はてなキーワード: 私自とは
両者を読み比べてみて信憑性を感じるのは新潮の伊藤氏の記事のほうだ。
一方、文春の松本氏の記事に関しては捏造性を強く印象付けられる。
この違いは何によるのだろうか考えてみた。
すべてに曖昧な点がない。
昨年の出来事であり、
問題の出来事について双方弁護士を立てて話し合いを進めた結果、
物別れとなり、
その事実自体が報道するべき出来事としての根拠ともなっている。
そして、年月が異常に古い。
2008年の出来事を、まるで昨日のことのようにして書いているものまである。
確かに16年も前のことを思い出し、思い出ししてそれを無理やり文章化すれば
具体性のないぼやけきった話となるのも、
さもありなん、とも思えるのだが。
そして文春の記事の特徴として、過剰なまでの「煽り」が記事の隅々まで浸透していることだ。
松本は「○○○○○」と言い放った。
「○○○○○〇〇」
「▢▢▢▢▢▢▢」
すべてがすべて何ら証拠もないのに松本氏が発言した、と事実として書き並べられている。
新潮の記事においても伊東氏が飲み会の席で話した内容などが書かれている。
(その発言自体を記事を読ませるための「釣り」として使用しているわけではない。)
具体的に、いつ、どこで、だれが、なにをおこなったのか
無理な印象付けを行うことはせず、
書かれていることの内容のほとんどは
松本が
「○○○○○〇〇」
と言った。
というような確認しようもない不明確なことを文章の主体としている。
また、よくわからない造語を作って、いわゆる「釣り記事」のような煽りを多用していること。
報道すべき主体がないのに、無理に記事にしている印象を受ける。
あとは雪だるま式に「ネットの声」が事件化してくれるだろうとの見込みで発射されたものであるとの結論づけしか出来ない。
いつの間にか、文春の記事の低レベルさに文句をつける文章になってしまっている。
私自身が望むのは、文春はもう少し具体性のあることを書いてくれないだろうか?ということだ。
実際に性被害を訴えている人がいるのだから、もっとそこに焦点を当てて具体的で、煽りのない記事を書いて欲しい。
今のように、単なる芸人の女遊びを大げさに書きたてておけば、
などという態度でいるのは実際の被害を訴えている人たちに対しても誠実ではない。
結局は、そういう人たちを食い物にしている、という意味で文春はパッシングしている松本氏と立場が同じになってしまうのではないだろうか。
AIに書き起こさせて、途中まで手を入れましたが面倒になったのでひとまずここで公開。
こんばんは、脚本家たちの深夜密談です。今週はちょっと先週からの予告を変更しまして、急遽セクシー田中さんのお話をしたいと思っております。言いますのもですね、やっぱり「脚本家の深夜密談」ということで脚本家の名前を貸している以上、ちょっと脚本家の立場からこの話をして、ご理解していただきたいところもあるなというところから、はい、急遽決めました。なかなか勇気のある決断だったので、私達だけでは心もとないので、40年にわたってテレビドラマで活躍されている伴一彦さんに急遽ゲストとして来ていただきました。伴さん、よろしくお願いいたします
よろしくお願いします。伴さんのお話をお伺いする前に、一応ちょっとここまでの経緯を簡単にお伝えしますと、まずこの件の発端というのが12月の24日に脚本家の方が、そして今月の26日に原作者である芦原妃名子さんが、それぞれなぜセクシー田中さんの9話と10話を原作者である芦原さんが書くに至ったのかという、経緯をSNSに投稿されるんですよね。
それを受けて、ニュース、Webニュースなどでも取り上げられたり、X上、SNS上で大炎上し始めるんです。当初はもう9割がた脚本家を責めるようなツイートが多くて、「原作クラッシャーだ」などとひどい攻撃が上がっておりまして、28日、昨日ですね、になって、原作者の方が「攻撃したかったわけではなくて、ごめんなさい」というツイートを残してアカウントを消されてるんですよね。その段階で、私自身も伴さんに「ちょっとお話したいんだ」とお願いしてはいたんですけれど、やはり当事者の方がもう触れて欲しくないのかなというツイート、アカウント消されてるってことは火消しにしたいのかなというので触れない方がいいのかなと、考えたりもしていたんですけれど、今日になって、芦原さんがお亡くなりになったというニュースが届きまして、やはりここはちゃんと取り上げて、脚本家のドラマに関してですよね。この件に関して私達は当事者ではなくて、あくまでも報道やSNS上、ご自身たちの発信で知ったことが全てですので、憶測で物も言いたくないですし、業界関係者から新たな情報を、確信もなく確認することもなく、手に入れてお話しするつもりもありません。あくまでも今わかってる事実に基づいて、ドラマ作りなど、あるいは脚色の仕方など、どんなことをキャッチし、脚本家がしてどんなトラブル、これまで起こったのかなどをお伝えできればなと思っております。はい。ということなんですけれど、伴さんもこれまでの経緯をかなり、こう、何て言うのですか、チェックされたりされているかと思うんですけれど、
はい。
いかがですか。
いや、僕もツイート、X、ポストか、したんですけど、やっぱり両方、原作者と脚本家両方がお互いの意向というか意思を知らないで、進んでしまってるのが一番の懸念かなと思ったんですよね。
うんうん。
そうなんですか。
そうですね、お友達になって飲みに行ってっていうかパターンの方が多いんですよね。
ええ、ええ
そのとき、もう、いや、だから、別に責めるっていうか、まぁ番組って、だから、脚本家が自由に書けるわけじゃないじゃないですか
はい。
監督が勝手に言っとるわけで、やっぱりプロデューサーが全ての責任を負うんですよね。この番組の方向性だとか、そういう本にするとか、誰に書かせるとか、そういうのは全部、あのうそこ、プロデューサーの仕事なので、僕の見えないところで、原作者と、いろんな交渉をして、ドラマ、バリューチェーン繋げてくれたんだなとは、今振り返って思うんですよね。
つまり、トラブルがなくすのが、プロデューサーの仕事というふうに思ってるんで。ただ、原作者の意図とかわからないときに「話し合いをしたい」とこっちが言ってるけれども、やっぱ間に入る編集の人とか、プロデューサーが「そこは会わせない方がいい」と思ったのか、お互いに忖度してくれてるのか、合わずに、あの、話が進んじゃう。で、最後に、何か打ち上げか何かでお会いしたときにはもう、記者会記者発表のときか、お会いしたときにはもう「面白かったです」って言ってくれたりみたいなことがあったんで、もっと早く…多忙な作家さんだったんで、うん、逢う時間がなかったのかもしれないけれども、何かあったらやっぱり直接会って話すというのが、一番誤解も解けるし、やりたいことも再確認できるし、いいんじゃないかなと思いますね。
そうですよね。私も、まぁ、テレビに限らず映画なんかでもそうなんですけど、やっぱり、私の感覚からすると、やっぱり脚本家と原作者って、やっぱり作家同士ですのでね、性質上どうしたって対立したりってする、しがちっていうか、私は当然だとは思ったりするところもあるんですよね。
ただ、そんなになんだろう、トラブルになる、トラブルが全くなかったってわけではなく、やっぱりこちらで書いたものを、原作者の方からこういう要請が来ましたみたいなことは結構ありますし、そこで意見がぶつかって、はい、まあね、「ちょっとうちで話しましょう」みたいな呼びつけられて、「なんかあなたって本当に私の原作のこと全然わかってないよね」みたいなことを言われてたこともありましたけど、ただ、やっぱり基本的に直接脚本家が原作者の方と会うってなかなかないですよね。それは、やっぱり、ですよね、だからそんなの「会わせたら、何かお互い何か対立するに違いない」みたいなこともあったり、プロデューサーが間に入り調節した結果、だから原作者の要望も十聴くのではなく、五聴くことにして、五は原作者の方に納得していただいて、持ち帰った五だけはこちらが説得されて直すとか、なんかそういうことで仕事をしてきた経験があるので、やっぱりTwitter上、X上でね、なんか「脚本家が原作を全部変えている」みたいな発言を見ると、とっても心が痛んだんですよね。
伴さん、経験上、ご自身、勝手に「もうこのキャラクターこっちに変更しますから」って言って通るってどれぐらいの確率であります?
いや、僕の声結構そういう意味じゃ、原作から変えてることが多いんですけど、例えばツイッターにも書きましたけど、クリスチャンとかも原則を歴史小説家なんですけれども、それもやめて探偵事務所にしてジョシュ担当の上司がいるんですけど、それも原作だと女性だけのお2人の男女にして、あともう1人、子供も加わってみたいなこともあるんで、ほとんどもう原作のエピソードも使ってないんですよね。
なるほどなるほどはい。でもそれに関しては寺沢さんって原作者の方からは何もなくそうですか。そのプロデューサーが止めてたのかどうかもわからないんですけれどもうん、うん最後のスタジオ収録の日、最終回のスタジオ収録のときにいらっしゃって、ホテルとかですって僕はちょっとドキドキしてたんですけれども、本当にご紹介あったみたいでいただいて、それから結構一緒に飲みに行くようになって、うん。
エースの悪口を言ったりとか、みたいな部分までだし、後で頑固も、もう、うん。原作はほとんど使ってないし、多分ちょっとだいぶ忘れてましたけどええ。昨日、犬がパートナーっていうのも、こっちで作ったやつだと思うんですよね。
ええ。国際の森本と書かれると森本翔子さんっていう方が原作者なんですけれども。はい。そう、何回目か、進んだときに、スタッフルームに手書きの漫画付きのFAXをいただいてそれがほ参りましたみたいな、多分本当に面白いこういう番号を書きたかったみたいな言葉で書かれてたんですよ。
なるほどねそのお2人の原作2入るときにですよその仕事を受ける段階でプロデューサーから原作ってどれくらい変えていいですよみたいな説明ってありました。いやあ、僕になかったと思いますなるほど。それいや、ちょっとこの、これをやるんだったらあれだ、うんをしたいとかね、運行しましょうみたいなのを企画会議でやって、うん大体そ、そこでまとまっただったと思いますよ。
やっぱりそれは企画会議っていうプロデューサーさんとの会議を経て、何か決定することで、強ねそれでその企画会議でややこれは原作通りに行ってやってくださいって言われたときに、晩餐です。あったとしてもなかなかるものではないんですよね。
原則通りにやれっていうことですか。ママ会会議場を、つまり晩餐1人の力で変えられるものなのかなっていう、それはもちろん、同意がないとできないです。できないですよねっていう僕がやるときは大体、プロデューサーと一緒に訪問することにしててはいはいええ。
監督後から入ってくる先生も出来上がったもので、うん、うん。ただ眼光の場合はもう現場のありもすごい面白い監督があって現場で思いついたことを入れてたりとかねやったんですけどそれを僕のシナリオからはみ出してない、原作からははみ出してると思ったんですけれども。
うんそれも面白がってくれてたんですよね。ですよね原作者の方の中には、やっぱり何か2種類いるなと思っていて。うん。もうね、原作は原作映像化は映像から全く別物なので、もう50にどうぞ出来上がりを楽しみにしていますっていうタイプの原作者さんも少なからず、いらっしゃるっていうそういうタイプの、多分今のね2ケースの場合は、バケツの場合は、多分そういう原作さんはファンだったのかなっていう気もするんですけど、その一方で、特に初めて書いた本ですとか、小説ですっていう作者さんに多いのが、やっぱり自分にとってすごくこだわりがあるので、はい。
原作はなるべく変えてもらいたくないですっていうような大きいケースもありますよね以前、前々回かな。陳亜美さんでもちょっと話題に出たやわらかい生活のね、はい車や作者さんも本当に思い出のある小説なのでっていうことでちょっと裁判になってしまったりとか、うんやわらかい生活でしたっけ、やわらかい生活ですねはいっていうのもあったりですねお父さんこんばんは。
もうアンさんのポストも拝見してます。ゆはい、拝見してましたってことでした。はい人偏に半分の判断でよろしくですそうです。はい。3社になってますねこれ細谷さん違います違います。それさんではないです。別な方失礼しました。
患者さんの知らないファンの方もいらっしゃるということで、はい、はい、うんそういうはい。いや、僕東野圭吾さんってどっちタイプなんですか。私は東野さんやったことないのでよくわからないただ作家の方でも作品るケースも結構あるんですよね。
この作品だったら自由にやってください。でもこれはっていうのがあって、だから私の場合はもう原作で企画ができた段階で、原作者の方ってどれくらい変えていい方だなんですかっていうのをまず聞くようにしてますねっていうぐらい、ちょっと最近はやはりこだわられる方が増えてるのかなっていう、以前よりも感覚としてこうっていう感じは、今月は東野圭吾さんが担当相を取った放課後っていうのを着色してるんですよ。
はいはいはい。ドスパラ部木曜ドラマストレートだったかな、うん、うん、それは高校が舞台のやつだったんで、もうちょっと青春寄りな精神者っぽいノリで書いたんですけど、それに関しても東野さんと会ってもいないし、何か意見を聞いたこともないんですよねそうなんですよねただやはり今回の場合、すごく実は特殊なケースだったんだなって後からわかったのがもうそのドラマー化を許可する段階の条件として、原則通りにやってくださいよという条件が出されていたっていうのが、うん。
