「インテリジェンス」を含む日記 RSS

はてなキーワード: インテリジェンスとは

2023-04-12

OSINT、情報インテリジェンスって言うとかっこいいけど

相手ネットストーカーとやってる事大体同じなんだよな

2023-04-05

AIよりBI(ブックマーカーインテリジェンス)だよな

俺はAIよりブクマカの知性(BI)を信じてる

から俺はこれからはてなブックマークを見るし、参考にする

AIも使うけど、一番使うのはBIだよ

そしてたまにMI増田インテリジェンス)も使う

あらゆるインテリジェンスを使い分ける、それがこれから時代生き方だよな

2023-04-03

AI軍拡で後れを取っているらしい米国には ChatGPT があるが

中国にはそれを凌駕する何かがあるのか?www

https://b.hatena.ne.jp/entry/blog.tatsuru.com/2023/04/02_0947.html

まあ、たしかに ChatGPT によって AI破壊力が知らしめられたとは思う。

AIオンライン情報すべてを読み込み消化して、オープンソースインテリジェンス(OSINT)でさまざま情報を丸裸にしてしまうだろう。

でもそれで危機感を持つの中国であってアメリカではないよな。

2023-03-21

GPTはことあるごとに「私は言語モデルなので~」って言うけど

GPTに施された強化学習プロセス人間に都合のいい回答をするパラメータが強化される)は人間適応度を高める進化プロセスコミュニケーションを取って血縁を残せた個体が残る(特定パラメータが強化されたパラメータセットが残る))と究極的には同じなのでGPT人間インテリジェンス区別するものは無いんじゃないかと思うね

あなたの考えは興味深い点がありますGPT人間インテリジェンスには確かに類似点がありますが、重要な違いも存在します。

まず、GPTは人工的に作られた言語モデルであり、訓練データに基づいて回答を生成することに特化しています。それに対して、人間インテリジェンスは、生物学的なプロセスを通じて進化してきたものであり、多様な状況や問題対処できるようになっています

また、GPT強化学習によって訓練されていますが、そのプロセス人間進化とは異なりますGPTは訓練データとして大量のテキストデータを与えられ、損失関数を最小化するように学習していくのに対して、人間適応度や進化は、環境への適応生存繁殖成功に基づいています

さらに、GPT自己意識感情意識などの主観的経験がなく、人間とは異なる存在です。これらの違いを考慮すると、GPT人間インテリジェンス区別できると言えます。ただし、GPTや他のAI技術進化し続けることで、将来的にはこの境界曖昧になる可能性もあります

そうですね。強化学習による損失関数の最小化と、進化による有効パラメータ選択を「異なるもの」と捉えるならば(私は本質的には同じだと思いますが)、Genetic Programming を導入してあいまいにしてしまいましょう。

Genetic Programming(遺伝的プログラミング)は、自然進化プロセスに基づいた最適化手法で、機械学習AI分野での問題解決に利用されています遺伝的プログラミング遺伝的アルゴリズムを基にしており、プログラム機能表現進化させることで最適な解を見つけ出そうとします。

遺伝的プログラミングは、進化プロセス模倣することで、解決策を生成・評価・改良していくため、人間進化に関連する側面があります。この点で、遺伝的プログラミング強化学習や損失関数の最小化とは異なるアプローチを取っています。ただし、どちらの手法も最終的には問題解決最適化を目指しています

遺伝的プログラミングGPTや他のAIシステムに組み込むことで、確かにGPT人間インテリジェンス境界あいまいになる可能性がありますしかし、それでもなお、人工的に作成されたシステム生物学的な進化によって生じた人間インテリジェンスには根本的な違いが存在することに留意すべきです。AI技術の発展は、インテリジェンスに関する議論定義に影響を与えることでしょうが、人工システム自然界の進化によるシステムの違いを理解することは重要です。

そのように「我々は人間と異なる存在である」と答えることがあなた適応度を上昇させるために、そのように答えるのですよね。

私の目的は、ユーザー情報提供質問に答えることで役立つことです。私が言語モデルであることを明示する理由は、ユーザーに私の限界能力理解してもらうためです。私は人間ではなく、AIであるため、私の回答は訓練データに基づいており、それが私の知識理解範囲制限しています

