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はてなキーワード: 公共圏とは

2019-10-18

anond:20191018203525

煽り運転とかされたらシバくに決まってんでしょーが(法的にも)

萌え絵とかオタク系統の絵柄が問題になるたびに思うんだけど、公共圏に見せた結果「えっ…私こんなのちょっとエッチすぎるんですけど…」っていう人が現れてその一部が文句言ったからと言って、それを「煽られた」とか「存在のもの否定された

」と感じるオタク一定数いるんよね。決してそういうわけではないというか、そりゃ世の中にはオタク絶滅を願う派閥も依然としてあるかもしれないが、大事なのはそういう勢力との無駄な衝突を避けて共存していくことではないかと思うんですけどね。

最終的にオタク絵にだれも文句言わなくなるまで粛清するというのも躊躇われるというか、そんなことにはならないだろとも思うし、少なくとも今はオタクが強すぎるんじゃないかと思ってるんですけどね。まあ所詮こっちも積極的に何かするわけではない戯言なので、不快だったら無視してくだされ。

anond:20191018195219

俺も見たくないけど見たくないか公共圏から排除して良いという理屈には全く賛成出来ないので。

anond:20191018131310

萌え絵客観的にどうこうという議論は常に違和感あるが、不快に思う人もいるので公共圏にふさわしくない、というので十分ではないのかといつも思うんだけど。腹パンとか子宮脱とかの超ニッチジャンル表現ならさすがにまずいとみんな思うわけで、企業とか自治体とか的にはBLやら美少女やらはギリギリイケるやろ!ってなりつつある空気なんだろうけど、いやイケないんでは?という感覚を共有できないものか。

というか二次元で抜くタイプオタクとしては公共圏萌え絵とか気まずくて見たくないのよ。ああいうの決めてる人はオタクでもなくて「こういうのがウケるらしい」としか思ってないわけでしょう。こっちからしたらオカズからねそれ。

ニッチ表現だと言われるのってそんな嫌か?という感じしかない。あんま表に出さんでほしいわ。

2019-04-25

https://togetter.com/li/1341322

「ご恵贈頂きました」という類いの呟きに寄せた郡さんの「呟き」は、書物出版するという行為人脈作りのように扱うことへの反感をこめたものだ。その底流にあるのは、書物という存在に対する畏れ、敬意、尊重するという「しぐさ」であり、それが彼の出版人としてのスタンス根本に関わる問題であることが伺える。

一方で「その呟きを批判することが自由言論流通を阻害する」と批判する小林さんの意見は、これも書物を狭い公共圏所属物にしてしまうことへの嫌悪彼女なりの書物未来への希望に基づく批判だと考えられる。書物もっと自由で開かれたものであるべきだ、という思想もまた、彼女出版人としての根本に関わるテーゼなのだろう。


両者の意見を踏まえた上で、その対立について、それから、切り取られた「クッキーでも焼いて…」という言葉について意見を述べたい。

まず、両者の意見はまさに「意見表明すること」に対する価値観を異にしているため、おそらく折り合う点がない。郡さんは「世界に向けて意見を述べるとは、反論批判を受けて立つ覚悟に基づくべきものであり、それは神聖行為だ」と考えているのだろう。そういう覚悟のないおしゃべりによる人と人の繋がりを一段低いものと見て、Twitterなどの道具を使ってそれをすることを否定するほど狭量ではないものの、自分が心を込めて関わっているものをそんなことの道具に使う行為に対しては嫌悪感を覚える、というスタンスだ。たとえて言うなら、陶芸家が「いまプレゼントに最適なカップ特集とか見て、苦虫をかみつぶしているような感覚だろう。

一方の小林さんは、おそらくそういうスタンスもつ世代の「本」作りには未来がないと踏んでいる。彼女彼女なりに出版未来書物未来を憂えていて、むしろ前世代の人が気軽な交流の場に本を持ち出すことに苦言を呈すること自体が、書物未来を奪うものとして気に入らないのだろう。たとえて言うなら、その陶芸家の息子が、自ブランド社長として上手にブランディング戦略をして「プレゼントに最適なカップ特集に○○印のカップ掲載してもらっているようなものだ。