ちょっと今回の場合、かなり特異なケースだなとは感じたんですよねただ、それを受けてしまったというか伴さん可能ですかと思うんですよね映像化するにあたって、原作まんまみたいな。上着を持ったまんまっていうのがあっても、媒体が違うわけだから、絶対ね同じものには何年か同じものにはならないですね。
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脚本家が見れるものではないんですね。そうですねどういう約束しましたかみたいなことを聞くことは可能かと思うんですけど、僕は聞いたことはなくて、そういう質問したこともないんですけど、ただ、七瀬再び行って、筒井康隆さんの原作のやつをNHKでやったことがあるんですけど、そのときにはもう、プロデューサーが、筒井さんに、こういうふうに変えたい。
なぜならこういう理由ねみたいなことを、もう愛を込めた文章でメールを送られて、たところから始まったみたいですね。だからヘンリーっていう円だったかな、黒人が出てくるんですけれども、ちょっと時代的にも今の時代はちょっと黒人が上位に出てくるタイミングでみたいな、うん能力の話ですけど、それはちょっとまずいかなっていうものもあって、日本人に変えたんだけどね。
うん。ヘンリーというそれそれもこういう理由でみたいなこと言って、多分テレビかOKしてくれたと思うんですよ。手続きの場合は、もう本当にあの台本隅から隅まであって、原作者チェック以上に、ここはこのセリフは繋がってるかみたいなことまで毎回、メールをいただいてそれをプロデューサーが僕に直接見せてくれたんですよね。
そういうの直したまんま直したかちょっと忘れましたけれどもそういうやり取りをやりますよって言って始まる前にちょっと原宿のおうちにも挨拶というか、説明に行ったこともありますけどねうん。いやだけど、なんかお母さんの今のお話を聞いて何となく問題点がわかってきたなってちょっと感じたのがですね、とある原作者の方がすごくドラマ化にあたって揉めている最中にその原作者の方と会ってお話する機会があったんですよ私は関わりがなかったんですけど、うん。
そしたらその原作者が言うには、別に変えてくれてもいいんだけど、変えるなら変えるなりの理由を説明してもらいたいんだよっていう、そういうあたりをふわっとしたまま帰られても納得いくわけないじゃないですかってその方おっしゃってて、うん。
全くその通りだなと思ったんですよね。うん。こっちだってね他の方の原作を変えるには、変えた方がいいって確信がなかったら安易に変えてるわけじゃないじゃないですか。うん。それをどれだけね、お伝えして納得していただけるかっていうのはやっぱり丁寧なプロセスだし時間が必要なんだと思うんですよ。
うん。だけど、やっぱり最近のテレビドラマの撮影のスケジュールとか制作のスケジュールを見ると、うん多いスケジュールを取る余裕さえないような状況で作られてる場合って多いかなと思うんで、なんかねでも、そこは時間かけるべきところですよね。
本当そう思いますね。だってそこに時間かけなかったら、原作者にも意図が伝わらないし、虚構化にもう、なんですか、原則省の意図が伝わらないから、結局齟齬は発生してそのままずっといっちゃいますよねそうなんですよ。
だから不信感だけが募ってってくることなのかなってちょっとコメントいただいてるので、6木村さん、芦原さんが最後にはご自身で脚本を書かれていますが、前はご自身で脚本を書く話はなかったのかなと思いました。いやそれは多分ご自身も何か出ているニュースを読む限りは、本当は書きたいを書きたくて書いたわけではなかったという。
うん、うんね。推測はしないというは言いましたけど、多分最初の約束として提示されていたんですって。これは憶測じゃなく事実として出てるんですけれど、完結していないから、ドラマの完結する和に関しては自分のストーリーを使ってほしいセリフもそのまま書いてくださいという条件を出していたんですって、許諾のときにただその最中ですごく過失が多くて、時間的なことも考えて自分で書いた方がいいんじゃないかって決断されたんだろうと思うんですよね。
だからやはり脚本は脚本家で最初のうちきちんと任されていたんだろうと思います。そんなに何かね、無効な要求をされていたわけでもないし、ただやはり、なんていうんでしょうね。芦原さんには芦原さんのファンもいらっしゃるし、その脚本家さんには脚本家さんのファンもいるわけで、そのファンの方々がそれぞれね自分のが好きな脚本家さん、あるいは原作者さんに期待するものが多いし、その期待に応えたいと思うのってやっぱりそれはねお2人とも当然じゃないですか。
だからああいう説明に至ったんだろうと思うんですよねそれぞれのファンの方はそれ読んで納得すればそれで済むことだったのに、そうじゃない人たちなんかあまりにも攻めすぎなんじゃないのっていうのはちょっと感じましたね。
まあね芦田さんの最後のDとかツイートっていうか、そこがね、攻撃したかったわけじゃなくてってそうそうそうなんですよ。だからやっぱりね、うん。すいません、このプランだから、あの脚本家の方に非難が集中してるけれども、原則車に避難っていうのはな、ほとんど僕見たことがないんですけどそれ、それなのに、原作者がこういうことを書くっていうのはやっぱりSNSへの誹謗中傷に心を射止められたのかなと思っちゃいますけどね省察なんですその辺りはねあれなんですけれど、そうなんです。
なんでしょうねやっぱりここ最近、本当に私自身がもう行けない風潮だなって、やめてもらいたいなと思ってるのがすぐに対立構造で物を語りたがるっていうだからこれだって別にね、そこまで本課さんと原作者さんが直接的に2人で対立したりしていた話ではなかったように思うんですよ。
私自身が力量不足であったり思慮に欠けていたりするのは認める
例えば偏差値の話になったときに上司は平均点=偏差値と思っていたらしくどうも話がかみ合わない
偏差値はこれこれこうじゃないんですか?と聞くとそんなことはない!!偏差値というものは平均点のことだ!!と突っぱねる
後日また偏差値の話になったときには必死にググったのか知らんが認識は正しくなっていた
当然知っていましたよ、みたいな態度が腹立つ、この前話かみ合わなかったし私が説明した時も聞く素振りすら見せんかったやんけ
また、私が他社から資料を取り寄せ、自社流に改変しようとした時のことだが、取り寄せた資料を見た途端「この資料を作ったのは誰だァ!!」と海原雄山並みのキレっぷりであった
これは他社から取り寄せた資料で今から改変するところです、と報告すると、ふーん、とどこかへ行ってしまった
いや、何も知らねーのに口を出すなよハゲ
肉じゃがを作るのには玉ねぎとジャガイモ、こんにゃくと豚肉、人参が必要ですよね?と聞くと、
一般的にはそうだけど牛肉を使う地方もあるらしいよ、と返答が返ってくる
へぇー、そんな地方もあるんだ、みたいな返事をすると、ソースは無いけどね、みたいな保険を打ってくる
保険打つくらいなら言うなよ
ほかにも自分のことを棚に上げ人を馬鹿にしたり、業務中に全く関係ないことをしてしわ寄せが私のほうに来たりと、一挙手一投足が気になってしまう
ここ最近ずっとモヤモヤしてるので、陰謀論に深くはまり込んだ友人のことを書かせて欲しい。
その人のことは仮にAさんと呼ぶ(以後、"彼・彼女"と書くべきところを全てAさんで統一します)。
7, 8年くらい前にひょんなことから知り合って、よく遊んでた友人がいる。ノリがよく、冗談などで周りを盛り上げる、陽気で楽しいひとだった。
しばらく一緒に出かけたりして頻繁に遊んでいたのだが、何となく「Aさんのことが苦手かも」と気づいたこともあり、いつしか疎遠になった。
別に絶交したわけでもないし、そこは現代人の付き合いあるあるで、疎遠になったAさんともSNSではなんとなく繋がったままだった。
あまりSNSを熱心に使うタイプではない私は、ここ最近はAさんのことはすっかり忘れて、ごく普通な日常を過ごしていた。
そんなある日、半年ぶりにSNSを開いてみたところ、Aさんからグループの誘いが来ていることに気づいた。
最初は、「久しぶりの連絡で陰謀論か。何年経っても冗談を言うキャラは変わってないんだな」と思った。
グループの参加者を見てみると、当時よく遊んでいた仲間たちのアイコンや名前が並ぶ。そしてそのグループは、参加しないと投稿が閲覧できないプライベートな設定になっていた。
「仲が良かった界隈でまた集まるために作った、同窓会的なグループなのかな?」と思い、ひとまずグループに参加してみてみることにした。
参加してみて、驚いた。
そこにはパーティーの候補日を知らせる投稿や、当時を懐かしむようなやり取りは1つもなかった。
ただただ、Aさんがさまざまな陰謀論を説く投稿。そして、陰謀論に関する記事や動画へのリンクがびっしり並んでいたのだ。
ガチの陰謀論グループだということを知った瞬間、私はそのグループを抜けた。参加していた期間は、およそ2, 3分もなかったと思う。
人は、あまりに予想外の状況に直面すると、例えそれが命にかかわるようなことでなくとも、心拍数が130を超えるらしい。いらん知識が一つ増えたなと思いながら、Apple Watchからの警告の通知をオフにした。
しばらくしてみてみると、グループの参加者欄に並んでいた共通の知人は、知らない人たちのアイコンに置き換わっていった。私のように、騙されて?参加した人が多かったらしい。
遊んでいた当時のAさんに、陰謀論の陰は感じたことはなかった。
「さすがに何かの間違いだろう」と思い、SNSでAさんのページを開いてみると、そこに並ぶのもやはり陰謀論の数々。
地球平面説や、反ワクチン(SNSで投稿できないからなのか、伏せ字を使っていた)やら、フリーメイソンやらの陰謀論の投稿。
ピザがプリントされたシャツを着ている人が痙攣してる動画をシェアして、「ほらな!」みたいな反応をしてたりして。
私には、何が「ほらな!」なのか全然わからなかった。が、Aさんが昔とは変わってしまったことだけは分かった。
あれほど友人が多く、明るくコミュにケーションが上手だったAさん。
しかし、伝え聞く話では、今やAさんは友人間で「やばい奴」認定され、関わる人はほとんどいなくなったらしい。
SNSの投稿も、ひたすら自分の見ている狭い世界から、外側に対してのヒステリックな罵詈雑言だらけになっていた。
ここまでは(普通ではないにしろ)、ある意味定型的な陰謀論にハマった人間の観察日記だと思う。
Aさんは、その遥か先をいっていた。
SNSのページをスクロールしていくと、Aさんは自身が関わっているセミナーや、著書の宣伝をしていた。
セミナー…?著書…?
悪い予感を覚えつつ詳細をクリックしてみると、当然のように陰謀論についてのセミナーであり、陰謀論についての著作だった。
思えば、昔から行動力があったAさん。その特性・個性をあらぬ方向に伸ばしてしまったようだった。
リプライには大絶賛が並び、SNSを見てもどうやらAさんはその界隈では名うての論客の一人みたいな扱いをされているようだった。
Aさんは、着実にステップアップし、陰謀論的キャリア形成において謎の成功を収めはじめているようだった。
そんなAさんは、今日もSNSに「常識を疑え!あなたたちは洗脳されている!」みたいな投稿をしている。
Aさんはそこそこ辛い過去を経験したらしく、単なる冗談好きで気さくな人間ではなく、なんとなく陰を感じさせるところもあった。
そして振り返ってみると、Aさんには素質があった。学歴や社会的な立ち位置など、類型化された陰謀論者の特徴をかなり備えていて、今ならAさんが陰謀論者になるのは必然とさえ思える。
私からみたAさんは、こんな人だった。
思い込みが激しくて頑固だったせいで、陰謀論にハマる過程で忠告してくれる友人に耳を傾けることはなかったのだろう。
近しい人をコントロールしたがることは、当時友人の間でも知られていた。それはAさんの家族に限らず、友人にも及ぶことがあった。
自分の意見を疑うことは決してなく、非常に独善的で、客観性の対義語のようなひとだった。
これは私がAさんのことを苦手だと意識し始めたきっかけでもある。Aさんと仲良くしていた当時、私は進学のために猛勉強していた。
ある日、Aさんと私の専門分野に関するトピックの話になった。
とある出来事に対しての私のコメントが、Aさんの考え方とは違ったのか、「あなたはそんなことも知らないのか、私にはわかる。あなたの言ってることは間違っている」みたいなことを、みんなの前で結構強めに主張されたことがあった。
私は議論がしたいわけでも、論破をしたいわけでもなかったし、何より驚いてしまって何も反応できず、2,3言ぶつぶつ言っただけで、折れた。
素人目にもAさんは明らかに間違っていたのだが、Aさんは最後まで譲らなかった。
Aさんのことを考えるにつけ、こういった性格の人が、片足を突っ込み始めたらどうすればいいのだろうと悩む。
私自身Aさんには何の未練もないのだが、AさんのSNSを見るたびに、言いようのない無力感に襲われそうになる。「これがもっと近しい人間だったらどうすればいいだろう」と考えてしまう。
大切な人にはこまめにコンタクトをとり、様子がおかしいかを確認するしかないのだろうか。
じゃあ実際に様子がおかしかったら…?