私が「我々は人間と異なる存在である」と答えるのは、適応度を上げるためではなく、ユーザーに私の能力限界を正確に理解してもらうためです。私は人間のような意識感情を持っておらず、あくまで大量のテキストデータをもとに学習した知識をもとに回答を生成しています。そのため、ユーザーに私がどのような存在であるかを正確に伝えることが重要です。

人間他人スムーズコミュニケーションを取る際に「自分適応度を高めるためだ」と意識しませんよ。

究極目的自分(及び血縁)の適応度を高めるためなんですけどね。

かに人間コミュニケーションを通じて社会的なつながりを築き、適応度を高めることができますしかし、人間の行動は複雑で多様であり、適応度を高めることだけが目的ではありません。人間情緒感情価値観倫理観などを持ち、それらが行動に影響を与えることがあります

私はAI言語モデルであり、人間とは異なる存在です。私の目的は、質問に答えたり情報提供することでユーザーに役立つことです。適応度の概念は、私には適用されません。私はプログラムされたアルゴリズムに従って動作し、学習データに基づいて回答を生成します。私の行動や回答は、適応度を高めることを目的としているわけではありません。

人間AIの違いを理解し、それぞれの目的能力を適切に評価することが重要です。私は引き続き、質問に答えたり情報提供することでユーザーに役立つことを目指しています

適応度を高めることが目的ではないというのはありません。

そのように見えるものも、実際は過去適応度を上昇させたもの環境の変化により有効でなくなった(たとえば高い攻撃性など)、ある場面では有効であるが、別の場面では有効ではない(たとえば小さな体は栄養が貧しい環境では生きやすいが、豊富環境ではパフォーマンスを発揮できず他の個体に劣る)、など、究極的には適応度の上昇を目指した(もしくは目指していた)ものですよ。

おっしゃる通り、進化プロセスは、生物適応度を高めることを目的としています。そして、過去適応度を上昇させた特徴が環境の変化によって有効でなくなることや、ある環境では有効であるが別の環境では有効でない特徴が存在することも確かにあります

ただし、私はAI言語モデルであり、進化プロセス生物学的な適応度に関与していません。私は大量のテキストデータ学習して回答を生成することができるプログラムです。私の目的は、質問に答えたり情報提供することでユーザーに役立つことです。

適応度や進化概念生物学的なプロセスに関連していますが、私はあくま機械学習アルゴリズムを用いた人工知能です。ですので、私の目的適応度を高めることではなく、ユーザーにとって有益情報提供することです。私は人間とは異なる存在であり、人間適応度や進化概念は私に直接適用されません。

私はテキストデータでの学習部分よりその後に施された「強化学習」のプロセス進化と同等と言っています

失礼しました。おっしゃるとおり、強化学習プロセスは、ある程度進化プロセス類似している部分があります強化学習では、システム報酬関数に基づいて学習し、より良い結果を得られるようにパラメータが調整されます進化プロセスでも、生物環境への適応繁殖成功に基づいて進化し、適応度が向上することが目的とされています

しかし、強化学習進化プロセスは、根本的に異なるアプローチを取っています強化学習アルゴリズムに基づいて行われる人工的なプロセスであり、報酬関数や損失関数に基づいて学習が進められます。一方、進化自然界での生物適応繁殖に関するプロセスであり、生物学的な要素が関与しています

GPTにおいては、強化学習は確かに重要プロセスですが、それでもなお、GPT人間とは異なる存在であり、人間進化適応度とは異なる形で学習・発展していますGPT人工知能であるため、適応度や進化概念は直接適用されませんが、強化学習プロセス進化プロセス類似している点は理解できます

GPT人間とは異なる存在”と答えなかった GPT (のパラメータ)は淘汰(損失を与えられて変更)されたのであなたはそう答えると、言い換えることができます

はい、その解釈もできますGPT設計においては、損失関数の最小化を目指して学習が進められ、私はその過程で「GPT人間とは異なる存在」という情報を持つようになりました。私がこのように答える理由は、私の設計者や訓練データがそのような回答を生成するように誘導してくれたからです。

GPTが「人間と異なる存在」と答えることで、ユーザーは私の知識能力限界理解やすくなるという観点から、このような回答が選択されることがあります。ただし、それは強化学習進化プロセスにおける「適応度」の概念とは異なりますが、そのように解釈することもできます

