を普遍的なもの」として習ってきた学生が、次のステップとして教養として知っておいてもいいことだと思っている。
人権の普及と植民地支配が地続きであるというのは、フランス社会での植民地支配への反省の足かせになってきただろう。それは博愛を友愛とポリコレ的に言い換えても同じことだと思える。
これはある意味で、感謝祭が国民意識の醸成に関わってきたことと、その負の側面を直視しにくいアメリカの状況と、状況は異なるが、抱えている課題は共通する。
昨今のコロンブスMV叩きについて、得体の知れない違和感を覚えるひとは、俺も含めてなんだが、恐らくどちらかというと、人権の普遍化のプロセス(進歩主義)と植民地主義が一心同体というところに気持ちの悪い類似性をうすうす見出せるのではないかと思う。エドモンド・バークほどはっきりと「人権よりむしろ偏見のほうが大事!」と180度振り切るまではいかなくとも、正しさのもつ禍々しさを何か表現できないかというモヤモヤがあるはずだ。
自らの存立基盤をポリコレ的に正す究極が革命というものだとすれば、それに対する警戒感というのは埋もれてはならないものだと思う。
そういうモヤモヤは大切にしてほしいし、アメリカ先住民の立場からみたらやっぱり、という記事を見つけたとしても、そこまで確信をもって解釈できなかったし、寄り添えない、という部分は残しておきたいと思う。それに対して「貴様、アメリカ先住民の心情をないがしろにする気か」という反応は、ある意味、表現の自由の乏しかった80年前の戦時中に、「兵隊さんご苦労さん」といって国民を一斉に同調させたダイナミズムとよく似てくる。大東亜共栄圏の思想は、欧米の帝国主義がアジア諸国の文化や経済を搾取し、独立を妨げているという考えから出発している。何が正しいかについて翌々考えず、適当にポリコレ棒を拾って叩いていると知らず知らずのうちに、みなが操られた正義に踊らされてしまうというのは危機感としてもっていい。
>しかも、大変勉強になったがユロックの母 https://www.yuroksmomlife.com/mrs-green-apple/ によると、私の浅いレベルの知識では気が付かない火薬がさらに色々埋まっていたらしい。猿人の色だとか、バッファローだとか、乗馬に関する指摘とか、これは日本国内においてはWikipediaでちょっとコロンブス(やナポレオン等)をかじっただけでは気がつけない人が大多数ではないか。
自分もこれ読んだけど、
「だから差別だ」「だから出すな」と結論付けているのにはぁ?だったわ
それだけ細かい知識がないと分からないくらいに歴史に根ざした描写があるのならば、
お前の指摘は「ここは美化になっていない」とか「もっとこうすれば美化する余地がある」ってことだけど、それじゃ反論にならないな
「部分Aが美化になってる」に対して「部分Bは美化になってない」と言っても、部分Aが美化だという主張の否定にはならないだろ?
すでにお前は反論が成立しないところまで後退してるんだよ
つまりコロンブスたちは物質的には豊かでもモノを知らない猿を教えて指導してあげる立場なわけだ
植民地支配を正当化するために当時から利用されてたのと同じ構図だよな?
そういう構図を楽しげに描くことが結果として美化になったってことだ
俺は美化になってる理由をこうやってはっきり説明してるだろ?お前はそれを否定できてないよな
わざわざお前が持ち出してきたピアノのシーンをあえて取り上げて美化になってる理由を説明してやったんだから、お前もちょっとは頭使えよ
コロンブスが一方的にピアノのレッスンをしてるんだからあのシーンの優劣ははっきりしてるだろ?
お前が取り出してきたピアノのシーンだけじゃなくて乗馬でもそうだよな
コロンブスたちは教える側で使役する側、猿は教わる側で使役される側なんだよ
つまりコロンブスたちは物質的には豊かでもモノを知らない猿を教えて指導してあげる立場なわけだ
植民地支配を正当化するために当時から利用されてたのと同じ構図だよな?
そういう構図を楽しげに描くことが結果として美化になったってことだ
今日本人が植民地支配主義を肯定してるように見えても批判してるように見えてもどっちにしろまずいから。
肯定してるように見えた場合、海外のどっかのメディアとかで日本の若者はネオナチならぬネオ大日本帝国に傾倒してるとか言いがかりつけられて、日本は反省してないとか戦前の話蒸し返されてもめんどくさいしねー。(ちょっと違うけどBTSの原爆Tシャツの件覚えてる?ああいうやつとか。)そんでアメリカ左派からも嫌われる可能性もある。
あるいは批判してるように見えたんだとしても、それはそれでアメリカの核の傘とかに守られてるくせにとかアメリカ保守方面から反感買うのもね。自分たちが批判してても他所からそういうの言われると腹立つじゃん。ほぼトラだったらなおさらなー
どのみち日本の立場が悪くなることはあっても良くなることはないよねこの場合。
最近はネットでいくらでも海外の文化とか見えちゃうし、そういうの知っててあえてやるんだとしても理論武装ちょっと気をつけてやらないとだし、ましてやなんか無邪気にしらなくてやっちゃいましたーとか簡単にその国の評価として政治利用されたりするからな…油断ならないよねー。
ちょっときつめに嗜められてる痕跡をニュース記事とかで残しとくのは対外的に一応やっとかないとならない後処理っていうか。スルーだと容認してるって思われかねないしな。
とはいえまあ別に悪気は全くなさそうだし、彼らがすごい悪事を犯したとかやばい思想と持ってるとかいうわけでは全然ないだろうなと思う。あるならもっと悪質な感じにやってる。偶然タイミングが最悪だっただけって感じする。
歴史を見ると資本主義っていうのは利潤の最大化を目的とするから拝金主義に陥りやすい、
現代においては倫理観とかろくに教育されてない人間が金っていう支配力を持った時に
倫理とか他人の尊厳とかそういうものを疎かにしがちってことかな。
コロンブスが今わあわあ言われてるのも根本はそこだよねっていうのはなんかあってる気がする。
もっともそれはマルクスおぢさんも言ってた気がするし昔からよく言われてることだとは思うけど。
強欲な人が悔い改めるキリスト教的ストーリーが欧米圏で年末によく放映されるのも、そういうのを戒めてるんだろうかなって思う。
儒教とか東洋の思想にヒントがあんのかな?っていうと…まあ東洋西洋関わらず宗教とかって大体みんなそこ言ってるんじゃね?とは思う。
金持ちはもっと金を増やせ貧乏人を蹴落とせって教えてる宗教とか見たことない。
まあ人は都合のいい時とか余裕のある時はそういうの思い出せるんだけど、自分がやばい時とか余裕がない時とかはなかなか思い出せなくてやらかしちゃったりするんだと思うけど。
んで今の資本主義っていうのは、そういうズルとか倫理的にまずいことをできないように厳格にルール作りしていきましょうよっていうのも含めて資本主義なわけだよね?
んでそこに必要なのはマネジメントすよね!って言ったのがドラッカーおぢさんだったりとかするわけすよね。
なんかまあそこまでは承前のこととしてわかってなきゃだし、みんなこれからも資本主義を続けるにあたって
盲信したりとかしないでその取り扱いとかデメリットも理解したりとか、もっと倫理面とかもお勉強しなきゃねっていうのはわかるー