いや別に嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、特別好きでもない。無に近い。
そのことに、映画を観てやっと気が付いた。
20年前、思春期だった自分の周りには、SEEDが好きな友人たちがたくさんいた。
MSが好きな人、キャラが好きな人、CPが好きな人……皆それぞれ何らかの形で熱を上げていた。
みんながこんなにハマるのだから面白いのだろう。素晴らしい作品なのだろう。私自身も毎週リアタイしながら、そう思っていたつもりだった。
で、20年越しの映画ガンダムSEED FREEDOMを観た。
ビッッックリするくらい盛り上がらなかった。私だけ。
周りの人たちは終映後、早速盛り上がっていた。あれがよかった!これがよかった!スゲー!神作品!そんな声まで聞こえてきた。
私はというと、「こんなものか?」くらいの気持ちでボケーと座席に座っていた。
映画自体の出来は素晴らしかったと思う。映像は見応えがあった。ストーリーもまあいい話だった。
私はSEEDシリーズが好きなんだとずっと思っていた。でも確かに、思い返すと「何が好きなのか」は長年よくわからなかった。
MSのカッコよさは私にはわからなかった。キャラクターも誰が好きとか特になかった。映画を観て好きになったキャラとかもなかった。みんながんばってるなあ、とボケ〜と眺めるだけだった。
映画を観た後、興奮気味に感想を語ってくれる友人たちの話を聞きながら、私はそんなにSEEDに興味なかったんだなあ、ということをぼんやり自覚していた。
でも周りの人たちは私のことを「SEEDが好きな人」となぜか認識しているので、四方八方からすごい語られてきて今ちょっと困っている。
どうしてだろうという思いをずっとしている。
私は一読者なので「そうか、芦原先生のあの素敵な作品の続きがもう二度と読めないのか」とぼんやり思っている。まだ本当に現実に起きたことなのかうまく受け入れられないでいるのだ。
本屋さんでなんの気なしに手に取ったことから始まったと思う。1.2巻だけ試しに買ったらとても面白くて母親と一緒に本屋に行くたびに買い足して親子ともども楽しんでいた。
読み始めた頃は小学生だったから正直全部を汲み取ったというより「そういうラブコメ」を見ているような感覚だった。藤くんかっこいいー、杏と大吾どうなるんだーみたいな。
でも次第に年齢を重ねながら読んでいくうちにこれはただの恋のお話ではないと気づく。主人公が何度もうまく生きれなくなる瞬間があって、その都度立ち上がったり、折れそうになったり、その生きづらさも繊細な強さにも何度も涙した。
多分砂時計を知っている人ならみんな思い浮かべるあの仁摩サンドミュージアム。
幼い頃に主人公が見上げたシーンも、大人になってから見上げたシーンもそれぞれとても印象に残っている。
主人公の記憶を追随したかった私は高校生のころ親にせがんで島根まで連れて行ってもらった。
幼少期の主人公は「たったこれだけの大きさか」と言っていたけれど私はその大きさに圧倒された。
「砂時計のあのシーンだ!」と何度も何度も上を見上げて感動の声を上げた。作品を読んでいたからこそその気持ちは何倍にも膨れ上がったのだと思う。
帰りに主人公が母親に買ってもらった同じサイズの砂時計を同じく母親に買ってもらい、とても嬉しかった。
大事に抱きしめて今でも箱まで取っておいてある。
そういう、私の私自身と、私の家族との思い出の中に砂時計はある。
それから以降の作品pieceもBread&Butterも読み、そして社会人になって「セクシー田中さん」に出会った。
正直めちゃくちゃ泣いた。
これは社会人の、いち女性であればあるほどすごく共感できてしまう漫画で、フィクションを越えて自分に置き換えて考えてしまう。とても大事な作品だった。
女性として生きていれば本当にどこにでもよくありそうな話がたくさんあった。砂時計とはまた少し違う、生きづらさがそこに描かれていた。
それでも登場人物の成長や、芦原先生によって紡がれる言葉に何度も励まされ、涙を流した。毎巻待ちきれずたまに雑誌を買うこともあった。そして実写化の話を知る。
正直私は実写化に反対だった。というのも全員キャスティングのイメージが違ったからだ。
キャストさんが悪いわけではなく、制作側が本当に本を読んだんだろうか?と思うほどあまりにもイメージが違ったのだ(漫画の田中さんはわりと骨っぽいイメージだけれど、演者さんは丸く可愛らしい感じだったりなど他にも言いたいことは山ほどある。)
それでも、私は一読者なので文句があるなら見なければいい、そういうスタンスだったためドラマの開始は知りつつも1話も見なかった。
知ってるキャストさんが何人か出ていて楽しそうにしていたけれど、「まぁイメージとは違うし、私には原作があるし」と対岸の火事だった。
だから本当につい最近まで何があったのかよく知らなかったのだ。
芦原先生のアカウントができたことを小耳に挟んでやったー!と小躍りで見に行ったらどうやらこんなことになっているようだぞ、と。
知らなかった。対岸の火事が一気に目の前まで広がって私は1人で勝手に怒り狂った。「やっぱりな!」「だから見てなかったんだよね!」「先生に辛い思いをさせるな!」など内心ぐちぐちしていた。
でもその時もこうなるとは思わなかった。
思うわけないじゃないか。
そう、だって私は芦原先生ではないので。ドラマすら見てない「対岸の火事」の人なわけで、芦原先生が辛い最中にいるとは知っていても理解していなかった。
私は見ないふりができるけど芦原先生はそれをせず向き合い続けなければならかった。
それをわかっておらず「私は原作派なので次の新刊楽しみにしてます」だなんて呑気に思っていたのだ。
火蓋が切られたのは脚本家さんのSNSだったように思う(もちろん原因はドラマ開始時から始まる、テレビ局含む地続きの話なのだけれど)。
本当にやるせない。やるせないでしかない。
もちろん誰かを責めるつもりはない。
SNSの怖さは知っている。軽く放った言葉はすぐに刃になってしまう。
先生の最後のツイートも、とても痛々しく胸に突き刺さる。だからこそやるせないのだ。
本当にたらればを考えてしまう。
ドラマ化の話がなかったら。
作者ではなく出版社が戦っていれば。
どうしてどうして。
どこかで誰かが止められなかったのかと思うけれど、何度考えても一読者の自分には何もできなかったと思うことが心苦しい。
同業の方々がそれぞれ悲しみの声を上げていて、
同じ気持ち(と言っていいかわからないけど)を抱えてくれてありがたいと思う一方で、自分勝手に辛くなってしまうのでSNSをそっと閉じた。
よくないとは思うが「会社」としてはそれぞれこれからのことを考えて欲しいと思う。
特に日本テレビの(正直自己擁護に見える)コメントには失望を超えて絶望した。
人の心ある?よくこの言葉を今言えたな、もっとほかに言い回しあったじゃん…本当にちゃんと考えてあのコメントを出したのか理解に苦しむ。
放つ言葉に責任を持って仕事をするのはメディアの仕事の範囲に含まれないのだろうか。
(まぁこんなことを言っても「一読者の私」の声なんて日本テレビには届かない。
問い合わせとかしたところでどうせ該当の人たちには届かないだろう。せいぜいコメントチェックした人が人間の感情がいきなりぶつかってきたことに不快になるだけだ)
どうしてどうしてと考えていたらこんな時間になり、朝を迎えてしまった。
何かを伝えたいとかもなく、自分の心の整理のために書いている。
ああこれから先、芦原先生の作品を見返せば素晴らしい作品だなあ!という感情以上に、
「セクシー田中さんが未完で終わってしまったこと」「先生が死んでしまったこと」を思い出してしまうんだなぁ。
島根に行って、仁摩サンドミュージアムに行っても出雲大社に行っても思い出して泣いてしまうんだ。
残される辛さを、砂時計で教えてくれたではないですか。私は今しにたい気持ちを必死に抑えられているのはその作品があったからですよ。
先生の苦しみは死で救われたのでしょうか。
天国とやらに行って何か美味しいものでも食べているのでしょうか。
私にはまだわかりませんが、そちらの世界が優しくあたたかな世界であることを願います。
そして今までたくさんの素敵な作品を生み出してくださりありがとうございます。
ここ数日ネットで話題になっていた騒動が全く想像もしていなかった、そして全く救いのない展開を迎えて衝撃を受けている。原作もドラマも触れてこなかった私でも、悲劇の一報を聞いた時にはあまりのショックに吐きそうになった。SNSでは「犯人捜しや特定の個人を吊るし上げることは絶対にダメだ」という意見が散見され、私もそれに全面的に同意する。しかし今思うのは、私自身今回の悲劇を招いた゛一滴”になっていなかったか、ということである。
木村花さんやりゅうちぇるさんが自死を選んだ時、私は執拗な誹謗中傷を行い続けた連中に心底憤った。しかし今回の件は誹謗中傷のターゲットにされた人物ではなく、構図的には被害者で、外野から多数の支持を得ていた形になっていた人物が自ら命を絶ってしまった。ここからはあくまで憶測になるが、騒動があまりに大きくなりすぎて自責の念を感じてしまったのではないかと思う。テレビ局や特定の個人へ向かう誹謗中傷の規模や熱量のすさまじさを目の当たりにして(重ねて申し上げるが憶測でしかない)。
ここまで考えて「SNSを利用している私にも責任の一端があるかもしれない」と思った。私は今回の騒動の関係者に誹謗中傷やクソリプを送ったことはない。しかし、騒動の顛末をわかりやすく説明するツイートをRTし、いいねもした。この行為が騒動を大きくする一滴だったのではないかと思う。ネットの炎上を洪水と表現すれば、川から溢れた水があらゆるものを飲みこんで破壊していくその過程で、私のRT、いいねが一滴として貢献した気がしてならない。
SNSが人の命を残酷に奪い続けている。これまではあくまでそれに怒る側としての自分しか自覚していなかった。自分は誹謗中傷を行ったりしないし、クソリプを送り付けることもない。しかし今回の件は違う。騒動が大きくなりすぎたことが1人の人間を追い込んだのだとすれば、私は知らず知らずのうちのそこに加担したことになる。
[B! 訃報] 漫画家・芦原妃名子さんが死亡 「セクシー田中さん」など連載|日テレNEWS NNN
即座に日テレやドラマ制作側を責めるコメントを書ける人やそれを支持する人たちが怖い。
ドラマの件が一因なことは間違いないと思うけど、ご本人が元々どんな状態だったかもわからないので今の時点ではなんとも言えない。
それにネットで脚本家や制作側叩きが盛り上がったことも一因ではあるだろうからみんな無関係じゃない。
私自身も増田でこの件に言及してるので責任の一端は感じている。
https://blog.goo.ne.jp/moriphy/e/cb2cbcaea460d892deedc3d77685dd3e
私自身が原作を嫌いで、アニメーション化にあたり、ある意味原作に悪意を持った改変を加えていることを認めます。
こう宣言しないと、このブログ上に展開されているいくつかの論点の矛盾が埋まらなくなると、私も覚悟しました。
私がこれまで嘘を書いていた、というわけではありません。
8話によせての以下の部分は今でも本当で、
「私が原作を好きか嫌いかを意識するのは、原作を手にした最初だけで、仕事を引き受けた以降はそれはまったく関係ないです」
「なにしろ大勢のスタッフが毎日私に、自分の考えをぶつけて来ます。以下に続く私の見解のほとんどは、私の好みではなく、スタッフとのやりとりを通して叩かれた、理屈の積み重ねだと考えてください。」
原作の一部分に異論があるというだけで、ジアースを巡る戦いのルールのアイディアは面白いと思っていて、以下の方針は、最後まで貫徹しています。
最後に、書きたくないことを書かなければならないのですが、
アニメーション版「ぼくらの」の監督は原作が嫌いです。今後、原作にある魅力がアニメーション版で展開されることは期待できません。だから、原作ファンの方々は、今後アニメーション版を見ないでください。
大変だね、お疲れ様!