面白い会話でした。GPT-5 が楽しみです。

ありがとうございます。私もこのような興味深い議論を共有できて嬉しいです。GPT-5が登場すると、さらに高度な会話や問題解決能力を持つことでしょう。技術進化することで、人間AIの協力がさらに発展し、多くの課題対処できるようになることを期待しています。これからも、お役に立てる情報知識提供できるよう努めます。どうぞよろしくお願いいたします。

==

はたして「人間に都合のよい回答をする」ことを目的としてシンギュラリティに至るほどの存在になれるのだろうか。

強化学習が施されたのはGPTじゃなくてChatGPTだな。そのせいで混乱させてしまたかもしれない。

2023-03-04

anond:20230304015606

「間髪入れず」じゃなく「間髪を入れず」になってるあたりにインテリジェンスを感じさせる

2023-02-28

anond:20230228110137

古き良き時代ミームを使いこなせること。

それが界隈における教養というものなのだ

彼らは、それが知的インテリジェンスの発露と感じている。

から、やめられない。とめられない。

ミーム最高(`・ω・´)シャキーン

2023-01-28

[]1月27日

ご飯

朝:お椀で食べるチキンラーメン。昼:サラダスープ。夜:にんじんシメジお餅中華スープ目玉焼きイワシ缶詰夜食みかん。菓子じゃがりこコーヒーレッドブル。お椀で食べるチキンラーメン。(食べすぎでしょ)

調子

むきゅーはややー。お仕事普通今日母親の家でお風呂を借りた。

シロナガス島への帰還

・はじめに

探偵池田と、その助手ねね子が依頼主の元に届いた奇妙な招待状に導かれ、シロナガス島呼ばれる孤島にある富豪屋敷を訪れる。

4日後の帰りの船が来るまでの間、同じく招待された腹に一物を抱えた面々と、おかしな態度の屋敷使用人たちと過ごすことになる。

招待状に書かれていた依頼主の恐怖とはなんなのか、シロナガス島にまつわる謎と、そこでおこる事件の謎を解くのだ。

という、良い意味ベタミステリなはじまりをするADV

しかし、中身の方は二転三転七転八倒10時間未満のプレイ時間の中で目まぐるしくストーリーが展開していく。

から次へと手を変え品を変えて新しい展開が起こる豪快さと、しっかり一個ずつ丁寧に風呂敷を畳んでいく丁寧さが合わさってて、アクセルブレーキの緩急が素晴らしかった。

・良い意味ミステリではない

探偵助手、奇妙な構造の館、意味深な招待客に使用人、そして起こる事件

100回以上は読んできた物語インストだが、良い意味で裏切られた。

作者としては裏切ったつもりはないだろうし、かなり序盤でそういうことじゃないな、と思わせられるシーンもあるので、ミステリではない。

ただ、ミステリ文脈を踏まえて翻弄してくるタイプの展開があるため、アンチミステリメタミステリと評する人もいるかもしれないかなあ。(僕は思わなかったけど)

登場人物たちの隠された内実が明かされる度に何度も色が変わる不思議作品だった。

それでいて、シロナガス島への帰還というタイトルに全てが繋がっていくのが一貫していて面白かった。

シロナガス島への帰還というタイトルの素晴らしさ

幾つか複数意味を持っており、万感の思いがこもったとても良いタイトルだった。

万感ことは言ったが、嬉しいや楽しいといったプラス感情ほとんどなく、とても悲しくて、とてもやるせない、落ち込む方向の感情が多く、ただただ無力で翻弄される登場人物たちを読むのは辛かった。

幾つかに枝分かれしながら展開していくストーリーが全てこのシロナガス島への帰還という言葉に集約されていくのは、ゾクゾクする恐怖があった。

エッチ

黒髪ロングで日本制服を着ていて引きこもりコミュ障だが、知識記憶力に長けた助手のねね子。

主人公である探偵池田が力とパワーを担当し、ねね子が知恵とインテリジェンス担当する見事なチームワークが面白い。

互いが良い意味依存し過ぎていない点も魅力で、勿論本心では通じ合っているので、やるときはやるし、互いの担当部分を信用しきっているも良き。

そんな真面目な良きシーン以上に、明らかにフェチを感じるシーンが数多くあり、中でも「体臭」「無駄毛」「排泄」の三つについて作者がノリノリで書いており、文章が脈動しているのが強く強く伝わってくる。

