はてなキーワード: 対岸の火事とは
不思議だなあ。
職場のテレビでNHK流してるからちょくちょく「避難所に物資を取りに来てください。物資をくれる人はこの住所にお願いします」ってのを見かけて、まるで冒険者ギルドやネトゲのクエストみてーなこと現実でやってんぜ……DIVISIONの世界じゃん……と驚いてたのに、次の瞬間には忘れてたっぽいな。
対岸の火事なんてこんなもんか。
いやはや人間の薄情さには恐れ入るな。
これは本当に大変なことだよ。
なにせ、いざ自分が被災した時、助けてくれるのは愛着のある人間と行政ぐらいってことだからね。
東京で地震が起きたら大阪の人は助けに来ないし、大阪で地震が起きたら東京の人は助けに来ないわけだよ。
世知辛い。
これそろそろ常識になってほしいんだけど
人は、というか動物は遠くで起こっている悲劇をエンタメ化するもんなんだよ
草食動物がサバンナで仲間が食われてるのを遠くで見物してるのとか知らない?
これってたぶんだけど、そうやって悲劇から情報を得ようとする者が生き残った結果だと思うんだよね
エンタメ化って言っても、分かっててやってる人と無意識でやってる人が居ると思うけど
配慮しなくても問題ない事象と、配慮が必要な事象に今度は濃淡が分かれてきた
それに、距離が変容することで、前は皆がワイワイやってたのに突然炎上みたいなことも起きるようになった
例えば昔のアメリカでは広島長崎の核爆弾のことを「平和な核」とか呼んでたらしいじゃん
今やったら炎上するよね
その濃淡がきれいに別れればいいが混ざった時どうなるかを想像して対策を打たなきゃならない時代なのかもしれない
ただやりすぎると息苦しくなるし困ったもんだね
やっぱ全部SNSが悪いのでは
『セクシー田中さん』見てなかったし、原作も未読。でもあの一件以降、原作者やクリエーターたちが同じような経験をしてるという話をポストしているのを見て対岸の火事ではないと感じた。みんな同じことを経験してるんだ。
私も制作する立場にいる(偉い人じゃないです)。どちらかというと原作側。
とにかく短期制作、大量生産、コミュニケーション不足。複数の現場を経験したけどどこも同じ。
基本的に原作側と制作側、そこの末端の制作者、顔を突き合わせる機会は少ないと思う。
とにかく時間がないし、脚本はわからないけど単価も労力に追いついてないと思う。
その中で私たちはどうにか軌道修正しなきゃいけなくて、それが本当に辛い、めっちゃストレス。
みんなひとりひとり、人格のある人間なので我が出てきてしまうけど、複数人でひとつのものを作る時は作品を一番に考えて、原作者がいる場合は原作が目指すところを一番に考えてやらなきゃいけない。我を出してくる人を止めなきゃいけない。
プロデューサーにはその手腕が必要だけど、制作時間の短さに対するそれに見合わない物量のせいで『妥協』が発生する。
本当は作ってる側は完璧にやりたいけど、直す時間がない。結果妥協するしかなくなる。理想から程遠いものを作られた時、それを直すのに同じくらいの時間がかかるので。
消費者が思ってるよりも一つの作品を作るのには時間と労力(そして資金)が必要なんだよね。日本だけじゃないかもしれないけど、それをあまりにもケチってる現場が多いように思う。本当に余裕がない。
昔、知り合いのドラマ制作に関わっていた人は過労死してしまった。
だいぶ前の話だけどそのときからあまり現場は改善されてないのではないか。
何を望んでいるかというと、もっと余裕をもって妥協せずに制作できる業態になってほしいということ。
労働者の身を削らないとクオリティの高いもの、理想とするものが作れないのなら、いったん全てを見直さなきゃいけないと思う。
それができているところもあれば、できていないところもあるし、現状ではそれが主流ではないと感じている。
どうしてだろうという思いをずっとしている。
私は一読者なので「そうか、芦原先生のあの素敵な作品の続きがもう二度と読めないのか」とぼんやり思っている。まだ本当に現実に起きたことなのかうまく受け入れられないでいるのだ。
本屋さんでなんの気なしに手に取ったことから始まったと思う。1.2巻だけ試しに買ったらとても面白くて母親と一緒に本屋に行くたびに買い足して親子ともども楽しんでいた。
読み始めた頃は小学生だったから正直全部を汲み取ったというより「そういうラブコメ」を見ているような感覚だった。藤くんかっこいいー、杏と大吾どうなるんだーみたいな。
でも次第に年齢を重ねながら読んでいくうちにこれはただの恋のお話ではないと気づく。主人公が何度もうまく生きれなくなる瞬間があって、その都度立ち上がったり、折れそうになったり、その生きづらさも繊細な強さにも何度も涙した。
多分砂時計を知っている人ならみんな思い浮かべるあの仁摩サンドミュージアム。
幼い頃に主人公が見上げたシーンも、大人になってから見上げたシーンもそれぞれとても印象に残っている。
主人公の記憶を追随したかった私は高校生のころ親にせがんで島根まで連れて行ってもらった。
幼少期の主人公は「たったこれだけの大きさか」と言っていたけれど私はその大きさに圧倒された。
「砂時計のあのシーンだ!」と何度も何度も上を見上げて感動の声を上げた。作品を読んでいたからこそその気持ちは何倍にも膨れ上がったのだと思う。