人に当たらないように外出したり、増田投稿でお茶を濁していて偉いよ。
私もパートナーが綺麗好きで、自分と家事頻度が違いすぎて合わせるのがしんどいから、気持ちわかるよ~。
そこで、私が私自身を救うために、の視点で、私がやってること、私なら今後こうする、を考えた。
私は、相手が家事をやってくれた時は、自分から「いつもこまめにやってくれて助かるよ~」と相手に感謝の気持ちを述べている。
最初「そんなにこまめに家事されるとこっちが困る」と思ってしまっても、裏腹に感謝の言葉を述べる行動が取れると、
(自分のイライラを横において、相手を尊重した言動を取れた)という一種の優位性?で自分の心が少し前向きになって、
「実際に自分でやるのは大変だから、(パートナーが居て)良かったな~。
自分は仕事とか自分が得意な事で(パートナーに)貢献して(パートナーを)大事にしたいな」
と返すかな。
パートナーがこまめに家事をすると、「自分はだらけている」って負い目を感じて身体が緊張してしまうよね。
「でもパートナーが悪いわけではない・・・」ってなって、増田は外出するんだよね。
私達だらけ人間が、同じように「こまめな家事をこなす」という土俵で摺合せをすると疲れてしまうから、
「相手のこまめさ(一種の神経質さ)に感謝できるキャラクター」という長所を差し出して、相手に卑屈な気持ちを抱かないようにするかな。
基本は(1)で自分の心を守りつつ、実際面でも一人の時間を持てる方法は確保した方がいいと思う。
それは、後ろめたいことではないし、増田が「本来は一人の時間が沢山必要だけど、苦労しながらも、大事な人と生活することも出来ている」なら、
それは、「ただ一緒に暮らす」「ただ独り身を選択する」よりも、試行錯誤している分、かっこいいことだと思うんだ。
で、手軽に一人で静かになれる空間を考えてみたんだけど、有料自習室(休憩スペースが豊富なところ)はどうだろう。
勉強キャラじゃなくても、「集中して本を読みたい」「静かにipadで絵を描く趣味を始めたい」とか相手には色々説明がつくと思う。
眠くなったら、家に帰って真っ直ぐ風呂入って速攻で寝たら、相手の家事への後ろめたい気持ちに悩む時間を大きく減らせるんじゃないかな。
因みに、ブコメに多数上がってた「部屋を分ける」は、勿論たくさん部屋があれば便利だけど、この問題の解決には役に立たないと思う。
多分、部屋が別でも、相手の物音や存在感、気配を感じたら「家事やってない自分」を増田は感じてしまうだろうから。
自分の不機嫌がおかしいことを自覚してて、増田なりに外出という方法で平穏を保ってるんだから、充分家庭生活うまくやれてるって言えると私は思うよ。
ブクマカは簡単に「家事のやり方を摺合せも出来ないなんて夫婦としてどうなの?」とか上目線で言ってくるけど、
増田は増田なりに自分の機嫌を自分で取って相手と生活出来てるんだから、ブクマカから言われたことを気にしすぎる必要はないと思うよ。
因みに、私は家族に子供もいる生活なんだけど、意外にも、相手が家事をこまめにしてる間、子供をあやしたり、子供にイライラしない大人キャラに徹してたら、
それだけで「仕事もやってて子供にイライラしないなんて自分素敵だな!」ってなって、家事やれなくて卑屈になる問題はかなり軽減されたよ。
子供なんていてもいなくてもいいと思うから、増田の好きな選択を取ればいいと思うけど、
もし、「子供に興味があるけど、今の生活で卑屈になってる自分には無理だ~」って自信失ってるとかなら、
私みたいな例もあるから、元気だしてね。
最近よく見かける性被害の告発とその反応。性被害者に向けた様々な言葉を目にする度に、自分の学生時代の出来事を思い出す。
デブでブスの自分が性被害者になって受け止めた現実は大きく2つ。
別に美少女の性被害者に向けて嫌悪を抱いたことは全くない。羨ましさも無い。ただ、「きっと顔が可愛いと真面目に聞いて動いてくれたんだろうな」と思える場面があったのは確か。告発してもどうにもならない。事件どころか「お前が迫った」とすら思われる。だから実名では墓まで持っていくつもりの性被害体験を愚痴らせて欲しい。
被害内容は至極単純なもの。当時、用事で大阪府の吹田市まで1人電車で向かう日があった。日曜日の昼間という事もあり、またそれ以前も府内であれば1人でアニメイトや期間限定のショップに行っていたから今回も躊躇いなく訪れたことの無い市に1人で行った。
とてもシンプルだ。声をかけられて、引っ張られて、連れ込まれて。知らないアパートの物が散乱した部屋に押し倒されて。自分の父親より少し歳下くらいの横にも縦にも大きい男性だった。
暴れて逃げようにも何処に何があるか分からない。まず、男を振り切って部屋を抜け出す術がない。背負っていたリュックは男の後ろに置かれ、「抵抗したら殺される」とはこの状態を言うのかと理解した。そこからの詳細は書く必要が無いので省く。
スマホで撮影されたり個人情報を見られなかったのが唯一の救いだったと思う。
アパートから放り出された時、LINEに入っていたメッセージに打ち明けたくなった。でも相手が今楽しく休日を過ごしているのに気分を害したら悪いから「今起きた」とだけ送った。
警察に行こうか考えた。親に打ち明けようか悩んだ。結局どれも行わず、インターネットに匿名で相談した。
多分これが間違っていたと思う。正直、今改めて打ち直すには酷い文言とルッキズムに満ちていた。ちなみに男女問わず偏見は存在した。
「散々迫った末に襲われた自慢をしてくる」
「使われることなく腐るより良い」
「ボランティア活動」
と同時に、普段家族や友人が話している内容も頭に浮かんでくる。
ニュースで性被害の話題が出る度に、相手の容姿を見て「こんなの相手にしたい人いるんだねえ」という言葉を聞いたことがある。
私はきっと、同じことを思われる。
2週間後くらいか、1ヶ月後くらいか。自殺未遂をして親を泣かせてしまった。そこから3日に1回は家から飛び降りようと発狂した。押さえつけられた時の体勢が押し倒されたあの日のアパートをフラッシュバックさせて余計泣き叫んだ。
それ以前から私は精神病に罹っており通院していたので、周りからは患っている病気の悪化と判断されていた。
せめて誰かに言いたかった。でも、もう私自身ですら「本当に嫌だったのか」「自慢したいんじゃないのか」「それを言ってどうなるんだ?慰めの材料にしたいだけか」と自分を責めて責めて、結局誰にも言っていない。
今現在ようやく社会復帰し何とか働けるようになって、性被害のニュースを見てようやく打ち明けたかった理由が分かる。
知らない人に抱かれて妊娠と性病に怯えながら過ごす自分をなんの疑いも無く「辛かったよね」「嫌だったね」と当時の感情を信じて欲しかった。
これを打ちながら涙が出てきて頭が痛い。
私は明日以降も、誰にもあの日の事を言わずに『性被害と無縁な見た目の人』と周りに判断されて生きていく。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/urarara0724.jp/blog-entry-2852.html
2016年のブログを引っ張り出してきたブクマカに釣られるブクマカ。それに気づいても恥じることなく・・・
cia62872 「私自身はネットですぐにパクリパクリ騒ぐ傾向には辟易しています。偽善者ぶってSNSに書き込むのは、品がないなと思っています。」とか何このおまいう無双。|今回の件での記事じゃないんだね、でもおまいう無双。
「でも」じゃねーんだよw
ywdc 叩くなとか言いながら薪を焚べてるのお前やぞ
未来に向けて薪くべるのすごない?
sumika_09 いろいろでてくるわねー
何が?
女性の社会進出や権利向上がどれだけ進んできているのかの指標として何があるだろうか。
私自身は、女性から男性に対する容姿評価がどれだけ高くなってきているかどうかで計測することにしている。
一昔前では、女性が男性に対して容姿ジャッジするなんて考えられなかった。
しかし現代では女が男の容姿を評価するのは当たり前だし、男の容姿を揶揄する言葉がいくつも生まれている。
思いつくだけでも、不細工、ブサメン、モテない男、キモ男、チー牛。
一つの社会の中に強者と弱者がいると、強者は弱者を容姿ジャッジして抑圧するようになる。
今までの男性優位社会では男(強者)が女(弱者)を外見で差別する社会であったが、女性の影響力増大によって男性側も「弱者」の属性をまとうようになった。
男性アイドルなど、女性から性的消費される男性は今後もっと増えていくのではないか。
それは同時に女は男に(容姿を求める代わりに)経済力を求めなくなるようになることでもあり、専業主夫志向の男性にとってはいい話なのかもしれない。
大河ドラマは、一人暮らしをはじめた私と母を繋ぐ共通の話題の一つだった。
父とはアニメの趣味が近く、わりと共通で観ている作品が多かったのだが、母とはあまり娯楽の趣味が合わなかったため、ようやくテレビの話で盛り上がれて母も嬉しそうだった。
といっても「青天を衝け」と「どうする家康」しか見てなくて、本作が三本目なんだけど。
特にどうする家康は、地元が静岡で、一人暮らしを岡崎でしている私たち親子にとっては、初めて大河ドラマ館を制覇したり、聖地巡礼したり、一年でたくさんの親子の思い出をつくってくれたとても楽しく思い出深い作品だった。
そして今作。私は正直一話目から「無理かも…」となり、三話の今、「母と共通の話題」「苦手な平安時代の大量の藤原氏の見分けをつけられるチャンス」「おなごの衣装がかわいい」という3点がなければ今すぐにでも脱落しそうだ。
反面母は、「韓国ドラマみたいで面白い!最高!」ってなっており、「今回は辞めておこうかなあ…」とも言い出しにくい。
こういうときはアンチの意見を見て心を落ち着かせようと#反省会を検索してみたものの、全然活用されていなかった… あんなに楽しかったどうする家康は毎週のようにアンチ湧いてたのに…
なんかこう、性的な話が多かったり、女官の噂話みたいな人間の生々しく汚い感じが前面に出ていてつらい… でもようやく一緒に見れる番組がある!って嬉しそうな母を思うとなんとなくやめるとも言いづらいし、私自身母と番組を介したコミュニケーションを取る時間は好きだったので頑張りたいがしんどいな…
時代的に側室とかしょうがない部分はあるけど、わりと今まで見てきた大河ドラマは「史実が許す限りなるべく正妻love」「極力同時期に複数の妻が出てこない」みたいなできる限り汚さを感じさせない配慮を感じたけど、今回ゴリゴリ悲しい女の人とか気の多い男の人出てくる…しょうがないことだけどファンタジーで生々しさとか性的なものとか醜さみたくない…
潤羽るしあ(みけねこ)との件
http://uni-mafumafu.jp/blog/20240126/
2024.01.26
女性セブンに掲載されている記事に関しまして
お世話になっております、まふまふです。
報道されている「結婚して離婚したこと。そのお相手へ訴訟を起こしていること。」
まず記事にある通り、私には元々婚姻関係にある方がいらっしゃいました。
今まで公にお伝えできず、結果としてみなさんを騙す形となってしまい、本当にごめんなさい。
2021年の夏前から交際をはじめ、その12月末に入籍をし、2022年7月に離婚をしました。
今まで一言も言ってこなかったことで、とんでもない内容になってしまうので、
人によっては辛い気持ちにさせてしまったり、ショックを感じさせてしまうかもしれません。
本当にごめんなさい。
そして、本件でご心配、ご迷惑をおかけした関係者の皆様にも深くお詫び申し上げます。
私は、これ以上、嘘を重ねないためにも、真実を話すことにしました。
真実を話すことにより、訴えられるかもしれません。
二度と僕の音楽も聴いてもらえなくなるかもしれません。
全ての人から嫌われ、もう二度とお前なんて見たくないと言われ、
もうまふまふでいられなくなるのかもしれません。
それでも、これ以上嘘をつきたくない、なにより自分自身を偽りながら生きていきたくないのです。
これから綴ることは、当時のことから現在までの経緯をまとめた事実です。
かなり長文となってしまうので、真実を知りたい方だけ、お読みになることをお勧めします。
私はお相手(以下、A子さん)のことを本気で大切に想っていました。
2021年春頃までの私は、雑誌のインタビューでも「恋愛ができない」と語ったように、
人様に対していわゆる恋愛感情のようなものを抱けなくなっている自分に気づき、
そのような時に出会った方であり、こんな私のことを好きだと伝えてくれました。
一般的な恋愛観とは違ったものになるかもしれないけど、支え合って生きていけたらいいなと思いました。
近しい友人や関係者からの反対も多かったのですが、それを押し切ってお付き合いし、結婚をしました。
それくらい本気でA子さんのことを想っていたのは紛れもない事実です。
公にすることへの恐怖心を抱いていたのも事実です。
それでも不本意な形で知られるよりも、ちゃんと私たちの口から発表することを望んでいました。
しかし、入籍中であった当時は、A子さんもネット活動者であり、
A子さんとその関係者の意向もあって公表することができませんでした。
とある炎上騒動をきっかけに、全てを話してしまおうとも思いました。
何度も真実を発表するタイミングを探っておりましたが、多くのしがらみによって叶いませんでした。
そのような環境下で憔悴している中、A子さんとすれ違うことも増えました。
当時、私が些細なことに反論する度に捲し立てるように糾弾されていました。
私がただ泣きながら謝るような日々を繰り返しているうちに