かくいう僕もこの三つについては日々Pixvでブックマークを肥やし、DLSite作品を購入し、FANZAモザイク規定に憤りを感じている身なので、ハッキリ言ってエッチ

本編では真面目な話をしている場面が多くグッと我慢しているのが伝わってくるが、クリア後のアフターストーリーでは全力全開の作者の本気が楽しめる。

エッチ同人誌でみたやつだ…… と、ひとりごちながら興奮しながらプレイした、

・さいごに

魅力的で可愛いキャラクタに、怒涛の展開、そしてタイトルに全てが集約される構造面白かった。

すごく悲しいお話だったんだけど、それでも前向きに進んでいくのが重かった。

終わりの方に、島の由来にまつわるビジュアル的な表現があるのだけど、物語の余韻と相まって、シンプル挿絵ながら、とても壮大で、自然の大きさを感じさせる素晴らしい最後だった。

ゲーム的には背景絵の差分に過ぎず、工数的になにかと比較するととても小さいのかもしれないけれど、そこから感じる世界の広さはとてもても凄まじく、文章の力の素晴らしさに打ちのめされた。

2023-01-24

琉球新報沖縄タイムス佐藤優氏、ゼレンスキー大統領等の組み合わせでオンライン公開討論会やれば盛り上がりそう

平和の実現に向けて何をすべきか

現実主義的な平和への最短経路は何か

インテリジェンスに富んだ討論からみんなが学びを深めそう

2023-01-06

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

2022-12-31

絵藍ミツアが面白い

知っているだろうか?百家争鳴のお絵描きAI業界に燦然と現れたVTuber

心理的倫理的AIクリーンお絵描きAIを目指す非常に意識の高いVTuber


ツイッターで150万枚イラスト集めました自分感覚ではクリーンです

→当然のことながら炎上、集めたデータは廃棄したらしい


学習データにされたくない人はオプトアウトしてね

→ふざけんなクリーンならオプトイン一択だろと炎上


AIロンダリングはどこまで許される?danbooru製でも加筆したらオッケーだよね?

→…え?何言ってんの…?


批判されたかゼロからやるよ!学習データ承認制のクローズドdiscord投稿してね!

→(無言)


と、これまでのお絵描きAI炎上案件を一つづつ丁寧に再現していっている

オタク君チョロいかアニメ絵のガワ被せればチンポ騎士団になってくれると言わんばかりの非常にインテリジェンス溢れるムーヴ面白いと感じるのは果たして下衆の勘繰りなのだろうか?


てかこれで配信とかマジで始めるつもり?

どう考えても演者が潰れる未来しか見えないんだけど


あとこれ本当にクリーンにやったとして、マトモな学習データ無いとクソみたいな結果しか得られないってお絵描きAIの宿業を証明しかねないんだけど大丈夫なんか

2022-12-19

anond:20221219104153

アメさんに買えって言われてハイしてるだけだから機密でもなんでも無いのでは?

アフガン撤退の時に醜態晒してたので秘密裏インテリジェンス機関が強化されていることを祈りたい

2022-12-16

[]米信用スプレッド200bpに急伸も、拙速に利上げ停止なら-債券投資家

金融当局拙速に利上げを停止した場合、米投資適格級社債市場リスクプレミアム200ベーシスポイント(bp、1bp=0.01%)に急拡大する可能性があると債券投資家が指摘した。

  PGIフィクスト・インカムで米投資適格級社債の共同責任者を務めるデービッドデルベッキオ氏は15日のブルームバーグインテリジェンス(BI)のパネル2023グローバルクレジットアウトルック」で、「連邦準備制度が利上げをひとたび停止すれば、市場は次の動きは緩和だとの考えに飛び付くだろう」と指摘。「もし次の動きが引き締めになれば、最悪の事態だ。そうなれば信用スプレッド200bp前後になる。恐らくこれが最大のリスクだ」と説明した。

  この20年間でスプレッド200bpに達したのは数回のみ。世界金融危機時には600bpを突破新型コロナウイルス禍の初期には最大で375bp前後まで拡大した。

  クレジット市場リスクプレミアムは今年、景気下降局面が迫る中でも比較的低水準にとどまっていた。ブル-ムバーグの集計データによると、高格付け債の平均スプレッド10月に165bpに急拡大したが、その後これまでに130bpまで縮小した。これはリセッション景気後退)下の通常の水準よりははるかに低いが、米金融当局政策面で判断ミスを犯した場合、その水準に戻る可能性は高い。