帰りに主人公が母親に買ってもらった同じサイズの砂時計を同じく母親に買ってもらい、とても嬉しかった。
大事に抱きしめて今でも箱まで取っておいてある。
そういう、私の私自身と、私の家族との思い出の中に砂時計はある。
それから以降の作品pieceもBread&Butterも読み、そして社会人になって「セクシー田中さん」に出会った。
正直めちゃくちゃ泣いた。
これは社会人の、いち女性であればあるほどすごく共感できてしまう漫画で、フィクションを越えて自分に置き換えて考えてしまう。とても大事な作品だった。
女性として生きていれば本当にどこにでもよくありそうな話がたくさんあった。砂時計とはまた少し違う、生きづらさがそこに描かれていた。
それでも登場人物の成長や、芦原先生によって紡がれる言葉に何度も励まされ、涙を流した。毎巻待ちきれずたまに雑誌を買うこともあった。そして実写化の話を知る。
正直私は実写化に反対だった。というのも全員キャスティングのイメージが違ったからだ。
キャストさんが悪いわけではなく、制作側が本当に本を読んだんだろうか?と思うほどあまりにもイメージが違ったのだ(漫画の田中さんはわりと骨っぽいイメージだけれど、演者さんは丸く可愛らしい感じだったりなど他にも言いたいことは山ほどある。)
それでも、私は一読者なので文句があるなら見なければいい、そういうスタンスだったためドラマの開始は知りつつも1話も見なかった。
知ってるキャストさんが何人か出ていて楽しそうにしていたけれど、「まぁイメージとは違うし、私には原作があるし」と対岸の火事だった。
だから本当につい最近まで何があったのかよく知らなかったのだ。
芦原先生のアカウントができたことを小耳に挟んでやったー!と小躍りで見に行ったらどうやらこんなことになっているようだぞ、と。
知らなかった。対岸の火事が一気に目の前まで広がって私は1人で勝手に怒り狂った。「やっぱりな!」「だから見てなかったんだよね!」「先生に辛い思いをさせるな!」など内心ぐちぐちしていた。
でもその時もこうなるとは思わなかった。
思うわけないじゃないか。
そう、だって私は芦原先生ではないので。ドラマすら見てない「対岸の火事」の人なわけで、芦原先生が辛い最中にいるとは知っていても理解していなかった。
私は見ないふりができるけど芦原先生はそれをせず向き合い続けなければならかった。
それをわかっておらず「私は原作派なので次の新刊楽しみにしてます」だなんて呑気に思っていたのだ。
火蓋が切られたのは脚本家さんのSNSだったように思う(もちろん原因はドラマ開始時から始まる、テレビ局含む地続きの話なのだけれど)。
本当にやるせない。やるせないでしかない。
もちろん誰かを責めるつもりはない。
SNSの怖さは知っている。軽く放った言葉はすぐに刃になってしまう。
先生の最後のツイートも、とても痛々しく胸に突き刺さる。だからこそやるせないのだ。
本当にたらればを考えてしまう。
ドラマ化の話がなかったら。
作者ではなく出版社が戦っていれば。
どうしてどうして。
どこかで誰かが止められなかったのかと思うけれど、何度考えても一読者の自分には何もできなかったと思うことが心苦しい。
同業の方々がそれぞれ悲しみの声を上げていて、
同じ気持ち(と言っていいかわからないけど)を抱えてくれてありがたいと思う一方で、自分勝手に辛くなってしまうのでSNSをそっと閉じた。
よくないとは思うが「会社」としてはそれぞれこれからのことを考えて欲しいと思う。
特に日本テレビの(正直自己擁護に見える)コメントには失望を超えて絶望した。
人の心ある?よくこの言葉を今言えたな、もっとほかに言い回しあったじゃん…本当にちゃんと考えてあのコメントを出したのか理解に苦しむ。
放つ言葉に責任を持って仕事をするのはメディアの仕事の範囲に含まれないのだろうか。
(まぁこんなことを言っても「一読者の私」の声なんて日本テレビには届かない。
問い合わせとかしたところでどうせ該当の人たちには届かないだろう。せいぜいコメントチェックした人が人間の感情がいきなりぶつかってきたことに不快になるだけだ)
どうしてどうしてと考えていたらこんな時間になり、朝を迎えてしまった。
何かを伝えたいとかもなく、自分の心の整理のために書いている。
ああこれから先、芦原先生の作品を見返せば素晴らしい作品だなあ!という感情以上に、
「セクシー田中さんが未完で終わってしまったこと」「先生が死んでしまったこと」を思い出してしまうんだなぁ。
島根に行って、仁摩サンドミュージアムに行っても出雲大社に行っても思い出して泣いてしまうんだ。
残される辛さを、砂時計で教えてくれたではないですか。私は今しにたい気持ちを必死に抑えられているのはその作品があったからですよ。
先生の苦しみは死で救われたのでしょうか。
天国とやらに行って何か美味しいものでも食べているのでしょうか。
私にはまだわかりませんが、そちらの世界が優しくあたたかな世界であることを願います。
そして今までたくさんの素敵な作品を生み出してくださりありがとうございます。
A:はい、まずツイッターで「井戸 毒」などで検索し、ヒットしたツイートの全てに文脈 文意を無視してコピペでお説教文を送りつける自慰行為をします。
Q:それ何か意味あるの?