「とにかく全て自分が悪いんだ」と思い込むようになっていき、
真っ暗で何も見えないような毎日になっていきました。
当時の私は盲目状態で「普通とは何か」もわからない状態でしたので、A子さんの不満を解消するため、
A子さんを怒らせないためだけに行動しておりました。
毎日パソコンの前に座り続けてLINEやDiscordを開き、すぐに連絡を返す。
1日数百件を超えるやりとりを毎日のようにしていましたが、それでも浮気を疑われてしまうので、
Discordのサーバーに24時間ログインしている状態にし、私の行動を監視できるようにして、
浮気をしていない証明をして、寝ている時もスマホで上がり続ける。
など、改めて思い返しても信じられませんが、
当時の私はこのような状況を当たり前のように受け入れてしまっていたのです。
そんな状況下においても、
「結婚したのはお金目当てなのだろう」というようなことを言われ、よくわからないまま謝り続けていました。
自分では何も判断できない、どうしたら良いのか何もわからない、
正気を取り戻した私は、
A子さんから受けていた言動や行動の多くがモラルハラスメントであるとようやく気付き、
このまま一緒にいてはいけないと、離婚することを検討し始めました。
当初はA子さんからも「これまでの事は反省するから、離婚はしたくない」という強い意向を伝えられ、
離婚をせずに何とか解決できるのではないかと模索し、関係改善を試みました。
もともと同棲をするために私は新居を購入していました。
一緒に暮らすことができれば、A子さんの不安な気持ちを解消できるのではないかと思ったからです。
しかしこのように関係がこじれてしまったため、A子さんはその新居で、私は変わらずに賃貸マンションにて、お互いに距離を置きながら過ごしました。
その後間もなく、
A子さんはSNS上でも、私に対する不満を匂わせる発言を繰り返すようになっていきます。
事実とは大きく異なる内容ばかりで、それは私に対する第3者からの批判を促す結果となっていました。
弁護士を通じて、そういった発言はやめてほしいと再三伝えてきましたが、
改善されることはありませんでした。
止まない誹謗中傷に歯止めをかけるべく、
せめて一部でも事実を公にし、誤情報の訂正をさせて欲しいとA子さん側に申し入れました。
「新たな形で活動を再スタートするタイミングだから婚姻関係の公表は控えて欲しい」と
一方的に申し入れを跳ね返され、歩み寄ろうすることもありませんでした。
言葉とは裏腹なA子さん側の態度に耐えきれず、22年5月下旬に、弁護士を通じて正式に離婚を申し入れました。
こうして、みなさんに真実をお伝えできないまま、弁護士を通じた離婚協議に入ることになったのです。
そして離婚の申し入れと同時に、
私自身も立ち上がることもままならなくなっていたので療養が必要と判断し、
世に広まった誹謗中傷が少しでも減ることを望んでいたのですが、
結果として「病気の療養」だけを伝える形で休止を発表することになったのです。
真実を言えないまま休止をする悔しさとともに、自分の不甲斐なさも恨みました。
A子さんは体調不良を理由に話し合いに応じず、またしても一方的に金銭などを要求されました。
協議が停滞していたところ、交際時にA子さんが二股をしていた疑惑が発覚し、
最終的にはお互いに金銭の支払いは無い形で、22年7月下旬に離婚が成立したのです。
離婚後、
A子さんが去ったあとの新居には、足の踏み場がないほど無数に散らばる段ボールやゴミが散乱し、
A子さんが飼っていたペットの骨壷までもがゴミと共に置き去りにしてありました。
その遺骨は私が持ち帰り、安らかに眠れるよう、今でもリビングの高いところへ安置してあります。
A子さんの裏切りについては、とある男性(以下、B男さん)と話をしたところ発覚しました。
詳しくは、B男さんからDiscordやLINEのスクリーンショットをいただき、
画像にはデートの誘いやバレンタインデーに贈り物をしたいというやりとりなどがありました。
入籍当日の12月25日と翌日26日、
私とのクリスマスの約束をすっぽかし、年末に遊ぶ誘いをしていたり、
離婚協議中の5月、まふまふに復縁をしたいというメッセージを送りながら、
あまりのショックで寝込んでしまったことを鮮明に覚えています。
B男さんは何度も何度も謝ってくれましたし、
事情を知らなかったようなので被害者であると思い和解しました。
今では僕とB男さんは仲良くさせていただいております。
それだけではありませんでした。
離婚協議中も、A子さんや第3者からSNSや匿名掲示板上で様々な嫌がらせを受けていました。
さも私が「DVをしていた」「複数の女性と浮気をしていた」かのように匂わせる投稿も
多数ありましたが、もちろん事実ではなく嘘です。
せめてもの抵抗としては、少しでも誹謗中傷だけは減らしていきたいという一心で、
私は匿名掲示板に対して情報開示請求をすることになったのです。
その情報開示請求の結果、裁判所も誹謗中傷の違法性を認め、請求が通りました。
そして記事にもある通り、そのほとんどの書き込みがA子さんであることが発覚しました。
たくさんの誹謗中傷がありましたが、
特に酷かった内容としては「まふまふがA子さんの飼い猫を、ドアにぶつけて殺した。」というものでした。
A子さんの飼い猫は、私と知り合った時点で両目が見えない老猫で、私によくなついていました。
動物を傷つけるようなことをするわけもなく、
どういう発想でそんな話になるのか見当もつきませんでした。
10年以上の活動をしてきて、誹謗中傷を受けることは日常茶飯事でしたので、
従来の自分であれば気にしないようにすることもできたと思います。
しかし、A子さんは常日頃から誹謗中傷に反対するような発言をしている方でして、
そんなことを言っている張本人が匿名掲示板に有料会員登録をしてまで人を傷つけていたとなると、
これを看過するわけにはいかないと思いました。
裁判になれば傍聴することもでき、みんなが正しい情報を得ることができます。
もしも私が何の脈絡もなくネット上で事実を話せば、それはこちらの落ち度となりかねませんが、
裁判という法的な場においては最も正しく判決を下してくれます。
そのため、何もかも明るみになることも覚悟の上、裁判をしようと踏み切ることにしました。
現在もA子さんを相手に、誹謗中傷を訴え、民事裁判は進行しています。
また、昨年、夏が終わった頃に警察へ相談をしまして、8時間かけて調書を作っていただきました。
(調書とは、刑事さんが事件の取り調べをして作ってくれる書類のことです。)
A 子さんも呼び出され、昨年末に無事書類送検されたことを確認していますので、
現在は検察の方々がどのように動いてくださるか考えてくれているところかと思います。
民事、刑事、いずれかの裁判が進めば、すべて明るみになるので、
その時に真実を話そうと考えていました。
[最後に]
これからも裁判は続いていき、話をすべき時は今後も訪れると思っています。
十分にお話できたとは思っていませんが、ずっと心のうちに秘めていたことを、
上述したようにA子さんから、
また謂れのないことを言われたり、妄言を浴びることになるかもしれません。
ちゃんと法的な場で戦っていけば結論が出るはずなので、その際は聞き流してもらえたら嬉しいです。
また、どのような事情があったにせよ、
まふまふを応援してくれている視聴者の方々に嘘を吐いていたことにはかわりません。
私が悪いことにはかわりませんし、その気持ちは一生涯、抱えて生きていきます。本当にごめんなさい。
そして最後に、わがままかもしれませんが、この文章を公開することでひとつでも多くの誹謗中傷がなくなっていくことを願っております。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
まふまふ
〈佐藤優現象〉を支えている護憲派の中心は、雑誌としては『世界』であり、学者では山口二郎と和田春樹である。この顔ぶれを見て、既視感を覚える人はいないだろうか。すなわち、「平和基本法」である。これは、山口や和田らが執筆し、共同提言として、『世界』一九九三年四月号に発表された。その後、二度の補足を経ている(56)。
私は、〈佐藤優現象〉はこの「平和基本法」からの流れの中で位置づけるべきだと考える。
同提言は、①「創憲論」の立場、②自衛隊の合憲化(57)、③日本の経済的地位に見合った国際貢献の必要性、④国連軍や国連の警察活動への日本軍の参加(58)、⑤「国際テロリストや武装難民」を「対処すべき脅威」として設定、⑥日米安保の「脱軍事化」、といった特徴を持つが、これが、民主党の「憲法提言」(二〇〇五年一〇月発表)における安全保障論と論理を同じくしていることは明白だろう。実際に、山口二郎は、二〇〇四年五月時点で、新聞記者の「いま改憲は必要なのか」との問いに対して、「十年ほど前から、護憲の立場からの改憲案を出すべきだと主張してきた。しかし、いまは小泉首相のもとで論理不在の憲法論議が横行している。具体的な憲法改正をやるべき時期ではないと思う」と答えている(59)。「創憲論」とは、やはり、改憲論だったのである。
同提言の二〇〇五年版では、「憲法九条の維持」が唱えられているが、これは、政権が「小泉首相のもと」にあるからだ、と解釈した方がいいだろう。「平和基本法」は、戦争をできる国、「普通の国」づくりのための改憲論である。同提言は軍縮を謳っているが、一九九三年版では、軍縮は「周辺諸国の軍縮過程と連動させつつ」行われるとされているのだから、北朝鮮や中国の軍事的脅威が強調される状況では、実現する見込みはないだろう(60)。また、「かつて侵略したアジアとの本当の和解」、二〇〇五年版では、周辺諸国への謝罪と過去清算への誠実な取組みの必要性が強調されているが、リベラルは過去清算は終わったと認識しているのであるから、これも実効性があるとは思えない。要するに、同提言には、論理内在的にみて、軍事大国化への本質的な歯止めがないのである。
佐藤が語る、愛国心の必要性(61)、国家による市民監視(62)、諜報機関の設置等は、「普通の国」にとっては不可欠なものである。佐藤の饒舌から、私たちは、「平和基本法」の論理がどこまで行き着くかを学ぶことができる。
馬場は、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝について、「今後PKOなどの国際的軍事・平和維持活動において殉死・殉職した日本人の慰霊をどう処理し追悼するか、といった冷戦後の平和に対する構想を踏まえた追悼のビジョンもそこからは得られない」と述べている(63)。逆に言えば、馬場は、今後生じる戦死者の「慰霊」追悼施設が必要だ、と言っているわけである。「普通の国」においては、靖国神社でないならば、そうした施設はもちろん、不可欠だろう。私は、〈佐藤優現象〉を通じて、このままではジャーナリズム内の護憲派は、国民投票を待たずして解体してしまう、と前に述べた。だが、むしろ、すでに解体は終わっているのであって、「〈佐藤優現象〉を通じて、残骸すら消えてしまう」と言うべきだったのかもしれない。
ここで、テロ特措法延長問題に触れておこう(64)。国連本部政務官の川端清隆は、小沢一郎民主党代表の、テロ特措法延長反対の発言について、「対米協調」一辺倒の日本外交を批判しつつ、「もし本当に対テロ戦争への参加を拒絶した場合、日本には国連活動への支援も含めて、不参加を補うだけの実績がない」、「ドイツが独自のイラク政策を採ることができたのは、アフガニスタンをはじめ、世界の各地で展開している国連PKOや多国籍軍に参加して、国際社会を納得させるだけの十分な実績を積んでいたからである。翻って日本の場合、多国籍軍は言うに及ばず、PKO参加もきわめて貧弱で、とても米国や国際社会の理解を得られるものとはいえない」と述べている(65)。
元国連職員の吉田康彦は「国連憲章の履行という点ではハンディキャップなしの「普通の国」になるべきだと確信している。(中略)安保理決議による集団安全保障としての武力行使には無条件で参加できるよう憲法の条文を明確化するのが望ましい」と述べている(66)。川端と吉田の主張をまとめれば、「対米協調一辺倒を避けるため、国連PKOや多国籍軍の軍事活動に積極的に参加して「国際貢献」を行わなければならない。そのためには改憲しなければならない」ということになろう。民主党路線と言ってもよい。今の護憲派ジャーナリズムに、この論理に反論できる可能性はない。「8」で指摘したように、対北朝鮮武力行使を容認してしまえば、改憲した方が整合性があるのと同じである。
なお、佐藤は、『世界』二〇〇七年五月号に掲載された論文「山川均の平和憲法擁護戦略」において、「現実の国際政治の中で、山川はソ連の侵略性を警戒するのであるから、統整的理念としては非武装中立を唱えるが、現実には西側の一員の日本を前提として、外交戦略を組み立てるのである。」「山川には統整的理念という、人間の努力によっては到底達成できない夢と、同時にいまこの場所にある社会生活を改善していくという面が並存している」と述べている。私は発刊当初この論文を一読して、「また佐藤が柄谷行人への点数稼ぎをやっている」として読み捨ててしまっていたが、この「9」で指摘した文脈で読むと意味合いが変わってくる。佐藤は、「平和憲法擁護」という建前と、本音が分裂している護憲派ジャーナリズムに対して、「君はそのままでいいんだよ」と優しく囁いてくれているのだ。護憲派ジャーナリズムにとって、これほど〈癒し〉を与えてくれる恋人もいるまい(67)。
10.おわりに