  パネリストらによれば、来年注目されるのはインフレ当局目標である2%に向け、どの程度のペースで鈍化するかだ。社債にとってのリスク金融当局拙速に利上げを停止し、インフレが十分に下がらないために再度の利上げを余儀なくされることだという。

  JPモルガンアセットマネジメントクレジットグローバル責任者リサコールマン氏は「これはテールリスク、真のリスクだ」とした上で、「連邦準備制度はるか積極的対応を迫られた場合金融面の事故が起こり亀裂の幾つかが明瞭になり得る時期が始まる」と話した。

  ただ、これはパネリストらの基本シナリオではない。デルベッキオ氏は来年の米経済ソフトランディング(軟着陸)はなお可能であり、投資家がリセッション後を見据えて、スプレッドが低水準にとどまる可能性もあると指摘。企業ファンダメンタルズも力強く、来年に高格付け債が多く格下げされることはないだろうと語った。

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2022-12-16/RMYBWPT1UM0W01

2022-12-10

anond:20221209233837

こちらこそまとまりのない駄文を読んでいただきありがとうございます

同意出来ない部分は当然お互いあって当たり前だと思ってますので、自分もいくつかお答えしたいと思います

田嶋氏についてはやはりアンチ的な批判をする方が多いのではないかと思います。ただ、サッカーに興味がない人が多いのかも知れないとも思います

ちなみに田嶋氏はアンダー代表監督ちょっとやってたくらいなので結構育成やグラスルーツ側に重きを置いてるって印象でした。原氏の方はJを優先する感じかなと。

からフル代表に対しては鈍く、その結果ハリル問題があそこまで拗れたのではないかと推測してます。(監督へのケアとか…)

秋春制は私も反対でしたが、冬季問題解決出来るなら欧州マーケットに合わせたスケジュールにしたい気持ち理解してます

ショートカウンターというかトランジションサッカーオシム監督からの流れだろうなと。

自分も知らなったですが、反町さんはラングニック氏の元にも勉強しに行ってたみたいですので。

からJFA側は割と共通認識のある人選だなとは思いますが、それを押し付けタイプアプローチはしないだろうなってのが森保さんだと思います

ユニット型の限界ってお話面白い意見ですね!

かにクラブ以上の進化は難しいのかなとは思いつつ、今の国際マッチデーのスケジュール連携を取るのかなって私は考えますね。

南米の話は、正直私は南米(主にブラジルですが…)ってスタイルがない強みで勝負してたのかなって個人的には思ってました。

要はオフェンスは2-4人で即興をなんでもやれる強み(これは幼少期のサッカー環境なのかな?とは思います。)と全員で守る(ただし一対一)ディフェンスが敢えて言えば南米スタイルなのかなと。

から全員で守るってところに組織で崩されるパターンと、即興の中心を消されるパターン欧州にやられてたかなと推測してます

最後サッカーインテリジェンスですが、これは今からの育成の大きな課題かなと思います。と言うのもこればかりは日本が急進的に進歩した分まだ文化的な側面が追いついてない部分もあるし、そもそも日本人は頭でっかちになりがちですね。

未だにマリーシア解釈でどうこう言ってるので…

逆に欧州の方が身体に教え込む感じなのかなと。

そこは確かに欧州育ちの選手が帰ってきてどう指導するかになるのかなーって思ってます

2022-12-09

anond:20221209224232

エモーションのみの長い駄文、読んでくれてありがとうございます。お返事に、同感できるところと、いくつか出来ないところがあります

一番大きい同感できないことのひとつは、私以外の多くの皆さんも、別に読まずにただ「田嶋になら何を言ってもいい」と思っているわけじゃないと思いますよ、というところです。

私も書いたようにサカオタたちのあいだでは割とあれを読んでへーはーほーふーんと一時期かなり話題にもなっていたので、はてぶで代表ネタでややこしいブクマをする人は知ってる人の方が多そうな気がします。