A:気持ちいい
文脈 文意どころかそもそも読んですらいなくてただ目の前に存在するというだけでギャォーン突撃していくのさ
お前みたいな奴こそが、かつて井戸毒デマで虐殺を起こしてんだよ。情報を判断しようとしないから
これって考え方色々あるよね
「いや緊急時にツイッタなんて見てんなよ」ってのも正しい意見で
「なので別に、そうでないところはいつも通りでいい」とも言えるし
「それでももしかしたら貴重な情報がツイッタから入ってくる可能性はゼロではない」も正しい意見だしね
どのポジションでも尤もらしいこと言えるから、結局、各々の自由にすればいい
ただ一つだけ言えることは
何の足しにもならん「気遣えるアテクシ」というのが、3か4番目くらいにクズムーブだと思う。
それするくらいなら、リソースの節約のためにツイッタお休みがいい。これは非常に無難だよね。
不謹慎ネタで遊ぶのも、それが好ましいかどうかはともかく、法の範囲内なら自由。
でも、ここぞとばかりに「気遣えるアテクシ」アピールに利用するのはわりとクズムーブ。
大きめの地震が起きたらいつもぼくは
をやってる。
でもね、「地震に便乗して遊ぶな」ってジャスティスお説教してくる奴らが、「大地の怒り」の嘲笑を批判してきた回数は、ゼロなんですよ。
っていう思い込みなんだけどさコレも
日本人の(ここもまた大きな括りで言うのは良くないんだろうけど)感覚だと
「え?それ信じちゃうの?」みたいなことがすっげー多いように思う
そういうのが海を超えてこっちまで届いてるんだから、たぶん現地はもっと多いんじゃねぇかなぁって思う
地動説天動説の話やら、そもそもソレを信じる前提の宗教に対する入れ込み具合やら
あと最近のオイル反対派の言い分やら、某元大統領こそ救世主だと信じる層やら
なんというか、ただ話として信じてるってんじゃなくて、実際に行動に移すほど思い込んでるってのがすげぇ多いように見える
これだけ思い込めるからこそ、白人至上主義みたいな考え方とかできんのかなぁって感じるし
他の人種なんて虫と同じだしぶち殺しまくるぜみたいな気持ちに本気でなれるから強いのかなぁとも感じる
なんて適当言ったわ
でも俺はそう思い込んじまってるよ
まず最初に謝っておくとあんまり某事務所関係ない、個人の感情の吐き捨て場です
釣られた人はごめんな、他に良い言い方思いつかなくて…
要約するとクソみたいな自分語り
しかもリアル知人の誰にも言えね〜って感情を吐いてるだけなので支離滅裂だと思う、その上長い。読みにくくってごめんな
最近巷で話題の某芸能事務所の元社長(故人)が少年にセクハラ、というよりかは性的暴行を加えてたって話
私は小学一年生の頃にFF7の主人公、クラウド・ストライフに初恋を奪われてっきり
専ら2次元の美形に首ったけだった人間なので、ファンでも何でもなく
正直ゴシップ記事でそういう噂をよく聞くよね〜くらいの認識だった
性的暴行があったと一人の勇気あるタレントさんが告白して、ニュースが騒ぎ立て始めた位の時も私はまだ何処か他人事というか
事実だったら余りに酷い、大人が子供にしていいことじゃないだろ…とか、いい年にした大人の正常な感覚として思ってたけど
けどそんな酷いことする大人がいるのね、あんまりだねってニュースやネット記事が目に入るうち、本当に突然フッと思い出した。
私も子供の頃に大人に性的なことされていた、そのうえ相手は実父だった。
正確には忘れてなかったので思い出したというよりかは「あれはそうだったのでは??」という気づきを得た。
幸いにもと言っていいのか、私が受けた被害というのはそこまで深刻ではなかった
いやこういう事に深刻じゃないも何もないけど、所謂最後まで、というのは思い出す限りされてないし男性器をどうこうしろみたいなのも無かったと思う
ただ身体を触られてた、もっと正確に言うならお尻と性器を重点的に撫で回されてた。
親子なのだし、微笑ましいコミュニケーションの一環として子供の頃に一緒にお風呂に入るというのは割と一般的だと思う、その際に身体を洗ってもらうのも。
あと遊んでる最中に頭を撫でられたり抱き上げてもらったり。
私にも父とそうした記憶がある。
そういうことの延長線上に、私の場合1組の布団に一緒に入って身体を撫で回されることがあった、割と日常的に。
当時の私は4歳から7歳くらいで、それが性的な何かということは知らず
頭を撫でられたりお風呂で身体洗われたりするのとの違いも分からなかったし