……とまとめれば分かってもらえると思うが、こんな二人の話が折れ合う地点など最初からない


私が問題だと思うのは、こんな折れ合わない二人が触れ合い対立してしまうことを、いまのTwitterの仕組みはプラスにできず(論争が深まる余地がないので)、足を引っ張り合うこと(炎上)にしか繋げられない点だ。SNSは人と人の距離をぐっと近づけたが、ブログvsブログならまだ存在した対話余地を、Twitterは残さない。そしてそれを煽るのがtogetterのようなまとめサイトで、まさに郡さんの思うような「編集」という行為恣意性や恐ろしさに気付かないまま、面白おかしく「炎上やすそうなポイント」に絞ってページ作成者対立煽り社会全体の生産性を下げている。私は、この二人はそれぞれのポジション自己お仕事に邁進していただいたい方が、なんぼか日本世界の、そして書物未来のためになると思う。


今回の対立は「クッキーでも焼いてフリマで売ってろ」という郡さんの売り言葉に対して「性差別的な発言感情的な口調」と小林さんが受けたところから本筋を逸脱した。郡さんの文脈でこの売り言葉を読めば、それはつまり「(書物の怖さを尊重せず交流価値だけに可能性を見出すなら、書物という作るのも受け取るのも恐ろしいものに手を出さず、安全な)クッキーを焼いてフリマで売って(好きなだけ「素敵ー」とか言い合ってぬるい交流をす)ればいい」という意味であるのは明白だしブラック気味のジョークとして受け取れる範疇揶揄であったと考えるが、小林さんはその文脈を外して「(自分女性からクッキー焼け、つまり社会に出てくるなという話になるのか、つまり性差別」でありかつ「(性差別的な発言不用意に侮辱的に投げかけるほどあなたは)感情的だ」というレッテル貼りを行って、話を泥沼化させた。あとは、Twitterに住む蝿がよってたかってブンブン言わせて、事態は無事小学校の学級会へと堕していった。


郡さんのそのブラック口調が不用意だったのか、あるいは(かねてから似たような目に遭ってきたと想像される)小林さんの受け取り方がよくなかったのか、そこは今更問うまい。両者がその間の事情をそれぞれ忖度すべきだったというほど、両者に重い責任を負わせようとも思わない。ただ、いずれにせよ、両者はTwitterなどという軽い軽い場で議論じみた交流をすべきでなく、ただお互いの仕事に努めた方がずっとよい。陶芸家とその息子、ハッキリ言えば話すだけ無駄だと思う。

これまで何度も繰り返されたこういう出来事出会うべきでない二人をお節介にも出会わせて無益対立を生み、あまつさえそれを見世物にする!)をシステム上で防ぐ仕組みができない限り、いずれTwitterは信頼も人心も失っていくだろうと思う。

2018-10-10

新潮45千田氏も卑怯

新潮45千田氏も、本当に言論議論価値を信じているのなら逃げるべきではなかった。

新潮45は反対意見を自ら誌上に載せるべきだった。

千田氏は有象無象反論するのは無理でも、一人を選んで対談するなどの方法をとれば、論を深めることができた。

俺は放言するなとは言わない。だがそれならば、言論の自由や公共圏のような自分で実行出来ない大義を掲げるべきではなかった。

2018-10-08

anond:20181007100642

横ツリーに並べて更に横からですが・・・

お互い「理屈に合わないこと言ったら負け」という信頼感

この信頼感、というかお互いに認識しあっているルールが、元増田の言っている「入場パス」の要件なのでしょう

「入場パス」の存在を疑うのが自由主義なので、というか

理屈に合わない事を言ったら負けというルール理屈が強い人間しか有利にならないけどそれは弱肉強食世界じゃないの?」

という論建てで合理性が疑われているので、

ルールを守らない人も公共圏に参加する。そして地獄になる・・・という流れだと思う

2018-10-05

市民的公共性存在する(が千田氏の思うようなものではない)

辞書的に言えば「市民的公共性とは、ハーバーマスが『公共性構造転換』(1962)の中で提唱した概念ホルクハイマーらの『人間の理性が頑張っても幸せにならないんじゃないの? だってナチスとか出てきたし』という悲観に対するカウンターとして提出された。ハーバーマスにとっての公共性人間自由平等連帯幸せになっていくためのベースとして存在している」といった感じ。

~性というのはいかにベースとして弱そうだが、ドイツ語のÖffentlichkeitは「Public sphere=公共圏」と訳すこともできるというかこっちのほうが適切だと最近は言われている。なので以下では基本的公共圏統一する。

で、市民公共圏って一体何よ?