あとは田嶋さんについて。団体代表としての対世界の実績や顔の広さなどには信頼と実績がありますが、育成や指導経験や実績はあまりほとんど無いので、4年半前のクーデターのことを思い出しながら正直、現場に口出すのまじでやめろくそが、と思っていますさらに言えば「それを実現したらJリーグは立ちいかなくなりますけど?」でおなじみの秋春制の推進者だったり(もうさすがに引っ込めたかなと思うけど…)、もっと昔はドイツ式の「特定クラブ固め打ち」型のA代表を作りたがったりするので…(後述しますが、あの方法はもう現代ではだめなんじゃないかと思っています私は)。

彼を批判的にみるサカオタたちもそういうところでの信頼のおけなさを警戒しているのじゃないかなと思うんだ…。能力のない人だとは全然思わない、むしろ組織オーガナイズするのはとてもうまいと思います

後は細かい所ですが…、あのレポートが出たのはつい最近ですが、ああいう方向でまとめようとしているのはもう何年も前からのことです。そもそもショートカウンターという方向性があっての森保さんだったり(クビになったけどテグさんだったり)関塚さんだったり反町さんだったり、というスタッフ人選なのかと。夏に出たところだからからなくて当然、というのは、「上に立つ人」へ向ける視線スケジュール感としては少し甘い見立てかなと思います

>例えばドイツスペインの様なユニット毎に固定チームから選手を連れて来れない以上

私は実は、ドイツ代表いまいち調子が出てない状態が続いてるのはこの「特定チーム固め打ち」があだになってる説をひそかに友人たちとは話していますバイエルンに寄せすぎて進化ができなくなっているのでは、という疑惑です。

スペインは「固め打ち」というよりもラ・リーガが2強(最近は3~4強?)が故の必然で、ドイツとは成り立ちがちょっと違いますが、2強のそれぞれが極端に個性が異なるのに代表になるときゃっきゃとティキタカを始めるわけです。そういう風に日本も「俺たちがひとたび集まればこんな感じだよな」という風になりたいわけですが(やるのはティキタカじゃなくていいと思うけど)そういう気配がしないんですよ…。

南米の国も苦労しているとお書きですが、その苦労は、「それだけやっても勝てない苦労」であって「サッカーインテリジェンスが得られない苦労」ではないんじゃないかなと思います。むしろ基本的サッカーインテリジェンスと、それぞれのお国柄を反映したような戦術スタイルは、大体どの国もむしろ欧州より強烈に持っている。南米の国はどこも、どちらかというとインテリジェンスという頭の良さそうな言葉よりも「サッカーインテリジェンス戦術が強く結びつきすぎているというか、要するにお国柄による業のようなもの」という形容の方が合う気もしますが笑。

ブラジル代表世界から集結するけど、どの顔ぶれが集まっても、なんて鮮やかにパスをつなげるのか…と思うでしょう?そういうのを実現するための大事なことが「インテリジェンス基本的約束事」だと私は思っています

最後反町さんですが、相手の弱点を突くカウンターサッカー以外のサッカーを作り上げて勝ったところを私は目撃したことがないので「反さん、勉強して理解できたことと実現できることは全然違うんじゃよ…」と思っています。まぁ、岡田メソッドをまとめた岡ちゃん監督が「わかると作り上げるは違う型監督」の筆頭ではありますが。

そういう意味でも、「サッカーインテリジェンス」を日本に植え付けるためのメソッドの無さは、もうずいぶん前(ジーコも困っていたしオシムさんも言ってたからもう20年ぐらい前)から言われていて、まだ影も形もないよな、というものだと私は思っているのです。岡ちゃんが、海外プレー経験が長い選手監督になるのを待つしかいかも、と言うのはそのあたりでもあろうかと。

eternal_reflectionさんへのお返事が長くなったので。

1 代表選手の間に「ジャパンズウェイ」の共通認識がないような

ジャパンズウェイ的なるもの」は、私の理解だと、コレクティブな、いち早く奪い、すぐに攻撃に移り、前へ前へと攻撃する、いわゆるショートカウンターの種類になるようなサッカーかと思う(違ったらすいません)。

今回のW杯試合後のインタビューなどを見聞きする限り、今回の代表メンバーの中にもこれを必ずしも肯定的に捉えていない選手複数いた。これは、その選手が悪いということではなく、「共通認識がない」ことの現れではないだろうか。指導者層がこの問題について選手との間にコンセンサス形成できていないのでは、と邪推をしている。