なんならそれはごくごく普通の親子のスキンシップなんだろ、と思ってた
少なくとも嫌!って思ってた記憶は無い
「なんかすごいこの辺触ってくるな…」とは感じてたけど、わざわざ母親に相談したり周りの人に言ったりする事でもなかったし、そんな知識も無かった
そして私が8歳とかになると父親が身体を撫で回すことも無くなったので、自分の中で掘り返すような記憶でも無くなっていた
それから数年経って、尻だの胸だの性器だのは他人に気軽に触らせる場所じゃ無いと知っても
私がぼんやりした性分だからなのか、その時のことが普通じゃないって気が付かず
なんて言うんだろうな、親とエロを繋げる意識がまず無かったんだろうな
でも中学生くらいになって、セクハラとか痴漢とかがどこかの遠い国くらい遠い出来事じゃなくなって
例えば電車の中でお尻を触ってくる人が居る、みたいな話を聞くと「最悪の変態がいたもんだな」って吐き捨てる気持ちになったし
実の子供に性的に手を出す親が居ると知ると「とんでもないロリコン、最低な親だな」って認識してた
恐らく自分がされてたことを知り合いの誰かが同じようにされてたら「それって異常だよ!性的な虐待じゃないの?」って(相手の感情を慮らなければ)言ってすらいた筈で
社会通念でいうセクハラとか性的虐待の認識は割とちゃんとあった、と思う
ただ自分がされてたって認識が全く無くて、それを今の今まで気が付かなかった。
そしてあれから20年近く経って、今気がついた、あれは異常なことだった。
見ないふりをしてきた、とかでは無く本当に今まで気が付かなかった。
そして今漸く気がついた私の心境について。
今まで私はドラマや小説なんかで子供の頃に実父に性的なことをされていた過去の場面や設定を見て
万が一にも自分がそういう目にあったならそれはさぞ強い怒りや憎しみが湧くのだろうと思っていた
しかし実際にはそんな事は無かった。
勿論全ての人がこうじゃないだろう
そういう人達の方が余程健全だし、私の親しい人たちがもし同じ目にあったならそうあって欲しい、そして二度とそんな目に合わせた人間に近寄らず生きていってほしいと思う
ただ私の場合は、最初に先ず動揺して混乱して、それからずっと困っている。
もう怒る相手がこの世に居ない。
もしまだ父が健在で、のうのうと私の良き父のような顔をしていたのならもっと違ったかもしれないが、父はもう物言わぬ骨になっている
そのうえ私は未だに父にされた事が普通のスキンシップでは無いのだとちゃんと正しく理解出来ていない様に思う
例えば他の家庭で同じことが起きたと聞いたら「虐待に決まってんだろ、子供から離れて二度と会うなよ!」と言えるのに、自分と父親とになると途端に「虐…虐待……って程のこと……かな??いや、嬉しかった訳じゃないし、同意もクソもなかったけども…………」みたいな歯切れの悪い、どこか言い訳したいような感情になる
自分が虐待を受けた、というのがどうにもすんなり受け入れられない
でもじゃあそんなこともあったけど私は元気です!!オールオッケー!と割り切って全てを許せるのかと言えばそうも出来ない、どこかで許せないなとも思う
子供が何も知らないのをいい事に大人が性的な意図でもって触れる事を許してしまえる社会は嫌だな、とも。
もし私の父が性的な触れ方をする以外にも暴力を振るったり金遣いが荒かったりする、どうしようもない父親なら
そうしたら私はきっともっと簡単に恨めたし「クソ親父」と口汚く罵り、彼の墓に狼藉も働けただろう
けど、確かに物心もつかない年頃の娘の性器を撫で回し、目の前でエロ動画を見て
母親に浮気を見て見ぬふりしてもらうようなどうしようも無いドスケベ親父だったけど
それでも陽気で楽しい父親だったと思っている、思いたい自分が居る、未だに。
長距離トラック乗りだったから一緒に過ごした時間はそれ程多くないけど、クソオタクの娘にも理解のある
娘の手作りとも呼べないような卵焼きで1日機嫌が良くなるような
自慢でも無いけど悪し様に罵るほどでは無いそんな父親だったのだと。
生きていれば、一言「とんでもないことをしてくれたな」と吐き捨てられたなら、こうも複雑な気持ちにならずに済んだのだろうか
それとももっと苦しんだんだろうか
想像してみるけれど、やっぱりまだよく分からず、気持ちの置き場に困っている。
いつかハッキリスッキリ、私の中で答えが出る日がくるんだろうか、来ない気がするな。