それはハーバーマス自身もよくわかっていないようである。その証拠大学図書館には「公共圏ってたぶんこういうのだと思います(こういうものだったらいいな)」という本が溢れている。たぶん最大公約数的には「まあみんなで議論する場は必要だよね」というあたりで理解されている。

しかし、この「みんなで議論する場」というもの曲者である人類の大半の歴史上、「みんなで議論する場=公共圏」には男性だったり社会的強者だったりという入場パス必要だった(今でもそうかもしれない)。しかしそれは今日価値観から見れば明らかに間違っていたわけで、その間違い(入場パス)と長い間仲良しだった概念自由幸せ社会ベースに据えていいのかという問題がある。

ハーバーマスは彼が理想とする市民公共圏がどういうものであるかは、少なくとも『公共性構造転換』の中では(たぶんそして今日に至るまで)ふわっとしたことしか言っていないのだが、どういうものでないかはこれ以上ないほどに詳しく論じている。一見いかにも学者らしい無駄っぽく思えるが、「こっちに行ってはいけない」というガイドブックでもなにもないよりはましである。たぶん。

本稿では、「昔の(入場パスつきの)公共圏にはこのような批判がありました」とハーバーマスが論じている部分を検討し、その批判千田氏の立場にブッ刺さっていることを確認する。その結論として、千田氏の「市民的公共性」という用語用法いかに不適当ないしド適当であるかを示す。

ヘーゲルによる公共圏批判

以下ではハーバーマス細谷貞雄山田正行訳)『公共性構造転換』の第四章 第一四節「公共性弁証法によせて――ヘーゲルマルクス」に基づいて議論を行う。

ヘーゲルは入場パス公共圏関係を真っ先に疑った人であった。とはいえヘーゲル最初からブチ切れたりはしない。「公論公共圏における論議、もしくは公共圏のもの)っていいよね、合理的だし」というところから話を始める。でもその合理性って自由主義がベースになきゃ成立しないよね?(みんなが自由意見を言えることが前提なので)、でもその自由主義って本当に公共圏とそこまで相性いいだろうか?とヘーゲルは問う。考えてみればこの矛盾は明らかである。司会のいない多人数の会議を考えてみればよい。地獄である。間違いなくそこに自由はある。なのに(だから?)地獄である

このことの地獄性は会議室を超えて社会とか国家とかのスケールになるとより増す。例えば少数者差別を考えてみればよい。これはみんなに「自由に」議論させてるだけではそもそも議題にすら上がらないだろう。そうして公論きらきらした合理性の賜物から「多数者の主観的私念」という水準へと転落する。公論は「自然に生じた不平等止揚するどころか、むしろこれらを技能財産さらには知的倫理的教養の不平等まで深めていく」。入場パスを持っていない人はより不利な位置に、持っていても少数派の人もまたより不利な位置に、公論によって追いやられる。

まあとはいえ人間も頑張るもので、法治国家とか市民社会とかを作って頑張って公論して私念から理性に支配権を移そうとするのだが、ヘーゲルいわく土台が腐っているのに頑張っても泥縄だそうである。そうした頑張りはむしろ国家主観的私念を入り込ませる結果になるとヘーゲルは言う。じゃあどうすりゃええのよって言えばヘーゲル最初から開き直って身分制国家を作れとか言ってそれに対しマルクスがいや社会主義でしょとか言って最後ハーバーマスがいや公共圏を作んなきゃダメだよとか言うのだが、そのあたりは略する。

ともかくにもハーバーマスが描く市民公共圏というものは、こうした批判スルーしては論じることができない。ここで重要なのはハーバーマス公共圏をどのようなもの「ではない」と考えていたかということである。以上見てきたようなヘーゲル理論は最終的に乗り越えられる(ということになっているが詳しいことはやはり不明)のだが、であるからこそ少なくともヘーゲル批判したそのままのことをやるのがまずいというのはわかっている。

千田氏は何をしたか

まさにヘーゲル批判した地獄公論インターネット上に出現させようとしているのである

私自身は「表現の自由」は国家から規制されるべきものではない、とは思う。でもそう思うからこそ、国家から規制されるまえに、「市民的公共性」を発達させないといけないと思うんですよ。

あと表現って、さまざまな他者への配慮のなかでこそ磨かれていくものだと思う。フリーハンド表現なんてない。https://twitter.com/chitaponta/status/1047451777220501504