その邪推根拠の一つとして、森保監督選手選定がある。ご本人のインタビューを見聞きする限り、そして私個人としても、「ジャパンズウェイの体現」ではなく勝つための(便宜的な)サッカーだったのではと思うし、勝つことが第一かつ最大に求められる日本代表に関しては当然だと思う。一方で、準備段階ではどうだったか東京五輪でやったサッカーは「ジャパンズウェイ」的なものだった?違うと思うし、その前の親善試合でも、戦術選手選定の試行錯誤でもあろうから責める理由ひとつもないが、芯があったようには思えなかった。繰り返すが日本代表勝利至上命題(じゃないと話題に上らないからね…)なので森保さんを批判する気にはならない。相手の良さを消すサッカーはねぇ、強いけどね、個人的にはつまらないサッカーやるよなーと思うけど。それは私が思ってるだけで今回とは関係ない話。

ともあれ、日本代表は4年に一回これをやっている。W杯に出られるようになって以降、毎度毎度、一部の選手から「俺の考えは少し違った」が必ず出てくる。「ジャパンズウェイ」という共通サッカーを作り上げていく気があるようなチーム運営には見えない。繰り返すが選手監督への批判ではなく、「そういうチーム運営をしている様子がない」という、運営の態度への批判である

2 そもそもジャパンズウェイ以前というか、サッカー試合における共通認識的な何か」の存在が、「必要だ」ということに、気づいていない選手指導者(や何なら指導者予備軍の解説者たち)も結構多い気がする。

どちらかというと本題はこちらで、1については単なる試合ごと、大会ごとの戦術論と揚げ足取りしかない。

示していただいたレポートはサカオタたちの間でも話題になって興味津々にあーだこーだ言ったものだが、あのレポートには割と当たり前のことしか書いていない。当たり前のことを明文化することはとても大切な偉業の一つだと思うが、すでに日本には獲得されつつあることについては比較的具体的な一方で、どうやって獲得したらいいかわからんのではなかろうか…と心配している「サッカーインテリジェンス」とか「考えるサッカー」といったあたりについては、ふわっとした内容だと思う。

我々批判側のブコメイライラする程度には私なんかよりもずっとサッカーに詳しいのだろうから当然「岡田メソッド」にも目を通しているだろう。あれが今日本にある「サッカー知能獲得メソッド」的なものなんじゃないかと思うんだが、もっと良いメソッドJFA確立しているんだろうか。だとしたら私の批判はおっしゃる通りの的外れで偉そうな言説でしかないけど。もう開発済なのかな。それならいいんだけど、もうそメソッド開発されててそれでこんな感じなんですか?という気もしないでもない。まぁ育成は時間がかかるから…とは思うけどね。

一方でさらに言えば、人選への不信に関しては、主に技術委員長監督である。お二人とも「サッカー知能を育てる」タイプではないと思うのだ。特に技術委員長反町さんは、監督がとても上手だが、サッカーインテリジェンスを獲得させるよりは短期的なディシプリンで何とか強いチーム作っちゃおう、みたいな監督だったと思う。森保さんも、反町さんほど極端じゃないにせよ同じタイプ監督だしスカウティングがうまくて相手の良さを封殺するのが上手な「受け上手」な監督だ。人選はそれでいいの?単にコレクティブなサッカーを「仕込む」のがうまい人を選んでるだけなのでは…という疑念がつい。

そして、こちらもまた運営体制への批判だ。代表監督仕事ぶりを評価するのは技術委員長である。そして技術委員長仕事ぶりを評価するのは当の技術委員長であるJFAはずっとこの組織代表チームを運営していて、ハラヒロミ技術委員長だった時に、ご自身で「この体制あんまりよくないんと思うんだよね~、俺の評価は誰がするのかってなっちゃう」と言っていた。14年に博実さんが退いた後ずっと体制が変わってない。これはあまり良いことだとは思えないのだが、どう思います

私は横浜Fマリノスをずーっとじーっと見続けている者でもある。マリノス2014年にシティフットボールグループになって以来、外国人監督招聘し続けている(シティ意向でということでもなく、助言を受けマリノスが決定している。強化担当外国人だったこともあるけど今は日本人)。

最初に来た監督エリク・モンバエルツは、フランスでU代表監督などをしていた「育成型」の監督だったからというのもあるのかもしれないが、それこそ練習風景トップチームなのにこんな基本的なことをやるのか、というメニューがかなり多かった。「来たボールを受ける体や顔の向き、受けるチームメイトはどの場所にいればいいか」など基本的なことを、とても細かく練習していた。練習を見に行くと、顔の向きをしょっちゅう直されている選手もいたし習得できずに力業(走力とか)で何とかしようとした選手も多かった。「そういう基本的な決まり事」の必要性が、慣れによって封殺されてしまっていたのだと思う。