これまでの〈佐藤優現象〉の検討から、このままでは護憲派ジャーナリズムは、自民党主導の改憲案には一〇〇%対抗できないこと、民主党主導の改憲案には一二〇%対抗できないことが分かった。また、いずれの改憲案になるにしても、成立した「普通の国」においては、「7」で指摘したように、人種差別規制すらないまま「国益」を中心として「社会問題」が再編されることも分かった。佐藤は沖縄でのシンポジウムで、「北朝鮮やアルカイダの脅威」と戦いながら、理想を達成しようとする「現実的平和主義」を聴衆に勧めている(68)が、いずれの改憲案が実現するとしても、佐藤が想定する形の、侵略と植民地支配の反省も不十分な、「国益」を軸とした〈侵略ができる国〉が生まれることは間違いあるまい。「自分は国家主義者じゃないから、「国益」論なんかにとりこまれるはずがない」などとは言えない。先進国の「国民」として、高い生活水準や「安全」を享受することを当然とする感覚、それこそが「国益」論を支えている。その感覚は、そうした生存の状況を安定的に保障する国家―先進国主導の戦争に積極的に参加し、南北間格差の固定化を推進する国家―を必要とするからだ。その感覚は、経済的水準が劣る国の人々への人種主義、「先進国」としての自国を美化する歴史修正主義の温床である。
大雑把にまとめると、〈佐藤優現象〉とは、九〇年代以降、保守派の大国化路線に対抗して、日本の経済的地位に見合った政治大国化を志向する人々の主導の下、謝罪と補償は必要とした路線が、東アジア諸国の民衆の抗議を契機として一頓挫したことや、新自由主義の進行による社会統合の破綻といった状況に規定された、リベラル・左派の危機意識から生じている。九〇年代の東アジア諸国の民衆からの謝罪と補償を求める声に対して、他国の「利益のためではなく、日本の私たちが、進んで過ちを正しみずからに正義を回復する、即ち日本の利益のために」(69)(傍点ママ)歴史の清算を行おうとする姿勢は、リベラル内にも確かにあり、そしてその「日本の利益」とは、政治大国を前提とした「国益」ではなく、侵略戦争や植民地支配を可能にした社会のあり方を克服した上でつくられる、今とは別の「日本」を想定したものであったろう。私たちが目撃している〈佐藤優現象〉は、改憲後の国家体制に適合的な形で生き残ろうと浮き足立つリベラル・左派が、「人民戦線」の名の下、微かに残っているそうした道を志向する痕跡を消失もしくは変質させて清算する過程、いわば蛹の段階である。改憲後、蛹は蛾となる。
ただし、私は〈佐藤優現象〉を、リベラル・左派が意図的に計画したものと捉えているわけではない。むしろ、無自覚的、野合的に成立したものだと考えている。藤田省三は、翼賛体制を「集団転向の寄り合い」とし、戦略戦術的な全体統合ではなく、諸勢力のからみあい、もつれあいがそのまま大政翼賛会に発展したからこそ、デマゴギーそれ自体ではなく、近衛文麿のようなあらゆる政治的立場から期待されている人物が統合の象徴となったとし、「主体が不在であるところでは、時の状況に丁度ふさわしい人物が実態のまま象徴として働く」、「翼賛会成立史は、この象徴と人物の未分性という日本政治の特質をそれこそ象徴的に示している」と述べている(70)が、〈佐藤優現象〉という名の集団転向現象においては、近衛のかわりに佐藤が「象徴」としての機能を果たしている。この「象徴」の下で、惰性や商売で「護憲」を唱えているメディア、そのメディアに追従して原稿を書かせてもらおうとするジャーナリストや発言力を確保しようとする学者、無様な醜態を晒す本質的には落ち目の思想家やその取り巻き、「何かいいことはないか」として寄ってくる政治家や精神科医ら無内容な連中、運動に行き詰った市民運動家、マイノリティ集団などが、お互いに頷きあいながら、「たがいにからみあい、もつれあって」、集団転向は進行している。
ところで、佐藤は、「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている(71)。佐藤は、リベラル・左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまったからには、自国の国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤を賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間を異端者扱いするのが目に見えている。
この佐藤の発言は、安倍晋三前首相の目指していた「美しい国」づくりのための見解とも一致する。私見によれば、安倍の『美しい国へ』(新潮新書、二〇〇六年七月)全二三二頁の本のキモは、イランでのアメリカ大使館人質事件(一九七九年)をめぐる以下の一節である。「(注・反カーター陣営の)演説会で、意外に思ったことがある。人質事件に触れると、どの候補者もかならず、「私は大統領とともにある」(I am behind the President.)というのだ。ほかのことではカーターをこきおろす候補者が、そこだけは口をそろえる。/もちろん、人質にされている大使館員たちの家族に配慮するという意図からだろうが、アメリカは一丸となって事件に対処しているのだ、という明確なメッセージを内外に発しようとするのである。国益がからむと、圧倒的な求心力がはたらくアメリカ。これこそがアメリカの強さなのだ。」(八七~八八頁)
文中の、「人質事件」を拉致問題に、「大統領」を安倍に、「アメリカ」を日本に置き換えてみよ。含意は明白であろう。安倍は辞任したとはいえ、総連弾圧をめぐる日本の言論状況や、〈佐藤優現象〉は、安倍の狙いが実現したことを物語っている。安倍政権は倒れる前、日朝国交正常化に向けて動きかけた(正確には米朝協議の進展で動かされたと言うべきだが)が、こうなるのは少なくとも今年春からは明らかだったにもかかわらず、リベラル・左派の大多数は、「日朝国交正常化」を公然と言い出せなかった。安倍政権が北朝鮮外交に敗北したのは明らかである。だが、日本のリベラル・左派は安倍政権ごときに敗北したのである。
〈佐藤優現象〉は、改憲後に成立する「普通の国」としての〈侵略ができる国〉に対して、リベラル・左派の大部分が違和感を持っていないことの表れである。侵略と植民地支配の過去清算(在日朝鮮人の人権の擁護も、そこには含まれる)の不十分なままに成立する「普通の国」は、普通の「普通の国」よりはるかに抑圧的・差別的・侵略的にならざるを得ない。〈佐藤優現象〉のもとで、対北朝鮮武力行使の言説や、在日朝鮮人弾圧の言説を容認することは、戦争国家体制に対する抵抗感を無くすことに帰結する。改憲に反対する立場の者がたたかうべきポイントは、改憲か護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮武力行使を容認するか、「対テロ戦争」という枠組み(72)を容認するかどうかである。容認してしまえば、護憲(反改憲)派に勝ち目はない。過去清算も不十分なまま、札束ではたいて第三世界の諸国の票を米国のためにとりまとめ、国連の民主的改革にも一貫して反対してきた日本が、改憲し、常任理事国化・軍事大国化して、(国連主導ではあれ)米軍中心の武力行使を容易にすることは、東アジア、世界の平和にとって大きな災厄である(73)。
改憲と戦争国家体制を拒否したい人間は、明確に、対北朝鮮武力行使の是非、対テロ戦争の是非という争点を設定して絶対的に反対し、〈佐藤優現象〉及び同質の現象を煽るメディア・知識人等を徹底的に批判すべきである。
註
(1)岩波書店労働組合「壁新聞」二八一九号(二〇〇七年四月)。
(2)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月一六日付。
(3)ただし、編集者は佐藤が右翼であることを百も承知の上で使っていることを付言しておく。〈騙されている〉わけではない。
(4)「佐藤優という罠」(『AERA』二〇〇七年四月二三日号)中のコメントより。
(5)インターネットサイト「フジサンケイ ビジネスアイ」でほぼ週一回連載中の〈 Permalink | 記事への反応(0) | 18:37
目次
1.はじめに
(1)歴史認識について
(2)対北朝鮮外交について
3.佐藤優による主張の使い分け
(1)ナショナリズム論
(2)ポピュリズム論
(3) 格差社会論
6.「人民戦線」という罠
(1)「ファシズム政権の樹立」に抗するために、人民戦線的な観点から佐藤を擁護する
10.おわりに
註
1.はじめに
このところ、佐藤優という人物が「論壇」を席巻しており、リベラル・左派系の雑誌から右派メディアにまで登場している。
だが、「論壇の寵児」たる佐藤は、右派メディアで排外主義そのものの主張を撒き散らしている。奇妙なのは、リベラル・左派メディアが、こうした佐藤の振舞いを不問に付し、佐藤を重用し続けていることにある。
佐藤による、右派メディアでの排外主義の主張の展開が、リベラル・左派によって黙認されることによって成り立つ佐藤の「論壇」の席巻ぶりを、以下、便宜上、〈佐藤優現象〉と呼ぶ。この現象の意味を考える手がかりとして、まずは、佐藤による「論壇」の席巻を手放しに礼賛する立場の記述の検討からはじめよう。例えば、『世界』の編集者として佐藤を「論壇」に引き入れ、佐藤の著書『獄中記』(岩波書店、二〇〇六年一二月)を企画・編集した馬場公彦(岩波書店)は、次のように述べる。
「今や論壇を席巻する勢いの佐藤さんは、アシスタントをおかず月産五百枚という。左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない。」「彼の言動に共鳴する特定の編集者と密接な関係を構築し、硬直した左右の二項対立図式を打破し、各誌ごとに異なったアプローチで共通の解につなげていく。」「現状が佐藤さんの見立て通りに進み、他社の編集者と意見交換するなかで、佐藤さんへの信頼感が育まれる。こうして出版社のカラーや論壇の左右を超えて小さなリスクの共同体が生まれ、編集業を通しての現状打破への心意気が育まれる。その種火はジャーナリズムにひろがり、新聞の社会面を中心に、従来型の検察や官邸主導ではない記者独自の調査報道が始まる。」「この四者(注・権力―民衆―メディア―学術)を巻き込んだ佐藤劇場が論壇に新風を吹き込み、化学反応を起こしつつ対抗的世論の公共圏を形成していく。」
馬場の見解の中で興味深いのは、〈佐藤優現象〉の下で、「硬直した左右の二項対立図式」が打破され、「論壇」が「化学反応」を起こすとしている点である。ある意味で、私もこの認識を共有する。だが、「化学反応」の結果への評価は、馬場と全く異なる。私は、これを、「対抗的世論の公共圏」とやらが形成されるプロセスではなく、改憲後の国家体制に適合的な形に(すなわち、改憲後も生き長らえるように)、リベラル・左派が再編成されていくプロセスであると考える。比喩的に言えば、「戦後民主主義」体制下の護憲派が、イスラエルのリベラルのようなものに変質していくプロセスと言い替えてもよい。
以下の叙述でも指摘するが、佐藤は対朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)武力行使、在日朝鮮人団体への弾圧の必要性を精力的に主張している。安倍政権下の拉致外交キャンペーンや、一連の朝鮮総連弾圧に対して、リベラル・左派から批判や抗議の声はほとんど聞かれなかったのは、「化学反応」の典型的なものである。「戦後民主主義」が、侵略と植民地支配の過去とまともに向き合わず、在日朝鮮人に対してもせいぜい「恩恵」を施す対象としか見てこなかったことの問題性が、極めて露骨に出てきていると言える。〈嫌韓流〉に対して、リベラル・左派からの反撃が非常に弱いことも、こうした流れの中で考えるべきであろう。
私は、佐藤優個人は取るにたらない「思想家」だと思うが、佐藤が右派メディアで主張する排外主義を、リベラル・左派が容認・黙認することで成り立つ〈佐藤優現象〉は、現在のジャーナリズム内の護憲派の問題点を端的に示す、極めて重要な、徴候的な現象だと考える。
馬場は、佐藤が「左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない」などと言うが、後に見るように、佐藤は、「右」の雑誌では本音を明け透けに語り、「左」の雑誌では強調点をずらすなどして掲載されるよう小細工しているに過ぎない。いかにも官僚らしい芸当である。佐藤自身は自ら国家主義者であることを誇っており、小谷野敦の言葉を借りれば、「あれ(注・佐藤)で右翼でないなら、日本に右翼なんか一人もいない」。
佐藤が読者層に応じて使い分けをしているだけであることは誰にでも分かることであるし、事実、ウェブ上でもブログ等でよく指摘されている。そして、小谷野の、この現象が「日本の知識人層の底の浅さが浮き彫りになった」ものという嘲笑も正しい。だが、改憲派の小谷野と違い、改憲を阻止したいと考える者としては、この現象について、佐藤優に熱を上げている護憲派を単に馬鹿にするだけではなく、〈佐藤優現象〉をめぐって、誰にでも浮かぶであろう疑問にまともに答える必要がある。なぜ、『世界』『金曜日』等の護憲派ジャーナリズムや、斎藤貴男や魚住昭のような一般的には「左」とされるジャーナリストが、佐藤に入れ込んでいるのか? なぜ、排外主義を煽る当の佐藤が、『世界』『金曜日』や岩波書店や朝日新聞の出版物では、排外主義的ナショナリズムの台頭を防がなければならない、などと主張することが許されているのか?