某芸能事務所のタレントさん達はどうしてもっと早くに被害を訴えなかったのかという声を聞くと
きっとそれぞれの立場や考え、いろんな要因は多々あれど、その中には私のように自分がされたことをどこかで正しく認識できない人もいるのでは無いかな、なんて愚考したりする。
子供は大人のことを、決して間違えない生き物だと思っている節があって
自分に近しい大人であればあるだけ、自分を傷つけるわけが無いのだと信じたい
だから何か酷いことをされても「無かった」ことにしたい、あるいは本当に「無かった」のだと思い込む
いつか正しく事実を認識することがあっても、与えられたものが苦痛だけじゃないと憎みきれなくてでも無かったことにして許しきれるわけもなくて、どうしたらいいのか分からないままずっと苦しむ。
某中古車販売店の恫喝LINEなんかを見ると、またこのパターンだなと思う。
あらゆる洗脳によって身近な人間が何人も姿を消していった増田なりに考えた洗脳についての話です。
洗脳と聞くと誰か特定のターゲットに行うものと思われがちだけど、実はそうでもなかったりする。
例えばカルト宗教を思い浮かべてもらえるとわかりやすいのだけど、来た人間全員を洗脳しようとは思ってはおらず、間口は広くしておいて洗脳に引っかかった人間だけが残るような仕組みになっている場合の方が多い。
つまり、「Aを洗脳しよう!」ではなくて、「A、B、C、D、E、Fにそれぞれ洗脳を試してみて、B、Eが洗脳に引っかかったから次はより強い洗脳を試そう。」といって絞り込んでいくような感じだ。
なので、洗脳というのは割りと結果論的な側面が強いパターンが多いよというか、むしろほとんどですよということをまず知ってもらいたい。
言い換えれば、誰にでも効果が期待できる洗脳を追い求めるよりも、洗脳にかかりやすい人を探したほうが早いよということ。
某中古車販売となんの関係があるの?と思うかもしれないけど、恫喝は典型的な洗脳の手段だと思ってください。
洗脳とは、簡単に言えば相手を自分の意のままに言うことを聞くようにすること。
逆を返すと、どのような状況であれ自分の意のままに言うことを聞くようになっていれば、それは洗脳が成功しているとも言える。
この違いは何かというと、そこに本人の納得は必要ないという点。
宗教のように心から相手を信頼してしまうパターンもあれば、自分は納得していないけど大きな借金があるから言うことを聞かざるを得ない状況というのも、等しく洗脳されている状況といえてしまうのだ。
手段や関係性はどうであれ言うことを聞く状況になってさえいれば、それは洗脳において成功と考えてなんの差支えもない。
恫喝というのは世間一般で考えればどう見ても間違ってる行動だ。
それによって離れる人間もいれば、自分が悪かったと受け入れる人間が出てくる。
さらに言えば、恫喝された他の人間の反応を見て自分も恫喝する側に回れば支配する側に回れると考える人間だっている。
一度くらいなら自分が悪かったと思ってこらえる人間がいるかも知れないが、それが当たり前に何度も続けば結局は残った人間は恫喝を受け入れた人間だけということになる。
つまりこの状況は、恫喝という非常識的な行為を繰り返すことによって、それでも言うことを聞く人間だけに絞り込めた状況と考えて差し支えがない。
そこに言うことを聞くようになった理由は必要ない。言うことを聞くという事実こそが重要なのだ。
洗脳する側にしてみれば言うことを聞く人間だけ残ればいいのだから、まともな判断力を持った人間はむしろ不要で、恫喝を受け入れた人間だけでなくそれを理解した上で利用する側に立った人間だって必要な人間だと言える。
この点も、信仰の強い信者だけでは宗教が広がっていかないのと同じで、同じような手段を理解した上で行使できる宣教師も必要だということと非常に近しい。
なぜ恫喝を受け入れざるを得なかったのか、その部分を説得や集団心理などを利用して騙していくことを洗脳だと考えている人も多いだろう。
しかし、それが最初にいった洗脳に対する誤解が多い部分でもある。
そこを自分たちで説得するよりも、注文の多い料理店しかり、正常性バイアスで受け入れてしまう人間を探したほうが早いと言うのが現実だ。
それならば、まずは相手がどのような考えを持っているかを知るよりもさっさと恫喝してしまったほうが結果は早いのだ。
某中古車販売店で言えば、その点において用意したものと言えば高い報酬と人間的成長くらいであろう。