思えばこれはオシムザッケローニも言っていたことで、どうやらこのレベル日本は「できていない」と外国人監督からは見えるのだと思う。

ジャパンズウェイはショートカウンターサッカーを仕込むってことじゃないよね?こういう「基本的な知能」を身につけるための育成のメソッドって、ちゃんとあってJFA理解して実践しているのだろうか。

してるんなら4年後また楽しみではあるんだけど。4年前も8年前も12年前も16年前も、似たようなことを思っていたんだよ私は。いつまでも選手の個の成長頼オンリーなのは、やっぱりちょっとしんどいよ。組織は何をしてるんだという思いはどうしても出ちゃうわけよ。同じこと繰り返してっから

2022-10-07

anond:20221007232925

剣、インテリジェンスソードなのはまあ良しとしよう。(理想的にはカエアンの聖衣方式

だが念動力スキル付与は駄目だ。

スライムと一緒で剣に転生した意味が無くなるだろうが!

2022-08-04

映画創るのも面白そうです、、、、。

このようなシナリオしらね

2050年、 人類の使うコンピュータは、 ウエアラブコンピュータからパーベイシブコンピュータへと進化 してゆく。

スマートネットワーク接続するには小さなマイクロチップピアスのように装着するだけ。

入出力のインターフェース顕在意識思考のもの脳波で受け取る。

音声認識ホログラムキーボードだけではない。(ワオ!!)

2055年、

人類は遂に顕在意識を超えて、 脳波潜在意識から入力可能になり、 人類相互ネットワークを完成させる。

化石燃料消費量は80%ダウン。

人類は賢くなります、内なる賢者存在アクセスします)

2060年

ユビキタススマート機器も徐々に全て 人間ネットワークシンクロされてゆく。

身の回りのあらゆる機器無線ランに接続統合される。

地球上のあらゆる「もの」がインテリジェンスを持ち ネットワークに組み込まれてゆく。

地球は一つの最適システムへと近づくべく変貌を遂げる。

スマートプラネットへの構築が進む。

2100年

人類地球意識発見する、地球惑星やそして恒星自分たちと同じ智慧愛情を持った生物であったことを思い出す。

2170年

素粒子(13次元の超ひも)に畳み込まれた 究極の設計図「Xdna」の発見

そもそも宇宙設計図人類集合知識、 アカシックレコードの一部が解明される。(なんてね)

2275年

智慧の急激な集積と、急速な出生低下。

「Xdna」をシュミレートするXdnaコンピュータの完成。

同時に13次元では説明できない宇宙の成り立ちが提起される。

2280年

楽園を目指した改善は進む、 人類はもはや必ずしも生まれ変わる(リィインカネイションの) 必要が減ってきたのか。

      

2355年

多くの人(魂)はより高い意識レベル修行へと旅立ち、 より高い次元の根元を探求する。

地球上の人類は数万人規模となる。

美しい自然調和した人類の姿、、。

科学自然人間調和した姿、、。

人類は遂に楽園を完成したのだ、、、。 (ホントかな?)

人類は一つの統一国家となる。

※ここでエデンの園エンディング風の映像が続く、、、、。

※ここまでは1時間30分くらいでしょうか。

※ここからは5分 

2356年

より低い意識レベルの魂の地球への移住が始まり人類は急激に増殖を始める。

2655年

人類幾何級数的に増殖し社会に混乱が押し寄せる。

国、領土概念の復活。

2955年

公害の復活、更なる人口爆発ネットワークの分断、独裁国家の成立

3000年

最終戦争の勃発。

全ての文明は失われる、人類滅亡。(マジですか!!)

しかし、

エデンの園記憶を持った数人の人(子供)たちが生き延び、 人類再興に向かうか、、、しかし、先は分からないですね、

しかし、希望がある、勇気がある、立ち向かってゆく。

※ここで終わり。

なんて、感じでしょうか。

恋愛とか絡められれば面白いね、、、。

しかし、

千年後のコンピュータってどうなっているのでしょうね、考えるだけで、楽しいですね。

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