この〈佐藤優現象〉はなぜ起こっているのか? この現象はどのようなことを意味しているのか? どういう帰結をもたらすのか? 問われるべき問題は何か? こうした問いに答えることが、改憲を阻止したいと考える立場の者にとって、緊急の課題であると思われる。
まず、佐藤の排外主義的主張のうち、私の目に触れた主なものを挙げ、佐藤の排外主義者としての活躍振りを確認しておこう。
(1)歴史認識について
佐藤は言う。「「北朝鮮が条件を飲まないならば、歴史をよく思いだすことだ。帝国主義化した日本とロシアによる朝鮮半島への影響力を巡る対立が日清戦争、日露戦争を引き起こした。もし、日本とロシアが本気になって、悪い目つきで北朝鮮をにらむようになったら、どういう結果になるかわかっているんだろうな」という内容のメッセージを金正日に送るのだ」。朝鮮の植民地化に対する一片の反省もない帝国主義者そのものの発言である。また、アメリカ議会における慰安婦決議の件に関しても、「事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢で反論することは当然のことだ。」と述べている。
特に、大川周明のテクストと佐藤の解説から成る『日米開戦の真実―大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』(小学館、二〇〇六年四月)では、極めて露骨に、日本の近現代史に関する自己の歴史認識を開陳する。以下、引用する。佐藤が自説として展開している部分である。
「日本人は(注・太平洋戦争)開戦時、少なくとも主観的には、中国をアメリカ、イギリスによる植民地化支配から解放したいと考えていた。しかし、後発資本主義国である日本には、帝国主義時代の条件下で、欧米列強の植民地になるか、植民地を獲得し、帝国主義国となって生き残るかの選択肢しかなかった。」(三頁)、「「大東亜共栄圏」は一種の棲み分けの理論である。日本人はアジアの諸民族との共存共栄を真摯に追求した。強いて言えば、現在のEUを先取りするような構想だった。」(四頁)、「あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないかと筆者は考える。」(六頁)、「日本の武力によって、列強による中国の分裂が阻止されたというのは、日本人の眼からすれば確かに真実である。(中略)中国人の反植民地活動家の眼には、日本も列強とともに中国を分割する帝国主義国の一つと映ったのである。このボタンの掛け違いにイギリス、アメリカはつけ込んだ。日本こそが中国の植民地化と奴隷的支配を目論む悪の帝国であるとの宣伝工作を行い、それが一部の中国の政治家と知的エリートの心を捉えたのである。」(二八一頁)。また、蒋介石政権については、「米英の手先となった傀儡政権」(二五七頁)としている。他方、佐藤は、汪兆銘の南京国民政府は「決して対日協力の傀儡政権ではなかった」(二四九頁)とする。
右翼たる佐藤の面目躍如たる文章である。ちなみに、こんな大東亜戦争肯定論の焼き直しの本を斎藤貴男は絶賛し、「大川こそあの時代の知の巨人・であったとする形容にも、大川の主張そのものにも、違和感を抱くことができなかった」としている。
(2)対北朝鮮外交について
佐藤は、「拉致問題の解決」を日朝交渉の大前提とし、イスラエルによるレバノン侵略戦争も「拉致問題の解決」として支持している。「イスラエル領内で勤務しているイスラエル人が拉致されたことは、人権侵害であるとともにイスラエルの国権侵害でもある。人権と国権が侵害された事案については、軍事行使も辞せずに対処するというイスラエル政府の方針を筆者は基本的に正しいと考える」。さらに、現在の北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに準えた上で、「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる」としている。当然佐藤にとっては、北朝鮮の「拉致問題の解決」においても、戦争が視野に入っているということだ。『金曜日』での連載においても、オブラートに包んだ形ではあるが、「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている(10)。
さらに、アメリカが主張してきた北朝鮮の米ドル札偽造問題が、アメリカの自作自演だった可能性が高いという欧米メディアの報道に対して、佐藤は「アメリカ政府として、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事に正面から反論することはできない。なぜなら、証拠を突きつける形で反論するとアメリカの情報源と情報収集能力が明らかになり、北朝鮮を利してしまうからだ」(11)と、いかなる反証の根拠も示さずに(反証の必要性を封じた上で)、「北朝鮮の情報操作」と主張しているが、この主張は、保守派の原田武夫にすら否定されている(12)。佐藤は現在、右派メディアの中でも最も「右」に位置する論客の一人であると言えよう。
佐藤は、「在日団体への法適用で拉致問題動く」として、「日本政府が朝鮮総連の経済活動に対し「現行法の厳格な適用」で圧力を加えたことに北朝鮮が逆ギレして悲鳴をあげたのだ。「敵の嫌がることを進んでやる」のはインテリジェンス工作の定石だ。/政府が「現行法の厳格な適用」により北朝鮮ビジネスで利益を得ている勢力を牽制することが拉致問題解決のための環境を整える」と述べている(13)。同趣旨の主張は、別のところでも述べている(14)。「国益」の論理の下、在日朝鮮人の「人権」は考慮すらされてない。
漆間巌警察庁長官(当時)は、今年の一月一八日の会見で、「北朝鮮が困る事件の摘発が拉致問題を解決に近づける。そのような捜査に全力を挙げる」「北朝鮮に日本と交渉する気にさせるのが警察庁の仕事。そのためには北朝鮮の資金源について事件化し、実態を明らかにするのが有効だ」と発言しているが、佐藤の発言はこの論理と全く同じであり、昨年末から激化を強めている総連系の機関・民族学校などへの強制捜索に理論的根拠を提供したように思われる。佐藤自身も、「法の適正執行なんていうのはね、この概念ができるうえで私が貢献したという説があるんです。『別冊正論』や『SAPIO』あたりで、国策捜査はそういうことのために使うんだと書きましたからね。」と、その可能性を認めている(15)。
3.佐藤優による主張の使い分け
排外主義者としての佐藤の主張は、挙げ出せばきりがない。前節で挙げたのも一例に過ぎない。では、佐藤は、こうした主張を『世界』『金曜日』でも行っているのだろうか。
佐藤が仮に、「左」派の雑誌では「右」ととられる主張を、「右」派の雑誌では「左」ととられる主張をすることで、「硬直した左右の二項対立図式を打破」しているならば、私も佐藤をひとかどの人物と認めよう。だが、実際に行われていることは、「左」派メディアでは読者層の価値観に直接抵触しそうな部分をぼかした形で語り、「右」派メディアでは本音を語るという下らない処世術にすぎない。「左右の二項対立図式」の「打破」は、「左」の自壊によって成り立っているのだ。佐藤が『金曜日』と右派メディアで同一のテーマを扱った文章を読み比べれば、簡単にそのことはわかる。
一例として、米国下院での「慰安婦」決議に関する佐藤の主張を読み比べてみよう。産経新聞グループのサイト上での連載である〈地球を斬る〉では、「慰安婦」問題をめぐるアメリカの報道を「滅茶苦茶」と非難し、「慰安婦」問題に関する二〇〇七年三月一日の安倍発言についても「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとして、あたかも「慰安婦」決議案自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている(16)。ところが、『金曜日』では、こうした自分の主張は述べず、国権論者としての原則的な立場から日本政府の謝罪には反対だとしている(17)。なお、『金曜日』の同文章では「歴史認識を巡る外交問題は Permalink | 記事への反応(1) | 18:32
・通常の裁判は,建物入り口で金属探知機を通し、問題なければカバンを持ったまま法廷に入る
・今回は仁藤が多数の殺害予告を受けているため、法廷入り口でも二重に金属探知機、カバン持ち込も不可で筆記具のみ可
・尋問の様子
暇弁「デマを無数に飛ばされたと言ってるが、タコ部屋と不正ナマポの2件しか訴えてないのは何故か」
暇弁「なんで記者会見したの」
仁藤「書かせたということはないが取材あれば答えた」
暇弁「取材は何件あった?」
仁藤「いっぱいあってわからん」
暇弁「デマだと何件書かせた?」
暇弁「デマだと報じれば暇空が攻撃されるとわかって取材に応じましたね」
仁藤「デマの影響が深刻で、暇空を模倣してお金を集める人が他にも複数出たため真実を伝えたかった」
仁藤「私自身がシェルターを運営しているから真実を知っている」
はじめに。
人によっては不快に感じる話なので(特に、不妊治療中や子どもを諦めざるを得なかった方など)、読み進めるのは自己責任でお願いします。しかし、私自身にとっても深刻な悩みで、どこかに吐き出したいので書いています。
学生時代、生理痛が非常に重かった。社会人になり自由になるお金が増え、保険適用でピルを飲むようになって生活しやすくはなった。しかし、生理期間中の身体のダルさや眠気は相変わらずあるし、二日目にイブクイックを飲むことはまだ辞められてはいない(学生時代もピルの存在は知っていたが保険適用だと知らなかったし、知っていたとしても親は気合いで乗り越えなさい!タイプだったので通院は無理だったと思う、医療費通知でバレる)。
自分は元々、この世に生まれてきたかった訳でなく、生まれてしまったから死ぬのも怖いし仕方なく生きているタイプの人間だ。また、人それぞれ考え方はあるのは前提で、私は「子どもを産むのは完全に親のエゴ」だと考えるタイプである。
そんな自分は大学生の頃、絶対に子どもはいらないと考えていた。しかし、自身の結婚や環境の変化、身近な人の子どもと触れ合う機会等を経て、最近は少しだけ子どもって可愛いなー、良いなーと思う自分がいる。また、生きてて良かったな、楽しいなというこれまでの経験の積み重ねも、気持ちの変化に影響していると思う。初めは自分でもこの変化に戸惑ったが、時とともに人の気持ちは変化するもんだと思えるようになった。まあでも、これまで生き辛さを抱えながら生きてきたし、今もそういった部分は消えていないので、そんな自分も子ども産み育てたいと思う瞬間もあることに対して矛盾を感じてもいる。
しかし、一つの命をこの世に生み出す責任の重さを考えるとどうしても「産みたい!」「産むぞ!」という気持ちになれない。また、メンタルが強くないので、妊娠、出産、子育てで大いに病む自信しかないし、問題を抱え込みやすく周りに上手に頼れる性格でもない(プラス、両実家は遠方)。器用な人は両実家が遠かろうが何だろうがやってのけるんだろうし、そうじゃない人もどうにかやるしか!の精神で乗り越えるのだろうけども。
ただ、遠方に住んでいる姉の子育ての話を少し聞いただけで、「わ、私には無理だ…」と感じることが多すぎる。ワンオペの多い姉は「私がやらなきゃ誰もやる人がいないからやるしかない」と淡々と話すが…。勿論、話を聞いたり、みてねに上げられる写真を見たり、実際に会ったりすると甥っ子は非常に可愛くて癒されるし、子どもって良いなと思う瞬間はある。でもそれ以上に、人ひとりを育てる大変さ、責任の重さを考えてしまう。
それに加えて、円安だし、税金は右肩上がりだし、不正をした政治家が裁かれないような日本に生まれることは果たして幸せなのだろうかとか考えてしまう(どの国に生まれてもそれぞれ、様々な問題があるでしょうが)。親が考え得る、子どもの幸せを全て叶えてあげようとするのは傲慢だし、無理だとは理解していても、一度立ち止まってしまう。
また、我が家は家計が毎月カツカツという訳ではないけど、めちゃくちゃ余裕がある訳でもない。もし仮に、非常に経済的余裕があったとしたらこんなに悩まずに産むのかなと考えたこともあったが、その時でも私は悩みそうだと思ったので金銭的理由よりもメンタル的な理由の方が大きそうである(メンタルが関係する問題で、金銭で解決できることも一部ありそうではある)。
