はてなキーワード: 他界とは
そのときに比べたらはてなもだいぶ変わった、と思うが思い出語りはまた別の機会にしようかね。
今日は誕生日だから、まいばすけっとで気になっていた惣菜をたくさん買ってみた。
いつもは納豆かキムチ、もしくは冷凍うどんで済ませる俺にとっては、このうえない贅沢だ。
それを飲みながら、今を書いている。
そうだな、10年か。
10年前は日本オワタといいつつドル円90円だかそこそこで、不景気とかいいつつも輸入は安定していたよな。
トマト缶は88円だったし、サバ缶も88円。ツナも100円だったか。家計応援でそのあたりのレシピが良く出ていたのを記憶している。
鮭もサンマも安かったな。お察しのとおり、増田は魚介類が好きな人間なので、最近の値上がりのあおりをモロに受けている
最近は、そうだな、
街のラーメン屋のラーメンを食べるとスープが塩っぱくて辛くなってきた
休みの日は趣味の研究(自由研究みたいなもので立派なものじゃない)でセコセコ時間を潰しているが、
平日はほぼ、起きて、仕事して、酒を飲んで、寝ての繰り返し。
まどマギが続いているのは生きる活力だ。
劇場版を楽しみにしている。
まだ創作を楽しむ心があることにほっとする
こうして穏やかに暮らして、穏やかに死ねたらいいと、最近はよく思う
それが一番の贅沢なことは知っているが、本当にそう思うよ。
この年になると、ちょいちょい友人が他界する。
ある友人はアフリカで仕事中に倒木に巻き込まれて死んでしまった。
他の友人は、働きすぎて心筋梗塞で、20代であの世にいっていまった。
高校のクラスメートで一番明るく振る舞っていたアイツは自ら高いところから飛び降りた。
結婚したんだと笑っていたアイツは、膵臓がんが見つかってからあっという間だった。
あー、俺は今年も生きちまったよ。
最近、父から連絡がきた。ラインへの着信が複数回、携帯電話への着信が複数回。
意図的にその連絡を無視していると翌日の朝にも同じような着信が、それも無視していると夕方にまた着信が。
これは鳴りやまないし連絡を返さないと後から面倒になるパターンのやつか…と渋々電話すると酒に酔ったやけに上機嫌な父の声が聞こえる。
元気にしているのか、仕事は順調か、今俺はこういうことをして過ごしているなど他愛のない会話をする、そんなんじゃ人生やっていけないぞバカと説教もされる。
暫くすると死にたいのに死ねない、どうしようもない、どうすればいい、と泣きながら話し出す。
私はそれに対してそう言われてもなあ…お父さんが元気な方がうれしいけど、と伝える。
覚えている限り、私が小学生くらいのときから父はこんな感じの人だった。
私が幼稚園生のときも父は定期的に酒に酔って癇癪を起していた記憶があるが、死にたいとかどうとかの話をしていたかまでは覚えていない。
私はその年の時分なんでか酔った父に襖を投げられ顔面にクリーンヒットし、鼻血がとめどなく溢れて鼻の穴だけでは排出量が追いつかず口からも血が出てきたことにより、
人体では鼻と口が繋がっているという当時としては衝撃の事実を知ったので父がとりあえず酒気帯び暴力マンであったことだけはよく覚えている。
父は定期的に酒に酔い暴言・暴力を奮い、死にたい死にたいと泣く人だった(酒さえ飲まなかったら昭和の頑固おやじとか関白亭主とかで表現できるような人ではある)。
とはいえ父としてもこの状態を良いものとは全く考えておらず、父なりに改善のための努力をしていた。
断酒会に通って似たような境遇の人とコミュニケーションをとったり、
暴力を多少配慮のある暴力としていったり(投げる物が茶碗とか灰皿から箸に変わったり、暴力体勢に入ると羽交い絞めにして止めても止まってくれなかったが、それが多少話を聞いてくれるようになったりなど…)、
お酒を飲んでしまったら、暴力的になるより先に自分を潰すために酒をあおるように飲むようになったり、