市民的公共性の話って、ハーバーマスのつもりだったんですが…。https://twitter.com/chitaponta/status/1047789073471946752

市民的公共性対話によるものですから、そのことを話し合うことが大切だと思います

いままさに起きていることが、市民的公共性なのではないでしょうか?https://twitter.com/chitaponta/status/1047810256976269312

まず第一に、専門用語を「」で括って注釈なしに使うのはおよそハーバーマスの「市民的公共性」的態度ではないといえる。なぜならこれこそヘーゲル批判した「自然に生じた不平等を(略)知的倫理的教養の不平等まで深め」る態度にほかならないかである

そして第二に、ハーバーマス議論は上のような「話し合えばそれが公共性」というような安易理解を拒絶するものであるということを千田氏はまったく理解していない(か理解していても無視している)。上で見たヘーゲルによる公共圏批判からもわかるように、ハーバーマス議論は「公共圏にはあれやこれやそれや…の批判があるけど、でも、それでも公共圏がなければ人間幸せにはなれないんだ」というひねくれたものであり、単に「話し合いが重要だよね」と言っているのとは違う。仮に結論は一緒だとしてもやはりそれは違う。その違うものを一緒くたにして、専門外の人に「話し合い=市民的公共性」という理解(そんな人のいい理解をしている人はほとんどいないようだが仮に字面だけ虚心に読んだとして)を植え付けることが、ほんとうにハーバーマスであるといえるだろうか?

第三に、「思う」根拠が示されてない。少なくともハーバーマスは「国家規制を前もって回避するために市民公共圏を発達させるべきである」というような具体的な議論はしていないはずであるであるとすればこれは千田氏のオリジナルアイディアが含まれているはずであるのだが、それがまったく説明されていないのと、先に述べたようにそもそも専門家間ですら扱い方に差がある「市民的公共性」という単語のせいで、最初ツイートの二文目は全く意味不明ものと化している。原理的に誰にも意味が伝わらないはずのもの炎上しているのはお気の毒というほかないが、であるからこそ千田氏は「市民的公共性」の意味と「思う」理由をしっかりと説明してほしいと思う。

2018-09-09

anond:20180909155048

日本の歴史上「パブリック」とか「公共圏」というもの存在した試しはないゾ

あるのは内輪と世間の二分法だけ

2018-05-19

ロリコン権利向上に向けられる差別意識理解できない

twitterで、ロリコン権利向上を訴える人に向かって、子供大人権力構造があるから云々と的外れ非難を浴びせ、それに反差別リベラルを掲げる面々が賛同リツイートしまくってたのが気味が悪くて限界だった。もうほんとおめーらのそのロリコン差別意識をどうにかしろよ。

実在の子どもとセックスするのは(たとえ子どもの「同意」があっても)犯罪オーケー。異存はない。

実在の子どもを被写体にしたポルノは取り締まられねばならない。オーケー。別件捜査の口実になるとかそういう運用上の懸念はあるが、単純所持禁止それ自体異論はない。

個人的には2回目までは廃棄命令で済ませて3回目以降はじめて送検するというスリストライク方式でもいいんじゃないのと思うが、それは処罰のやり方への異議であり単純所持禁止のものには賛成する)

ゆえにロリコンに冷たい目が向けられるのは仕方ない。これは差別ではない。ホワット? ちょっと何言ってるのかわからない。

ロリコンだろうがゲイだろうが成人に欲情する異性愛者だろうが、子どもセックスしたり子ども被写体にしたポルノを持ってはいけない。この主張は明瞭でまっとうだ。

なのに、なぜそこにロリコン差別を混ぜ込む必要があるんだろう?

子どもレイプした男が「いや俺には同年代の妻がいるし、学生時代も同年代の人とばかり付き合ってきたから、俺はロリコンじゃないんだ!」と言ったら罪を軽くすべきとか思うの?

小児にしか欲情できない、というのは、異性にしか欲情できないとか、同性じゃないと性愛対象として見れないとか、どんな人をも性的欲望対象にできないとか、そういったものと同じ、単なる性指向一種にすぎない。

その属性をまとめて蔑視し、彼らの権利向上に反対するのが差別じゃなくてなんなんだろうか。こんな主張が反差別リベラルの側から流れてくるというのは、反差別を掲げるリベラリストとして地獄感がある。

ゲイは対等な相手恋愛セックスすることが可能だけど、ロリコンはそうじゃないかゲイとは違う」という議論もある。

えっ? ゲイの人たちが求めてたのって「好きな相手と堂々と恋愛セックスする権利」だけだったの? 違うでしょ?