ただし、人間的成長は逆説的に行なえない側を幼稚とするものだったと思われるが。
それでも納得しない人間たちを説得するよりは、ついてきた人間だけを選んでいったほうが遥かに効率がよいのだ。
今回はたまたまトリガーになったわかりやすい例が恫喝だったが、増田自身は勝手にそれを裸踊り的儀式と呼んでいる。
しかし、洗脳されている人間にしてみればありとあらゆる理由をもって裸踊りをする自分を肯定できてしまう状況にある。
つまり裸踊り的儀式とは、洗脳の手段ではなく洗脳度合いの効果測定を目的としている。
はじめから裸踊りをさせるわけではなく、最初はもっと小さなことから行われる。
人前で大声を出すとか、駅前を掃除させるだとか、普通ならやらないようなことに何かと理由をつけてやらせてみるのだ。
それでもし言うことを聞くようであれば、次のステップへと進む。
離脱してしまえば仕方ないし、迷っているようであれば背中を押すような理由を用意する。
そうして少しずつ洗脳の効果測定をしては、思い通りに動く人間を選別していくことが洗脳の本質であると考えている。
そういう意味では、落ち葉掃除のために誰もが犯罪だとわかるような枯葉剤をまいてしまうという行動も、すっかり洗脳が浸透している状況だったとも言えよう。
裸踊りには、周囲から奇異の目を向けられることによる社会的孤立という副次効果もある。
社会的孤立によってその2つから遠ざけることができれば、より洗脳をしやすくなるのだから選ばない手はない。
つまりは、ここが洗脳から助け出せる最後の分水嶺だとも言える。
もし何か怪しい方向に進んでいる近しい人がいるならば、突然社会的孤立につながるような行動が増えたときは要注意だ。
それが公序良俗に反していないだけであって、誰もが最初はおかしいと思うようなことでも、いつかは望んでするようになるし人に勧めたりもするものだ。
一部の体育会系運動部が好んで行う人前での奇行なんかはまさにこれだ。
過去に体育会系大学出身の人材が就職に好まれたのも、すでに洗脳されやすい土壌が学生生活の中で作られていたことが理由であろう。
そして何もこの話は対岸の火事ではない。
むしろワンマン経営者の中小企業に多いし大手学習塾でも当たり前のように見られる。
それ自体を悪だとは言わないが、仮にこの裸踊り的儀式の兆候が見られたときはそれより先に進むべきかどうかは必死で悩むべきだろう。
人間が自分の意志だけですべてを決定できるとは思っていないが、誰かの欲を満たすための道具にされることを望んでいる人なんていないはずだからだ。
興味深い、というような気がしてくる。
.
ええと、どこかの段階では自分の場所を作るべきなんだろう。ただ、今はここに書き記しておきたい。
.
今起きているフランスの暴動――黒人系・アラブ系二世に対する日本のコメント欄での無理解と、暴動を起こす側の無理解はよく似ている。
.
前トランプ大統領がその流れを「生んだ」というわけではないだろう。むしろ、議事堂襲撃や退任によって世界的な流れは若干緩んだかもしれない。
.
ロシアはどうだろう? どちらかと言えば、無理解は加速したが中国の拡張主義の速度は緩んだと言える。
そう、中国はと言えば国内の急速な失業率悪化が報じられている。まぁ、その原因は欧米と同じく「日本化」、いわゆる人口問題による先進国の老化ではあるのだが。
.
新型コロナは明けたが、それでも世界はより悪くなっているのだろうか?
.
答えは、わからない。そもそも「より悪くなっている(気がする)」というのが100%個人の主観による感想だからだ
そして客観的な研究によると、『FACTFULNESS』が何年か前にこれをテーマとしてベストセラーになったが、
「世界はより良くなり続けている」のだという
https://www.gentosha.jp/article/23545/
他にも、同様の研究がある。「昔はよかった。今はダメだ」と、紀元前の古代シュメール人の粘土板にすら書いてあるという。
エジプトのピラミッドにも「最近の若い者は」と落書きがある、というのはネットミームだそうだが、そう遠く外してもいなかったわけだ。
https://newspicks.com/news/6972076/body/
.
「世界はより良くなり続けている」とはどういうことか?
すなわち、世界の乳幼児死亡率、栄養失調率、極度の貧困率、乳幼児のワクチン接種率及び病死率などはいずれも改善されているということだ。
.