あまりうまくいっていないようだったがそもそもとしてお酒を飲まないように回数を減らそうとしたり。
傍目で見てまあ昔よりは多少マシになったのかなあと疑問に問いかけられるレベルには努力をしていた。
とはいえこんな家にいつまでも居ては人生潰されると思い大学から地元を出て、社会人になった今でも都会の方で私は暮らしている。
私が家を出た後、父は定年も数年後に控えた歳で仕事を自主退職し、収入が不安定になった。
そのときは今までの多少の努力を水泡に帰すような荒れっぷりになったが、祖父母の遺産が懐に入ったことで家計が安定し、老後の不安が解消したのか次第とアルコールへの依存がかなり減っていった。
憑き物が落ちたかのように父の生活はより穏やかなものとなっていった。
母はこんな家庭をずっと精神的に支えてきてくれていたのだが(鬱っぽくなったときも多々あったが)、ようやくこのタイミングで父との夫婦らしい生活を取り戻すことができた。
定期的にくる母からのラインでは今日はお父さんと一緒に散歩をしたなど、ほのぼのとした一日の出来事が綴られてあり、その連絡に安堵をして意気揚々と返信をしていた。
父と母の穏やかな生活が始まってちょっとのときの出来事だった。
それ以後父はまた定期的に酒を飲むようになり、冒頭の連絡をよこすようになった。
母が他界してから私は父に多少の恨みをもつようになった。というのも、私は父に父親に対してするような相談を全くできていないのである。
父親に対して相談したい悩みならたくさんあったにもかかわらず。
父が私に対してそれなりの愛情と、うまく対応できるかどうかは別として何かあったときに尻ぬぐいしてやるくらいの器量を持ち合わせているのは知っている。
でも私がまず一番父に求めているのはどっしり構えた親の姿であって、ありがたいものの愛情や脆い器量がほしいのではなかったのだ。
父からの連絡がくる度にそれがないことが毎回分かってしまって、泣いてしまう日が増えた。
今朝がた母の夢を見た。癌で治療中の母のもとに私がお見舞いに行っているのを第三者視点でみる夢だった。
○○ちゃん(私のこと)がね、今日どこに行ってたのか看護師さんとお話してたんだよ、
お母さんね○○ちゃんが何をしてたのか知ってるんだよ、
と幼稚園生のようにたどたどしく話す母に対し、
ベッドの小脇にある丸椅子に座りながらどこか嬉しそうにそっか~そうだったんだね、すごいね、とひたすら相槌をうつ私の姿が病院の一室にあった。
音程も歌詞も良くわからないような歌なんかも一緒に歌ったりもしてた。
実際は病院でこんなに緩やかな時間を過ごしたことはあまりなかったように感じる。
詳しくは伏せるが、母は放射線治療のために入院した後、一週間過ぎたくらいでコミュニケーションがほぼとれなくなり、その三週間後には他界した。
私は母の闘病中に籍を入れたのだが結婚式をしなかったことに対して本当はしているところを見たかったのよと言われたのを覚えている。
なんで今回はこんな夢を見たのだろうと思案してみたのだが、私は母が私に大人になりなさいと伝えているのだと解釈した。
夢なんてスピリチュアルな領域を出ないものだし、確実にどうというものでもないのだが、逆に言えばどうとらえるもその人の好き勝手にすれば良いのだ。
親はいつまでも親でいてくれるわけではない。
無いものを数えては何で私にはこれが無いんだろうと嘆いてもしょうがない。
幼児退行した母と親のようにふるまう娘の私との会話で、暗にそんなことを示し、教えてくれたのではないかと感じた。
冷たく聞こえるようだが、父に私の望む親としての役を担ってもらうことに期待をしないと決めた方が心持が幾分か楽になったのだ。
そして今度は私が、そんな大人である親側の役を担う番であると決意ができた。
色々父に対して恨みつらみを綴ったが、父も父で大変な環境で生きてきたのではと思う。