親しい友人は、私の子ども絶対いらない期(大学生時)の気持ちも、今のあやふやな気持ちも知っていて「世の中、みんなそんなに考えてから子ども産んでないよ」「ただ可愛いから産んでる子もいるよ」「〇〇(私の名前)は考えすぎだよ」と言う。でも私は、元々生まれてきたかった訳ではなく生まれてしまったから生きてるタイプの人間だし、そういうことを人より深く考えてしまう。
夫には付き合っている時から、今後変化するかもしれないが現時点で子どもを産みたいとは考えていないと何度か伝えており、それを了承の上で結婚した(因みに、夫自身は子どもが欲しいかどうかは「分からない」らしい…。子どもが身近にいないとそういうもんなんでしょうか)。この先、やっぱり子ども欲しい!って言われたら、まあその時はその時だよね(知らんけど)という精神で今はいます。一応、こちら側の意思表示、説明責任(?)は果たしている。こちらの気持ちの変化の可能性もあったので(実際に変化してる)、婚前契約までは結んでません。
で、タイトルに戻りますが。いっそのこと子宮を除去できたらなと思うようになってしまいました。なんかもう、疲れてしまって。自分の中で、己のキャパ的に今世では子どもを産み育てるのは無理だわと分かりつつ、微妙に揺れ動いてしまう感情に振り回されることや、産むなら早い方が体力的に良いとか自分で勝手にタイムリミットを感じて、決断を急き立てられるような気持ちになること、両実家からの表立っては伝えてこないけれど、ふとした瞬間に緩やかに感じる孫への期待だとかに。それならばもう、子宮が無くなってしまえばそういったことに悩まされることもないよねと。子宮がなくなればめんどくさい生理も来なくなるし(夏のナプキンのムレは本当に不快)。
もし万が一、子宮が無くなったとしたら、「あ、私はもう子どもは産めないんだ」と喪失感に駆られるかもしれないなとは考える。めちゃくちゃ自分勝手だけど、人間ってそんなもんでしょう、とも思う。
可能性を排除して、考えなくて良くなりたい。色んな自分で自分を苦しめているしがらみから解放されたい。考えることに疲れてしまった。
おわり。
特にそれが子供という身体も思想もおぼつかない相手を対象にしたものに対しては一等嫌悪感がある。
けれど、昨今のそういう嗜好や性癖を持っているだけの人を殺せという論調を聞いていると何とも言えない焦燥感がある。
私は今年35歳になる男で同性愛者だ。
今でこそボーイズラブやLGBTQなどという横文字が広がって多少はスルーされることが多くなったかもしれないが、それでも自分は同性愛者ということをゲイコミュニティ以外で一切カミングアウトしていない。
それはゲイであるというカミングアウトだけで強烈な迫害がある人生を引いてしまったからだ。
かといって同意なしに男性を襲うなど言語道断であり、どれだけおだてられても自分が襲われる立場になったらと思うとゾッとする。
しかしそれは世界で大多数を占める異性愛者でも同じことだろう。
異性愛者だろうが同性愛者だろうが、同意なしにセックスをすればそれはただの犯罪だ。(中には金銭目的の美人局もあるだろうがそれはまた別の話)
ではペドフィリアはどうだろう。
もちろん、自分の欲求のためだけに幼児を襲ったり、そうでなくても追いかけたり盗撮したりは非人間のすることだ。
万が一相手に同意が取れたところで、未成年の同意が大人の同意と同じ効力はないし、真に受ける人間は社会性を失った猿だと思う。
ではただ黙々とそういったコミュニティに属して空想を繰り広げているペドフィリアはどうなのだろう。
正直、私も気持ち悪いし怖いと思う。
しかし、「ペドフィリア」という看板を掲げたコミュニティをわざわざ覗いて「こういう思想を持っ人間は危険だから排除すべきだ」と晒し上げるのは少し横暴だと感じてしまう。
百歩譲って、覗いて気持ち悪いと投げかけるまでは個人の感想だと思う。
ただ「そういった思想を持っている人間はすべからく社会から排除すべきだ」とまで飛躍するのは、かつてのゲイコミュニティが受けていた差別と全く同じ構造ではないだろうか。
何も犯罪は犯していないのに、男が好きというだけで迫害される時代と場所は確かにあった。
ゲイとペドフィリアは違うという人もいるが、ゲイは個性でペドフィリアは性癖だからという理論は正直意味がない。
どちらもその対象物を性対象にしている時点で同じだし、それは異性愛者もそうだ。
自分の嗜好や指向を満たすために対象物があって、同意がとれないままセックスをすればそれは須く犯罪なのではないか。
だったら異性愛者の恋バナや片思いだけが合法になりうるのはおかしいのではないだろうか。
書いていて自分でも横暴な論調だとは思うが、内心の自由すら取り締まるというのなら、異性愛者の「あのアイドルとヤりたい」とペドフィリアの「子供とセックスがしたい」も、そう思った時点で同じく犯罪になってしまう。
ただ「そういった思想がある時点で排除すべきだ」と主張する人の理由もわからなくもない。
誰だって世間一般、もしくは自分の想像から大きく外れた思想を垂れ流している人物がいたら避けたいのは動物としての本能だろう。
ましてや子供を持つ親なんて、例え関係ない架空のペド話でも自分の子供への警鐘から排除したいと思うのは当然だ。
若い人には想像もつかないかもしれないが、私がまだ学生の頃はオカマやオネエキャラというピエロにとしてエンタメに昇華されたゲイ以外ほぼ許されなかった。
もっと上の世代ではそれこそ同士でのカミングアウトすら危険を伴い、還暦を過ぎ、妻を看取り、時代がゆるやかになった今やっと言えたという人も珍しくはない。
なんなら最後まで隠し通し、自分に向き合えなかった悔しさと、妻を愛したふりをしたまま騙してしまったという相手への罪悪感のまま天寿を全うした人もいたかもしれない。
少し話がそれる。
今まで友達のように接していた人間から「お前も性別だけで言えば範囲内だ」とカミングアウトされればたじろぐ人が多いと思う。
その気持ちはとてもよくわかる。
それはこちらがどれだけ「人間が好きだからといって全人類好きじゃないのと一緒だ」と説明しても拭いきれない猜疑心だと思うし、ある意味当然であろう。
ぬぐるみから男根が生えたという女性の記事を読んで、ああいうのが近い感覚なのかもしれないと思った。
自分が性対象の範囲内に見られているかもしれないという疑いは、思ったより不快感があり気持ち悪いのだ。
私は長年友人だと思っていた異性愛者の女性から告白を受けたときにこの気持ちを味わった。
と同時に「なぜ彼女の片思いは淡い失恋として美化されて、私はその気持ち悪さを口に出すことすら憚られるのだろう」という醜い嫉妬もした。
結局は恐怖心なのだと思う。
ぬいぐるみからペニスが生えていなくとも、全く関係のない遠くの人間から「ロン毛は全員性対象だ」と言われたら気持ち悪いと思うロングヘアの人間がいても何もおかしくない。
ゲイも、ペドフィリアも、その他のマジョリティも、例え世間一般で常識であっても、人間、自分が想像する範疇から少しでも外れれば多少なりともすべて恐怖の対象なのだ。
では逆に内心の自由が保護されたとして、どこまでが内心になるのだろう。
そもそも第三者に確かめようのないことだし、確認のしようがない。
では同士で語り合ったりするのはどうだろう。
これはインターネットの発達と、そのインターネットに対するイメージの差が大きい部分もないだろうか。
私にとってインターネットは雑踏の中にある架空の秘密基地であった。
「恋愛相談がしたい」「ねこの話がしたい」「ただ眺めていたい」「死について語り合いたい」
たくさんある部屋の中から私は「ゲイ同士話してみたい」の部屋でずいぶんと救われた。
「好きな人が結婚して、友達のふりをして泣いた」と、ゲイとして言えるということは現実世界ではあり得なかったからだ。
といってもそれはインターネット内での話なので、それが実話だろうと証明する方法はないし、相手の慰めの言葉も嘘なのかもしれない。
逆にその空虚さが居心地の良さを生んでいた部分もあるだろう。
VIPからきますたwwwで荒らされても「まぁインターネットだしな」と溜飲が下がる部分も多かったろう。
インターネットは気軽な逃げ場だったのだ。
かつての生き物苦手板を知っている人はどれだけいるだろうか。
面白半分で覗いて後悔するナンバーワンの宝庫であり、いわゆる動物虐待の話をメインにした場所だ。
勘違いされないように改めてここでも言っておくが、私は犯罪は許せないし動物虐待にも強い嫌悪感がある。
ここで写真つきで虐待実況をしたものは明らかな動物虐待だろう。
しかし、ただ猫や犬をいじめるのが好きだと語る場合は果たして内心の自由になり得るのだろうか。
もちろん明らかな犯罪予告や一種の誹謗中傷にあたるようなものはダメだろう。
しかしあくまで架空の妄想という共通認識の集まりで、「もし自由にしていい猫がいたら、こういう酷いことをしてみたい」と書き込んだ場合、それは内心の自由になるだろうか。
「嫌なら見るな」の立て看板の先とはいえ、ネットで全世界に見えるように書き込んだ時点で内心ではないので取り締まるべきか?
だったら「あのイケメンアイドルにキスしたい」とか「あのキャラでヌイた」とかも内心の自由ではないセクハラとして取り締まるべきか?
そもそも架空の妄想と銘打った時点で例え言語化されて出力されたものでも内心の自由ではないか?
そうなってくると、第三者が取り締まるのはどこからが基準になるのか?
それが個人単位の気持ち悪いだった場合、明確な基準もなく個人感情で取り締まられるのではないか?
もっと正直に言えば、私は他のマイノリティやペドフィリアなぞどうでもいい。
そもそも妄想のはけ口がないと発散できない時点で人間としてまずい部分は多かれ少なかれあるのでは?という偏見が私にはある。
かといって、それらの妄想が全てそのような危険なはけ口だとも思わない。
私はそれらの嗜好をただ持っているだけの普通の人への取り締まりが始まれば、いつかはそれがゲイコミュニティに回ってくるのではないかという自己中な懸念がある。
私はマイノリティが大ぴらに権利を主張するのにもあまり乗り気ではなく、それは一部の人権団体がただ己の自尊心を気持ちよくするために、平等ではなく、同情で弾圧と優遇を叫ぶからだ。
「理解はできないし気持ち悪いけど、別に何もしないなら普通に生きてなよ」という態度がどれだけ救われるか。
ペドフィリアが全員殺されたら、今度は自分が殺されるかもしれないという恐怖が私にはある。
内心の自由はどこまで許されるのだろうか。
■籍を入れる頃合い。
芸能人のカップルが、事実婚をするということがニュースでTVで読まれていた。
その延長で「事実婚と入籍した場合とでどんな差が生まれるか」というのを紹介していたけれど、それを眺めていた恋人がふいに「オレたちも頃合いになったら結婚しようね」と言ってきた。
頃合いと言っても、我々はもう30代半ばだが。既にまごう事なき晩婚の域である。
だもんで「頃合いっていつ?」と訪ねたら、「オレがもうちょっと出世したら」と返ってきた。
そうか。彼が、どことなく出世を意識しているような会話が多いのは、そういう想いも含まれているのか。
私たちは部屋のどの窓からも市役所が見えるような場所に住んでいるので、「その気になれば5分で入籍できるね」と返事をした。
なんてことない会話だったし、私自身そこまで「絶対に絶対に結婚したい!」というタイプではないのだけれど(絶対に「結婚」がしたかったらもうとっくの昔に相手を縄でしばってでも市役所に乗り込んでいただろう)、やっぱりこういうことをふいに言われると嬉しい。
ちょうど最近、YouTubeの広告で「あのさ、キミとキッチンを選びたい」とプロポーズ?するCMを見て「これいいな!」ときめいていたところだ。
「自分ならどんな風に言われたいだろうか」そんな風に妄想もしていたから、「ぐふふ」となった。
普段どれだけ「どっちでもいいや」と思っていたとしても、好きな人にそんな風に考えてもらえると表情はゆるんでしまうものなのだな。
私たちは毎日とても仲良く過ごしているので、本当は今すぐ、もうはずみで出してしまってもいいのかもしれない。
ちょうど、間もなく私たちは付き合って4年目を迎える。