そして、人間の脳には本来「世界はより悪くなり続けている」と考える仕組みが備わっている。
より厳密には、「昔の記憶を良い思い出に書き換える」「現在と未来について悲観的な予測をする」「恐怖やネガティブな要素を重要視する」といった本能だ。
いずれも、昔のことはポジティブに考えて悪いことはさっさと忘れた方が健康的だし、危険を悲観的に予測し、重要視して避ける。
.
その辺りは『FACTFULNESS』本編の序章に詳しいのでここまでにするとして、
ではそれを前提にすると? 少し興味深い見方もできる。
.
つまり、「世界の荒廃も一時的で、一側面的で、見方によるものでしかない」のだとすれば?
.
たとえば戦争。ロシア-ウクライナ間で起きていることは悲劇だ。
だが、統計的にはどうか。約35万人の死傷者数と見積もられている。
1980年代のイラン・イラク戦争では約100万人以上。しかし、世界の人口総数が当時は44億人、現在は80億人を超えていることを鑑みると、
「人間一人当たりの死の悲劇性は半減しているのだから、状況は統計以上に改善している」と考えることもできるかもしれない。
まぁ、世界人口総数あたりの戦死者比率は間違いなく減少している。
.
何故なら、本能や直感とは反する結果だからだ。とても科学的だ(科学史では直感に反する事実がしばしば証明される)。
.
もちろん、日本の経済や人口問題、「先進国の老化」、人種差別、などなどの諸問題は間違いなくある。
.
一つには、「今は揺り戻しのターン」だという捉え方がある。
そもそもが、一つ前の時代の悲劇とは世界大戦であり核戦争寸前の冷戦である。それに比べれば、まぁ差別も暴動もテロも局地的戦争も、大した問題とは言えない。
歴史的にはヨーロッパでは毎日のように戦争を起こしていた時代もあるのだし。
.
冷戦終結から2010年代まで、長らく続いた平和の次の「戦争の、あるいはネガティブのターン」だと捉えることもできるだろう。
.
冷戦終結から2010年代までを最も幸福に過ごしたのは、やはり先進国の人間だろう。
日本もまた、高度経済成長期からバブル崩壊辺りまでの期間はきわめて幸福だったに違いない。
.
だとして。そうした時代の主役ともいうべき人々が、舞台を他に譲るのだとしたら?
.
西側諸国の次はアジア、その次はインド、その次はアフリカ……と、予測されている。人口動態からは。
それが、「次のターンで幸福になる人々」なのかもしれない。
まぁ、その理屈になる場合はアフリカの番が来るのは次の次、ぐらいなのだろうが。
.
世界は改善され続けている――それは、言い換えれば、「今見えている景色よりも過去は遥かに地獄だった」ということを保証するに過ぎない。
もっと言うなれば「過去の一時点は現在よりもネガティブな要素があった」と言うべきか。縄文時代の労働時間は2-3時間だったらしいのだし。
『サピエンス全史』は「農業を人類史上最大の詐欺」と語り、科学は素晴らしき発明だと言う。
.
「その時代に最も幸福な人々」が語る言葉は、真実であると同時に欺瞞なのでは?
.
つまるところ。荒廃も幸福も、大した違いなどないのかもしれない。
だからそれが、興味深いと思った。
.
その二つに大差がないのなら、あるのはパターンの違いであり、ディティールの異なる時代像なのだろう。
それは、面白いと思わなければ損だ。
.
だが結局のところ、人は自分の見たいように世界を見るし、それは一つの観点としては真実なのだ。
.
迫害される黒人・アラブ人にとって「世界は極めて攻撃的」だし、
そのどちらでもなく平穏な母国で暮らす黒人・アラブ人の人々にとっては対岸の火事にすぎない。どうだっていいことだ。
.
幸福だと思う人にとって世界は幸福で、悲劇だと思う人にとって世界は悲劇的だ。
ならばどこまで行っても、最初からそんな世界は喜劇的なのだろう。
.
興味深く、楽しむべきなのだろう。
.
興味深い、というような気がしてくる。
.
ええと、どこかの段階では自分の場所を作るべきなんだろう。ただ、今はここに書き記しておきたい。
.
今起きているフランスの暴動――黒人系・アラブ系二世に対する日本のコメント欄での無理解と、暴動を起こす側の無理解はよく似ている。
.
前トランプ大統領がその流れを「生んだ」というわけではないだろう。むしろ、議事堂襲撃や退任によって世界的な流れは若干緩んだかもしれない。
.
ロシアはどうだろう? どちらかと言えば、無理解は加速したが中国の拡張主義の速度は緩んだと言える。
そう、中国はと言えば国内の急速な失業率悪化が報じられている。まぁ、その原因は欧米と同じく「日本化」、いわゆる人口問題による先進国の老化ではあるのだが。
.
新型コロナは明けたが、それでも世界はより悪くなっているのだろうか?
.