父のいとこのおじさんが、父は他のいとこがちょっとしたことで大人から褒められると、よく癇癪をおこしてその子と喧嘩するような人だったと言っていた。
父方の祖母は他人のことを小馬鹿にするきらいがある人だった、私の初任給の額が自分の年金よりも低いと知ると嬉しそうにしている人だった。
父方の祖父は仕事が忙しく、夜中まで帰ってこない日も多々あったらしかった。あまり父から祖父の話を聞いたことがない。
父の職場では(そもそも昭和の時代だとどこも似たようなものかもしれないが)年功序列が厳しく、飲み会もかなり激しいものだったと聞いた。
父は若い頃酒は一滴も飲めないほど弱かったにもかかわらず、無理してお酒を飲んで帰ってきてゲーゲー吐いていたと母から聞いた。
実際のところはどうかわからないが、もう少し色んなところで色んな大人が相手のことを思いやって態度で示せれば、
私の父も何かに依存して心の安穏を保とうと必死にならなくても良かったのかもしれない。
父がこれから穏やかに過ごせるかどうかは父の努力次第である、私は助けを求められればそれ相応に対応する心づもりもある。
だがその結果に関してどうこうと思いあぐねることはもうしない。それは父の人生の結果であって私が囚われるべき人生の一部ではない、もうそういう歳になれた。
今までと変わらない様子でいるのであれば、私はお父さんが元気でいてくれた方が嬉しいんだよと伝えるだけだし、
もし頼りになる父になってくれるのであれば、そのときどきの相談事をすればいい、
もっと歳をとって老人のようになったら、夢での母との会話のように穏やかに何度も相槌をうつ。それだけでいいんだと思う。
ただ私は相手のことを考えた相手のほしい言葉をかけてあげられる大人になることをひたすら目指そうと思う。
それは父にも、パートナーにも、友人、職場の人、親戚、将来できるかもしれない子供に対しても、誰に対しても平等な姿勢で。
これまた勝手ではあるがこの目標を最後の母との約束として忘れないよう、覚書として残す。
1968年創業。豚骨や豚肉、背脂を煮込んだ脂肪分と旨味が溢れるジャンクなスープ、一般的なラーメン店よりも多い麺量に野菜が盛られたボリューミーなラーメンが特徴。学生街(慶應義塾大学三田キャンパス近く)という立地も相まって、一躍人気店に。1990年代になってからは「直系」と呼ばれる暖簾分け店が増え、2000年以降はラーメンの特徴や注文システム等を模倣した「インスパイア店」が急増。全国規模の知名度を得るに至る。
1974年創業。白濁した豚骨スープに東京の醤油を合わせたラーメンを考案し、人気店となる。弟子の独立店も1990年代から神奈川を中心に増加し、2000年以降は、模倣したラーメンをセントラルキッチンでチェーン展開する企業も参入。ラーメンの一大ジャンル「家系」として認知される。
ちなみに創業者の吉村実氏は、開業前、東京は平和島にある「ラーメンショップ」での勤務経験があり、豚骨スープに醤油ダレという共通点があることから、同店は「家系のルーツ」とも言われる。
1985年創業。新横浜ラーメン博物館への出店を皮切りに、店舗を全国へ拡大。早くも2000年には先鞭をつけた海外展開や、清潔感のあるスタイリッシュな内外装の店舗など、以降のラーメン店に与えたとされる影響は多い。
1986年創業。創業者の佐野実は人気テレビ番組に出演し、当時のスター店主の中でも代表と言える存在。そればかりではなく、自家製麺への拘りやブランド食材の使用等で、多くのラーメン店に影響をもたらした。佐野実は2014年に他界したが、支那そばやは横浜市で現在も営業を続けている。
1988年創業。煮干しを主役に据えたスープと低加水の細麺、具はネギだけのシンプルなビジュアルが特徴。開業してしばらくは知る人ぞ知る地元の名店だったが、2004年の東京進出を皮切りに、煮干しラーメンブームの火付け役となる。