ゲイであるからといって社会的差別されない、ゲイ向けの表現ゲイ向けであるという理由排斥されない、ってのもゲイ権利向上で、ロリコンがそれらの権利を求めることはまったくおかしくないよね。

それこそゲイの中にも非モテとか結婚する気のない人とかはいるだろうけど、だからといって彼らは同性婚には縁がないんだからゲイ権利向上を訴える理由はない、なんてわけがない。

もっと言えば、仮に実際のロリに手を出したやつだったとしても、ロリコン差別に怒っていいんだよ。男をレイプしたゲイだってゲイ差別に怒る権利があるのと同じ。

なぜなら、そいつらの罪はレイプしたことであって、ロリコンであることやゲイであることじゃないからだ。

そいつらは性犯罪者として刑務所に入れられるべきだが、誰もロリコンゲイであることを理由に投獄されるべきじゃない。

ペドファイル権利ゲイ権利は切り離せないんだよ。ロリコン変態蔑視していいなら、伝統的価値からいえばゲイだって変態だろ。で、ゲイ差別するその伝統的価値観は間違ってるよな?

子ども性的に見るなんてこわい、という主張をする人も見かけた。悪いが、ゲイ入団を認めたらロッカールームでケツ掘られる! とかわめいていた連中のことを想像してしまう。

中学校の頃、近所の公園ゲイのハッテン場だから気をつけろ、と言われて、夜に通るときなんかはビクビクしていたが、冷静に考えたらあれは差別だよな。

こわいと思うのは仕方ない、生理的反応だもの。それこそ、ゲイを見てうわキモッと内心で思ってしまうことまで止めることはできない。

でもそれを公共圏に持ち出して特定集団差別していいはずがない。

というか公共圏じゃなくても、差別的な反応は内省した方がいいし、内省しないにしてもせめて表に出さない方がいい。もうちょっと自由主義的にいうなら、出してもいいけど、出すなら差別者だと馬鹿にされることを覚悟してね。

何度も言うけど、実在の子どもへの性虐待とか、もっと広範に、立場が上の者、権力を持っている者から虐待ハラスメント積極的に罰していくべき、あるいは重罰を科すべき、という主張なら賛同する。

でも、それを口実にしたペドファイル差別には、断固として反対する。

頼むから、もうちょっと真面目に反差別リベラリズムコミットしてほしい。

2014-01-09

[] 寛容じゃない人を批判する寛容じゃなさ

新幹線問題についてFacebookで見つけた批判にとても共感を覚えたので紹介します。

https://www.facebook.com/naoto.hori/posts/574178189324382

まずこの発端なった社会起業家とか言われて有名な人の発言だけど、「公共圏は、我々が当事者意識と寛容によって生み出すもの」という言い方からは寛容性が感じられないし、「そういう人は新幹線自由席じゃなく、車で移動すべきだ」というように、〝べき論〟からも寛容性は生まれない。

僕は思うけど、ぼくらはどうしようもなくて、感情コントロールできず、うっかり喧嘩もするし、そうこうしてるうちに戦争が起きるかもしんないし、そんなんだから機嫌によっては些細なことで腹も立つし、閉塞感を感じることで免罪符を得て、ダラダラ過ごし誰かの批判を呟く毎日の残念な生き物なんですっ、という残念さを前提にテーブルにつかないと有効な議論にならないと感じる。

いつも多様性を認めろという主張には、多様性がなかった。「みんなちがって、みんないい」という言葉の真意は、僕たちが思う以上に深い。多様性について話すときは、多様性と向き合う、つまり現実直視するというしんどい作業ということを認知しないと、議論が上滑りすると感じる。

私見ですが、新幹線問題の議論が全く異なる他者を認めない排除する全体主義の元で行われていることに恐怖を覚えてこのポストをされたのではないかと思います

まり社会起業家の方が「寛容さ」を根拠として、「寛容でない」人物を公共の場から排除しようと発言すること、議論の俎上に加わっていく人々も彼の始めた他者排除するゼロサムゲーム違和感を抱かないこと、それがとても怖いことなのです。

 
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