答えは、わからない。そもそも「より悪くなっている(気がする)」というのが100%個人の主観による感想だからだ
そして客観的な研究によると、『FACTFULNESS』が何年か前にこれをテーマとしてベストセラーになったが、
「世界はより良くなり続けている」のだという
https://www.gentosha.jp/article/23545/
他にも、同様の研究がある。「昔はよかった。今はダメだ」と、紀元前の古代シュメール人の粘土板にすら書いてあるという。
エジプトのピラミッドにも「最近の若い者は」と落書きがある、というのはネットミームだそうだが、そう遠く外してもいなかったわけだ。
https://newspicks.com/news/6972076/body/
.
「世界はより良くなり続けている」とはどういうことか?
すなわち、世界の乳幼児死亡率、栄養失調率、極度の貧困率、乳幼児のワクチン接種率及び病死率などはいずれも改善されているということだ。
.
そして、人間の脳には本来「世界はより悪くなり続けている」と考える仕組みが備わっている。
より厳密には、「昔の記憶を良い思い出に書き換える」「現在と未来について悲観的な予測をする」「恐怖やネガティブな要素を重要視する」といった本能だ。
いずれも、昔のことはポジティブに考えて悪いことはさっさと忘れた方が健康的だし、危険を悲観的に予測し、重要視して避ける。
.
その辺りは『FACTFULNESS』本編の序章に詳しいのでここまでにするとして、
ではそれを前提にすると? 少し興味深い見方もできる。
.
つまり、「世界の荒廃も一時的で、一側面的で、見方によるものでしかない」のだとすれば?
.
たとえば戦争。ロシア-ウクライナ間で起きていることは悲劇だ。
だが、統計的にはどうか。約35万人の死傷者数と見積もられている。
1980年代のイラン・イラク戦争では約100万人以上。しかし、世界の人口総数が当時は44億人、現在は80億人を超えていることを鑑みると、
「人間一人当たりの死の悲劇性は半減しているのだから、状況は統計以上に改善している」と考えることもできるかもしれない。
まぁ、世界人口総数あたりの戦死者比率は間違いなく減少している。
.
何故なら、本能や直感とは反する結果だからだ。とても科学的だ(科学史では直感に反する事実がしばしば証明される)。
.
もちろん、日本の経済や人口問題、「先進国の老化」、人種差別、などなどの諸問題は間違いなくある。
.
一つには、「今は揺り戻しのターン」だという捉え方がある。
そもそもが、一つ前の時代の悲劇とは世界大戦であり核戦争寸前の冷戦である。それに比べれば、まぁ差別も暴動もテロも局地的戦争も、大した問題とは言えない。
歴史的にはヨーロッパでは毎日のように戦争を起こしていた時代もあるのだし。
.
冷戦終結から2010年代まで、長らく続いた平和の次の「戦争の、あるいはネガティブのターン」だと捉えることもできるだろう。
.
冷戦終結から2010年代までを最も幸福に過ごしたのは、やはり先進国の人間だろう。
日本もまた、高度経済成長期からバブル崩壊辺りまでの期間はきわめて幸福だったに違いない。
.
だとして。そうした時代の主役ともいうべき人々が、舞台を他に譲るのだとしたら?
.
西側諸国の次はアジア、その次はインド、その次はアフリカ……と、予測されている。人口動態からは。
それが、「次のターンで幸福になる人々」なのかもしれない。
まぁ、その理屈になる場合はアフリカの番が来るのは次の次、ぐらいなのだろうが。
.
世界は改善され続けている――それは、言い換えれば、「今見えている景色よりも過去は遥かに地獄だった」ということを保証するに過ぎない。
もっと言うなれば「過去の一時点は現在よりもネガティブな要素があった」と言うべきか。縄文時代の労働時間は2-3時間だったらしいのだし。
『サピエンス全史』は「農業を人類史上最大の詐欺」と語り、科学は素晴らしき発明だと言う。
.
「その時代に最も幸福な人々」が語る言葉は、真実であると同時に欺瞞なのでは?
.
つまるところ。荒廃も幸福も、大した違いなどないのかもしれない。
だからそれが、興味深いと思った。
.
その二つに大差がないのなら、あるのはパターンの違いであり、ディティールの異なる時代像なのだろう。
それは、面白いと思わなければ損だ。
.
だが結局のところ、人は自分の見たいように世界を見るし、それは一つの観点としては真実なのだ。
.
迫害される黒人・アラブ人にとって「世界は極めて攻撃的」だし、
そのどちらでもなく平穏な母国で暮らす黒人・アラブ人の人々にとっては対岸の火事にすぎない。どうだっていいことだ。
.
幸福だと思う人にとって世界は幸福で、悲劇だと思う人にとって世界は悲劇的だ。
ならばどこまで行っても、最初からそんな世界は喜劇的なのだろう。
.
興味深く、楽しむべきなのだろう。
.