1996年創業。1996年は多くの有名ラーメン店が開業した年で、それらの店は「96年組」と呼ばれるが、その中の一店。期間限定メニューの提供、券売機の設置、店内の凝った空間演出等々、今や一般化したスタイルの元祖とされる。
1996年創業。「麺屋武蔵」と並ぶ「96年組」の一店。別々の寸胴で炊いた動物系素材と魚介系素材のスープを後から合わせ、両者の言わば良いとこ取りをした「ダブルスープ」のラーメンで一躍人気店となり、「豚骨魚介系」と括られるほど多くのインスパイア店を生み出した。
2002年創業。「中華そば 青葉」によって膾炙したダブルスープに対し、一つの寸胴で時間差を設けて動物系素材と魚介系素材を一緒に炊き上げることで、より濃厚なスープとなるようにした「濃厚豚骨魚介」の先駆けとされる。現在も営業中。
2005年創業。スープ素材として鶏だけを使用した、いわゆる「水鶏(鶏水)系」のラーメンや、麺をあらかじめ昆布水に浸した状態で提供し、細麺のつけ麺だと麺がくっつきやすい問題を解消した「昆布水つけ麺」の元祖として知られる。店舗は幾度かの移転を経て、現在は兵庫県尼崎市で「ロックンビリーS1」として営業中。
2012年創業。「セメント系」とも言われる、エグ味や苦みさえも絞り出したかのような、セメントを彷彿とさせる灰色がかった超濃厚の煮干しスープと、ラーメンの麺を食した後に別皿で提供される、油で和えた麺「和え玉」の発祥店とされる。現在も営業中だが、今は特濃な煮干しラーメンは、基本的に提供をしていない。
両親が他界したことによって何が耐え難い?何が不安?不安要素を徹底的にバラしてみなよ。
孫を見せられなかったこと?自分の身を立てられてないこと?経済的なもの?日常生活の変化が辛い?
いろんな不安要素があると思う
必要ないかもしれないけど自分の情報:90年代後半生まれアラサー、都内居住、実家北関東
文章も読み辛い書き方かもしれないけど、読んでくれるだけでも救われるし内容によっては何か案をくれると本当に助かる
父は健康診断自体1年に2回ほど受けていたが、膵臓がんに罹っていたことが判明し諸々切除が難しい箇所への転移によりそのままという感じ
今まで漠然と自分より先は両親、両親より先は祖父母が先に逝くというイメージを持っている人が多いと、自分自身勝手に思ってる
父が他界したことによりそのイメージがより鮮明になったというか、父に次いで母がどうにかなったら自分はどうなってしまうんだという気持ちがずっと頭から離れなくて、何をするにしても思考に靄がかかる?ような感じ
両親がジジババになるまでずっと居ると思ってた自分にはどうにも耐え難く、ずっとこのモヤモヤを抱えながらこの1年過ごしている
20年来の友人(今でも関係は継続)たちも葬儀に参列してくれたが、上記内容を相談するにはどうしても重いだろうと思っているので本文は気持ちの吐き出しのようなものだと認識してもらえると助かります
どうしたらこの気持ちを乗り越えられる?一度考えるとそこから連想してどんどん思考が悪い方へ悪い方へといってしまう
未遂も実践も度胸も一切無いが、もうあの時の感情をまた受けることになるならどうにか自分が先に...って考えはどうしても浮かんできてしまう
その思考を上書きするように映画やゲーム、いわゆる趣味で、どうにか思考を持っていかれないように保つのが精一杯の状況なんだ
現在は正規社員として就業しているが自分の経歴はお世辞にもあまり良いとは言えないもので、実家に帰省するという選択肢もあるにはあるが、あっちで転職できるのかとか
自分の周りもまだ少ないが、ちらほら結婚出産といった話もあるので自分はどうするんだとか、色々考えることが多くて何もかも考えることがどうしても疲れちゃって本当にしんどい
どうすれば身内の他界を乗り越えられる...?
たくさんの案、ご意見等本当にありがとうございます
何名か想定していただいている通り、父はまだ定年前だったこともあり定年後に何をしようか~とか色々話を聞いていたので...
まあ増田家も行くんだけどさ、増田の両親は増田が生まれ育って今も住んでるとことは全く違う地方出身でね
だからたまに両親の故郷に帰省した時は先祖代々の◯◯家之墓にお墓参りはしてるんだけど、お盆やお彼岸の度に毎回行ってたお墓が別にあって
それはよくある一区画ずつあるような◯◯家之墓じゃなくて、合祀墓?みたいなでかい石塔でね
子供の時から「なんでこの石塔なの?」とか「そもそも誰のお墓なの?」とか不思議だったんだけど、それを尋ねるのも子供心になんだかしてはいけないことのように思ってたんだよね
増田家には死んじゃったペットもいたけど、彼らは別の動物霊園にいるから違うし
だからまあ増田は長いこと誰のお墓かも分からないお墓参りに行ってたような感じで、お線香をあげて手を合わせる度に何を考えたらいいのか全然分からなかった
分からなかったから手を合わせながら「よく分かんないけど、どうもこんにちは。よく分かんないけど、まあ元気です」とか考えてたの
それが数年前にさ、お墓参りに行く途中で母が急にポロッと言ったんだよね
「あそこはね、増田とお兄ちゃんのお兄ちゃんかお姉ちゃんがいるんだよ」って
すっごいびっくりしたのに口では「そうなんだ」ってちっちゃい声しか出せなかったよね
告げられた時は増田も成人だったけど、適切な返しが好き全然分からなかったよね
兄か姉か分からないし、面識も思い出も何もないから相変わらずお墓参りに行く度に「こんにちは、まあぼちぼちやってます」くらいしか考えることがないっていうか、何を思えばいいのか分からないままだし
他界した祖父母やペットだと昔のこと思い出したりもするんだけど、よく分からない相手(というのも少し悪い気はするけど)に手を合わせる時って何考えたらいいんだろうね
まず専門性ないくせに他界隈にお気持ちでギャースカ文句つけたり語ったりするオタク文化に対して世間の目は非常に冷たいのを分かった方がいいね
今回はAIでしたけど、AIどうこうというよりは、オタクカルチャーの一部がめちゃくちゃ頭悪い奴らと親和性高いってことだと思うので
AI技術にもAI関連の法律にも著作権法にも詳しくないズブの素人が集まって議論しても、何一つ的を得てなくて害でしかないし見るに耐えないです
陰謀論って、無学でプライド高くて世間舐めてて勉強する気もないヤツがハマるんです
「勉強してないのに分かった気になって何かを語れる」というアクティビティに気をつけた方いいです大体なんかの陰謀論で詐欺なんで
めちゃくちゃ丁寧にありがとうございます!!
吐き出したかっただけだったんで、相談内容を明記できておらず申し訳ないです…
ご認識の通り「今後私はどうしたらいいのか」という部分に悩んでいます。
父に関しては今の距離感が丁度いいと自分でも思います。なんだかんだ諦めが着いた状態ですね。
母の連絡は時間を置いてそれとなく連絡して欲しくないオーラで誤魔化してます、、ちゃんとやめて欲しいと伝えた方がいいとは思うのですが、田舎に1人ぼっちの母のことを思うと拒否しきれないです。母方の祖父母は既に他界していて弟も実家を出たので本当に母は1人なんですよね。
ですので、一旦は物理的距離を置きつつ様子見しようと考えています。
本当の本当に限界が来たら、教えていただいた福祉事務所を頼ろうと思います。(父には新しい家庭があるので迷惑かけると可哀想だなと…)
四人兄弟で上三人はちゃんと合意の上で生まれてきた、両親が20代~30代前半で産んだ子ね
俺は上の兄弟が大学行かずにちょっと特殊な進路(例えればダンサーとかアイドルとか)を目指すって言い出して両親が大喧嘩した末に
父親が母親を殴り倒して、勢いでレイプしてその時にできたんだって
姉がその様子を覗き見てて、母親が殺されちゃうと思って止めに入ったが父親はレイプを続けて、他の二人も起こして三人がかりで父親を引き離したけどもう俺は受精してたわけ
俺にとっては父親は他の家の父親より老けててその分落ち着きと渋みがあるいい父親だったけど昔はカッとして家族に暴力奮うことがよくあったんだって
精通してるのが兄にバレた際に、「俺らレイプ犯遺伝子あるから気をつけろよ」って笑い話みたいなノリで明かされてショックだった
母親は俺のこと生みたくなかったのかなってすごく悩んだ
聞けないままもう両親他界したけど
韓国で、被相続人(死亡した子どもなど)の扶養の義務を果たさなかったか虐待などの犯罪を犯した法定相続人(父母・祖父母など)の相続権を制限する法律が制定されたそうだ。通称「ク・ハラ法」
急死した KARA のク・ハラ氏の葬儀に、20年間音信不通だった実母が現れ財産の半分の相続を主張したことが発端だという。それをうけてク・ハラ氏の実兄が民法改正案の立法を訴えていたのだそうだ。
実兄の気持ちは理解できる。育児放棄をした親には相続させたくない。
同じ事象が起きたとき、日本の法律だとどうなっているのだろう、と付け焼き刃ながら調べてみた。
法定相続人は親になる。
100%親が持っていく。両親健在の場合はどれだけひどい母親だったとしても50%は母親のものとなる。
どれだけひどい母親だったとしても法定相続人である以上、親は遺留分を請求できてしまう。親として全体の1/3。両親健在の場合は1/6ずつ。
生前に家庭裁判所に「母○○は育児放棄をしていたので母○○を廃除する」と申立をして認められれば、
または
遺言に同様のことを記載し、死後、遺言執行者に家庭裁判所に申立をしてもらって申請が認められれば
遺言書いたうえで家庭裁判所に申請して認められなければならんのでハードルは高いが手段はあるのだな。
ただ、準備ができないままク・ハラ氏のように若くして急死だと母親に財産がわたってしまう……。
韓国の「ク・ハラ法」では、被相続人からの申立なしで親から相続権を剥奪できるのだろうか?
日本の法律における相続欠格――相続人が被相続人を殺害したり、脅したりだましたりして遺言状を書かせたり書くのを妨げたり、遺言状を隠蔽したりすると、被相続人からの申立なしでその相続人は相続権を剥奪される――みたいに。
また、日本で「母親に財産を遺したくない」という観点だと、まだ足りないかもしれない。
その場合、母親を相続廃除したとしても、その義理のきょうだいも実のきょうだいと同格で法定相続人となりそうだ。
ただし、きょうだいは遺留分がないので、遺言で実のきょうだいに100%遺すと指定しておけば顔も知らない義理のきょうだい(≒育児放棄をした親の新家庭)に財産がわたることは防げる、のだろうか。
親の戸籍謄本を調べでもしない限り、自分に異母きょうだい異父きょうだいがいたか/できたかなぞ分からんよな。
むずかしい。
うちは義父はもう他界しており、妻実家には義母しかいなかったこともあり、
妻実家を建て直して同居することにした。
結果として大人は家事:義母、妻:育児、俺:仕事という役割である。
妻はパートをしなくても、義母の年金もあるので、家計はだいぶ助かる。
それでも子供とずっと向き合っているのは大変なので、子供の相手は大人がちらほら交代する。
俺はは育児への参加や家事への参加率は全くもって高くはないんだが、
勤務先を雇用から業務委託に変えて、兼ねてからやっていた副業をもう少し厚くして、
一人会社作って株主を子供にして、内部留保をせこせこ貯めている。
一応社長ということもあるので、外出や会食もそこまで気兼ねする必要もないし気楽である。
まぁ基本はずっと家にいるので、子供が暴れている時とかはいつもすぐ駆けつける。
どうしようもない時とか、一緒に10分散歩に出かけるだけで落ち着いてくれるし、そういうことがいつでも出来るというのがいいと思うのです。
まぁ話がずれてきたけど、育児に一番必要なのは大人の目と手の数なのよ。
子供が妻にブチギレているときとかに他の大人が介入できること。
大人の病院への送り迎えに別の大人が連れて行っても、まだ一人大人がいるということ。
この環境が大きいと思うよ。
義母はもうだいぶ歳になってきたから、病気一発、怪我一発で状況がひっくりかえることもあるけど、
それでも別居していても世話をしなきゃいけないことにはかわりなく、
そんな状況でもまだ楽だと思う。
あくまで個人的にやってきたことなので、他の家庭はよくわからん。
みんなよく頑張ってるなーと思う。尊敬する。
うちは、核家族でやっていける自信がなかったから大人を増やした。
マスオさんは最高よ。